[国家賠償法2条-3条・営造物の設置・管理の瑕疵に基づく賠償責任]現場編 「予算がなくて直せなかった」の嘘。道路の穴に落ちたのは自転車だけじゃない、無過失責任を支える昭和の証拠集め
道路の穴は、落ちてからでは小さく見えます。
でも。
そこに人が落ちる前に、
どれだけ長く開いていたのか。
誰が知っていたのか。
直す時間はあったのか。
それを証明しようとすると、
穴は急に大きくなります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の午前九時すぎ。
入口の引き戸が開いた瞬間、私は思いました。
――あ。
これは、相談より先に椅子を出すやつだ。
「どうぞ、こちらへ」
「すみません」
入ってきた男性は、右足を引きずっていました。
年は四十代半ばくらい。
作業着。
左手に紙袋。
右肘には白い包帯。
頬にも小さな擦り傷があります。
「交通事故ですか」
私が聞くと、男性は少し困ったように笑いました。
「車とはぶつかってないんです」
「では?」
「道路に負けました」
「道路に?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「珍しい負け方だな」
「先輩」
「何だ」
「怪我人に最初に言うことじゃないです」
「じゃあ何て言う」
「大丈夫ですか、とか」
男性が苦笑しました。
「まあ、道路に負けたっていうのが、一番近いんですけどね」
名前は、
井川正夫さん。
四十三歳。
町外れで豆腐屋を営んでいます。
朝四時から豆腐を作り、
午前中、自転車で近所へ配達する。
昨日の朝もいつもどおり、
店の裏手から市道へ出た。
そこで。
「前輪が、ずぼっと」
「穴に?」
「はい」
「どのくらいの」
井川さんは両手で円を作りました。
「これくらい」
「分かりません」
「すみません」
「直径で言うと?」
「四十……いや、五十センチくらいでしょうか」
「深さは?」
「そこまでは」
うん。
まず現場を見ないと駄目ですね。
「転んだとき、車は来ていましたか」
「後ろから軽トラックが一台」
「接触は?」
「してません」
「避けようとして穴に入った?」
「いえ。穴が見えなかったんです」
「なぜ?」
「朝早かったのと」
井川さんは一度考えました。
「穴の中に水が溜まってたんです」
雨。
なるほど。
「昨日、降ってました?」
「夜中にかなり」
そこで片桐所長が初めて顔を上げました。
「穴は、雨でできたのか」
「市役所ではそう言われました」
「行ったんですか」
「はい」
井川さんは紙袋から一枚の書類を出しました。
医療費の領収書。
診断書。
そして市役所の担当課でもらったというメモ。
「道路管理の方に、治療費だけでも何とかならないかと相談したんです」
「何て?」
「大雨で急に傷んだ可能性があるから、市の責任とは言えないって」
はい。
来ました。
不可抗力。
そしてたぶん、このあと。
「あと」
井川さんが言いました。
「道路はあちこち傷んでいるけど、全部すぐ直せる予算はないとも言われました」
出ました。
予算。
役所の万能カードのひとつ。
使う場面によっては必要な事情。
でも、
出せば何でも消える魔法ではありません。
相馬先輩が新聞を畳みました。
「誰が言った」
「道路課の方です」
「名前は?」
「そこまでは」
「まあいい」
相馬先輩が私を見る。
「こはる」
「はい」
「何だと思う」
「国家賠償法二条」
即答しました。
「早えな」
「今回は分かりやすいです」
道路。
公の営造物。
設置または管理の瑕疵。
通常有すべき安全性。
そして損害。
受験生だった頃なら、
この辺で赤ペンを引いて終わっていました。
でも。
ここは現場。
井川さんの右肘には包帯が巻いてある。
豆腐を積んでいた自転車も壊れた。
配達にも出られない。
紙の上では一行でも、
生活では一日が重い。
「二条なら」
私は口に出してから、止まりました。
嫌な予感がした。
またです。
昭和六十三年。
現代知識をそのまま使う危険。
行政不服審査法で何度も痛い目を見ています。
「待ってください」
「何だ」
相馬先輩が言います。
「国賠法って、この時代……」
私は書棚へ飛びました。
「おい」
「確認します」
「何を」
「条文です」
国家賠償法。
昭和二十二年法律第百二十五号。
私はページをめくります。
第二条。
道路、河川その他の公の営造物の設置又は管理に瑕疵があったために他人に損害を生じたときは――
「……同じだ」
「何が」
「同じです!」
私は思わず声を上げました。
「国家賠償法、未来と同じです!」
「何言ってんだお前」
「条文が!」
「法律なんだから条文はあるだろ」
「そうじゃなくて!」
異議申立て。
六十日。
現代では消えた制度。
行政法は年代が変われば地雷原。
そう警戒していたのに。
「国賠法、変わってない……」
私はしみじみ呟きました。
「ありがたい……」
相馬先輩が本気で気味悪そうに見ました。
「法律読んでありがたがる奴、初めて見たぞ」
でも私には分かる。
未来人にとって、
法改正されていない法律は、
砂漠のオアシスです。
これなら知識をそのまま使える。
国家賠償法二条。
道路などの公の営造物。
通常有すべき安全性を欠く状態。
設置または管理の瑕疵。
そして。
管理者に過失がなくても責任が成立しうる。
「よし」
私は拳を握りました。
「これならいけます」
片桐所長が言いました。
「何がある」
「え?」
「証拠だ」
ぴたり。
止まりました。
「穴があります」
「今もあるか」
「……たぶん」
「大雨で昨夜できた穴かもしれん」
「市がそう言ってます」
「昨日の朝、井川さんが転んだ時点で、その穴がどんな状態だった」
「それは」
「いつからあった」
「……」
「市は知っていたか」
「……」
「直す時間はあったか」
「……」
「井川さんがどんな走り方をしていた」
「……」
所長の質問が続くたび、
私の自信が空気の抜けた風船みたいにしぼんでいきます。
「でも」
私は言いました。
「現場を撮れば――」
そこで。
完全に止まりました。
撮れば。
何で?
私は自分の服を見ます。
ポケット。
もちろんスマートフォンはありません。
井川さんの自転車にも、
ドライブレコーダーなんかありません。
近所の建物を思い浮かべる。
防犯カメラ。
あるわけがない。
「……詰んだ」
「何がだ」
相馬先輩が聞きます。
「証拠です」
「集めりゃいいだろ」
「どうやって」
「現場行って」
「はい」
「穴測って」
「はい」
「写真撮って」
「はい」
「近所に聞いて」
「……はい?」
「他に何がある」
私は相馬先輩を見ました。
この人。
スマホがないというだけで、
心が一ミリも折れていない。
昭和の人、強い。
というか。
私が未来に甘やかされていたのかもしれません。
事故が起きた。
写真。
動画。
位置情報。
通話履歴。
防犯カメラ。
ドラレコ。
現代なら、
世界のあちこちに証拠が勝手に残る。
でも昭和は違う。
残らない。
だから、
人間が残しに行く。
「行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今から?」
「穴は待ってくれねえ」
「道路課が埋めたら終わりだ」
片桐所長も立ちます。
私は慌てて鞄を持ちました。
「何入れればいいです?」
「メジャー」
「はい」
「カメラ」
「はい」
「筆記具」
「はい」
「長靴」
「……長靴?」
相馬先輩が私の靴を見ました。
「その靴で泥に入るなら好きにしろ」
三分後。
私は事務所の裏から、
どう見ても私のサイズではない長靴を借りました。
「大きいです」
「我慢しろ」
「歩くたびに脱げます」
「紐で縛れ」
「行政書士見習いの格好じゃない」
「現場で資格証ぶら下げて歩くわけじゃねえだろ」
正論。
今日二回目。
事故現場は、
井川豆腐店から三百メートルほど離れた市道でした。
幅は車二台がぎりぎりすれ違える程度。
片側に古い側溝。
歩道はありません。
住宅と小さな商店が並び、
朝は通勤車と自転車が多いらしい。
「ここです」
井川さんが指しました。
「……でかい」
思ったより大きい。
道路の左寄り。
舗装がえぐれ、
黒い水が溜まっている。
水面だけ見ると、
浅い水たまりにしか見えません。
「これなら入るな」
相馬先輩がしゃがみ込みました。
メジャー。
「横、五十八」
「縦は」
「四十二」
「深さ」
棒を突っ込む。
「一番深いところで十一センチ」
「十一?」
自転車の前輪なら十分危険です。
私はノートに書きます。
縦四十二センチ。
横五十八センチ。
最大深さ約十一センチ。
「位置も測れ」
所長が言いました。
「側溝から?」
「そうだ」
「何のためです?」
「井川さんの進行位置と重ねる」
なるほど。
穴が道路の端の、
普通なら誰も通らない場所にあるのか。
自転車が通常走る位置にあるのか。
それも違う。
私はメジャーを引きました。
「側溝の縁から、穴の内側まで四十センチくらい」
「車道中央からは」
「ええと……」
泥。
長靴。
メジャー。
かがむ。
昭和実務、
腰に来ます。
「こはる」
「はい」
「数字読め」
「いま読んでます!」
「遅い」
「スマホなら写真に撮って後で拡大できるのに……」
「すまほ?」
「独り言です!」
測る。
書く。
矢印を引く。
方角を書く。
電柱番号。
近くの家。
交差点までの距離。
片桐所長は一切急がせませんでした。
「写真」
相馬先輩が言います。
「はい」
持ってきたのはポラロイドカメラでした。
「うわ」
「何だ」
「なんか珍しくて」
「カメラだぞ」
「知ってます」
撮影。
穴全体。
道路との位置関係。
メジャーを当てた状態。
水を少し汲み出して底面。
井川さんの自転車。
曲がった前輪。
擦れたペダル。
「枚数気をつけろ」
相馬先輩が言います。
「フィルムは高い」
「現代のデジタルカメラが恋しい……」
「また訳分からんこと言ってるな」
写真が、
すぐ出てきます。
ゆっくり像が浮かぶ。
便利。
でも。
一枚失敗したら、
普通に金が飛ぶ。
私は一枚一枚、
写真の裏へ、
日付。
時刻。
場所。
撮影方向。
を書きました。
「ここまでで、穴が危険なのは分かりました」
「まだ半分だ」
所長が言いました。
「問題は」
「いつからあったか」
「そうだ」
そこです。
もし昨日の大雨で、
事故直前に突然舗装が崩れたなら。
市が危険を知る時間も、
直す時間もなかった。
道路に危険があっても、
時間的に復旧することが不可能な場合まで、
常に管理の瑕疵になるわけではない。
逆に。
何日も前から穴があり、
市が知っていた。
あるいは知り得た。
そのうえ何も措置をしなかった。
となれば。
話は大きく変わる。
「聞き込みだ」
相馬先輩が言いました。
私は周囲を見回しました。
「一軒ずつ?」
「他に方法あるか」
「……ありません」
昭和、
足が証拠媒体です。
一軒目。
米屋。
「穴?」
店主のおじさんが道路を覗きます。
「ああ、あれか」
「いつからありました?」
「さあなあ」
「昨日より前ですか?」
「前だろ」
「どのくらい」
「一週間……いや、もっとかな」
曖昧。
でも一件。
二軒目。
クリーニング店。
「先週、自転車で通って怖かったですよ」
「先週?」
「火曜日だったかな」
「日付分かります?」
「伝票見れば」
店の奥から伝票を持ってきてくれました。
「この日。配達に出た帰りだから」
事故の六日前。
穴はすでにあった。
「大きさは?」
「昨日よりは小さかったと思うけどね」
「市役所には?」
「言ってない」
三軒目。
駄菓子屋。
「あそこ危ないって、子供にも言ってたのよ」
「いつ頃から?」
「十日くらい前」
「十日?」
「そうそう。向かいの工場の人が、市に電話したって言ってたわよ」
私は顔を上げました。
「誰です?」
「山下さん」
四軒目。
町工場。
山下さん。
五十代。
油に汚れた作業服。
「ああ、電話したよ」
「市役所へ?」
「道路課」
「いつです?」
「先週の月曜」
「間違いありません?」
「給与計算の日だったからな」
「何て伝えました?」
「道路に穴が開いて危ない。雨降ったら見えなくなるって」
私と相馬先輩が同時に黙りました。
「雨降ったら見えなくなる」
事故の状況そのものです。
「担当者の名前、分かりますか」
「名前までは」
「受付記録とか」
「向こうにあるんじゃないか」
ある。
たぶん。
役所に。
片桐所長が聞きました。
「その後、何かされたか」
「一回来たよ」
「市の人が?」
「軽トラックで二人」
「いつ」
「二日後くらいかな」
「穴は見ていた?」
「見てた見てた。棒突っ込んでた」
私の背中がぞくっとしました。
知っていた。
市は。
事故の何日も前に。
現場まで来ている。
「その後は?」
「何も」
「囲いは?」
「ない」
「標識は?」
「ない」
「コーンは?」
「ない」
「応急処置は?」
「ないねえ」
相馬先輩が笑いました。
怖いやつです。
怒っている時の笑い方です。
「こはる」
「はい」
「書いたか」
「全部」
「山下さん」
片桐所長が言いました。
「今の話、書面にしていただけますか」
「書面?」
「事故前から穴があり、市役所へ連絡したこと。市の職員らしい人が現場確認に来たこと」
「ああ。いいよ」
「日付は分かる範囲で」
「それなら工場の日報見れば分かる」
出ました。
昭和のログ。
紙。
日報。
帳簿。
人間の記憶だけではなく、
仕事の記録を当たる。
所長は最初からそこまで考えていたらしい。
「所長」
「何だ」
「現場百回って、こういう意味ですか」
「一回目だ」
「百回行くつもりですか」
「必要ならな」
やめてください。
私の長靴が先に死にます。
午後。
市役所。
道路課で受付記録を確認したいと申し出ると、
当然ながら簡単には見せてもらえません。
でも。
山下さん本人から、
自分がした通報内容について確認してほしいという一筆をもらっている。
さらに、
事故の被害申告書も提出する。
担当者が内部確認へ行き、
三十分ほど待たされました。
その間。
「これ、行政書士の仕事なんですか」
私は小声で聞きました。
「何が」
「穴測って、写真撮って、近所回って」
「書類作るための事実確認だ」
「かなり肉体労働ですね」
「法律屋が紙だけ見て仕事できると思うな」
相馬先輩は椅子にもたれました。
「紙は最後だ」
「最後?」
「現場が先。事実が次。法律はそのあと。紙は一番最後」
受験生時代の私には、
完全に逆でした。
条文。
判例。
問題集。
それから事例。
でも実務は、
起きたことが先にある。
法律は、
あとからそこへ当てにいく。
やがて。
道路課の職員が戻ってきました。
「確認しました」
「ありましたか」
片桐所長が聞きます。
「先週月曜、道路陥没の連絡を受けています」
「現場確認は」
「水曜に実施しています」
「危険性の判断は?」
職員が一瞬黙ります。
「補修対象として記録されています」
「補修予定日は」
「未定でした」
「なぜ」
「予算と、人員の関係もありまして」
出た。
予算。
今日二回目。
「応急措置は」
「……特に」
「危険標識は」
「設置していません」
「通行規制は」
「していません」
相馬先輩が椅子から立ちました。
「で、昨日、人が転んだ」
「結果としては」
「結果としてじゃねえ」
声は低い。
「事故の一週間前に通報があった」
「はい」
「五日前に現場も見てる」
「はい」
「補修対象と判断した」
「はい」
「でも直してない」
「……はい」
「囲ってもない」
「はい」
「標識もない」
「はい」
「それを『大雨で急にできた可能性』って言ったのか」
職員は返事をしませんでした。
私は少しだけ寒くなりました。
雨が穴を作ったんじゃない。
少なくとも、
穴そのものは前からあった。
雨は、
危険を見えなくした。
その危険は、
予測されていた。
山下さんが、
雨が降ったら見えなくなる。
とまで言っていた。
「道路課長と話したい」
片桐所長が言いました。
しかし。
話は道路課だけでは終わりませんでした。
二日後。
正式な損害賠償請求書の下準備を整え、
総務課へ行く。
そこにいたのは。
「またですか」
「こちらの台詞です」
沢渡課長でした。
灰色の背広。
細い眼鏡。
そして、
こちらが紙を十枚持って行くと、
心の中で十一枚目を要求してきそうな顔。
「今回は道路事故と聞きましたが」
「市道の管理です」
相馬先輩が資料を置きました。
沢渡課長は一枚ずつ見ます。
現場見取図。
穴の寸法。
写真。
井川さんの診断書。
自転車修理見積書。
休業損害の資料。
周辺住民の聴取書。
山下さんの申述書。
道路課への通報日。
現場確認日。
補修対象とされた記録。
「国家賠償法第二条ですね」
沢渡課長が言いました。
「そうです」
私は答えました。
「道路は公の営造物」
「ええ」
「通常有すべき安全性を欠いていた」
「そこは争いがあります」
来ました。
「道路というものは常に完全な平面ではありません」
「それは分かっています」
「多少の凹凸まで全部瑕疵だとすれば、市は道路を維持できません」
「今回、多少ですか」
私は写真を指しました。
縦四十二センチ。
横五十八センチ。
最大深さ十一センチ。
自転車の通常走行位置。
夜明け前。
雨水で水たまりのように見える。
「大雨の影響もあります」
「穴ができたのは大雨の前です」
「拡大した可能性はある」
「それはあります」
私は認めました。
沢渡課長の眉が少し上がります。
「否定しないんですか」
「否定できないことを否定しても意味ないです」
「少し成長しましたね」
「何目線ですか」
「続けてください」
この人。
ほんとにたまに先生みたいになります。
「穴が多少拡大したとしても、市は事故の一週間前に通報を受けています」
「はい」
「五日前には職員が現場確認しています」
「はい」
「補修対象として記録している」
「はい」
「それでも補修しなかった」
「予算と人員には限界があります」
沢渡課長の声は落ち着いていました。
「市内には補修が必要な道路が多数あります。一箇所だけを見て、直ちに補修しなかったことを責められても困ります」
「予算がないなら」
相馬先輩が言いました。
「人を怪我させてもいいのか」
「そうは言っていません」
「じゃあ何だ」
「限られた財源の中で、優先順位をつけて対応しているということです」
「国賠法二条は」
相馬先輩が資料の一枚を指で叩きました。
「財布の中身まで見てくれるのか」
沢渡課長が黙りました。
「道路の瑕疵について、予算不足だから免責されるわけじゃねえ」
私は内心で頷きました。
最高裁昭和五十年七月二十五日。
道路管理。
故障車が長時間放置され、
必要な措置が講じられなかった事件。
そして、
道路管理の瑕疵を予算上の制約だけで免れることはできない。
少なくとも、
「予算がなかった」
だけでは終われない。
「ですが」
沢渡課長が続けました。
「国家賠償法二条は、道路に危険があれば自動的に成立するものではありません」
「もちろん」
片桐所長が言いました。
「時間的に措置が不可能なら、瑕疵が否定される場合がある」
沢渡課長が片桐所長を見る。
「ご存じでしたか」
「昭和五十年六月二十六日」
「工事標識板の事件ですね」
「そうだ」
私は二人を交互に見ました。
法律で殴り合っているのに、
会話が静かすぎる。
「だから確認した」
所長が続けます。
「この穴は事故直前に突然できたのか」
写真。
「違う」
聴取書。
「事故六日前には存在した」
山下さんの申述書。
「一週間前には市へ通報されていた」
道路課記録。
「五日前には職員が現認した」
補修記録。
「危険を認識し、補修対象とした」
そして。
「それでも、補修も警告も通行規制もしていない」
沢渡課長の指が止まりました。
片桐所長は静かに言いました。
「予算がなくて本修繕できなかったとしても、赤旗を立てることまで不可能だったのか」
沢渡課長は答えません。
「コーンを置くことも」
沈黙。
「応急的に穴を埋めることも」
沈黙。
「危険標識を置くことも」
沈黙。
「全部不可能だったのか」
部屋が静かになりました。
そこなんだ。
私はようやく、
今日ずっと追いかけていたものが、
一本につながった気がしました。
国賠法二条は、
誰かのミス探しではない。
担当者が悪かったか。
怠けたか。
サボったか。
そこだけを追う話ではない。
道路が、
その時、
通常備えているべき安全性を欠いていたのか。
そしてそれを、
客観的に証明できるか。
それが中心。
「こちらも」
沢渡課長が言いました。
「事故が起きた以上、事実関係は再検討します」
「再検討?」
相馬先輩の声が低くなります。
「また時間稼ぎか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「損害額を確認します」
私は瞬きしました。
「え?」
「責任を認める、と言っているわけではありません」
「はい」
「ですが」
沢渡課長は書類を揃えました。
「訴訟になった場合のリスクは検討します」
来た。
沢渡課長の得意分野。
正義感ではなく、
敗訴可能性。
感情ではなく、
計算。
「井川さん側が」
沢渡課長が続けます。
「事故前からの瑕疵の存在」
「はい」
「市への通報」
「はい」
「現場確認」
「はい」
「補修対象との認識」
「はい」
「その後、事故まで措置を講じなかったこと」
「はい」
「そして事故態様」
沢渡課長は、
ポラロイド写真を一枚持ち上げました。
「ここまで揃えている以上、市としても『知らなかった』で通すのは難しいでしょう」
私は、
少しだけ拳を握りました。
でも片桐所長は動きません。
「損害額は」
「治療費、自転車修理費、配達休業分。慰謝料についても資料を確認します」
「過失相殺は?」
「事故状況を見ます」
「井川さんは通常速度だった」
「それも確認します」
「目撃者がいる」
「読みました」
そう。
最初に言っていた軽トラック。
その運転手も、
相馬先輩が探し当てていました。
近所の酒屋。
事故当時、
井川さんは普通の速度で走っていた。
急ハンドルでもない。
蛇行でもない。
水たまりに入った途端、
前輪が落ちて投げ出された。
そこまで供述書にしてあります。
この二日。
私たち、
よく働いた。
いや。
歩いた。
とにかく歩いた。
「行政書士は」
沢渡課長が私を見ました。
「裁判までは代理できませんね」
「分かってます」
「訴訟なら弁護士です」
「分かっています」
「では、なぜここまで」
「裁判しなくて済むなら」
私は答えました。
「その方が井川さんは助かります」
沢渡課長が黙る。
「何年も裁判することより」
私は続けました。
「治療費が払えて、自転車が直って、また豆腐を配れることの方が大事です」
相馬先輩が横で何も言わない。
「私たちは裁判所で市と戦えません。でも」
机の上の資料を見ます。
「裁判になったら、市がどれだけ危ないか。それが分かるところまで事実を揃えることはできます」
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「言い方が物騒だ」
「先輩にだけは言われたくないです」
沢渡課長の口元が、
ほんの少し動きました。
「では」
彼は言いました。
「内容証明郵便による正式請求を出してください」
「それで?」
「市の内部手続に回します」
「示談協議も?」
「責任と損害額について合意できるなら」
一歩。
前へ進みました。
それから十二日。
井川さんの件について、
市から連絡が来ました。
治療費。
自転車修理費。
休業損害。
その他一部の損害。
市は、
訴訟外で賠償に応じる方向で調整する。
「本当ですか」
井川さんは、
事務所の椅子で何度も聞き返しました。
「まだ最終的な金額は決まってません」
私は言いました。
「でも、市が賠償協議に入ります」
「裁判しなくていいんですか」
「金額で折り合わなければ、弁護士さんへ引き継ぐことも考えます」
「でも今は」
「今は、示談の話ができるところまで来ました」
井川さんは、
しばらく膝を見ていました。
「私」
小さな声でした。
「最初、市役所で言われたとき」
「はい」
「仕方ないと思ったんですよ」
「……」
「雨が降ったんだから」
「はい」
「市にも金がないんだから」
「はい」
「道路全部直せるわけじゃないんだから」
その言葉が、
妙に寂しく聞こえました。
困っている側が、
先に役所の事情を理解して、
自分の損害を諦めようとする。
こういうこと、
たぶん多いんでしょう。
「でも」
井川さんは言いました。
「一週間前から分かってたんですよね」
「はい」
「誰かが連絡して」
「はい」
「市の人も見に来てた」
「はい」
「じゃあ」
井川さんは少しだけ笑いました。
「私が運が悪かっただけじゃなかったんですね」
私はすぐには答えませんでした。
運。
確かに。
雨の日にそこを通った。
その瞬間に前輪が入った。
それは運かもしれない。
でも。
危険な穴が何日もそこにあり、
管理する側が知り、
何の措置もしなかった。
そこまで、
運という言葉で片付けなくていい。
「はい」
私は言いました。
「そこは分けて考えていいと思います」
井川さんが頷きました。
「ありがとうございます」
「まだ終わってませんよ」
「はい」
「金額の話もあります」
「はい」
「それに」
私は机の端に置いた書類を見ました。
「市が穴を直すかも確認しないと」
「あ」
全員、
忘れていました。
相馬先輩が立ち上がります。
「もう直ってるぞ」
「え?」
「今朝見た」
「行ったんですか?」
「通り道だ」
「絶対わざわざ見に行ったでしょ」
「知らん」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「舗装は」
「全面じゃない。穴だけ応急補修」
「標識は」
「工事跡のところに注意板あり」
「そうか」
所長はそれだけ言って、
また帳簿へ戻りました。
井川さんが笑いました。
「じゃあ、次の人は転ばなくて済みますね」
その言葉で。
私は少しだけ救われました。
賠償というと、
お金の話に見えます。
もちろん、
お金は大事です。
治療費。
修理代。
休業損害。
怪我をした人が生活を立て直すには、
現実に必要です。
でも。
国賠法二条が問うのは、
壊れた自転車の値段だけではない。
その道路が、
人が普通に使える状態だったのか。
公のために使われる物が、
普通に備えているべき安全性を持っていたのか。
そこです。
そして。
法律がそこを厳しく問うから、
次の穴が埋まることがある。
夕方。
井川さんが帰ったあと。
私は机に突っ伏していました。
「疲れた……」
「何だ」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「国賠法は変わってないのに」
「ああ」
「実務が違いすぎます」
「何が」
「スマホがない」
「知らん」
「ドラレコがない」
「知らん」
「防犯カメラもない」
「だから何だ」
「全部、自分で取りに行かないと証拠がない」
「当たり前だろ」
私は顔を上げました。
「未来では、事故があると勝手に映像が残ってることが多いんですよ」
「未来は暇なんだな」
「機械が働いてるんです」
「今は人が働け」
「働きましたよ!」
足が痛い。
長靴で歩き回ったせいです。
「でも」
私はポラロイド写真を一枚持ちました。
穴。
メジャー。
道路。
雨水。
そこに、
小さな字で撮影日時。
「法律は同じなんですよね」
「何度目だその話」
「国家賠償法二条」
私は言いました。
「昭和も未来も同じ」
「そうなのか」
「はい」
公の営造物。
設置または管理の瑕疵。
通常有すべき安全性。
無過失責任。
条文は変わらない。
判例の考え方も、
今の私が知っているものとつながっている。
でも。
「同じ法律でも」
私は言いました。
「証明の仕方が違えば、戦い方は全然違うんですね」
相馬先輩が煙を吐きます。
「法律が勝手に証拠集めてくれると思ってたのか」
「そこまで甘くないです」
「似たようなもんだろ」
「う」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「条文は、人を救わん」
私は所長を見ました。
「証拠も、人を救わん」
「え?」
「条文と事実をつなげる」
所長が机の写真を指します。
「そこまでやって、初めて仕事になる」
静かな声でした。
「はい」
私は写真を見ました。
たった一枚のポラロイド。
でも。
その裏には、
穴を測った数字がある。
周辺の位置がある。
六日前に見た人がいる。
一週間前に通報した人がいる。
市の現場確認記録がある。
補修対象とした記録がある。
事故を見た人がいる。
そして、
怪我をした人がいる。
そうやって積み上げて初めて、
「道路に穴がありました」
が、
「市が賠償責任を負う可能性の高い事故でした」
に変わる。
法律って、
冷たいものだと思っていました。
瑕疵。
損害。
因果関係。
賠償。
どれも、
豆腐屋さんの朝には似合わない。
でも。
役所が、
予算がないから。
雨だから。
誰も悪くないから。
そう言ったとき。
法律は、
それでも駄目なものは駄目だ。
と冷たく言ってくれる。
その冷たさが、
泣き寝入りしそうな人の側に立つことがある。
「先輩」
「何だ」
「国賠法二条、好きになりそうです」
「気持ち悪いな」
「言い方」
「道路の穴見て好きになる法律が増える奴があるか」
「ありますよ」
「ない」
「じゃあ先輩は何が好きなんですか」
「金が払われる法律」
「身も蓋もない」
そこで、
事務所の引き戸が開きました。
「あのう」
井川さんでした。
「忘れ物ですか?」
「いえ」
手に、
大きな白い箱。
「これ」
「何です?」
「豆腐です」
相馬先輩が立ち上がりました。
「おお」
「先輩、反応早い」
「差し入れは腹に入るものが一番だ」
「この前も言ってましたね」
井川さんが笑います。
「絹と木綿。それから厚揚げ」
「そんなに?」
「配れなかった分です」
「いや、売ってください」
「商品にはできません。端が少し崩れてるんで」
箱を開ける。
真っ白な豆腐。
つやつやしています。
「井川さん」
私は言いました。
「もう自転車乗ってるんですか」
「まだです」
「じゃあどうやって」
「家内に車で送ってもらいました」
「無理しないでくださいよ」
「ええ」
井川さんは玄関の方を見ました。
「でも」
「はい」
「道路、直ってましたね」
「はい」
「今朝、家内の車で通って」
少しだけ笑いました。
「平らでした」
たったそれだけ。
平らでした。
でも。
事故に遭った人が言うと、
その一言は妙に重かった。
「じゃあ」
相馬先輩が厚揚げを一枚持ち上げます。
「これ焼くか」
「仕事中ですよ」
「醤油あるぞ」
「何であるんですか」
「事務所だぞ」
「行政書士事務所に醤油が常備されてるのがおかしいんです」
片桐所長が奥から言いました。
「生姜もある」
「所長まで!」
井川さんが声を出して笑いました。
その笑い声を聞きながら、
私は机の上の写真を裏返しました。
そこには、
泥だらけの字で、
こう書いてあります。
事故現場。
市道。
最大深さ十一センチ。
撮影時刻、午前十一時二十三分。
未来なら、
たぶんボタン一つで残せる記録です。
でも昭和六十三年では、
長靴を履いて、
メジャーを持って、
人に頭を下げて、
一軒ずつ聞いて、
ようやく残せる。
法律は変わらなくても。
法律を生かす手間は、
時代で全然違う。
そして。
その手間を惜しまなかった人のところへ、
法律はようやく届くのかもしれません。
「こはる」
「はい」
「皿」
相馬先輩が言いました。
「何の?」
「厚揚げの」
「自分で出してください」
「見習いだろ」
「行政書士見習いの業務範囲がおかしい!」
片桐所長が新聞を広げたまま言います。
「こはる」
「所長まで何ですか」
「皿は流しの上」
「場所の問題じゃありません!」
その日。
市道の穴は埋まり、
井川さんの損害についても、
市との示談協議が始まりました。
そして私は知りました。
国家賠償法二条が守っているのは、
道路そのものではありません。
道路を、
普通に道路だと思って使う人です。
だから。
役所にお金がなくても。
担当者に悪意がなくても。
誰か一人の明白なミスが見つからなくても。
公のための物が、
普通に備えているはずの安全を失っていたなら。
法律は、
静かに責任を問い始めます。
昭和六十三年。
スマホなし。
ドラレコなし。
防犯カメラなし。
証拠は全部、
足で拾う。
それでも。
穴の深さを測った十一センチは、
役所の「仕方がなかった」より、
ずっと重かったのです。
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