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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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307/612

[国家賠償法6条・相互保証主義]現場編 「外国人には国賠法は使えません」の嘘。国籍で閉じかけた扉を、相互保証と昭和の証拠でこじ開ける

挿絵(By みてみん)

 国籍は、転んだ人の傷を浅くしてはくれません。


 道路の穴は、


 日本人だけを選んで落とすわけでもありません。


 なのに。


 賠償の話になった瞬間、


 パスポートの表紙が、傷口より先に見られることがあります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の相談者は、右腕を三角巾で吊っていました。


「こちらへ」


 私は椅子を引きました。


「ありがとうございます」


 少したどたどしい日本語。


 でも、十分通じます。


 名前は、


 マルコ・ディアスさん。


 二十四歳。


 ラグナ共和国から来日している留学生でした。


 市内の工業大学で機械工学を学びながら、夕方は駅前の洋食店でアルバイトをしています。


 そのマルコさんが三日前。


 自転車で市道を走っていて転倒しました。


「腕は?」


 片桐所長が聞きます。


「骨、ひびです」


 マルコさんは三角巾を少し持ち上げました。


「自転車も、前の車輪、曲がりました」


「車とぶつかった?」


「いいえ」


「じゃあ、何で転んだ」


「道路です」


「道路?」


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。


 マルコさんは持ってきた紙に、簡単な図を描きました。


 市道。


 側溝。


 商店。


 交差点。


 そして道路の端に、


 黒い丸。


「ここ、穴です」


「穴」


「大きいです。タイヤ、入った」


「夜だった?」


「午後六時くらいです」


「暗かったか」


「少し。でも街灯あります」


 私は図を覗き込みました。


「穴って、どのくらいです?」


「このくらい」


 マルコさんが左手で輪を作りました。


 ……分からない。


 人類はなぜ、穴の大きさを手の輪で表現しがちなのか。


「深さは?」


「分かりません」


「写真は?」


 私は反射的に聞きました。


 マルコさんが首を横に振ります。


「ありません」


「事故直後にスマホで――」


 言いかけて。


 止まりました。


 スマホ。


 ない。


 当然ない。


 昭和六十三年です。


 私は机に額をぶつけそうになりました。


「どうした」


 相馬先輩が言います。


「文明が足りません」


「何言ってんだ」


 現代なら。


 事故直後にスマホで穴を撮る。


 周囲も撮る。


 自転車の損傷も撮る。


 位置情報。


 時刻。


 場合によっては車のドライブレコーダー。


 近所の防犯カメラ。


 SNSに、


『ここ危ない!』


 と誰かが投稿していた可能性まである。


 でも昭和です。


 道路の穴が黙って埋められたら、


 昨日そこに穴があったことさえ証明が難しくなる。


「市役所には言った?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


「何て」


 マルコさんの顔が曇りました。


「昨日、行きました」


「道路課?」


「はい」


「それで?」


「病院のお金、自転車のお金、払ってくださいと言いました」


「うん」


「でも」


 マルコさんは少し迷ってから続けました。


「市、悪くない、と」


「理由は」


「雨です」


「雨?」


「前の日、強い雨。穴できたかもしれない。市は知らなかった。だから仕方ない」


 相馬先輩が鼻で息を吐きました。


「不可抗力ってことか」


「それと」


「まだあるのか」


 マルコさんは鞄から一枚の紙を出しました。


 市役所で渡されたという、簡単な回答書。


 私は受け取って読みます。


 道路損傷の発生時期及び原因は不明。


 事故との因果関係も確認できない。


 市として賠償には応じられない。


 そこまでは、


 まあ、市側が言いそうなことです。


 問題は最後でした。


 ――なお、申出人は外国籍であり、国家賠償法の適用についても別途検討を要する。


「……外国籍」


 私は声に出しました。


「はい」


 マルコさんが苦笑しました。


「日本人だったら違いますか」


 その聞き方が、


 少し痛かった。


「まだ分かりません」


 片桐所長が答えました。


「国籍だけで結論は出ません」


 私は頭の中で、


 国家賠償法。


 国家賠償法。


 外国人。


 外国人。


 と検索します。


 そして。


「あ」


 出てきました。


 第六条。


 相互保証主義。


「こはる」


「はい」


「知ってるか」


「国家賠償法六条です」


 私は答えました。


「外国人が被害者の場合には、相互の保証があるときに限って国家賠償法を適用する」


「そうだ」


 そこで。


 嫌な予感がしました。


 この世界。


 昭和六十三年。


 国家賠償法。


 まさか。


「所長」


「何だ」


「確認ですけど」


「うん」


「昭和の国賠法って、現代と条文違ったり――」


「しない」


「え?」


「国家賠償法は変わってない」


「……え?」


「昭和二十二年から基本的にそのままだ」


 私は固まりました。


 相馬先輩が眉をひそめます。


「何だその顔」


「同じ……?」


「何とだよ」


「いえ」


 私は両手を机につきました。


 同じ。


 国賠法。


 昭和六十三年でも。


 未来でも。


 ほぼそのまま。


「やった……!」


「何がだ」


「時代に裏切られなかった!」


「お前、法律に何を期待してんだ」


 行政不服審査法では、


 異議申立てだ。


 六十日だ。


 審理員なんかいない。


 行政事件訴訟法でも、


 現代とは違う部分にいちいち注意。


 未来人、毎回法改正に殴られる。


 ところが国家賠償法。


 変わっていない。


「同じなんですね」


「しつこい」


「嬉しくて」


「気持ち悪いぞ」


「未来人には大事件なんです」


「未来人じゃねえだろ」


 そこは聞き流します。


 とにかく。


 法理は知っています。


 六条。


 外国人については相互保証。


 つまり。


 マルコさんの国――ラグナ共和国で、


 日本人が同じように公務員の違法行為や公の営造物の欠陥で損害を受けた場合、


 日本人にも賠償請求を認めているなら。


 日本でもラグナ共和国の人に、


 国家賠償法を適用する余地がある。


「じゃあ」


 私はマルコさんに言いました。


「外国人だから駄目、ではありません」


 マルコさんの顔が上がりました。


「本当ですか」


「はい。ただし条件があります」


「条件?」


「マルコさんの国でも、日本人に同じような賠償制度が開かれていること」


 彼は少し考えました。


「あります」


「知ってます?」


「ニュースで、外国人が政府に賠償請求した話、あります」


 私は前のめりになりました。


「それです」


「こはる」


 片桐所長が低い声を出しました。


「はい」


「ニュースで聞いた、は証拠じゃない」


 ぐ。


「はい」


「外国法の条文は」


「……ありません」


「判例は」


「ありません」


「日本人にも適用されると分かる資料は」


「ありません」


 所長はさらに続けました。


「道路の穴は」


「写真ありません」


「寸法」


「ありません」


「いつからあった」


「分かりません」


「市が知っていた証拠」


「ありません」


「事故を見た者」


「まだ確認してません」


 私は沈黙しました。


 完敗。


 法律は知っている。


 しかし。


 証拠がゼロ。


「六条を知っていても」


 所長が言いました。


「相互保証があると証明できなければ意味がない」


「はい」


「二条を知っていても」


「はい」


「道路に瑕疵があったと証明できなければ意味がない」


「……はい」


「法律を知ってることと、勝てることは別だ」


 この人。


 受験生の心に毎回ナイフを刺してくる。


 しかも正論で。


「行くぞ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「どこへ?」


「穴だよ」


 問題の市道は、


 事務所から自転車で十五分ほどの場所でした。


 商店街を抜けた先。


 古い木造住宅と小さな工場が並ぶ道路です。


「……あった」


 私は道路脇でしゃがみ込みました。


 穴。


 ありました。


 アスファルトが円形に崩れています。


 表面だけではありません。


 端の部分が欠け、


 中の砕石まで見えている。


「思ったより深いな」


 相馬先輩が言いました。


「写真」


「持ってきた」


 肩から下げた革のケース。


 ポラロイドカメラ。


 先輩が構える。


 シャッター。


 ジー。


 写真が吐き出されます。


「うわ」


「触るな」


「分かってます」


「振るなよ」


「振りたくなるんですよ」


「何でだ」


「ポラロイドって振りたくなるじゃないですか」


「知らん」


 昭和です。


 本物のポラロイドです。


 ちょっと感動する。


 でも今日は観光ではありません。


「メジャー」


 片桐所長が手を出します。


「はい」


 私は金属製の巻尺を渡しました。


 所長が道路にしゃがみました。


「縦」


「四十八センチ」


 相馬先輩が記録。


「横」


「三十七」


「深さ」


 定規を垂直に入れる。


「深いところで十一センチ」


「十一……」


 自転車の細い前輪なら、


 これはかなり怖い。


「道路幅」


「測ります」


「穴と路肩の位置」


「はい」


「街灯からの距離」


「そこも?」


「暗くて見えなかったと言うなら必要だ」


「はい」


 測る。


 書く。


 撮る。


 また測る。


 道路脇を車が通るたび、


 私たちは端へ避ける。


 暑い。


 埃っぽい。


 腰が痛い。


 現代ならスマホを出して、


 ぱしゃ。


 動画。


 位置情報。


 終了。


 とは言いませんが、


 少なくともだいぶ楽です。


「昭和、証拠一個取るのに重労働すぎません?」


「喋る暇あったら測れ」


「はい」


 相馬先輩、容赦なし。


 すると。


「その穴かい?」


 道路向かいの金物屋から、


 白い前掛けをした男性が出てきました。


 五十代くらい。


「はい」


 相馬先輩がすぐ立ち上がります。


「いつ頃からありました?」


「さあなあ」


 男性が顎を撫でます。


「先週にはあったぞ」


 私は顔を上げました。


「先週?」


「ああ」


「大雨の前ですか?」


「前だよ」


 重要。


「間違いないですか」


「雨の日より前。配達の軽トラが避けてたから覚えてる」


「市役所に連絡した人っています?」


「ああ、それなら」


 男性が店の奥を指しました。


「隣の魚屋の親父が電話したって言ってたな」


 相馬先輩と私の顔が、


 同時にそちらを向きました。


 魚屋。


 聞き込み。


「行くぞ」


「はい」


 魚屋の主人。


 八百屋の奥さん。


 クリーニング店。


 自転車屋。


 一軒ずつ回ります。


 スマホ検索。


 ありません。


 監視カメラ。


 ほぼありません。


 店主が留守なら、


 また来るしかない。


 でも。


 足で回れば、


 出てくるものがあります。


「穴は十日くらい前からあったよ」


「市役所には?」


「俺が電話した」


 魚屋の主人が言いました。


「いつです?」


「事故の五日前」


「誰に?」


「道路課」


「名前は覚えてます?」


「名前まではなあ。でも若い男だった」


「何て伝えました?」


「自転車が引っかかったら危ないぞって」


 私は息を止めました。


 事故の五日前。


 市に通報。


 自転車に危険だとまで伝えている。


「修理には来ました?」


「来てねえ」


「確認には?」


「知らん」


「電話した日、分かります?」


「カレンダーに書いた」


「え?」


 主人は店の奥から、


 壁掛けカレンダーを持ってきました。


 日付の横。


 鉛筆で。


 ――市役所 道路穴 電話。


 書いてある。


 私は危うく拝みそうになりました。


「昭和のログだ……」


「何?」


「いえ。素晴らしい記録です」


「こんなもんでいいのか」


「ものすごく助かります」


 相馬先輩が主人に確認します。


「この記載、あなたが当日書いた?」


「ああ」


「あとで書き足してない?」


「書いとらんよ」


「そのカレンダー、しばらく捨てないでください」


「何だ、裁判でもするのか?」


「しないで済ませるために集めてます」


 先輩が言いました。


 そう。


 私たちは弁護士じゃない。


 国家賠償請求訴訟の代理人として、


 法廷で市と殴り合うことはできません。


 だから。


 殴り合いになる前に、


 相手が殴り合いたくなくなる材料を揃える。


 もし裁判になったら、


 これはまずい。


 そう市に思わせる。


 それが今できる仕事です。


 その日の夕方。


 道路の証拠はかなり揃いました。


 穴の写真。


 寸法。


 位置関係。


 破損した自転車の写真。


 病院の診断書。


 治療費の領収書。


 事故現場を見た人。


 事故前から穴を知っていた人。


 市へ事前通報した人。


「問題は六条ですね」


 私は言いました。


「ああ」


「ラグナ共和国に相互保証があるか」


 相馬先輩が電話帳を開きました。


「大使館」


「東京ですね」


「電話するぞ」


「国際電話じゃないだけ助かります」


 ラグナ共和国大使館。


 電話。


 たらい回し。


 担当者不在。


 折り返し。


 折り返し来ない。


 もう一回。


「メールって偉大だったんだな……」


「また始まった」


「未来の文明に感謝してます」


「今ないものに感謝してどうする」


 翌日。


 ようやく領事部につながりました。


 事情を説明。


 ラグナ共和国の国家賠償制度について、


 政府の違法行為や公共施設の管理欠陥によって外国人が損害を受けた場合、


 日本人を含む外国人にも賠償請求権が認められるか。


 担当者は慎重でした。


『正式な法律解釈は申し上げられません』


 ですよね。


『ただし、外国人について国籍を理由に排除する規定はありません』


 お。


「条文の写しをいただくことはできますか」


『官報掲載の英文があります』


「送っていただけます?」


『郵送になります』


 郵送。


「……何日くらい」


『速達で二日ほどでしょうか』


 二日。


 現代なら添付ファイルで三十秒。


「お願いします」


 私は受話器を置きました。


「二日」


「早い方だろ」


「現代人の感覚だと永遠です」


「お前は何人なんだ」


 二日後。


 届きました。


 ラグナ共和国政府賠償法。


 英文。


「読めるか?」


 相馬先輩が聞きました。


「受験英語なら」


「役に立たねえな」


「これから役立てます!」


 東海道本線で1時間半の静岡大学へ走る。


 国際法を研究している教授を紹介してもらう。


 条文を見てもらう。


 外国人排除規定なし。


 公務員による違法行為。


 公共施設の設置・管理上の欠陥。


 国または地方公共団体に相当する公法人への損害賠償制度。


 さらに教授が、


 過去に日本企業関係者が政府施設の事故について賠償を受けた事例があるという資料まで探してくれました。


「これ」


 私は事務所へ戻り、


 机に資料を積みました。


「かなり強くないですか」


 片桐所長が一枚ずつ見ます。


「外国人も請求可能」


「はい」


「日本人を除外する規定なし」


「はい」


「実際に外国人への賠償事例もある」


「はい」


「翻訳」


「教授に確認してもらいました」


「肩書きと署名は」


「あります」


「よし」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「これで六条は逃げにくいな」


「ですよね」


 私は嬉しくなりました。


 法律は昭和でも同じ。


 六条も同じ。


 相互保証の考え方も同じ。


 なのに。


 ここへたどり着くまで、


 大使館。


 郵便。


 大学教授。


 英文法令。


 聞き込み。


 全部、足です。


「便利な法律ですね」


 私が言うと、


 所長が首を振りました。


「法律は便利じゃない」


「え?」


「使える状態にした人間がいるだけだ」


 ……また。


 そういうことを短く言う。


 ずるい。


 翌週。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、


 私たちが持ってきた資料の山を見て、


 ほんの少しだけ嫌そうな顔をしました。


「多いですね」


「少ないよりいいだろ」


 相馬先輩が言います。


「賠償要求ですか」


「まず協議だ」


 片桐所長が静かに答えました。


 机の上。


 一枚目。


 事故現場図。


 二枚目。


 ポラロイド写真。


 三枚目。


 穴の寸法。


 縦四十八センチ。


 横三十七センチ。


 最大深さ十一センチ。


 四枚目。


 事故前から穴が存在したことについての聞き取り記録。


 五枚目。


 魚屋主人の通報記録。


 事故五日前。


 市道路課へ連絡。


 六枚目。


 診断書。


 七枚目。


 治療費。


 八枚目。


 自転車修理見積書。


 そして。


 九枚目。


 ラグナ共和国政府賠償法。


 英文。


 翻訳。


 大学教授の確認書。


「課長」


 私は言いました。


「前回、外国人なので国家賠償法の適用は別途検討が必要だと言われましたよね」


「ええ」


「検討しました」


「そちらで?」


「そちらがしてくれるのを待つより早いので」


 沢渡課長の眼鏡の奥が少し細くなりました。


「国家賠償法六条」


 私は続けます。


「外国人が被害者の場合、相互の保証があるときに限って国家賠償法が適用される」


「承知しています」


「ラグナ共和国では、外国人を国籍だけで政府賠償制度から排除していません」


 翻訳資料を指します。


「日本人も対象になります」


「それだけで相互保証があると断定できますか」


 来た。


 当然そこを突く。


「断定は最終的に裁判所の判断でしょう」


 片桐所長が言いました。


「ただし」


 もう一枚。


「日本人を含む外国人への賠償実績を確認している」


 沢渡課長が資料を読みます。


 黙る。


 相馬先輩が言いました。


「少なくとも、『外国人だから国賠法は使えない』で追い返せる案件じゃねえ」


「そのような言い方はしていません」


「似たようなもんだろ」


「外国籍なので六条の検討が必要だと申し上げただけです」


「なら検討材料を持ってきた」


 沢渡課長は答えません。


「次」


 相馬先輩が道路の写真を置きました。


「市は、大雨で急に穴ができた可能性がある。発生時期が分からない。不可抗力だと言った」


「ええ」


「外れだ」


 聞き取り記録。


「事故の少なくとも一週間前には穴があった」


 さらに。


 魚屋の主人の記録。


「事故五日前には道路課へ通報済み」


 沢渡課長の指が止まりました。


「この記録は」


「本人が当日カレンダーに書いたものです」


「道路課側の記録は?」


「それを確認するのはそっちの仕事だ」


 相馬先輩が言いました。


「通報者は名前も住所も出してる。照合できる」


「……確認します」


「それから」


 私は事故現場図を開きます。


「穴の大きさと深さ」


 沢渡課長が見る。


「最大十一センチ」


「はい」


「自転車なら危険だと」


「実際、事故が起きています」


「しかし」


 沢渡課長が言いました。


「道路に損傷があるからといって、すべて市の責任になるわけではありません」


「もちろんです」


「予算も人員も限られている。すべての道路損傷を発見した瞬間に補修できるわけではない」


「それも分かります」


「豪雨後なら補修要請も集中する」


「分かってます」


 私は一度息を吸いました。


「でも」


 資料を指しました。


「この穴は事故前からあった」


「……」


「市に通報も入っていた」


「……」


「しかも『自転車が引っかかったら危ない』と具体的に言われている」


 沢渡課長は黙っています。


「その状態で」


 私は続けました。


「何の応急措置もなかったなら」


 穴を埋める。


 カラーコーンを置く。


 標識を出す。


 危険箇所として囲う。


 何かはできたはずです。


「予算がない」


 だから、


 十一センチの穴を放置していい。


 にはならない。


 相馬先輩が煙草を指で回しました。


「課長」


「何でしょう」


「国賠法二条は、『予算が足りませんでした条』じゃねえぞ」


「そのような条文がないことくらい承知しています」


「なら話が早い」


「ただ」


「まだ何か?」


「市としては、道路の設置又は管理に瑕疵があったか、事故との因果関係があるか、損害額が相当か、確認する必要があります」


「確認しろ」


 相馬先輩が即答しました。


「全部材料は出す」


「訴訟をするつもりですか」


 沢渡課長が片桐所長を見ました。


 所長は静かに答えました。


「私たちは訴訟代理人ではない」


「……」


「だから裁判所で市と争うつもりはない」


「では」


「裁判所へ行けば、市がどれだけ危ないかを整理している」


 部屋が静かになりました。


 これです。


 行政書士の戦い。


 判決を取ることではない。


 法廷で尋問することでもない。


 その手前。


 訴訟になれば、


 この証人が出る。


 この写真が出る。


 この通報記録が出る。


 この外国法資料が出る。


 国家賠償法六条の相互保証も争える。


 道路管理の瑕疵も争える。


 損害額も資料化されている。


 だったら。


 市は考えなければならない。


 争って勝てるのか。


 負けたらどうなるのか。


 訴訟費用。


 時間。


 内部調査。


 住民への説明。


 そして。


 事故前に通報を受けていたことが法廷で出たら。


「こちらとしては」


 片桐所長が続けました。


「治療費、自転車修理費、休業分について、まず任意の賠償協議を求める」


「休業分?」


 沢渡課長が資料を見る。


「アルバイトを四日休んでいます」


 私は給与明細と勤務表を出しました。


「勤務先の確認書もあります」


「……ずいぶん揃えましたね」


「昭和なので」


「はい?」


「いえ」


 沢渡課長が私を見る。


「朝比奈さん」


「はい」


「あなたは時々、昭和を悪口のように使いますね」


「便利なんですけど、不便なんです」


「意味が分かりません」


 私にも時々分かりません。


 沢渡課長は資料を閉じました。


「市として確認します」


 相馬先輩が眉を上げます。


「拒否じゃねえんだな」


「この場で拒否も承諾もしません」


「いつ返事を」


「道路課の記録、法務担当、保険関係を確認します」


「外国籍の件は」


「六条についても検討します」


「資料は足りるか」


「現段階では」


 沢渡課長は一度、


 ラグナ共和国の法令資料を見ました。


「少なくとも、国籍だけを理由に門前払いできる案件ではなさそうです」


 私は少しだけ笑いました。


「それが聞ければ、今日は前進です」


「まだ賠償すると言ったわけではありません」


「知ってます」


「国家賠償法は、外国人なら無条件で適用されるわけでもありません」


「それも知ってます」


「相互保証が必要です」


「だから調べました」


 沢渡課長が、


 ほんの少しだけため息をつきました。


「面倒な人たちですね」


 相馬先輩が笑います。


「仕事だからな」


 一週間後。


 市から連絡が来ました。


 マルコさんと一緒に、


 再び総務課へ行きました。


 沢渡課長の机には、


 前回の資料一式がきれいに綴じられていました。


「結論から申し上げます」


 沢渡課長が言いました。


「市は、任意の損害賠償協議に応じます」


 マルコさんが、


 私を見ました。


「払う、ですか?」


「金額についてはこれから調整です」


 沢渡課長が答えます。


「ただし、市道の管理について一定の不備があったことは認めます」


「一定って便利ですね」


 私が言うと、


 相馬先輩に肘で小突かれました。


「黙ってろ」


「はい」


「道路課の記録を確認しました」


 沢渡課長が続けます。


「事故五日前、住民から通報を受けています」


「記録、残ってたんですね」


「簡単なメモですが」


「補修指示は?」


「出ていませんでした」


「理由は」


「豪雨後の補修要請が集中しており、優先順位が後になっていた」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「予算と人員か」


「事実としてそうです」


「でも免責にはならない」


「結果として、何らかの応急措置を検討すべき案件だったと判断しました」


 沢渡課長は淡々としています。


 でも。


 それは市にとって、


 かなり大きな一言でした。


「六条は?」


 私は聞きました。


「法務担当で外務関係資料も含めて確認しました」


「はい」


「ラグナ共和国には、日本人についても同種の政府賠償制度の利用を認める制度があると判断しました」


「つまり」


「相互保証は否定しない」


 マルコさんが、


 ゆっくり息を吐きました。


「よかった」


 本当に、


 小さな声でした。


「マルコさん」


 沢渡課長が言います。


「一点だけ」


「はい」


「最初の対応で、外国籍であることが必要以上に強調されたと感じたのであれば、それは適切ではありませんでした」


 マルコさんは少し驚いた顔をしました。


「六条の確認自体は必要です」


「はい」


「ですが」


 沢渡課長は続けました。


「外国人だから賠償の対象外だと受け取られる説明は、正確ではありません」


 私は横で、


 少しだけ嬉しくなりました。


 そうなんです。


 六条は。


 外国人を排除するためだけの条文ではない。


 相互保証という条件を確認する条文です。


 条件を満たすなら、


 道は開く。


「あと」


 沢渡課長が言いました。


「市内の道路損傷通報の処理方法も見直します」


「え?」


「危険度の記録項目を作る」


「自転車転倒の可能性とか?」


「歩行者、自転車、自動車。それぞれの危険性を記録する案です」


「今回のことで?」


「事故が起きましたから」


「……合理的ですね」


「私はいつも合理的です」


「知ってます」


 この人、


 負けても負けた顔をしません。


 でも。


 たぶんそれでいい。


 行政の仕事は、


 謝って終わりではない。


 次の穴に、


 次の誰かが落ちないようにすることです。


 その日の帰り。


 マルコさんは事務所へ寄りました。


「これ」


 大きな紙袋を差し出します。


「何です?」


「店の人、持っていけって」


 洋食店のコロッケ。


 十個。


 相馬先輩が、


 露骨に嬉しそうな顔をしました。


「分かってるな」


「何がですか」


「差し入れは食い物だ」


「川瀬さんの花のときも同じこと言ってましたよね」


「花は腹に入らん」


「最低」


 マルコさんが笑いました。


「日本人、難しいです」


「相馬先輩を日本人代表にしないでください」


「おい」


 笑いながら、


 マルコさんは三角巾の腕を見ました。


「最初」


「はい」


「外国人だから駄目って言われたと思いました」


 私は答えませんでした。


「日本で事故したから」


 マルコさんは続けます。


「仕方ないかな、と」


「仕方なくないです」


 思ったより強い声が出ました。


「条件があるなら、条件を調べればいいんです」


「相互保証?」


「はい」


「難しい言葉です」


「私も試験では嫌いでした」


「今は?」


 少し考えました。


「今日ちょっと好きになりました」


「どうして?」


「国籍を見て終わる条文じゃなかったからです」


 私は机の上の六法を見ました。


 国家賠償法第六条。


 この法律は、


 外国人が被害者である場合には、


 相互の保証があるときに限り、


 これを適用する。


 短い。


 たった一文。


 でも。


 その一文を現場で使うために、


 大使館へ電話して。


 英文法令を郵送してもらって。


 大学教授に見てもらって。


 道路の穴を測って。


 ポラロイドで撮って。


 魚屋へ行って。


 八百屋へ行って。


 事故を見た人を探して。


 通報のカレンダーを見つけた。


 法律は、


 昭和から未来まで変わっていない。


 なのに。


 それを支える現場は、


 こんなにも違う。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今回、一番役に立ったものは何だ」


「六条です」


「違う」


「え」


「二条?」


「違う」


「判例?」


「違う」


 分からない。


 所長は言いました。


「魚屋のカレンダーだ」


 私は黙りました。


「事故五日前に通報した」


「はい」


「日付が残っていた」


「はい」


「あれがなければ、市は『いつ穴ができたか分からない』で押したかもしれん」


「……はい」


「法律を使える形にするのは、事実だ」


 また。


 受験生の胸に刺さる。


 六法に載っているのは、


 法律です。


 当然です。


 でも。


 事件を動かしたのは。


 穴の十一センチ。


 一枚のポラロイド。


 魚屋の親父さんの鉛筆書き。


 遠い国から届いた外国法の写し。


 そういう、


 六法には一文字も載っていないものばかりでした。


「じゃあ」


 相馬先輩がコロッケを一個取ります。


「勉強だけしてても駄目ってことだ」


「極論にしないでください」


「でもそうだろ」


「法律知らなくても駄目ですよ」


「ああ」


「証拠だけあっても駄目」


「ああ」


「両方要る」


「そういうことだ」


 私はコロッケを一個取りました。


「先輩」


「何だ」


「一人二個までですよ」


「何でだ」


「十個しかないから」


「所長二個、お前二個、俺六個」


「算数からやり直してください」


 マルコさんが吹き出しました。


 窓の外。


 夕方の道路を、


 自転車が一台走っていきます。


 たぶん。


 その人は、


 今日、自分が道路の穴に落ちないことを、


 わざわざ考えてはいません。


 道路は走れて当たり前。


 危険な穴は放置されていない。


 そう信じている。


 日本人でも。


 外国人でも。


 道路は同じです。


 穴も同じです。


 折れる骨も、


 痛みも、


 たぶん同じ。


 法律は、


 人間の違いを見ることがあります。


 国籍。


 立場。


 権限。


 要件。


 全部無視して平等、


 とはいきません。


 国家賠償法六条にも、


 相互保証という条件があります。


 でも。


 条件があることと、


 最初から扉が閉まっていることは違う。


 調べる。


 確かめる。


 証明する。


 そうすれば開く扉がある。


「朝比奈さん」


 マルコさんが帰り際に言いました。


「ありがとうございました」


「私は穴を測っただけです」


「それ、大事でした」


「十一センチ」


「十一センチ」


 二人で笑いました。


 法律の条文は、


 昭和から未来まで変わらない。


 でも。


 その十一センチを証明する方法は、


 時代によって全然違う。


 昭和六十三年。


 スマホなし。


 ドラレコなし。


 防犯カメラもほとんどなし。


 あるのは、


 メジャー。


 ポラロイド。


 電話帳。


 靴。


 そして、


 聞き込みに付き合ってくれる町の人たち。


 便利ではありません。


 むしろ不便です。


 泥臭いです。


 でも。


 泥臭く集めた事実が、


 短い一条を、


 現実の救済に変える。


「こはる」


 所長が言いました。


「何です?」


「コロッケ」


「はい」


「俺の分がない」


 見る。


 箱。


 空。


 相馬先輩を見る。


 口が動いています。


「先輩」


「何だ」


「何個食べました?」


「覚えてねえ」


「証拠は?」


「ない」


 にやり。


 この男。


「所長」


 私は言いました。


「現行犯です」


「見たのか」


「見てません」


「なら証拠不足だ」


「こんなところでも証拠ですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「法律は同じでも、証拠がなきゃ勝てねえぞ」


「それ今日さんざんやりました!」


「じゃあ覚えただろ」


「嫌な復習!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 どうやらここでは、


 外国法より先に、


 コロッケの相互保証制度を整備する必要がありそうです。

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