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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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308/618

[国家賠償法6条・相互保証主義]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 法律は同じでも。


 その法律を使えるところまで持っていく道のりは、時代によってまるで違います。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 机の上には、今日も六法。


 ノート。


 赤鉛筆。


 そして。


 なぜか空になったコロッケの箱。


「……先輩」


「何だ」


「まだ言いますけど」


「しつこい」


「所長の分まで食べた件です」


「証拠あんのか」


「その返し、気に入ってますよね」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「今日の事件で学んだだろ」


「だからって日常生活に乱用しないでください」


 私は空箱を端へ押しました。


 そしてノートを開きます。


 上に大きく。


 ――国家賠償法第六条。


 と書きました。


「今日は六条です」


「見りゃ分かる」


「相互保証主義」


「難しそうな名前だな」


「名前は難しいです」


 私はペンを止めました。


「でも、事件にすると意外と単純でした」


 マルコ・ディアスさん。


 外国人留学生。


 市道の穴に自転車の前輪を取られて転倒。


 右腕にひび。


 自転車も破損。


 市は最初、


 大雨で急にできた穴かもしれない。


 発生時期が分からない。


 市に過失はない。


 さらに。


 外国籍なので国家賠償法の適用も検討が必要。


 そう言いました。


「そこで六条」


 私は条文を読みました。


「この法律は、外国人が被害者である場合には、相互の保証があるときに限り、これを適用する」


「短いな」


 相馬先輩が言います。


「はい」


「一行じゃねえか」


「そうなんです」


 たった一行。


 なのに。


 大使館へ電話して。


 外国法を取り寄せて。


 大学教授に確認してもらって。


 過去の賠償例を探して。


 そこまでやって、


 ようやく、


 相互保証がありそうだ。


 と市に突きつけられた。


「条文一行」


 私は言いました。


「実務、数日」


「法律なんてそんなもんだ」


 片桐所長が帳簿を見たまま言いました。


「所長、それ今後も何回でも使えそうな台詞ですね」


「使えるなら使え」


 身も蓋もない。


 でも正しい。


 私はまず、


 ノートに大きく二つ書きました。


 日本人。


 外国人。


「国家賠償法は、日本人だけの法律じゃありません」


「ただし外国人なら条件付き」


「はい」


 ここが六条。


 外国人が被害者の場合。


 無条件で国家賠償法が適用されるわけではない。


 必要なのは、


 相互の保証。


「つまり?」


 相馬先輩が聞きます。


「マルコさんの国で、日本人も同じように国家賠償を受けられるなら」


「日本でもマルコが国賠法を使える」


「基本的にはそういう考え方です」


 私はノートに矢印を書きました。


 外国A。


 日本人が国家賠償を受けられる。


    ↓


 日本。


 外国Aの国民も国家賠償法の適用を受けられる。


「お互い様、ってことか」


「かなり雑に言えば」


「相互保証だからな」


「はい」


 私は丸で囲みました。


 相互。


 片方だけではない。


 日本が外国人に開くなら、


 相手国も日本人に開いていること。


 その関係を見る。


「じゃあ」


 相馬先輩が煙草の灰を落とします。


「相手の国で日本人が一円でも賠償もらえりゃいいのか」


「そこ、簡単に言い切るのは危ないです」


「ほら来た」


「行政法と国賠法は、言い切るとだいたい次の罠があります」


「便利な逃げ方だな」


「違います」


 相互保証があるかどうか。


 これは、


 単に相手国に『国家賠償法』という名前の法律があるかだけではありません。


 日本人について、


 実質的に同種の救済が認められているか。


 そこを見る。


「名前が違ってもいいんです」


「制度の中身を見る」


「そうです」


 政府責任法。


 国家責任法。


 行政賠償制度。


 名称は国によって違う。


 でも、


 公務員の違法行為や、


 公共施設の欠陥などによって、


 外国人が被害を受けた場合に、


 日本人も賠償請求できる制度がある。


 そこが重要になる。


「マルコさんの国では」


 私は言いました。


「外国人を国籍だけで排除する規定がなかった」


「うん」


「日本人への適用も否定されていなかった」


「うん」


「しかも実際に外国人への賠償例があった」


「だから市も相互保証を否定しにくくなった」


「はい」


 ここで私は、


 ノートの端に書きました。


 ――六条は『外国人排除条項』ではない。


「これ」


 相馬先輩が覗き込みます。


「強調するのか」


「かなり大事だと思います」


「どうして」


「最初の市役所の説明みたいに、『外国人だから国賠法は難しい』だけ聞くと」


「門前払いっぽく聞こえるな」


「そうなんです」


 六条の構造は、


 外国人だから駄目。


 ではない。


 外国人の場合は、


 相互保証を確認する。


 それだけ。


 条件を満たせば、


 国家賠償法は適用される。


「つまり」


 私は書きます。


 外国人。


 即アウト。


 ではない。


 相互保証あり。


 適用あり。


「単純だな」


「単純です」


「じゃあ試験も簡単だな」


「そう言って油断すると落ちます」


「何でだよ」


「一行条文ほど、言葉をひっくり返して出してきます」


 たとえば。


 外国人が被害者である場合には、


 国家賠償法は一切適用されない。


 これは誤り。


 相互保証があれば適用される。


 あるいは。


 相互保証がなくても適用される。


 これも誤り。


 六条は条件として相互保証を要求している。


「問題作る側も大変だな」


「受ける側はもっと大変です」


 私は次の見出しを書きました。


 ――一条・二条と六条の関係。


「ここ大事です」


「昨日の道路穴は二条だったな」


「はい」


 国家賠償法一条。


 公務員の職務上の違法行為による損害。


 国家賠償法二条。


 道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理の瑕疵による損害。


 そして六条。


 外国人被害者についての相互保証。


「つまり六条って」


 私は言いました。


「一条や二条とは役割が違うんです」


「どう違う」


「一条・二条は、どういう場合に国や公共団体が賠償責任を負うか」


「うん」


「六条は、被害者が外国人だったとき、その国家賠償法を適用できる条件」


「なるほど」


 相馬先輩が少し考えます。


「六条だけで賠償請求するわけじゃねえ」


「そうです」


 ここ、


 かなり大事です。


 マルコさんが外国人だからといって。


「相互保証がありました」


 だけでは、


 市は賠償責任を負わない。


「道路の穴の管理に瑕疵があったか」


「必要」


「事故との因果関係」


「必要」


「損害」


「必要」


「それに加えて」


「外国人だから六条」


「はい」


 私はノートに四角を書きました。


 マルコさんの事件。


 一、国家賠償法二条の要件。


 二、六条の相互保証。


「両方必要」


 私は二重線。


「六条はパスポート確認係みたいなものか」


「例えが雑」


「でも違うか」


「方向はまあ……」


 私は少し考えました。


「入口の追加条件、くらいですかね」


「外国人の場合だけ増える入口」


「そうです」


 国家賠償法による賠償責任そのものは、


 一条や二条などで判断する。


 六条は、


 外国人被害者について、


 その法律を適用する前提条件を追加している。


「じゃあ」


 相馬先輩が言いました。


「道路に穴がなかったら」


「相互保証があっても負けます」


「穴はあったけど安全上問題なかったら」


「同じです」


「市がちゃんと措置してたら」


「二条の責任が否定される可能性があります」


「相互保証は?」


「それとは別問題」


「なるほど」


 昨日の事件は。


 六条だけでは勝てない。


 二条だけでも、


 外国人である以上、


 六条を無視できない。


 二つを重ねる。


 そこが事件の骨組みでした。


 私は次に書きました。


 ――国家賠償法は昭和と現代で同じ。


「これ」


 私はちょっと嬉しくなりました。


「また言うのか」


「言います」


「そんなに嬉しいのか」


「嬉しいです」


 私は過去の苦労を思い出しました。


 行政不服審査法。


 昭和は異議申立て。


 現代は原則審査請求へ一本化。


 期間も違う。


 審理員もいない。


 行政事件訴訟法も、


 改正前後で気をつけることがある。


 なのに。


 国家賠償法。


「昭和二十二年制定」


「うん」


「そして昭和六十三年でも」


「うん」


「未来でも」


「知らん」


「同じなんです」


「だから未来の話は知らん」


「私が知ってます」


「お前は何者だ」


 そこは流す。


 国家賠償法は、


 制定以来、


 実質的な条文改正を経ず、


 基本的に同じ姿で続いている。


 六条も同じ。


「相互保証主義も変わってない」


「はい」


「だったら未来人のお前は楽だな」


「そう思ったんですよ」


「違った?」


「全然」


 私は即答しました。


 条文は同じ。


 理屈も同じ。


 でも。


 実務の物理的難易度が全然違う。


「昨日の事件」


 私は指を折りました。


「事故現場の写真」


「ポラロイド」


「穴の寸法」


「メジャー」


「位置関係」


「手書き図」


「事故前から穴があった証拠」


「聞き込み」


「市への事前通報」


「魚屋のカレンダー」


「相手国の法律」


「大使館に電話」


「条文」


「郵送」


「翻訳」


「大学教授」


 私は机に突っ伏しました。


「スマホ一台の偉大さが身に染みます」


「スマホって何だ」


「未来の万能板です」


「怪しい宗教みたいに言うな」


「写真撮れて」


「うん」


「動画撮れて」


「うん」


「電話できて」


「電話は今もできる」


「資料検索できて」


「何だそれ」


「外国法まで見つけられる可能性があって」


「そんな板があるか」


「あるんです」


「未来怖えな」


 でも。


 そこで所長が言いました。


「楽になったから、証拠が強くなるとは限らん」


「え?」


「写真が撮れる者が増えれば、写真の量も増える」


「はい」


「だから何を撮るかが大事になる」


「……なるほど」


「道具が便利になっても、見る目まで便利にはならん」


 また。


 刺さる。


 現代ならスマホで百枚撮れる。


 でも。


 穴の全景しか撮っていない。


 深さが分からない。


 位置関係が分からない。


 道路幅が分からない。


 事故直後の状態か不明。


 そんな写真なら、


 枚数が多くても意味は弱い。


「昭和は枚数が少ないから」


 私は言いました。


「逆に一枚を慎重に撮るんですね」


「そうだ」


 ポラロイドフィルムは無料ではありません。


 撮り直しにも限界がある。


 だから。


 穴だけ。


 ではなく。


 穴と道路。


 穴と街灯。


 穴と路肩。


 メジャーを当てた写真。


 撮る意味を考える。


「現場百回って」


 私は呟きました。


「昭和の根性論だと思ってました」


「根性論じゃない」


 所長が言いました。


「情報は現場にある」


「はい」


「机の上にあるのは、現場から持ち帰ったものだけだ」


 なるほど。


 私はページをめくりました。


 ――相互保証は誰が証明するのか。


「ここ、現場で一番しんどかったところです」


「相手国の法律な」


「はい」


 マルコさん自身は、


 自分の国にも賠償制度があると言っていました。


 でも。


 本人がそう言った。


 それだけでは弱い。


「外国法って」


 私は言いました。


「日本の六法に載ってないんですよね」


「当たり前だろ」


「でも受験勉強してると、条文って机の横にあるのが普通なんですよ」


「甘えんな」


「はい」


 外国法。


 これは、


 調べなければならない。


 しかも。


 ただ条文を見つけるだけでは足りない。


 その制度が、


 日本人にも利用できるのか。


 実際の運用はどうか。


 排除規定はないか。


 場合によっては、


 判例や実務も見る。


「今回」


 私は整理しました。


 ラグナ共和国の政府賠償法。


 外国人排除なし。


 日本人も対象。


 賠償実例あり。


 大学教授の確認あり。


「ここまで揃って」


 相馬先輩が言います。


「沢渡も相互保証を否定しにくくなった」


「はい」


「逆に」


 所長が言いました。


「相手国が日本人には賠償を認めないなら」


「日本でもその国の人に国賠法が適用されない可能性がある」


「そういうことだ」


 私は少しペンを止めました。


「これって」


「何だ」


「平等って考えると、ちょっと不思議ですね」


「どういう意味だ」


「事故に遭った本人は、相手国の制度を決めたわけじゃないじゃないですか」


「そうだな」


「なのに、自分の国が日本人をどう扱ってるかで、日本で国賠法を使えるか変わる」


「それが六条だ」


 そう。


 ここは制度政策の話です。


 被害者本人の落ち度ではない。


 でも。


 国家間で相互に同等の扱いを求める。


 その考え方が相互保証主義。


「好き嫌いで覚える条文じゃない」


 所長が言いました。


「はい」


「制度の形として覚えろ」


「はい」


 六条は、


 外国人被害者に対し、


 相互保証を条件に適用を認める。


 それ以上でも、


 それ以下でもない。


 次。


 私は赤線を引きました。


 ――国籍と損害賠償責任は別々に見る。


「マルコさんの事件で、市は最初」


 私は思い出します。


 外国籍であること。


 道路穴の責任。


 この二つを、


 なんとなく一緒に重たく見せていました。


 でも。


 論点は分けるべきです。


 一つ。


 道路管理に瑕疵があるか。


 二つ。


 事故と損害の因果関係があるか。


 三つ。


 損害額はいくらか。


 四つ。


 被害者が外国人なので、相互保証があるか。


「分ければ」


 私は言いました。


「一個ずつ潰せます」


「役所が『外国人だし、穴の原因も分からんし、予算もないし』って全部混ぜてきても」


「一個ずつです」


 相馬先輩が笑いました。


「お前、だいぶ実務屋っぽくなってきたな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれ」


 感情で受けると、


 外国人だから駄目なの?


 差別なの?


 ひどい。


 そういう話になりやすい。


 もちろん、


 不適切な扱いがあれば問題です。


 でも。


 国家賠償法六条という条文が存在する以上、


 外国人被害者について相互保証を確認すること自体は、


 法的に必要な検討です。


「問題は」


 私は言いました。


「確認が必要なのと、門前払いするのは違う」


「そこだ」


 所長が言いました。


 相互保証を調べる。


 その結果、


 ある。


 なら。


 次は普通に一条や二条の責任を検討する。


 そこまで進めなければならない。


「外国人だから難しい」


 で止めるのは雑すぎる。


 外国人だから。


 六条を確認する。


 それが正確です。


 私は次に、


 事故現場の簡単な図を書きました。


 黒い丸。


 道路の穴。


「これ」


 相馬先輩が笑います。


「絵下手だな」


「法律の勉強に画力はいりません」


「現場図には要るぞ」


「ぐ」


 否定できない。


「昨日の事件では」


 私は話を戻します。


「六条がテーマでしたけど」


「実際に市が折れた決定打は?」


「魚屋のカレンダー」


「そこ」


 二条の責任。


 公の営造物。


 市道。


 設置又は管理の瑕疵。


 その判断で重要になったのが、


 事故前から穴が存在したこと。


 市が通報を受けていたこと。


 危険性まで伝えられていたこと。


 それでも応急措置がなかったこと。


「ここで」


 私は所長を見ました。


「国家賠償法二条って無過失責任ですよね」


「一般に、営造物責任は公務員個人の過失を要件とするものではない」


「はい」


「だから『担当者に過失はありません』だけでは逃げられない」


「そうです」


 相馬先輩が口を挟みました。


「役所が予算ねえって泣いても関係ねえ」


「先輩、その台詞好きですね」


「事実だからな」


 道路が、


 通常有すべき安全性を欠いている。


 それが管理の瑕疵。


 その瑕疵で損害が発生した。


 そこを問題にする。


「もちろん」


 私は書きます。


 道路に穴があれば、


 自動的に全部賠償。


 ではない。


 道路の性質。


 場所。


 交通量。


 穴の大きさ。


 深さ。


 見えやすさ。


 発生時期。


 危険回避措置。


 管理状況。


 そういう事情を総合的に見る。


「マルコさんの穴」


「四十八センチ」


「横三十七」


「最大十一」


「事故前一週間以上存在」


「事故五日前に通報」


「応急措置なし」


 私は書きながら、


 少し怖くなりました。


「こうやって並べると、市かなり厳しいですね」


「だから示談になった」


「裁判になれば負ける可能性が高いと判断した」


「そういうことだ」


 ここで。


 行政書士の立ち位置。


 これも大事です。


 私たちは、


 裁判所で代理人として国家賠償請求訴訟を戦わない。


「弁護士ではない」


 所長が言いました。


「はい」


「そこを越えるな」


「はい」


「ただし」


「訴訟になったら何が争点になり、何が証拠になるかを整理することはできる」


「そうだ」


 だから。


 内容証明。


 損害賠償請求書。


 証拠一覧。


 事故現場図。


 診断書。


 領収書。


 外国法資料。


 そこまで揃えて、


 行政に示す。


 そして。


 市が合理的なら。


 敗訴リスクを計算する。


「沢渡課長」


 私は笑いました。


「最後まで感情じゃなくて計算でしたね」


「だから相手しやすい」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「証拠が足りなきゃ折れねえ」


「はい」


「でも証拠が揃えば折れる」


「はい」


「一番面倒なのは、証拠あっても意地で突っぱねる奴だ」


「なるほど」


 沢渡課長は、


 敵役ではある。


 でも。


 無茶な悪役ではない。


 敗訴リスクが高い。


 なら協議する。


 行政として合理的です。


 私はノートに、


 今日いちばん大きな囲みを書きました。


 ――法律は同じ。証明方法が違う。


「これです」


「何が」


「今回いちばんの転生罠」


「また妙な言葉を」


「だってそうなんですよ」


 昭和六十三年と現代。


 国家賠償法六条。


 条文は同じ。


 なのに。


 調査方法が違う。


 現代なら。


 外国法データベース。


 大使館サイト。


 判例検索。


 電子メール。


 PDF。


 オンライン翻訳。


 事故現場なら。


 スマホ。


 動画。


 位置情報。


 ドライブレコーダー。


 防犯カメラ。


 でも昭和は。


 電話。


 郵送。


 図書館。


 大学。


 聞き込み。


 メジャー。


 ポラロイド。


「結局」


 私は言いました。


「未来人の知識があっても、現場では走らないと駄目」


「当たり前だ」


「夢がない」


「仕事に夢求めんな」


「もう少し優しく言ってください」


「じゃあ」


 相馬先輩が煙草をくわえ直しました。


「法律知ってても、靴底減らさなきゃ人は救えねえ」


 私は黙りました。


「……それ、格好いいですね」


「今のなし」


「書きます」


「やめろ」


 私はノートの端に書きました。


 ――靴底を減らせ。


「消せ」


「嫌です」


「こはる」


 所長が言いました。


「覚え書きは一行だろ」


「はい」


 そうでした。


 今日の最後。


 こはるノート。


 一行の覚え書き。


 私は少し考えます。


 六条。


 外国人。


 相互保証。


 そして。


 現場。


 証拠。


「……これかな」


 私は書きました。


 ――外国人だから終わりじゃない。相手国の扉が日本人に開いていれば、日本の国賠法も開く。


 相馬先輩が覗き込みます。


「長い」


「じゃあ短くします」


 書き直す。


 ――外国人は相互保証。国籍で閉じず、相手国の扱いを確かめる。


「うん」


「どうです?」


「まあまあ」


「褒めた」


「気のせいだ」


 私はさらに下へ、


 もう一行書きそうになりました。


 証拠は足で取れ。


「二行目書くなよ」


「見てました?」


「顔で分かる」


「未来では顔認証もあります」


「何の話だ」


「何でもありません」


 窓の外。


 夕方の市道を、


 何台かの自転車が通っていきます。


 マルコさんが転んだ穴は、


 もう応急補修されました。


 アスファルトの色が、


 そこだけ少し新しい。


 事故の跡なんて、


 知らない人が見ればもう分かりません。


 でも。


 あそこには確かに、


 四十八センチ。


 三十七センチ。


 十一センチ。


 の穴がありました。


 事故の五日前には、


 市役所にも知らせてあった。


 それでも直されず、


 一人の若者が転んだ。


 その若者が外国人だった。


 だから六条が出てきた。


 もし日本人だったら、


 六条は問題にならなかった。


 でも。


 道路管理の責任は同じように問われる。


 傷の痛みも、


 治療費も、


 壊れた自転車も、


 国籍で軽くなるわけではない。


 六条は、


 その違いを完全に消す条文ではありません。


 相互保証という条件を置く。


 でも。


 条件を満たした外国人に、


 国家賠償法の道を開く条文でもある。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が言います。


「はい」


「じゃあ帰るぞ」


「待ってください」


「今度は何だ」


 私は空のコロッケ箱を指しました。


「所長の損害について」


「まだやんのか」


「加害者は先輩」


「証拠は」


「状況証拠があります」


「弱い」


「じゃあ相互保証で」


「何と何の相互だよ」


「先輩が所長のコロッケ食べたなら、今度は所長が先輩のおかずを食べていい」


「それは報復だ」


 片桐所長が静かに言いました。


「六条を私刑に使うな」


「はい」


「あと」


「はい」


「相馬」


「何です」


「明日の昼飯」


「はい」


「俺の分も買え」


「何でです?」


「相互の保証だ」


「それ絶対違うでしょう!」


 私が笑うと、


 所長もほんの少しだけ口元を緩めました。


 国家賠償法第六条。


 外国人。


 相互保証。


 条文は昭和から変わらない。


 でも。


 それを一人の救済につなげるまでの道は、


 たぶんこれからも、


 六法の外にあります。


 電話をかける。


 現場へ行く。


 穴を測る。


 人に会う。


 記録を探す。


 相手国の法律を確かめる。


 そして。


 事実を一枚ずつ積み上げる。


 法律は冷たい一行でも。


 その一行を動かすのは、


 いつも誰かの足と手なのです。

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