[国家賠償法2条-3条・営造物の設置・管理の瑕疵に基づく賠償責任]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所には、ときどき昼間の証拠がそのまま残っています。
机の上。
泥のついたメジャー。
道路の穴を撮ったポラロイド写真。
井川さんの自転車修理見積書。
道路課への通報記録の写し。
そして。
「先輩」
「何だ」
「この皿、誰が洗うんです?」
「お前」
「やっぱり」
厚揚げを食べたあとの小皿まで残っていました。
国家賠償法の復習を始める前に、なぜ私は醤油皿を洗っているのでしょう。
行政書士受験生だった頃、
テキストには書いてありませんでした。
――国家賠償法二条を理解するには、まず厚揚げの皿を洗うこと。
たぶん永遠に書かれません。
皿を片付けて。
私は自分の机へ戻りました。
ノートを開きます。
上に大きく、
――国家賠償法第二条。
と書く。
その下。
私はしばらく考えてから、
さらに大きく書きました。
――人を見る一条。
――物を見る二条。
「何だそれ」
相馬先輩が覗き込みました。
「覚え方です」
「雑だな」
「でも大事なんですよ」
国家賠償法一条。
公務員が公権力を行使するにあたり、
故意または過失によって違法に他人へ損害を加えた場合。
問題になるのは、
公務員の行為。
一方。
国家賠償法二条。
道路、河川その他の公の営造物の設置または管理に瑕疵があり、
それによって他人に損害が生じた場合。
こちらで見るのは、
人の行為そのものではない。
物の状態。
「昨日の井川さんなら」
私は言いました。
「道路課の誰がサボったか、をまず探すんじゃない」
「ああ」
「道路が安全だったかを見る」
「そうだ」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「二条で最初に考えるのは、人の落ち度ではない」
「営造物の状態」
「そうだ」
私はノートに丸をつけます。
ここが一条と二条の決定的な違いです。
国家賠償法一条。
公務員の違法な行為。
国家賠償法二条。
公の営造物の設置または管理の瑕疵。
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「道路課の担当者が真面目な奴でも、道路が危険なら二条の問題になる」
「はい」
「逆に、担当者が性格悪くても、道路が安全なら二条では責任は出ない」
「性格は関係ないですね」
「じゃあ俺も安心だ」
「何に安心したんですか」
所長が言いました。
「続けろ」
「はい」
私は次の見出しを書きます。
――公の営造物とは何か。
道路。
河川。
上下水道。
庁舎。
学校。
公用車。
公の目的に供されている有体物。
「有体物」
私は口に出しました。
「要するに、形のある物や設備」
「雑に言えばな」
「はい」
重要なのは、
誰が所有しているかではない。
公の用に供されているか。
「ここ、試験では引っかけられそうですね」
私は言いました。
「市の物じゃないと公の営造物にならない、とか」
「違うな」
相馬先輩が言います。
「私道でも、公のために使われて、市が事実上管理してりゃ問題になる場合がある」
「そうです」
私はノートへ書きました。
――所有権より、供用と管理。
私人所有の道路でも、
公衆の通行に使われ、
公共団体が事実上管理しているなら、
公の営造物となり得る。
逆に。
国や市が持っている土地でも、
ただ持っているだけ。
行政活動に使われていない普通財産なら、
当然に二条の「公の営造物」になるわけではない。
「じゃあ昨日の道路は」
相馬先輩が聞きます。
「市道です」
「以上」
「簡単すぎます」
「争う余地あるのか」
「ないです」
昨日の事件では、
ここは問題になりませんでした。
市道。
一般交通のための道路。
典型的な公の営造物です。
本番は次。
私は大きく書きました。
――設置または管理の瑕疵。
「ここですね」
「ああ」
「受験生が一番見るところ」
瑕疵。
日常会話ではまず使わない言葉です。
でも国家賠償法二条では、
ど真ん中。
「所長」
「何だ」
「一言で言うなら」
「通常有すべき安全性を欠いていること」
「ですよね」
私はそのまま書きます。
公の営造物が、
通常有すべき安全性を欠いている。
それが設置または管理の瑕疵。
「昨日の道路だと」
私は思い出しました。
縦四十二センチ。
横五十八センチ。
最大深さ十一センチ。
自転車が通常走る位置。
雨水で穴が見えにくい。
危険表示なし。
通行規制なし。
「普通に道路として使ったとき」
私は言いました。
「自転車の前輪が落ちて転倒する状態」
「それだけ見りゃ危ねえな」
「はい」
「だが」
片桐所長が言いました。
「穴があれば必ず瑕疵ではない」
そこです。
私はペンを止めました。
「ここ、重要ですよね」
「当たり前だ」
道路に一ミリの凹凸も許されない。
そんな意味ではありません。
河川なら、
絶対に氾濫してはいけない。
とも単純には言えない。
公の営造物の安全性は、
構造。
本来の用法。
場所的環境。
利用状況。
その他諸般の事情。
そうした事情を総合して、
具体的、個別的に判断される。
「つまり」
私はノートに書きながら言います。
「『危険があるか』だけじゃない」
「何を見る」
「どういう物か」
「うん」
「どこにあるか」
「うん」
「どう使われるか」
「うん」
「普段どう利用されているか」
「そこだ」
昨日の道路なら。
車だけが通る高速道路ではない。
住宅街の市道。
自転車も通る。
豆腐屋さんも通る。
通勤や通学にも使われる。
しかも、
穴は道路端の誰も行かないところではなく、
自転車が通常走る場所にあった。
「そう考えると」
私は言いました。
「十一センチって数字だけで決まるわけじゃないんですね」
「数字は大事だ」
所長が言います。
「だが数字だけでは足りん」
「場所も」
「使われ方も」
「時間帯も」
「天候も」
「全部見る」
なるほど。
瑕疵というのは、
写真一枚だけで決まるものではない。
写真。
寸法。
利用状況。
周囲の環境。
事故態様。
全部が合わさって、
通常有すべき安全性を欠いていたかを判断する。
「だから現場に行ったんですね」
私が言うと、
相馬先輩が呆れました。
「今さら気づいたのか」
「条文だけ見ても道路幅までは分かりませんから」
「当たり前だ」
私は次に、
赤い線を引きました。
――無過失責任。
「これが二条の怖いところ」
「誰にとってだ」
「管理する側にとって」
国家賠償法二条は、
営造物の設置または管理に客観的な瑕疵があれば、
管理者に過失がなくても責任が成立し得ます。
「つまり昨日」
私は言いました。
「道路課の職員が、事故を起こしてやろうと思ってなくても関係ない」
「当然だ」
「忙しかったとしても」
「ああ」
「人手が足りなくても」
「それだけでは免責にならん」
「予算がなくても」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「そこだ」
私はノートに太字で書く勢いで線を引きました。
――予算不足は万能の免責理由ではない。
「昨日、沢渡課長もそこを出してきましたね」
「あいつなら出す」
「市内全部の道路を一度に直せない、と」
「それ自体は本当だろ」
「はい」
そこは大事です。
予算が有限であること自体は現実。
人員にも限界がある。
でも。
それだけで、
危険な道路を放置した責任が消えるわけではない。
最高裁昭和五十年七月二十五日。
道路管理の瑕疵について、
予算上の制約を理由に免責されるわけではない。
「役所に金がない」
相馬先輩が言います。
「だから被害者が全部かぶれ」
「では困ります」
「法律はそこまで役所に優しくねえ」
「言い方が先輩らしい」
「褒めてねえだろ」
「褒めてません」
でも。
ここで一つ。
私はノートに「注意」と書きます。
「無過失責任だからって」
「うん」
「事故が起きれば必ず賠償、ではない」
「そうだ」
ここを間違えると危ない。
瑕疵が必要。
因果関係も必要。
損害も必要。
さらに。
不可抗力。
時間的に復旧不可能だった場合。
本来の用法から外れた異常な使用。
そういう事情があれば、
二条の責任が否定されることもある。
「昨日、市が最初に言ったのが」
私は言いました。
「大雨による不可抗力」
「ああ」
「もし本当に」
私は考えながら続けました。
「事故の直前、突然道路が崩れて」
「うん」
「市が知る時間も」
「うん」
「応急措置をする時間もなかった」
「なら?」
「管理の瑕疵が否定される余地があります」
相馬先輩が頷きました。
「だから時間を調べた」
「はい」
そこで効いたのが、
聞き込みでした。
事故六日前。
クリーニング店の人が穴を見た。
事故一週間前。
山下さんが市へ通報した。
事故五日前。
市職員が現場確認。
補修対象と記録。
でも。
補修なし。
注意標識なし。
通行規制なし。
「これで」
私は言いました。
「『突然できたから対応できませんでした』が崩れた」
「そうだ」
「つまり判例の逆を証明したんですね」
最高裁昭和五十年六月二十六日。
工事標識板が道路上に倒れて、
危険な状態だった事件。
しかし、
危険発生から事故までが極めて短く、
時間的に安全状態へ復旧することが不可能だったなら、
管理の瑕疵は認められない。
「危険があった」
私はノートに書きます。
「それだけでは足りない場合がある」
次。
「対応可能だったか」
次。
「時間があったか」
次。
「必要な措置を取れたか」
昨日の場合。
一週間。
少なくとも五日前には現場確認。
そこで。
本修繕がすぐできなかったとしても、
何もできなかったのか。
という話になる。
「所長が沢渡課長に聞いたんですよね」
「何を」
「赤旗も置けなかったのか」
「うん」
「コーンも」
「うん」
「応急補修も」
「うん」
「注意表示も」
「それだ」
本格補修が難しい。
そこまでは事情になる。
でも、
危険を知らせる暫定措置まで不可能だったのか。
ここを見る。
「つまり」
私は言いました。
「完全修復できるか、だけじゃない」
「必要な安全措置を取れたかだ」
「はい」
その瞬間。
あの現場の写真が、
法律の文章と重なりました。
黒い水たまり。
何も置かれていない道路。
誰でもそのまま通れる。
危険だと知らない人だけが、
普通に使ってしまう状態。
それが、
管理の瑕疵。
「次」
私はページをめくります。
――第三者への損害。
「利用者だけじゃないんですよね」
「ああ」
営造物そのものを直接使っている人だけが、
保護されるわけではない。
営造物の利用によって、
周囲の第三者へ危険が及ぶ場合。
一定の限度を超える利用が、
第三者へ損害を与えるようなとき。
それでも、
営造物の設置または管理の瑕疵が問題になり得る。
「空港とか道路の騒音なんかも」
私は言いました。
「考え方として出てきますね」
「お前、今日はずいぶん勉強するな」
「昨日足で稼いだので、回収したいんです」
「何を」
「知識を」
相馬先輩が煙草をくわえます。
「受験生は元取ろうとするな」
「勉強時間は元取らないと」
私は次へ進みました。
――本来の用法。
「これも重要」
公の営造物は、
本来の使い方を前提に安全性が判断されます。
通常予測できない異常な方法で使われた場合まで、
管理者が責任を負うとは限らない。
「例えば」
相馬先輩が言いました。
「道路を寝床にして、寝返り打ったら車に轢かれた」
「極端すぎます」
「分かりやすいだろ」
「まあ方向は」
後の判例では、
テニスコートの審判台を本来とは異なる異常な方法で使用した事件で、
設置管理者が通常予測し得ない利用について、
国家賠償法二条の責任が否定されています。
「ただ」
私はノートの端に小さく書きました。
――この判例は平成。
「何だ」
相馬先輩が覗きます。
「未来の判例です」
「じゃあ今は使えねえ」
「はい」
昭和六十三年の私は、
平成五年の最高裁判決を市役所へ持っていくことはできません。
知っていても。
未来でそうなると分かっていても。
まだ存在していない判例は、
証拠にも説得材料にもならない。
「転生者、そこ不便だな」
相馬先輩が言います。
「珍しく理解しました?」
「未来を知ってても使えねえなら、半分役立たずだ」
「言い方!」
でも。
その通りです。
未来知識は、
いつでも万能ではない。
むしろ危険なこともある。
行政不服審査法なら、
現代制度をそのまま持ち込めば間違える。
一方。
国家賠償法二条そのものは、
昭和から現代まで、
条文が実質的に変わっていない。
「そこなんですよね」
私はノートの中央に、
大きく書きました。
――国賠法は同じ。
――証拠の世界は違う。
「また変な標語作ったな」
「でも本当です」
国家賠償法。
昭和二十二年制定。
二条の条文。
道路、河川その他の公の営造物。
設置または管理の瑕疵。
損害。
賠償責任。
未来の私が知っている条文と同じ。
「最初は警戒したんですよ」
「何を」
「また制度変わってるんじゃないかって」
「お前いつもそれだな」
「だって怖いんですよ」
現代なら三か月。
昭和なら六十日。
現代なら審査請求。
昭和なら異議申立て。
未来知識で自信満々に間違える。
これは転生者としてかなり恥ずかしい。
「でも国賠法は」
私は言いました。
「条文自体はほぼそのまま」
「ああ」
「だから安心したら」
「あの穴だ」
「はい」
証拠がない。
事故現場を自動で記録した映像もない。
スマホ写真もない。
防犯カメラもない。
ドラレコもない。
GPSもない。
だから。
メジャー。
ポラロイド。
日報。
伝票。
近所の記憶。
役所への電話。
全部を拾いに行く。
「未来なら」
私は言いました。
「事故直後にスマホで動画を撮る」
「すまほ」
「はい」
「車載カメラを見る」
「ドラレコです」
「知らん」
「近くの店の防犯カメラも探す」
「未来、そこらじゅうにカメラあるのか」
「あります」
「嫌な世の中だな」
「便利でもあります」
でも。
便利は、
証拠を残しやすくする。
昭和では。
現場は、
放っておくと消えます。
穴は埋められる。
雨水は乾く。
人は忘れる。
道路課の記録も、
探さなければただの紙束の中に埋もれる。
「だから所長は最初に」
私は言いました。
「法理じゃなく、証拠はあるのかって聞いた」
「当たり前だ」
片桐所長が答えます。
「正しい条文を知っていても」
所長は机のポラロイドを一枚取りました。
「事実が証明できなければ、相手は認めん」
「裁判でも」
「同じだ」
「示談でも」
「同じだ」
「つまり」
「法律を当てる前に、事実を作るな。拾え」
その言い方が、
妙に残りました。
事実を作るな。
拾え。
自分に都合のいい話へ整えるんじゃない。
そこにある事実を、
抜けなく拾う。
そして。
都合の悪い事実も捨てない。
昨日。
市が言った、
大雨で穴が拡大した可能性。
それも完全には否定できない。
井川さんの速度。
道路の明るさ。
見通し。
それも調べる。
「勝つために」
私は言いました。
「不利なことも見るんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言います。
「こっちが見なくても向こうが見る」
「確かに」
「なら先に自分で潰せ」
乱暴だけど、
実務そのものです。
私は次の見出しを書きました。
――因果関係。
「瑕疵があっても」
「うん」
「それと損害がつながってないと駄目」
「そうだ」
道路に穴があった。
井川さんが怪我をした。
それだけでは足りない。
その穴に前輪が落ちた。
その結果転倒した。
その転倒によって怪我をした。
自転車が壊れた。
配達できず休業した。
「ここで目撃者が効いた」
「酒屋の軽トラック」
「はい」
事故を見た人。
普通の速度だった。
水たまりに入った。
前輪が落ちた。
転倒した。
映像がない時代だからこそ、
目撃者の価値が大きい。
「もし見つからなかったら?」
私は聞きました。
「本人の話」
「はい」
「自転車の壊れ方」
「はい」
「現場の痕跡」
「はい」
「医師の診断」
「はい」
「全部を積む」
「なるほど」
一発で全部分かる証拠がないなら。
小さな証拠を積む。
昭和の証拠集めは、
石垣みたいです。
ひとつひとつは小さい。
でも、
積み上げると崩れにくい。
「次です」
私はノートをめくりました。
――損害。
治療費。
自転車修理費。
休業損害。
慰謝料。
「ここは国家賠償法特有っていうより」
「民事の損害論だな」
「はい」
国家賠償法によって責任が成立しても、
損害額は別に詰めなければならない。
どこまで損害か。
どこまで因果関係があるか。
休業損害はいくらか。
収入資料はあるか。
「井川さんの豆腐屋」
私は言いました。
「現金商売だから、休業損害の証明も意外と大変でしたね」
「ああ」
「帳簿があって助かりました」
「税金払ってる奴は強い」
「そこですか」
「記録がある奴は強い」
確かに。
売上帳。
配達先。
仕入れ。
通常一日にどの程度売っているか。
それがあるから、
事故でどれだけ仕事ができなかったかを数字にできる。
ここでも。
法律だけでは金額にならない。
証拠が要る。
私は少し手を止めました。
「でも」
「何だ」
「行政書士がここまでやって、どこで止まるんです?」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「裁判」
「ですよね」
行政書士は、
訴訟代理人ではありません。
裁判所で、
井川さんの代理人として市を訴え、
主張立証をすることはできない。
「だから昨日」
私は言いました。
「沢渡課長に突きつけた」
「ああ」
「裁判になったら市が危ないところまで」
「そうだ」
これが今回の実務的な立ち位置。
行政書士が裁判で勝つ。
ではない。
裁判になる前に、
事実関係を整理する。
資料を集める。
損害を計算する。
内容証明や請求書を整える。
そして。
行政側へ、
このまま争えば敗訴リスクが高い。
と分かる形にする。
「沢渡課長」
私は思い出しました。
「責任を認めるとは言わなかったですね」
「あいつはそういう奴だ」
「でも損害額の確認に入った」
「つまり」
「市側も危ないと読んだ」
「そういうことだ」
感情で折れたんじゃない。
井川さんがかわいそうだからでもない。
訴訟になった場合の見通し。
証拠。
判例。
費用。
そこを計算して、
示談協議へ進んだ。
「合理的ですね」
「役所は合理的な方が扱いやすい」
相馬先輩が言います。
「事実を積めば動くからな」
「感情で動かない代わりに」
「証拠で動く」
「なるほど」
沢渡課長、
相変わらず面倒だけど、
ある意味では公平です。
「次」
私はページの端へ、
小さく数字を書きました。
――第二項。
「求償ですね」
「ああ」
国家賠償法二条二項。
国や公共団体が賠償した場合。
ほかに損害原因について責任を負う者がいれば、
国または公共団体はその者へ求償できる。
「昨日の事故だと」
私は考えました。
「例えば、道路工事業者が不適切な工事をして穴を作っていて」
「うん」
「市が被害者へ賠償した」
「うん」
「なら、市からその業者へ求償する可能性がある」
「そうだ」
被害者から見れば、
まず公の営造物を管理する国や公共団体に責任追及できる。
そのあと。
内部で、
本当に責任を負うべき者との間を精算する。
「この構造」
私は言いました。
「被害者にはありがたいですね」
「なぜ」
「市と業者のどっちが悪いのかを、被害者が最初から全部決着させなくていい」
「そうだな」
被害者救済を先にする。
内部関係はあとで求償。
そこにも制度の意味がある。
「あと三条」
私は次に進みます。
国家賠償法第三条。
管理する者と、
費用を負担する者が違う場合。
費用負担者も責任を負うことがある。
「例えば」
私はノートに簡単な図を書きました。
A県。
河川管理。
国。
費用の一部負担。
そして事故。
「この場合」
「管理してる県だけじゃない」
「費用負担者の国も責任を負う場合がある」
「うん」
「そのあと内部で求償」
「そうだ」
国賠法は、
被害者側に、
行政内部の複雑な財布事情を全部背負わせない。
誰が管理しているか。
誰が費用を出しているか。
そこが分かれていても、
一定の場合は責任主体を広げて、
被害者救済を図る。
「これ」
私は言いました。
「役所内部の事情より、まず被害者を救うって発想が強いですね」
「一条も二条も、結局そこだろ」
相馬先輩が言います。
「行政側が中で揉めるのはあとでやれ」
「言い方は雑ですけど」
「またそれか」
「内容は合ってます」
私は少しだけノートを見返しました。
かなり埋まっています。
一条と二条。
公の営造物。
瑕疵。
通常有すべき安全性。
無過失責任。
不可抗力。
時間的復旧可能性。
予算不足。
第三者損害。
異常な使用。
因果関係。
損害。
求償。
三条。
「多い……」
「試験範囲だからな」
相馬先輩が言います。
「二条だけでこれですか」
「嫌なら落ちろ」
「極端」
でも。
昨日の事件と重ねれば、
一つずつ浮かびます。
公の営造物。
市道。
瑕疵。
大きな穴。
通常有すべき安全性。
自転車が普通に走る場所で危険だった。
無過失責任。
担当者個人の落ち度だけが問題ではない。
不可抗力。
市は大雨を主張した。
時間的復旧可能性。
事故一週間前から穴が存在。
五日前に現場確認済み。
予算不足。
本修繕できない事情だけでは免責されない。
応急措置。
何もしていなかった。
因果関係。
目撃者。
損害。
治療費、自転車、休業。
「こうして見ると」
私は言いました。
「問題集一問分が、現場だと二日かかる」
「だから問題集は便利なんだ」
「条件が全部書いてありますもんね」
「現場は自分で条件を集める」
それです。
試験問題なら。
道路には穴があった。
市は一週間前から知っていた。
措置を取らなかった。
事故が起きた。
問う。
国家賠償法二条の責任は成立するか。
数行。
でも現実では。
一週間前から知っていた。
その一文を作るのに、
米屋へ行き、
クリーニング店へ行き、
駄菓子屋へ行き、
町工場へ行き、
日報を見てもらい、
市役所へ行き、
通報記録を確認する。
「試験問題って」
私は呟きました。
「証拠集めが終わった世界なんですね」
片桐所長がこちらを見ました。
「そうだ」
短い。
でも。
それが一番腑に落ちました。
法律問題の事実は、
最初から書いてある。
実務では、
事実そのものを探さなければならない。
そして。
探せなかった事実は、
なかったのと同じように扱われることがある。
「怖いですね」
「何が」
「真実と、証明できることが別って」
所長は少し黙りました。
「だから証拠を取る」
「はい」
「早く」
「はい」
「現場が変わる前に」
「はい」
穴は、
もう埋められています。
もし。
私たちが三日遅かったら。
写真は撮れなかった。
寸法も測れなかった。
雨水がどう溜まっていたかも分からない。
住民の記憶も、
少しずつ曖昧になっていたかもしれない。
市が道路を直したあとなら、
現場だけ見ても、
「以前危険だった」
ことは分からない。
「現場百回って」
私は言いました。
「百回行けって意味だけじゃないんですね」
「何だと思う」
「紙より先に、現物を見ろ」
所長は答えません。
でも。
少しだけ頷きました。
「最後に」
私はノートの一番下へ、
枠を書きました。
「一行の覚え書き」
「また長くするなよ」
相馬先輩が言います。
「考えます」
国家賠償法二条。
人ではなく物。
公の営造物。
通常有すべき安全性。
無過失責任。
でも事故があれば自動的に責任ではない。
不可抗力。
時間的な復旧可能性。
利用状況。
具体的、個別的判断。
そして。
証拠。
私は書きました。
――国賠二条は、「誰が悪い」より「その物は安全だったか」を見る。
「まあまあだな」
相馬先輩が言います。
「もう一つあります」
「一行だろ」
「でも今回、これも大事です」
その下へ書きます。
――法律が同じでも、証拠がなければ届かない。
相馬先輩が黙りました。
「二行じゃねえか」
「どっちも捨てられません」
「毎回それ言うな」
「じゃあ合体します」
私は少し考えました。
そして。
最後に一行。
――国賠二条は、物の安全性を問い、その答えは現場の証拠で決まる。
「長い」
「内容が大事です」
「試験直前に覚えにくい」
「では超短縮版」
さらに下へ書きました。
――二条は物、勝負は現場。
相馬先輩が吹き出しました。
「急に雑になったな」
「覚えやすいでしょう」
「まあな」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「それでいい」
「所長まで?」
「現場を忘れなければな」
私はノートを閉じました。
窓の外は、
もう暗くなっていました。
井川さんが転んだ市道も、
今ごろ街灯に照らされているはずです。
穴は埋まった。
注意板も立った。
たぶん今日、
何人もの人がそこを通った。
誰も転ばずに。
何も起きずに。
それが普通です。
道路は、
人を感動させるためにあるわけではない。
安全に通れて当然。
橋も。
公園も。
学校も。
河川も。
公のための物は、
普通に使えて当たり前。
だから。
その「当たり前」が失われたとき、
国家賠償法二条が出てくる。
担当者を罰するためではなく。
役所を懲らしめるためでもなく。
失われた安全の責任を、
誰か一人の運の悪さで終わらせないために。
法律は、
物の状態を見ます。
道路は安全だったか。
河川は安全だったか。
施設は通常備えるべき安全を備えていたか。
人間の言い訳より先に、
物そのものを見ます。
そして。
予算がなかった。
忙しかった。
知らなかった。
雨だった。
そういう事情が出てきても。
本当に何もできなかったのか。
いつから危険だったのか。
どんな措置なら取れたのか。
一つずつ、
事実へ戻していく。
その冷たさが。
井川さんの治療費になり。
壊れた自転車の修理代になり。
次の人が転ばない道路にもなった。
私は机の端に置いてあったポラロイド写真を見ました。
道路の穴。
横にメジャー。
泥。
雨水。
未来なら。
たぶんスマホで数秒。
昭和六十三年なら。
長靴を履いて、
しゃがみ込んで、
何度も測って、
フィルム代を気にしながら撮る。
法律は同じ。
でも。
法律を現実へ連れてくる道具は、
全然違う。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「帰るぞ」
「はい」
私は立ち上がりました。
そこで。
「……あ」
「何だ」
机の下。
泥のついた長靴。
「これ誰が洗うんです?」
相馬先輩が私を見ました。
「履いた奴」
「合理的ですけど嫌です」
「不服か」
「あります」
「どこに申し立てる」
私は奥を見ました。
「所長」
片桐所長が即答しました。
「却下」
「早い!」
「理由」
相馬先輩が笑います。
「予算不足」
「長靴洗うのに予算いりませんよ!」
「人員不足」
「私を人員に数えてください!」
「だからお前が洗え」
「完全に負けた!」
私は長靴を持ち上げました。
泥が乾いて、
ぽろっと床に落ちます。
「あ」
「こはる」
所長の声。
「はい」
「床も」
「分かってます!」
どうやら。
国家賠償法二条が無過失責任でも、
片桐行政書士事務所の泥汚れについては、
犯人が明白な限り、
きっちり本人責任らしいです。
もっとも。
床が通常有すべき清潔さを欠いた原因については。
私にも、
争う余地はなさそうでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




