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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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306/701

[国家賠償法4条-5条・国家賠償法と民法の関係]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ静かです。


 電話が鳴らない。


 来客もいない。


 相馬先輩の煙草の煙だけが、窓から差し込む西日に細く浮かんでいる。


 そして。


 私の机の上には、


 黄色いメジャー。


 ポラロイド写真。


 事故現場の見取図。


 目撃者の確認書。


 岩瀬さんの診断書。


 内職の帳面。


 昨日まで、


 ただの道具と紙だったものです。


 でも。


 今は全部、


 法律を動かすための証拠に見えます。


「……重い」


「何がだ」


 向かいで相馬先輩が新聞を畳みました。


「法律問題一問の後ろに必要な物量が」


「まだ言ってんのか」


「だってですよ」


 私はノートを開きました。


 上に大きく書きます。


 ――国家賠償法第四条。


「受験生のころなら」


「うん」


「『前三条のほか民法による』で終わってたんですよ」


「雑だな」


「でも試験勉強ってそんなもんじゃないですか」


「お前だけじゃねえのか」


「全国の受験生を敵に回さないでください」


 相馬先輩は鼻で笑いました。


 私は改めて六法を開きます。


 国家賠償法第四条。


 国又は公共団体の損害賠償の責任については、


 前三条の規定によるの外、


 民法の規定による。


「短いんですよね」


「だから?」


「短いくせに、やってることが大きい」


 片桐所長が奥の机から顔を上げました。


「何をしている条文だ」


「国や公共団体の賠償責任について、国家賠償法だけで全部を処理するんじゃなくて、必要に応じて民法を使えるようにつないでる」


「雑だが方向はいい」


「今日は雑スタートで許される日ですか」


「あとで詰めろ」


「はい」


 私はまず、


 一条。


 二条。


 四条。


 と縦に並べました。


「昨日の岩瀬さんの件で、一番最初に私が間違えたところです」


 相馬先輩がすぐ言います。


「公務員が事故起こしたから一条だ、ってやつな」


「忘れてください」


「嫌だ」


「そこを教材にしないでください」


「一番分かりやすいだろ」


 悔しい。


 でも。


 そこが一番大事です。


 国家賠償法第一条。


 公務員が、


 公権力の行使に当たり、


 故意または過失によって、


 違法に他人に損害を与えた場合。


 国または公共団体が賠償責任を負う。


「つまり」


 私は言いました。


「公務員が出てきたら即一条、ではない」


「当たり前だ」


「昨日の私は当たり前じゃなかったんです」


「知ってる」


「しつこい」


 岩瀬さんの事故。


 福祉課職員。


 勤務時間中。


 公用車。


 市の書類を福祉会館へ運搬中。


 ここだけ見ると、


 いかにも国家賠償法っぽい。


 でも。


 やっていた行為は、


 ただの自動車運転。


 それ自体は、


 国民に対して行政権を行使するような行為ではありません。


「許可とか」


「うん」


「徴税とか」


「うん」


「警察官の職務執行みたいな」


「そういうのとは違う」


「はい」


 公務員が仕事中だから。


 公用車だから。


 公務に関連しているから。


 それだけでは、


 国家賠償法第一条の『公権力の行使』にはなりません。


「所長」


「何だ」


「じゃあ昨日の事故は、国賠法の外なんですか」


「完全に外か」


「……四条がある」


「そうだ」


 私はそこに丸をつけました。


 国賠法一条の要件に乗らない。


 だから終わり。


 ではない。


 国家賠償法第四条が、


 民法へつなぐ。


「具体的には」


「民法七百十五条」


 相馬先輩。


「使用者責任」


「そうです」


 私はノートに書きます。


 公務員が公権力の行使とはいえない業務中に不法行為。


 たとえば、


 庁舎間の移動中の交通事故。


 この場合。


 国家賠償法一条ではなく、


 民法七百十五条の使用者責任が問題になる。


「昨日の事故そのままですね」


「ああ」


「市職員が書類運びで運転してた」


「ああ」


「公権力の行使じゃない」


「ああ」


「でも市は使用者だから、条件を満たせば責任を負う」


「そういうことだ」


 ここで。


 私は少し首をかしげました。


「でも」


「何だ」


「国家賠償法の中に民法の話をわざわざ書くって、ちょっと変な感じしません?」


 所長が帳簿を閉じました。


「なぜだ」


「国賠法なら国賠法だけで完結しそうなのに」


「完結しないから書いてある」


「身も蓋もない」


 でも。


 その通りです。


 国や公共団体も、


 公権力の行使以外の活動をします。


 車も運転する。


 建物も持つ。


 物を買う。


 人を雇う。


 施設を管理する。


 そして。


 そういう場面まで全部、


 国家賠償法独自の特殊ルールで処理する必要はない。


「だから」


 私は言いました。


「普通の民事責任のルールが使われるところは、民法で処理する」


「うん」


「役所だから民法の外にいるわけじゃない」


「そうだ」


 この感覚。


 昨日まで私は、


 国家賠償法というのは、


 国や役所を相手にするときの特別な箱。


 みたいに考えていました。


 でも。


 本当は。


 特別な箱で処理する部分と、


 普通の民法へ戻る部分とがある。


 第四条は、


 その境目です。


「次」


 私はノートに、


 工作物責任。


 と書きました。


「教材に出てくる例だと」


「何だ」


「老朽化して、もう使われていない市営住宅の塀が崩れる」


 相馬先輩が眉を上げます。


「市営住宅なら国賠法二条じゃねえのか」


「そこが罠です」


 私はちょっと得意げになりました。


 昨日一条で間違えた分、


 ここは決めたい。


「国家賠償法二条は」


 公の営造物。


 道路。


 河川。


 学校。


 公園。


 その他、


 公の目的に供される物的施設。


 その設置または管理に瑕疵があり、


 損害が生じた場合の責任です。


「じゃあ、市営住宅の塀なら」


「普通なら公の営造物になることはあります」


「でも?」


「もう使われてない」


「それがどうした」


「公の目的に供されていない」


 相馬先輩が少し黙りました。


「つまり」


「国家賠償法二条の『公の営造物』に当たらない可能性がある」


「で」


「民法七百十七条」


「工作物責任」


「はい」


 私はそこにも線を引きました。


 見た目が市のもの。


 だから国賠法二条。


 ではない。


 その物が、


 公の目的に供されているのか。


 そこを見る。


「これ、一条と同じですね」


「どこがだ」


「見た目で判断すると間違える」


 公務員だから一条。


 市の建物だから二条。


 そういう単純な話ではない。


 行為の性質。


 施設の性質。


 そこを見る。


「だから四条って」


 私は言いました。


「一条か二条に入らなかった瞬間、全部落ちるのを防いでるんですね」


 所長がこちらを見ました。


「全部ではない」


「あ」


「民法上の要件を満たさなければ賠償はない」


「そうでした」


 大事です。


 四条は、


 被害者なら必ず救済される魔法ではありません。


 ただ。


 国家賠償法の特別な責任構造に入らないからといって、


 それだけで責任追及の道が閉じるわけではない。


 民法による責任が成立するかを、


 次に検討する。


 それだけです。


「橋はある」


 私は呟きました。


「でも渡れるかは別」


「そういうことだ」


 所長が言いました。


「次、民法七百二十二条」


「過失相殺だな」


 相馬先輩。


「昨日、岩瀬さんの件でも出ました」


「ああ」


 市の車が一時停止をしなかった。


 運転者が考え事をしていた。


 目撃者もいる。


 だから。


 市が責任を負う可能性は高い。


 でも。


 それで、


 被害者側に何の落ち度もなかったことまで自動的に決まるわけではありません。


「たとえば岩瀬さんが」


 私は言いました。


「ものすごい速度で自転車で交差点に入ったとか」


「うん」


「前を全然見てなかったとか」


「うん」


「そういう事情があれば」


「賠償額に影響する」


「はい」


 民法七百二十二条。


 被害者に過失があれば、


 裁判所は損害賠償額を定めるにあたって、


 その事情を考慮できる。


「つまり」


 私はノートに書きました。


 加害者に責任あり。


 イコール。


 損害全額を必ず支払う。


 ではない。


「昨日、私ちょっと浮かれてました」


「知ってる」


「またそれ言う」


「市が過失認めたって電話来たときな」


「だって前進したじゃないですか」


「前進はした」


「ですよね」


「でも終わりじゃねえ」


「はい」


 過失。


 因果関係。


 損害額。


 被害者側の過失。


 休業損害。


 治療期間。


 慰謝料。


 修理費。


 一つずつ詰める。


 賠償責任がある。


 ということと。


 いくら賠償する。


 ということは別問題です。


「行政書士試験だと」


 私は言いました。


「条文問題で一行ですけどね」


「現場じゃ一行で金額決まらねえ」


「そうなんですよね」


 特に。


 岩瀬さんは内職。


 会社員みたいに、


 給与明細一枚で月給が出るわけではない。


 仕立て代の帳面。


 仕事先への確認。


 過去数か月の受注状況。


 骨折でできなかった仕事。


 そういうものを積んでいく。


「法律論より証拠集めのほうが長い」


「大体そんなもんだ」


「受験生には教えてくれません」


「試験だからな」


 正論。


 でも。


 この差は大きい。


 私は次の見出しを書きます。


 ――期間制限。


「民法七百二十四条」


「不法行為の損害賠償請求権の期間の話か」


「はい」


 ここも。


 国家賠償法第四条によって、


 民法のルールが関係してくる。


「古い事故でも永遠に請求できるわけじゃない」


「当たり前だ」


「でも、困ってる人ほど放っておきがちなんですよ」


「まあな」


 最初は治療。


 次に生活。


 次に相手との話し合い。


 気づけば時間が経つ。


 法律問題は、


 傷が治るまで待ってくれるとは限りません。


「昨日の事故は起きたばかりだったから問題ない」


「ああ」


「でも古い案件なら」


「まず期間確認」


「はい」


 私はノートに、


 事故日。


 損害を知った時。


 加害者を知った時。


 と書きました。


「所長」


「何だ」


「この辺って、未来では民法改正で表現も変わるんですよね」


 所長が私を見る。


「未来の話か」


「あ」


 しまった。


 私は口をつぐみました。


 そうです。


 国家賠償法そのものは、


 昭和六十三年と現代で実質的に同じ。


 でも。


 四条の先でつながる民法側は、


 後の改正を受ける部分があります。


 つまり。


「国賠法が変わってないからって」


 私は慎重に言いました。


「関係する法律まで全部同じとは限らない」


「今使う法を見ろ」


「はい」


「受験も実務も同じだ」


「時点確認」


「そうだ」


 またです。


 法律は、


 条文番号だけ覚えても足りない。


 いつの条文か。


 現行法か。


 改正前か。


 そこを見る。


 ただ。


 今回、


 私が一番驚いたのは、


 国家賠償法そのものが、


 昭和六十三年でもほぼそのまま使えることでした。


「ここは安心しました」


「何が」


「行政不服審査法みたいな時代差地雷がない」


「また分からんこと言ってんな」


「未来人には大問題なんです」


「知らん」


「で」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「四条って民法だけなのか」


「そこなんですよ」


 私は次のページをめくりました。


「五条もあります」


「何だ」


「民法以外の法律に別段の定めがある場合」


「そっちを使う」


「はい」


 そして。


 教材に出てくる、


 少し嫌な例。


 失火責任法。


「消防職員の消火ミスで火が再燃した事件」


「消防が?」


「はい」


「それこそ公権力じゃねえのか」


「公権力の行使に当たる」


「じゃあ一条だろ」


「基本はそうなんですけど」


 私はノートに矢印を書きました。


 国家賠償法一条。


 公務員の公権力行使。


 故意・過失。


 違法。


 損害。


 でも。


 火災。


 失火。


 ここに失火責任法という特別法が絡む。


「判例では」


 私は慎重に言葉を選びました。


「公務員の失火による国または公共団体の損害賠償責任にも、国家賠償法四条を通じて失火責任法が適用される」


「つまり?」


「通常の過失だけじゃ足りない」


「重過失が要る」


「そうです」


 最判昭和五十三年七月十七日。


 消防職員の消火活動後に火災が再燃した事案。


 判例は、


 公権力の行使に当たる公務員の失火についても、


 失火責任法の適用を認めた。


「これ、かなり重要ですね」


「何でだ」


「公権力の行使だから国家賠償法だけで完結する、とは限らない」


「なるほど」


「四条を通じて、民法や民法に関連する特別法まで入ってくる」


「失火なら重過失が要る」


「はい」


 ここ。


 受験生のころなら、


 語呂合わせで覚えたかもしれません。


 でも。


 現場で考えると怖い。


 消防職員が公務で活動していた。


 結果として損害が出た。


 それだけでは足りない。


 どのルールが最終的に適用されるかで、


 要求される過失の程度まで変わる。


「入口を間違えると」


 私は言いました。


「必要な立証まで変わる」


「そうだな」


「つまり」


 一条か。


 二条か。


 民法か。


 特別法か。


 これは単なる条文選択問題ではない。


 何を証明しなければならないか。


 そこまで変わる。


「じゃあ整理するぞ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「第一条」


「公務員が公権力の行使に当たって違法に損害を与えた場合」


「第二条」


「公の営造物の設置または管理の瑕疵で損害が生じた場合」


「第四条」


「前三条以外の国や公共団体の損害賠償責任について、民法を適用する」


「具体例」


「市職員が庁舎間移動中に交通事故。公権力の行使ではないから、民法七百十五条の使用者責任」


「もう一つ」


「使われなくなった市営住宅の塀が崩れた。公の目的に供されていないなら公の営造物に当たらず、民法七百十七条の工作物責任」


「他に」


「過失相殺。期間制限」


「特別法」


「失火責任法」


「要件は」


「失火については重過失が必要になる場合がある」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はふう、と息を吐きました。


「なんか」


「何だ」


「第四条って、補欠みたいに見えてたんです」


「補欠?」


「一条が主役」


「うん」


「二条も主役」


「うん」


「四条は、『その他は民法ね』っていう裏方」


「それが?」


「でも違いました」


 四条があるから、


 一条に入らない損害でも。


 二条に入らない損害でも。


 そこで終わらない。


 普通の民法責任へ接続できる。


 さらに。


 国賠法一条が適用される場面でも、


 失火責任法のような別のルールが入ってくることがある。


「裏方だけど」


 私は言いました。


「いないと困る条文ですね」


「大体、裏方ってのはそういうもんだ」


 相馬先輩が言いました。


「急に人生論みたいにしないでください」


「お前が始めたんだろ」


 私は机の上のポラロイド写真を一枚持ち上げました。


 昨日撮った交差点。


 一時停止標識。


 停止線。


 道路。


 少し斜めに伸びる黒いタイヤ痕。


「でも」


「まだ何かあるのか」


「法律は昭和と未来で同じなんですよね」


「ああ?」


「国家賠償法」


「そうなのか」


「そこは本当に同じなんです」


 私は写真を見ました。


「なのに、現場は全然違う」


 現代なら。


 スマホで何十枚も撮る。


 動画も撮る。


 位置情報。


 撮影時刻。


 ドラレコ。


 防犯カメラ。


 場合によっては事故直前の映像まで残っている。


 でも昭和六十三年。


 昨日の私たちは、


 メジャーを持って道路へ行った。


 写真を撮った。


 聞き込みをした。


 目撃者を探した。


 その場で証言を紙にした。


「法律は変わらないのに」


 私は言いました。


「証明する方法が違いすぎる」


「昔から法律は紙の上だけじゃ動かねえよ」


 相馬先輩が言います。


「でも未来なら楽ですよ」


「本当に?」


「え?」


「映像がありゃ全部決まるのか」


「……全部ではないですけど」


「ドラなんとかがあっても」


「ドラレコ」


「それが映してねえ角度もあるだろ」


「ありますね」


「カメラに映ってても、その見方でもめるかもしれん」


「はい」


「結局、何を証拠にしてどう組み立てるかだ」


 私は黙りました。


 確かに。


 便利になれば、


 証拠が自動的に真実になるわけではない。


 ただ。


 証拠を残す手段が増える。


 それだけです。


「じゃあ」


 私は言いました。


「昭和は不便」


「そうだな」


「現代は便利」


「たぶんな」


「でもやることの芯は同じ」


「何だ」


「事実を集めて、法律に当てる」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「それでいい」


 なんか。


 悔しい。


 昨日から先輩が妙に先生っぽい。


「行政書士の立場も整理しておけ」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「昨日、沢渡に何を言った」


「訴訟代理はできない」


「うん」


「裁判になれば弁護士へ渡す」


「うん」


「でもその前に」


 私は資料の束を見ました。


「事故状況」


「うん」


「目撃者」


「うん」


「損害額」


「うん」


「医療記録」


「うん」


「休業損害」


「うん」


「法律構成」


「うん」


「それを揃えて、市へ請求書を出す」


「そうだ」


 行政書士は、


 裁判所で市を相手に訴訟代理人として戦うことはできない。


 だから。


 裁判で勝つ役目ではない。


 でも。


 裁判になる前に、


 これだけ証拠があります。


 法律上、この責任が問題になります。


 拒否すれば訴訟になり得ます。


 その場合、


 この資料ごと弁護士へ渡ります。


 そこまで整えて、


 任意の賠償協議を促す。


「これ」


 私は言いました。


「結構怖いですね」


「何が」


「訴えません、って言ってるのに」


「うん」


「訴えたらどうなるかが分かる状態まで作る」


「それが交渉材料になる」


「ですよね」


 沢渡課長が考えていたのも、


 たぶんそこです。


 相手が怒っている。


 かわいそう。


 それでは動かない。


 でも。


 証人がいる。


 職員自身も不停止を認めた。


 考え事をしていたことも認めた。


 損害資料もある。


 使用者責任の構成もある。


 裁判になれば、


 市がどこまで勝てるか。


 そこを計算する。


「行政って冷たいですね」


「何を今さら」


「でも」


 私は続けました。


「冷たいからこそ、証拠が効く」


 情に訴える。


 かわいそうだから払って。


 ではなく。


 これだけの事実があります。


 この条文が適用されます。


 ここまで損害があります。


 だから、


 払う責任があります。


 その冷たさは、


 弱い側にとって武器になることがある。


 私はノートの最後に、


 大きく枠を作りました。


「一行の覚え書き」


「また長くなるんだろ」


 相馬先輩。


「今日は短くします」


「言ったな」


 私は考えます。


 国家賠償法四条。


 一条でも二条でもない。


 でも。


 国や公共団体だから責任が消えるわけではない。


 民法へ行く。


 過失相殺もある。


 期間制限もある。


 場合によっては失火責任法も入る。


 そして。


 どのルールを使うにしても。


 最後に必要なのは証拠。


 私は書きました。


 ――国賠法で拾えなくても終わらない。四条から民法へ渡る。


「どうです」


「まあまあ」


「珍しい」


「ただ」


「何です」


「今日の話、証拠のほうが印象強くねえか」


「じゃあ二本目」


「一行じゃねえ」


「補足です」


 私はその下に小さく書きました。


 ――法律が同じでも、証明できなければ勝てない。


 相馬先輩が少し黙りました。


「そっちのほうが大事かもな」


「試験では一行目ですよ」


「現場では二行目」


「そういうことです」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「両方覚えろ」


「はい」


 結局。


 法律は、


 条文だけでは人を救いません。


 国家賠償法第四条があっても。


 民法七百十五条があっても。


 過失相殺のルールがあっても。


 こちらに証拠がなければ、


 市はこう言えます。


 分かりません。


 確認できません。


 過失は認められません。


 損害額が分かりません。


 だから。


 事故現場へ行く。


 測る。


 撮る。


 聞く。


 書く。


 人を探す。


 証言を残す。


 昨日。


 私はその作業を、


 昭和の不便さだと思いました。


 たぶん、それは間違っていません。


 スマホもない。


 ドラレコもない。


 防犯カメラもない。


 便利ではない。


 でも。


 不便だからこそ。


 一つの証言の重さ。


 一枚の写真の重さ。


 一センチ測る意味。


 そういうものが、


 よく分かりました。


 法律は未来と同じ。


 でも。


 法律まで届く道は、


 昭和のほうがずっと長い。


 それでも。


 歩けば届く。


 昨日、


 岩瀬さんの事故は、


 「市に責任があるとは限りません」


 という一言で止まりかけていました。


 そこへ。


 目撃者。


 写真。


 実測。


 職員の発言。


 損害資料。


 法律構成。


 一つずつ置いていった。


 すると。


 止まっていた話が動きました。


 市は、


 任意賠償の協議に入ることになった。


 それは、


 法律が急に優しくなったからではありません。


 むしろ逆です。


 責任があるなら、


 市でも負え。


 その厳しいルールを、


 証拠で動かしただけ。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩。


「はい」


「じゃあ明日の聞き込み先、三件な」


「え」


「岩瀬さんの内職先」


「まだあるんですか」


「休業損害」


「そうでした」


「八時半」


「早い」


「文句あるか」


 私はノートをもう一度開きます。


 余白に書きました。


 ――相馬先輩の無茶な業務指示による精神的損害。


「何書いてる」


「損害項目です」


「誰に請求する」


「事務所」


「俺は公権力行使してねえぞ」


「分かってます」


「じゃあ国賠一条じゃねえ」


「だから四条から民法へ行きます!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「何条だよ」


「まず七百十五条!」


「所長が使用者か」


「そこから検討します!」


 片桐所長が書類から顔も上げずに言いました。


「却下」


「まだ請求してません!」


「損害がない」


「あります!」


「立証は」


 私は止まりました。


「……私の供述」


「客観性がない」


「相馬先輩も聞いてます!」


「加害者側だ」


「じゃあ証人として弱い!」


「写真は」


「精神的損害は写りません!」


「医者は」


「行ってません!」


「なら資料不足だ」


 私は机に突っ伏しました。


「証拠主義が厳しすぎる……」


 相馬先輩が腹を抱えて笑っています。


「こはる」


 所長が言いました。


「何です」


「明日」


「八時半ですよね」


「メジャーも持て」


「内職先で何を測るんですか!」


「机の高さ」


「なんで!」


「手首を固定した状態で作業できないことの確認」


 私は顔を上げました。


 ……そこまでやるのか。


 所長はもう帳簿へ視線を戻していました。


 昭和六十三年。


 法律は未来と変わらない。


 でも。


 証拠は、


 勝手には残ってくれません。


 だから。


 明日もまた、


 私たちは足で集めます。


 国家賠償法第四条。


 民法へ渡る橋。


 そして。


 その橋の手前まで事実を運ぶのは、


 結局、人間の足なのです。

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