[地方自治法・議会の権限(議決権、選挙権、監査権、自律権)]現場編 「市長が決めたことですから」の嘘。国の通達を盾にした十年独占利用を、議決と百条調査でひっくり返す
市長が決めれば、市のことは何でも決まる。
――そんなわけがありません。
もし本当にそうなら。
議会なんて、立派な建物に椅子を並べてお茶を飲む会になってしまいます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
朝から、相馬先輩が新聞を机に叩きつけました。
「こはる」
「はい」
「これ読め」
「新聞くらい自分で読めます」
「そうじゃねえ」
指さされたのは地方欄。
大きくはない記事でした。
――湖西市、湖畔市民会館の活用方針決定。
――観光振興の拠点として民間事業者に長期利用。
――国の地域観光振興施策と連携。
「市民会館?」
私は記事を読み進めました。
湖畔市民会館。
市が所有する古い施設です。
ホール。
会議室。
小さな展示室。
地元の老人会。
婦人会。
子ども会。
文化サークル。
そういう人たちが使っている。
ところが。
記事には、
市が民間の観光会社と十年間の長期利用契約を結ぶ方針。
施設の大半を観光物産館と団体旅行客向けの休憩所へ転用。
とあります。
「へえ」
私は言いました。
「指定管理者みたいな――」
「何だそれ」
相馬先輩が言いました。
「……何でもありません」
危ない。
開始十八秒で未来を持ち込みました。
指定管理者制度。
ありません。
平成十五年の制度です。
昭和六十三年には影も形もありません。
未来人には便利な制度ほど、過去では存在しない。
転生ものにおけるスマートフォンと同じです。
「でも」
私は新聞を持ち上げました。
「民間に施設を使わせること自体はありますよね」
「ある」
「じゃあ何が問題なんです?」
「十年」
片桐所長が奥から言いました。
「十年?」
「それと」
所長は新聞記事を指しました。
「独占」
私はもう一度読みました。
施設の主要部分を観光会社が専用使用。
市民利用は原則として別館へ移す。
契約期間は十年を予定。
「……長いですね」
「長いな」
「しかもほとんど貸し切り」
「そうだ」
そのとき。
事務所の扉が、勢いよく開きました。
「片桐先生!」
入ってきたのは、小柄な男性でした。
五十代後半くらい。
額に汗。
片手に茶封筒。
もう片方に、
なぜか卓球のラケット。
相馬先輩が眉をひそめます。
「何でラケット持ってんだ」
「その説明からしないと駄目ですか」
「気になる」
「市民会館で卓球やってるんですよ!」
男性はラケットを机へ置きました。
名前は、
高梨正治さん。
湖西市の住民。
そして。
「市議会議員?」
私は聞き返しました。
「そうです」
「相談者が議員さんなんですか」
「議員だって困るんですよ!」
それはそうです。
議員は困らない生物ではありません。
高梨さんは茶封筒から書類を出しました。
「昨日、全員協議会で初めて聞かされたんです」
「何をです?」
「湖畔市民会館を、東海観光開発って会社に十年使わせる話ですよ」
「議会には?」
「正式な議案は出てません」
私は止まりました。
「議決してないんですか」
「だから来たんです!」
高梨さんが机を叩きました。
卓球のラケットが跳ねました。
「市長はもう話を進めてる。来月には覚書を交わす。改修工事の準備まで始めるっていうんです」
「予算は?」
「当初予算に『湖畔観光振興事業費』ってのが入ってた」
「金額は?」
「二千八百万円」
「議会で通したんですよね」
「通した」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「じゃあお前らも賛成したんじゃねえか」
「そう言われたんです!」
高梨さんが悔しそうに言いました。
「市長からも総務課からも。『予算は議会で議決済みです』って」
なるほど。
その言い方。
嫌な感じがします。
予算を通した。
だから、その予算の範囲なら執行部が何をしてもいい。
そんな理屈に聞こえます。
「予算説明では、何て?」
片桐所長が聞きました。
「観光案内設備の整備、周辺案内板、休憩所の改修」
「十年間の独占利用は」
「一言もなかった」
「相手の会社名は」
「出てない」
「契約期間は」
「もちろん出てない」
所長が黙りました。
相馬先輩は灰皿へ煙草を置きます。
「で、市の言い分は?」
「国の方針だと」
「国?」
「観光振興を重点的に進めるよう、県を通じて話が来てるそうです」
来ました。
昭和の壁。
国。
県。
市。
上から下へ。
私は反射的に言いました。
「でも地方公共団体は国と対等で――」
「こはる」
相馬先輩が私を見ました。
「はい」
「何年だ」
「昭和六十三年です」
「もう一回言え」
「昭和六十三年です」
「今のお前の頭の中にある『対等』って言葉、いったんしまえ」
「……はい」
機関委任事務。
この時代の地方自治には、
現代とはまるで違う国と地方の関係があります。
地方公共団体の長が、
国の機関として国の事務を処理する。
国から強い指揮監督を受ける。
現代の、
自治事務。
法定受託事務。
そんな整理はまだありません。
私は肩を落としました。
「国の関係事業なら、議会が口を出せないんですか」
「話を飛ばすな」
片桐所長が言いました。
「まず分けろ」
「何をです?」
「国から何を求められたか」
所長が指を一本立てます。
「市が何を決めたか」
二本目。
「議会が何を決めたか」
三本目。
「全部別だ」
私は口を閉じました。
なるほど。
国が観光振興を求める。
それと。
市がこの会館を、
この会社に、
十年間、
独占的に使わせる。
それは同じ話ではありません。
「国は」
所長が言いました。
「東海観光開発に十年間独占させろと命令したのか」
高梨さんが首を振りました。
「そこまでは聞いてません」
「会館を使えと指定したのか」
「それも」
「なら、まず資料を取る」
相馬先輩が高梨さんを見る。
「議員として要求できるだろ」
「要求はしました。でも総務課は『内部協議中です』ばっかりで」
「どんな書類がある」
「業者との協議記録、国や県からの通知、利用条件案、改修計画」
「議会に出てない?」
「はい」
相馬先輩が笑いました。
いい笑顔ではありません。
獲物を見つけた法律屋の顔です。
「じゃあ議会の仕事だ」
「議会の?」
「市長の仕事を眺めて拍手するだけが議会じゃねえ」
私は地方自治法を開きました。
議会。
権限。
まず。
議決権。
条例。
予算。
決算。
税や使用料。
そして。
条例で定める重要な公の施設について、
条例で定める長期かつ独占的な利用をさせること。
「……これ」
私は指で条文を追いました。
「今回、かなり近くないですか」
「近いじゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「条例を見ろ」
「はい」
高梨さんが持っていた市例規集を開く。
湖西市重要公の施設に関する条例。
ありました。
対象施設。
湖畔市民会館。
「載ってる」
「次」
長期かつ独占的な利用。
条例には、
一定期間を超えて独占的利用をさせる場合には、
議会の議決を要する。
そういう趣旨の規定があります。
「……十年」
「十分長えな」
「主要部分を専用利用」
「独占性もある」
私は顔を上げました。
「じゃあ議決、必要ですよね」
「要件を満たすならな」
片桐所長が言いました。
「ただし、まだ契約内容が確定していない」
「あ」
「『十年予定』と新聞に書いてあるだけで騒ぐな」
「証拠」
「そうだ」
高梨さんが身を乗り出しました。
「じゃあ書類を出させれば」
「それだけじゃない」
相馬先輩が言いました。
「議会には検査する権限がある」
「検査?」
「執行機関が、議会の議決どおり仕事してるかを見る」
書類の検閲。
報告の請求。
事務の管理。
議決の執行。
出納の検査。
なるほど。
議決権。
決める。
監査権。
決めたとおりやっているか見る。
議会って、
単に採決のボタンを押す場所じゃない。
「さらに」
相馬先輩が高梨さんを見ました。
「必要なら百条だ」
高梨さんの顔が変わりました。
「百条……」
私も聞き返します。
「百条調査権?」
「そうだ」
地方自治法百条。
議会が地方公共団体の事務について調査する。
必要があると認めるときは、
関係人の出頭。
証言。
記録の提出。
そこまで求められる。
「百条委員会」
私は呟きました。
頭の中に未来のニュース映像が浮かびます。
記者。
証人席。
フラッシュ。
知事。
――いや。
未来の有名事件を持ち込んではいけません。
昭和六十三年の私は知らないことになっています。
「すごいですね」
「何が」
「議会ってそこまでできるんだ」
高梨さんが苦笑しました。
「私も議員になって三年ですけどね。普段は予算書読んで、質問して、採決して。それで仕事した気になってました」
片桐所長が言いました。
「使わない権限は、ないのと同じだ」
静かな言葉でした。
でも。
重い。
翌日。
市役所。
総務課。
相変わらず書類の山。
その奥。
沢渡課長。
「またですか」
「またです」
私は答えました。
「最近、朝比奈さんのほうが先に答えますね」
「成長です」
「図太くなっただけだろ」
相馬先輩が言います。
高梨市議も一緒です。
沢渡課長は、私たちの前に置かれた質問書を読みました。
「湖畔市民会館の利用計画に関する照会書」
「はい」
高梨さんが言いました。
「議員としても正式に資料要求します」
沢渡課長が眼鏡を直します。
「現在、内部調整中です」
「その答えは聞いた」
「決定前の資料を外部に出すことは――」
「俺は外部じゃない」
高梨さんの声が変わりました。
さっきまで事務所で卓球ラケットを持っていた人と同じとは思えません。
「市議会議員です」
沢渡課長が黙ります。
「しかも問題になっているのは」
高梨さんが続けました。
「重要な公の施設を十年単位で一企業に使わせる計画だ。議会の議決が必要となる可能性がある」
「まだ契約は締結していません」
「なら確認する時間はある」
「市長部局には執行権があります」
「否定してない」
「予算も議会で議決されています」
「そこだ」
相馬先輩が入ります。
「予算を通したら、その金で何をしても議会承認済みになるのか」
「そうは言っていません」
「聞こえるんだよ」
沢渡課長の視線が鋭くなりました。
「湖畔観光振興事業については、議会で予算の議決をいただいています」
「事業費の支出を認めたことと」
私は言いました。
「重要な公の施設を十年間、特定企業に独占利用させることは、同じ議決なんですか」
沢渡課長がこちらを見ます。
「……別の法的問題になり得ます」
来た。
少しだけ認めました。
「市の条例、確認しました」
私は例規集の写しを置きました。
「湖畔市民会館は重要な公の施設として指定されています」
「知っています」
「長期かつ独占的な利用なら、議決が必要ですよね」
「要件に該当すれば」
「十年間は短期ですか」
「期間だけで決まる話ではありません」
「主要部分を会社が専用で使うのは独占的じゃない?」
「契約内容がまだ確定していないと言っています」
「だから」
相馬先輩が言いました。
「確定前に止まれって言ってんだ」
沢渡課長の目が細くなりました。
「止まれ?」
「議会の議決が要る契約に仕上がってから、『もう国とも会社とも話がついてます、今さら反対できません』って持ってくる気か?」
「そのような意図はありません」
「なら資料出せ」
「……」
「会社との協議記録」
「……」
「利用期間案」
「……」
「施設の範囲」
「……」
「国と県から来た通知」
そこで。
沢渡課長が口を開きました。
「国からの指導に関する部分については、単純ではありません」
空気が変わりました。
昭和の壁。
上からの指導。
「今回の地域観光振興事業には」
沢渡課長が言います。
「国、県との調整事項が含まれます」
「機関委任事務か」
相馬先輩が聞きました。
「一部には、その性質を持つ事務もあります」
私は胃のあたりが重くなりました。
やっぱり。
ここです。
現代なら、
国と地方は対等。
関与に不服があれば制度的に争う。
国地方係争処理委員会。
そんな知識が頭の奥から出てくる。
でも。
ありません。
平成の制度です。
昭和六十三年の地方公共団体は、
国の強い監督の下に置かれる場面が確かにある。
「じゃあ」
私は言いました。
「国が絡んでいる部分は、議会が調査できない?」
相馬先輩がすぐ答えませんでした。
所長を見る。
片桐所長は沢渡課長を見たまま言いました。
「だから分けろと言った」
私は息を止めます。
「国の機関として処理する事務と」
所長が言います。
「市自身が施設をどう使わせるかという判断を、一緒にするな」
沢渡課長の目が少し動きました。
「国から観光振興を求められた」
「ええ」
「だから湖畔市民会館を使う」
「市の判断です」
「東海観光開発を選ぶ」
「市が協議しています」
「十年間使わせる」
「市の案です」
「議会に諮らない」
沈黙。
所長が言いました。
「それも国の指示か」
沢渡課長は答えませんでした。
答えられない。
「違うだろ」
相馬先輩が言いました。
「上から言われた部分と、お前らが自分で決めた部分を混ぜて、全部『国の事業です』で包むな」
私は背筋が少し伸びました。
そうか。
国が強い時代でも。
何でも国の事務になるわけじゃない。
市自身の財産。
市の施設。
市の条例。
市の予算。
市の契約。
そこには、
市議会の権限が残っている。
「高梨議員」
片桐所長が言いました。
「議会でやることがある」
「はい」
「まず書類の提出を正式に求める」
「はい」
「必要なら検査」
「はい」
「それでも事実が出ないなら」
高梨さんが続けました。
「百条調査権」
「そうだ」
沢渡課長が息を吐きました。
「百条まで持ち出しますか」
「持ち出したのはそっちだ」
相馬先輩が言います。
「『市長が決めた』『国が言ってる』『予算は通った』。三枚も壁を並べたから、一枚ずつ剥がしてるだけだ」
「百条調査は軽々に使うものではありません」
「知ってる」
「関係人の出頭や証言、記録提出まで求め得る強い権限です」
「だから先に普通に出せって言ってんだよ」
静かになりました。
なるほど。
百条調査権。
いきなり振り回す大砲じゃない。
強力だからこそ、
その存在自体が交渉力になる。
議会は調べられる。
執行部が隠そうとしても、
一定の手続を踏めば、
議会として事実を掘れる。
それが分かっているだけで、
役所側の態度も変わる。
「分かりました」
沢渡課長が言いました。
「何をです?」
「会社との協議記録と利用条件案について、議会への説明資料を作ります」
高梨さんが身を乗り出しました。
「全部か」
「少なくとも、議決要否を判断するのに必要な資料は」
「国、県の文書は」
「市の判断部分との関係が分かる範囲で整理します」
「いつまで」
「三日」
「明日」
「無理です」
「二日」
「三日です」
高梨さんが相馬先輩を見ました。
「どうします?」
「何で俺に聞く」
「交渉慣れしてるから」
「三日でいい」
「甘いなあ」
「お前は議員だろ。自分で決めろ」
なんだか急に立場が逆です。
高梨さんは少し考えました。
「では三日後」
「承知しました」
沢渡課長が書類を閉じます。
そして。
「ただし」
「何です?」
「議会にも責任があります」
高梨さんが眉を寄せました。
「予算審議の段階で、事業内容をどこまで確認しましたか」
「……」
「『観光振興なら結構なことだ』で通した議員はいませんでしたか」
「……いました」
「資料を出すのは執行部の責任です」
沢渡課長が言いました。
「しかし、資料を読むのは議会の仕事です」
痛い。
敵なのに、
たまに正論を投げてくる。
「議決権というのは」
沢渡課長が眼鏡を直しました。
「賛成の札を上げる権利ではありません」
高梨さんは何も言いませんでした。
やがて。
「その通りだ」
短く答えました。
三日後。
議会側に出された資料を、
高梨さんが抱えて事務所へ飛び込んできました。
「出ました!」
「何が」
「全部じゃないですけど、かなり」
机の上へ広げます。
会社との協議記録。
施設利用案。
県からの通知。
国の観光振興施策に関する資料。
そして。
東海観光開発との覚書案。
「十年」
私は言いました。
書いてあります。
契約予定期間。
十年間。
市民会館の本館。
原則として事業者の専用利用。
一部市民利用については、
事業者との調整により認める。
「これ」
私は顔を上げました。
「かなり独占的じゃないですか」
「だから言ったろ」
高梨さんが鼻息を荒くします。
「しかも見ろ」
別紙。
国からの文書です。
地域観光拠点の整備を進めること。
地域の実情に応じて民間活力を導入すること。
「東海観光開発の名前」
私は文書をめくりました。
「ないですね」
「ない」
「湖畔市民会館も」
「ない」
「十年間も」
「ない」
「独占利用も」
「ない!」
高梨さんの声が大きくなります。
相馬先輩が耳を塞ぎました。
「うるせえ」
「だって!」
「つまり」
私は整理しました。
「国は観光振興を進めろと言った」
「そう」
「市はそのために湖畔市民会館を使うことにした」
「そう」
「特定会社に十年間、ほぼ独占的に使わせる案を作った」
「そう」
「そこは市の判断」
「そう!」
「声がでかい」
相馬先輩がまた耳を塞ぎます。
片桐所長は覚書案を読みました。
「議決を経る旨の条項はない」
「ありません」
「市長決裁で締結する予定だったか」
「総務課の説明では、そのつもりだったらしいです」
私はぞっとしました。
もし。
新聞記事を見ても、
高梨さんが、
まあ市長が決めたなら。
国の事業なら仕方ない。
予算は通ったし。
そう思っていたら。
このまま進んでいたかもしれない。
「議会は?」
相馬先輩が聞きました。
「臨時の委員会を開きます」
「議決案件として出させる?」
「その方向です」
「他の議員は」
「最初は『国が絡んでるなら仕方ない』って人もいました」
「今は」
「資料見せました」
高梨さんが覚書案を叩きます。
「これ見たら話が違うって」
そして。
「百条調査を求める声も出てます」
「やるのか」
「今はまだ」
高梨さんは少し落ち着いて言いました。
「沢渡課長が追加資料を出すと約束しました。会社選定の経緯も説明するって」
「なら先にそれを聞け」
片桐所長が言いました。
「はい」
「調査権は見せ場のために使うものじゃない」
「分かってます」
「事実を明らかにするために使え」
高梨さんが頷きました。
一週間後。
市議会。
私は傍聴席にいました。
行政書士事務所の見習いが、
なぜここまで入り浸っているのか。
自分でも分かりません。
でも。
見たかったのです。
議会が本当に、
役所の仕事を止められるのか。
議場の正面。
議長席。
その下に市長。
部長。
課長。
沢渡課長もいます。
高梨議員が質問に立ちました。
「湖畔市民会館の長期利用計画について質問します」
声は、
事務所で卓球ラケットを抱えていたときより、
ずっと低く、静かでした。
「市長は、この計画について、国の観光振興方針に沿うものだと説明されています」
「そのとおりです」
市長が答えます。
「では確認します」
高梨さんが資料を持ち上げました。
「国の文書に、東海観光開発株式会社を使用者として指定する記載がありますか」
「ありません」
「湖畔市民会館を使用するよう指定する記載は」
「ありません」
「利用期間を十年とする指示は」
「ありません」
「本館を独占的に利用させるよう指示する記載は」
「ありません」
議場がざわつきました。
「つまり」
高梨さんが言います。
「観光振興を進めるという国の方針と、この具体的な契約内容は別の問題です」
市長が答えます。
「具体的な実施方法については、市において判断したものです」
「ならば市の判断として、地方自治法及び本市条例に従う必要がありますね」
「当然です」
「湖畔市民会館は、本市条例上の重要な公の施設ですね」
「はい」
「今回の案は十年間」
「予定です」
「本館の主要部分を一事業者が専用利用する」
「事業の性質上――」
「長期かつ独占的な利用に該当する可能性は認めますか」
間。
市長が沢渡課長を見る。
沢渡課長が何か小声で伝えました。
「……法制上、議会の議決を要するものとして整理すべきとの報告を受けています」
ざわめき。
私は思わず身を乗り出しました。
高梨さんは続けます。
「では、市長決裁のみで覚書を締結する予定は撤回しますか」
「議会に議案を提出します」
来た。
たった一言。
でも。
大きい。
議案を提出する。
つまり。
市長が一人で決める話ではなくなった。
議会で説明する。
議員が質問する。
賛否を決める。
必要なら修正や再検討を迫る。
市の意思を決める場に、
正式に戻ってきた。
高梨さんは最後に言いました。
「市長」
「はい」
「私は観光振興に反対しているわけではありません」
「承知しています」
「民間企業との連携にも反対していません」
「はい」
「しかし」
高梨さんが議場を見回しました。
「良い政策だから、議会を飛ばしていいとは思いません」
静かになりました。
「議会は行政の邪魔をするためにあるのではありません」
私はその言葉を聞いて、
少しだけ胸が熱くなりました。
「決めるべきことを決めるためにある」
高梨さんは続けました。
「そして、決めたとおりに執行されているか確かめるためにある」
議決権。
監査権。
教科書で並んでいた二つの言葉が、
目の前で一本につながりました。
議会が終わったあと。
市役所の廊下。
高梨さんが出てきました。
「いやあ」
「お疲れさまでした」
「喉乾いた」
「格好いい感想じゃないですね」
「人間そんなもんですよ」
そこへ。
沢渡課長が歩いてきました。
「高梨議員」
「課長」
「追加資料です」
封筒を渡します。
「会社選定の経緯と、改修費の積算」
「ありがとうございます」
「議案提出までに説明会を設けます」
「お願いします」
それだけで終わるかと思ったら。
沢渡課長が私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「先日は妙なことを言いかけましたね」
ぎく。
「何のことです?」
「国と地方は対等だとか」
「……」
聞かれていた。
「未来の夢でも見たんでしょう」
「便利な処理をしないでください」
「今は」
沢渡課長が言いました。
「国と地方の関係は、あなたが思っているほど単純ではありません」
「分かりました」
「国の機関として処理する仕事もある。上の監督を受ける仕事もある」
「はい」
「しかし」
沢渡課長は封筒から手を離しました。
「何でも『国が言ったから』で済むわけでもありません」
私は黙って聞きました。
「市が自分で決めるところには、市の責任がある」
「……はい」
「そして議会の権限もある」
敵なのか先生なのか。
本当に分からない人です。
「課長」
私は聞きました。
「最初から分かってたんじゃないですか」
「何がです?」
「議決が必要になるって」
「契約内容が固まれば、法制担当から指摘が出たでしょう」
「じゃあ何であんなに」
「行政は途中の案まで全部外へ出して仕事をするわけではありません」
「でも今回は」
「議会への説明が遅かった」
あ。
認めた。
「そこは?」
「改善します」
「素直」
「合理的なだけです」
出ました。
沢渡課長の必殺技。
合理的。
「百条調査にならなくて良かったですね」
私が言うと。
沢渡課長は一瞬だけ嫌そうな顔をしました。
「強い権限は、使わずに済むならその方がいい」
「課長でも嫌なんですね」
「証言台に座りたい役人がいると思いますか」
「ちょっと見てみたかったです」
「朝比奈さん」
「冗談です」
その日の夕方。
片桐行政書士事務所。
高梨さんがやって来ました。
例の卓球ラケットを持って。
「また持ってきたんですか」
「会館、まだ使えるんで」
「そうでした」
湖畔市民会館。
計画自体が消えたわけではありません。
東海観光開発との連携も、
観光振興も、
これから議会で審議される。
場合によっては、
十年利用が認められるかもしれない。
条件が変わるかもしれない。
否決されるかもしれない。
まだ結論は出ていません。
でも。
「少なくとも」
高梨さんが言いました。
「市民会館が、知らない間に十年貸し切られることはなくなった」
「はい」
「ちゃんと議会で話します」
「卓球の話も?」
「それはどうかな」
「してくださいよ」
「議場で『週二回の卓球を守れ』って?」
「住民の利用実態として重要です」
「朝比奈さん」
「はい」
「自分が卓球したいだけじゃない?」
「ばれました?」
「お前いつから卓球やってんだ」
相馬先輩が呆れます。
「やってません」
「何で守ろうとしてんだよ」
「何となく」
高梨さんが笑いました。
「今度一緒にやります?」
「いいんですか」
「ラケット貸しますよ」
「行きます」
「仕事しろ」
相馬先輩が即座に言いました。
「終業後です!」
片桐所長は帳簿を閉じました。
「高梨さん」
「はい」
「次は議会の仕事だ」
高梨さんの表情が少し締まります。
「分かっています」
「行政書士が議決するわけじゃない」
「はい」
「議員が決める」
「はい」
「資料を読んでな」
高梨さんが苦笑しました。
「沢渡課長と同じこと言いますね」
「正しいことは誰が言っても同じだ」
そして高梨さんは、
机の上のラケットを手に取りました。
「今回、少し怖かったんですよ」
「何がです?」
「市長が決めたって聞いて」
ラケットの縁を指でなぞります。
「国の事業だって聞いて」
「はい」
「予算も通してたから」
「はい」
「もう自分たちには何もできないんじゃないかって」
私は黙りました。
それ。
少し分かります。
役所の一番上。
その上に県。
さらに国。
大きな文字で、
決定。
方針。
通達。
そう書かれると。
一市民どころか、
議員でも小さく見える。
でも。
「違った」
高梨さんが言いました。
「議会にも、ちゃんと仕事が残ってた」
片桐所長が言います。
「残ってたんじゃない」
「え?」
「最初からある」
高梨さんは少し目を見開きました。
所長は続けません。
いつもそうです。
格好いいことを言ったら、
あとは説明しない。
残りは自分で考えろ方式。
私は今日のことを頭の中で並べました。
議会は、
条例を決める。
予算を決める。
決算を認定する。
重要な公の施設を長期・独占的に使わせるような重要事項も、
法律と条例が求めれば議決する。
そして。
決めたあとも終わらない。
書類を見る。
報告を求める。
検査する。
必要なら監査を求める。
さらに強い必要があれば、
百条調査権で事実を掘る。
私は呟きました。
「議会って」
「何だ」
相馬先輩が聞きます。
「市長に賛成とか反対とか言う場所じゃないんですね」
「今さらか」
「市の意思を決めて、市長の仕事を見張る場所なんだ」
「そういうことだ」
私は少し考えてから言いました。
「今日の教訓」
「勝手に始まったな」
「市長が決めたから終わり、じゃない」
「うん」
「国が言ったから終わり、でもない」
「うん」
「議会が議決すべきことなら、議会を通せ」
「当たり前だ」
「そして議会は」
私は高梨さんのラケットを指しました。
「決めっぱなしにしない」
「何でラケット指すんだよ」
「監視する」
「ラケット関係ねえだろ」
「見張る」
「だからラケットから離れろ」
高梨さんが笑いました。
そのとき。
電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『湖西市議会事務局ですが』
「はい」
『高梨議員はいらっしゃいますか』
私は受話器を押さえました。
「高梨さん。議会事務局です」
「私?」
高梨さんが受話器を受け取ります。
「はい、高梨です。……え?」
顔が変わりました。
「どうしたんです?」
「……副議長が辞任するらしい」
「え?」
「次の本会議で選挙だって」
私は目を瞬きました。
「議会が選ぶんですか」
「そうですよ」
「副議長も?」
「そう」
相馬先輩がにやりとします。
「今度は選挙権だな」
「議会って仕事多い!」
「議長、副議長だけじゃねえぞ」
「まだあるんですか」
「ある」
私は頭を抱えました。
議決権。
選挙権。
監査権。
自律権。
今日ようやく二つが人間の言葉になったと思ったら、
残り二つがこちらを見ています。
「先輩」
「何だ」
「地方自治法って、役所の法律ですよね」
「そうだ」
「何でこんなに議会が出てくるんです?」
片桐所長が答えました。
「市長だけが自治じゃないからだ」
私は止まりました。
なるほど。
地方自治。
その言葉から、
私はずっと役所を想像していました。
市長。
市役所。
行政。
でも。
住民が選んだ議員が集まる議会も、
同じ自治の片方です。
一方が走る。
もう一方が止める。
一方が提案する。
もう一方が決める。
一方が執行する。
もう一方が確かめる。
面倒です。
時間もかかります。
でも。
その面倒を飛ばした瞬間、
自治はたぶん、
一人の判断になってしまう。
窓の外では、
夕暮れの市役所が赤く染まっていました。
あの建物の中で、
市長が仕事をする。
職員が仕事をする。
そしてその隣で、
議会が仕事をする。
どちらか片方だけでは、
市は決まらない。
「高梨さん」
「何です?」
「副議長、立候補します?」
「しませんよ!」
「選挙権の勉強になるのに」
「人を教材にしないでください」
相馬先輩が笑いました。
「こはる、お前が出ろ」
「私、市議じゃありません!」
「じゃあまず選挙に出ろ」
「十八歳です!」
「若いな」
「そこじゃない!」
高梨さんがラケットを肩に担ぎます。
「じゃ、私は帰ります」
「卓球ですか」
「議員会です」
「真面目!」
「一応議員なんで」
扉を開けて、
高梨さんは振り返りました。
「朝比奈さん」
「はい」
「今度、市民会館来てください」
「卓球?」
「そう」
「行きます」
「ちゃんと使用許可取ってね」
「そこから!?」
「役所の施設ですから」
そう言って、
高梨さんは笑いながら帰っていきました。
私は閉まった扉を見ました。
今日覚えたこと。
市長が強くても。
国が強くても。
議会には、
決める権限がある。
調べる権限がある。
そして。
その権限は、
議員が使わなければ紙の上で眠ったままです。
私は机の端に小さく書きました。
――議会は、賛成する場所じゃない。決めて、確かめる場所だ。
「こはる」
「はい」
相馬先輩が新聞を持ち上げました。
「この記事、続報出たら切っとけ」
「はい」
「あと」
「何です?」
「市民会館の卓球」
「はい」
「俺も行く」
「先輩、やりたいんじゃないですか!」
「違う」
「何が違うんです」
「施設利用の実態調査だ」
「絶対嘘です!」
「行政書士は現場が大事なんだろ」
「ラケット持って現場調査する行政書士、初めて見ました!」
奥から片桐所長の声が飛んできました。
「仕事が終わってから行け」
「所長まで!」
「俺も行く」
「全員やりたいだけじゃないですか!」
地方自治法。
議会の権限。
議決。
監査。
百条調査。
難しそうな言葉ばかりです。
でも。
その日の私には、
全部が少しだけ卓球に似て見えました。
市長が打つ。
議会が返す。
議会が打つ。
執行部が返す。
勝ち負けのためじゃない。
球を一方的に打ち込ませないために、
反対側にもラケットがある。
たぶん。
地方自治というのは、
そうやって続く長いラリーなのです。
ただし。
「先輩」
「何だ」
「負けた人がジュースですよ」
「現場調査じゃなかったのか」
「今から私的利用です」
「切り替え早えな」
議会には自律権があります。
そして。
どうやら片桐行政書士事務所にも、
終業後の卓球については、
かなり強力な自律権が認められているようでした。
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