[地方自治法・地方自治体の概要と種類]現場編 「市役所に言っても、うちの仕事じゃありません」の罠。ごみ処理場の向こうにいた“もう一つの地方公共団体”
地図は未来を知りません。
県境も。
市境も。
町の名前も。
紙の上では、ただの線です。
でも。
未来から来た人間だけは、その線の向こう側に、
「政令指定都市」
とか、
「中核市」
とか、
余計な肩書まで見えてしまいます。
そして法律では。
まだ存在しない肩書ほど、
危険なものはありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その朝。
私は机の上に広げた地図を見ていました。
真ん中に湖西市。
東には浜松市。
西へ県境を越えれば、愛知県豊橋市。
「……強い」
「何がだ」
向かいで新聞を読んでいた相馬先輩が言いました。
「湖西市の隣です」
「隣が強いって何だ」
「東が政令指定都市で、西が中核市ですよ」
新聞が止まりました。
「何だそれ」
「え?」
「せいれい……何?」
私は止まりました。
相馬先輩も止まりました。
柱時計だけが、
こち。
こち。
と律儀に昭和六十三年を刻みます。
「……浜松市ですよ?」
「見りゃ分かる」
「政令指定都市の」
「だから何だ、それ」
私はゆっくり顔を上げました。
相馬先輩の顔に、
冗談の気配はありません。
嫌な汗が出ました。
「じゃあ」
私は地図の西側を指します。
「豊橋市は?」
「愛知県豊橋市」
「中核市」
「何だそれ」
「……」
はい。
やりました。
開始三分。
未来人、
地方自治法で正面衝突です。
「うそ」
「何が」
「まだない」
「何がないんだよ」
「その肩書です!」
私は額を押さえました。
そうです。
ここは昭和六十三年。
現代の私にとって、
浜松市といえば政令指定都市。
豊橋市といえば中核市。
それが地理と同じくらい自然に頭へ入っています。
でも。
昭和六十三年の浜松市は、
まだ政令指定都市ではありません。
そもそも現在のような中核市制度も、
まだ存在していない。
「未来ではですね」
「聞いてねえ」
「浜松市はすごく大きくなって、政令指定都市に」
「今の浜松市の話をしろ」
「はい」
「豊橋は」
「豊橋市です」
「それでいい」
「地方自治法、未来人に厳しすぎません?」
「法律は未来のお前に合わせてくれねえよ」
ぐうの音も出ません。
そこへ。
事務所の引き戸が開きました。
「すみません」
入ってきたのは、五十代くらいの女性でした。
紺色のカーディガン。
腕には分厚い書類の束。
「片桐先生はこちらでしょうか」
「私です」
奥から片桐所長が出てきました。
「どうぞ」
女性は椅子へ腰掛けます。
「ごみ焼却場のことで相談したいんです」
私は地図から顔を上げました。
まさか。
今日の地方自治法、
座学だけでは終わらないらしい。
女性は杉山芳江さんと名乗りました。
湖西市内に住んでいます。
家の近くには田畑。
その向こうに小さな丘。
さらに道を東へ行けば浜松市。
西へ抜ければ県境を越えて豊橋市方面。
「この辺なんです」
杉山さんが地図へ赤鉛筆で丸をつけました。
「新しいごみ焼却施設を造るって話が出てまして」
相馬先輩が地図を覗き込みます。
「誰が造る」
「湖西市だと思ってました」
「思ってた?」
「市役所へ聞きに行ったんです」
杉山さんは書類を一枚取り出しました。
「煙は大丈夫なのか。
収集車は一日に何台通るのか。
あの道は子どもの通学路だから、危なくならないのか。
そう聞きました」
「市の返事は?」
「『湖西市単独の事業ではありません』って」
「単独ではない?」
「はい」
杉山さんが次の紙を出します。
そこには、
――湖西・浜松広域衛生施設組合。
という文字。
「浜松市と?」
私が聞きました。
「湖西市が一緒にごみ処理をする組合だそうです」
「……浜松と組合」
つい頭の中で、
政令指定都市。
という文字が光ります。
でも飲み込みました。
今それを口に出したら、
相馬先輩に地図で叩かれる。
「市役所の人は」
杉山さんが続けました。
「『組合の事業ですから、そちらへ聞いてください』と」
「それで組合へ?」
「行きました」
「どこにあるんです?」
「湖西市役所の別館に窓口があります」
「……市役所の中に?」
「はい」
来ました。
地方自治法が受験生を殺しに来る配置です。
「職員も市役所の方が兼ねているそうです」
「やめて」
「え?」
「いえ、杉山さんにじゃありません」
「こはる」
片桐所長が低く言いました。
「黙って聞け」
「はい」
杉山さんはさらに言います。
「管理者も湖西市長さんだそうです」
「同じ人!?」
「朝比奈」
「はい!」
所長に睨まれました。
でも。
これは混乱します。
窓口は市役所。
職員も市役所。
トップも市長。
なのに。
湖西市そのものではない。
「組合では何と?」
相馬先輩が聞きました。
「まだ候補地を検討している段階なので、詳しい説明はできないと」
「候補地?」
「三か所あるそうです」
「浜松市側にも?」
「それが、よく分からないんです」
「資料は?」
「見せてもらえませんでした」
「議会は」
「組合にも議会があるそうです」
私は止まりました。
「あるんですか」
「お前、何で毎回驚くんだ」
相馬先輩が呆れます。
「だって市じゃないですよ?」
「地方公共団体だ」
「……あ」
そこです。
頭の中で、
現代のテキストの図が開きました。
普通地方公共団体。
都道府県。
市町村。
そして。
特別地方公共団体。
「一部事務組合」
私が呟くと、
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
二つ以上の地方公共団体が、
事務の一部を共同して処理する。
たとえば。
ごみ処理。
消防。
水道。
一つの市町村だけで抱えるより、
広い範囲で共同処理した方が合理的な仕事。
そのために作られる地方公共団体。
ただの合同会議ではありません。
独立した法的主体。
「じゃあ」
杉山さんが聞きました。
「湖西市役所の人が『市の事業じゃありません』と言ったのは、本当なんですか」
私は答えかけて。
止まりました。
簡単ではありません。
「湖西市の単独事業じゃない、という意味なら」
私は慎重に言いました。
「間違いではないです」
「じゃあ市は関係ないんですか」
「それも違います」
「どっちなんです?」
「そこを今から整理します」
我ながら、
行政法らしい答えです。
杉山さんは困ったように笑いました。
「役所の人みたい」
「それはちょっと傷つきます」
「こはる」
「すみません」
片桐所長が杉山さんへ聞きました。
「建設そのものに反対ですか」
「いえ」
杉山さんは首を振ります。
「ごみは、どこかで処理しなきゃいけませんから」
「では何を求める」
「説明です」
即答でした。
「どうしてこの場所なのか」
「はい」
「煙はどうなるのか」
「はい」
「収集車はどの道を通るのか」
「はい」
「そして」
杉山さんは少し声を強くしました。
「誰が決めるのか」
その言葉で。
私はペンを止めました。
誰が決める。
これです。
地方自治法で組織を勉強する理由。
役所の名称当てクイズではありません。
誰に権限があるのか。
誰が責任を負うのか。
誰に書類を出すのか。
そこを間違えないため。
「他にも聞きに行きました?」
私は尋ねました。
「浜松市役所にも電話しました」
「何て?」
「『候補地は湖西市内なので、まず湖西側へ』と」
私は眉をひそめました。
「でも組合の構成団体ですよね」
「そう聞いてます」
「じゃあ完全に無関係ではない」
「あと」
杉山さんが言いました。
「豊橋市にも相談した人がいて」
「豊橋?」
「ごみ収集車が県境側の道へ回るんじゃないかって話が出ていて」
「なるほど」
豊橋市は組合の構成団体ではない。
ただし。
道路や生活圏という意味では、
行政区域の線だけで影響が綺麗に止まるとは限りません。
ここでまた。
私の頭の中に、
中核市。
という文字が浮かびました。
危ない。
今の豊橋市は中核市。
でもここでは違う。
「豊橋は中――」
相馬先輩がこちらを見ました。
「何だ」
「……隣の市ですね」
「最初からそう言え」
危なかった。
今日二度目。
未来知識による自爆未遂。
「豊橋市は何て?」
「『愛知県側で具体的な計画があるわけではないので答えられない』と」
なるほど。
湖西へ聞けば組合。
組合へ聞けば未定。
浜松へ聞けば湖西側。
豊橋へ聞けば愛知県側ではない。
私は天井を見ました。
「すごい」
「何がです?」
「責任が県境まで使って逃げていきます」
「こはる」
「はい」
「言葉を選べ」
「はい」
でも。
住民から見れば、
そう感じても仕方ない。
「私」
杉山さんが言いました。
「分からなくなったんです」
「何がです?」
「湖西市に住んでるんだから、湖西市に聞けばいいと思ってました」
「普通はそう思います」
「でも市じゃない」
「はい」
「浜松市も関係してる」
「はい」
「豊橋市の方へ車が流れるかもしれない」
「はい」
「県境もある」
「はい」
杉山さんは紙を握りました。
「じゃあ私たちは、一体どこへ話を持っていけばいいんですか」
その声に、
怒りより先に疲れがありました。
役所を何か所も回った人の声です。
片桐所長が地図を見ます。
湖西。
浜松。
豊橋。
静岡県。
愛知県。
いくつもの境界線。
それから静かに言いました。
「境界線から考えるのをやめましょう」
「え?」
「仕事から考える」
杉山さんが顔を上げました。
「この焼却施設を造る仕事を、誰が持っているのか」
「……はい」
「まずそこを確定します」
杉山さんが帰ったあと。
私は地図をもう一度広げました。
「所長の言った意味、分かりました」
「言ってみろ」
「地図から入ると混乱します」
湖西市。
浜松市。
豊橋市。
静岡県。
愛知県。
県境。
市境。
現代の行政区分。
そこへさらに、
政令指定都市。
中核市。
という未来知識まで乗せてしまう。
「でも」
私は赤鉛筆で組合名を囲みました。
「今回の事業主体が一部事務組合なら、まず見るべきは組合規約」
「そうだ」
「どの地方公共団体が構成員なのか」
「ああ」
「何の事務を共同処理するのか」
「ああ」
「議会はどうなってるか」
「うん」
「管理者は誰か」
「そうだ」
「事務所はどこか」
「そこまで見ろ」
なるほど。
役所の大きさではない。
人口でもない。
未来の肩書でもない。
今。
誰がその仕事をする権限を持っているか。
それが先。
「でも」
私は聞きました。
「浜松市って湖西市より大きいですよね」
「だから?」
「組合の中でも、浜松市の方が上とか」
「ない」
相馬先輩が即答しました。
「ですよね」
「でかい市が、小さい市の上級行政庁になるわけじゃねえ」
「そうですよね」
「人口で役所に上下つけるな」
私は赤面しました。
現代でも当たり前です。
なのに。
浜松市。
政令指定都市。
という未来の肩書を知っているせいで、
無意識に大きな市を上位に置いてしまった。
「湖西市と浜松市は」
私は確認するように言いました。
「別々の普通地方公共団体」
「そうだ」
「組合は、そのどちらとも別の特別地方公共団体」
「そうだ」
「じゃあ三人いる」
「法律上はな」
「役所版の三角関係ですね」
「余計な例えを入れるな」
でも。
頭の中では分かりやすかった。
湖西市。
浜松市。
組合。
それぞれ別法人。
それぞれ別の顔。
「豊橋市は?」
「今回の組合には入ってねえ」
「だから組合の内部では当事者じゃない」
「そうだ」
「でも道路や周辺影響で関係が出るなら、別途協議はあり得る」
「そこは事実を見ろ」
「はい」
行政区域を越えて生活圏は続く。
でも。
法的な主体まで勝手に一つになるわけではない。
ここ。
思った以上に大事です。
「じゃあ」
私は言いました。
「広域連合を――」
「また知らねえ言葉が出たな」
相馬先輩が眉をひそめます。
しまった。
本日三発目。
「未来で使う制度です」
「じゃあしまえ」
「早い!」
「今ないんだろ」
「ないです」
「終わり」
「もう少し興味を持ってくださいよ」
「存在しない制度で杉山さんは救えねえ」
強い。
正論が強い。
私は机へ額をつけました。
現代の地方自治法なら、
一部事務組合。
広域連合。
こうした広域行政の制度を比較して学びます。
でも。
昭和六十三年。
広域連合はまだない。
「だったら今ある仕組みで戦え」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「未来の便利道具を待ってたら、杉山さん何年待つんだ」
「……確かに」
「書類作るぞ」
はい。
時空を超えた制度論より、
今日出せる紙。
行政書士の実務は、
未来人にも容赦なく現実的です。
組合規約を確認しました。
構成団体。
湖西市。
浜松市。
共同処理する事務。
ごみ処理施設の設置及び管理に関する事務。
議会あり。
管理者あり。
組合事務所あり。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「相手は決まった」
「組合」
「ああ」
「浜松市でもなく」
「ああ」
「湖西市でもなく」
「事業そのものについては、まず組合だ」
私は質問書の宛名を書きます。
湖西・浜松広域衛生施設組合 管理者殿。
そこで手が止まりました。
「先輩」
「何だ」
「湖西市長が管理者を兼ねてるなら」
「ああ」
「市長宛てに出すのと同じじゃないんですか」
「違う」
「人は同じですよ」
「帽子が違う」
「帽子」
「市長として受け取るのか。組合管理者として受け取るのか」
私はペンを置きました。
「法律って、同じ人間に何枚帽子かぶせるんです?」
「知らん」
「頭一個しかないですよ」
「法令は頭数で権限分けてねえ」
ひどく正しい。
私は質問書を見直しました。
候補地の選定手順。
候補地の数。
交通量調査の有無。
焼却方式。
周辺道路への影響。
住民説明会。
用地取得の主体。
予算の決定機関。
「豊橋市への影響も入れます?」
「決めつけるな」
相馬先輩が言いました。
「組合が豊橋方面の道路利用を想定してる証拠はあるのか」
「まだありません」
「なら質問にしろ」
「『県境方面を含む搬入経路の検討状況』」
「それでいい」
なるほど。
愛知県だから。
豊橋市だから。
中核市だから。
ではない。
交通経路として関係するのか。
具体的事実から詰める。
「感情じゃなく事実」
「そうだ」
「未来の肩書じゃなく現在の権限」
「そうだ」
「先輩、今日ちょっと先生っぽいですね」
「気のせいだ」
市役所別館。
廊下の突き当たり。
小さなプレート。
――湖西・浜松広域衛生施設組合事務局。
「これですか」
「何が」
「湖西市でも浜松市でもない地方公共団体の入口」
「そうだ」
「小さいなあ」
「声がでかい」
相馬先輩に頭を小突かれました。
受付で名前を告げます。
現れたのは。
「また皆さんですか」
沢渡課長。
「……課長」
「何でしょう」
「何個役所に所属してるんです?」
「質問の意味が分かりません」
「市の総務課長ですよね」
「そうです」
「ここでは?」
「組合事務局次長を兼ねています」
やっぱり。
「人間一人に肩書を詰め込みすぎです」
「朝比奈さん」
「はい」
「地方公共団体の制度への苦情なら、私ではなく立法者へどうぞ」
「届かない相手を紹介しないでください」
会議室へ通されました。
相馬先輩が質問書を机へ置きます。
「杉山芳江さんほか十三名」
「焼却施設の件ですね」
「ああ」
「市の方にも相談がありました」
「そこで『組合の仕事だ』って返したらしいな」
「事業主体は組合ですから」
「そこは否定してねえ」
相馬先輩が言いました。
「だから今日は組合へ来た」
沢渡課長の視線が書類へ落ちました。
「正式な質問書?」
「それと住民説明会開催要望書」
「……なるほど」
「組合議会宛ての陳情書案もある」
「準備がいいですね」
「仕事だからな」
私は少し胸を張りました。
今回は、
未来制度を一枚も混ぜていません。
「課長」
私が言いました。
「確認します」
「どうぞ」
「この焼却施設の事業主体は?」
「組合です」
「候補地を比較しているのも」
「組合です」
「施設を建設するなら」
「組合事業になります」
「用地取得は」
「最終的な計画によりますが、組合が主体となることを想定しています」
「予算は」
「組合議会です」
「つまり」
私は質問書を指しました。
「これについて答える相手は、湖西市役所でも浜松市役所でもなく」
「組合です」
沢渡課長が答えました。
よし。
住所が決まった。
「では」
私は紙を差し出しました。
「組合として受け取ってください」
「受領します」
「市の総務課長としてじゃなく」
「今日は組合事務局次長として」
同じ人なのに。
やっぱり帽子が違う。
法律は見た目で判断してはいけません。
「それと」
私は地図を広げました。
「浜松市側の扱いについて聞きます」
「何でしょう」
「住民が浜松市へ問い合わせたところ、『候補地は湖西側だから湖西へ』という説明を受けています」
沢渡課長が少し眉を寄せました。
「どの部署です」
「こちらです」
メモを渡します。
「この組合、湖西市と浜松市で構成してますよね」
「はい」
「共同処理事務ですよね」
「そうです」
「なら候補地が湖西市内だからといって、浜松市が構成団体として無関係になるわけではない」
「その通りです」
相馬先輩が腕を組みました。
「だったら住民をたらい回しにするな」
「浜松市側の応対については確認します」
「それから豊橋」
私が言うと、
沢渡課長が顔を上げました。
「豊橋市は構成団体ではありません」
「分かってます」
「では?」
「住民側から、県境方面の道路へ収集車が流れるのではないかという懸念が出てます」
「現時点で搬入経路は確定していません」
「なら」
私は質問書を指しました。
「確定していない、と回答してください」
「……」
「豊橋市が関係あると決めつけてません」
「はい」
「逆に、愛知県だから関係ないとも決めつけない」
沢渡課長の視線が少し変わりました。
「道路は県境で消えませんから」
言ってから。
私は今朝の地図を思い出しました。
地図は線を引きます。
でも。
煙。
車。
生活圏。
人の移動。
そういうものまで、
線のところでぴたりと止まるわけではない。
「県境をまたぐ影響が想定される場合」
沢渡課長が言いました。
「必要に応じた調整は検討します」
「誰と?」
「関係自治体、道路管理者その他必要な機関です」
「豊橋市も?」
「必要があれば」
「それを書いてください」
「回答可能な範囲で」
相変わらず固い。
でも。
逃げませんでした。
そこで。
私はふと思いました。
「課長」
「まだありますか」
「ちょっと確認なんですけど」
「はい」
「浜松市って」
相馬先輩がこちらを見ました。
分かってます。
今回は間違えません。
「湖西市より人口が多いですよね」
「そうですね」
「だからって」
私は慎重に言います。
「湖西市より上の地方公共団体になるわけじゃない」
「当然です」
「県でもない」
「もちろん」
「上級行政庁でもない」
「違います」
「ですよね」
沢渡課長が怪訝そうな顔をします。
「何を確認しているんです?」
「自分の頭です」
「そうですか」
「未来だと、浜松市に別の肩書がつくので」
「また未来ですか」
「忘れてください」
沢渡課長が眼鏡を外しました。
「朝比奈さん」
「はい」
「法律上の地位は、今の法律で判断してください」
ぐさ。
沢渡課長にまで言われた。
「今日の私は何人に同じこと言われるんでしょう」
「必要な回数だけでは」
この人、
敵側なのに妙に正論が強い。
「豊橋市もです」
私は続けました。
「今の豊橋市には、現代とは違う肩書しかない」
「今の豊橋市は豊橋市です」
「その説明が一番刺さりますね」
「何の話でしょう」
「未来人の悲哀です」
「存じません」
交渉は一時間近く続きました。
最後に片桐所長が言いました。
「沢渡さん」
「はい」
「住民は建設中止を要求しているわけではない」
「承知しています」
「決まっていないなら、決まっていないと説明すればいい」
「はい」
「検討しているなら、何を検討しているか答えられる範囲で答える」
「はい」
「湖西市、浜松市、組合」
所長は書類を三つに分けました。
「法人が別なら、責任の所在も分ければいい」
「その通りです」
「だが」
所長が沢渡課長を見る。
「別法人であることを、住民を帰すための言葉に使うな」
部屋が静かになりました。
「市の仕事ではない」
「……」
「浜松側ではない」
「……」
「まだ決まっていない」
「……」
「全部、一つずつなら正しいかもしれん」
所長は言いました。
「だが正しい言葉を三つ重ねて、誰も答えないなら」
一拍。
「住民にはただの壁だ」
沢渡課長が眼鏡を掛け直しました。
「……ご指摘は理解しました」
出ました。
沢渡課長語。
かなり前進したときの言葉です。
「質問書は正式に受理します」
「回答期限は」
相馬先輩が聞きます。
「二週間」
「十日」
「十二日」
「十一日」
「また始まった」
私が呟くと、
二人がこちらを見ました。
「十一日で結構です」
沢渡課長が言いました。
また十一日で決着しました。
この事務所、
法的交渉より回答期限の値切りが一番速い。
十一日後。
回答書が届きました。
差出人。
湖西・浜松広域衛生施設組合。
湖西市ではありません。
浜松市でもありません。
組合です。
「来ました」
「読め」
相馬先輩が言います。
私は封を切りました。
候補地。
三か所。
うち湖西市内二か所。
浜松市側一か所。
「浜松側にもあったんだ」
「ああ」
比較項目。
用地取得費。
周辺道路。
煙突配置。
収集運搬距離。
周辺環境。
そして。
搬入道路について。
県境方面を含め、
複数経路を検討中。
必要が生じた場合には、
豊橋市を含む関係機関との協議を行う。
「豊橋も出てきました」
「中核何とか言うなよ」
「言いません!」
さらに。
組合議会へ基本計画案を報告する前に、
候補地周辺住民を対象とした説明会を開く。
「やるって」
「何を」
「説明会です」
「そうか」
「湖西側だけじゃない」
回答書には、
候補地ごとに開催。
とあります。
「浜松市側でも」
「ああ」
「行政区域で説明を切らなかった」
「共同事業だからな」
私は最後まで読みました。
施設が消えたわけではない。
杉山さんの近くが候補地から外れたわけでもない。
でも。
分からなかったものが、
少し見えました。
誰が比較しているか。
候補地はいくつか。
議会はどこか。
県境方面への影響はどう考えるか。
誰が答えるのか。
「一歩ですね」
「ああ」
片桐所長が言いました。
「一歩でいい」
午後。
杉山さんが事務所へ来ました。
「説明会の案内、届きました」
「いつです?」
「来月十四日です」
「組合から?」
「はい」
封筒を見る。
湖西・浜松広域衛生施設組合。
「不思議ねえ」
杉山さんが言いました。
「何がです?」
「最初はずっと湖西市の話だと思っていたの」
「はい」
「次に浜松市の話も出てきて」
「はい」
「豊橋の名前まで出てきて」
「はい」
「もう訳が分からなくなったけど」
杉山さんは案内を見ました。
「結局、焼却場を造る仕事をしているところへ聞けばよかったんですね」
「そういうことです」
地図の上では、
湖西市。
浜松市。
豊橋市。
三つ並びます。
現代の私なら、
そこへさらに。
政令指定都市。
中核市。
県境。
そういう肩書を勝手に足してしまう。
でも。
昭和六十三年の事件を解くのに必要だったのは、
未来の分類ではありませんでした。
今。
その仕事を誰が持っているのか。
それだけ。
「浜松市の方が大きいから」
杉山さんが言いました。
「浜松市が決めてるのかと思ってました」
「私も一瞬そういう感覚になりました」
「違うんですね」
「違います」
大きい市。
小さい市。
人口が多い。
少ない。
それで地方公共団体の上下関係が決まるわけではない。
「湖西市も浜松市も」
私は言いました。
「それぞれ別の地方公共団体です」
「はい」
「今回の仕事は、その二つが共同で作った組合がやっている」
「はい」
「だから組合に聞く」
「分かりました」
「豊橋市は今回、その組合には入ってない」
「はい」
「でも実際に豊橋市側へ影響が出るなら、その部分では関係してくる可能性がある」
杉山さんはしばらく地図を見ていました。
「法律って」
「はい」
「地図みたいですね」
私は少し驚きました。
「どういう意味です?」
「線をちゃんと見ないと迷う」
なるほど。
でも。
私は笑いました。
「たぶん、半分は逆です」
「逆?」
「地図の線だけ見ても迷うんです」
市境。
県境。
それだけでは足りない。
誰が事務を持っているか。
どの団体が主体なのか。
どの議会が決めるのか。
法律上の線も見る。
「二枚重ねるんです」
私は言いました。
「地図と法律を」
杉山さんが笑いました。
「それは難しいわ」
「なので私たちがいます」
言ってから。
また少し格好つけた気がしました。
相馬先輩を見る。
「何ですか」
「別に」
「今笑いました?」
「気のせいだ」
杉山さんが帰ったあと。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
「先輩」
「何だ」
「やっと分かりました」
「何が」
「未来の肩書って、知識がある分だけ危ないですね」
「何の話だ」
「私の中では」
浜松市。
イコール政令指定都市。
豊橋市。
イコール中核市。
ほとんどセットです。
でも。
昭和六十三年には、
そのセットは存在しない。
「今の法律を使わないといけない」
「当たり前だ」
「今の組織を見る」
「ああ」
「今の権限を見る」
「ああ」
「今の制度を見る」
「そうだ」
「未来で何になるかは」
「杉山さんには関係ねえ」
そうなんです。
どれだけ未来を知っていても。
まだ施行されていない法律は、
今日困っている人を救ってくれません。
「じゃあ書きます」
私はノートにペンを走らせました。
――法律では、未来の肩書より、今日の権限を見る。
「短いな」
「成長しました」
「内容は?」
「浜松市が将来政令指定都市になっても、昭和六十三年の事件にその地位を持ち込まない」
「うん」
「豊橋市が将来中核市になっても同じ」
「うん」
「そして市の規模だけで上下関係を決めない」
「そうだ」
「共同処理する事務なら、一部事務組合そのものを見る」
「そこまで分かればいい」
片桐所長が帳簿を閉じました。
私はもう一行書きます。
――行政書士は、地名ではなく法人格と権限に宛名を書く。
「そっちの方がいいな」
相馬先輩が言いました。
「褒めました?」
「気のせいだ」
「今日は二回目です」
夕方。
地図を畳もうとして。
私はもう一度、
湖西市の両隣を見ました。
浜松市。
豊橋市。
私の知っている未来では。
片方は政令指定都市。
片方は中核市。
けれど。
今は昭和六十三年。
未来の肩書を消して見ると、
二つともまず、
それぞれの地域を担う市です。
大きさは違う。
県も違う。
仕事も違う。
でも。
名前の立派さで、
住民に近いか遠いかが決まるわけではない。
地方自治という言葉は。
大きな都市に権限を集めることでも、
小さな自治体が大きな自治体へ従うことでもありません。
地域の仕事を、
誰が担うのか。
どう分けるのか。
必要ならどう共同で処理するのか。
それを法律で決めること。
その線を正しく見つけること。
たぶん。
そこが入口です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「地図、しまえ」
「はい」
「浜松と豊橋に何か書いたか」
「え?」
見る。
浜松市の横に小さく、
未来・政令指定都市。
豊橋市の横には、
未来・中核市。
と鉛筆で書いてあります。
「……勉強用です」
「消せ」
「何でです?」
「明日の仕事で間違える」
「そこまで信用ないですか」
「今日三回間違えかけた」
「数えてたんですか!」
相馬先輩が笑いました。
「未来人、地図にカンニング書くな」
「カンニングじゃありません!」
「今使えねえ知識だろ」
「未来では正しいんです!」
「今は昭和だ」
私は消しゴムを取りました。
浜松市。
政令指定都市。
消す。
豊橋市。
中核市。
消す。
地図には、
ただ二つの市名だけが残りました。
「……何か寂しいですね」
「何がだ」
「肩書がなくなって」
「その方が見やすいだろ」
確かに。
湖西市。
浜松市。
豊橋市。
そして。
湖西・浜松広域衛生施設組合。
今この瞬間に存在するものだけ。
急に、
事件の形がよく見えました。
私はノートの最後に、
今日いちばん短い覚え書きを書きます。
――未来を見るな。今の権限を見ろ。
「先輩」
「何だ」
「今度こそ一行です」
「そうだな」
「どうです?」
「明日まで覚えてろ」
「評価が厳しい!」
窓の外では、
東へ向かう車が浜松方面へ走り、
西へ向かう車は豊橋方面へ消えていきます。
道路は、
市境で止まりません。
人も、
県境で止まりません。
だから行政も、
一つの役所だけでは済まないことがある。
それでも。
誰が何をするかは、
曖昧なままではいけない。
その線を引くのが法律で。
その線を見つけて、
正しい相手へ書類を届けるのが、
私たちの仕事です。
昭和六十三年。
未来の政令指定都市も。
未来の中核市も。
今はまだ、
ただの未来。
今日使える法律は、
今日ここにある法律だけでした。
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