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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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310/616

[損失補償]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、


 事件が終わったあとほど、


 紙が増えます。


 相談中。


 調査中。


 交渉中。


 その間は、


 書類を探し、


 現場へ走り、


 電話をかけ、


 人に会う。


 そして一段落すると、


 今度はそれを整理する。


 つまり。


 事件が終わると暇になる、


 というのは幻想です。


 私の机の上には、


 今井さんの道路拡幅の資料が積まれていました。


 ポラロイド写真。


 道路と店の距離を測ったメモ。


 厨房設備の移設見積書。


 移転候補地の賃料一覧。


 売上帳の写し。


 聞き取り記録。


 そして。


「……これ」


 私は一枚の写真を持ち上げました。


「まだ残すんですか」


「何が」


 向かいの机で相馬先輩が煙草をくわえています。


「先輩の靴が写ってる写真」


「残せ」


「店より靴のほうが目立ってます」


「位置関係が分かる」


「メジャーも写ってます」


「二重に分かる」


「後付けですよね?」


「証拠は多い方がいい」


 便利な言葉だなあ。


 私は写真を封筒へ戻しました。


 そして、


 新しいノートを開きます。


 上に大きく書く。


 ――損失補償。


「今日はこれです」


「勝手にやれ」


「付き合ってください」


「嫌だ」


「所長」


「付き合え」


 奥から片桐所長の声。


 相馬先輩が黙りました。


 今日も権限関係が明確です。


「じゃあまず」


 私はペンを持ちました。


「損失補償とは何か」


 ここからです。


 受験生の頃の私は、


 この単元を最初に見たとき、


 わりと混乱しました。


 国家賠償。


 損失補償。


 どっちも、


 国や自治体からお金をもらう。


 だったら同じようなものじゃないの?


 と。


 もちろん。


 全然違います。


「先輩」


「何だ」


「今井さんの件、市が違法なことしました?」


「道路広げること自体か?」


「はい」


「別に」


「ですよね」


 県道を広げる。


 歩道を造る。


 道路用地を取得する。


 法律に基づいて適正な手続でやるなら、


 それ自体は違法ではない。


 むしろ、


 公共事業として必要なこともあります。


「じゃあ国家賠償じゃない」


「そうだな」


「でも、今井さんは土地を取られる」


「ああ」


「店も後ろへ下げなきゃいけない」


「ああ」


「営業も休まなきゃいけない」


「そうだ」


 私はノートに線を引きました。


 国家賠償。


 違法な公権力の行使による損害を賠償する。


 損失補償。


 適法な公権力の行使によって、


 特定の人に特別な財産上の犠牲を負わせた場合に、


 公平負担の見地からその損失を補償する。


「ここが決定的な違いですね」


 私が言うと、


 片桐所長が頷きました。


「悪いことをしたから払うのが国家賠償」


「雑に言えば、はい」


「悪くなくても、一人に特別な負担をさせたから払うのが損失補償」


「そうです」


 相馬先輩が煙を吐きます。


「道路作るのは悪くねえ」


「はい」


「だが、そのために今井さんだけ店を削られる」


「はい」


「だったら、その犠牲まで本人持ちにするな」


「それが損失補償」


 私は二重線を引きました。


 ――適法でも払う。


 これ、


 損失補償の感覚をつかむには、


 かなり大事です。


 法律というと、


 違法。


 責任。


 故意。


 過失。


 そういう単語が先に出てきます。


 でも損失補償では、


 必ずしも誰かが悪いわけではない。


 むしろ。


 公共のために適法にやる。


 だからこそ。


 その負担を、


 偶然そこに土地を持っていた一人へ集中させていいのか。


 という問題になる。


「これ」


 私は言いました。


「公平負担って言葉が一番しっくりきますね」


「今井さん一人に道路工事代を払わせるな、って話だ」


 相馬先輩が言います。


「そうです」


 もちろん。


 実際に今井さんが道路工事費を払うわけではありません。


 でも。


 補償が不十分なら。


 土地を失う。


 移転費を自分で出す。


 休業損失も自分でかぶる。


 結果として、


 公共事業のためのコストの一部を、


 今井さん一人が負担していることになる。


「それは公平じゃない」


「だから公共の側で埋める」


「はい」


 私は次を書きました。


 ――憲法二十九条三項。


 私有財産は、


 正当な補償の下に、


 これを公共のために用ひることができる。


「根拠はここですね」


「ああ」


「国家賠償には国家賠償法って一般法があります」


「うん」


「でも損失補償には?」


 相馬先輩が少し考えます。


「損失補償法、みたいなのはねえな」


「そうです」


 ここも重要。


 国家賠償には、


 国家賠償法があります。


 でも。


 損失補償について、


 何でもまとめて処理する一般的な『損失補償法』があるわけではない。


 そのため、


 土地収用法。


 都市計画法。


 土地区画整理法。


 その他の個別法。


 そういうところに、


 補償規定が置かれています。


「じゃあ」


 私は自分で問いを出しました。


「個別法に補償規定がなかったら、終わり?」


「終わらん場合もある」


 所長が言います。


「はい」


 憲法二十九条三項。


 そこから直接、


 補償請求が認められる余地がある。


 つまり。


 『個別法に補償条文が見当たりませんでした』


 だから、


 特別の犠牲を負った人は泣き寝入り。


 そう単純ではない。


「憲法が直接出てくるんですね」


「そうだ」


「強いなあ」


「憲法だからな」


 相馬先輩が言いました。


 雑ですが、


 妙に説得力があります。


 私は次の見出しを書きました。


 ――正当な補償。


「ここ、受験生泣かせですよね」


「何でだ」


「正当な補償って、いくらなの問題」


「金額か」


「はい」


 憲法は言います。


 正当な補償。


 でも。


 正当って、


 いくら?


 土地の時価全部?


 少し低くてもいい?


 そこが問題になります。


「大きく言うと」


 私はノートを二つに分けました。


 相当補償説。


 完全補償説。


「まず相当補償」


 昭和二十八年十二月二十三日。


 農地改革に関する最高裁大法廷判決。


 正当な補償とは、


 その当時の経済状態において成立することを考えられる価格に基づき、


 合理的に算出される相当な額。


 そういう考え方。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「必ずしも時価ぴったりじゃなくていい場合がある」


「そうです」


 戦後の農地改革。


 地主の農地を買い上げ、


 小作農へ売り渡して、


 自作農を増やす。


 そういう大規模な社会経済政策の中で、


 補償のあり方が問題になった事件です。


「じゃあ今井さんも安くていいのか」


「そこが違います」


 私は次に書きました。


 完全補償。


 土地収用法に関する、


 昭和四十八年十月十八日の最高裁判決。


 土地が収用される場合、


 収用の前後を通じて、


 被収用者の財産価値を等しくするような補償をすべき。


 金銭で補償するなら、


 近くで同等の代替地を取得できるだけの金額が必要。


「これが」


 私は丸で囲みました。


「完全補償」


「今井さんの話に近いな」


「はい」


 まさに。


 今井さんの店。


 市が、


 道路側二メートルの土地価格だけ払いました。


 終わりです。


 では、


 収用前と収用後の財産状態が同じにならない。


 店の入口が消える。


 駐車スペースも消える。


 建物を後退させる費用が出る。


 厨房設備も動かす。


 営業も休む。


「土地一枚の値段だけ見ても駄目」


「生活と営業にどう影響するかまで見る」


「そうです」


 完全補償というと、


 すごく豪華な補償、


 みたいに聞こえます。


 でも。


 そうじゃない。


 得をさせるわけではない。


 収用前と収用後で、


 財産価値ができるだけ等しくなるようにする。


「プラスにしてくれる制度じゃない」


「ゼロに戻す制度だな」


「それです」


 奪われた価値を、


 埋める。


 公共事業で儲けさせるわけではない。


 でも。


 一人に損を残すのも違う。


 そこが完全補償。


 私は次に、


 補償の方法。


 と書きました。


「原則」


「金だろ」


 相馬先輩が即答。


「正解」


「簡単じゃねえか」


「でも例外があります」


「ほら来た」


 土地収用法では、


 場合によっては代替地の提供による補償も認められる。


 つまり。


 必ず現金だけではない。


「今井さんだったら」


 私は考えます。


「同じくらいの立地の土地を代わりに用意してもらう、みたいな方法があり得る」


「制度上はな」


「ただ実際は土地の条件が違いますからね」


「駅からの距離」


「客の動線」


「駐車場」


「家賃」


「近隣関係」


「全部違う」


 だからこそ、


 同等の代替地。


 というのは言葉以上に難しい。


 現場へ行かないと分からない。


 また、


 ここに戻ってきます。


 次。


 私は大きく書きました。


 ――付随的損失。


「今井さんの事件では、ここが一番見えましたね」


「土地以外の分か」


「はい」


 収用された土地の価格だけでは、


 補償として足りない場合があります。


 その土地で店をやっていた。


 建物がある。


 設備がある。


 移転する。


 休業する。


 客を失う。


「だから」


 私は書きました。


 移転費。


 建物移転費。


 設備移設費。


 営業上の損失。


 休業損失。


 その他、


 土地収用に通常伴う財産的な損失。


「こういうのも補償対象になり得る」


「ああ」


「ただし」


 今度は私が言いました。


 相馬先輩が笑います。


「沢渡みたいになってきたな」


「嫌な比較しないでください」


 でも重要です。


 何でも補償されるわけじゃない。


 土地を取られて悲しい。


 思い出がある。


 常連さんと離れるのがつらい。


 そういう感情が切実でも、


 それが全部、


 財産的補償の対象になるとは限らない。


「損失補償は」


 私は言います。


「特別の犠牲に対する財産的補償です」


「慰謝料みたいな話とは違う」


「はい」


 もちろん、


 個別制度や事案によって補償対象は細かく変わる。


 でも大枠では、


 公共のために財産上の特別な犠牲を負わせた。


 だから、


 その財産的損失を公平に埋める。


「今井さんの休業損失も」


「数字で出せたからな」


「そこです」


 売上帳。


 過去三年。


 一日平均。


 季節差。


 営業日。


 原価。


 必要な休業期間。


 そういう証拠があったから、


 ただの、


 『たぶん困ります』


 ではなくなった。


「法律は同じでも」


 私は言いました。


「証明できなきゃ、金額にならない」


「当たり前だ」


「現代なら売上データもパソコンで――」


「また未来か」


「すみません」


 でも、


 ここは本当に重要。


 損失補償の条文や判例を知っていても、


 何をいくら失うのか。


 現場で証明できなければ、


 交渉では弱い。


 特に昭和。


 スマホなし。


 写真は一枚ずつ。


 図面は手書き。


 聞き取りも足。


 売上帳も紙。


「法律が変わってないのに」


 私は言いました。


「実務の難易度だけ違いすぎますよ」


「だから法律家は現場を見る」


 片桐所長。


 今日も短い。


「条文は机にある」


「はい」


「損失は現場にある」


 私は少し黙って、


 そのままノートに書きました。


 ――条文は机にある。損失は現場にある。


「所長」


「何だ」


「今の、かなり良いです」


「そうか」


「一行の覚え書きに使えそう」


「好きにしろ」


 相馬先輩が言いました。


「今日の最後に取っとけ」


「先に言わないでください」


 私はページをめくりました。


 次は、


 損失補償の要件。


「ここが難しいですね」


「土地取られたら全部補償じゃねえのか」


「土地を実際に取得されるような場合は分かりやすいです」


「じゃあ違う場合か」


「はい」


 行政による財産権への制約。


 でも。


 どんな制約でも補償が必要になるわけじゃない。


 社会生活をしていれば、


 ある程度の規制は受ける。


 建築規制。


 土地利用規制。


 環境規制。


 営業規制。


 全部について、


 『財産権が制限された。金を払え』


 では、


 行政は何もできなくなります。


「だから」


 私は二つ書きました。


 一。


 特定の人に制限を課すものか。


 二。


 受忍限度を超えた制約か。


「形式的基準と実質的基準」


「そこまで覚えるのか」


「試験ですから」


 特定の人に負担が集中しているか。


 つまり、


 一般人みんなが負担する社会的制約ではなく、


 一部の人だけに特別に負わせているか。


 これが形式的な側面。


 そして。


 その制限が、


 社会生活上当然に我慢すべき範囲を超えているか。


 これが実質的な側面。


「今井さんは?」


 相馬先輩が聞きます。


「かなり分かりやすいです」


「なぜ」


「道路沿いの特定の土地を実際に取得される」


「うん」


「店を後退させなきゃならない」


「うん」


「営業も止まる」


「うん」


「一般市民みんなが同じように負担しているわけじゃない」


「そうだな」


「しかも、店の土地を失うのは『ちょっと不便だけど我慢してね』のレベルじゃない」


「つまり」


「特別の犠牲です」


 私は二重線。


 ――特別の犠牲。


 ここが損失補償の核心です。


「逆に」


 私は例を出しました。


「道路が広がって、交通量が少し増えました」


「うん」


「前より車の音が少しうるさくなりました」


「うん」


「それだけで全員が補償されるわけじゃない」


「一般的に我慢する範囲ならな」


「はい」


 どこからが、


 社会生活上当然に受忍すべき制約で、


 どこからが、


 個人に特別の犠牲を負わせるものか。


 境界は簡単ではない。


「だから判例が積み上がる」


「そうだ」


 平成十七年十一月一日の最高裁判決でも、


 一般的に当然に受忍すべき制限の範囲を超えて、


 特別の犠牲を課されたとまでは言い難いとして、


 憲法二十九条三項を直接根拠とする補償請求を認めませんでした。


「平成?」


 相馬先輩が言います。


「あ」


 やった。


 未来判例。


「……今のなしです」


「未来の裁判所の話か」


「はい」


「便利だな」


「でも今の事件には使えません」


「当たり前だ」


 ここが転生者の悲しいところです。


 未来の判例を知っていても、


 昭和六十三年にはまだ存在していない。


 現場でそのまま引用できない。


「ただ」


 私は言いました。


「考え方としては整理に使えます」


「どういう」


「一般的な社会的制約を超えてるか」


「うん」


「一部の人に負担が集中してるか」


「うん」


「そういう見方」


 所長が言いました。


「今使える法と判例で組み立てろ」


「はい」


 未来知識、


 カンニングには使えない。


 でも理解の補助輪にはなる。


 私は一度、


 ノートを閉じかけました。


「終わりか」


「まだです」


「長いな」


「訴訟があります」


「行政書士が裁判するのか」


「しません」


 ここ。


 絶対に間違えてはいけません。


 行政書士は、


 訴訟代理人として裁判所で国や自治体と戦うことはできない。


 今回、


 片桐事務所がやったことも、


 裁判を代理したわけではありません。


 事実を集める。


 資料を整理する。


 補償の根拠を整理する。


 請求書を作る。


 行政側と任意の話し合いをする。


 必要なら、


 弁護士へ資料を整えて渡す。


「そこで」


 私はノートに書きました。


 損失補償を裁判で請求する場合の訴訟類型。


「ここ、二つあります」


「また二つか」


「行政法は分類が好きなので」


 一つ。


 憲法二十九条三項を直接根拠に、


 国や公共団体へ補償請求をする場合。


「何訴訟だ」


「実質的当事者訴訟」


「名前だけで嫌になるな」


「分かります」


 実質的当事者訴訟。


 公法上の法律関係について、


 当事者同士の権利義務を争う。


 行政庁の処分を取り消してください、


 という取消訴訟とは違う。


 国や自治体に対して、


 私には補償を受ける権利がある。


 だから払ってください。


 そういう公法上の法律関係の訴訟。


「もう一つ」


 土地収用において、


 補償額をもっと増やしてほしい。


 そういう場合。


 法律の定めによって、


 収用委員会の裁決そのものを被告にして争うのではなく、


 法律関係の当事者の一方を被告とする。


「形式的当事者訴訟」


「形式と実質」


「はい」


 これ。


 試験だと、


 かなり混ざります。


 実質的当事者訴訟。


 公法上の法律関係そのものを争う。


 形式的当事者訴訟。


 形式上は当事者同士を被告・原告にするけれど、


 実質的には処分や裁決に関係する法律関係を争う。


「土地収用の補償額の増額請求は?」


「形式的当事者訴訟」


「憲法二十九条三項を直接根拠に補償を請求?」


「実質的当事者訴訟」


「おお」


 相馬先輩が少しだけ感心した顔。


「今の、試験で出ます」


「俺は受けねえ」


「毎回それ言いますね」


「事実だからな」


 私はふと、


 国家賠償法のページを開きました。


「そういえば」


「何だ」


「やっぱり国賠法って、昭和から変わってないんですよね」


「さっきも言ってたな」


「行政不服審査法で痛い目を見たので」


 昭和六十三年。


 異議申立て。


 六十日。


 現代の審査請求一本化とは違う。


 そんな世界を歩いていると、


 もう法律を見るたび、


 どうせ今と違うんでしょう?


 という疑いが染みついてきます。


 でも。


 国家賠償法は、


 昭和二十二年制定。


 実質的な改正なし。


 現代でも条文は同じ。


「奇跡です」


「大げさだ」


「未来人に優しい法律」


「知らん」


 ただし。


 今井さんの件をやって、


 私は気づきました。


 法律が同じだからといって、


 実務まで同じではない。


「写真一枚撮るのも重い」


「ああ」


「録音も簡単じゃない」


「ああ」


「道路の距離も自分で測る」


「ああ」


「目撃者や客の話も足で探す」


「ああ」


「売上帳も紙」


「ああ」


「何でも『検索』で出てこない」


「当たり前だ」


「現代ってすごいですね」


「知らねえって」


 つまり。


 条文は同じ。


 考え方も同じ。


 でも。


 それを現場で証明する物理的ハードルが違う。


 昭和では、


 一枚の証拠を取るために、


 一時間歩くこともある。


 一人の証言を取るために、


 何軒も回ることもある。


 今井さんの補償が増えたのは、


 私が、


 憲法二十九条三項。


 と叫んだからではありません。


 店と道路の距離を測った。


 写真を撮った。


 売上帳を整理した。


 厨房移設費を見積もった。


 休業日数の根拠を取った。


 その全部があったからです。


「所長」


 私は言いました。


「法律を知ってるだけじゃ、全然足りませんね」


「今さらか」


「今さらです」


「覚えろ」


「はい」


 試験勉強では、


 正しい肢を選べば一点。


 でも実務では。


 正しい法理を知っていても、


 事実を証明できなければ、


 その一点が取れない。


 むしろ、


 依頼者の生活がかかっている。


 私は最後に、


 今井さんの件を一つずつ振り返りました。


 道路拡幅。


 適法。


 だから国家賠償ではない。


 しかし。


 今井さんの土地の一部が取られる。


 店を後退させる。


 設備を動かす。


 休業する。


 これは、


 公共のために、


 特定の個人へ集中して課される財産上の犠牲。


 だから。


 公平負担の見地から、


 損失補償。


 根拠。


 憲法二十九条三項。


 補償は、


 正当でなければならない。


 土地収用では完全補償が求められ、


 収用前後で財産価値を等しくすることが基本。


 土地代だけでなく、


 必要な移転費や営業上の損失など、


 付随的損失も対象になり得る。


 ただし。


 どんな制約でも補償されるわけではない。


 一般的に受忍すべき社会的制約を超え、


 特定の人に特別の犠牲を課すものか。


 そこを見る。


「まとまったか」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


「一行は」


「今考えてます」


 私はペンを止めました。


 損失補償。


 何と書けば一番忘れないか。


 適法。


 特別犠牲。


 公平負担。


 正当な補償。


 全部入れたい。


「長くなるぞ」


「分かってます」


「一行だろ」


「分かってます!」


 少し考えて。


 書きました。


 ――適法でも、一人に特別な犠牲を背負わせたなら、みんなで埋める。それが損失補償。


 相馬先輩が覗き込みます。


「長い」


「でも覚えやすいです」


「試験直前に読むにはな」


「じゃあ短縮版も」


 その下に書く。


 ――違法なら国賠。適法でも特別犠牲なら補償。


「それでいいだろ」


「でも公平負担が消えた」


「欲張るな」


 私は笑って、


 ノートを閉じました。


 窓の外。


 夕方の道路を、


 古いバスが走っていきます。


 今井さんの店の前の道路も、


 もうすぐ広がる。


 歩道ができる。


 車が通りやすくなる。


 便利になる人は、


 きっとたくさんいる。


 でも。


 その便利さは、


 ただで生まれるわけではない。


 土地を出す人がいる。


 店を動かす人がいる。


 営業を止める人がいる。


 公共の利益という言葉の下には、


 必ず具体的な誰かの負担があります。


 だから法律は、


 公共事業を止めろ、


 とは言わない。


 ただ。


 その負担を、


 一人だけに押しつけるな、


 と言う。


 悪くない行政に、


 払え。


 と言う。


 それは、


 行政を責める制度ではありません。


 公共のための負担を、


 公共の側へ戻す制度です。


 たぶん。


 損失補償という言葉の中で、


 一番大事なのは、


 『損失』ではなく、


 『公平』なのだと思います。


「こはる」


「はい」


 片桐所長が言いました。


「今井さんの写真」


「整理しました」


「番号振ったか」


「……」


「振ってないな」


「今からやります」


 机へ戻る。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 そして。


 例の、


 相馬先輩の革靴が大写しになった写真。


「先輩」


「何だ」


「これ、何番にします?」


「好きにしろ」


「証拠番号七号」


「勝手にしろ」


 私は写真の裏に書きました。


 証拠番号七号。


 道路境界と店舗入口の位置関係。


 撮影日。


 撮影場所。


 撮影者。


 その横に、


 小さく。


 ――相馬先輩の靴写り込み。


「おい」


「何です?」


「余計なこと書くな」


「証拠は正確に」


「消せ」


「客観的事実です」


「朝比奈」


「はい」


「それは受忍限度を超えてる」


「特別の犠牲ですか?」


「俺に対するな」


「では補償請求を」


「却下」


「適法ですか?」


「俺が決めた」


「それ一番危ないやつです!」


 片桐所長が、


 奥で小さくため息をつきました。


「静かにしろ」


「はい」


「はい」


 どうやら。


 片桐行政書士事務所では、


 公共の利益という名の静寂のために、


 私と相馬先輩が負う騒ぎたい欲求の制約は、


 まだまだ一般的に受忍すべき範囲らしいです。


 補償の余地は、


 たぶんありません。

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