[地方自治法・議会の種類と招集、会期]現場編 「次の定例会まで待ってください」の罠。議長も勝手に開けない昭和の議会を、四分の一の請求で動かす
会議というものは、
人が集まれば始められる。
私は、ずっとそう思っていました。
学校の委員会でも。
町内会でも。
友達同士の相談でも。
必要なら集まる。
集まったら話す。
話したら決める。
――ところが。
地方議会というところは、
議員が全員そろっていても、
勝手に「今日から議会です」と始められるわけではありません。
しかも昭和六十三年。
未来から来た受験生にとって、
この辺りは地雷原です。
「二か月待てって言うんです!」
片桐行政書士事務所の引き戸が開くなり、その女性はそう言いました。
四十代半ばくらい。
白いブラウス。
買い物籠。
籠の中から長葱が一本飛び出しています。
法律相談というより夕飯の途中です。
「まあ、座ってください」
私は椅子を引きました。
「お名前は?」
「田辺美津子です。西ノ浦の子ども会で会長をやってます」
「西ノ浦」
聞き覚えがあります。
湖の南側。
古い住宅地と畑が入り交じっている地区です。
美津子さんは鞄から写真を何枚か出しました。
「これです」
一枚目。
細い川。
二枚目。
その川をまたぐ小さな歩道橋。
三枚目。
「……うわ」
私は声を漏らしました。
橋の端。
コンクリートが欠けています。
手すりも一部が曲がっている。
「先週の大雨で下がえぐられたんです」
「通行止めには?」
「一応、黄色い縄を張ってあります」
「一応?」
「子どもはくぐります」
「ああ……」
いますね。
縄を見て、
危険だから入らない、
ではなく、
どこから入ればいいか、
を考える生き物。
小学生。
「ここ、通学路なんですか」
「正式な指定通学路じゃないんです。でも、団地から小学校へ行く一番近い道で」
「迂回すると?」
「二十分くらい余計にかかります」
「なるほど」
「それだけじゃありません」
美津子さんは次の写真を出しました。
川沿いの細い道。
大型車が一台走っています。
「迂回路は県道なんです。歩道が途中で切れてる場所があって」
「危ないですね」
「だから市に橋を直してほしいって言ったんです」
「回答は?」
「直す予定はある、と」
それなら話は早そうです。
「いつです?」
「次の議会で予算が通れば」
「次の議会は?」
「十二月」
私は壁のカレンダーを見ました。
今は十月。
「……二か月後」
「そう!」
美津子さんが机を叩きました。
長葱が揺れました。
「市役所へ行ったら、『補修には予算が必要です。次の定例会までお待ちください』って!」
なるほど。
今日の敵が見えてきました。
予算。
議会。
定例会。
そして二か月。
「応急修理では駄目なんですか」
相馬先輩が奥の机から聞きました。
「土木課の人は、本格的に橋台から直さないと駄目だって」
「金額は」
「六百万円くらいって」
六百万円。
昭和六十三年。
町内会で竹と板を持ってきて直せる額ではありません。
「市長が勝手に出せない金なんですかね」
私は呟きました。
「予算措置が必要なんだろ」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「補正予算か」
「たぶん」
私は考えました。
だったら。
「臨時会を開けばいいじゃないですか」
美津子さんが顔を上げました。
「臨時会?」
「はい。地方議会って定例会だけじゃありません。必要があれば臨時会を――」
そこまで言って。
私の頭の中で、
現代の地方自治法が元気よく走り出しました。
臨時会。
議長からの招集請求。
議員定数四分の一以上からの招集請求。
二十日以内。
長が招集しなければ議長が――
「はい止まれ」
相馬先輩が言いました。
「まだ何も言ってません」
「顔が未来だ」
「顔で時代を判断しないでください」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「今、何年だ」
「昭和六十三年」
「もう一度」
「昭和六十三年です」
「未来じゃない」
「……はい」
嫌な予感しかしません。
私は本棚へ向かいました。
地方自治法。
古い六法。
開く。
第百一条。
そして。
「……あ」
私は固まりました。
「何だ」
「議長が……」
「うん」
「議会運営委員会の議決を経て長に臨時会の招集を請求する、っていう今の制度が……」
「ない」
相馬先輩が即答しました。
「ですよね」
「未来にはあんのか」
「あります」
「知らん」
「さらに未来だと、長が一定期間内に招集しなければ、議長自身が臨時会を招集できる仕組みも――」
「ない」
「ですよね!」
現代地方自治法。
私を裏切るのが早い。
いや。
裏切っているのは法律ではありません。
時代です。
「じゃあ通年会期制で――」
「それもない」
片桐所長。
早い。
「まだ最後まで言ってません」
「ないものはない」
「一年中を会期にして、定例日に限らず必要なときに会議を――」
「未来の話は終わったか」
相馬先輩が灰を落としました。
「……終わりました」
「じゃあ昭和の仕事をしろ」
うう。
これです。
地方自治法。
現代のテキストだけ持って昭和へ来ると、
制度改正という名の落とし穴へ頭から落ちます。
美津子さんが不思議そうに私を見ています。
「難しいんですか」
「少しだけ」
「橋、直らないんでしょうか」
「いえ」
片桐所長が言いました。
「話はそこからです」
所長は私の開いた六法を指しました。
「全部読め」
「はい」
第百一条。
普通地方公共団体の議会は、
普通地方公共団体の長が招集する。
そして。
議員定数の四分の一以上の者から、
会議に付議すべき事件を示して、
臨時会の招集請求があるときは――
「長は招集しなければならない」
私は読み上げました。
相馬先輩が頷きます。
「残ってるだろ」
「武器が」
「そういうことだ」
私はもう一度条文を見ました。
未来ほど便利ではない。
議長に単独の招集請求ルートが整備されているわけでもない。
長が動かなかったときに議長が代わって招集できる制度も、まだない。
通年会期制もない。
でも。
議員定数の四分の一以上。
そこはある。
「市議会って何人です?」
私は聞きました。
相馬先輩が市政便覧を取ります。
「二十四人」
「四分の一なら……六人」
「そうだ」
六人。
市議会議員六人。
六人が、
議会で扱う事件を示して、
臨時会を開けと市長に請求する。
市長は、それを無視していいわけではない。
「でも」
私は六法を見ました。
「現代みたいに『請求から二十日以内』って期限がない」
「そこも未来知識だ」
「ですよね」
「昭和は昭和で面倒なんだよ」
相馬先輩が吐き捨てました。
なるほど。
武器はある。
でも柄が短い。
「だから」
片桐所長が言いました。
「役所に行く前に確認する」
「何をです?」
「本当に議会が必要なのか」
そこからでした。
市役所へ行く前に、私たちは土木課へ寄りました。
橋の名前は、
西ノ浦第三歩道橋。
幅一・五メートルほど。
築二十五年。
市の所有。
先日の大雨で橋台周辺が洗掘され、安全性に問題あり。
「通行禁止は継続します」
担当者は言いました。
「応急措置では?」
相馬先輩が聞く。
「橋そのものより、橋台側が危ないんです。仮補修で人を通すのは難しい」
「本格補修は」
「設計と工事で、およそ六百万円」
「今の予算で出せない?」
「該当する予算科目の残額では厳しいです」
「予備費は」
「財政課判断です」
なるほど。
単に、
役所が面倒だから十二月まで放置、
という話ではありません。
予算という壁がちゃんとある。
なら。
感情だけで殴っても仕方がない。
次。
財政課。
「補正予算を組むなら議会ですね」
担当者は言いました。
「十二月定例会に出す予定です」
「臨時会は?」
私が聞くと。
担当者は少し困った顔をしました。
「臨時会を開くほどの案件かどうかは、市長部局の判断です」
来ました。
判断。
便利な言葉です。
「子どもの通行安全です」
「迂回路は確保されています」
「歩道が途切れています」
「道路管理者には注意喚起を依頼しています」
「二か月ですよ」
「十二月議会で補正が成立してから工事発注となります」
相馬先輩が私を見ました。
まだ喋るな。
その顔です。
分かってます。
今日は情報収集。
役所と喧嘩する日ではありません。
そして最後。
総務課。
もちろん。
いました。
「また皆さんですか」
沢渡課長。
今日も灰色の背広。
眼鏡。
机の角まで九十度で生きていそうな人です。
「西ノ浦第三歩道橋」
片桐所長が言いました。
「ああ」
「十二月定例会まで補正予算を出さないそうだな」
「現時点ではその予定です」
「臨時会は考えていない?」
「今のところは」
美しい役所語です。
今のところ。
永久に否定はしない。
でも今は動かない。
「理由は?」
私が聞きました。
「臨時会は、必要がある場合に開くものです」
「橋が壊れてます」
「通行止め措置を取っています」
「通学に使う子がいます」
「代替経路があります」
「危ない県道です」
「警察及び道路管理者とも協議します」
壁。
しかも一枚ずつ丁寧に積み上げてくるタイプの壁です。
私は少し腹が立ちました。
「課長」
「はい」
「議会って、市長が開きたくないと言えば開かないんですか」
沢渡課長の視線が動きました。
「地方自治法を読んできましたか」
「読んできました」
「何条です」
「百一条」
「では答えは分かるでしょう」
「議員定数四分の一以上から、付議すべき事件を示して臨時会招集請求があれば、市長は招集しなければならない」
「そのとおりです」
認めました。
あっさり。
「じゃあ六人集まれば――」
「朝比奈さん」
「はい」
「誰が六人集めるんです?」
止まりました。
「え」
「行政書士事務所が市議会議員を六人集めて、市長と政治的に対立しますか」
「それは……」
違う。
私たちの仕事ではない。
「議員が自ら判断して請求する制度です」
沢渡課長は続けました。
「市民が行政書士事務所へ行けば、自動的に臨時会が開催されるわけではありません」
「分かってます」
「また、何でも臨時会へ持ち込めるわけではない」
「付議事件を示す必要がある」
「ええ」
「しかも臨時会では、その事件に限って扱う」
「そのとおり」
く。
敵なのに採点が正確です。
相馬先輩が横から入ります。
「だから聞いてるんだよ」
「何でしょう」
「市は、本当に十二月まで待つ合理的理由があるのか」
「先ほど申し上げたとおりです」
「通行止めだから安全?」
「少なくとも、危険な橋を利用させている状態ではありません」
「子どもが県道へ回ってる」
「それは別の安全対策を――」
「別じゃねえ」
相馬先輩の声が一段低くなりました。
「橋を塞いだ結果、どこへ人が流れるかまで含めて現場だろ」
沢渡課長が黙りました。
「臨時会を開けって今ここで怒鳴るつもりはねえ」
相馬先輩が続けます。
「ただ、市が『次の定例会まで待つしかありません』って住民に説明してるなら、そりゃ違うだろ」
そこ。
私は気づきました。
十二月定例会まで待つ。
それが唯一の法律上の道であるかのように説明している。
でも。
違う。
地方議会には、
定例会だけではなく、
臨時会がある。
必要がある場合には、
特定の事件について開ける。
問題は、
その必要性をどう動かすか。
「課長」
私は言いました。
「『次の定例会まで議会を開けない』わけじゃないですよね」
「開けないとは言っていません」
「でも住民には、そう聞こえる説明になっています」
「十二月定例会で処理する方針だと説明しただけです」
「方針と法律上できないは、違います」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
よし。
小さい。
でも一本入った。
「その点は」
沢渡課長が言いました。
「説明を改めてもいいでしょう」
私は目を瞬きました。
「改めるんですか」
「誤解を招く説明を維持する合理性はありません」
この人。
こういうところです。
鉄壁なのに、
壁の位置が一センチ間違っていると自分で直します。
「ただし」
来た。
「市長が現時点で臨時会を招集する予定はありません」
「ですよね」
そんなに簡単にはいきません。
片桐所長が立ち上がりました。
「十分だ」
「所長?」
「次は議会だ」
市議会棟。
私は生まれて初めて、
議会事務局という場所へ入りました。
市役所の中でも空気が少し違います。
同じ建物。
同じ自治体。
でも。
市長の部下ではない議員たちを支える場所。
地方自治法で、
長と議会が別々に住民から選ばれる。
その意味が、廊下一本で見えてくる。
「議長さんに臨時会開いてもらえば――」
私が小声で言うと。
「ないって言ったろ」
相馬先輩が即座に返しました。
「確認です」
「未来病が重いな」
昭和六十三年。
今の法律みたいに、
議長が議会運営委員会の議決を経て市長へ招集請求する制度は、まだない。
まして。
市長が招集しないなら議長が自分で招集する、
なんて逃げ道もない。
この時代。
招集権は強く長に握られています。
でも。
議員側にも一本だけ縄がある。
定数四分の一以上。
六人。
「誰に会うんです?」
「議員」
相馬先輩が答えました。
「六人集めるんですか」
「違う」
所長が言います。
「事実を渡す」
なるほど。
私たちは政治運動をしに来たのではない。
住民から相談を受け、
事実を整理し、
住民自身が議員へ説明できる資料を作る。
判断するのは議員です。
その日の午後。
美津子さんと子ども会の役員三人。
そして西ノ浦選出の市議、
森下恒夫さんが事務所へ来ました。
五十代後半。
黒縁眼鏡。
声の大きい人でした。
「橋は見てきました」
椅子に座るなり言いました。
「あれは十二月まで放っておく話じゃない」
美津子さんの顔が明るくなります。
「じゃあ先生、臨時会を」
「待ってください」
森下議員が手を上げました。
「私一人では請求できません」
私は頷きました。
「市議会は二十四人。四分の一ですから六人必要です」
「そう」
「賛同してくれそうな方は?」
「三人は話せる」
「あと二人」
「そう簡単じゃないよ」
森下議員は苦笑しました。
「与党系の議員は、市長が十二月でいいと言ってるのにわざわざ臨時会を要求したがらない」
「でも橋は危険です」
美津子さんが言います。
「分かっています」
「だったら」
「議員にも立場がある」
その言葉で。
部屋の空気が少し重くなりました。
法律には、
六人。
と書いてある。
でも現場では、
その六人一人一人に人間関係がある。
会派がある。
市長との距離がある。
選挙がある。
地元がある。
地方自治法の数字は無機質だけれど、
数字を構成するのは生身の人間です。
「だから」
片桐所長が静かに言いました。
「政治の話にするな」
「え?」
「橋の話に戻す」
所長は私を見ました。
「こはる」
「はい」
「資料」
私は作っておいた紙を机へ出しました。
一枚目。
西ノ浦第三歩道橋の位置図。
二枚目。
損傷状況の写真。
三枚目。
通行止め後の迂回経路。
四枚目。
登校時間帯の児童数。
五枚目。
県道の歩道欠落箇所。
六枚目。
市土木課への聞き取り結果。
補修見込額六百万円。
応急的な通行再開は困難。
十二月定例会に補正予算案提出予定。
「この資料には」
片桐所長が言います。
「市長が悪いとも、議会が怠けているとも書いてない」
「はい」
「臨時会を開けとも書いてない」
「はい」
「必要性だけ書いた」
森下議員が資料をめくりました。
「……これなら話を持っていける」
美津子さんが聞きます。
「何が違うんです?」
森下議員は写真を指しました。
「『市長に反対するため臨時会を要求しよう』だと、乗らない議員がいる」
「はい」
「でも『子どもの安全のため、十二月まで待たず補正予算を審議する必要がある』なら話は違う」
なるほど。
法律の要件。
必要がある場合。
会議に付議すべき事件。
それを政治的な飾りで曇らせず、
事実で作る。
私は少し鳥肌が立ちました。
これ。
行政書士の仕事だ。
議員を動かすことじゃない。
議員が判断できる紙を作ること。
「付議事件はどう書きます?」
森下議員が聞きました。
私は答えかけて。
所長を見る。
所長が頷きました。
「西ノ浦第三歩道橋災害復旧工事に係る補正予算その他必要な措置」
私は言いました。
相馬先輩が首を振りました。
「広すぎる」
「え」
「臨時会は告示された事件が大事になる」
「あ」
「『その他必要な措置』なんて便利袋に入れるな」
確かに。
臨時会は、
何でも自由に話せる定例会の代用品ではありません。
必要がある特定の事件について招集される。
だから、
何を議会にかけるのか。
そこを曖昧にしてはいけない。
森下議員が鉛筆を持ちました。
「じゃあ――西ノ浦第三歩道橋災害復旧工事費に係る一般会計補正予算、でどうでしょう」
片桐所長が頷きました。
「それなら明確です」
「六人集まれば、市長は招集しなきゃならないんですね」
美津子さんが聞きます。
「法律上はそうです」
私は答えました。
そして。
一瞬だけ迷ってから続けました。
「ただし」
「ただし?」
「今の法律みたいに、請求を受けたら二十日以内に招集しなければならない、っていう仕組みが、この時代にはまだありません」
美津子さんの顔が曇りました。
「じゃあ、市長がずっと放っておいたら?」
「そこが昭和の弱いところです」
言いながら。
自分で重く感じました。
未来の私は知っています。
後の時代。
議長からの招集請求も制度化される。
請求後の期限も定められる。
さらにその後、
長が招集しない場合に議長が自ら臨時会を招集できる仕組みまで整えられる。
そして、
定例会と臨時会という枠そのものを使わず、
一年を通じた会期を設定できる通年会期制も生まれる。
でも。
今はない。
制度改正というのは、
未来人にとって便利な答えではありません。
その時代の人にとっては、
まだ存在しない救命具です。
「だから」
相馬先輩が言いました。
「放っておけない紙にする」
「え?」
「市長が法的に招集義務を負う請求だって、はっきりさせる」
森下議員が笑いました。
「それなら効きますよ」
「政治的に?」
「行政的にもです」
森下議員は沢渡課長ほどではありませんが、
かなり現実的な笑い方をしました。
「六人の署名で正式請求が出たのに、市長が理由もなく握り潰したら、市議会との関係がどうなると思います?」
なるほど。
法律に期限が書いていなくても、
義務が消えるわけではない。
むしろ。
正式な書面にすることで、
放置する側に説明責任を背負わせる。
「書類って」
私は呟きました。
「ただ記録するためのものじゃないんですね」
相馬先輩が鼻で笑います。
「今さらか」
「書いた瞬間、相手の選択肢が変わる」
「そういう紙を作るのが仕事だ」
三日後。
森下議員から電話が来ました。
「六人、集まりました」
「本当ですか!」
思わず立ち上がります。
「野党三人。無所属二人。それから与党系から一人」
「与党系も?」
「橋を見せたらね。孫があの小学校だそうです」
法律。
会派。
政治。
そして最後に孫。
地方自治はやっぱり人間でできています。
「明日、招集請求書を出します」
「付議事件は?」
「補正予算」
「署名は?」
「六人全員」
「日付は?」
「入れます」
「受領印の控えを取ってください」
「朝比奈さん」
「はい」
「あなた、私より細かいね」
「所長に鍛えられてます」
電話を切る。
翌日。
議員六人から市長宛てに、
臨時会招集請求書が提出されました。
会議に付すべき事件。
西ノ浦第三歩道橋災害復旧工事費に係る一般会計補正予算。
理由。
通行止めにより児童の安全な通行に重大な支障が生じており、
十二月定例会まで審議を待つことが適当でないこと。
短い。
怒りもない。
演説もない。
ただ。
地方自治法の要件が入っている。
四分の一。
事件の特定。
臨時会。
それだけです。
そして。
その日の午後。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
来た。
「はい」
『片桐先生はいらっしゃいますか』
「おります」
『いえ。朝比奈さんでも結構です』
「何でしょう」
嫌な予感。
『臨時会の件です』
「はい」
『市長が招集する方向で調整に入りました』
「……え?」
早い。
「もうですか」
『請求が正式に提出されましたので』
「十二月定例会まで待つって言ってませんでした?」
『状況が変わりました』
「六人集まったから?」
『法律上の要件を満たした招集請求です』
淡々。
でも。
これが大きい。
昨日までは、
市長側が、
今開く必要はない、
と判断していた。
今日。
議員定数四分の一以上から正式な請求が出た。
その瞬間。
同じ橋。
同じ六百万円。
同じ市長。
なのに。
法律上の状況が変わった。
「課長」
「何でしょう」
「市長が嫌だと言ったら?」
「朝比奈さん」
「はい」
「この件については、市長に『好き嫌い』で判断する余地はありません」
おお。
「招集義務がありますから?」
「そうです」
「じゃあ早く開いてください」
『それは議会日程との調整があります』
「急に役所に戻りましたね」
『ずっと役所です』
沢渡課長が少し間を置きました。
『ただし、一つ勘違いしないように』
「何です?」
『臨時会が開かれれば、橋が直ると決まったわけではありません』
「あ」
『議会は審議する場所です。補正予算案が提出され、議会が議決する』
「はい」
『招集と議決は別です』
「……そうですよね」
また一つ。
私は頭の中の線を引き直しました。
議会を開く。
議案を出す。
審議する。
議決する。
全部別。
門を開けたからといって、
その先の道まで勝手に決まるわけではない。
「それから」
沢渡課長が続けます。
『臨時会では、原則として告示された事件が中心になります』
「今回なら橋の補正予算」
『ええ』
「ついでに駅前整備とか、市営住宅とか、いろいろ――」
『できません』
「言ってみただけです」
『朝比奈さんは、法律を覚えるとすぐ全部使おうとしますね』
「便利なので」
『包丁を買った日に家中のものを切る人ですか』
「課長に例えで負けると腹立ちますね」
『では』
「待ってください」
『何でしょう』
「一つだけ」
『はい』
「市が最初に言ってた、『次の定例会まで待ってください』」
『ええ』
「あれ、今後は言い方変えてくれるんですよね」
少し沈黙。
『土木課には伝えました』
「どういうふうに?」
『現時点では十二月定例会での対応を予定している。ただし、法制度上、それ以前に臨時会を招集することは可能である、と』
私は笑ってしまいました。
「長い」
『正確です』
「役所ですねえ」
『役所ですから』
電話が切れました。
臨時会は、その翌週に招集されました。
告示。
西ノ浦第三歩道橋災害復旧工事費に係る一般会計補正予算。
会期。
一日。
「一日だけ?」
私は議会日程を見て言いました。
「臨時会だからな」
相馬先輩が答えます。
「必要な事件を処理するだけなら、一日ってこともある」
「会期って、市長が決めるんじゃないんですよね」
「議会だ」
「招集は市長」
「会期は議会」
「ややこしい」
「権限分けてんだよ」
そこです。
市長が議員を集める。
でも。
集まった議会が、
いつまで活動するかという会期まで、
市長が一方的に決めるわけではない。
会期は議会が決める。
必要なら延長も議会。
「招集する人と、会期を決める人が違う」
私は呟きました。
「同じだったら?」
相馬先輩が聞きます。
「市長が都合の悪い議会を一時間で閉める」
「極端だが、そういう危険もある」
「なるほど」
制度って。
知れば知るほど、
面倒だから分かれているのではなく、
勝手にできないよう分かれているのだと分かります。
臨時会当日。
私たちは議場には入りませんでした。
傍聴席。
美津子さん。
子ども会の人たち。
私。
相馬先輩。
片桐所長。
「緊張しますね」
「お前が採決されるわけじゃねえ」
「分かってます」
補正予算案。
六百二十万円。
橋台補修。
手すり交換。
周辺舗装復旧。
工期。
約一か月。
質疑では、
なぜもっと早く対応しなかったのか。
迂回路の安全性をどう評価したのか。
今後の橋梁点検をどうするのか。
そんな質問が出ました。
そして。
採決。
可決。
静かなものでした。
拍手もありません。
議場では、
紙がめくられ、
議長が宣告し、
次の議事へ進む。
でも。
隣で。
美津子さんが両手をぎゅっと握っていました。
「通ったんですか」
小声で聞かれます。
「はい」
「直る?」
「はい」
美津子さんは、
ふう、
と息を吐きました。
その顔を見た瞬間。
六百二十万円という数字が、
予算書から橋の形に戻りました。
子どもが渡る橋。
毎朝。
ランドセルを背負って。
友達と喋りながら。
そんなものを直すために、
議会は開かれる。
帰り。
市役所の玄関前で沢渡課長に会いました。
「可決されましたね」
私が言うと。
「ええ」
「臨時会、便利ですね」
「使うべき必要があるなら」
「最初から開けばよかったのに」
「それは結果論です」
「出た」
「何です」
「役所語」
「行政は、すべての案件で臨時会を開くわけにはいきません」
「分かってます」
「定例会がある意味も考えてください」
「定期的に議会を開いて、予算や条例や一般議案をまとめて審議する」
「そうです」
「でも急ぐ事件は臨時会」
「ええ」
「必要な事件に限る」
「ええ」
「通常、招集するのは長」
「そうです」
「でも昭和六十三年でも、議員定数四分の一以上が事件を示して請求すれば、長は臨時会を招集しなければならない」
「そのとおりです」
「会期を決めるのは議会」
「ええ」
「延長も議会」
「よくできました」
「何で課長が先生みたいになってるんですか」
沢渡課長は答えませんでした。
代わりに。
「朝比奈さん」
「はい」
「一つ訂正しておきます」
「何を?」
「あなた、この前『一年中議会を開けるようにすればいい』と言いかけましたね」
「聞こえてたんですか」
「聞こえていました」
「未来ではあるんですよ」
「未来の話は知りません」
「通年会期制っていって――」
「昭和六十三年にはありません」
「分かってます!」
またです。
この時代にない便利制度は、
何回説明しても生えてきません。
「いつかできますよ」
「そうですか」
「条例で一年を会期にして」
「そうですか」
「定例日を決めて」
「そうですか」
「長が定例日以外の会議開催を請求する仕組みも――」
「朝比奈さん」
「はい」
「今日の橋に必要でしたか、それ」
私は黙りました。
「……必要ありませんでした」
「でしょう」
悔しい。
ものすごく悔しい。
未来知識、実務でまた敗北。
沢渡課長は市役所へ戻っていきました。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「今日の仕事は何だった」
私は少し考えました。
「臨時会を開かせたこと」
「違う」
「え」
「開いたのは市長だ」
「じゃあ、議員を六人集めたこと」
「違う」
「集めたのは森下議員」
「そうだ」
では。
何だろう。
橋を直した?
それも違う。
工事はこれからです。
「……判断できる材料を作ったこと?」
所長が頷きました。
「それだ」
写真。
位置図。
迂回路。
児童数。
補修費。
土木課の見解。
十二月まで待った場合の問題。
そして。
地方自治法上、
臨時会という手段が残っていること。
私たちは市長ではない。
議長でもない。
議員でもない。
裁判官でもない。
でも。
何が起きていて、
どの制度が使えて、
何を紙に書けば、
権限を持つ人が動けるのか。
そこを整理する。
「行政書士って」
私は言いました。
「会議そのものは開けないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「でも、開く理由は紙にできる」
「まあな」
「それって意外と大きいですね」
「今さら気づいたか」
「最近毎日気づいてます」
二週間後。
西ノ浦第三歩道橋では工事が始まりました。
古い手すりが外され、
川岸に重機が入り、
橋台の周囲に土のうが積まれました。
美津子さんから電話があったのは、その日の夕方です。
『子どもたちがね』
「はい」
『毎日、工事見てるんですよ』
「危ないから近づかないようにしてくださいね」
『柵の外からよ』
「ならいいです」
『いつ渡れるのって、毎日聞いてる』
「あと少しですね」
『十二月まで待ってたら、工事始まるの年明けだったかもしれないでしょう』
「そうですね」
『ありがとう』
私は少し迷いました。
「私じゃないですよ」
『え?』
「議員さんたちが請求して、市長が招集して、議会が予算を通したんです」
『でも、最初に紙を作ってくれたでしょう』
私は黙りました。
『あれがなかったら、私、市役所で怒鳴って終わってたと思う』
「……それは止められてよかったです」
『そこ?』
「かなり大事です」
電話の向こうで美津子さんが笑いました。
『橋が直ったら、子どもたちと渡ります』
「はい」
『朝比奈さんも来ます?』
「いいんですか」
『もちろん』
「行きます」
『じゃあ完成したら電話します』
受話器を置きました。
窓の外は、もう暗くなり始めています。
「橋、始まったって?」
相馬先輩が聞きます。
「はい」
「よかったな」
「先輩」
「何だ」
「議会って、面倒ですね」
「喧嘩売ってんのか」
「褒めてるんです」
「どういう褒め方だ」
「だって」
私は指を折りました。
「市長が招集する」
「うん」
「定例会と臨時会がある」
「うん」
「臨時会は必要な事件に限る」
「うん」
「議員四分の一以上から招集請求もできる」
「昭和の条文ではな」
「会期は議会が決める」
「うん」
「市長一人でも、議長一人でも、何でも好きに動かせない」
「そうだ」
「だから面倒」
「それが自治だ」
相馬先輩が短く言いました。
私は止まりました。
それが自治。
なるほど。
効率だけなら。
一人で全部決めたほうが早い。
市長が、
議会を開く日も、
閉じる日も、
議案も、
採決結果も、
全部決められれば速い。
でも。
それは議会ではありません。
逆に。
議員が好きな日に勝手に集まり、
何でも決められるのも違う。
長と議会。
それぞれに権限がある。
だから。
ぶつかる。
待たされる。
手続がいる。
人数もいる。
事件も特定する。
面倒です。
でも。
その面倒臭さの中に、
一人で勝手に決めさせない仕組みが隠れている。
「今日の教訓」
私は手帳に書きました。
――議会は「集まりたい人が集まる場所」じゃない。誰が招集し、何を議題にし、いつまで開くかまで法律で分けてある。
「長い」
相馬先輩が覗き込みました。
「じゃあ短くします」
私は下に書き足しました。
――招集は長。会期は議会。急ぐなら臨時会。
「雑になったな」
「覚えやすさ重視です」
「四分の一が抜けてるぞ」
「あ」
さらに書きます。
――昭和でも、四分の一は議会を動かす。
「それだな」
相馬先輩が言いました。
「珍しく褒めました?」
「気のせいだ」
そこへ。
片桐所長が奥から出てきました。
「こはる」
「はい」
「明日の朝、八時に来い」
「え」
「仕事がある」
「八時?」
「臨時だ」
「通常は九時ですよね?」
「必要がある」
「私の勤務時間は議会じゃありません!」
「招集する」
「誰の権限ですか!」
「所長」
「強い!」
相馬先輩が笑いました。
「四分の一集めて拒否したらどうだ」
「事務所の人数、三人ですよ!」
「一人で足りるな」
「計算上はそうですけど!」
「じゃあ請求しろ」
私は片桐所長を見ました。
「所長。明日の八時出勤について異議があります」
「却下」
「まだ請求書も出してません!」
「招集は決定だ」
「独裁!」
「嫌なら会期を決めろ」
「勤務時間を地方自治法で処理しないでください!」
昭和六十三年。
市議会では、
市長にも議会にも、
ちゃんと権限の限界があります。
どうやら片桐行政書士事務所だけは、
地方自治の本旨が適用されるまで、
もう少し時間がかかりそうでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




