[国家賠償と損失補償]法理編 こはるノート
夕方。
片桐行政書士事務所。
窓の外では、秋の日がゆっくり沈みかけていました。
机の上には、
ノート。
六法。
ポラロイド写真。
巻尺。
そして。
「……何でまだこれ置いてあるんですか」
「何がだ」
相馬先輩が煙草をくわえたまま聞きました。
「巻尺です」
「使っただろ」
「使いましたけど」
「じゃあ置いてあってもいいだろ」
「法律事務所の机に巻尺が常駐してるの、ちょっと違和感あるんですよ」
「行政書士事務所だ」
「細かい」
「大事だ」
その言い方。
沢渡課長みたいになってますよ。
とは言いませんでした。
たぶん怒るので。
私は巻尺を端へ寄せました。
代わりに。
ノートの一番上へ大きく書きます。
――国家賠償と損失補償。
受験生だった頃。
この二つは、私の中でかなり近いところに置かれていました。
国や自治体が何かして。
人が損をして。
お金を払ってもらう。
雑。
ものすごく雑です。
でも。
試験前の頭というのは、だいたいこんな感じになります。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、国家賠償と損失補償です」
「勝手にやれ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。
「毎回これですね」
「学習能力ねえな、お前」
「先輩が断るからでしょう!」
私はノートを開き直しました。
まず。
いちばん大きな違い。
国家賠償。
損失補償。
「違法と適法、ですよね」
私は言いました。
相馬先輩が机へ肘をつきます。
「それだけで説明してみろ」
「国家賠償は、違法な行政活動によって損害を受けた場合に、その損害を賠償してもらう制度」
「うん」
「損失補償は、行政の行為自体は適法だけど、そのために特別な犠牲を受けた人に補償する制度」
「うん」
ここ。
似ているようで、
出発点が全然違います。
国家賠償。
行政側に、
本来あってはならない違法な行為や状態がある。
損失補償。
行政側の行為は、
公共のために適法に行われている。
それでも。
ある人だけに、
特別に大きな犠牲を負わせるなら。
そのまま我慢させるのは公平ではない。
だから補償する。
「道路の穴の事件は?」
相馬先輩が聞きます。
「国家賠償です」
「なぜ」
「道路が通常有すべき安全性を欠いていた可能性があるから」
「公共事業だから補償、じゃねえのか」
「違います」
私は即答しました。
「市道という公共物が関係していても、公共のために適法に杉本さんへ損失を負わせたわけじゃない」
「そうだな」
「道路管理に問題があって事故が起きた。それなら国家賠償」
私はノートに書きます。
国家賠償。
違法な行政作用による損害。
損失補償。
適法な行政作用による特別の犠牲。
「じゃあ具体例」
相馬先輩。
「市が道路拡張のために、適法な手続で民有地を収用した」
「はい」
「土地を取られた地主は?」
「損失補償」
「理由」
「収用そのものが違法だからじゃない。公共のために適法に財産を使う代わりに、正当な補償をする」
「じゃあ、市職員が法律上の権限もないのに勝手に土地を壊した」
「国家賠償の問題」
「そういうことだ」
整理すると。
お金が払われる。
という結果は似ていても。
何に対するお金なのかが違う。
違法行為による損害を埋めるのが、
賠償。
適法な公共目的による特別な犠牲を埋めるのが、
補償。
私はそこに二重線を引きました。
「憲法上の根拠も違う」
片桐所長が言いました。
「はい」
私は六法を開きます。
国家賠償。
憲法十七条。
公務員の不法行為によって損害を受けた者が、
国または公共団体に賠償を求めることができる。
一方。
損失補償。
憲法二十九条三項。
私有財産は、
正当な補償の下に、
公共のために用いることができる。
「つまり国家賠償法は」
私は言いました。
「憲法十七条を受けて作られた一般法」
「そうだ」
「でも損失補償には?」
相馬先輩が聞きます。
「国家賠償法みたいな、一般的に全部をまとめた一つの法律はない」
「じゃあ何を見る」
「土地収用法とか、それぞれの個別法」
「それで補償規定がなかったら終わりか?」
ここ。
教材で大事なところです。
「終わりとは限りません」
「なぜ」
「個別法に補償規定がなくても、憲法二十九条三項を直接根拠に補償が認められる場合があるから」
私はそこに丸をつけます。
国家賠償。
一般法あり。
国家賠償法。
損失補償。
一般法なし。
原則として個別法。
ただし。
憲法二十九条三項の直接適用が問題になることもある。
「試験だと、ここ嫌ですよね」
「何がだ」
「片方は一般法がある。片方はない。でも憲法直接適用があり得る」
「覚えろ」
「身も蓋もない」
「試験はだいたいそうだ」
相馬先輩の受験指導は、
今日も情緒がありません。
私は次の見出しを書きます。
――国家賠償法一条と二条。
「ここが本体です」
「言ってみろ」
相馬先輩。
「一条は、公務員の公権力の行使についての責任」
「うん」
「公務員が、その職務を行うについて」
「うん」
「故意または過失により」
「うん」
「違法に他人へ損害を与えた場合」
「うん」
「国または公共団体が賠償責任を負う」
私は続けます。
「一条は過失責任」
「そうだ」
「公務員側の故意や過失が問題になる」
一方。
二条。
「道路、河川、その他の公の営造物」
「うん」
「その設置または管理に瑕疵があって」
「うん」
「他人に損害が生じた場合」
「うん」
「国または公共団体が賠償責任を負う」
「違いは」
「二条は無過失責任」
そこです。
今回の杉本さんの事件で一番重要だった部分。
市道に大きな穴があった。
事故が起きた。
ここで。
道路課の誰が、
具体的にどんな不注意をしたのか。
そこを一条のように追いかけるのではない。
見るのは。
道路そのものが、
通常有すべき安全性を欠いていたか。
「つまり二条は」
私は言いました。
「職員個人の過失を証明できなくても成立し得る」
「そうだ」
「だから無過失責任」
「ただし」
所長が口を挟みました。
「何でも事故が起きれば責任、ではない」
「はい」
そこは大事です。
道路に事故が起きた。
河川で人が怪我した。
公園の遊具で転んだ。
だから即二条。
ではありません。
必要なのは。
公の営造物の設置または管理に、
瑕疵があったこと。
「瑕疵って」
相馬先輩が言います。
「どう説明する」
「通常有すべき安全性を欠いている状態」
「それでいい」
私はノートに書きました。
設置・管理の瑕疵。
=公の営造物が通常有すべき安全性を欠いている状態。
「今回なら」
私は写真を一枚持ち上げます。
道路の穴。
「縦約七十センチ」
「うん」
「横約五十五センチ」
「うん」
「深さ最大十一センチ程度」
「うん」
「夕方は木陰で見えにくい」
「うん」
「雨水が溜まると、ただの水たまりに見えやすい」
「うん」
「自転車の通行がある道路」
「そうだ」
これらをまとめて。
道路が通常備えるべき安全性を欠いていたか。
そう評価する。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きます。
「穴が一センチなら?」
「それだけじゃ判断できません」
「ほう」
「道路の種類、交通量、場所、見通し、速度、利用者、周辺状況、全部見ないと」
「成長したな」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
でも。
本当に。
数字一つで決まるわけではない。
十一センチだから必ず瑕疵。
五センチなら瑕疵なし。
そういう算数ではありません。
その道路が、
どんな用途で、
誰が使い、
どんな危険があり、
どれくらい回避可能だったのか。
具体的に見る。
「じゃあ一条と二条の違いを、一言で」
相馬先輩が言いました。
「一条は『人の違法』、二条は『物の危険』」
私は答えました。
相馬先輩が少し考えます。
「雑だが覚えやすいな」
「ですよね」
「試験答案には書くなよ」
「分かってます!」
でも。
覚え方としては悪くありません。
一条。
公務員の行為。
故意・過失。
違法。
二条。
公の営造物。
設置・管理の瑕疵。
無過失。
「ただし二条も」
片桐所長が言います。
「行政側に何も事情がなくても全部責任という意味ではない」
「はい」
「無過失責任と、絶対責任を混同するな」
これも大事です。
二条は。
公務員個人の故意・過失を必要としない。
でも。
営造物に瑕疵があったことまで不要になるわけではない。
安全性を欠いていたか。
事故との因果関係はあるか。
損害はどこまでか。
被害者側の事情はどうか。
そこはきちんと検討する。
「杉本さんの件でも」
私は言いました。
「市道に穴がある。それだけじゃ足りなかった」
「だから測った」
「写真を撮った」
「夕方も見た」
「住民に聞いた」
「事故前から穴があったことを確かめた」
「自治会の要望書も見つけた」
「市も現地確認してた」
「そういうことだ」
所長が言いました。
ここで。
私は鉛筆を止めました。
「所長」
「何だ」
「これ、二条って無過失責任なんですよね」
「ああ」
「じゃあ何で、事故前に市が知ってた証拠まで集めたんです?」
純粋な疑問でした。
誰かの過失を立証しなくていい。
なら。
市が穴を知っていた。
補修要望があった。
そういう証拠は、
不要なのでしょうか。
所長が答えます。
「不要ではない」
「でも故意過失は要らない」
「そうだ」
「じゃあ」
「瑕疵を判断する事情になる」
あ。
「それと」
所長が続けました。
「不可抗力だ、対応する時間がなかった、という反論を崩せる」
なるほど。
私はノートに大きく書きました。
二条は無過失責任。
でも、
管理者が危険を知っていた事情は無意味ではない。
危険の継続期間。
予見可能性。
対応可能性。
管理状況。
瑕疵の判断を支える重要な事実になる。
「もし」
相馬先輩が言います。
「朝、大雨で突然道路が陥没した」
「はい」
「市が知る前、十分後に事故が起きた」
「はい」
「今回と同じか」
「違います」
「何が」
「道路の危険状態は同じように見えても、市にとって対応可能性が全然違う」
「そうだ」
もちろん。
二条は、
単純に管理者の過失責任ではありません。
でも。
安全性の欠如をどう評価するかでは。
事故が予測できたか。
どのくらい危険状態が続いたか。
どんな措置が可能だったか。
そういう事情が重要になる。
今回。
三週間前。
自治会が。
自転車等の通行に危険。
と書いていた。
市も現場を見ていた。
補修の必要も認識していた。
なのに。
事故が起きた。
だから沢渡課長は、
予算がない。
人手がない。
だけでは押し切れなくなった。
「ところで」
私は言いました。
「国賠法って、本当に条文変わってないんですね」
「またそこか」
「いや、重要ですよ!」
相馬先輩が呆れています。
でも。
私は本気です。
「行政不服審査法は旧法だった」
「うん」
「現代と制度が全然違った」
「うん」
「行政事件訴訟法も改正がある」
「うん」
「だから私、国家賠償法も覚悟してたんですよ」
「何を」
「昭和版国賠法」
「今が昭和版だ」
「そうですけど!」
私は国家賠償法を持ち上げます。
「でも一条、二条、条文は未来とほぼそのまま!」
「未来未来うるせえ」
「これは転生者に優しい法律です」
「意味が分からん」
でも。
ここで問題。
法律が同じなら、
実務も同じか。
全然違います。
「スマホ」
私は言いました。
「また始まった」
「ドラレコ」
「何だそれ」
「防犯カメラ」
「場所によるだろ」
「デジタル写真」
「知らん」
「GPS」
「呪文か」
私は机へ突っ伏しました。
「証拠の世界が違いすぎる……」
相馬先輩が鼻で笑います。
「だから巻尺があるんだろ」
「そこへ戻ります?」
「戻る」
法律は同じ。
でも。
その法律を使うために、
事実を証明する方法が違う。
現代なら。
事故直後。
スマートフォンで穴を撮る。
動画も残す。
撮影日時も自動で記録される。
近くを走っていた車のドライブレコーダー。
店舗の防犯カメラ。
場合によっては、
道路状況を記録したデータ。
使えるものが多い。
昭和六十三年。
そんなものはほとんどありません。
だから。
現場へ行く。
巻尺で測る。
ポラロイドで撮る。
地図を描く。
同じ時刻に見に行く。
近所を一軒ずつ回る。
目撃者を探す。
名前を聞く。
住所を聞く。
覚えているうちに話を書き取る。
自治会の控えを探す。
受付印を見る。
全部。
人がやる。
「一番怖かったの」
私は言いました。
「事故を見た高校生が見つからなかったらどうしようってところです」
「見つかっただろ」
「結果論ですよ」
「だから探す」
「二時間ですよ」
「二時間で見つかったなら早い」
「昭和の人、強すぎません?」
「お前が弱いだけだ」
「未来人を甘やかしてください!」
所長が淡々と言いました。
「証拠は勝手には集まらん」
ぐう。
それです。
法律知識だけなら。
国賠法二条。
営造物責任。
無過失責任。
通常有すべき安全性。
覚えれば済みます。
でも現場では。
安全性を欠いていた。
と誰かに納得させる必要がある。
市役所。
保険担当。
弁護士。
裁判所。
相手が変わっても。
必要なのは、
事実。
です。
私は次の見出しを書きました。
――行政書士の立ち位置。
「ここも今回、かなり大事でした」
「何がだ」
「私たち、裁判では戦えない」
「当たり前だ」
「国家賠償請求訴訟の代理人にはなれない」
「そうだ」
「じゃあ何をするか」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
「裁判になる前に勝てる形にする」
短い。
でも。
まさにそれです。
行政書士が、
杉本さんの代理人として法廷に立って、
市を相手に、
国家賠償法二条違反です。
と訴訟追行することはできません。
そこは弁護士の仕事。
でも。
事故状況を整理する。
現場図を作る。
写真を撮る。
聞き取りをする。
資料を揃える。
損害項目をまとめる。
内容証明郵便や請求書を作る。
事実経過を整える。
こうして。
市側に、
裁判になったら危ない。
と思わせる。
あるいは。
弁護士へ引き継ぐとき、
すでに事件の骨格ができている状態にする。
「今回、沢渡課長が示談協議に入ったのも」
私は言いました。
「法律論だけじゃなく、証拠が揃ってたからですよね」
「そうだ」
「『道路に穴があって転びました』だけなら?」
「揉める」
「『大きな穴でした』だけでも?」
「揉める」
「『ずっと前からありました』だけでも?」
「証拠を聞かれる」
「だから」
写真。
測定値。
目撃証言。
自治会要望書。
市の受付印。
市の現地確認。
全部積む。
「行政書士って」
私は言いました。
「裁判しないから弱い、じゃないんですね」
所長がこちらを見ます。
「誰が言った」
「いや、昔の私が少し」
「間違いだ」
「はい」
「仕事が違うだけだ」
法廷で戦う人。
その前に、
戦える事実を整える人。
役割は違う。
でも。
どちらかが欠ければ、
救済は難しくなる。
「次」
相馬先輩が言いました。
「損害」
「あ」
そうでした。
国家賠償。
責任がある。
だけで終わりではない。
どんな損害が、
どこまで、
事故と因果関係があるのか。
そこも整理しなければならない。
「杉本さんの場合」
私は指を折ります。
「治療費」
「うん」
「通院交通費」
「うん」
「壊れた眼鏡」
「うん」
「自転車の修理費」
「うん」
「休業損害」
「うん」
「慰謝料」
「それは治療経過も見る」
「はい」
「卵代」
相馬先輩が言いました。
「……入れます?」
「理屈では損害だろ」
「でも数百円」
「損害は損害だ」
「先輩、卵に執着しすぎでは」
「食い物を粗末にすんな」
論点がずれています。
でも。
国家賠償請求では。
違法。
瑕疵。
責任。
そこだけでなく。
損害との因果関係。
損害額。
そこまで必要。
「だから領収書」
所長。
「はい」
「診断書」
「はい」
「勤務先証明」
「はい」
「修理見積」
「はい」
「全部残す」
「はい」
証拠。
ここでもまた出ます。
法律の世界。
結局。
最後は事実です。
私はノートの端へ、
大きく二つの箱を書きました。
一条。
二条。
一条の中。
公務員。
公権力の行使。
故意または過失。
違法。
損害。
二条の中。
公の営造物。
設置または管理の瑕疵。
通常有すべき安全性の欠如。
損害。
「試験なら」
私は言いました。
「一条と二条、まずここを分ける」
「そうだ」
「人か物か」
「雑だが入口には使える」
「過失責任か無過失責任か」
「そうだ」
「公務員の違法な職務行為か、営造物の安全性の欠如か」
「そうだ」
「そして両方とも、国または公共団体の賠償責任」
「うん」
私はさらに。
三つ目の箱を書きました。
損失補償。
適法。
公共のため。
特別の犠牲。
正当な補償。
「これで全体像」
私は言いました。
「行政の違法で損害なら、国家賠償」
「うん」
「適法だけど特別の犠牲なら、損失補償」
「うん」
「国家賠償の中で、人の違法なら一条」
「うん」
「物の安全性なら二条」
「まあ、かなり雑だがな」
「覚える最初の地図です」
そう。
地図。
細かい論点に入る前に。
自分が今、
どの制度の上に立っているのか。
そこを間違えない。
私はふと思いました。
「所長」
「何だ」
「国家賠償と損失補償って」
「うん」
「どっちも結局、公のために一人へ全部押しつけないって考え方ですよね」
所長が少し黙りました。
「言い方は雑だ」
「はい」
「だが、方向は分かる」
国家賠償。
違法な行政活動で損害を受けた人に、
なぜあなた一人で我慢しろと言えるのか。
損失補償。
適法な公共事業でも、
なぜあなた一人だけが特別な犠牲を負うのか。
根拠は違う。
制度も違う。
でも。
公共。
という大きな言葉の陰に、
一人の損害を押し込めない。
そこは似ています。
「予算がないから」
私は言いました。
「だから我慢して」
「それで責任が消えるなら楽だな」
相馬先輩。
「ですよね」
「役所はだいたい何でも予算って言える」
「先輩、役所への信頼が薄い」
「違う。予算事情が現実なのは分かってる」
「なら」
「現実なのと、法的責任が消えるのは別だ」
なるほど。
そこ。
今回の事件で一番大事だった言葉かもしれません。
予算がない。
人手が足りない。
それは行政運営上の現実。
でも。
その現実だけで、
国家賠償責任まで自動的になくなるわけではない。
「沢渡課長も最後はそこ分けてましたね」
「合理的な人間だからな」
「先輩、ちょっと評価してます?」
「気のせいだ」
本当にみんなそれ好きですね。
私はノートの最後へ線を引きました。
そして。
一行の覚え書き。
毎回ここが悩みます。
「今日は何て書く」
相馬先輩が覗き込みます。
「今考えてます」
「長くすんな」
「分かってます」
違法なら賠償。
適法なら補償。
でも。
一条と二条も入れたい。
証拠の話も捨てがたい。
昭和の泥臭さも。
「欲張るな」
「心読まないでください」
「顔に出てる」
私は少し考えました。
そして書きます。
――違法なら賠償、適法な特別犠牲なら補償。国賠は条文より、事実を拾って動かす。
「二文だな」
「一行です」
「屁理屈だ」
「じゃあ短くします」
もう一度。
書く。
――違法は賠償、適法な犠牲は補償。国賠は証拠で動く。
相馬先輩が黙りました。
「どうです?」
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めた」
「気のせいだ」
はい。
今日三回目。
私はノートを閉じました。
窓の外。
夕方の道を、
自転車が一台通っていきます。
あの事故現場とは違う道です。
舗装は平ら。
街灯も明るい。
ただ。
私はもう。
道路を見る目が少し変わっていました。
穴があるか。
段差はないか。
街灯は届いているか。
柵は壊れていないか。
排水はどうか。
受験生の頭の中では、
国家賠償法二条。
という六文字だったものが。
今は、
町のあちこちに見えます。
「所長」
「何だ」
「国家賠償法って、短い法律ですよね」
「ああ」
「でも重いですね」
所長がこちらを見ました。
「なぜそう思う」
「短い条文の裏に、誰かの怪我とか生活とか、全部入ってるから」
所長は何も言いませんでした。
でも。
少しだけ頷きました。
私は机の端に置いたポラロイド写真を見ました。
穴。
巻尺。
夕暮れ。
あの写真がなければ。
要望書がなければ。
高校生を見つけられなければ。
法律が同じでも、
結果は違ったかもしれません。
条文は、
昭和六十三年も。
未来も。
同じ。
でも。
条文から救済までの距離は、
時代によって違う。
この時代は。
その距離を、
本当に自分の足で歩かなければならない。
「相馬先輩」
「何だ」
「私、昭和の実務ちょっと好きになってきました」
「ついに頭おかしくなったか」
「失礼な」
「この前まで『文明が遠い』って泣いてたろ」
「泣いてません」
「巻尺見て絶望してた」
「それはしました」
「ポラロイドの枚数で震えてた」
「高いんですもん」
「聞き込みで靴ずれ」
「痛かったです」
「で、好きになった?」
私は少し考えます。
「好きというか」
「うん」
「証拠って、待ってても来ないんだなって分かったので」
相馬先輩は煙草を消しました。
「当たり前だ」
「はい」
「だから現場に行く」
「はい」
「だから人に聞く」
「はい」
「だから紙を残す」
「はい」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「それが分かればいい」
今日も短い。
でも。
たぶん忘れません。
私はもう一度、
ノートの最後を開きました。
そして。
さっきの一行の下へ、
小さくもう一つだけ書き足します。
――法律は同じでも、証拠は自分で拾いに行く。
「二行になってるぞ」
相馬先輩。
「これは補足です」
「一行の覚え書きだろ」
「主文と理由です」
「行政書士っぽく誤魔化すな」
「法的構成です」
「却下」
「不当です」
「違法じゃねえ」
「国家賠償は違法じゃないと駄目ですよ」
「じゃあ損失補償」
「私のノート没収するの、適法な公共目的なんですか!」
相馬先輩が吹き出しました。
奥で。
片桐所長まで、ほんの少し笑っています。
「所長」
「何だ」
「笑いました?」
「気のせいだ」
「所長まで!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
国家賠償法の条文は、
未来と同じでした。
でも。
その一行を現実にするために必要なのは。
六法だけではありません。
巻尺。
カメラ。
紙。
鉛筆。
そして。
歩く足。
どうやら法律というものは、
変わらなくても。
人を救うまでの方法までは、
同じではないようです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




