[損失補償]現場編 「適法に道路を広げるんだから、賠償なんてありません」の嘘。公共のための特別な犠牲を、一人だけに背負わせない
悪いことをした人が、お金を払う。
それは分かります。
でも。
誰も悪いことをしていないのに、
お金を払わなければならないこともある。
法律というのは、ときどき、
正しいことをする側にも請求書を突きつけます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談者は、
入口から入ってくるなり、
一枚の紙を机へ置きました。
「先生。市役所から、これが来まして」
五十代半ばくらいの男性でした。
日に焼けた顔。
白い調理衣の上から茶色いジャンパーを羽織っています。
名前は、
今井庄吉さん。
駅から少し離れた県道沿いで、
食堂を営んでいるそうです。
食堂といっても、
洒落た店ではありません。
焼き魚。
煮物。
豚汁。
昼の日替わり定食。
運送会社の人や、市役所の現業職員がよく来る。
店の名前は、
――食事処いまい。
なんというか、
ものすごく潔い。
「これです」
今井さんが指した紙には、
道路拡幅事業についての文字が並んでいました。
県道を広げる。
歩道も造る。
そのため、
今井さんの土地の一部を取得したい。
道路側から、
約二メートル。
「二メートルですか」
「はい」
「店まで、今どれくらいあります?」
「道路から?」
「はい」
「三メートルあるかないかです」
私は止まりました。
「……じゃあ二メートル取られたら」
「店の軒先まで、ほとんど残りません」
今井さんが苦笑しました。
「入口も今のままじゃ無理でしょうな」
なるほど。
土地の端をちょっと買われる。
紙の上ではそう見えます。
でも。
現場では、
店がそのまま営業できるかどうか。
話が全然違う。
「市は何て?」
相馬先輩が聞きました。
「土地の分は払うそうです」
「いくら」
今井さんが金額を言いました。
相馬先輩が少し眉を寄せます。
「それだけか」
「はい」
「建物は」
「直接壊す部分だけ見積もるって」
「営業は」
「それを言ったら……」
今井さんは少し言いにくそうに口を閉じました。
「何て言われました?」
私が聞くと、
今井さんは紙を見ながら言いました。
「道路を広げるのは、ちゃんと法律に基づいてやる事業ですからって」
「はい」
「だから、市に落ち度はありません、と」
私は瞬きをしました。
「……それで?」
「市に過失があるわけではないので、損害賠償はできませんって」
あ。
それ。
聞いた瞬間、
頭の中で何かが立ち上がりました。
国家賠償。
損失補償。
似ている。
でも、
全然違う。
「朝比奈」
相馬先輩が私を見ました。
「その顔やめろ」
「どの顔です?」
「問題集で知ってる論点が出た顔」
「出ました」
「やっぱりか」
だって。
これは、
まさに。
「所長」
私は片桐所長を見ました。
「これ、国家賠償じゃないですよね」
「違う」
即答でした。
「ですよね」
「市の道路拡幅自体が適法なら、違法行為による損害賠償の話ではない」
「でも」
私は今井さんの紙を指しました。
「だから何も払わなくていい、にはならない」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
今井さんが私たちを交互に見ます。
「どういうことでしょう」
私は説明しようとして、
一度止まりました。
ここでいきなり、
憲法二十九条三項。
特別犠牲。
完全補償。
などと始めたら、
確実に相談者を置き去りにします。
現場語に翻訳しないと。
「今井さん」
「はい」
「道路を広げること自体は、違法じゃないかもしれません」
「ええ」
「市がわざと今井さんを困らせようとしてるわけでもない」
「それもまあ」
「でも」
私は紙の上を指でなぞりました。
「町のみんなのために道路を広げるのに、その負担を今井さん一人に押しつけるのは別問題です」
今井さんが黙ります。
「土地を取られる」
「はい」
「店の入口が使いにくくなる」
「はい」
「場合によっては建物を移したり、営業を休んだりしなきゃいけない」
「そうなんです」
「それを全部、今井さんだけが我慢しろ、では公平じゃない」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「公共のための事業だからな」
「はい」
「なら、公共のために一人が特別に背負わされる損は、公共の側で埋める」
「それが損失補償です」
今井さんがゆっくり言いました。
「……損害賠償とは違うんですか」
「違います」
「何が」
「損害賠償は、ざっくり言えば違法なことをされて損したとき」
「うん」
「損失補償は、適法なことをされて、それでも特別な犠牲を負わされたとき」
今井さんは少し考えてから、
ぽつりと言いました。
「じゃあ」
「はい」
「市役所の人は嘘を言ったんですか」
「半分だけ正しいです」
私は答えました。
「市に過失がないから国家賠償じゃない、というところは」
「半分は?」
「だから補償も要らない、というところです」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「役所ってのは、言ってないことまで住民が勝手に諦めてくれると楽なんだよ」
「先輩」
「何だ」
「今日ちょっと刺々しいです」
「道路用地で店削られる人の前で丸くなれるか」
なるほど。
今日も口は悪いですが、
方向は住民側です。
その日の午後。
私たちは市役所へ行きました。
総務課。
窓際の机。
そして、
今回も。
「……またですか」
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
こちらを見る顔が、
もはや「驚き」ではなく「また来たか」になっています。
「今井庄吉さん。県道拡幅」
相馬先輩が書類を置きました。
「土地取得の補償について聞きたい」
沢渡課長が紙を確認します。
「ああ。この件は道路課ですね」
「道路課の話を総務で確認したい」
「なぜです」
「『市に過失がないから損害賠償はできない』と言ったらしい」
沢渡課長の視線が止まりました。
「誰がです?」
「担当者だ」
「確認します」
「課長」
私は口を挟みました。
「もちろん損害賠償じゃないですよね」
「……ええ」
さすがです。
話が早い。
「適法な道路事業で土地を取得するなら」
「損失補償の問題です」
「ですよね」
「ただし」
来た。
沢渡課長の、
この「ただし」は強い。
「何でもかんでも補償されるわけではありません」
「分かってます」
「道路が広がることによる一般的な不利益まで、市がすべて補償するわけではない」
「はい」
「事業によって周辺の環境が多少変わる。交通の流れが変わる。そういう社会生活上当然に受忍すべき影響まで、全部金銭評価するわけにはいきません」
そこ。
私は頷きました。
「でも今井さんは、道路沿いの土地を実際に取得される」
「そうです」
「しかも二メートル取られたら、店舗営業に直接影響が出る」
「それは道路課で査定しています」
「土地代だけじゃないですよね」
少し間がありました。
「建物の移転等が必要であれば、その範囲も検討します」
「営業休止は?」
「個別事情によります」
「移転費用は?」
「必要性が認められれば」
「じゃあ」
相馬先輩が低い声で言いました。
「土地の値段だけ払って終わりじゃねえな」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「当然です。ただ――」
「またただし」
私が思わず言うと、
沢渡課長がこちらを見ました。
「何か?」
「いえ」
続けてください。
「補償は、申告された数字をそのまま払う制度ではありません」
「分かっています」
「客が減るかもしれない。売上が落ちるかもしれない。移転が必要かもしれない。そういう推測だけでは算定できない」
そこで。
片桐所長が初めて口を開きました。
「つまり」
「はい」
「証拠を出せと」
沢渡課長が頷きました。
「そういうことです」
出た。
証拠。
法律論が見えてくると、
必ず最後にこいつが立っています。
私はちょっと胸を張りました。
「大丈夫です」
相馬先輩が嫌な顔をしました。
「何が」
「写真を撮ります」
「何で」
「スマ……」
止まる。
危ない。
またやりました。
「……カメラで」
「そりゃそうだろ」
「あと店の前を動画で――」
止まる。
「……撮れませんね」
「何言ってんだお前」
「ドラレコも」
「どら?」
「いえ」
私は額を押さえました。
今、
猛烈に未来へ帰りたい。
現代なら。
スマホを出す。
店の前を何枚も撮る。
入口と道路の距離を動画で残す。
駐車車両の出入りも撮れる。
客の流れも撮れる。
必要なら、
時刻入りで連続撮影。
地図も航空写真もすぐ出せる。
でも。
昭和六十三年。
スマホ。
ない。
ドラレコ。
ない。
Googleマップ。
当然ない。
監視カメラだって、
そこら中にある時代じゃない。
「……地獄だ」
私が呟くと、
相馬先輩が眉をひそめました。
「何がだ」
「証拠集め」
「これからだろ」
「だからです」
片桐所長が立ち上がりました。
「現場へ行くぞ」
「今ですか」
「今見ないでいつ見る」
現場百回。
昭和の実務家、
今日も容赦がありません。
食事処いまい。
午後三時。
昼営業が終わった店の前で、
私はメジャーを持っていました。
「朝比奈」
「はい」
「ゼロずれてる」
「え」
「そこじゃない」
「あ」
「使えねえな」
「現代受験生に測量技能まで求めないでください!」
「何が測量だ。長さ測ってるだけだ」
相馬先輩がメジャーの端を道路境界側に押さえます。
「ほら、引け」
「はい」
店の壁まで。
三メートル十二センチ。
もう一回。
三メートル十一センチ。
「一センチ違います」
「お前が斜めに引くからだ」
「意外と難しい!」
「当たり前だ」
道路から店入口。
道路から軒先。
道路から駐車スペース。
店の間口。
入口の幅。
車一台分の進入角度。
全部測る。
紙に書く。
また測る。
今度は写真。
相馬先輩が持ってきたポラロイドカメラで、
正面。
斜め。
道路側。
店側。
撮る。
じわじわ像が出てくる。
「おお……」
私は思わず見入りました。
「何感動してんだ」
「いや、これ一枚ずつ出てくるんですね」
「当たり前だろ」
「撮り直しが気軽じゃない……」
「フィルム代かかるからな」
現代の連写文化に慣れた人間には、
一枚一枚が重い。
「先輩」
「何だ」
「もう一枚、少し右から」
「必要か」
「道路と入口の位置関係が分かりやすいです」
「なら撮れ」
カシャ。
また一枚。
今井さんが店先で見ています。
「こんなにやるんですね」
「やります」
私は答えました。
「市に『店はそのまま使えるでしょう』って言わせないために」
次。
帳簿。
今井さんに過去三年分の売上帳を出してもらう。
昼と夜。
平日と土曜日。
客数。
仕入れ。
休業日。
「毎日つけてたんですか」
「女房がね」
奥さんが帳面を出してきました。
きれいな字でした。
昭和六十一年。
昭和六十二年。
昭和六十三年。
昼の客数が多い。
とくに十二時から一時。
「車で来る人、多いんですか?」
「半分くらいは」
「駐車場なくなったら?」
「困るでしょうね」
「近くに移れます?」
「空き店舗があれば」
「家賃は?」
「今よりずっと上がるでしょうな」
移転候補地も探す。
近所の不動産屋へ聞く。
同じくらいの店舗。
同じ道路沿い。
同程度の厨房設備。
家賃。
敷金。
改装費。
そして、
移転した場合、
何日営業を止める必要があるか。
「そこまでですか」
私が言うと、
片桐所長が短く答えました。
「そこまでだ」
「土地の代金だけじゃない」
「ああ」
「収用の前と後で」
私は考えながら口にします。
「今井さんの財産的な状態が、なるべく同じになるように考える」
所長がこちらを見ました。
「それだ」
完全補償。
という言葉が頭に浮かびました。
土地収用の補償では、
ただ土地の一平方メートルいくら、
で終わるわけではない。
必要な移転費。
営業上の損失。
そういう付随する損失も、
補償の対象になりうる。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「まだ終わってねえぞ」
「何がです?」
「客」
「客?」
「この店を誰がどう使ってるか」
なるほど。
聞き込み。
出ました。
昭和の最終兵器。
足。
向かいの自転車店。
隣の米屋。
近くの運送会社。
夕方に来る郵便局員。
昼に食べに来る工場勤務の人。
一人ずつ聞きます。
「昼、車停めます?」
「停めるよ」
「店の前に?」
「そう」
「道路が二メートル広がったら?」
「ええ?」
図を見せる。
「こりゃ入れんじゃないか」
別の人。
「この店、移転したら行きます?」
「場所によるなあ」
「歩いて行ける距離なら?」
「それなら」
「駅の反対側なら?」
「わざわざは行かんかな」
また一人。
また一人。
足が痛い。
喉が渇く。
「先輩」
「何だ」
「スマホって偉大ですね」
「また分からんこと言ってるな」
「未来では、こういうの録音もできるんですよ」
「じゃあ未来帰れ」
「帰れないからここにいるんです!」
でも。
不思議でした。
面倒です。
ものすごく面倒。
だけど。
一人ずつ話を聞くと、
店の姿が見えてくる。
昼休みに十分だけ早く抜けて、
焼き魚定食を食べる人。
毎週金曜にカツ丼を頼む運転手。
雨の日だけ豚汁を注文する自転車屋のおじさん。
売上帳の数字には、
ちゃんと人の顔がある。
これが。
営業上の損失。
という言葉の中身なのかもしれない。
三日後。
片桐事務所の机の上には、
資料の山ができていました。
現況図。
測定結果。
ポラロイド写真。
道路拡幅後の想定線。
店舗入口との位置関係。
駐車スペース消失の図。
三年分の売上推移。
移転候補店舗の賃料比較。
厨房設備の移設見積もり。
休業期間の試算。
聞き取り記録。
私はその山を見ながら思いました。
現代なら、
半分くらいはスマホ一台で集まる。
写真。
録音。
地図。
計算。
メモ。
電話。
でも昭和では。
全部、
別々の道具です。
別々の紙です。
そして、
全部足で取りに行きます。
「法律は同じなのに」
私は呟きました。
「何が」
相馬先輩が聞きます。
「いや」
ここでふと思いました。
国家賠償法。
昭和二十二年制定。
ここまで大きな改正なし。
条文は未来でもほぼそのまま。
「そういえば」
「何だ」
「国賠法って、この時代も現代も同じなんですよね」
「何の話だ」
「私ずっと、昭和だからまた条文違うんじゃないかって警戒してたんです」
「お前は何と戦ってるんだ」
「法改正です」
行政不服審査法では痛い目を見ました。
異議申立て。
六十日。
現代知識を持ち込めば事故ります。
だから今回は、
どうせ国賠法も違うんでしょう。
と構えていた。
でも。
ほぼ同じ。
「やった」
「何が」
「法律は変わってない」
「それで喜ぶ奴、初めて見たぞ」
「だって楽じゃないですか!」
ところが。
私は机の上の資料を見る。
「……でも証拠集めが地獄」
「まだ言ってんのか」
「法律が同じでも、現場が違いすぎるんですよ!」
相馬先輩が少し笑いました。
「法律ってのは紙に書いてある」
「はい」
「勝つ材料は現場に落ちてる」
私は黙りました。
それ。
覚えておこう。
翌日。
市役所。
総務課。
沢渡課長の机の前に、
私たちは資料一式を並べました。
「……多いですね」
沢渡課長が言います。
「証拠です」
私はちょっと得意になりました。
「見れば分かります」
「頑張りました」
「聞いてません」
この人、
相変わらずです。
片桐所長が一枚目を出しました。
「現況」
二枚目。
「拡幅後」
三枚目。
「入口」
四枚目。
「車両進入」
五枚目。
「営業実績」
六枚目。
「移転費」
七枚目。
「休業損失」
沢渡課長の顔から、
少しずつ余裕が消えていきます。
「土地を二メートル取る」
所長が言いました。
「それだけなら、土地の価格で話は終わるかもしれない」
沢渡課長は黙って聞いています。
「だが実際は違う」
店の正面に、
拡幅線がかかる。
今の駐車スペースは消える。
入口配置も今のままでは危険。
厨房設備の一部移設が必要。
工事期間中は営業できない可能性が高い。
場合によっては、
店舗そのものを後退させるか、
他へ移らなければならない。
「これを土地代だけで済ませるのは無理だ」
「道路課でも建物補償は検討しています」
「営業損失は」
「査定対象にはなり得ます」
「じゃあ最初からそう説明しろ」
相馬先輩が言いました。
「『市に過失はないから損害賠償できない』だけ言ったら、住民は『金は土地代だけなんだ』と思うだろ」
沢渡課長が少し黙りました。
「担当者の説明は適切ではなかったかもしれません」
「珍しく早いですね」
私が言う。
「朝比奈さん」
「はい」
「今そこを喜ぶところではありません」
「すみません」
所長は続けました。
「これは損害賠償請求ではない」
「ええ」
「道路拡幅が適法であることも争っていない」
「ええ」
「だからこそ補償だ」
沢渡課長が資料へ目を落とします。
「憲法二十九条三項」
私が言いました。
――私有財産は、
正当な補償の下に、
これを公共のために用ひることができる。
公共のため。
そこが大事です。
公共のためなら、
土地を用いることはできる。
でも。
正当な補償の下に。
そこを飛ばしてはいけない。
「今井さん一人に」
私は言いました。
「道路拡幅の費用を、目に見えない形で負担させちゃ駄目ですよね」
「どういう意味です?」
「土地だけ買って、移転費も営業損失も本人持ちにしたら」
一度言葉を選びます。
「道路を造る費用の一部を、今井さんだけが払ってるのと同じです」
沢渡課長が黙りました。
「税金として皆で負担するんじゃなくて」
「……」
「たまたま道路沿いに店を持っていた一人に、何百万円分もの損を押しつける」
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「金額はまだ決まってねえ」
「例です」
「盛るな」
「はい」
でも、
沢渡課長の表情は変わっていました。
感情ではありません。
計算です。
この人は、
市が裁判で負ける可能性。
追加補償額。
事業遅延。
弁護士費用。
住民対応。
そういうものを頭の中で並べている顔です。
「ただ」
沢渡課長が言いました。
「市としても、要求額を無制限に認めるわけにはいきません」
「当然です」
「土地については適正な価格を算定する」
「はい」
「建物移転についても必要かつ相当な範囲」
「はい」
「営業上の損失も、現実に通常生ずると認められる範囲」
「はい」
「感情的な慰謝料のようなものまで補償する制度ではありません」
「それも分かっています」
損失補償は、
かわいそうだから払うお金ではない。
公共のために、
特定の人へ集中した財産的犠牲を、
公平に調整する制度。
「それと」
沢渡課長が資料をめくりました。
「この移転候補地の家賃」
「はい」
「三店舗だけですか」
「今のところ」
「比較が少ない」
くっ。
鋭い。
「あと二件探します」
「厨房移設費も一社見積もりですね」
「もう一社取ります」
「休業期間十日という根拠は」
「設備業者の聞き取りです」
「書面は?」
「取ります」
ぐぬぬ。
正論攻撃。
相馬先輩が横で、
ちょっと笑っています。
「何ですか」
「いや」
「今、笑いました?」
「気のせいだ」
絶対笑いました。
でも。
いい。
ここまで来たら、
穴を全部潰します。
さらに四日。
不動産屋を回る。
設備業者へ行く。
厨房機器メーカーに聞く。
大工さんに見積もりを取る。
営業再開までの日数を書面でもらう。
近隣店舗の地代も調べる。
写真も追加。
メジャーも追加。
聞き取りも追加。
私は途中から、
自分が行政書士受験生なのか、
探偵なのか、
測量助手なのか、
よく分からなくなっていました。
「行政書士って」
私は歩きながら言いました。
「こんなに歩く仕事でしたっけ」
「書類作るのが仕事だ」
相馬先輩が答えます。
「ですよね」
「ただし」
「嫌な予感」
「書類にする事実は、勝手に机まで歩いてこねえ」
「……はい」
昭和の実務、
足腰に厳しい。
一週間後。
再び市役所。
今度の資料は、
前回より厚くなっていました。
片桐所長がまとめた請求書案。
土地。
建物。
移転。
設備。
休業。
営業上の損失。
項目ごとに、
根拠資料を付ける。
その一番上に、
私は短い整理を書きました。
道路拡幅事業そのものの適法性を争うものではない。
しかし、
公共事業のために特定人が特別な財産上の犠牲を負う場合、
正当な補償が必要である。
土地の価値のみならず、
事業に通常伴う移転費用その他の付随的損失についても、
補償対象となるべきものを個別に算定する必要がある。
沢渡課長が、
時間をかけて読みました。
最後まで。
「……分かりました」
その一言に、
私は少し身を乗り出しました。
「認めるんですか」
「全部とは言っていません」
「あ」
「補償項目を再査定します」
「営業損失も?」
「含めます」
「移転費も?」
「必要性を精査した上で」
「建物後退の費用も?」
「道路課と協議します」
相馬先輩が腕を組みました。
「土地代だけで終わらせない」
「ええ」
「それでいい」
沢渡課長が私たちを見ました。
「一つだけ申し上げておきます」
「何です?」
「市が折れたわけではありません」
「そういうことにしておきます」
「朝比奈さん」
「はい」
「補償すべきものを補償するだけです」
私は少し笑いました。
「それが一番いいです」
沢渡課長が、
ほんのわずかに目を細めました。
「どういう意味です?」
「かわいそうだから特別扱いしてもらったんじゃない」
「……」
「法律上、払うべきものだから払ってもらえる」
「そうですね」
「そっちのほうが、今井さんも気持ちいいと思います」
沢渡課長は何も言いませんでした。
でも、
否定もしませんでした。
それから二週間ほどして。
今井さんが事務所へ来ました。
「決まりました」
封筒を持っています。
当初提示より、
補償額は大きく増えていました。
土地部分の補償。
建物の改造・移転関係。
厨房設備の移設費用。
一定期間の休業に伴う損失。
その他、
必要と認められた費用。
もちろん、
こちらが出した額が全部そのまま通ったわけではありません。
削られた項目もあります。
査定額が低くなった部分もある。
それでも。
「これなら」
今井さんが言いました。
「店、後ろへ下げて建て直せそうです」
「移転じゃなくて?」
「土地の奥がまだありますから」
「営業再開できます?」
「一か月くらい休むことにはなります」
「常連さんは?」
「張り紙しときます」
今井さんは笑いました。
「『道路が広がったらまた来てください』って」
その顔を見て、
私は少し安心しました。
道路は広がります。
事業は止まりません。
市役所が悪かった、
という結末でもありません。
誰かが処分されるわけでもない。
訴訟で市を叩きのめすわけでもない。
ただ。
道路を広げる。
町のみんなが便利になる。
バスも通りやすくなる。
歩道もできる。
事故も減るかもしれない。
それは、
たぶん良いことです。
でも。
良いことのためなら、
一人くらい犠牲になっても仕方ない。
法律は、
そこで止まらない。
「今井さん」
「はい」
「市役所、悪いことしてないんですよね」
「まあ、道路広げるだけですからな」
「それでも払う」
「不思議ですな」
「私も最初そう思いました」
悪いから払う。
ではない。
みんなのためにやるからこそ、
一人へ押しつけた損は、
みんなで負担する。
公平負担。
教科書で読むと、
四文字です。
でも現場では、
店の入口だったり、
厨房だったり、
一か月の休業だったり、
毎週カツ丼を食べに来る運転手だったりする。
法律用語は、
現場へ持ってくると急に重くなります。
◇
今井さんが帰ったあと。
私は机の上に残ったポラロイド写真を眺めていました。
道路。
店。
入口。
メジャー。
写真の端には、
相馬先輩の靴まで写っています。
「先輩」
「何だ」
「これ、証拠としてちょっと格好悪くないです?」
「何が」
「足、写ってます」
「場所の大きさが分かるだろ」
「比較対象として?」
「そうだ」
「本当ですか?」
「今考えた」
「最低」
私は写真を机へ戻しました。
「でも」
「何だ」
「法律って、もっと条文で戦うものだと思ってました」
「条文だけで金額出るなら楽だな」
「ですよね」
「憲法二十九条三項読んで、今井さんの休業日数が分かるか?」
「分かりません」
「厨房の移設費は?」
「分かりません」
「店の入口から道路まで何メートルある」
「測らないと分かりません」
「なら」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「現場行け」
片桐所長と同じことを言います。
嫌になります。
たぶん、
正しいから。
そこへ電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
来ました。
「はい」
『今井さんの件ですが』
「何でしょう」
『道路課の担当者に、補償説明の仕方を改めるよう伝えました』
「え?」
『国家賠償と損失補償を混同させる説明は適切ではありませんので』
「おお」
『おお、ではありません』
「すみません」
『それと』
「はい」
『今後の用地取得案件では、土地価格だけでなく、移転その他の補償項目について最初から説明書を渡すことになりました』
私は受話器を持ったまま、
少し黙りました。
「今井さんの件がきっかけですか」
『一因です』
「一因」
『役所は一件で制度を変えたとは言いたがりません』
「今かなり本音が出ましたね」
『忘れてください』
「無理です」
『では』
「課長」
『何でしょう』
「道路、広がったら食べに行きません?」
電話の向こうが静かになりました。
『なぜ私が』
「今井さんの店」
『勤務中に私用で行くわけには』
「昼休みです」
『……』
「日替わり定食、うまいらしいですよ」
『検討します』
切れました。
私は受話器を置きます。
「何だって?」
相馬先輩が聞きました。
「補償説明のやり方、見直すそうです」
「へえ」
「あと沢渡課長、今井さんの店に来るかもしれません」
「何しに」
「日替わり定食」
「お前、何の営業してんだ」
「地域振興です」
「行政書士の仕事じゃねえ」
片桐所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい」
「写真、整理しろ」
「今ですか」
「今井さんの件は終わってない」
「補償決まったじゃないですか」
「工事前の現況資料は保存する」
「まだ証拠?」
「最後までだ」
私は写真の山を見ました。
法律は同じ。
条文も同じ。
でも。
スマホ一つないだけで、
現場はこんなにも重い。
測って。
撮って。
聞いて。
歩いて。
紙にして。
初めて、
「特別な犠牲」
という法律用語が、
誰にも否定できない事実になる。
私はポラロイド写真を一枚ずつ封筒へ入れました。
一枚。
二枚。
三枚。
途中、
相馬先輩の靴が大きく写った写真で手が止まる。
「これ要ります?」
「要る」
「本当に?」
「証拠だ」
「先輩の革靴が?」
「寸法比較だ」
「メジャー写ってますけど」
「念には念を入れろ」
「じゃあ残します」
封筒へ入れる。
公共のため。
正当な補償。
言葉だけなら、
憲法の一行です。
でもその一行の下には、
土地を失う人がいる。
店を休む人がいる。
移転先を探す人がいる。
そして。
町のみんなのために、
その人だけが背負わされそうになった重さを、
少しずつ皆の側へ戻す仕組みがある。
誰かを罰するためじゃない。
誰かを悪者にするためでもない。
正しい公共事業を、
正しい負担の仕方で進めるために。
法律は、
ときどき厳しく、
行政にこう言います。
――あなたが悪くなくても、払うべきものは払いなさい。
私は最後の写真を封筒へ入れました。
「先輩」
「何だ」
「今井さんの店、道路広がったら行きましょうよ」
「奢れ」
「何で私が」
「お前が誘った」
「損失補償してください」
「何の特別犠牲だ」
「先輩と昼飯を食べる精神的負担」
「それは一般的に受忍すべき範囲だ」
「誰が決めたんですか!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「静かにしろ」
「はい」
「はい」
即答。
どうやら。
片桐行政書士事務所における騒音規制については、
補償を求める余地すらなさそうでした。
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