[地方自治法・議会運営の五原則]現場編 「もう決まった話です。傍聴も再審議もできません」の嘘。公開・定足数・多数決・一事不再議・会期不継続が守る、議会という手続
多数決というのは、
人数さえ多ければ勝ち。
――ではありません。
数える前に、
集まっているか。
見えるところで話しているか。
同じ話を何度もひっくり返していないか。
そして。
ちゃんと、その会期のうちに決めたのか。
そこまで全部そろって、
ようやく「議会で決まった」と言えるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談者は、
椅子に座るなり、
「議会って、何人いれば勝手に決めていいんですか」
と聞きました。
ずいぶん攻撃的な第一声です。
私はお茶を置きながら答えました。
「内容によりますけど、基本は多数決ですね」
「ほら!」
相談者の男性が机を叩きました。
「やっぱり多数決でしょう!」
「いや、まだ何も聞いてません」
「じゃあ聞いてください!」
「はい」
勢いがすごい。
お茶が震えています。
男性の名前は、
西脇英治さん。
五十二歳。
市内の東町商店街で、金物店を営んでいるそうです。
相談内容は、
湖西市が進めている市民会館の建替え計画。
正確には。
現在の市民会館を閉鎖し、
駅前再整備区域に新しい文化施設を建てるため、
旧市民会館を来年度で廃止する方針が市議会で議論されている。
そこまでは、以前から新聞にも出ていました。
問題は。
「昨日、市役所へ行ったら言われたんです」
西脇さんは言いました。
「もう議会で決まったから、今さら言っても仕方ないって」
「誰にです?」
「市民会館の管理課です」
「何が決まったんですか」
「廃止です」
「条例は?」
「それが分からないから来たんです!」
なるほど。
私はメモを取りました。
市民会館。
公の施設。
廃止。
条例改正。
議会。
ここまでは分かります。
「で」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「何がおかしいと思った」
「昨日、傍聴に行ったんですよ」
「議会に?」
「はい」
「入れなかった?」
西脇さんがこちらを見ました。
「そうなんです」
私はペンを止めました。
「なぜです?」
「係の人に、今日は関係者だけですって」
「関係者だけ?」
「市民会館の廃止について、議員さんたちが集まって話すと聞いたから行ったんです。そしたら、一般の人は入れませんって」
私は首をかしげました。
議会。
一般人は入れない。
そんな雑な話、あります?
「委員会じゃなくて?」
片桐所長が聞きました。
「本会議だと聞きました」
「議場で?」
「はい」
「議長は?」
「いました」
所長が黙りました。
私は少し前のめりになります。
「秘密会だった可能性は?」
「秘密会?」
「会議を非公開にする手続です」
「そんな説明ありませんでした」
「何か採決してました?」
「よく分かりません。中に入れてくれなかったので」
それは困る。
議会というのは、
役所の奥でこっそり相談する会議ではありません。
普通地方公共団体の議会の会議は、
原則、公開。
そこは現代でも昭和でも基本です。
もちろん秘密会はあります。
でも、
「今日は一般人を入れたくないから」
で閉められるわけではない。
議長。
または議員三人以上の発議。
そして、
出席議員の三分の二以上。
そこまで必要だったはず。
「西脇さん」
私は聞きました。
「議員さん、何人くらいいたか分かります?」
「廊下で見た感じだと……十人ちょっとですかね」
「議員の定数は?」
相馬先輩が私を見る。
「湖西市は二十四……」
言いかけて止まる。
架空の市です。
そして今は設定上の湖西市。
私は資料棚から市議会名簿を取り出しました。
「二十四人です」
「半分は十二」
相馬先輩が言います。
「十人ちょっと、じゃ怪しいな」
「ただ、正確な人数は確認が必要です」
私は言いました。
議会は、
原則として議員定数の半数以上が出席しなければ会議を開けない。
定数二十四なら、
原則、十二人以上。
十一人なら、
そもそも会議を開けない。
ここで多数決以前の問題になります。
「ちょっと待ってください」
西脇さんが目を丸くしました。
「半分いなかったら、賛成した人が多くても駄目なんですか」
「そもそも会議として始められません」
「じゃあ十人中八人賛成でも?」
「駄目です」
「八割ですよ?」
「八割でも駄目です」
「多数決じゃないんですか」
「多数決は」
私は少し考えてから言いました。
「ちゃんと会議を開ける人数が集まった後の話です」
「ああ……」
西脇さんが椅子にもたれました。
「人数って、賛成反対だけじゃないんだ」
そうです。
多数決。
という言葉だけ覚えると、
賛成の手が多い方が勝つ。
という単純なゲームに見えます。
でもその前に。
そもそも会議を始められるだけの議員がいるか。
そこが必要です。
「それで」
西脇さんが続けました。
「もっと変な話があるんです」
「まだあります?」
「今日、知り合いの議員に聞いたら」
声を落とす。
「市民会館の廃止案、一昨日はいったん否決されたらしいんですよ」
相馬先輩が顔を上げました。
「何?」
「一昨日の会議では反対が多かった。でも昨日、もう一回やって、今度は通ったって」
私は止まりました。
「同じ会期ですか」
「たぶん」
「同じ議案ですか」
「市民会館を廃止する話です」
はい。
急に論点が増えました。
一事不再議。
一度議決された事項について、
同一会期中にもう一度議決しない。
議会運営の原則。
「先輩」
「ああ」
「それ、本当なら」
「まず議事録だ」
「ですよね」
私が立ち上がると、
西脇さんが慌てて言いました。
「で、まだあるんです」
「まだ?」
「今日、市役所では『次の議会でもう一度正式に決めます』とも言われました」
私は座り直しました。
「……どういうことです?」
「昨日は通った。でも細かい文面をまとめ切れなかったから、次の会期にそのまま持ち越すんだって」
私は数秒、
黙りました。
「そのまま?」
「はい」
「審議途中のまま?」
「そう聞きました」
今度は。
会期不継続。
原則として、
会期中に議決に至らなかった事件は、
次の会期へ当然には継続しない。
一つの会期は、
一つの区切り。
次の会期になれば、
原則として仕切り直しです。
「何なんですか」
西脇さんが言いました。
「決まったのか、決まってないのか」
「それを今から調べます」
相馬先輩が立ち上がりました。
「市役所行くぞ」
「はい」
「西脇さん」
片桐所長が言いました。
「まだ『廃止が無効だ』とは言いません」
「でもおかしいんでしょう?」
「おかしい可能性がある」
「何が違うんです?」
「事実を確認する前に断定するかどうかです」
所長の声は静かでした。
「議会には議会の手続がある。会議録を見れば分かる」
西脇さんは少しだけ頷きました。
「お願いします」
市役所二階。
議会事務局。
そこから総務課。
そして。
いつもの灰色の背広。
「またですか」
沢渡課長は、
私たちを見るなり言いました。
「その言い方、完全に歓迎してませんよね」
「歓迎する理由がありません」
「正直ですね」
「要件は?」
相馬先輩が机へ一枚のメモを置きました。
「昨日の本会議。市民会館廃止の件」
沢渡課長の目が細くなりました。
「議会の話ですか」
「ああ」
「執行部に聞くことではないでしょう」
「最初はな」
相馬先輩が言います。
「だが管理課が住民に『議会でもう決まった』って説明してる」
沢渡課長の表情が少し変わりました。
「誰が言いました」
「そこはあとだ」
「重要です」
「なら記録を出せ」
「何のですか」
「議決の経過だ」
沢渡課長が少し考えます。
「議会事務局に確認します」
「俺たちも行く」
「自由ですが」
言いながら、
沢渡課長自身も立ちました。
自由ですが、
と言う人ほど、
だいたい一緒に来ます。
議会事務局。
係員が、
会議録の原稿と出席簿を机に並べました。
「昨日の本会議ですね」
「はい」
私は身を乗り出しました。
「出席議員は何人ですか」
「開会時は十四人です」
十四。
定数二十四。
半数以上。
定足数は満たしている。
まず一つ。
「途中で退席は?」
「審議中に三人退席しました」
「……十一人?」
「はい」
私は顔を上げました。
「その後も採決したんですか」
係員の顔が固まりました。
「ええ」
相馬先輩が低い声で言います。
「十一人で?」
「そうなります」
「定数二十四だぞ」
「承知しています」
「なら半数を割ってる」
係員が黙る。
沢渡課長が出席簿を取りました。
「採決時の議員数は正確に十一人ですか」
「議長を含めてです」
「退席理由は?」
「二人は所用。一人は体調不良」
私は頭の中で計算しました。
二十四人の半数。
十二。
十一。
アウト。
少なくとも、
通常の定足数は満たしていない。
「その採決」
私は言いました。
「成立してるんですか」
係員が言葉に詰まりました。
沢渡課長が先に答えました。
「……確認が必要ですね」
「確認って」
相馬先輩が言いました。
「数字はもう出てるだろ」
「議会運営上の扱いも含めてです」
「役所語だな」
「正確と言ってください」
私は別の紙を指しました。
「それと、非公開だった件は?」
係員が目をそらしました。
「昨日の会議は、一部を秘密会として扱いました」
「秘密会?」
「はい」
「誰の発議です?」
「議長です」
「議決は?」
係員が黙ります。
「議決しました?」
「……していません」
今度は、
沢渡課長まで黙りました。
「してない?」
私は聞き返しました。
「議長判断で、傍聴人の入場を止めました」
「議長判断だけで?」
「混乱を避けるために」
「だから」
私は思わず声を強めました。
「秘密会って、議長が『今日は入れません』って決めるだけじゃ駄目ですよね」
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「落ち着け」
「はい」
「で、要件は」
「議長か、議員三人以上の発議」
「うん」
「そして出席議員の三分の二以上の多数で議決」
「そうだ」
係員が苦い顔をしました。
「正式な秘密会の議決はありませんでした」
それは。
かなりまずい。
会議公開は原則。
秘密会は例外。
例外には、
例外のための厳しい手続がある。
「それで住民を締め出した?」
相馬先輩の声が低くなる。
「会議が紛糾する可能性がありました」
「だから?」
「傍聴席で混乱が起きる懸念が」
「起きてから対処すりゃいい」
相馬先輩が言いました。
「公開しない理由にはならねえ」
おお。
これは、
かなり刺さっています。
役所側も、
公開原則そのものは否定できない。
「次」
片桐所長が静かに言いました。
「一昨日の議案」
係員が別の資料を出しました。
市民会館廃止に伴う条例改正案。
採決。
賛成九。
反対十。
否決。
「否決されてるな」
「はい」
「会期は」
「同じ定例会です」
「昨日も同じ議案を出した?」
係員が紙をめくります。
「正確には、一部文言を修正した案です」
私は覗き込みました。
一昨日。
市民会館を、
翌年三月三十一日で廃止。
昨日。
市民会館を、
翌年六月三十日で廃止。
「日付が違います」
「はい」
「それだけ?」
「移転準備期間について附則を追加しています」
私は相馬先輩を見ました。
「これ、同一事件なんですか」
「そこが問題になる」
簡単に、
同じ市民会館だから同じ。
とも言えない。
逆に、
日付を変えたから別物。
とも言い切れない。
一事不再議の原則は、
同一会期中に、
一度議決した同一事項を何度も議決して、
議会意思をころころ変えるのを防ぐ。
だから、
実質的に同一かどうか。
そこを見る必要がある。
「この修正」
片桐所長が聞きました。
「否決後に作ったのか」
「はい」
「理由は」
「議員間の調整です」
「否決されたから、通る形に変えた?」
「結果としては」
沢渡課長が書類を見ます。
「所長」
「何だ」
「この点は一事不再議だけで即断しない方がいいでしょう」
「ああ」
所長が頷きました。
さすがです。
一事不再議。
覚えやすい。
一度決めたら同じ会期で二度やるな。
でも現場では、
何が「同一」なのか。
そこが簡単ではない。
実質的な変更があるなら、
別の議案と評価される余地もある。
ここは、
雑に殴ってはいけないところです。
「じゃあ」
私は言いました。
「昨日の案が一事不再議違反かは、内容比較が必要」
「そうだ」
「ただし」
所長が続けます。
「昨日の採決には、もっと手前の問題がある」
「定足数」
「そうだ」
十一人。
そこです。
同一事件かどうか以前に。
会議が成立するだけの人数がいない状態で採決している。
「じゃあ昨日の『可決』って」
私は言いました。
「そもそも危ないですよね」
「危ないどころじゃねえだろ」
相馬先輩が言います。
「多数決ってのは、票を数える前に定足数を数えろって話だ」
なるほど。
今日の一行候補、
早くも強い。
「もう一つ」
私は言いました。
「次の会期へ持ち越すって話です」
係員の顔が、
さらに曇りました。
「それは……」
「審議未了の部分を次回へ継続する予定です」
「継続審査の議決は?」
片桐所長が聞きました。
係員が止まりました。
「していません」
相馬先輩が天井を見ました。
「全部乗せかよ」
私も思いました。
今日、
議会運営の原則が一気に実体化しています。
普通なら教科書で五項目。
今日は市議会で五連続。
「会期が終わったら」
私は言いました。
「原則、次にそのまま続かないですよね」
「はい」
係員が小さく答えました。
「会期不継続の原則です」
自分で言った。
「だったら、次の会期で審議するなら」
「改めて議案として扱う必要があります」
「『前回の途中から続けます』ではない」
「原則としては」
沢渡課長が眼鏡を外しました。
珍しい。
この人が眼鏡を外すときは、
たいてい役所側に面倒な問題が発生しています。
「整理しましょう」
沢渡課長が言いました。
「昨日の会議については」
指を一本立てる。
「傍聴制限に、秘密会としての正式な議決がなかった」
二本目。
「採決時には、出席議員が定足数を下回っていた可能性が高い」
三本目。
「一昨日否決された案との同一性については、なお検討が必要」
四本目。
「次会期への継続についても、当然継続という説明は適切ではない」
相馬先輩が言いました。
「多数決は?」
「昨日の議決が成立しているという前提自体が崩れれば、その先の多数決以前の問題です」
「そうなるな」
私は横から聞きました。
「でも仮に定足数が満たされていた場合は、普通の議事なら出席議員の過半数ですよね」
「原則は」
沢渡課長が答えました。
「可否同数なら議長が決する」
「はい」
「ただし」
彼の目が少し鋭くなる。
「今回のような条例改正でも、すべて単純に過半数だけ見ればよいわけではありません」
「特別多数の場面」
「そうです」
そこです。
地方自治法。
原則は多数決。
でも。
秘密会。
議員の除名。
長への不信任。
条例や予算の再議。
重要な公の施設。
そういう重大事項では、
通常より重い多数が求められる場合がある。
今回の市民会館廃止が、
条例で特に重要な公の施設としてどう位置づけられているか。
その点も確認が要る。
「だから」
相馬先輩が言いました。
「『賛成の方が多かったから決まり』じゃねえんだ」
「はい」
「何人出席してた」
「はい」
「何票必要だった」
「はい」
「その議案は通常多数か特別多数か」
「はい」
「まずそこからだ」
議会。
急に数字だらけです。
でも。
数字は冷たいぶん、
ごまかしも利かない。
その日の午後。
片桐事務所へ戻ると、
西脇さんが待っていました。
「どうでした」
私たちは顔を見合わせました。
所長が言います。
「少なくとも、『昨日正式に廃止が決まった』と断定して住民へ説明できる状態ではありません」
西脇さんの目が見開きました。
「じゃあ廃止は止まる?」
「そこまでは言っていません」
「でも議会がおかしかったんでしょう?」
「手続に問題がある可能性が高い」
「だったら無効でしょう」
「だから」
相馬先輩が言いました。
「結果を急ぐな」
少し口調はきつい。
でも、
言っていることは正しい。
議会手続に問題があった。
イコール、
市民会館が永久に残る。
ではない。
手続をやり直せば、
適法に廃止条例が可決される可能性はある。
私たちの仕事は、
結果を決めることではありません。
手続を、
ちゃんとした場所へ戻すこと。
「西脇さん」
私は言いました。
「市民会館を残せるとは約束できません」
「……はい」
「でも」
机の上に紙を置きます。
「『もう決まったから何を言っても無駄』ではありません」
西脇さんが紙を見る。
「何です?」
「申入書の案です」
宛先。
市議会議長。
市長。
議会事務局長。
主な内容。
昨日の会議について、
秘密会の適法な議決の有無。
採決時点の出席議員数。
議案の採決結果。
一昨日の議決との関係。
次会期への継続の根拠。
そして。
住民に対し、
「正式に議決済み」と説明した根拠。
これらを明らかにするよう求める。
「裁判じゃないんですね」
「しません」
「議会を訴えるんじゃない?」
「今の段階では」
行政書士は訴訟代理人ではありません。
私たちが法廷で、
異議あり!
と叫ぶ仕事ではない。
残念ながら。
ちょっとだけ叫んでみたい気持ちはありますけど。
その代わり。
事実を集める。
要件を並べる。
数字を合わせる。
役所が曖昧に済ませた部分を、
文書にして逃げられなくする。
そういう戦い方があります。
「所長」
私は言いました。
「これ、提出するなら会議録の写しも添付した方がいいですよね」
「ああ」
「出席簿も」
「取れる範囲でな」
「秘密会の議決がなかったことは?」
「断定するな」
「議事録上確認できない、と」
「そうだ」
感情ではなく。
要件。
事実。
記録。
行政書士の書類は、
声が大きくない。
でも、
返事をする側が困るくらい、
逃げ道を減らすことはできます。
三日後。
市議会議長宛ての申入書を提出しました。
翌日。
市議会運営委員会が開かれました。
今度は。
傍聴席が開いています。
西脇さんも座っていました。
私たちは後ろの方。
沢渡課長は執行部席。
そして議会事務局長が、
重い声で説明しました。
「先日の会議運営について確認した結果」
議場が静まります。
「採決時に出席議員数が定足数を下回っていたことが確認されました」
ざわ。
傍聴席が揺れました。
「また、傍聴を制限した際、秘密会を開くための正式な議決を経ていなかったことも確認されました」
ざわざわ。
西脇さんがこちらを見る。
私は小さく頷きました。
「したがって」
議会事務局長が続けます。
「市民会館廃止に関する昨日の採決について、正式な議決として取り扱うことは適切でないとの整理になりました」
そこまで。
まず、
一歩。
議場の空気が変わります。
「今後については」
続きます。
「当該議案の取扱いを改めて整理し、必要であれば適正な手続により審議を行います」
廃止案そのものが消えたわけではない。
でも。
昨日の「もう決まりました」は消えました。
市役所を出たところで、
西脇さんが追いかけてきました。
「朝比奈さん!」
「はい」
「戻ったんですよね」
「何がです?」
「話せるところまで」
私は少し考えました。
「そうですね」
「市民会館が残るって意味じゃなくて」
「はい」
「もう一回、ちゃんと話すところまで」
「そうです」
西脇さんは、
しばらく庁舎を見上げていました。
「俺」
ぽつりと言いました。
「議会って、多数決だけだと思ってました」
「私も受験生のときは、かなりそうでした」
「受験生?」
「気にしないでください」
「でも」
彼は笑いました。
「人数が足りなきゃ始められない」
「はい」
「見えないところでやるなら、ちゃんと秘密会にする手続がいる」
「はい」
「一回否決したことを、同じ会期で都合よく何度もやるのも駄目」
「原則として」
「次の会期に勝手に持ち越すのも駄目」
「そうです」
「で、最後に多数決」
「はい」
彼は腕を組みました。
「結構、面倒なんですね」
私は笑いました。
「その面倒が大事なんですよ」
「面倒が?」
「はい」
議会が簡単すぎたら。
十人だけで集まって。
住民を入れず。
気に入らない結果なら翌日もう一回やって。
決まらなければ次の会期へそのまま持ち越して。
最後に、
賛成が多かったです。
と言えてしまう。
それでは、
多数決は、
民主主義というより、
人数の多い側の都合です。
だから。
集まる人数を決める。
公開する。
一度決めたことを簡単に蒸し返さない。
会期ごとに区切る。
その上で、
多数で決める。
面倒なくらいで、
ちょうどいい。
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は机で、
今日の資料を並べていました。
「五つですね」
相馬先輩が新聞をめくります。
「何が」
「議会運営の原則」
「急に勉強始めるな」
「今日あれだけ実物を見たら、整理したくなるじゃないですか」
「好きにしろ」
私は指を折りました。
「会議公開」
「うん」
「定足数」
「うん」
「多数決」
「うん」
「一事不再議」
「うん」
「会期不継続」
「それで五つ」
私は唸りました。
「順番、意味ありますよね」
「何の」
「私の中ではです」
公開されている。
必要人数がいる。
正しい多数で決める。
一度決めたら同じ会期で蒸し返さない。
決まらなかったら会期をまたいで自動継続させない。
「議会って」
私は言いました。
「結論より先に、結論を作る方法を縛ってるんですね」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「そうだ」
「市民会館を廃止するのが正しいかどうかは、今日まだ決まってない」
「ああ」
「でも」
私は今日の申入書の控えを見ました。
「どうやって決めるかは、法律が先に決めてる」
「それが議会だ」
所長が言いました。
短い。
でも。
たぶん今日の答えです。
「多数決だから正しい」
ではない。
「議会で決めたから正しい」
でもない。
その議会が、
公開され、
必要人数がそろい、
必要な票数を満たし、
同一会期で都合よく蒸し返さず、
会期の区切りも守って、
初めて。
議会の意思として扱える。
私はノートの端に書きました。
――多数決は、最後の一手。そこまでの手続を守って初めて「議会で決まった」になる。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「まだ覚え書きじゃないです」
「じゃあ何だ」
「今日の感想」
「もっと長えよ」
そこへ。
電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「お疲れさまです」
『朝比奈さん』
「はい」
『市民会館の件ですが』
「何でしょう」
『管理課に、市民への説明を訂正させました』
「え」
『「議会で正式に決まった」という説明は撤回します』
「そうですか」
『現時点では、廃止案は議決済みとして扱いません』
「ありがとうございます」
『私に礼を言われても困ります』
「じゃあ言いません」
『極端ですね』
「課長がそう言うから」
電話の向こうで、
わずかな沈黙。
『ただし』
沢渡課長が続けました。
『次の適正な議会手続で、廃止案が可決される可能性はあります』
「分かっています」
『その場合は』
「その場合は、決まったものとして受け止めます」
『……そうですか』
「ちゃんと決まったなら」
私は言いました。
「負けた側も、決まり方までは納得できますから」
電話の向こうが静かになりました。
『それが議会というものです』
「今日だけちょっと先生みたいですね」
『失礼ですね』
「褒めてます」
『では』
電話が切れました。
相馬先輩がこちらを見ます。
「何だって」
「管理課の説明、訂正するそうです」
「ふん」
「それと、適正にやり直して廃止案が通る可能性はあるって」
「そりゃそうだ」
「はい」
私は窓の外を見ました。
夕暮れの向こう。
古い市民会館の屋根が、
少しだけ見えます。
建物は古い。
建替えが必要かもしれない。
廃止する方が合理的かもしれない。
反対する人にも、
賛成する人にも、
それぞれ理由がある。
だからこそ。
最後は数で決める。
でも。
数で決めるからこそ、
数えるまでの手続が必要なのです。
そうでなければ、
少数派は、
負けたのではなく、
最初から参加させてもらえなかっただけになる。
「先輩」
「何だ」
「多数決って、少数派を切る制度じゃないんですね」
「急に何だ」
「ちゃんと参加させたうえで、最後に決める制度なんだなって」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「当たり前だ」
「それ、受験テキストにはあまり書いてないんですよ」
「テキストのせいにすんな」
「はい」
「で」
煙を吐く。
「今日の教訓は?」
私は少し考えました。
「議会は、手を挙げた人数だけ見ちゃ駄目」
「雑だな」
「じゃあ」
もう一度考える。
「多数決の前に、公開・定足数・議事のルールを見ろ」
「まあそんなもんだ」
「あと、一事不再議と会期不継続」
「入ってねえじゃねえか」
「五つ入れると長いんですよ」
「だったら短くしろ」
「無茶言いますね」
片桐所長が奥から言いました。
「決め方を守ってこそ、議決だ」
私と相馬先輩が、
同時に所長を見ました。
「……それです」
「短いな」
「強いですね」
所長は何も言わず、
帳簿へ戻りました。
ずるい。
こういうときだけ、
一番いいところを持っていく。
私はノートの最後に、
大きく書きました。
――決め方を守ってこそ、議決。
そして、
その下に小さく。
公開。
定足数。
多数決。
一事不再議。
会期不継続。
五つ。
今日まで、
ただの暗記項目でした。
でも今は。
市民を締め出さないための原則。
少人数で勝手に決めさせないための原則。
数の力を使うための原則。
結果を都合よく蒸し返させないための原則。
会期という区切りを守らせるための原則。
全部、
議会を「ちゃんとした多数決」にするための歯止めに見えます。
そのとき。
相馬先輩が言いました。
「ところで朝比奈」
「はい」
「今日の掃除当番、お前な」
「え?」
「昨日決めただろ」
「昨日は先輩に決まったじゃないですか」
「今日もう一回決める」
「同一会期中ですよ!」
「ここ議会じゃねえ」
「一事不再議!」
「適用されねえ」
「じゃあ多数決です!」
「所長入れて三人な」
「三人なら定足数は――」
「お前、事務所で自治法やるな」
「先輩が蒸し返したんでしょう!」
そこへ片桐所長が顔を上げました。
「掃除は二人でやれ」
「えっ」
「えっ」
私と相馬先輩の声が重なります。
「所長」
私は言いました。
「今の決定、賛成一、反対二ですよ」
「ここは多数決じゃない」
「独裁!」
「雇用だ」
「地方自治が死んだ!」
相馬先輩が吹き出しました。
私は箒を一本取り、
もう一本を先輩へ投げます。
「はい」
「何だよ」
「共同提案です」
「却下」
「出席者二名、全員参加です」
「嫌だ」
「多数決取ります」
「二人じゃ可否同数になるぞ」
「じゃあ議長が決します」
「誰が議長だ」
「私です」
「勝手に決めんな!」
片桐所長が、
帳簿をめくりながら言いました。
「公開でやれ」
「掃除をですか?」
「窓を開けろ」
「そっち!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
議会運営の五原則は、
どうやら掃除当番を決めるほど万能ではないようです。
でも。
誰かが、
「もう決まりました」
と言ったとき。
本当にそうか。
何人いた。
どう決めた。
公開されていたか。
前にも同じことを決めていないか。
会期をまたいでいないか。
そうやって一つずつ確認すれば。
大きな声で押し切られそうな場面でも、
法律は、
静かに椅子を引いてくれます。
――まあ今日は、
その椅子の周りを、
私と相馬先輩が掃除することになったのですが。
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