[地方自治法・地方公共団体の長の再議請求権]現場編 「議会で可決したんだから、もう決まりです」の嘘。首長がもう一度議場へ突き返す、再議という最後のブレーキ
多数決は、強い。
手を挙げた人が多ければ、決まる。
学校でも。
町内会でも。
議会でも。
だから私たちは、なんとなく思っています。
――可決されたら、もう終わり。
でも。
地方自治の世界には、
「ちょっと待て」
と、可決された議決を議場へ押し戻す仕組みがあります。
しかも、その「ちょっと待て」には、
言ってもいい場合と、
言わなければならない場合があります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
扉を開けて入ってきた男は、座る前から怒っていました。
「議会が決めたんです!」
大きな声でした。
私は湯飲みを持ったまま固まりました。
「はい」
「それなのに市長が、やり直せって!」
「はい」
「そんなことが許されるんですか!」
「ええと」
まだ何の話か分かりません。
できれば順番にお願いします。
相談に来たのは、
湖西市で小さな金物店を営む大沢宗一さん。
五十八歳。
駅前商店会の副会長でもあります。
今回、市議会では駅前再整備に合わせ、
駅前広場の一角に商店街共同の催事施設を設置するための条例案が可決されていました。
仮設の屋根。
露店用の電源。
共同倉庫。
年末市や朝市にも使える。
商店会が何年も要望してきたものだそうです。
「やっと決まったんですよ」
大沢さんは机を叩きました。
「議員さんたちが賛成してくれた。条例も可決された。なのに市長が再議にするっていうんです」
「再議……」
私は思わず繰り返しました。
来ました。
地方自治法。
受験勉強では、
再議。
一般的拒否権。
特別的拒否権。
このあたりの文字を見ると、
脳が急に国会中継みたいな顔をし始めます。
でも今。
大沢さんにとっては、
催事施設ができるかどうか。
年末市をどこで開けるか。
商店街の客足が戻るか。
そっちの話です。
「市長は、なんて?」
相馬先輩が聞きました。
「財政負担が重いとか、管理体制が決まってないとか」
「それだけか」
「あと、駅前整備計画との整合性をもう一度確認する必要があるとか」
「違法だって言ってるのか?」
「いや」
大沢さんは首を振りました。
「そこが腹立つんです。違法でも何でもないんでしょう? だったら議会で決めたんだから、従えばいいじゃないですか」
私は少し考えました。
違法ではない。
でも市長は反対。
条例案。
議会で可決。
そして再議。
なるほど。
「一般再議ですね」
口から出ました。
「何です、それ」
「あ」
またやった。
相談者の前で教科書用語をそのまま出す病気。
相馬先輩が横から言います。
「市長にはな、議会の議決に異議があるとき、もう一度議会に考え直せって返す権限がある」
「そんな……」
「ただし何でも好き勝手にひっくり返せるわけじゃねえ」
「じゃあ止められないんですか」
大沢さんの顔が曇りました。
「そこは中身を見ます」
片桐所長が静かに言いました。
「再議には種類がある」
私は頷きます。
そこが今日の鍵です。
市長が、
この議決は気に入らない。
政策的に問題がある。
財政的に危ない。
だからもう一度考えてくれ。
そう言う再議。
そして。
この議決は法令に反している。
議会の権限を超えている。
会議規則にも反している。
だから、もう一度やり直さなければならない。
そういう再議。
似ています。
でも。
似ているだけです。
片方は、
するかどうかが長の判断。
もう片方は、
しなければならない。
「通知か何かあります?」
私は聞きました。
「これです」
大沢さんが封筒を出しました。
市長名。
議長宛。
コピーでした。
私は読んでいきます。
――駅前共同催事施設設置条例について。
――将来にわたる維持管理費の負担。
――駅前再整備事業全体との整合。
――施設管理責任の所在。
――財政運営上の懸念。
そして最後に。
理由を付して、議会に再議を求める。
「違法という言葉はないですね」
「ないだろ?」
大沢さんが身を乗り出しました。
「だったら市長の横暴でしょう」
「いや」
相馬先輩が言いました。
「違法じゃないから再議できない、ってわけじゃねえ」
「でも」
「異議があるなら返せる再議もある」
「……議会が決めたのに?」
「議会と市長が別々に選ばれてるからだよ」
私はその言葉に引っかかりました。
議会。
住民が選ぶ。
市長。
これも住民が選ぶ。
どちらか一方が絶対ではない。
議会が多数決で決めたから、
首長は黙って判を押せ。
そんな制度ではない。
でも逆に。
市長が嫌だと言えば、
議会の決定を全部消せる。
それでもない。
だから再議。
もう一回、
議会に投げ返す。
「ただ」
片桐所長が書類を見ながら言いました。
「期限を見る必要がある」
「期限?」
大沢さんが聞きます。
私は紙の日付を確認しました。
「条例案が市長へ送付されたのは……」
「三日前です」
「三日」
私は頭の中で数えます。
十日。
条例の制定改廃や予算についての一般再議。
送付を受けた日から十日以内。
「まだ期間内です」
「じゃあ駄目か……」
大沢さんが肩を落としました。
でも。
私はまだ一つ気になりました。
「所長」
「何だ」
「再議されたら、もう一度普通に多数決ですか?」
片桐所長は私を見ました。
「条例だぞ」
「あ」
そうでした。
ここも罠。
条例の制定改廃。
予算。
それ以外の議決。
再議後の扱いが同じではありません。
「条例なら」
私は言いました。
「同じ議決を確定させるには……出席議員の三分の二以上」
大沢さんの顔が固まりました。
「三分の二?」
「はい」
「前は、そこまで賛成してません」
「どれくらいでした?」
「二十二人中、十三人です」
私は頭の中で計算しました。
出席者が同じなら。
三分の二。
十五人必要。
十三人では届かない。
つまり。
最初は過半数で可決できた条例案でも、
市長が一般再議に付したあと、
同じ内容を確定させるには、より重い多数が必要になる。
「……市長、それ狙ってます?」
私が呟くと、
相馬先輩が鼻で笑いました。
「狙ってねえ市長がいたら、そっちのほうが怖えよ」
「ですよね」
大沢さんは青ざめました。
「じゃあ終わりじゃないですか」
「まだだ」
片桐所長が言います。
「票は動く」
「でも……」
「再議は廃案じゃない」
所長の声は静かでした。
「もう一度、議会で審議する」
その言葉で。
大沢さんが少し顔を上げました。
「もう一度?」
「そうです」
私は言いました。
「市長が一人で条例を消したわけじゃありません。議会に返したんです」
議員が再度、
三分の二以上で同じ議決をすれば、
その議決は確定する。
ハードルは上がる。
でも。
扉が閉じたわけではない。
「じゃあ、あと二人……」
大沢さんが呟きました。
「説得する?」
「市長が挙げてる問題を潰すんだよ」
相馬先輩が言いました。
「反対票だけ数えてどうすんだ」
「え?」
「市長が何を理由に再議へ回した」
「維持管理費と、管理責任と……」
「なら、その懸念に答えられる資料を議員に出す」
「でも私は議員じゃありませんよ」
「だから陳情書を作る」
出ました。
行政書士の土俵です。
議会で票を入れることはできない。
再議するのも市長。
再議決するのも議会。
私たちは、そのどちらでもありません。
でも。
事実を整理する。
事業費。
維持管理費。
商店会側の負担可能額。
使用予定。
管理責任。
安全管理。
資料にして、
議員が判断できる状態にする。
そこなら戦えます。
「作りましょう」
私は言いました。
「再議に反対する感情論じゃなくて、市長が挙げた理由に一つずつ答える書類」
大沢さんは少し黙ったあと、
大きく頷きました。
その日の午後。
私たちは市役所にいました。
議会事務局へ資料の提出方法を確認し、
総務課にも立ち寄る。
そして。
案の定。
沢渡課長がいました。
「今度は議会案件ですか」
「よく分かりますね」
私が言うと、
「大沢さんが一緒なら分かります」
合理的。
今日も無駄がありません。
「再議の理由、総務課も関わってます?」
相馬先輩が聞きます。
「法的な手続確認はしています」
「市長は違法だと見てるのか」
「いいえ」
「じゃあ一般再議」
「そう理解していただいて構いません」
大沢さんが一歩前に出ました。
「課長さん。議会が決めたんですよ」
「承知しています」
「市長は議会を馬鹿にしてるんですか」
「そういう話ではありません」
「じゃあ何なんです」
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「議会が決めることと、市長が執行に責任を負うことは、同じではありません」
大沢さんが黙りました。
「施設を造れば終わりではありません。維持費がかかる。事故が起これば管理責任が問われる。翌年度以降の財政負担もある」
「でも議会が――」
「だからこそ」
沢渡課長が言いました。
「再議という制度があります」
冷たい。
けれど筋は通っている。
議会が暴走する。
市長が暴走する。
どちらもあり得る。
だから、
一度決めたら絶対。
にはしていない。
私はそこで思いました。
再議って、
拒否権という名前だけ見ると、
首長が議会に勝つ制度みたいに見えます。
でも実際は。
勝つというより、
もう一回考えろ。
と返す制度なのかもしれない。
「課長」
私は聞きました。
「もしこれが、政策的な意見の違いじゃなくて、本当に違法な議決だったら?」
沢渡課長の視線が私に向きます。
「具体的には?」
「議会が権限を超えてるとか、法令や会議規則に違反してるとか」
「その場合は話が違います」
「市長が再議するかどうか選べない?」
「そうです」
「必ず?」
「認められるなら、再議に付さなければなりません」
大沢さんが首をかしげました。
「今と何が違うんです?」
私は答えようとして、
一瞬止まりました。
一般再議。
異議がある。
任意。
違法再議。
違反がある。
義務。
教科書なら四行。
でも。
大沢さんに伝えるなら。
「市長が『私はこの案に反対です』と言って返すのと」
私は言いました。
「『この議決は法律上、そのまま執行できません』と言って返すのとでは、全然違うんです」
「ああ……」
「前者なら、市長が再議にするかどうか判断できる。でも後者なら、問題を見つけたのに知らん顔することはできない」
「なるほど」
相馬先輩がこちらを見ました。
たぶん、
今日はちゃんと人間語に翻訳できた。
という顔です。
「今回、市長は違法だとは言っていない」
沢渡課長が続けました。
「条例案自体が法令違反だという判断ではありません。ただ、財政負担や管理上の問題から、再考を求めた」
「だから一般再議」
「ええ」
「期限は送付から十日」
「ええ」
「再議決は出席議員の三分の二」
「よく勉強していますね」
「受験生なので」
「見習いだろ」
相馬先輩に突っ込まれました。
両方です。
人生がややこしい。
「ただし」
沢渡課長が書類を一枚抜きました。
「朝比奈さん。再議の話をするなら、もう一件見ておいたほうがいいでしょう」
「何です?」
「今朝、別の議案で問題が出ています」
嫌な予感。
役所が、
勉強のために見ておいたほうがいい。
と言う案件は、
大体ややこしい。
渡されたのは予算修正案でした。
議会側の修正で、
ある費目が大幅に削られている。
「……職員退職手当?」
「そうです」
私は顔を上げました。
「これ」
「法令上、支出が必要になるものを含んでいます」
「義務費……」
相馬先輩が横から紙を取ります。
「議会が削ったのか」
「ええ」
「市長、どうする」
「再議です」
「今度も一般?」
私が聞くと、
沢渡課長は首を振りました。
「いいえ」
空気が変わりました。
「義務費について、必要な経費を削除・減額する議決がされた場合です」
あ。
私は頭の中のページが一枚めくれる感覚がしました。
「必ず再議に付す」
「そうです」
「市長が気に入らないからじゃなくて」
「ええ」
「再議しなければならない」
「その通りです」
同じ再議。
でも、
全然違う。
大沢さんも紙を覗き込みます。
「じゃあ、こっちは市長の好き嫌いじゃない?」
「そういうことです」
「やらなきゃいけない?」
「はい」
片方は、
政策的なブレーキ。
もう片方は、
法制度上の非常ブレーキ。
私はそんなふうに感じました。
事務所へ戻ってから。
大沢さんと商店会の役員二人を交えて、
陳情書づくりが始まりました。
「まず、市長の再議理由を四つに分けます」
私は紙に書きます。
一。
初期整備費。
二。
毎年度の維持管理費。
三。
施設管理責任。
四。
駅前再整備事業との整合性。
「『商店街のためにお願いします』は?」
大沢さんが聞きます。
「最後に少し」
「少し?」
「それだけでは票は増えません」
我ながら冷たい。
でも。
行政書士事務所に持ち込まれた感情を、
そのまま紙へ流すだけなら、
私たちでなくてもできます。
必要なのは。
感情を、
判断材料へ変えることです。
「共同施設の使用日数」
「年間八十日くらい」
「それ以外の日は?」
「商店会の物置として……いや、それはまずいか」
「まずいですね」
相馬先輩が即答しました。
「公の金で造る施設を、自分らの倉庫みたいに説明するな」
「じゃあ地域行事にも貸す」
「最初からそういう想定だったのか?」
「……」
「後付けするな」
「すみません」
厳しい。
でも必要。
「管理人は?」
私が聞きます。
「商店会で当番を」
「条例案では?」
「市が管理すると」
「そこが市長側の懸念でしょうね」
誰が鍵を管理する。
誰が火気使用を確認する。
事故が起きたら誰が対応する。
設備が壊れたら誰が修繕する。
ごみ処理は。
夜間閉鎖は。
一個ずつ詰めていく。
そして。
商店会側が一定額の管理費を負担できること。
年間利用計画を作ること。
管理協定の締結を求めること。
条例施行規則で細部を定める余地があること。
そうした材料を整理しました。
ここで。
現代の私の頭に、
ものすごく便利な制度が浮かびました。
「あ」
「何だ」
「これ、市が直接管理しないで、商店会を指定管理者にすれば――」
言い切る前に。
事務所が静かになりました。
相馬先輩がゆっくり私を見ました。
「何だそれ」
「あ」
やった。
踏んだ。
地雷。
「指定管理者制度……」
「知らん」
「ですよね」
「新しい制度か?」
「かなり未来です」
私は両手で顔を覆いました。
平成十五年改正。
ここは昭和六十三年。
影も形もありません。
現代なら、
公の施設について民間団体などを指定管理者として管理させる。
そんな選択肢があります。
でも今は。
ない。
「未来の便利制度を、今の市役所に持ち込むな」
相馬先輩が言います。
「すみません」
「お前、たまに三十年先の顔するよな」
「気のせいです」
「便利な逃げ方覚えたな」
大沢さんだけが困っています。
「結局、どうすれば?」
「今ある制度で詰めます」
私は顔を上げました。
「管理方法を現行制度の中で具体化する。市長が言ってる『管理責任が曖昧』を、そのままにしない」
ない制度を嘆いても仕方ありません。
昭和には昭和のルールがある。
その中で。
今ある条例。
今ある予算。
今ある管理体制。
それを使って戦う。
二日後。
完成した陳情書を持って、
大沢さんたちは議会事務局へ向かいました。
表題。
――駅前共同催事施設設置条例再議に関する再審議のお願い。
内容は感情論ではなく、
市長の再議理由に対する回答。
維持費試算。
商店会負担案。
年間利用計画。
管理手順案。
さらに、
市長側との協議継続を条件とした修正の余地も示しました。
「これで通りますかね」
大沢さんが聞きました。
「分かりません」
私は答えました。
最近この言葉を言うことに慣れてきました。
実務では、
絶対勝てます。
なんて軽々しく言えません。
「でも」
私は続けました。
「少なくとも、再議された理由に答えずに『一度可決したんだから通せ』と言うよりは、ずっと強いです」
大沢さんは書類を見ました。
「市長と喧嘩する紙じゃないんですね」
「はい」
「説得する紙?」
「議員が、もう一度判断するための紙です」
再議は、
市長が議会にけんかを売る制度ではない。
少なくとも制度上は。
議会と長の意見が食い違ったとき、
もう一度、
意思決定をやり直す場所をつくる。
そこへ、
私たちは事実を持ち込む。
再議の日。
私は傍聴席の端にいました。
行政書士事務所の人間が、
議場で何かできるわけではありません。
手を挙げることもできない。
発言もできない。
ただ。
自分たちが作った資料を持った議員たちが、
下の席に座っている。
それだけで、
妙に緊張します。
市長が再議の理由を説明します。
財政負担。
施設管理。
駅前整備との整合。
反対側の議員が質問する。
賛成側が答える。
商店会提出資料にも言及される。
「管理費の一部を利用者側が負担する案が示されています」
「年間利用計画も提出されています」
「市側と管理方法を協議する余地がある」
私は傍聴席で、
大沢さんと目を合わせました。
そして採決。
名前が呼ばれる。
一人。
二人。
三人。
前回は十三。
必要なのは、
出席議員の三分の二以上。
私は数える。
十四。
あと一人。
十五。
息を止めました。
さらに一人。
十六。
議長が告げます。
再議に付された条例案について、
同じ議決が、
出席議員の三分の二以上の多数でなされた。
議決、確定。
「……通った」
大沢さんが呟きました。
声が震えていました。
私は笑いそうになって、
でも。
下を見る。
市長は笑っていません。
怒ってもいません。
結果を受け止めている。
それも、
制度なのです。
市長は再議を求めた。
議会はもう一度考えた。
それでも、
必要な多数で同じ結論を出した。
なら。
そこで確定する。
誰か一人が最後まで絶対ではない。
議会が終わったあと。
廊下で沢渡課長と鉢合わせしました。
「通りましたね」
私が言うと、
「ええ」
「悔しいです?」
「なぜ私が」
「市役所側なので」
「私は制度どおり処理しただけです」
相変わらずです。
「市長は反対だったんですよね」
「再議を求めました」
「それでも議会が三分の二で再可決した」
「はい」
「じゃあ市長の負け?」
沢渡課長は少し考えました。
「そういう見方は、あまり正確ではありませんね」
「違います?」
「再議によって、管理費や責任分担の問題が表に出た」
「……あ」
「結果として条例案は確定しましたが、執行前に詰めるべき問題も明確になった」
確かに。
一度目の議決では、
催事施設を造ろう。
という勢いが先に立っていた。
でも再議で。
誰が管理する。
いくらかかる。
事故対応は。
毎年の予算は。
そこまで議論された。
「じゃあ」
私は言いました。
「再議された意味はあった?」
「少なくとも、無意味ではないでしょう」
「市長が止めたかったのに?」
「再議は必ずしも、止めるためだけの制度ではありません」
また。
この人に先生役を取られました。
悔しい。
「朝比奈さん」
「はい」
「今朝見せた義務費の件ですが」
「あ」
「そちらも再議に付されました」
「必ず、ですよね」
「ええ」
「一般再議とは違って」
「そこを混同しないことです」
「受験指導ですか」
「業務上の忠告です」
「絶対ちょっと楽しんでますよね」
「気のせいでしょう」
役所の人間までそれを使い始めました。
夕方。
事務所へ戻ると、
大沢さんが菓子折りを持ってきました。
「ありがとうございました」
「まだ施設ができたわけじゃないですよ」
「分かってます」
「予算も管理方法もこれからです」
「それも分かってます」
大沢さんは笑いました。
「でもね」
少し照れくさそうに続けます。
「最初は、市長が全部ぶち壊したと思ったんです」
「はい」
「違ったんですね」
私は黙って聞きました。
「市長が返して、議会がもう一回考えて、それでもやるって決めた」
「はい」
「面倒だけど」
「かなり」
「でも、最初より腹は決まりました」
「何がです?」
「管理費、商店会も負担しますよ」
相馬先輩が眉を上げました。
「言ったな」
「言いました」
「あとで高いって逃げんなよ」
「逃げません」
「書面にするか」
「今からですか!?」
行政書士事務所に迂闊な発言をすると、
すぐ書面化されます。
危険です。
大沢さんが帰ったあと。
私は机に座って、
今日のことを頭の中で並べました。
議会が可決した。
でも。
それで絶対に終わりではない。
長に異議があるなら、
一定の場合、
理由を示して再議に付せる。
条例や予算なら、
送付を受けた日から十日以内。
再び同じ議決を確定させるには、
出席議員の三分の二以上。
そして。
単なる政策上の異議ではなく、
議決が権限を超えたり、
法令や会議規則に違反すると認められるなら。
長は、
再議するかどうか選ぶのではない。
再議しなければならない。
任意と義務。
同じ「再議」という言葉の中に、
全然違う二つの顔がある。
「何ぶつぶつ言ってんだ」
相馬先輩が聞きました。
「今日の教訓です」
「また始まった」
「多数決って、ゴールじゃないんですね」
「場合による」
「でも少なくとも、議会が決めたから長は黙れ、でもない」
「そうだな」
「長が嫌だと言ったから議会は諦めろ、でもない」
「ああ」
「お互いに、もう一回考えさせる仕組みがある」
片桐所長が奥から言いました。
「それが二元代表制だ」
私は振り返りました。
「所長、今日はよく喋りますね」
「一言だ」
「重い一言でした」
そして。
私はノートの端に、
小さく書きました。
――再議は、議会を黙らせる拒否権ではない。もう一度、責任を持って決めさせるためのブレーキ。
「長いな」
相馬先輩が覗き込みます。
「いいんです」
「試験前に読めねえぞ」
「じゃあ短くします」
私はその下に書きました。
――異議なら任意。違法なら義務。
「それだ」
「試験にはこっちですね」
「最初からそうしろ」
でも。
私は長いほうも消しませんでした。
短い言葉は、
試験には強い。
長い言葉は、
現場を思い出すのに強い。
そのとき。
奥の電話が鳴りました。
相馬先輩が取ります。
「はい、片桐事務所。……ああ。……何?」
顔が変わりました。
「どうしました?」
受話器を押さえてこちらを見る。
「町議会で予算削ったらしい」
「また再議ですか」
「災害復旧費だと」
私は固まりました。
「非常災害対策費……?」
「らしいな」
「それ削ったら」
「ああ」
相馬先輩がにやりとしました。
「今日の続きだ」
「今日、再議多すぎません?」
「地方自治法に言え」
私は机の上のノートを見ました。
異議なら任意。
違法なら義務。
そして。
どうやら、
必ず再議しなければならない理由は、
違法だけでは終わらないらしい。
「所長」
「何だ」
「今日はもう閉めません?」
「電話に出ろ」
「ですよね!」
私は受話器を受け取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
窓の外。
市役所の議会棟には、
まだ灯りがついていました。
可決されたら終わり。
多数決で決まれば終わり。
そんなに簡単なら、
地方自治法はたぶん、
こんなに分厚くありません。
議会が決める。
長が異議を出す。
もう一度議会が決める。
ときには長が、
嫌でも再議に付さなければならない。
面倒です。
本当に面倒です。
でも。
一度の多数決だけで、
町のお金も、
条例も、
住民の生活も、
全部がそのまま走り出してしまわないように。
地方自治法は、
議会と長のあいだに、
もう一枚だけブレーキを置いている。
昭和六十三年。
私はようやく、
「拒否権」という言葉を、
誰かを黙らせる権利ではなく、
もう一度考えさせる権利として、
少しだけ好きになりました。
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