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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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302/701

[国家賠償法1条・公権力の行使に基づく賠償責任]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 法律の条文が同じでも、


 証拠の集め方まで同じとは限りません。


 むしろ。


 同じ法律を使うために必要な泥の量が、


 時代によって違います。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、昨日の戦利品を並べていました。


 戦利品。


 と言っても。


 金銀財宝ではありません。


 ポラロイド写真。


 目撃者の供述書。


 病院の診断書。


 眼鏡の修理見積書。


 板材の損害一覧。


 そして。


「……メジャー」


「何で最後だけ感慨深げなんだ」


 向かいの机で、相馬先輩が煙草に火をつけました。


「だって今回、一番働いたのこれじゃないですか」


 私は巻尺を持ち上げます。


「国家賠償法一条より先に、現場で活躍しましたよ」


「法律と巻尺を同じ土俵に乗せるな」


「でも、法律だけ持って現場へ行っても、一メートル八十センチは出てきませんでした」


「そりゃそうだ」


 昨日。


 長谷川さんの製材所で、


 道路端から杭までの距離を測った。


 杭と崩れた板材の位置を測った。


 鉄棒がどう動いたかを再現した。


 目撃者を探した。


 話を聞いた。


 書面にした。


 印鑑をもらった。


 現代なら、


 動画ありますか。


 ドラレコありますか。


 防犯カメラ映像残ってますか。


 で始められる事件です。


 昭和六十三年。


 そんな便利なものは、ほぼ期待できません。


「疲れた……」


「今さらか」


「昨日は勢いで気づきませんでした」


「若いんだから平気だろ」


「十八歳を万能の免罪符みたいに使わないでください」


 私はノートを開きました。


 上に大きく書きます。


 ――国家賠償法第一条。


 そして。


 その横に。


 ――昭和六十三年でも、現代と同じ。


 相馬先輩が覗き込みました。


「またそれ書くのか」


「重要なんですよ!」


「そんなに違う法律が多いのか、未来は」


「多いというか、この時代から先に改正される法律が多いんです」


「当たり前だろ。未来なんだから」


「そうなんですけど」


 行政不服審査法。


 旧法と現代法では大きく違う。


 行政事件訴訟法。


 これも後に重要な改正がある。


 だから私は、


 昭和の六法を開くたびに、


 現代知識をそのまま使って事故らないか、


 一度警戒する癖がついていました。


 ところが。


 国家賠償法。


 昭和二十二年制定。


 そして、


 昭和六十三年の条文と、


 私が現代で勉強した条文。


 実質的に同じ。


「未来人に優しい……」


「まだ言うか」


「国賠法だけは私に牙を剥いてこない」


「昨日、証拠集めで泥だらけになってただろ」


「条文は優しいんです!」


「使う現場が厳しいんじゃ意味ねえだろ」


 その通りです。


 私はノートに線を引きました。


 今日のテーマ。


 国家賠償法第一条。


 条文はこうです。


 国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、


 その職務を行うについて、


 故意又は過失によって、


 違法に、


 他人に損害を加えたとき。


 国又は公共団体が賠償責任を負う。


「長いですね」


「法律なんだからそんなもんだ」


「でも、分解すると見えます」


 私は数字を振りました。


 一。


 公権力の行使に当たる公務員。


 二。


 職務を行うについて。


 三。


 故意または過失。


 四。


 違法。


 五。


 損害。


「昨日の長谷川さんの事件、全部これでした」


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きます。


「じゃあ一個ずつやれ」


「付き合ってくれるんですか」


「所長に付き合えって言われる前に諦めた」


「学習しましたね」


 奥から。


「相馬」


 片桐所長の声。


「付き合え」


「ほらな」


「予知能力!」


「毎回同じなんだよ」


 私は最初の見出しを書きました。


 ――国家賠償責任の性質。


「まずここです」


「何がだ」


「長谷川さんは、森田さん個人に賠償してもらうんじゃない」


「市だな」


「はい」


 今回。


 市の都市計画課職員が、


 道路拡幅事業の現場確認中に、


 長谷川さんの土地にある杭を鉄棒で動かそうとした。


 長谷川さんが止めに入り、


 鉄棒が跳ね、


 額に当たった。


 眼鏡も壊れた。


 板材も破損した。


 では、


 請求相手は誰か。


 鉄棒を持っていた森田職員本人。


 ではなく。


 市。


「これが代位責任ですね」


 私は書きました。


 公務員が職務上違法に損害を与えた場合、


 本来なら加害行為をした公務員の責任が問題になる。


 でも。


 被害者に対しては、


 国や公共団体が賠償責任を負う。


「なぜです?」


 相馬先輩が聞きました。


「被害者保護です」


「もう少し言え」


「公務員個人の資力に左右されたら困るから」


「そうだな」


「それに、国や公共団体が公務員を使って行政活動をしてる以上、その仕事で生じた違法な損害を組織側に負わせる」


 所長が帳簿をめくりながら言いました。


「被害者に、内部事情まで背負わせない」


「はい」


 昨日、


 沢渡課長が電話で言った。


 森田職員個人への請求ではなく、


 市が賠償する方向。


 あれがまさにそうです。


「ただ」


 私はペンを止めました。


「代位責任説って考えると、ちょっと問題が出てきます」


「何だ」


「公務員個人の違法行為を前提に、市が代わりに責任を負うなら」


「うん」


「誰が加害者か分からないと、理屈上は困りそうです」


「昨日、市が言ってた話だな」


「はい」


 ――誰が鉄棒を持っていたか確定できない。


 ――だから市として賠償できない。


 最初、市はそう言いました。


 でも。


 そこには被害者保護の壁が立つ。


「最高裁昭和五十七年四月一日」


 私はノートに書きました。


「出たな」


「出ました」


 加害公務員を完全に一人へ特定できなくても、


 国や公共団体が賠償責任を負うべき関係が明らかなら、


 被害者に厳密な特定まで要求しない。


「今回だと?」


「市の都市計画課の職員二名が来た」


「うん」


「道路拡幅事業の仕事で来た」


「うん」


「そのうちの一人が鉄棒を扱った」


「うん」


「その作業中に事故が起きた」


「うん」


「市側も二人が現場にいたことは認めていた」


「そうだな」


 そして。


 目撃証言によって、


 若い職員。


 森田職員。


 までかなり絞れた。


 でも仮にそこまで絞れなかったとしても。


「誰なのか一人に決められないからゼロ」


 にはならない。


「被害者にとっては」


 私は言いました。


「市役所の中の誰が、どの担当で、どの命令で動いたかなんて、全部分からないことがありますよね」


「当たり前だ」


「そこを全部特定しないと請求できないなら、行政組織が大きいほど被害者が不利になる」


「だから緩める」


「はい」


 私はノートに書きました。


 ――加害公務員の厳密な特定は、常に必要ではない。


 相馬先輩が覗き込みます。


「試験に出そうだな」


「出ます」


「言い切ったな」


「こういう判例論点、大好きですからね。試験」


「嫌な愛され方だな」


 次。


 ――公務員。


「これ、普通に市役所の職員だけですか」


「違うんだろ」


「先回りしないでください」


「分かりやすい顔してんだよ」


 国家賠償法一条でいう公務員。


 国家公務員。


 地方公務員。


 もちろん入ります。


 でも。


 それだけではない。


「公権力の行使をする民間人も含まれることがあります」


「民間なのに公務員?」


「国賠法上は」


「ややこしいな」


「行政法は肩書きより機能を見るときがあります」


 たとえば。


 現代なら指定確認検査機関。


 民間機関が建築確認をする。


 建築確認そのものは、


 公権力の行使。


 そのため、


 国家賠償法上の責任関係で、


 単純に民間だから除外、


 とはならない。


「ただし」


 私はペンを置きました。


「これは未来の判例です」


「じゃあ今使えねえじゃねえか」


「現場では使いません!」


「ノートに未来を書くな」


「比較としてです!」


 昭和六十三年の私は、


 平成十七年の最高裁判例を、


 現在の法的根拠として持ち出すことはできません。


 未来人だから知っている。


 でも。


 裁判所はまだ言っていない。


「転生者、判例のネタバレを知っていても引用できない」


「当たり前だろ」


「つらい」


「試験じゃねえんだから未来の答えを出すな」


 ただ。


 考え方として重要です。


 国賠法一条の「公務員」は、


 形式的な身分だけで見る言葉ではない。


 誰が、


 どんな公権力を行使しているのか。


 そこを見る。


 次。


 ――公共団体。


「昨日の相手は市です」


「地方公共団体だな」


「はい」


 市町村。


 都道府県。


 これは分かりやすい。


 でも国賠法上の公共団体は、


 それだけに限られない。


 公共組合なども問題になる。


 現代の判例まで含めれば、


 弁護士会のような団体が問題となる場面もある。


「ここも試験で」


「肩書きに騙されるな?」


「そうです」


 国か。


 県か。


 市か。


 公法人か。


 誰が行政作用を担っているのか。


 そこを見る。


「昨日は簡単でしたね」


「市役所の職員が市の道路事業で来たんだからな」


「国に請求したら駄目」


「当たり前だ」


「でも試験だと、こういう責任主体をずらしてきます」


「受験生、大変だな」


「今さら同情されても」


 私は次の見出しを大きくしました。


 ――公権力の行使。


「ここ、かなり重要です」


「処分だけじゃねえんだろ」


「はい」


 行政法で、


 公権力の行使。


 と聞くと。


 許可。


 不許可。


 取消し。


 命令。


 そういう処分を思い浮かべがちです。


 でも。


 国家賠償法一条では、


 もっと広い。


「判例・通説では」


 私は書きます。


 国賠法二条の対象となる公の営造物の設置・管理。


 そして。


 私経済作用。


 この二つを除く行政作用を、


 広く一条の公権力の行使として捉える。


「昨日の道路事業の現場確認は?」


「一条側で考えた」


「道路が絡んでるから二条じゃないんですか」


 私は自分で言って、


 これだ。


 と思いました。


「そこ、混同しやすいですね」


「どう違う」


 国家賠償法二条。


 道路。


 河川。


 公園。


 公共施設。


 そういう公の営造物の設置または管理に瑕疵があり、


 そのために損害が出た場合。


 たとえば。


 道路の穴。


 壊れたガードレール。


 危険な公園遊具。


 それなら二条。


 でも昨日は。


「道路そのものの欠陥で怪我したんじゃない」


「そうだ」


「道路事業を担当する職員が、現場作業中に鉄棒を扱って怪我をさせた」


「人の行為だな」


「だから一条」


 私はノートに書きました。


 ――道路だから二条、ではない。


 何が損害原因かを見る。


「これ大事ですね」


「受験生が引っかかりそうだ」


「引っかかります」


 道路。


 という単語だけ見て、


 二条。


 と飛びつくと危ない。


 事故原因が、


 道路の設置・管理の瑕疵なのか。


 公務員の違法な職務行為なのか。


 切り分ける。


「じゃあ市立病院の医者が治療ミスしたら一条?」


 相馬先輩が聞きます。


「普通の医療行為なら、そう単純じゃないです」


「何でだ」


「私経済作用の問題があります」


 ここです。


 私は見出しを書きました。


 ――私経済作用。


 行政がすること全部が、


 公権力の行使ではない。


 国や公共団体も、


 私人と同じ立場で活動することがあります。


 たとえば。


 事務用品を買う。


 国公立病院で通常の医療行為をする。


 そういう場面。


「役所が鉛筆買って、店員に怪我させたら国家賠償法一条?」


「普通は違う」


「民法?」


「はい」


 私人と同じ立場で行う経済活動なら、


 民法上の不法行為責任などで処理される。


「国賠法一条の公権力の行使は広い」


「でも何でも国賠じゃない」


「そうです」


 行政指導。


 学校教育活動。


 立法行為。


 裁判。


 場合によってはそうしたものまで含み得る。


 国家賠償法一条の射程はかなり広い。


「処分じゃなくてもいい」


「はい」


「そこが、他の行政法の公権力概念と違う」


「まさにそこです」


 行政手続法。


 行政不服審査法。


 行政事件訴訟法。


 それぞれで、


 対象となる行政作用の範囲は同じではない。


 同じ「公権力」という言葉を見ても、


 法律ごとに射程を確認する必要がある。


「行政法」


 私は呟きました。


「同じ日本語に別の守備範囲を持たせるのやめません?」


「誰に言ってる」


「立法者」


「聞いてねえよ」


 次。


 ――職務を行うについて。


「昨日は簡単でしたね」


「市の仕事で来てたからな」


「はい」


 道路拡幅事業。


 都市計画課。


 現場確認。


 勤務中。


 だから、


 職務関連性はかなり分かりやすい。


 でも。


 国賠法一条では、


 必ずしも、


 公務員が本当に正規の職務権限に従っていた場合だけに限られない。


「外形標準説」


 私は書きました。


「名前、強そうだな」


「見た目で判断する理論です」


「急に弱くなった」


「雑に言えばです」


 判例では。


 客観的に見て、


 その行為が職務行為の外形を備えていれば、


 公務員本人が私利私欲でやった行為だったとしても、


 国や公共団体の責任が問題となり得る。


「何でそこまで広げる」


「被害者保護です」


「またか」


「国賠法、かなり被害者側を意識してます」


 たとえば。


 制服。


 公用車。


 権限を使っているように見える。


 職務として接触してきた。


 被害者から見れば、


 本当に内部的な権限があったのか。


 上司の命令だったのか。


 私目的だったのか。


 そんな事情までは分からない。


「だから外から見て職務に見えるなら」


「職務関連性を認める場合がある」


「はい」


 最高裁昭和三十一年十一月三十日。


 公務員が私利を図る目的で行った場合でも、


 客観的に職務行為の外形を備えるなら、


 国賠法一条の「職務を行うについて」に含まれ得る。


「これ」


 私は言いました。


「昨日、森田さんが『実は個人的に長谷川さんが嫌いで杭を抜こうとした』とかだったとしても」


「仮に、だな」


「はい。外から見れば、市の道路事業の現場確認として来て、市の職員として作業していた」


「なら市が『本人の私怨でした』だけで逃げられるとは限らん」


「そうです」


 被害者には、


 役所内部の動機まで調査できません。


 そこでも、


 外形を見る。


 次。


 ――故意または過失。


「昨日、市はここを逃げようとしました」


「故意じゃないって言ってたな」


「はい」


 でも。


 国家賠償法一条は、


 故意だけではない。


 故意または過失。


「故意って?」


 相馬先輩が聞きます。


「侵害結果が生じることを認識しながら、それを認容して行う心理状態」


「長い」


「じゃあ短く」


 私は書きました。


 ――結果が起きると分かっていて、それでもやる。


「過失は?」


「職務上要求される注意を欠いたこと」


「昨日はこっちだな」


「はい」


 森田職員が、


 長谷川さんを怪我させようとして鉄棒を振った。


 そんな証拠はない。


 だから故意とは考えにくい。


 問題は。


 過失。


 鉄棒を使う。


 杭をこじる。


 そばに人がいる。


 止めに入っている。


 鉄棒が外れれば、


 跳ねる可能性がある。


 その状況で、


 安全を確保せず作業した。


「職務上要求される注意を尽くしたか」


「そこを見る」


「はい」


 ここで大事なのは。


 森田さん個人が、


「自分は不器用なんです」


 と言っても、


 基準が下がるわけではない。


「客観的過失ですね」


「何だそれ」


「その人本人の能力だけを基準にしない」


 公務員として。


 その職務を担当する者に、


 客観的にどんな注意が要求されるか。


 そこから判断する。


「だから」


 私は昨日の現場写真を指しました。


「証拠が必要だった」


「注意義務違反を示すためか」


「はい」


 どれくらい近くに長谷川さんがいたのか。


 鉄棒はどの向きに動いたのか。


 作業場所は狭かったのか。


 長谷川さんが止めていたのか。


 それが分からなければ、


 過失の有無を評価できない。


「ただ事故が起きました」


 だけでは弱い。


「怪我した=過失」


 でもない。


 だから。


 現場測定。


 写真。


 目撃証言。


 全部、


 過失という法律要件を、


 事実で支えるために集めた。


「法律用語って」


 私は言いました。


「現場では質問票になるんですね」


「昨日も言ってたな」


「過失、って書くだけなら二文字です」


「うん」


「でも証明しようと思うと」


 何メートル離れていた?


 何を使っていた?


 どっちへ力をかけた?


 人がいると分かっていた?


 止めろと言われた?


 作業を止められなかった?


 そういう具体的な話になる。


「二文字が、現場だと二時間」


「昨日はもっとかかっただろ」


「半日です」


「なら半日だ」


 次。


 ――違法。


「これも過失と同じじゃないんですか」


「違うから別に書いてあるんだろ」


「ですよね」


 過失。


 注意義務を尽くしたか。


 違法。


 その行為が法的に許されないものだったか。


 両方必要。


「法令に違反したら違法」


「それは分かる」


「でも、それだけじゃない」


 裁量がある行政行為でも。


 裁量権を逸脱・濫用すれば違法になる。


 また。


 職務行為が社会的相当性を欠く場合も、


 国家賠償法上違法と評価され得る。


「昨日だと?」


 私は考えます。


 市には道路事業を進める権限がある。


 現場確認も必要。


 でも。


 だからといって、


 まだ買収も終わっていない私人の土地にある杭を、


 本人が止めているのに、


 当然に動かしていいわけではない。


「権限があることと、やり方が何でも許されることは別」


「そうだな」


「それに、鉄棒を扱う方法自体も、安全性を欠けば問題になる」


 違法性。


 過失。


 似ている。


 でも分けて考える。


「ところで」


 私はノートの端に書きました。


 ――処分が取り消された=国賠法上当然に違法、ではない。


「何だそれ」


「未来の判例論点にもつながります」


「また未来か」


「これは考え方として大事です」


 行政処分が後で取り消された。


 だから。


 即、


 国家賠償法一条上も違法。


 とは限らない。


 国賠法上の違法性は、


 公務員が職務上通常尽くすべき注意義務を尽くしたかなど、


 独自に判断される場面がある。


「取消訴訟の違法と、国家賠償の違法」


「完全に同じじゃない」


「はい」


 行政法。


 また同じ「違法」という日本語の守備範囲が微妙に違います。


「受験生に恨みでもあるんですかね」


「法律はお前を知らねえよ」


 次。


 ――不作為、権限不行使。


「昨日は職員が何かした事件でした」


「ああ」


「でも国家賠償は、何もしなかった場合も問題になる」


「ほう」


 公務員が、


 本来行使すべき権限を行使しない。


 必要な規制をしない。


 危険を放置する。


 その結果、


 私人に損害が生じる。


 そういう場合。


「何もしなかったのに賠償?」


「場合によっては」


 もちろん。


 行政には裁量もある。


 権限があるから、


 常に即座に行使しなければ違法。


 という単純な話ではない。


 でも。


 危険の重大性。


 予見可能性。


 権限行使の容易さ。


 被害回避可能性。


 そうした事情から、


 権限を行使しないことが著しく不合理なら、


 国家賠償法上違法となる場合がある。


「何かしたら責任」


「うん」


「何もしなくても責任」


「場合による」


「役所、大変ですね」


「だから権限持つってのはそういうことだろ」


 相馬先輩が言いました。


 少し意外でした。


「権限は」


 先輩は続けます。


「使えるってだけじゃねえ。使うべきときに使わなきゃならんこともある」


「……なるほど」


 権限。


 というと。


 行政が国民へ行使する力。


 そんな感じがします。


 でも。


 権限を持つことには、


 責任もついてくる。


「剣を持ってるなら」


 私は言いました。


「抜く責任がある場合もある」


「急に格好つけたな」


「比喩です」


「行政書士が剣抜くな」


 私は一度、ページを見直しました。


「所長」


「何だ」


「ここまでで一条の要件、大体出ました」


「損害は」


「あ」


「抜けてる」


「最後にやろうと思ってました!」


「忘れてただろ」


「ちょっとだけ」


 重要です。


 ――損害。


 国家賠償法は、


 行政が悪いことをしたから、


 罰金を取る制度ではない。


 被害者に生じた損害を、


 賠償する制度。


 だから。


 損害の発生。


 そして、


 加害行為との因果関係。


 ここも必要になる。


「長谷川さんの場合」


 私は並べました。


 治療費。


 診断書。


 眼鏡修理費。


 破損した板材。


 場合によっては休業損害。


 慰謝料。


「全部、言えばもらえる?」


「違う」


 相馬先輩が即答します。


「証明する」


「正解です」


「お前に採点されたくねえ」


 治療費なら領収書。


 眼鏡なら見積書。


 板材なら単価。


 休業損害なら、


 実際に仕事を休んだこと。


 通常得られたはずの利益。


 そういう資料。


「ここでも証拠」


「全部そこに戻るな」


「そうなんですよ」


 法律は、


 要件を示す。


 でも。


 その要件に当たる事実を、


 誰かが現場から拾ってこなければならない。


 損害三万円。


 と書いても、


 根拠がなければ数字は浮いている。


「昨日の長谷川さんの言葉」


 私は思い出しました。


 ――俺の怪我だけ、宙に浮いたみたいでね。


 法律は。


 浮いている損害を、


 事実と責任主体へ結びつける。


 そのための線なのかもしれません。


 次。


 ――公務員個人の責任。


「ここ、結構大事ですよね」


「昨日、沢渡が言ってたな」


「森田職員個人に請求する話ではない、と」


 国賠法一条一項。


 被害者に対して、


 国または公共団体が賠償責任を負う。


 では。


 加害公務員本人は、


 被害者から直接損害賠償請求を受けるのか。


「判例では原則として」


 私は書きました。


 公務員個人は、


 被害者に対して直接責任を負わない。


「じゃあ森田さん、何も責任ないのか」


「そこが二項です」


 私は一条二項を囲みました。


 公務員に、


 故意または重大な過失があったとき。


 国または公共団体は、


 その公務員に対して求償権を有する。


「つまり」


 相馬先輩が言います。


「まず市が長谷川さんに払う」


「はい」


「そのあと、森田に故意か重過失があれば」


「市から森田さんへ求償できる」


「普通の過失なら?」


「求償できない」


「そこ試験出そうだな」


「出ます」


 ここ。


 かなり重要です。


 一条一項。


 国賠責任。


 公務員の故意または過失。


 一条二項。


 国等から公務員への求償。


 公務員の故意または重大な過失。


「一項は普通の過失でも市が賠償」


「二項の求償は重過失以上」


「そうです」


 ここを入れ替えると危険。


 私は大きく書きました。


 被害者救済。


 故意・過失。


 内部求償。


 故意・重過失。


「なんで求償の条件を重くするんです?」


 私は自分で聞いてみました。


 所長が答えます。


「職員が少しミスするたび、全部自腹ならどうなる」


「萎縮しますね」


「行政活動が止まる」


「はい」


 公務員も人間です。


 職務上、


 判断しなければならない。


 少しの過失まで全部個人へ求償するなら、


 誰も危険な判断をしたがらなくなる。


 だから。


 被害者には、


 国や公共団体が責任を負う。


 でも内部的に、


 職員へ責任を戻すのは、


 故意または重大な過失がある場合。


「外には厚く」


 私は言いました。


「中では慎重に」


「まあ、そんな感じだ」


 相馬先輩が頷きます。


 私はノートに書きました。


 ――国等→公務員への求償は、故意・重過失。


 そしてもう一つ。


 ――公務員→国等への求償、ではない。


「矢印、逆にする問題とか出そう」


「試験作る側みたいな顔すんな」


「受験生は罠の気配に敏感なんです」


 ここで私は、


 昨日の資料を全部一列に並べました。


「じゃあ」


 相馬先輩が言います。


「昨日の事件を、一条の要件に当てはめろ」


「模擬口頭試問ですか」


「復習だ」


「はい」


 私は一枚目。


 市役所職員の名刺。


「公務員」


 都市計画課。


 市職員。


 そして市という公共団体。


 二枚目。


 現場確認の記録。


「公権力の行使」


 道路拡幅事業という行政作用の一環。


 少なくとも単なる私人同士の買物のような私経済作用ではない。


 三枚目。


 目撃供述書。


「職務を行うについて」


 勤務中。


 市の業務として現場へ来ていた。


 四枚目。


 現場写真。


 測定図。


「過失」


 鉄棒を扱う危険な作業。


 近くに人がいる。


 制止されている。


 安全確認を十分にしなかった可能性。


 五枚目。


 所有関係。


 市とのやり取り。


「違法性」


 まだ買収も終わっていない私有地上の杭を、


 所有者の制止にもかかわらず動かそうとしたこと。


 作業方法も含め、


 適法・相当な職務執行だったか問題になる。


 六枚目。


 診断書。


 領収書。


 眼鏡見積。


 板材一覧。


「損害」


 治療費。


 物損。


 その他。


「因果関係は」


 所長が聞きました。


「鉄棒が跳ねた直後に長谷川さんが負傷したことを、本人供述と目撃証言でつなぐ」


「よし」


 私は少し息を吐きました。


「こうやって見ると」


「何だ」


「昨日の証拠集め、全部条文の順番だったんですね」


 所長がこちらを見る。


「逆だ」


「え?」


「条文に合わせて証拠を集めたんだ」


「あ」


 そうです。


 事故現場で、


 何となく写真を撮ったわけではない。


 何となく人に話を聞いたわけでもない。


 要件がある。


 だから。


 その要件に必要な事実を集めた。


「法律知ってないと」


 私は言いました。


「何を証拠にすればいいかも分からない」


「そうだ」


「でも法律だけ知ってても」


「証拠は集まらん」


「……両方必要」


「そういうことだ」


 受験生の私は。


 条文。


 判例。


 肢別問題。


 それを覚えることが法律の勉強だと思っていました。


 もちろん。


 試験ではそれでいい。


 でも現場では。


 条文を知ることは、


 質問を作ること。


 証拠を探すこと。


 相手の逃げ道を見つけること。


 そういう作業につながっていく。


「ところで」


 私は昨日のポラロイドを一枚持ち上げました。


「未来なら、もっと楽です」


「また始まった」


「スマホで写真」


「知らん」


「動画」


「知らん」


「録音」


「知らん」


「位置情報」


「知らん」


「防犯カメラ」


「それくらいならある場所もあるだろ」


「未来より全然少ないです」


「ドラレコ」


「何だそれ」


「車に積むカメラです」


「何のために」


「事故とか運転中の映像を撮る」


「そんなもん四六時中撮るのか」


「撮ります」


「未来人、監視されすぎだろ」


「そこだけ聞くと怖いですね」


 でも。


 事故が起きたとき。


 現代なら、


 映像が残っている可能性が高い。


 車載カメラ。


 店のカメラ。


 個人のスマホ。


 道路カメラ。


 場合によっては、


 事故前後をかなり正確に再現できる。


 一方。


 昭和六十三年。


「豆腐屋のおばちゃんが命綱」


「榊原さんな」


「たばこ屋さんも」


「近所付き合い舐めんな」


「昭和の人的ネットワーク、強すぎます」


 映像はない。


 でも。


 人はいる。


 昨日。


 私たちは一軒ずつ歩いた。


 豆腐屋。


 自転車屋。


 クリーニング店。


 たばこ屋。


 聞いた。


 断られた。


 覚えていないと言われた。


 でも、


 一つずつ情報をつないだ。


「法律は同じなのに」


 私は言いました。


「証明方法だけが全然違う」


「道具が違うだけだろ」


 相馬先輩が言います。


「本質は同じだ」


「本質?」


「誰が見た」


「はい」


「何が残ってる」


「はい」


「いつ起きた」


「はい」


「どこで起きた」


「はい」


「何が壊れた」


「はい」


「それを集める」


 先輩は煙草を消しました。


「未来でも同じじゃねえのか」


 私は少し考えました。


「……同じですね」


 たぶん。


 道具は変わる。


 証拠の形も変わる。


 でも。


 何を証明したいか。


 そのために何が必要か。


 という部分は変わらない。


「未来ならスマホが勝手に真実を撮ってくれるわけじゃない」


「当たり前だ」


「映像があっても、どこを見るか分からなければ意味がない」


「そういうことだ」


 昨日、


 所長が言った。


 道具が便利になっても、


 証拠を見るのは人間。


 写真があっても、


 何を撮るか分からなければ意味がない。


「昭和、意外と未来教育に向いてますね」


「何だそれ」


「証拠集めの原始訓練」


「お前、昨日歩き回って文句言ってたろ」


「終わったから美化してるんです」


「都合いいな」


 私は新しいページを開きました。


 そこに二つ、


 大きく書きます。


 国家賠償法一条。


 国家賠償法二条。


「次のテーマか」


 相馬先輩が聞きます。


「今日は一条ですけど、違いだけ整理したいです」


「言ってみろ」


 一条。


 公務員の違法な職務行為によって損害。


 二条。


 公の営造物の設置または管理の瑕疵によって損害。


「一条は人」


「雑だな」


「二条は物」


「かなり雑だな」


「覚え方です!」


 もちろん。


 厳密には、


 一条が全部人。


 二条が全部物。


 という単純分類ではありません。


 でも受験勉強の入口として。


 一条。


 公務員の行為。


 二条。


 道路や公園など公の営造物の設置・管理。


「昨日の事件を変形すると分かりやすいです」


 私は言いました。


「昨日は、森田職員が鉄棒を扱って怪我させた」


「一条」


「はい」


「じゃあ」


 私は図を書きます。


 長谷川さんが、


 市道を歩いていて、


 道路に大きな穴が開いていて、


 落ちて怪我した。


「二条」


「そう」


 事故現場が道路だから決まるのではなく。


 損害原因を見る。


「人の職務行為か」


「営造物の瑕疵か」


「はい」


 ここ。


 試験問題で、


 道路。


 公園。


 学校。


 市役所。


 という単語だけ見て判断すると危ない。


「学校でも?」


「先生の教育活動で怪我なら一条の問題になり得る」


「校舎の階段が壊れてて怪我なら?」


「二条の問題になり得る」


「同じ学校でも変わる」


「そうです」


 私は二重線を引きました。


 ――場所ではなく、損害原因を見る。


「これ覚えやすいですね」


「珍しく短いな」


「褒めた?」


「気のせいだ」


 私はさらに書きます。


 ――国賠法一条は無過失責任ではない。


「大事ですね」


「二条と混ぜるなってことか」


「はい」


 一条。


 故意または過失。


 必要。


 二条。


 営造物責任。


 こちらは、


 公務員個人の故意・過失そのものを要件とはしない。


「つまり昨日」


 私は言いました。


「『事故が起きたんだから市が払え』だけじゃ駄目だった」


「過失を示さなきゃならん」


「そうです」


 鉄棒を扱う状況。


 近距離。


 制止。


 危険性。


 そういう事実を集めた。


「一条は過失責任」


「二条は公務員の過失を要件にしない」


「はい」


 ここも、


 一条と二条の決定的な違い。


「次回の事件で道路の穴とか出たら」


 私は言いました。


「所長がまたメジャー持って走りそう」


「走るぞ」


 奥から即答。


「聞こえてたんですか」


「全部聞こえてる」


「じゃあ先に言います。穴に落ちる役は嫌です」


「誰も頼んでない」


 次に私は、


 昨日の市役所とのやり取りを思い出しました。


「行政書士としての立ち位置も整理しないと」


「裁判はできねえ」


「はい」


 行政書士。


 訴訟代理人ではありません。


 国家賠償請求訴訟で、


 法廷に立って市と戦う。


 それはできない。


「じゃあ何をする」


 相馬先輩が聞きます。


「裁判になる前までを固める」


「具体的に」


「事実関係を整理する」


「うん」


「証拠を集める」


「うん」


「損害額を資料化する」


「うん」


「内容証明などで損害賠償請求書を作る」


「うん」


「市に任意賠償を求める」


「拒否されたら?」


「弁護士へ引き継ぐ」


 所長が言いました。


「弁護士が最初から調べ直さなくて済む状態で渡せ」


「はい」


 それが、


 昨日の所長の言葉。


 裁判になれば、


 市が何を争うかを先に潰す。


 市に過失がない。


 潰す。


 不可抗力だ。


 潰す。


 加害者が分からない。


 潰す。


 損害額が不明。


 潰す。


「つまり」


 私は言いました。


「行政書士が裁判するんじゃない」


「当たり前だ」


「でも、裁判になったとき相手が困るくらい、事前に整える」


「そうだ」


「それで市が敗訴リスクを計算する」


「沢渡みたいな人間は、特にな」


 沢渡課長。


 感情では動かない。


 こちらが怒っても、


 泣いても、


 それだけでは動かない。


 でも。


 証拠。


 判例。


 損害額。


 敗訴可能性。


 そこを積み上げると動く。


「冷たい人ですね」


「悪いことか」


 所長が聞きました。


 私は考えます。


「……今回は、むしろ助かりました」


「そうだ」


 情で賠償する。


 今回はかわいそうだから払う。


 それでは、


 次の人は救われない。


 証拠と法理で、


 賠償すべき事件だから払う。


 そのほうが、


 制度としては強い。


「法律の冷たさって」


 私は呟きました。


「弱い人に不利なだけじゃないんですね」


 所長がこちらを見ました。


「何だと思ってた」


「怖いもの」


「今は」


「……逃げ道を公平に塞ぐもの」


 相馬先輩が笑いました。


「物騒な覚え方だな」


 私は最後のページへ移りました。


「まとめます」


「やっとか」


「長いテーマなんですよ!」


「国賠法一条だけで日が暮れたな」


「もう暮れてます」


 窓の外。


 町は夕方から夜へ変わっています。


 私は一行ずつ書きました。


 国家賠償法一条。


 公権力の行使に当たる公務員。


 職務を行うについて。


 故意または過失。


 違法。


 損害。


 国または公共団体が賠償。


 加害公務員の厳密な特定は、


 常に必要ではない。


 職務関連性は、


 外形から判断される場合がある。


 公権力の行使は広い。


 ただし、


 私経済作用と、


 二条の営造物責任は区別。


 求償。


 故意または重大な過失がある場合。


「多いですね」


「一行の覚え書きはどうする」


 相馬先輩が言いました。


「そうでした」


 私は腕を組みました。


 国家賠償法一条。


 何を一番残すか。


 公務員。


 職務。


 過失。


 違法。


 損害。


 国等の責任。


 どれも捨てがたい。


「全部詰め込むなよ」


「分かってます」


 昨日。


 長谷川さんは言った。


 誰がやったか分からないから、


 どうしようもないと言われた。


 自分の怪我だけ、


 宙に浮いたみたいだった。


 でも。


 国家賠償法は。


 個人名が分からないだけで、


 組織の責任を消さない。


 仕事として行われた違法な加害行為なら、


 国や公共団体へ責任をつなぐ。


 そして。


 その線を現実に引くには、


 証拠が要る。


 私は書きました。


 ――国賠一条は、公務員の違法な仕事で生じた損害を、国や公共団体の責任につなぐ。


「長い」


 相馬先輩。


「もう少し短くします」


 私は考えます。


 そして。


 その下に書きました。


 ――役所の仕事で傷つけたなら、責任まで宙に浮かせない。


 相馬先輩が黙りました。


「どうです」


「試験答案には書くなよ」


「覚え書きです!」


「まあ」


 煙草を消す。


「忘れはしねえだろうな」


「ですよね」


 私は丸で囲みました。


 そこで。


 片桐所長が言いました。


「足りない」


「え?」


「昨日、お前が一番覚えたことが抜けてる」


「何です?」


「証拠だ」


「あ」


 所長は机の上のポラロイドを指しました。


「法律が同じだから何だ」


「……」


「昭和でも未来でも、一条が同じなら」


「はい」


「最後に勝負するのは、事実だ」


 私は写真を見ました。


 斜めに曲がった杭。


 崩れた板。


 地面。


 巻尺。


 どれも、


 条文には載っていないもの。


 でも。


 あれがなければ、


 過失も。


 違法も。


 損害も。


 全部ただの主張でした。


「じゃあ」


 私はもう一行書きました。


 ――条文は昭和も未来も同じ。違うのは、真実まで歩く距離。


 相馬先輩が眉を上げます。


「今度は格好つけたな」


「いいじゃないですか」


「メジャーで測れるのか、その距離」


「そういう意味じゃありません!」


 所長が少しだけ口元を緩めました。


「それでいい」


 私はノートを閉じました。


 国家賠償法は、


 昭和二十二年から、


 ほとんど姿を変えずにそこにいる。


 未来の六法でも。


 昭和六十三年の六法でも。


 同じ言葉で、


 国や公共団体の責任を定めている。


 変わったのは、


 社会。


 技術。


 証拠の残り方。


 現代なら、


 事故が起きた瞬間が映像に残ることがあります。


 誰が何をしたか。


 何秒前に何があったか。


 何キロで動いたか。


 そんなことまで機械が覚えている。


 昭和では。


 人が覚えているうちに、


 走らなければならない。


 豆腐屋へ行く。


 たばこ屋へ行く。


 現場へ行く。


 メジャーを伸ばす。


 写真を撮る。


 紙に書く。


 印鑑をもらう。


 法律は変わらない。


 でも。


 法律へ事実を届ける方法は、


 時代によって変わる。


 そしてたぶん。


 どれだけ機械が便利になっても。


 最後に必要なのは、


 この事実は何を証明するのか。


 それを考える人間です。


 私は机の上の巻尺を持ち上げました。


「先輩」


「何だ」


「これ、やっぱり法律道具ですよ」


「ただのメジャーだ」


「でも国家賠償事件を一件動かしました」


「なら六法に挟んどけ」


「入りませんよ!」


「じゃあ首から下げろ」


「測量士みたいになるでしょう!」


 奥から所長の声。


「こはる」


「はい」


「明日の朝」


「はい?」


「長谷川さんの眼鏡屋へ行け」


「え」


「見積書の内訳を確認する」


「まだ証拠集め続くんですか!?」


「示談額が決まってない」


「そうでした!」


 相馬先輩が笑います。


「法律の勉強、終わった気になってたな」


「ノート閉じたので!」


「現場は閉じてねえぞ」


 私はため息をついて、


 もう一度ノートを開きました。


 最後の一行。


 余白に小さく付け足します。


 ――法律を覚えても、事件は終わらない。


「先輩」


「何だ」


「これも重要ですね」


「受験には出ねえ」


「実務には?」


 相馬先輩は少しだけ考えて。


「毎日出る」


 そう言いました。


 昭和六十三年。


 国家賠償法第一条。


 条文は未来と同じ。


 でも。


 明日の私はまた、


 眼鏡屋まで歩きます。


 たぶんそれでいい。


 法律は机の上にあります。


 事実は、


 だいたい外に落ちているのです。

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