[地方自治法・長の補助機関]現場編 「市長がいなければ、市役所は何も決められません」の嘘。助役と収入役――名前まで違う昭和の役所で、止まった祭りの金を動かせ
役所というものは、市長一人で動いているわけではありません。
当たり前です。
市長が電話を取り、
市長が住民票を出し、
市長が道路を直し、
市長が金庫を開けてお金を払っていたら、
たぶん三日で倒れます。
だから。
市長には、手足があります。
ただし。
昭和六十三年の役所では、
その手足の「名前」からして、
私の知っているものと違いました。
「市長さんが倒れたんです」
朝一番。
片桐行政書士事務所へ飛び込んできた女性は、挨拶より先にそう言いました。
「……はい?」
私は湯呑みを置きました。
かなり大きな話です。
相談者は、
西浜商店会の会計をしている、
野中美津子さん。
四十八歳。
魚屋の奥さん。
声が大きい。
歩くのが速い。
そして現在、
ものすごく怒っています。
「倒れたって、どういう意味です?」
「入院!」
「大丈夫なんですか」
「命に別状はないって」
「それはよかった」
「よくない!」
「えっ」
「秋祭りが止まったの!」
そっちですか。
いや。
もちろん大事です。
西浜地区では、
毎年十月に小さな秋祭りを開きます。
商店街に提灯を吊るし、
神社まで子供神輿が歩き、
駅前では地元の保存会が太鼓を叩く。
市からは毎年、
地域振興事業の補助金が出ていました。
今年も申請済み。
交付決定も出ている。
ところが。
「お金が出ない?」
私が聞くと、
美津子さんは机をばん、と叩きました。
「そう!」
「交付決定はあるんですよね」
「あるわよ!」
茶封筒から紙が出てきます。
湖西市地域文化振興事業補助金交付決定通知書。
交付額。
三十五万円。
交付予定時期。
祭り前。
「これ、いつ届きました?」
「一か月前」
「祭りは?」
「十二日後」
「……近いですね」
「だから困ってるの!」
提灯代。
警備員の手配。
仮設電源。
舞台。
子供神輿の保険。
業者へ支払う前金もある。
ところが市役所へ補助金の支払い時期を問い合わせたところ。
担当職員から、
こう言われたというのです。
――市長が入院中のため、決裁が止まっています。
「市長さんが戻るまで待ってくださいって!」
「いつ退院予定なんです?」
「二週間くらいって」
「祭り終わってますね」
「そうなの!」
完璧です。
祭りの補助金が、
祭りのあとに来る。
傘を借りに行ったら、
雨がやんでから貸しますと言われるくらい意味がありません。
「ほかに、市役所から説明は?」
「助役さんにも聞いたのよ」
「副市長ですね」
私は反射的に言いました。
相馬先輩の煙草を持つ手が止まりました。
「何だって?」
「副市長」
「誰だ、それ」
「え?」
「うちの市にそんな役職いたか?」
「いや、だって市町村には副市町村長が――」
「こはる」
片桐所長が新聞から目を上げました。
「今は何年だ」
嫌な質問です。
「昭和六十三年です」
「もう一度」
「昭和六十三年」
「副市長は?」
私は固まりました。
頭の奥。
行政書士試験用の記憶倉庫から、
現代地方自治法が元気よく走ってきます。
副市町村長。
定数は条例。
置かないこともできる。
長が議会の同意を得て選任。
任期四年。
長を補佐。
職務代理。
完璧。
完璧なのですが。
「……もしかして」
私は恐る恐る言いました。
「この時代、まだ副市長じゃない?」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「助役だ」
あああああ。
出た。
昭和。
「助役……」
「野中さんも、さっき助役って言ってただろ」
「聞こえないふりをしていました」
「現実を無視すんな」
「現代人の脳が拒否したんです」
「何言ってんだお前」
昭和六十三年。
市町村には、
現在の「副市町村長」に相当する立場として、
助役がいます。
副知事は副知事。
でも市町村は、
まだ副市長ではありません。
助役。
教科書の旧制度コーナーに出てくる、
あの助役。
目の前の実務では現役です。
「じゃあ」
私は気を取り直しました。
「助役さんが市長を補佐してるなら、そっちで進められないんですか」
「それを聞いたのよ」
美津子さんが言いました。
「そしたらね」
顔をしかめます。
「『市長決裁案件ですから』って」
「誰が?」
「商工観光課」
「助役本人には?」
「会えなかった」
相馬先輩が補助金交付決定通知を取り上げました。
「交付決定そのものは終わってるんだな」
「はい」
「条件は?」
私は通知書を読む。
開催後、
実績報告書を提出。
余剰があれば精算。
内容変更がある場合は事前承認。
「普通ですね」
「支払いだけ止まってる」
「みたいです」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「変だな」
「何がです?」
「市長が一週間寝込むたびに、市役所の支払いが全部止まってたらどうなる」
「あ」
確かに。
道路工事。
福祉施設。
納品業者。
委託料。
補助金。
職員の給料まで全部、
市長が風邪をひいたら止まる。
そんな仕組みなら、
地方自治は市長の免疫力に依存しています。
「それは困ります」
「だから補助機関がいる」
片桐所長が言いました。
短い。
でも。
今日の鍵は、
たぶんそこです。
私はノートを開きました。
「長の補助機関」
「講義始めんな」
「整理です」
「相談者の前で受験勉強すんな」
「違います!」
地方公共団体の長。
知事。
市町村長。
でも長一人で行政を全部執行できるわけじゃない。
だから、
長の仕事を補助する人たちがいる。
現代なら。
副知事。
副市町村長。
会計管理者。
職員。
出納員その他の会計職員。
「……あ」
私はまた止まりました。
「何だ」
「会計管理者」
「誰だそれ」
相馬先輩が言いました。
やっぱり。
「いません?」
「聞いたことねえな」
「普通地方公共団体には一人必ず置く――」
「お前の未来では、だろ」
「うっ」
またです。
二発目。
地方自治法、
時代錯誤コンボ。
私は頭を抱えました。
「じゃあ昭和六十三年のお金のトップって誰なんです?」
「市なら収入役」
片桐所長が答えました。
「県なら出納長だ」
「収入役……」
知っています。
知識として。
でも。
私の頭の地方自治法では、
とっくに退職した単語です。
「会計管理者じゃない」
「今はな」
「しかも助役」
「そうだ」
「副市長じゃない」
「そうだ」
「役所の人間関係図そのものが違う……」
相馬先輩が呆れました。
「そんなにショック受けることか」
「受験生にとって役職名変更は地味に凶悪なんですよ」
現代なら。
副市長。
会計管理者。
昭和六十三年なら。
助役。
収入役。
似た仕事だから、
未来の知識で分かった気になる。
そこが一番危ない。
法律のタイムスリップ事故は、
派手なところでは起きません。
こういう地味な名称の交差点で、
静かに撥ねられます。
「でも」
私は言いました。
「だったら、収入役に聞けばいいんですよね」
片桐所長が頷きました。
「まず金の流れを確認する」
美津子さんが首を傾げます。
「収入役さんって、市長さんとは違うの?」
「違います」
私は答えかけて、
所長を見る。
「……で、いいですよね」
「いい」
「市長が全部のお金を直接出したり受け取ったりするわけじゃないんです。会計を扱う側が別にいる」
「じゃあ、その人に払ってって言えばいいの?」
「そこも確認です」
相馬先輩が言いました。
「金庫番が勝手に補助金を決められるわけじゃねえ」
「そうですね」
市長側が、
誰にいくら支払うかを決める。
会計側は、
その支出を実際に処理する。
役割が違う。
「つまり」
私は言いました。
「市長が入院したから止まっているのか」
「うん」
「市長側の決裁が止まっているのか」
「うん」
「会計側の支払い処理で止まっているのか」
「うん」
「全然違う」
「やっと分かったか」
はい。
役所の中で、
誰が何をする人なのか。
そこを間違えると、
正しい苦情を、
間違った机に叩きつけることになります。
片桐所長が立ち上がりました。
「市役所へ行く」
「はい」
「野中さん」
「はい」
「交付決定通知は借ります」
「お願いします」
「祭りの契約書と、支払期限が分かる書類も」
「持ってきてます」
さすが会計係。
怒っているけど、
準備がいい。
仮設電気工事。
前金八万円。
支払期限。
三日後。
警備会社。
前金五万円。
五日後。
提灯業者。
残金七万円。
一週間後。
「これが払えないと?」
「業者さんも困るって」
「祭りは?」
「中止になるかもしれない」
片桐所長は書類を束ねました。
「行くぞ」
市役所二階。
総務課。
そして。
出ました。
沢渡課長。
「また皆さんですか」
「嫌そうですね」
「率直に言えば」
「言うんだ」
相馬先輩が椅子に座ります。
「西浜の秋祭り補助金」
「ああ」
「止まってる」
「市長が入院中ですので」
「それで?」
「決裁手続に少々時間がかかっています」
「交付決定は一か月前に出てる」
「承知しています」
「支払い期限は三日後」
「それも担当課から聞いています」
「じゃあ何で止まってる」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「最終的な支出手続に市長決裁が必要だからです」
「市長本人じゃなきゃ駄目なのか」
「原則として市長決裁です」
原則。
行政法で聞くと、
ちょっと嫌な単語です。
原則があるなら、
例外の扉がどこかにあります。
「課長」
私は聞きました。
「助役は?」
危ない。
副市長と言わなかった。
偉い。
昭和に適応してきています。
「助役が何か?」
「市長を補佐する立場ですよね」
「ええ」
「市長が入院して職務を執れない間は、助役が職務を代理することはないんですか」
一瞬。
沢渡課長の表情が止まりました。
相馬先輩がこちらを見ます。
当たり。
たぶん。
「市長は意思疎通ができない状態ではありません」
沢渡課長が言いました。
「病院から必要な案件について指示を受けることは可能です」
「じゃあ決裁できるじゃないですか」
「すべての書類を病室へ持ち込むわけにはいきません」
「だから止める?」
「優先順位があります」
「秋祭りは低い?」
「そうは言っていません」
「でも三日後に前金が要るんです」
「朝比奈さん」
「はい」
「市の業務は秋祭りだけではありません」
「分かってます」
「災害対応、福祉、契約、議会関係、国や県との調整。長が不在になれば、事務に影響は出ます」
正論です。
腹は立つけれど。
こういうとき沢渡課長は、
ちゃんと現実を投げてきます。
「じゃあ」
私は言いました。
「そのための助役じゃないんですか」
沢渡課長が黙りました。
片桐所長が口を開きます。
「市長が全部を自分で処理する必要はない」
「もちろんです」
「補助執行させることもできる」
「ええ」
「専決規程は?」
沢渡課長の視線が、
ほんの少し鋭くなりました。
専決。
来ました。
役所の中で、
市長名義の仕事を、
どこまで誰が決裁していいかを定める内部ルール。
市長が一件一件、
鉛筆一本まで決裁しているわけではありません。
「今回の補助金額は三十五万円だ」
所長が言いました。
「助役専決の範囲ではないのか」
「……確認します」
出ました。
沢渡課長の、
「確認します」。
この言葉が出たとき、
だいたい何かがあります。
相馬先輩が畳みかけます。
「商工観光課は『市長入院だから止まってる』と説明した」
「担当者の説明です」
「それが間違ってるなら訂正しろ」
「まだ間違いとは申し上げていません」
「じゃあ専決規程見ろ」
「確認すると言っています」
「今見ろ」
「相馬さん」
「何だ」
「あなたは市職員ではありません」
「知ってるよ」
「命令しないでください」
「お願いだ」
「態度がお願いではない」
いつもの二人です。
私は別の疑問を投げました。
「収入役側では、何か問題があるんですか」
沢渡課長が私を見る。
「収入役?」
「はい」
「珍しいところに気づきましたね」
「珍しい?」
「住民の方は普通、市のお金は全部市長が動かしていると思っています」
「私も一時間前まで会計管理者だと思ってました」
「会計管理者?」
しまった。
空気が止まりました。
「何ですか、それは」
「……未来です」
「は?」
「忘れてください」
相馬先輩が額を押さえています。
片桐所長はもう何も言いません。
慣れたのでしょう。
沢渡課長は訝しげな顔をしながらも答えました。
「収入役側で支払いを拒んでいるわけではありません」
「じゃあ」
「支出命令が来ていない」
「あ」
「収入役は、市長側の決定もないまま、勝手に公金を支払うことはできません」
そういうことです。
財布を持っている人が、
支払う相手まで勝手に決めるわけじゃない。
市長側の執行部。
会計側。
役目が違う。
だから、
今回詰まっているのは、
金庫ではない。
金庫を開ける前の指示書です。
「つまり」
私は確認しました。
「交付決定済み」
「はい」
「交付条件も満たしている」
「現時点では」
「収入役側に拒否理由はない」
「支出命令が適法に来れば、通常の審査をした上で処理するでしょう」
「止まっているのは市長側の内部決裁」
「そうなります」
相馬先輩が椅子から少し身を乗り出しました。
「なら話は早え」
「何がです」
「市長本人の病室まで持っていく案件なのか。助役で処理できる案件なのか。そこを確認しろ」
「確認します」
「だから今――」
「相馬」
片桐所長が止めました。
そして沢渡課長に言います。
「今日中に回答をもらいたい」
「急ですね」
「三日後に支払期限だ」
「……分かりました」
そこまでなら、
一歩前進。
そう思ったとき。
沢渡課長が書類を閉じました。
「ただし、一つ問題があります」
「何です?」
「助役です」
「助役?」
「現在、助役本人も不在です」
「え?」
私は間の抜けた声を出しました。
「東京出張です」
「いつまで?」
「明後日」
「いやいやいやいや」
思わず言いました。
「何ですかその市役所」
「何ですかとは何です」
「市長は入院、助役は東京」
「偶然です」
「次は収入役が温泉とか言わないでくださいね」
「収入役はおります」
「よかった!」
よかったのか。
「じゃあ助役が帰ってくれば」
「専決可能であれば、ですが」
「二日後」
「そうですね」
「前金期限が三日後」
「ぎりぎりですね」
ぎりぎり。
役所が言うと怖い言葉ランキング上位です。
こちらの「ぎりぎり」と、
役所の「ぎりぎり」は、
たいてい一日ずれています。
事務所へ戻る途中。
私は盛大にため息をつきました。
「なんかもう」
「何だ」
「市役所って、人が一人欠けただけで大変なんですね」
「会社でも同じだろ」
「でも市長ですよ」
「市長も人間だ」
「分かってます」
市長。
助役。
収入役。
各課の職員。
誰が上で、
誰が下か。
そんな単純な話ではありません。
仕事の種類ごとに、
役割が分かれている。
「私、長の補助機関って」
私は言いました。
「試験では単なる組織図だと思ってました」
「またそれか」
「副市長は長が議会の同意を得て選任、任期四年、定数は条例、会計管理者は一人必置――」
「こはる」
「はい」
「今の市役所でその単語を使うな」
「はい」
「役に立たん」
「ひどい」
「未来で役立てろ」
ぐう。
「でも構造は同じですよね」
「何が」
「長一人では自治体は動かない」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「ああ」
「だから補助する人がいる」
「ああ」
「ただし、助けるっていっても、全員同じ仕事をするわけじゃない」
「そうだ」
「助役は市長側」
「ああ」
「収入役は会計側」
「そうだ」
「職員はそれぞれの担当事務」
「ようやく現場が見えてきたな」
少しだけ悔しい。
でも。
本当にそうでした。
教科書では、
長。
副市町村長。
会計管理者。
職員。
出納員。
縦に並んでいる。
だから私は、
市長の下に人が並んでいるだけだと思っていた。
でも現場では。
誰が決める。
誰が補佐する。
誰が代わる。
誰が金を動かす。
誰が金をチェックする。
そこを分けないと、
行政は止まる。
翌朝。
沢渡課長から電話が来ました。
私が取ります。
「片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「はい!」
『声が大きいですね』
「結果は?」
『専決規程を確認しました』
私は受話器を握り直しました。
「どうでした?」
『三十五万円の当該補助金支出に関する手続については、助役専決の範囲です』
「やっぱり!」
相馬先輩がこちらを見る。
私は親指を立てました。
『ただし』
来た。
行政語の魔王。
ただし。
「何です?」
『今回は少し特殊です』
「何がです?」
『交付決定後に、会場の一部変更届が出ています』
「あ」
そういえば。
美津子さんの書類にありました。
駅前広場の工事のため、
太鼓演奏の場所を神社参道へ変更。
「それが?」
『内容変更について、承認が必要です』
「その承認は?」
『市長決裁事項です』
「戻った!」
スタート地点に戻りました。
私は机に額をつけました。
「何ですかこのすごろく」
『何の話です?』
「こっちの話です」
相馬先輩が受話器を奪いました。
「沢渡。変更の規模は?」
『太鼓演奏場所のみです』
「補助対象経費は変わるか」
『変わりません』
「補助額は?」
『変わりません』
「事業目的は?」
『変わりません』
「じゃあ何で市長決裁だ」
『要綱上、変更承認は市長です』
「市長名義なのは当たり前だろ。専決できるかって聞いてる」
『……』
沈黙。
相馬先輩の目が細くなります。
「変更承認の専決区分、見たか?」
『……商工観光課では、市長決裁として扱っています』
「規程は?」
『確認します』
「またか」
『相馬さん』
「何だ」
『確認しないで答えるよりいいでしょう』
「それはそうだ」
珍しく素直。
電話が切れました。
「どう思います?」
「怪しい」
「ですよね」
片桐所長が言いました。
「要綱を取れ」
「はい」
「専決規程も」
「はい」
「市長という文字だけ見るな」
私は手を止めました。
「どういう意味です?」
「行政の書類には、ほとんど市長と書いてある」
「あ」
そうです。
許可する。
決定する。
命令する。
通知する。
条例や要綱では、
市長が主体として書かれていることが多い。
でも。
市長本人が、
全部自分で判を押しているわけじゃない。
「名義と内部の決裁権限は別に見ろ」
「はい」
「長を補助するというのは、飾りじゃない」
その言葉。
私はノートの端に書きました。
――補助機関は、飾りじゃない。
午後。
私たちは再び市役所へ行きました。
総務課の机には、
沢渡課長。
商工観光課の係長。
そして。
見慣れない五十代の男性が一人いました。
「こちらは?」
片桐所長が聞きます。
「収入役室の北原です」
「出納員の北原です」
北原さんが頭を下げました。
出納員。
また来ました。
未来の教材にも残っている言葉。
会計管理者の事務を補助する会計職員。
でも今は、
収入役のもとで会計事務を担っている。
「収入役本人ではないんですね」
私が聞くと、
北原さんが頷きました。
「この程度の案件なら私で説明できます」
「出納員って、収入役を補助する人ですか」
「まあ、そう考えていただければ」
なんだか嬉しい。
未来と昭和が、
ようやく一個つながった気がします。
「で」
相馬先輩が沢渡課長を見る。
「変更承認は?」
沢渡課長は一枚の規程を机に置きました。
「結論から申し上げます」
「はい」
「助役専決で処理できます」
よし。
「じゃあ」
「助役が戻り次第、変更承認を行い、その後すぐ支出手続へ回します」
「明日ですね」
「ええ」
「収入役側は?」
北原さんが答えました。
「書類が整っていれば、速やかに審査します」
「三日後の期限に間に合います?」
「明日午前中に支出命令まで届けば、対応します」
私は思わず息を吐きました。
間に合う。
祭りができます。
でも。
相馬先輩はそこで終わりませんでした。
「一つ聞く」
「何でしょう」
「何で最初、『市長が入院してるから払えない』って説明した」
商工観光課の係長が目を伏せました。
「担当者が……」
「担当者が?」
「要綱に『市長の承認』とあるので、市長本人の決裁が必要だと判断したようです」
「誰も専決規程を確認しなかった?」
「……はい」
相馬先輩が椅子にもたれました。
「役所が偉いんじゃねえ」
出ました。
先輩の好きなやつ。
「条例と規程が偉いんだ」
沢渡課長が眉をひそめます。
「条例だけではありませんが」
「細けえな」
「正確にしてください」
「じゃあ言い直す」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「担当者の思い込みより、決められた権限配分のほうが偉い」
「それなら異論ありません」
意外と仲良しです。
私は交付決定通知を見ました。
「市長が入院した」
誰でも、
それは大変だと思う。
だから、
市長の仕事が止まる。
そう考えやすい。
でも。
地方公共団体は、
一人の人間ではありません。
長を補助する人がいる。
代わって仕事をする人がいる。
会計を扱う人がいる。
その会計をさらに補助する職員がいる。
組織というのは、
誰か一人が倒れても、
全部が倒れないためにある。
「課長」
私は言いました。
「もし助役まで長期間動けなくなったら?」
「場合によっては、法令に従い職務代理の問題になります」
「つまり」
「長が不在だから自治体そのものが止まる、ということにはしません」
ですよね。
それが制度です。
「今回の件」
片桐所長が言いました。
「支払日を文書で回答してもらいたい」
「文書ですか」
「商店会側が業者へ説明する必要がある」
沢渡課長が少し考える。
「分かりました」
「それと」
「まだありますか」
「担当課へ、今後同様の案件では専決区分を確認するよう周知を」
沢渡課長の顔が、
ほんの少しだけ険しくなりました。
「こちらの内部事務です」
「だから頼んでいる」
「要求ではなく?」
「お願いだ」
またです。
態度がお願いじゃない。
沢渡課長は数秒黙り、
やがて書類を閉じました。
「今回、説明が不正確だった点は認めます」
商工観光課の係長が俯きます。
「市長不在というだけで支払い不能と説明したのは適切ではありませんでした」
「じゃあ」
「担当課には整理して伝えます」
「ありがとうございます」
私が言うと、
沢渡課長は私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「一つ覚えておいたほうがいい」
「何でしょう」
「地方自治体は、市長だけで動いているのではありません」
「今日まさに学びました」
「逆もそうです」
「逆?」
「補助機関が勝手に市長になるわけでもない」
あ。
「権限には根拠が必要です」
助役だから、
何でも市長の代わりにできるわけではない。
収入役だから、
自由にお金を払えるわけでもない。
出納員だから、
好きに金庫を開けられるわけでもない。
「誰が」
沢渡課長が言いました。
「何を」
「どこまで」
「どの根拠で行えるのか」
私は頷きました。
「そこを見る」
「そういうことです」
本当に。
この人はたまに、
敵側から参考書を投げてきます。
翌日の午後。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『野中です!』
耳から受話器を離しました。
声が大きい。
「はい!」
『出た!』
「何がです?」
『お金!』
一瞬、
宝くじかと思いました。
「補助金ですか」
『そう! 三十五万円!』
「間に合ったんですね」
『業者さんに払える!』
電話の向こうで、
誰かが笑っています。
商店会の人でしょう。
『朝比奈さん』
「はい」
『祭り、来てね』
「いいんですか」
『もちろんよ』
「相馬先輩も?」
向かいで煙草を吸っていた先輩が、
急にこちらを見る。
『来てもいいけど』
「けど?」
『飲みすぎないように言っといて』
「もう素性が割れてる」
「何だって?」
「先輩は酒を控えろと」
「余計なお世話だ」
美津子さんが笑いました。
『所長さんもね』
「伝えます」
『本当にありがとう』
「いえ」
私は受話器を持ち直しました。
「今回は、市役所の中の手続を確認しただけです」
『それが分からないのよ、私たちには』
「……ですよね」
『市長さんが入院したから無理ですって言われたら、普通はそうなんだと思うもの』
「はい」
『でも違った』
「市長がいなくても、市役所には市長を補助する人たちがいますから」
『助役さんね』
「はい」
副市長じゃない。
助役。
もう間違えません。
たぶん。
『それと……何だっけ。お金の人』
「収入役です」
『そうそう、それ』
「現代なら会計管理者なんですけどね」
『現代?』
「何でもありません」
危ない。
『とにかく祭り、来てね』
「はい」
電話を切りました。
十二日後。
西浜秋祭り。
商店街には赤と白の提灯が並び、
子供神輿が通りを進んでいました。
「わっしょい!」
「わっしょい!」
小学生たちの声。
焼きそばの匂い。
綿菓子。
金魚すくい。
神社の参道では、
大太鼓が腹の底まで響きます。
変更した会場。
あの「変更承認」で止まりかけた太鼓です。
「普通に祭りですね」
私は言いました。
「当たり前だろ」
相馬先輩は、
すでに紙コップを持っています。
「それ何杯目です?」
「二杯」
「本当ですか」
「三杯」
「増えた!」
片桐所長は少し離れたところで、
商店会長と話していました。
そこへ美津子さんが走ってきます。
「朝比奈さん!」
「はい」
「これ!」
渡されたのは、
焼きとうもろこし。
「いいんですか?」
「働いた人は食べる!」
「やった」
相馬先輩が手を伸ばします。
「あなたは自分で買いなさい」
「何でだよ」
「飲んでるから」
「関係ねえだろ」
私は笑いながら、
とうもろこしを一口かじりました。
甘い。
醤油が香ばしい。
役所の補助機関とは、
たぶん何の関係もない味です。
でも。
この祭りは、
市長が入院しただけで消えかけました。
正確には。
市長が入院したせいではない。
市役所の中で、
誰が何をできるのか、
そこを担当者が確認していなかったからです。
市長。
助役。
収入役。
出納員。
職員。
名前だけ並べれば、
行政書士試験の暗記問題。
でも今日、
目の前では。
その役割分担が、
提灯になり、
太鼓になり、
子供神輿になっています。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何ぼーっとしてんだ」
「今日の教訓を考えてました」
「祭りでまで勉強すんな」
「大事ですよ」
「何だよ」
私は少し考えて言いました。
「市長が自治体を動かす。でも、市長一人で自治体は動かせない」
相馬先輩が紙コップを止めました。
「まあ、そんなところだ」
「だから補助機関がいる」
「ああ」
「ただし」
「何だ」
「補助だからって、何でもできるわけじゃない」
「そうだ」
「誰が、何を、どこまでできるか。そこを確認する」
相馬先輩が頷きました。
「やっと役所の組織図が人間に見えてきたな」
「前は?」
「箱と線」
「ひどい」
「お前の頭の中の話だ」
否定できません。
そのとき。
後ろから声がしました。
「朝比奈さん」
振り向く。
「……課長?」
沢渡課長でした。
灰色の背広ではありません。
紺色のジャンパー。
「祭り来るんですか」
「市の行事でもありますから」
「仕事?」
「半分は」
「もう半分は?」
「焼きそばです」
意外。
「食べるんですね」
「人を何だと思ってるんです」
「役所の地下書庫で栄養補給してるのかと」
「失礼ですね」
沢渡課長は神社のほうを見ました。
太鼓が鳴っています。
「間に合ってよかったですね」
「はい」
「市長も退院しました」
「本当ですか」
「昨日から登庁しています」
「じゃあ、市役所も通常運転ですね」
「朝比奈さん」
「はい」
「市長が戻ったから通常運転なのではありません」
「あ」
沢渡課長は淡々と言いました。
「市長がいなくても通常運転を維持するのが組織です」
「……なるほど」
「今回はうまくできませんでしたが」
そこまで言って、
沢渡課長は焼きそばの屋台へ向かいました。
私はその背中を見送ります。
「先輩」
「何だ」
「今日、一番いいところ課長に取られました」
「知らん」
「悔しい」
「勉強になったならいいだろ」
まあ。
そうなんですけど。
帰り道。
商店街の提灯が、
秋の風に揺れていました。
私は歩きながら、
頭の中でもう一度整理します。
地方公共団体の長には、
補助機関がある。
長を補佐する者。
会計を担う者。
職員。
会計事務を補助する者。
現代の私なら、
副市町村長。
会計管理者。
そう答える。
けれど。
昭和六十三年。
ここでは、
助役。
収入役。
制度の名前が違う。
仕組みも、
後の改正で変わっていく。
つまり。
現代の行政書士受験生である私は、
知識を持っているから強い。
でも同時に、
知識を持っているから間違える。
未来の正解は、
過去の正解とは限らない。
そこが怖い。
そして、
ちょっと面白い。
「先輩」
「何だ」
「もし私が市役所で『会計管理者を出してください』って言ってたらどうなってました?」
「変な奴だと思われる」
「今もですか」
「今よりもっと」
「今も変な奴扱いなの確定なんですね」
「安心しろ」
「何をです」
「沢渡にはもう十分そう思われてる」
「安心できる要素がない!」
片桐所長が少し先を歩きながら言いました。
「こはる」
「はい」
「覚えておけ」
「何をです?」
「法律は、条文だけじゃない」
所長は振り返りません。
「時代も読む」
私は少し黙りました。
「……はい」
それは、
転生した受験生には、
かなり重い言葉でした。
昭和六十三年。
市役所には、
まだ副市長はいない。
会計管理者もいない。
けれど。
市長を補佐する人はいる。
公金を扱う人もいる。
その名前と仕組みを正しく見抜けば、
「市長がいないのでできません」
という一言で、
祭りを諦めなくても済むことがある。
法律は、
役所を縛るだけのものではありません。
役所が、
誰か一人の不在で倒れないようにする骨組みでもある。
そして。
その骨組みを知らないと、
役所の側でさえ、
自分たちが動けることに気づかない場合がある。
私は遠くなっていく祭りの明かりを振り返りました。
太鼓の音が、
まだ小さく聞こえています。
「今日の覚え書き」
私は呟きました。
「長を助ける人を知らずに、長だけ見ても自治体は分からない」
「長い」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ短くします」
少し考える。
「市長がいなくても、市役所は一人じゃない」
「法律の覚え方としては雑だな」
「でも忘れません」
「ならいい」
そのとき。
片桐所長が立ち止まりました。
「相馬」
「はい」
「明日の朝、県庁へ行け」
「何でです?」
「書類を出してこい」
「こはるに行かせりゃいいでしょう」
「俺ですか?」
「県には副知事がいる」
所長が言いました。
「市には?」
私は即答しました。
「助役!」
「会計の責任者は?」
「市なら収入役!」
「未来は?」
「副市長と会計管理者!」
相馬先輩が顔をしかめます。
「最後のは何なんだよ」
「未来予想です」
「また始まった」
私は笑いました。
今日はもう間違えません。
副市長ではなく、
助役。
会計管理者ではなく、
収入役。
少なくとも、
昭和六十三年の夜が明けるまでは。
そして翌朝。
私は市役所から届いた一枚の書類を見て、
固まることになります。
そこには、
今回の件を受けて、
市の内部決裁手続と会計事務の整理について、
見直しを行う、
と書いてありました。
その末尾。
担当欄。
――総務課 沢渡。
「先輩」
「何だ」
「課長、結局ちゃんと直してます」
「合理的なんだろ」
「ちょっとだけ好きになりそうです」
「やめとけ」
「何でです?」
「次の案件じゃまた壁になる」
なるほど。
確かに。
役所の壁というのは、
一回崩したからといって、
翌日から味方になるわけではないらしい。
でも。
それでいいのかもしれません。
法律は、
人を好き嫌いで動かすためのものではない。
誰が座っていても、
誰が休んでいても、
誰が入院していても。
決められた役割に従って、
自治体を動かすためのものなのだから。
私は書類を机に置きました。
窓の外では、
秋祭りで余った赤い提灯が、
商店街の軒先に一つだけ残っていました。
昨日までは、
ただの祭りの明かりでした。
今日は少しだけ、
地方自治法の組織図に見えます。
「……受験生って嫌ですね」
「何がだ」
「祭りの提灯まで条文に見えてきました」
「重症だな」
「行政書士になれますかね」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「その前に」
「はい」
「昭和と平成を間違えんな」
「そこからですか」
「そこからだ」
はい。
未来人の地方自治法は、
どうやら役職名を覚え直すところから始まるようです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




