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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 国家賠償法

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301/614

[国家賠償法1条・公権力の行使に基づく賠償責任]現場編 「誰がやったか分からないなら、市は責任を負えません」の嘘。公務員個人ではなく、市に責任を負わせる国家賠償と、昭和の証拠集め

挿絵(By みてみん)

 役所の人間に壊されたものは、


 役所に言えば元に戻る。


 ――そんな簡単な話なら、国家賠償法なんて要りません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午前九時十五分。


 うちの扉を開けた男性は、右手に折れた眼鏡を持っていました。


「これ、市役所の人にやられたんです」


 第一声が、それでした。


「眼鏡を?」


「眼鏡だけじゃありません」


 男性は五十歳くらい。


 作業着。


 膝には乾いた泥。


 額の右側に、小さなガーゼが貼ってあります。


 名前は、


 長谷川正一さん。


 駅裏で小さな製材所を営んでいる人でした。


「まず座ってください」


 私は椅子を引きました。


「怪我、大丈夫ですか」


「二針です」


「二針!?」


「大したことないって医者は言ってました」


「二針を大したことない側へ分類する昭和の人、強すぎません?」


「何ぶつぶつ言ってんだ」


 相馬先輩が向かいから睨みます。


「何でもありません」


 長谷川さんは苦笑してから、折れた眼鏡を机に置きました。


 右のつるが根元から曲がっています。


「昨日、市の職員がうちへ来たんです」


「何の用です?」


「道路拡幅の件です」


 私は姿勢を正しました。


 駅東側。


 市が進めている道路拡幅事業。


 その予定地の一部に、長谷川さんの製材所の資材置場がかかっているらしい。


「立ち退きですか」


「いや。まだ用地買収の話をしてる途中です」


「じゃあ昨日は?」


「市の人が二人来て、境界の辺りを確認したいって」


「測量ですか」


「そんなようなことを言ってました」


 ここまでは普通です。


 問題は、そのあとでした。


「うちの資材置場に、丸太を止める鉄の杭があるんですが」


「はい」


「市の人が、それを抜こうとしたんです」


「え」


「道路予定地の邪魔になるからって」


「もう買収済みなんですか?」


「まだです」


 私は止まりました。


「長谷川さんの土地?」


「そうです」


「同意しました?」


「してません」


 はい。


 嫌な匂いがしてきました。


 法的な意味で。


「それで止めに入ったら」


 長谷川さんは額を指しました。


「職員が持ってた鉄棒が当たった」


「殴られたんですか?」


「いや」


 首を振る。


「そこまでは言わんです」


「どういう状況で?」


「杭をこじってたんです。長い鉄の棒で。それを俺が『やめろ』って掴みに行ったら、向こうが引いた拍子に外れて」


「鉄棒が跳ねた?」


「そう」


「それが額に」


「はい」


 私は折れた眼鏡を見る。


「眼鏡は?」


「倒れたときです」


「ほかに壊れたものは?」


「積んであった板が崩れて、十枚くらい割れました」


「十枚」


「あと、杭も一本曲がった」


 相馬先輩が煙草を箱から一本抜きました。


 でも火をつけません。


「市には連絡したのか」


「しました」


「何て?」


 長谷川さんの口元が歪みました。


「現場の職員同士で確認したが、市に責任がある事故とは認められない、と」


「早えな」


 相馬先輩が言いました。


「昨日の今日で、もう結論かよ」


「それだけじゃないんです」


 長谷川さんが続けました。


「誰が鉄棒を持ってたか、はっきりしないって」


「二人いたんですよね」


「はい」


「名前は?」


「知らないです」


「名刺は?」


「片方からもらった。でも、そっちの人じゃないと思う」


 私は名刺を受け取りました。


 都市計画課。


 係長。


 井村。


「鉄棒を持ってた人は?」


「若い方」


「名前は?」


「分からんです」


 相馬先輩が舌打ちしました。


「で、市は?」


「誰の行為か特定できない以上、市として賠償できないと」


「ほう」


 先輩の声が低くなりました。


 嫌な「ほう」です。


 これは相手が妙な理屈を言ったときの「ほう」。


「それに」


 長谷川さんはまだ続けます。


「現場作業中の事故だから、不可抗力だとも言われました」


「不可抗力?」


「向こうも、わざとやったわけじゃないって」


「わざとじゃなければ全部不可抗力になるなら、過失って言葉いらないですね」


「こはる」


 片桐所長が奥から言いました。


「先走るな」


「はい」


 出ました。


 所長の冷却水。


 私は口を閉じます。


 片桐所長は長谷川さんの前に座りました。


「病院の領収書は」


「あります」


「診断書」


「あります」


「壊れた板の値段が分かるもの」


「帳簿なら」


「眼鏡の修理見積」


「まだです」


「取ってください」


「はい」


「昨日の現場を見た人は」


 長谷川さんは少し考えました。


「近所の豆腐屋のおばちゃんがいたかもしれん」


「他には」


「分からんです」


「写真は」


「ないです」


 そこで。


 私は反射的に言いました。


「現場の写真、スマホで――」


 止まる。


 相馬先輩がこちらを見る。


「何で撮るって?」


「何でもありません」


 私は遠い目をしました。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 スマホ。


 ない。


 携帯電話ですら、私の知っている意味での生活必需品ではない。


 ドライブレコーダー。


 ない。


 コンビニの防犯カメラ映像を確認しましょう。


 ない。


 道路沿いの監視カメラ。


 期待できない。


 位置情報。


 ない。


 現場の写真を日時入りで何十枚。


 ない。


「……詰んだ」


「何がだ」


「いえ」


 私は机に額をつけたくなりました。


 法律以前に、


 証拠がない。


 昨日の現場。


 誰が何をしたか。


 鉄棒はどこにあったか。


 杭はどう曲がったか。


 板はどう崩れたか。


 長谷川さんはどこに立っていたか。


 現代なら、


「動画残ってませんか」


 の一言から始められる場面。


 ここでは。


 人間の目と記憶しかない。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「国賠法を見ろ」


「え?」


「条文」


 私は六法を開きました。


 国家賠償法。


 第一条。


 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは――


 そこまで読んで。


 私は固まりました。


「……あれ?」


「何だ」


「同じ」


「何が」


「条文です」


 私はもう一度読む。


 一条二項まで。


 同じ。


 現代で勉強した国家賠償法と、


 同じです。


「……え」


「だから何だ」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「いや、だって」


 私は思わず六法を持ち上げました。


「普通、昭和に来たら制度が違うじゃないですか!」


「知らねえよ」


「不服審査なんて異議申立てがありますし!」


「あるな」


「期間も違うし!」


「そうだな」


「行政事件訴訟だって後の改正で色々変わるし!」


「知らん」


「なのに国賠法!」


 私は条文を叩きそうになって、慌てて手を止めました。


「同じだ……!」


 昭和二十二年制定。


 そして今に至るまで、実質的な改正がない。


 国家賠償法。


 未来人に優しい。


 初めてです。


 昭和の法律が私に牙を剥いてこない。


「ありがとう国賠法……」


「何に感謝してんだお前」


 相馬先輩が呆れます。


「でも」


 片桐所長が言いました。


「条文が同じでも、勝てるわけじゃない」


 私は止まりました。


「証拠がなければ」


 所長が続けます。


「条文は紙だ」


 はい。


 一秒で現実へ戻されました。


 法律は未来と同じ。


 でも、


 証拠の集め方が全然違う。


 そこか。


 昭和の罠。


 制度改正ではなく、


 物理。


「現場へ行くぞ」


 所長が立ち上がりました。


「今ですか」


「昨日の現場だ」


「でも、もう動かされてるかも」


「だから今行く」


 正論です。


 この人の「現場」は、


 参考資料じゃありません。


 神棚です。


 長谷川製材所は、駅から歩いて十五分ほどの場所にありました。


 古い平屋。


 広い資材置場。


 切った木の匂いがします。


 道路側に黄色い杭。


 その奥に丸太。


 崩れた板材。


 そして。


「これです」


 長谷川さんが指しました。


 鉄の杭。


 一本だけ、明らかに斜めに曲がっています。


 根元の土も新しく抉れている。


 片桐所長はしゃがみ込みました。


「相馬」


「はいよ」


「メジャー」


「持ってきてる」


 相馬先輩が鞄から巻尺を出します。


 用意が良すぎる。


「何で常にメジャー持ってるんですか」


「実務屋だからだ」


「行政書士って測量士でしたっけ」


「必要なら測るんだよ」


 強い。


 肩書きより現場。


 昭和の実務、筋肉質です。


「こはる」


「はい」


「記録しろ」


 所長が言います。


 杭から道路端まで。


 一メートル八十。


 杭から崩れた板材まで。


 二メートル四十。


 杭の高さ。


 七十二センチ。


 曲がった角度。


 正確には分からないので、水平器代わりに糸と重りを使ってずれを確認する。


「そこまでやるんですか」


「後で『そんな場所じゃなかった』と言わせない」


 所長は淡々と答えます。


 相馬先輩が地面を指しました。


「ここ、靴跡残ってるな」


「昨日のもの?」


「分からん」


「じゃあ証拠にならないですね」


「だから写真は撮る」


 鞄から出てきたのは、


 ポラロイドカメラ。


「来た!」


「何だ急に」


「文明!」


「失礼だなお前」


 カシャ。


 ジーッ。


 写真が出てくる。


 私はちょっと感動しました。


 遅い。


 画質も今ほど良くない。


 でも。


 その場で確認できる。


「一枚いくらすると思ってる」


 相馬先輩が言いました。


「え」


「考えて撮れ」


「現代のデジカメ感覚で連写したら怒られる世界……」


「さっきから何言ってんだ」


 はい。


 昭和では、


 証拠一枚にもコストがある。


 所長は撮影場所を変えながら、


 全景。


 杭。


 崩れた板。


 地面。


 道路との位置関係。


 を撮っていきます。


「長谷川さん」


「はい」


「昨日、職員はどこに立ってた」


「ここです」


「あなたは」


「この辺」


「鉄棒はどちら向きに」


「こう」


 現場で再現。


 相馬先輩が鉄棒の代わりに木の棒を持つ。


「こう持ってたのか」


「もう少し低いです」


「こうか」


「そう」


「お前はどこ掴んだ」


「この辺」


 私はノートに図を書きます。


 丸太。


 杭。


 道路。


 職員A。


 職員B。


 長谷川さん。


 鉄棒。


「先輩」


「何だ」


「職員ABって、刑事ドラマみたいですね」


「名前分かんねえんだから仕方ねえだろ」


 そこ。


 今、一番大事なところです。


 市は、


 誰が鉄棒を持っていたか特定できない。


 だから賠償責任は負えない。


 と言った。


 でも。


 私の頭に、一つの判例が浮かんでいました。


 昭和五十七年四月一日。


 加害行為の不特定。


 国家賠償責任。


「所長」


「何だ」


「個人名まで絶対に特定しないと駄目、ではないですよね」


 所長がこちらを見ました。


「何を言いたい」


「誰か一人を名指しできなくても、国賠責任が全部消えるわけじゃない」


 相馬先輩が腕を組みます。


「条件は」


 私は考えます。


 雑に言ってはいけない。


 誰でもいい、ではない。


 ある複数の公務員の行為のうち、


 いずれかに違法な加害行為があり、


 国や公共団体が責任を負うべき関係が明らかなら、


 被害者に、


 「その中の誰か一人を完全に特定しろ」


 とまで要求するのは酷です。


「少なくとも」


 私は言いました。


「都市計画課の職員二人が、市の道路事業のために現場へ来ていたこと。そのうち一人が鉄棒を使って杭を動かそうとしていたこと。そこで事故が起きたこと。そこまで固められれば」


「個人名が分からないだけで終わりにはならない」


「はい」


 所長が頷きました。


「なら固めろ」


「はい」


 問題は、


 どうやって。


 私は周囲を見渡しました。


 防犯カメラ。


 ありません。


 ドラレコ。


 ありません。


 スマホ動画。


 ありません。


 昭和。


 情報社会の反対側。


「聞き込みだ」


 相馬先輩が言いました。


「ですよねえ」


 一軒目。


 向かいの豆腐屋。


「ああ、見た見た」


 いきなり当たりでした。


 店主の妻。


 榊原トヨさん。


 六十二歳。


 昨日の午後、店先で油揚げを並べていたらしい。


「市役所の人が二人来てたよ」


「服装、覚えてます?」


「一人は眼鏡」


 係長の井村さんでしょう。


「もう一人は?」


「若い人」


「鉄の棒を持ってたのは?」


「若い方」


 来た。


「長谷川さんと揉めてました?」


「揉めてたっていうか、長谷川さんが『勝手に抜くな』って言ってた」


「そのあと?」


「若い人が棒をぐっとやって」


「はい」


「長谷川さんが止めに行って」


「はい」


「ガンって」


「見ました?」


「見たよ」


「鉄棒が当たるところを?」


「そこまではっきりは……」


 私は少し落ちました。


 でもトヨさんは続けます。


「長谷川さんが倒れる直前、棒が跳ねたのは見た」


「倒れたあと、市の人は?」


「若い人が『すみません』って言ってた」


 相馬先輩と目が合いました。


 謝罪。


 それだけで責任が確定するわけではありません。


 でも事実経過の裏付けにはなる。


「お名前と、昨日見たことを書面にしてもいいですか」


「裁判?」


「まだ分かりません」


 私は答えました。


「できれば裁判になる前に、市に話をしてもらうためです」


「ならいいよ」


 所長が一言。


「記憶が薄れる前に書く」


「今日?」


「今」


 強い。


 紙。


 鉛筆。


 トヨさんが話し、


 私が下書き。


 本人に確認してもらい、


 違うところは直す。


 最後に日付。


 署名。


 押印。


 昭和の証拠保全。


 人間の記憶が消える前に、


 紙へ移す。


 二軒目。


 自転車屋。


「音は聞いた」


「見てない?」


「見てないな」


 三軒目。


 クリーニング店。


「市役所の車なら見た」


「ナンバー覚えてます?」


「そこまでは」


「停まってた時間は?」


「二時前から三時前くらい」


 四軒目。


 たばこ屋。


「若い職員なら見たよ」


「顔、分かります?」


「市役所行けば分かると思う」


「え?」


「うちの息子の同級生だ」


 相馬先輩が初めて笑いました。


「田舎、強えな」


 本当に。


 昭和の地方都市。


 防犯カメラはない。


 でも、


 近所の人がだいたい誰かを知っています。


 プライバシーという現代文明の薄い膜がまだ完全には張られていない。


「名前は?」


「確か、森田君」


 森田。


 都市計画課。


 若手職員。


 加害職員候補。


 急に人影が輪郭を持ちました。


 さらに。


「昨日、帰りにここ寄ったよ」


「え?」


「煙草買ってった」


「何か言ってました?」


「『やっちゃったかもしれない』って」


 私は固まりました。


「何を?」


「そこまでは聞いてない」


 でも。


 強い。


 少なくとも事故直後、


 本人が何らかの失敗を認識していた可能性がある。


「所長」


「書面だ」


「ですよね」


 もう言われる前に紙を出しました。


 慣れてきました。


 昭和の証拠集め。


 歩く。


 聞く。


 書く。


 押してもらう。


 歩く。


 聞く。


 書く。


 押してもらう。


 スマホより遅い。


 でも。


 一つ一つに人の顔があります。


 午後四時。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、私たちの持ち込んだ紙束を見ていました。


「また随分、集めましたね」


「足がありますから」


 相馬先輩が言いました。


「嫌味ですか」


「半分な」


「半分は?」


「事実だ」


 机の上。


 診断書。


 治療費の領収書。


 眼鏡修理の見積書。


 板材の損害一覧。


 現場見取図。


 メジャーで測った距離。


 ポラロイド写真。


 目撃者二名の供述書。


 市役所車両を見た人の供述。


 森田職員の身元につながる証言。


 そして。


 長谷川さん本人の事故直後の経緯書。


 沢渡課長は、一枚ずつ見ています。


 速くない。


 雑でもない。


 この人はこういうところが怖い。


 ちゃんと読む人です。


「市としては」


 沢渡課長が言いました。


「職員に故意はなかったと聞いています」


「故意がなくても終わりじゃない」


 相馬先輩が返します。


「国家賠償法一条は、故意又は過失だ」


「過失があったかは別問題でしょう」


「だから証拠を持ってきた」


「事故だからといって、直ちに過失があるとは限りません」


 その通り。


 そこは雑に越えられない。


 私は口を開きました。


「森田さんは、市の道路拡幅事業の現場確認で行ったんですよね」


「そう聞いています」


「私用じゃない」


「業務です」


「杭を動かそうとしたのも?」


「担当課の説明では、境界確認のため現場を整理しようとした、と」


「所有者の同意なしで?」


 沢渡課長が黙りました。


「長谷川さんは止めています」


「その点は確認中です」


「しかも」


 私は現場見取図を指しました。


「鉄棒を使って杭をこじる作業をしていた。すぐ横に長谷川さんがいた。止めに入っている。その状況なら、鉄棒が外れたり跳ねたりして人に当たらないよう注意する必要がありますよね」


「一般論としては」


「職務上要求される注意を尽くしたか、です」


 沢渡課長が私を見る。


「ずいぶん勉強されていますね」


「受験生なので」


「見習いだろ」


 相馬先輩が横から刺してきます。


「今いいところだったのに」


「続けろ」


 私は咳払いしました。


「つまり、森田さん本人が普段どれだけ慎重な性格か、じゃないですよね」


 客観的に。


 その職務を行う者として、


 求められる注意を尽くしたか。


 そこを見る。


「そして」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「本人の同意なしで杭を動かす必要が、そもそもあったのか」


 沢渡課長の視線が動きます。


「道路事業のための現場確認です」


「確認と、杭を抜くことは同じか」


「……違います」


「権限は」


「担当課へ確認します」


「昨日は不可抗力と言ったそうだな」


「担当課がそう説明したと聞いています」


「人が横にいる状態で、鉄棒を使って杭をこじる」


 所長の声は静かでした。


「危険を予想できない作業か」


 沢渡課長は答えません。


 不可抗力。


 天災のように避けられない事故。


 そういうものと、


 不注意による事故は違います。


 鉄棒は突然、空から降ってきたわけではない。


 人が持った。


 人が力を加えた。


 すぐそばに別の人がいた。


 その人が「やめろ」と止めていた。


 そこで棒が外れて跳ねた。


 そこまで証拠で固めれば、


 不可抗力の一言では逃げにくくなる。


 沢渡課長が書類を揃えました。


「ですが」


 まだ来ます。


「加害行為をした職員が誰かについて、市として確定していません」


 私は待っていました。


 そこです。


「それだけで国家賠償責任は否定できません」


「根拠は」


「最高裁判所、昭和五十七年四月一日判決」


 私は言いました。


 昭和六十三年現在、


 もう存在する判例。


 未来知識の密輸ではありません。


 堂々と使えます。


「複数の公務員が関与した中で、具体的に誰の行為が違法だったのか厳密に特定できない場合でも」


 私は一度言葉を選びました。


「国や公共団体が責任を負うべき関係が認められるのに、被害者に加害公務員の完全な特定まで求めるのは相当ではない、という考え方があります」


 沢渡課長の目が細くなります。


「今回と同じだと?」


「全く同じとは言いません」


 ここは大事です。


 判例の名前を出して、


 事件が全部コピーになるわけではありません。


「でも市は今、『誰がやったか一人に決められないから賠償できない』と言っています」


「ええ」


「その理屈だけでは切れません」


 私は机上の供述書を指しました。


「しかも今回は、二人まで絞れています」


 相馬先輩が続けました。


「都市計画課の井村係長と森田職員」


「森田職員が鉄棒を持っていたという目撃証言もある」


 私は続けます。


「仕事で来ていたことも、市は認めている」


「事故場所も」


 相馬先輩。


「作業内容も」


 所長。


「損害も」


 私。


 三人で畳みかける。


 沢渡課長は眼鏡を外しました。


「……片桐先生」


「何だ」


「これは訴訟を前提にした請求ですか」


 空気が少し変わりました。


 来た。


 行政書士の立ち位置。


 ここを越えてはいけない。


 片桐所長は静かに答えました。


「うちは訴訟代理はしない」


「でしょうね」


「内容証明で損害賠償請求書を出す」


「その後は?」


「市が拒むなら、弁護士へ渡す」


「資料一式を?」


「全部だ」


 沢渡課長が、机の紙束を見ます。


 診断書。


 写真。


 目撃証言。


 位置関係。


 損害計算。


 法的整理。


「最初から裁判で戦うつもりはない」


 所長が言いました。


「だが」


 一拍。


「裁判になれば、市が何を争うかは先に潰す」


 私は横で少しぞくっとしました。


 これです。


 片桐所長の戦い方。


 裁判所で剣を振るう人ではない。


 戦場へ行く前に、


 相手が戦いたくなくなるだけの荷物を積む。


「市に過失はない」


 なら、


 危険な作業状況を固める。


「不可抗力だ」


 なら、


 予見できた事故だったことを固める。


「誰がやったか分からない」


 なら、


 関与した職員と職務を固める。


「損害額が分からない」


 なら、


 領収書と見積書を揃える。


 逃げ道を、


 一個ずつ塞ぐ。


 それが行政書士の仕事。


「ちなみに」


 相馬先輩が言いました。


「予算がないって話は無しな」


「まだ言ってません」


「担当課が言いそうだから先に言ってる」


「賠償の法的責任と、予算事情は別問題です」


 沢渡課長が冷たく返します。


「分かってんじゃねえか」


「私は総務課長です」


「なら早え」


「ただし」


 沢渡課長は書類を叩きました。


「市が責任を認めるなら、議会や内部手続の問題もあります。私一人で即答はできません」


「即答しろとは言ってない」


 片桐所長が言います。


「回答期限を切る」


「何日です」


「七日」


「短いですね」


「昨日は一日で『市に責任なし』と回答したそうだが」


 沢渡課長が黙りました。


 あ。


 所長。


 それ、効く。


「……十日ください」


「七日」


「八日」


 何の市場ですか。


 行政責任の値切り交渉。


「八日だ」


 所長が言いました。


 決まりました。


 八日後。


 市役所から電話がありました。


「朝比奈さん」


 沢渡課長でした。


「はい」


『長谷川さんの件です』


 私は立ち上がりました。


 意味はありません。


 電話なのに。


「結論出ました?」


『一定の賠償をする方向で協議に入ります』


「……本当ですか」


『まだ金額は確定していません』


「でも責任は?」


『市職員の職務執行中の事故であり、職員側の注意が十分でなかった可能性が高いと判断しました』


 私は拳を握りました。


『なお』


「はい」


『森田職員個人への請求はしないよう、長谷川さんにも説明してください』


「え?」


 その一言で。


 私の頭の中に、


 国家賠償法一条の仕組みがもう一段くっきり浮かびました。


 被害者が向き合う相手。


 公務員個人ではなく、


 国や公共団体。


 長谷川さんの事件なら、


 市。


「市が賠償するんですね」


『そういう方向です』


「森田さんは?」


『内部の処理は別問題です』


 そうか。


 被害者救済と、


 職員内部の責任。


 分ける。


 国家賠償法一条二項なら、


 公務員に故意や重大な過失があるとき、


 国や公共団体からその公務員へ求償できる。


 でも。


 それを長谷川さんが直接背負う話ではない。


「分かりました」


『もう一点』


「はい」


『今回、現場作業時の手順についても見直します』


「手順?」


『私有地内の物件に触れる場合の同意確認です』


「……そうですか」


『事故が起きてからでは遅いので』


 沢渡課長がそう言った。


 私は少しだけ笑いました。


「課長」


『何です』


「まともなこと言いますね」


『失礼ですね』


「褒めてます」


『褒め方を覚えてください』


 電話が切れました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「どうだった」


「賠償する方向」


「そうか」


「まだ額は未定ですけど」


「なら詰めるぞ」


「喜ばないんですか」


「金額決まって、振り込まれるまで仕事だ」


「現実的」


「仕事だからな」


 片桐所長が奥から出てきました。


「長谷川さんへ連絡しろ」


「はい」


 その日の夕方。


 長谷川さんは事務所へ来ました。


「市が?」


「はい」


「払うって?」


「治療費、眼鏡、板材その他について、相当な範囲で賠償する方向です」


 長谷川さんは、


 しばらく黙っていました。


「よかった」


 私は言いました。


 でも。


 長谷川さんはすぐには笑いませんでした。


「俺ね」


「はい」


「金もそりゃ大事なんですけど」


 折れた眼鏡。


 もう新しいものに替えてあります。


「最初、市役所で言われたんですよ」


「何を?」


「『誰がやったか分からないから、どうしようもありません』って」


 長谷川さんは膝を見ました。


「俺は見てたんです」


「はい」


「役所の人が来て」


「はい」


「役所の仕事で杭に触って」


「はい」


「それで怪我した」


「はい」


「なのに、名前が分からないから誰も悪くないって言われたら」


 一度、笑おうとして。


 やめた。


「俺の怪我だけ、宙に浮いたみたいでね」


 その言葉が、


 妙に残りました。


 被害がある。


 でも加害者の名札が読めなかった。


 だから責任が消える。


 もしそんな制度なら、


 被害者は、


 壊されたものだけでなく、


 真相まで自分で全部背負わなければならない。


 でも。


 国家賠償法一条は、


 公権力の行使に当たる公務員が、


 職務を行うについて、


 故意または過失により、


 違法に損害を与えたとき、


 国や公共団体に賠償責任を負わせる。


 大きな組織に仕事をさせる以上、


 仕事の中で生じた違法な損害を、


 被害者一人へ押しつけない。


 そういう仕組みでもある。


「長谷川さん」


「はい」


「怪我、宙に浮いてませんでしたよ」


 私は言いました。


「ちゃんと市の仕事につながってました」


 長谷川さんは、


 少しだけ目を細めました。


「そうですか」


「はい」


 相馬先輩が横から言います。


「まだ示談書あるからな」


「先輩」


「何だ」


「今ちょっといい場面でした」


「仕事にいい場面も悪い場面もあるか」


「ありますよ!」


 長谷川さんが笑いました。


 ようやく。


 ちゃんと笑いました。


「じゃあ、最後までお願いします」


「もちろんです」


 私は答えました。


 言ったあとで所長を見る。


 所長が頷いた。


 よし。


 越権なし。


 その日の帰り。


 私は机の上のポラロイド写真を見ていました。


 少し色の薄い写真。


 斜めになった杭。


 崩れた板。


 巻尺。


 地面。


 現代なら、


 スマホで十秒。


 位置情報付き。


 動画付き。


 時刻付き。


 場合によってはドラレコもある。


 でも。


 昭和六十三年にはない。


 だから。


 測った。


 歩いた。


 聞いた。


 書いた。


 印鑑をもらった。


 一軒ずつ回った。


「こはる」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「何見てんだ」


「証拠です」


「見りゃ分かる」


「法律は未来と同じでした」


「またそれか」


「国家賠償法」


 私は六法を軽く叩きました。


「昭和も未来も条文は同じ」


「へえ」


「安心しました」


「じゃあ楽だったな」


「全然!」


 私は即答しました。


「法律同じなのに、証拠集めが百倍大変でした!」


「そんなもんだ」


「スマホ欲しい」


「何だそれ」


「一台で写真、録音、動画、地図、電話、全部できる夢の機械です」


「馬鹿言え」


「本当にあるんです!」


「じゃあ未来へ帰れ」


「帰り方が分かりません!」


 相馬先輩が笑いました。


 片桐所長が帳簿から顔を上げます。


「道具が便利になっても」


「はい?」


「証拠を見るのは人間だ」


 私は黙りました。


「写真があっても、何を撮るか分からなければ意味がない」


「……はい」


「録音があっても、何を聞くべきか分からなければ意味がない」


「はい」


「法律を知っていても」


 所長が言います。


「どの事実が必要か分からなければ、使えない」


 痛い。


 でも。


 確かにそうです。


 現場へ行く前の私は、


 国家賠償法一条を知っていました。


 公務員。


 公権力の行使。


 職務関連性。


 故意・過失。


 違法。


 損害。


 全部、単語では知っていた。


 でも。


 現場ではそれぞれが、


 質問に変わる。


 誰が来た?


 何の仕事で来た?


 何をしようとした?


 何を持っていた?


 被害者はどこにいた?


 危険は予想できた?


 止める声はあった?


 何が壊れた?


 いくら損した?


 誰が見ていた?


 一つ一つ。


 条文の言葉を、


 現場の事実へ変えていく。


 その作業があって初めて、


 法律は人を助ける形になる。


「所長」


「何だ」


「現場百回って、刑事ドラマだけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「行政書士も?」


「必要なら百回行く」


「百回は嫌です」


「じゃあ一回で見ろ」


「要求水準が上がった!」


 相馬先輩が鼻で笑います。


「未来人も大変だな」


「誰が未来人ですか」


「お前だろ」


「証拠あります?」


「本人が自白した」


「しまった」


 国家賠償請求される前に、


 黙秘権を覚えたほうがよさそうです。


 窓の外では、


 市役所の明かりが一つずつ消えていきます。


 その中には、


 森田さんもいるのかもしれません。


 今回の事故は、


 たぶん悪意ではなかった。


 長谷川さんを怪我させようと思ったわけでもない。


 道路を早く進めたかった。


 現場を整理したかった。


 その程度だったのでしょう。


 でも。


 悪意がないことと、


 責任がないことは、


 同じではありません。


 役所の仕事だからこそ、


 人に損害を与えたとき、


 「たまたまです」


 では終われない。


 組織が仕事をさせたなら。


 組織が責任を引き受ける。


 その冷たいくらい明確な仕組みが、


 名前すら分からない相手に傷つけられた人を、


 取り残さずに済ませることがある。


 私はポラロイド写真を封筒へ戻しました。


「こはる」


「はい」


「明日、長谷川さんの板材の単価確認しろ」


「はい」


「眼鏡も」


「はい」


「慰謝料は弁護士に引き継ぐ場合も見越して整理しろ」


「はい」


「あと」


 所長が言いました。


「メジャーを戻せ」


「どこへ?」


「相馬の鞄」


 私は巻尺を持ち上げました。


「先輩」


「何だ」


「これ一本で市と戦えるんですね」


「戦ってねえ」


「でも証拠になった」


「そうだな」


「昭和のリーガルテック……」


「何だそれ」


「最先端法律道具です」


「ただの巻尺だ」


「失礼ですね。今日はMVPですよ」


 私は巻尺を鞄へ戻しました。


 相馬先輩がそれを見て、


 ぼそっと言いました。


「法律より先に、長さ測ったもんな」


「ですね」


「所長らしい」


「はい」


 片桐所長は聞こえているのに、


 何も言いません。


 ただ帳簿を閉じました。


 法律は、


 昭和も未来も同じでした。


 けれど。


 人を救うために必要な一メートル八十センチは、


 誰かが現場へ行って、


 腰をかがめて、


 メジャーを伸ばさなければ、


 どの条文にも書いてありません。


 たぶん。


 それが実務というものです。

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