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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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305/685

[国家賠償法4条-5条・国家賠償法と民法の関係]現場編 「公務員の事故だから国賠法だけです」の嘘。公権力でなくても市は逃げられない、民法へつながる一本の橋

挿絵(By みてみん)

 役所の車にひかれたからといって、何でも国家賠償法になるわけではありません。


 制服。


 公用車。


 勤務時間中。


 運転しているのは市役所の職員。


 ここまで揃えば、どう見ても「国賠」っぽい。


 でも。


 法律というものは、ときどき見た目よりずっと細かいところで道を分けます。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「……骨折?」


 私は思わず聞き返しました。


「はい」


 向かいの椅子に座っている女性が、左手を胸の前に吊っていました。


 白い包帯。


 固定板。


 まだ新しい。


 岩瀬芳江さん。


 五十二歳。


 自宅で洋裁の内職をしている女性でした。


「左の手首です」


「痛そう……」


「夜になると、まだずきずきします」


 机の上には、病院の領収書。


 診断書。


 壊れた自転車の修理見積書。


 そして。


 一枚の事故証明書。


 加害車両の欄には、


 ――湖西市。


 とあります。


「市役所の車だったんですね」


「そうです」


「運転していた人も市の職員?」


「福祉課の人だそうです」


 横で相馬先輩が煙草をくわえました。


「何してた車だ」


「市役所から福祉会館へ書類を届ける途中だったって」


 ほう。


 勤務時間中。


 公用車。


 公務員。


 公務中。


 私の頭の中で、


 国家賠償法第一条!


 という文字が元気よく飛び出しました。


 公務員が。


 職務を行うについて。


 故意または過失によって。


 違法に他人に損害を与えた。


 なら国または公共団体が――


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何条だ」


「一条です」


 即答。


 すると。


「違う」


「え?」


 即死。


 私は所長を見ました。


「公務員ですよ?」


「ああ」


「勤務時間中ですよ?」


「ああ」


「公用車ですよ?」


「ああ」


「市役所の仕事で移動中ですよ?」


「そうだ」


「じゃあ国賠法一条じゃ――」


「公権力を行使していたのか」


 私は口を閉じました。


 ……あ。


 そこですか。


 私は事故証明書を見直しました。


 福祉課の職員。


 市役所から福祉会館へ。


 書類を運搬。


 自動車を運転。


 確かに。


 許可処分をしていたわけではない。


 税金を徴収していたわけでもない。


 行政指導をしていたわけでもない。


 警察官が職務質問していたわけでもない。


 ただ。


 車を運転していた。


「……公権力の行使じゃない」


「そういうことだ」


 相馬先輩が煙を吐きました。


「役人がやること全部が公権力だったら、役所の便所掃除まで国家権力になるぞ」


「例えが雑です」


「分かりやすいだろ」


「悔しいけど分かりやすい」


 私は頭を抱えました。


 国賠法。


 また時代が違うのか。


 どうせ昭和の国家賠償法には、


 現代とは違う変な条文が――


 私は慌てて六法を開きます。


 第一条。


 第二条。


 第三条。


 第四条。


 読む。


 もう一回読む。


「……同じだ」


「何がだ」


「いえ」


 危ない。


 国家賠償法は昭和二十二年制定。


 そして。


 この昭和六十三年でも。


 私が知っている現代でも。


 条文の骨格は同じ。


 行政不服審査法みたいに、


 異議申立てがどうの。


 六十日がどうの。


 審理員がどうの。


 そういう時代差に怯えなくていい。


「よし」


 思わず声が出ました。


 相馬先輩が怪訝そうに見ます。


「何がよしだ」


「法律が未来と一緒です」


「未来?」


「気にしないでください」


 私は四条を見ました。


 そこには。


 国家賠償法前三条によるほか、


 国や公共団体の損害賠償責任については、


 民法による。


 そういう橋が架かっている。


「所長」


「何だ」


「これ、四条から民法へ行くんですね」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


「じゃあ」


 私は紙に書きました。


 市職員が公用車を運転。


 書類運搬中。


 公権力の行使ではない。


 国家賠償法一条そのものではなく――


「民法の使用者責任」


 私は顔を上げました。


「七百十五条」


「そこからだ」


 なるほど。


 国家賠償法第四条。


 国賠法だけで全部を処理する条文ではない。


 むしろ。


 国賠法で拾えないところを、


 民法へ渡す条文。


「法律って」


 私は呟きました。


「ちゃんと逃げ道を塞いであるんですね」


「誰の逃げ道だ」


「役所の」


「まだ早い」


 所長が冷たく言いました。


「え?」


「責任があると決める前に」


 所長は事故証明書を指で叩きました。


「事故の中身が分からん」


 はい。


 来ました。


 片桐所長名物。


 法律論より先に現場。


「岩瀬さん」


 所長が聞きました。


「事故はどう起きました」


「私、自転車で東から来たんです」


「相手は」


「北から」


「交差点?」


「はい。小さい交差点です」


「信号は」


「ありません」


「一時停止は」


「市役所の車のほうに止まれの標識があります」


 私は身を乗り出しました。


「相手、止まりました?」


 岩瀬さんは首を振りました。


「止まらなかったと思います」


「思います?」


「一瞬だったから……」


 そうですよね。


 自転車で交差点を横切ろうとしたら、


 横から車。


 衝突。


 転倒。


 骨折。


 そこで、


 車両速度は何キロでした。


 停止線を何センチ越えました。


 運転者の視線はどちらでした。


 なんて冷静に記録できる人はいません。


「市は何て?」


 相馬先輩が聞きました。


 岩瀬さんの顔が曇りました。


「昨日、市役所へ行きました」


「何課」


「総務課です」


 嫌な予感。


「沢渡?」


「課長さんでした」


 やっぱり。


「なんて言われました」


「事故は申し訳ない。でも、市に責任があるとはまだ言えないって」


「理由は?」


「運転した職員の話では、私が急に飛び出した可能性があるって」


 相馬先輩の眉が動きました。


「可能性?」


「はい」


「見てた奴は?」


「分かりません」


「警察の記録は」


「事故があったことは書いてあるけど、どちらが悪いかまでは……」


 私は診断書を見ました。


 骨折は事実。


 事故も事実。


 市の車だったことも事実。


 職員が仕事中だったことも事実。


 でも。


 過失。


 そこが揉めている。


 民法七百十五条で市の責任を追うなら、


 そもそも職員に不法行為責任が成立するような、


 故意・過失や因果関係などを立証していく必要がある。


「ドラレコは?」


 口から出ました。


 全員が私を見ました。


「……どら?」


 相馬先輩。


「いえ」


 やった。


 またやった。


「車載カメラみたいな」


「ねえよ」


「ですよね」


 スマホ。


 ない。


 ドラレコ。


 ない。


 交差点の防犯カメラ。


 たぶんない。


 コンビニのカメラ映像。


 そもそもこの辺にコンビニがそんなにない。


 現代なら、


 事故直後に写真を何十枚も撮れる。


 周辺店舗の防犯映像を確認する。


 ドラレコがあれば衝突前後の状況も分かる。


 車速まで記録されていることもある。


 でも。


 昭和六十三年。


 事故現場に残っているのは、


 現場そのものだけです。


「……絶望的にアナログ」


「何ぶつぶつ言ってんだ」


 相馬先輩が立ち上がります。


「行くぞ」


「どこへ?」


「現場」


「今からですか」


「明日行って何が残ってる」


 片桐所長も立ちました。


「メジャーを持て」


「はい」


「カメラ」


「はい」


「筆記具」


「はい」


「岩瀬さん。歩けますか」


「はい」


「案内してください」


 こうして。


 昭和の事故調査が始まりました。


 事故現場は、市役所から歩いて十五分ほどの住宅街でした。


 幅四メートルほどの道路。


 信号なし。


 北から来る道路側には、


 赤い逆三角形の一時停止標識。


 白線。


 その先で道路が交差しています。


「ここです」


 岩瀬さんが言いました。


「私がこっちから」


 東側。


「市の車は?」


「こっち」


 北側。


 私は周囲を見回しました。


 カメラ。


 なし。


 現代なら電柱に何か付いていないか探すところですが、


 付いているのは町内会の看板くらいです。


「こはる」


 片桐所長。


「はい」


「停止線から交差点まで測れ」


 私はメジャーを伸ばしました。


「……三・六メートル」


「道路幅」


「四・一」


「反対側も」


「はい」


 何をしているんだろう。


 現代人の私は、


 Googleマップで距離を測りたい。


 ストリートビューを保存したい。


 スマホで写真を撮って、


 撮影日時まで自動記録してほしい。


 でも。


 今、私の手にあるのは、


 黄色い巻尺。


 鉛筆。


 紙。


 そして。


 相馬先輩が持つポラロイドカメラ。


「撮るぞ」


「はい」


 カシャ。


 ジー。


 白い写真が出てくる。


「触るなよ」


「分かってます」


 少し待つ。


 像が浮かんでくる。


 停止線。


 標識。


 道路。


 交差点。


「……便利」


「さっきから文句言ってた割には喜んでるじゃねえか」


「文明のありがたみは相対評価なんです」


「意味分からん」


 所長は道路脇にしゃがみました。


「ここだ」


「何です?」


 路面。


 黒い跡。


「タイヤ痕?」


「たぶんな」


 相馬先輩も近づきます。


「昨日の事故か?」


「断定はできん」


 片桐所長が言いました。


「だから写真を撮る」


 カシャ。


「長さ」


 測る。


「一・八メートルくらい」


「位置は」


「停止線より……ずっと先」


 私は顔を上げました。


 タイヤ痕は、


 一時停止線の手前ではなく、


 交差点へ入った後から伸びていました。


 もちろん。


 これだけで、


 昨日の市の車のブレーキ痕だ。


 とは言えません。


 他の車かもしれない。


 雨や泥でできた跡かもしれない。


 でも。


 確認する価値はある。


「事故のとき、音を聞いた人がいるかもしれません」


 私が言うと。


「聞き込みだ」


 相馬先輩。


 ですよね。


 昭和の防犯カメラ。


 人間です。


 一軒目。


「昨日の午後二時くらいですか? いやあ、留守でしたね」


 二軒目。


「大きい音? 聞いた気もするけど、洗濯してたから」


 三軒目。


「分からないねえ」


 四軒目。


 犬に吠えられました。


「先輩」


「何だ」


「心が折れそうです」


「まだ四軒だ」


「現代なら映像一発ですよ」


「その現代ってとこに帰ってから言え」


「帰れないから困ってるんです」


「何だそりゃ」


 五軒目。


 古いたばこ屋。


 店番をしていた白髪の男性が、


 事故の話を聞いた途端、


「ああ」


 と言いました。


「見ましたよ」


 私たち三人が止まりました。


「見た?」


「ちょうど店の前にいましたから」


 相馬先輩が煙草をしまいました。


 たばこ屋の前で煙草をしまう。


 珍しい。


「市役所の車、止まりましたか」


 私が聞くと。


「止まらんかったね」


「本当ですか」


「ブレーキ踏んだの、ぶつかる直前じゃないかな」


「速度は?」


「速かった?」


「いや、飛ばしてるほどじゃない。ただ、止まる気配はなかった」


「自転車は?」


「女の人は普通に走ってたよ」


「急に飛び出したように見えました?」


 男性は首をひねりました。


「飛び出した、って感じじゃないねえ」


 私は息を飲みました。


「お名前、聞いてもいいですか」


「大森」


「連絡先も」


「店にいれば大体いるよ」


「事故のときに見たことを、書面にしてもらえますか」


 男性が少し警戒した顔になります。


「裁判かい?」


「いえ」


 片桐所長が答えました。


「今は事実確認です」


 岩瀬さんが骨折していること。


 市が過失を認めていないこと。


 見たままを書いてほしいこと。


 推測はいらない。


 市役所を悪く書く必要もない。


 ただ、


 止まったか。


 止まらなかったか。


 どの位置でブレーキをかけたように見えたか。


 岩瀬さんの自転車がどのように交差点へ入ったか。


 それだけ。


「それなら」


 大森さんは頷きました。


「書きましょう」


 私はその瞬間、


 防犯カメラより人間の記憶のほうが怖いと思いました。


 消える。


 薄れる。


 変わる。


 だから。


 早く押さえる。


 それが昭和の証拠集めなのです。


 さらに聞き込みを続けると、


 もう一人いました。


 近所のクリーニング店の女性。


「音がして外に出たんです」


 衝突そのものは見ていない。


 ただ。


 事故直後。


 市職員が車から降りて、


「すみません、考え事をしていて」


 と言ったのを聞いたという。


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も私を見る。


 所長だけが平然としていました。


「その言葉、間違いありませんか」


「ええ。女の人が倒れていて、運転手さんが青い顔で言ってました」


「ほかに聞いていた人は」


「うちの主人もいたと思う」


 主人にも確認。


 ほぼ同じ話。


 書面化。


 署名。


 日付。


 住所。


 連絡先。


 地道。


 ひたすら地道。


 でも。


 少しずつ。


 事故が、


 「誰かが怪我をした」


 という曖昧な出来事から、


 形のある事実へ変わっていきます。


 事務所へ戻ったのは夕方でした。


 私は机いっぱいに資料を並べました。


 一。


 事故証明書。


 二。


 診断書。


 三。


 治療費領収書。


 四。


 自転車修理見積書。


 五。


 事故現場見取図。


 六。


 停止線から交差点までの実測。


 七。


 ポラロイド写真。


 八。


 タイヤ痕らしきものの位置と長さ。


 九。


 事故を目撃した大森さんの確認書。


 十。


 事故直後の運転者発言を聞いたクリーニング店夫妻の確認書。


 そして。


 十一。


 岩瀬さんの内職収入。


「これ何です?」


 私は帳面を見ました。


 岩瀬さんが持参した、


 毎月の仕立て代の記録です。


「仕事できないって言ってただろ」


 相馬先輩。


「あ」


「手首折れて洋裁できるか」


「できませんね」


「治療費だけが損害じゃねえ」


 そうだ。


 休業損害。


「何週間くらい仕事できないんでしょう」


「医者に確認する」


 所長が言いました。


「書面を取れ」


「はい」


「家事への影響も聞け」


「はい」


「過失相殺も忘れるな」


「え?」


「相手が悪いから百対ゼロとは限らん」


「あ」


 民法。


 七百二十二条。


 被害者側にも過失があれば、


 賠償額が調整されることがある。


 国家賠償法四条。


 民法につながる。


 使用者責任だけではない。


 損害額の計算。


 過失相殺。


 期間制限。


 いろんなところで民法の考え方が入ってくる。


「国賠法って」


 私はノートを見ました。


「国賠法だけ読んでても終わらないんですね」


「法律一本で現場が片付くと思うな」


 所長の一言。


 重い。


 相馬先輩が資料を束ねました。


「明日、市役所行くぞ」


「沢渡課長ですね」


「逃げ道塞ぎに行く」


 翌日。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、


 机の上に置かれた分厚い封筒を見ました。


「何ですか、これは」


「事故資料」


 相馬先輩。


「先日の岩瀬芳江さんの件です」


「ああ」


 沢渡課長の顔に、


 少しだけ警戒が浮かびました。


「市としては現在、事故状況を確認中です」


「昨日は、市に責任があるとは言えないと説明したそうだな」


「ええ」


「運転手は岩瀬さんが飛び出した可能性があると」


「そう聞いています」


「可能性じゃなくて事実を持ってきた」


 相馬先輩が写真を並べました。


 交差点。


 一時停止標識。


 停止線。


 道路幅。


 タイヤ痕。


 沢渡課長が一枚ずつ見ます。


「これは?」


「現場実測」


「こちらは?」


「目撃者」


 大森さんの確認書。


 沢渡課長の目が止まる。


「市の車が一時停止せず交差点へ入り、衝突直前に制動したように見えた、と」


「そう言ってる」


「目撃者一人の証言ですね」


「もう一つある」


 事故直後。


 市職員が、


 考え事をしていた。


 そう発言したと聞いた夫妻の確認書。


 沢渡課長の指が止まりました。


「これは……」


「二人とも同じ内容だ」


「本人への確認は必要です」


「当然だ」


 相馬先輩が言います。


「こっちは本人の供述を潰しに来たんじゃねえ。市が『過失はないかもしれない』っていうなら、その前提で調べろって言ってる」


 沢渡課長が私を見ました。


「朝比奈さん」


「はい」


「今回は国家賠償法一条を主張するんですか」


 来た。


 試されてる。


 私は少しだけ息を吸いました。


「いいえ」


 沢渡課長の眉が上がります。


「違うんですか」


「運転していた人は公務員です。公用車で、勤務時間中で、市の用務でした」


「ええ」


「でも」


 私は言いました。


「車で書類を運んでいただけです」


「それが?」


「公権力の行使じゃありません」


 少し。


 静かになりました。


「だから」


 私は続けました。


「国家賠償法一条そのものではなく、四条から民法です」


 沢渡課長の表情が変わります。


「民法七百十五条」


「使用者責任ですね」


「はい」


 言えた。


 受験テキストなら、


 公務員。


 庁舎間移動。


 交通事故。


 公権力の行使ではない。


 使用者責任。


 数行で終わります。


 でも。


 その数行の後ろに、


 骨折した手。


 壊れた自転車。


 内職できない日々。


 メジャーで測った道路。


 何軒も回った聞き込み。


 目撃者の署名。


 ポラロイド写真。


 全部がぶら下がっている。


 法律問題一問の重さが、


 もう昔とは違います。


「市は」


 沢渡課長が言いました。


「職員に重大な落ち度がなければ責任がない、とまで言っているわけではありません」


「でもまだ払わない」


 相馬先輩。


「事実確認が必要だからです」


「じゃあ確認しろ」


「しています」


「なら、こっちの証拠も使え」


「もちろん確認します」


「それと」


 相馬先輩が身を乗り出しました。


「予算がないって話はするなよ」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「誰がそんなことを」


「岩瀬さんに窓口の奴が言ったそうだ」


「賠償予算には限りがある、と説明しただけでしょう」


「同じだ」


「違います」


「法律上払う責任があるなら」


 相馬先輩の声が低くなります。


「金がないは理由にならねえ」


 沢渡課長は黙りました。


 その顔は、


 怒っているというより計算している。


 責任。


 証拠。


 訴訟になった場合。


 証人。


 医療記録。


 市職員本人の供述。


 敗訴可能性。


 たぶん。


 この人の頭の中では、


 感情ではなく数字が動いています。


「片桐先生」


 沢渡課長が所長を見ました。


「請求内容は?」


「治療費」


 所長。


「通院交通費。自転車修理費。休業損害。その他、事故と相当因果関係のある損害」


「慰謝料も?」


「ああ」


「金額は」


「まだ確定しない」


「なぜです」


「治療が終わっていない」


「なるほど」


「だから今は」


 片桐所長は静かに言いました。


「市が責任を否定するのか、それとも事実関係を前提に任意賠償の協議へ入るのか。それを聞きに来た」


 沢渡課長が眼鏡を外しました。


 布で拭く。


 時間を作っている。


「もし市が拒否した場合は?」


「行政書士が裁判はできん」


 所長は即答しました。


「訴訟代理人にもなれん」


「では?」


「弁護士へ渡す」


 沢渡課長の手が止まりました。


「この資料ごと」


 所長が言いました。


「現場図。写真。証人。損害資料。全部だ」


 脅しではない。


 ただの事実です。


 私たちは裁判所では戦えない。


 でも。


 裁判になった瞬間、


 弁護士がすぐ走れるところまで、


 事実を固めて渡すことはできる。


 だから。


 裁判をしないことと、


 裁判を想定しないことは、


 まったく違う。


「……少し時間をください」


 沢渡課長が言いました。


「どれくらい」


「一週間」


「長い」


 相馬先輩。


「五営業日」


「変わってねえだろ」


「四日でどうでしょう」


「最初からそう言え」


「相馬」


 所長が止めました。


「四日でいい」


「分かりました」


 沢渡課長は資料を閉じました。


「運転した職員への再聴取も行います」


「お願いします」


「それと」


 沢渡課長が私を見ます。


「朝比奈さん」


「はい」


「国家賠償法は一条と二条だけではありません」


「……知ってます」


「今は、でしょう」


「う」


 ばれてる。


「昨日までは?」


「……一条と二条が主役だと思ってました」


 沢渡課長の口元がほんの少し動きました。


「第四条は地味ですからね」


「でも」


 私は資料の束を見ました。


「地味だけど、切れ目をなくす条文なんですね」


「そういう見方もできます」


 そこだけ言うと。


 沢渡課長はもう一度いつもの無表情に戻りました。


「では四日後に」


 四日後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


「はい」


『岩瀬さんの件です』


 私は受話器を持ち直しました。


「どうなりました?」


『運転職員へ再確認しました』


「はい」


『一時停止を完全にはしていなかったことを認めました』


 私は立ち上がりました。


 相馬先輩がこちらを見る。


「それと」


『事故直前、福祉会館での打合せ内容を考えていたことも認めています』


「……じゃあ」


『市として責任を否定するのは難しいと判断しました』


 来た。


「任意賠償の協議に入ります」


 私は思わず、


「よし」


 と言いそうになって飲み込みました。


『ただし』


「はい」


『過失割合、休業損害、慰謝料等は別途精査します』


「分かっています」


『岩瀬さんにも、自転車側の走行状況について確認します』


「はい」


『全面的に市の主張を放棄したわけではありません』


「それも分かっています」


『朝比奈さん』


「何です?」


『今回は』


 ほんの少し間。


『よく調べましたね』


「え」


 電話が切れました。


「……褒められた?」


 受話器を見ます。


「誰に」


「沢渡課長」


「気のせいだろ」


 相馬先輩。


「ですよね」


 この事務所、


 他人の好意を全部気のせいで処理しすぎです。


 その日の午後。


 岩瀬さんが来ました。


「市が話し合いに応じるそうです」


 私が伝えると。


「本当ですか」


「はい」


「お金、出るんですか」


「まだ金額は決まってません」


「全部出る?」


「それもまだです」


「そう……」


 少し不安そうになる。


「自転車側にも不注意があったと判断されれば、過失相殺の話が出る可能性はあります」


「はい」


「仕事を休んだ分も、どれくらい損害として認められるか資料を揃えます」


「はい」


「だから、今日ですべて終わりではありません」


「それでも」


 岩瀬さんは固定された左手を見ました。


「最初は、市役所の人に『市に責任があるとは限らない』って言われて」


「はい」


「私が自転車だったから悪いのかなって思ってました」


 その言葉に。


 私は少し腹が立ちました。


 誰かが強い言葉で責任を否定すると、


 弱い側は、


 自分が間違っていたのかもしれない。


 と思ってしまう。


 法律を知らなければなおさらです。


「岩瀬さん」


「はい」


「市が払うかどうかは、市が好きに決められることじゃないです」


 所長がちらりと私を見ました。


 言葉を選べ。


 という目。


 私は少し言い直しました。


「法律上、責任があるかどうかです」


 岩瀬さんは黙って聞いています。


「役所だから特別に払わなくていい、でもないし」


「はい」


「逆に、市の車だから何でも全部払ってもらえる、でもない」


「はい」


「普通に事実を調べて」


 私は言いました。


「普通に責任を決めるんです」


 言ってから。


 それが案外すごいことだと思いました。


 国。


 市。


 公務員。


 役所。


 大きな言葉です。


 でも。


 車を運転して人を怪我させた。


 公権力の行使ではない。


 だから民法のルールへ行く。


 相手が市役所だから、


 法律の外へ逃げるわけではない。


 岩瀬さんは少し笑いました。


「普通でいいんですね」


「たぶん」


「たぶん?」


「法律の普通って、調べると結構大変なので」


 相馬先輩が笑いました。


「お前、今日それを嫌ってほどやっただろ」


「道路測って」


「ああ」


「写真撮って」


「ああ」


「家一軒ずつ回って」


「ああ」


「目撃者探して」


「ああ」


「署名もらって」


「ああ」


 私は両手を机につきました。


「スマホ欲しい……」


「またそれか」


「スマホ一台あれば写真も録音も地図も――」


「何言ってんのか知らんが」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「ないもの数えて仕事すんな」


 私は止まりました。


「あるもので証明しろ」


 それだけ言って。


 先輩は火をつけました。


 腹立つ。


 ものすごく腹立つ。


 でも。


 たぶん今日一番大事な言葉でした。


 法律は、


 昭和六十三年も。


 未来も。


 同じ。


 国家賠償法第四条も同じ。


 民法へつながる仕組みも同じ。


 でも。


 法律が同じだからといって、


 戦い方まで同じではありません。


 未来なら残っていたはずの映像がない。


 自動記録もない。


 検索もない。


 だから。


 足で歩く。


 測る。


 撮る。


 人に聞く。


 紙に残す。


 法律は同じ。


 証明するまでの距離が違う。


「こはる」


 片桐所長。


「はい」


「明日、岩瀬さんの仕事先を回れ」


「え?」


「休業損害の裏付け」


「まだ行くんですか」


「当然だ」


「示談協議に入ったんですよ」


「だから何だ」


「……終わってない」


「そうだ」


 私は椅子にもたれました。


 国家賠償法第四条。


 地味な条文だと思っていました。


 前三条以外は民法による。


 それだけ。


 受験生のころなら、


 赤ペンで線を引いて終わりです。


 でも。


 岩瀬さんにとっては、


 その短い一文が、


 「市役所だから責任を取らなくてもいい」


 と、


 「市役所でも民法のルールで責任を負う」


 の境目です。


 短い条文の向こうには、


 まだ何日分もの調査がある。


 何枚もの紙がある。


 何人もの証人がいる。


 それでも。


 道はつながっています。


 国賠法で拾えなければ、


 はい、おしまい。


 ではない。


 その先に、


 民法へ渡る橋がある。


 窓の外では、


 市役所の白い公用車が一台、


 ゆっくり交差点で止まりました。


 きちんと。


 停止線の手前で。


「先輩」


「何だ」


「あの車、ちゃんと止まりましたね」


「当たり前だろ」


「でもちょっと嬉しい」


「安い幸せだな」


「事故のあとだと大事に見えるんですよ」


 たった一度、


 停止線で止まる。


 法律より小さな動作です。


 でも。


 それを怠っただけで、


 一人の手首が折れることがある。


 一人の仕事が止まることがある。


 そして。


 その小さな傷を、


 大きな役所だからという理由で、


 なかったことにしてはいけない。


 法律の厳しさというものは、


 いつも冷たいわけではありません。


 責任があるなら、


 相手が市でも払え。


 予算が乏しくても。


 役所でも。


 公務員でも。


 それだけの厳しさが、


 誰かの生活を支えることがあります。


「こはる」


「はい」


「明日は八時半」


「早い」


「聞き込み三件」


「多い」


「不服か」


「あります」


「聞かん」


「行政不服審査制度すら使わせてもらえない!」


「これは業務命令だ」


「公権力の行使ですか!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「違うだろ」


「じゃあ民法です!」


「何を請求すんだ」


「精神的損害を!」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「認めん」


「即答!」


「因果関係がない」


「ありますよ! ものすごく直接的にありますよ!」


 岩瀬さんが声を上げて笑いました。


 包帯を巻いた左手をかばいながら。


 その笑い声を聞きながら、


 私は思いました。


 国家賠償法第四条。


 目立たない。


 派手な救済制度でもない。


 でも。


 法律と法律のあいだに落ちそうな人を、


 民法の側へちゃんと渡してくれる。


 橋というものは、


 渡れればいい。


 豪華である必要はない。


 岩瀬さんがその橋を渡りきるまで。


 明日もまた、


 私たちはメジャーと紙を持って、


 町を歩くのです。

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