[国家賠償と損失補償]現場編 「予算がなくて直せなかった」の嘘。道路の穴で転んだ一台の自転車と、昭和の証拠は足で拾う
道路に穴があいていたら。
たいていの人は、避けます。
でも。
避けられなかった人が転んだとき、
役所まで責任を避けていいとは限りません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の朝。
私は一台の自転車を見ていました。
正確には、
自転車だったもの。
「……これは」
「曲がってるだろ」
相馬先輩が言いました。
「曲がってますね」
「前輪が」
「芸術的に」
「褒めるな」
事務所の軒先に置かれた婦人用自転車は、前輪が横へぐにゃりと曲がっていました。
かごも潰れている。
ベルは半分取れている。
そして。
その持ち主。
杉本美代さん、五十八歳。
右腕を三角巾で吊っていました。
「病院では?」
片桐所長が聞きます。
「骨にひびが入ってるって」
「診断書は」
「もらってきました」
机の上へ、封筒が置かれました。
診断書。
治療費の領収書。
壊れた眼鏡。
破れた買い物袋。
そして、自転車。
ずいぶん具体的な相談です。
「事故はいつです?」
「一昨日の夕方です」
「どこで?」
「市民体育館の裏の道です。川沿いの」
私は知っていました。
駅から少し外れた市道。
道幅はそれほど広くない。
住宅と田んぼの間を抜ける、古い舗装道路です。
「何があったんですか」
杉本さんは少し言いにくそうにしました。
「穴があったんです」
「穴?」
「道に」
相馬先輩が眉を動かしました。
「どのくらいの」
「大きかったと思います。でも、夕方で暗くて」
「穴に前輪が入った?」
「はい。いきなりハンドルを取られて」
転倒。
右手をついた。
腕を負傷。
眼鏡が壊れた。
自転車も壊れた。
買ったばかりの卵は、聞かなくても想像できる状態になったそうです。
「市役所には?」
片桐所長が聞きました。
「昨日、行きました」
「何と言われた」
杉本さんの顔が曇りました。
「道路の傷みは、全部すぐ直せるわけじゃないって」
「ほかには」
「予算も人手も足りないからって」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「出たな」
「何がです?」
「役所の万能呪文」
「予算がない?」
「あと人手がない」
「不可抗力もありますね」
「よく分かってきたじゃねえか」
嬉しくない成長です。
杉本さんは続けました。
「それに、担当の人が……」
「はい」
「自転車なら、穴を避けられたんじゃないですかって」
あ。
それは。
ちょっと腹が立つ。
「暗かったんですよね」
「夕方でした。街灯もあるんですけど、その場所は木の陰になってて」
「雨は?」
「前の日まで降ってました。穴に水が溜まってました」
なるほど。
水たまりに見えた可能性もある。
私はノートへ書きます。
市道。
舗装の穴。
水。
夕方。
街灯。
転倒。
負傷。
ここまで書いたところで。
頭の中に、現代の行政書士試験テキストが勢いよく開きました。
国家賠償法。
一条。
二条。
損失補償。
あ。
来た。
これは来ました。
私は顔を上げました。
「所長」
「何だ」
「これ、国家賠償じゃないですか」
「そうだな」
即答。
そこで。
私は急に不安になりました。
「……待ってください」
「何だ」
「昭和六十三年ですよね」
「今さら何を言ってる」
「国賠法って、この時代どうなってましたっけ」
相馬先輩が怪訝な顔をします。
「どうって何がだ」
「いや、行政不服審査法とか制度が違ったじゃないですか。訴訟法だって改正前の論点があるし。だから国賠法も、もしかして昔の条文が――」
私は書棚へ走りました。
国家賠償法。
昭和二十二年法律第百二十五号。
開く。
一条。
二条。
三条。
四条。
五条。
六条。
読む。
もう一回読む。
「……同じだ」
「何が」
「同じです!」
「だから何がだ」
「条文が!」
私は国家賠償法を握ったまま振り返りました。
「未来と同じ!」
「未来?」
「何でもありません!」
危ない。
でも。
ちょっと感動しました。
行政不服審査法。
旧法と現行法で違う。
行政事件訴訟法。
時代による改正を確認しなければならない。
私はもう、
昭和の法律を見るたび、
どうせ違うんでしょう。
と疑う癖がついていました。
ところが国家賠償法。
昭和二十二年制定。
そして。
少なくとも私の知っている現代まで、条文の骨格どころか実質そのものが変わっていない。
「ありがとう国賠法……」
「何で法律に礼を言ってんだ」
「裏切らなかったので」
「法律に何を期待してんだ、お前」
相馬先輩の視線が痛い。
でも。
これなら分かります。
国家賠償法一条。
公務員が公権力の行使について、
故意または過失によって違法に他人へ損害を加えた場合。
国や公共団体が賠償責任を負う。
そして二条。
道路。
河川。
その他の公の営造物。
その設置または管理に瑕疵があって、
他人に損害を生じた場合。
国や公共団体が賠償責任を負う。
今回。
道路です。
「二条ですね」
私は言いました。
「だろうな」
相馬先輩が答えます。
「市道の管理に瑕疵があったか」
「そうだ」
そこで私は、もう一つの言葉を思い出しました。
「杉本さん」
「はい」
「市役所で、『補償はできない』みたいな言い方されませんでした?」
「ああ、言われました」
「何て?」
「道路工事のために土地を取ったわけでもないんだから、補償の話じゃないって」
私は頷きました。
「そこだけは、市役所の言うとおりです」
「そうなんですか」
「はい」
補償。
賠償。
似ています。
日常会話なら、だいたい同じ意味で使います。
でも法律では。
違う。
公共事業のため、
適法に土地を収用された。
適法な行政活動によって、特別な犠牲を負った。
そういう場合の問題が、損失補償。
一方。
本来、安全に管理されるべき道路に危険な穴があり、
それによってけがをした。
こちらは。
「損失補償じゃなくて、国家賠償」
「市が悪いことをした、ってことですか」
「正確には」
私は一瞬止まりました。
危ない。
二条で「市の職員が悪い」と言い切ると、一条と混ざります。
「道路そのものの安全な状態に問題があったか、です」
「道路が?」
「はい」
片桐所長が私を見ました。
「こはる」
「はい」
「講義はあとだ」
「すみません」
「まず証拠だ」
来た。
所長のいつものやつです。
法律論より先に、
証拠。
「穴の写真は」
「ありません」
杉本さんが答えました。
「事故の直後は、それどころじゃなくて」
「目撃者は」
「分かりません」
「警察は」
「救急車は呼ばなかったんです。近所の方に病院へ連れていってもらって」
「その人の名前は」
「中山さん。近くの酒屋さんです」
「事故を見た?」
「転んだあとです」
所長が黙りました。
私は言いました。
「でも、今から現場に行けば穴がありますよね」
「たぶんな」
「写真を撮れば」
「誰が撮る」
「私が」
「何で」
「……あ」
ない。
スマホが。
私は反射的に制服のポケット――ではなく、昭和のブラウスのポケットを触りました。
当然ありません。
スマホ。
ない。
デジカメ。
ない。
ドラレコ。
ない。
道路沿いの防犯カメラ。
ほぼ期待できない。
コンビニの監視映像。
そもそも近所にコンビニがない。
事故現場の位置情報。
GPS。
ない。
私は椅子に座りました。
「……詰んだ」
「何がだ」
「証拠集めが原始時代です」
「昭和を何だと思ってんだ」
相馬先輩が立ち上がりました。
机の引き出しを開ける。
取り出したのは。
巻尺。
黄色いチョーク。
方眼紙。
懐中電灯。
そして。
ポラロイドカメラ。
「行くぞ」
「それで?」
「それでだ」
「撮影枚数は?」
「フィルムがあるだけだ」
「連写は?」
「頭でも打ったか」
「ズームは?」
「寄れ」
「手ぶれ補正」
「脇締めろ」
「位置情報」
「地図描け」
私は机に突っ伏しました。
「文明が遠い……」
「道路の穴一個調べるのに、未来じゃ何が要るんだ」
「スマホ一台」
「甘ったれんな」
言い返せない。
法律は同じ。
証拠の集め方だけが、
猛烈に違う。
片桐所長が上着を取りました。
「現場へ行く」
「所長も?」
「当然だ」
「何を確認します?」
「穴」
「それは分かります」
「深さ。幅。位置。照明。見通し。補修跡。排水」
「はい」
「それと」
所長が杉本さんを見ました。
「いつからあった穴か」
私は顔を上げました。
そうか。
事故が起きた瞬間、突然できた穴なら。
市が管理すべき危険として評価されるかは話が変わる。
でも。
前から長期間あった。
通報もされていた。
補修されず放置されていた。
なら。
事情はかなり違います。
「聞き込みですか」
「そうだ」
「何軒?」
「分かるまで」
うわあ。
昭和実務。
検索ボタンが存在しない。
市民体育館裏。
川沿いの市道。
「……あれです」
杉本さんが指しました。
ありました。
穴。
というより。
「でか」
思わず声が出ました。
「こはる」
「はい」
「測れ」
「はい」
私は巻尺を伸ばします。
縦。
約七十センチ。
横。
約五十五センチ。
中央の深い部分。
「先輩」
「何だ」
「定規あります?」
「巻尺突っ込め」
「なるほど」
深さ。
約九センチ。
場所によっては十一センチ近い。
「婦人用自転車の前輪なら」
「入るな」
「入りますね」
穴の中には、まだ濁った水が残っていました。
私はしゃがみ込みます。
夕方。
水が張る。
木の影。
道路と同じような色。
遠目には、
ただの浅い水たまりに見えるかもしれない。
所長が道路脇へ立ちました。
「杉本さん。どちらから来た」
「あっちです」
「走ってみろ」
「私がですか」
「歩け」
「あ、はい」
私は事故当時と同じ方向から近づきます。
三十メートル。
二十。
十五。
穴は見える。
でも。
十メートル。
「……これ、暗かったら分かりにくいですね」
「ああ」
「木の影と重なります」
相馬先輩が街灯を見上げました。
「街灯はある」
「でも反対側ですね」
「事故時刻は何時だ」
「六時少し前」
十月。
もう薄暗い時間です。
所長が言います。
「同じ時刻にも確認する」
「また来るんですか」
「当然だ」
「現場百回って本当にやるんですね」
「百回行く前に分かれば終わる」
「合理的」
ポラロイド。
一枚。
カシャ。
じー。
白い紙が吐き出されます。
私は振りたくなりました。
「振るな」
相馬先輩に止められました。
「え」
「振っても早くならねえ」
「未来でも同じ俗説あります」
「未来のポラロイド事情なんか知らねえ」
二枚目。
穴を斜めから。
三枚目。
巻尺を置き、大きさが分かる状態。
四枚目。
深さ。
五枚目。
杉本さんの進行方向から。
六枚目。
道路全体。
「フィルム高いんだから考えて撮れ」
「現代なら百枚くらい」
「だから甘ったれんな」
相馬先輩の昭和根性が今日すごい。
でも。
そのあとがさらにすごかった。
聞き込み。
一軒目。
床屋。
「穴? 前からあるよ」
「いつ頃からです?」
「さあなあ。一か月くらいじゃないか」
二軒目。
八百屋。
「あそこ危ないよ。雨降ると見えないんだ」
「役所へ連絡した人は?」
「自治会長が言ってたんじゃないかな」
三軒目。
駄菓子屋。
「先月、原付もガタンってやってたよ」
「転倒しました?」
「倒れてはいないけど、すごい音した」
四軒目。
酒屋。
中山さん。
「ああ、杉本さんね。店の前で音がしたから出たんだ」
「事故直後を見たんですね」
「見た。自転車が倒れてて、杉本さんが座り込んでた」
「穴は?」
「前からあるよ」
「どのくらい前から?」
「少なくとも三週間」
所長の目が動きました。
「市役所へ連絡したことは」
「俺じゃない。自治会長がしたはずだ」
来た。
自治会長。
五軒目。
木村さん、七十一歳。
自治会長。
「しましたよ」
「いつです?」
「先月の十二日」
私は鉛筆を止めました。
事故は今月。
二日前。
「市役所のどこへ?」
「道路課」
「電話で?」
「いや」
木村さんは家の中へ戻りました。
そして。
一枚の紙を持ってきます。
「これ」
道路補修要望書。
自治会名。
場所。
簡単な見取図。
提出日。
受付印。
「……ある」
私は思わず呟きました。
紙が。
証拠が。
昭和の紙、強い。
「控えを取ってあったんですか」
「役所に出すものは控えを残せって、前の自治会長に言われてね」
前の自治会長。
ありがとうございます。
会ったこともないけれど、今日いちばん抱きしめたい人です。
要望内容。
舗装が陥没し、自転車等の通行に危険。
早急な補修を求める。
提出は事故の約三週間前。
「その後、市から返事は?」
「予算の都合で順次対応するって」
「書面は?」
「電話だけ」
「誰が受けた?」
「道路課の若い人だったな」
「名前は」
「たしか……森下さん」
相馬先輩が私を見る。
「書け」
「はい」
名前。
日時。
会話。
全部紙。
何でも記録。
この時代。
記録しなかった事実は、蒸発します。
午後六時前。
もう一度現場。
夕方の光。
私は事故方向から道路を見ました。
「……見えにくい」
昼間とは別物でした。
街灯は点いている。
でも穴の付近は木の影。
水の張った部分が、道路の黒い舗装と同化している。
所長が黙って立っています。
「写真」
「はい」
ポラロイド。
一枚。
もう一枚。
露出が難しい。
現代のスマホなら、
画面を触れば明るくしてくれるのに。
「先輩」
「何だ」
「撮れてますかね」
「現像待て」
「確認できないの怖すぎません?」
「だから二枚撮った」
これが経験。
デジタル以前の人類は、
撮り直せない前提で仕事をしている。
地味に強い。
相馬先輩が懐中電灯で穴を照らします。
「轍の崩れ方を見ると、昨日今日じゃねえな」
「分かるんですか」
「縁が丸く削れてるだろ」
言われて見る。
確かに。
できたばかりの舗装の割れというより、
何台も車が通って崩れた形。
所長が穴の周囲を見ます。
「チョーク」
「はい」
補修らしき古い跡もありました。
継ぎはぎされた舗装。
その境目から崩れたようにも見える。
「ここも撮れ」
「はい」
カシャ。
フィルム一枚の重みがすごい。
私は思いました。
法律の条文は現代と同じ。
でも。
その条文を事実に結びつけるまでが、
全然違う。
今なら。
事故直後のスマホ写真。
ドラレコ映像。
近隣店舗の防犯カメラ。
位置情報。
撮影日時。
それらが一瞬で残る。
昭和六十三年。
残るのは。
人の記憶。
紙。
写真。
そして、
歩いた人間の靴底です。
二日後。
市役所。
総務課。
「またですか」
沢渡課長が言いました。
「またです」
私は答えました。
「最近、頻度が高くないですか」
「市が素材を提供してくれるので」
「朝比奈」
相馬先輩に止められました。
危ない。
喧嘩を売るところだった。
今回。
道路課の担当者も同席していました。
沢渡課長。
道路課係長。
こちらは、
片桐所長。
相馬先輩。
私。
机の中央。
杉本美代さんの事故。
「道路課としては」
係長が言いました。
「事故について市の責任があるとは考えておりません」
「理由は」
相馬先輩が聞きます。
「道路は日常的に損耗します。すべての損傷を即時に補修することは不可能です」
「それで」
「予算、人員にも限りがあります」
「それで」
「また、自転車利用者にも前方を注意して通行する義務があるでしょう」
「それで終わりか」
係長が少し不快そうな顔をしました。
「不可抗力的な道路損傷まで、市がすべて賠償することはできません」
来ました。
予算。
人手。
不可抗力。
フルコース。
相馬先輩が椅子へ背を預けました。
「課長」
沢渡課長を見る。
「何でしょう」
「国家賠償法二条は知ってるよな」
「もちろんです」
「じゃあ話が早い」
「道路に穴があったから、直ちに賠償責任が生じるわけではありません」
沢渡課長は冷静でした。
そこは正しい。
穴がある。
事故が起きた。
はい賠償。
そこまで単純ではない。
公の営造物が、
通常有すべき安全性を欠いていたか。
その状態と事故との因果関係はあるか。
被害者側の運転状況はどうだったか。
全部見る。
「分かってる」
相馬先輩が言いました。
「だから調べた」
机の上へ。
一枚。
ポラロイド写真。
穴の全景。
二枚目。
巻尺付き。
三枚目。
深さ。
四枚目。
事故進行方向。
五枚目。
夕方の視認状況。
「穴は最大で、およそ七十センチ掛ける五十五センチ」
相馬先輩が言います。
「深さ最大十一センチ」
道路課係長が写真を見ました。
「測ったんですか」
「メジャーで」
私は言いました。
「手で」
「……そうですか」
「スマホがないので」
「スマホ?」
「何でもありません」
沢渡課長が私を見ました。
危ない。
「水が溜まると、夕方は舗装面との区別がつきにくい」
相馬先輩。
「街灯はあるが、木の陰になる」
写真。
地図。
事故位置。
杉本さんの進行方向。
全部並べる。
「そして」
片桐所長が一枚の紙を出しました。
自治会の道路補修要望書。
受付印。
事故の三週間前。
沢渡課長の目が止まりました。
「これは」
「道路課受付」
「……係長」
沢渡課長が横を見る。
道路課係長の顔が固まりました。
「確認します」
「今確認してくれ」
相馬先輩が言います。
「控えには受付印がある」
係長はしばらく紙を見ていました。
「要望が出ていたこと自体は、否定しません」
「内容も読め」
相馬先輩が指しました。
――舗装が陥没し、自転車等の通行に危険。
――早急な補修を求める。
私はそこを見ながら、
少し鳥肌が立ちました。
事故が起きる前。
もう書かれていたのです。
自転車等の通行に危険。
三週間後。
本当に自転車が転びました。
「現地確認は?」
片桐所長が聞きました。
係長が答えます。
「担当者が確認しています」
「いつ」
「……要望提出の数日後です」
「危険性を認識した?」
「補修の必要はあると」
「それで放置した」
「放置ではありません」
係長の声が少し強くなります。
「補修予定には入れていました」
「いつ直す予定だった」
「今月末です」
「杉本さんが転んだのは?」
「……その前です」
「そういうのを、間に合わなかったって言うんだ」
相馬先輩が低く言いました。
「相馬」
所長が止めます。
感情を出すな。
そういう意味でしょう。
片桐所長は沢渡課長を見ました。
「課長」
「はい」
「国家賠償法二条は、公務員個人の過失を立証する条文じゃない」
「承知しています」
「道路という営造物が、通常有すべき安全性を欠いていたかを見る」
「ええ」
「この穴の大きさ」
写真。
「深さ」
写真。
「夕方の視認状況」
写真。
「事故前から存在したという近隣住民の証言」
聞き取り記録。
「市への補修要望」
受付印付きの控え。
「市自身による現地確認」
ここは市側資料。
「そして補修予定に入れていたという今の説明」
片桐所長の声は静かでした。
「これだけ揃ってなお、市道が通常有すべき安全性を備えていたと言うか」
部屋が静かになりました。
沢渡課長が写真を一枚ずつ見ます。
感情ではなく、
計算している顔でした。
責任を認めるか。
拒否するか。
訴訟になったらどうなるか。
「予算の制約はあります」
沢渡課長が言いました。
相馬先輩が答えます。
「役所が『予算がない』って泣き言を言っても、それだけで法律は消えねえよ」
「相馬さん」
「何だ」
「役所は泣いていません」
「比喩だ」
「あなたの比喩は品がない」
「そこ争うか?」
相変わらずです。
でも。
沢渡課長の声はさっきより硬かった。
「もちろん、予算がないという一点だけで責任が免除されるとは言いません」
「じゃあ」
私が言いました。
「今回、何を不可抗力って言うんですか」
沢渡課長がこちらを見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「道路の損傷が発生してから、市が知る間もなく事故が起きたのであれば、事情は違います」
「はい」
そこは私も分かっています。
大雨。
地震。
突然の陥没。
通報直後の事故。
管理者に現実的な対応の余地がなかった。
そういう場面まで全部同じにはできない。
「でも今回は」
私は要望書を指しました。
「三週間前に、市は知ってます」
「そうですね」
「危険だって書いてあります」
「ええ」
「市の人も見に行ってる」
「そのようです」
「補修が必要だとも判断した」
「……ええ」
「じゃあ、『知らなかった』でも『突然だった』でもないですよね」
沢渡課長は黙りました。
私は続けます。
「しかも二条なら」
一瞬。
ここは慎重に。
「誰か特定の職員の不注意を立証しないと、絶対に責任が出ないわけじゃない」
「そのとおりです」
沢渡課長が言いました。
道路課係長が少しこちらを見ます。
「公の営造物の設置または管理に瑕疵があったか。それが問題です」
私は頷きました。
そう。
一条なら。
公務員が公権力の行使にあたって、
故意または過失により、
違法に損害を与えた。
そこが問題になる。
でも二条。
道路。
河川。
公園。
公共施設。
物そのものの安全性。
管理状態。
そこを見る。
だから。
道路課の誰が悪かったか。
担当者がサボったのか。
上司が予算を回さなかったのか。
そういう犯人探しだけをしなくていい。
道路が危険だったか。
市が管理する道路として、
通常備えるべき安全性を欠いていたか。
そこが中心です。
「判例上も」
片桐所長が言いました。
「営造物の瑕疵は、通常有すべき安全性を欠く状態かどうかで見る」
沢渡課長が頷きました。
「承知しています」
「この事案で訴訟になれば」
所長は言いました。
「こちらは弁護士へ渡す」
空気が変わりました。
そう。
ここから先。
裁判所で争うのは私たちではない。
行政書士は訴訟代理人ではありません。
国や市を相手に、
法廷で国家賠償請求訴訟を戦うことはできない。
でも。
そこまで持っていく資料は作れる。
事故状況。
診断書。
治療費。
自転車修理見積。
眼鏡代。
現場写真。
測定記録。
目撃者。
近隣住民。
道路補修要望書。
市の認識。
管理状態。
全部揃えて。
弁護士が見た瞬間、
戦える。
そう思える状態にする。
そして。
市役所にも分からせる。
裁判にしたら、
かなり危ない。
と。
沢渡課長が椅子へ深く座りました。
「請求額は」
相馬先輩が封筒を出しました。
「治療関係」
領収書。
「通院交通費」
一覧。
「眼鏡」
購入記録。
「自転車修理」
見積書。
「休業」
杉本さんは近所の仕出し店でパートをしていました。
医師から数日間、仕事を休むよう言われている。
勤務先の証明も取った。
「慰謝料については」
相馬先輩が言います。
「現時点では治療期間が確定してない。だから最終額はまだ出さねえ」
沢渡課長が書類を見ました。
「ずいぶん揃えましたね」
「裁判になるかもしれねえからな」
「脅しですか」
「予告だ」
「相馬」
「はいはい」
所長が内容証明郵便用の原稿を机に置きました。
損害賠償請求書。
事実関係。
道路の状況。
国家賠償法二条。
損害項目。
因果関係。
市への事前通報。
示談協議の申入れ。
「まだ送っていない」
所長が言いました。
「話し合いで解決する余地があるなら、先に来た」
沢渡課長は原稿を読みました。
ゆっくり。
一枚。
二枚。
三枚。
そして。
「一つ」
「何だ」
「杉本さん側の過失は?」
私は息を止めました。
来ると思っていました。
「前方不注視」
沢渡課長が言います。
「自転車の速度」
「聞き取り済みだ」
相馬先輩が答えます。
「買い物帰り。通常走行。下り坂じゃねえ。酒も飲んでない。無灯火でもない」
「証拠は」
相馬先輩が少し笑いました。
「だから足で探した」
一枚の聞き取り書。
事故直前。
杉本さんの後方を同じ方向に走っていた高校生。
近隣の駄菓子屋で名前を聞き、
家を探し、
本人と保護者に事情を説明し、
話を聞いた。
杉本さんは速い速度ではなかった。
前照灯も点けていた。
急な進路変更もなかった。
そして。
穴に前輪が落ち、
転倒するところを見た。
「……そこまで見つけたんですか」
沢渡課長が言いました。
「二時間歩きました」
私は言いました。
「靴ずれしました」
「朝比奈」
「大事な苦労です」
「請求書には書くなよ」
「書きませんよ!」
でも。
本当に。
これが一番きつかった。
事故の映像なんてない。
誰かが撮っているわけでもない。
だから。
その時間。
その道。
その近くにいた人を、
一人ずつ探す。
証言は、
検索では出てきません。
歩いて、
頭を下げて、
聞く。
この時代の証拠は、
本当に足で拾うのです。
沢渡課長がしばらく黙りました。
やがて。
「市として、責任を全面的に認めると、この場で即答はできません」
ですよね。
「ただし」
続きがありました。
「道路管理上の瑕疵が認定される可能性は、否定できません」
道路課係長が少し動きました。
「課長」
「要望書が事故前に提出されています。現地確認もしている。危険性の認識もあった」
「しかし予算が」
「予算事情と、賠償責任の有無は別問題です」
沢渡課長。
切り替えが早い。
敵に回すと面倒。
でも事実が固まると、
一番話が早い人でもあります。
「杉本さん本人と示談協議に入ります」
私は瞬きしました。
「賠償するんですか」
「額はこれからです」
「でも拒否じゃない」
「そうです」
「認めるんですね」
「朝比奈さん」
「はい」
「私は『全面的に認める』とは言っていません」
「細かい」
「大事です」
相馬先輩が笑いました。
「役人だなあ」
「褒め言葉として受け取ります」
沢渡課長は道路課係長へ言いました。
「現場は今日中に応急措置を」
「はい」
「本補修は?」
「手配します」
「今月末では遅い」
「……はい」
私は思わず聞きました。
「予算は?」
沢渡課長がこちらを見ました。
「調整します」
「あるんですか」
「必要なものは調整します」
「昨日までなかったのに」
「朝比奈さん」
「はい」
「行政予算というものは、あなたが思っているほど単純ではありません」
「でも穴は塞がる?」
「塞ぎます」
「なら結構です」
「あなた、最近ずいぶん強くなりましたね」
「役所に鍛えられてます」
沢渡課長が小さくため息をつきました。
それから一週間。
市と杉本さんの間で、
正式な示談協議が始まりました。
治療はまだ続いています。
だから最終的な金額は決まっていません。
でも。
治療費など、争いの少ない部分については、
市側が賠償に応じる方向で整理されました。
そして。
事故現場。
穴は塞がりました。
灰色の新しいアスファルト。
周囲だけ妙にきれいです。
「……早いですね」
私は言いました。
「壊れたあと、人が怪我すると早くなる」
相馬先輩が言いました。
「それ、悲しいですね」
「だから怪我する前に直すのが管理だ」
ぐう。
良いことを言います。
また。
杉本さんが事務所へ来たのは、
その翌日でした。
三角巾は外れていました。
「まだ痛むけどね」
「無理しないでください」
「自転車も直るって」
「よかったです」
「それでね」
杉本さんは、小さな紙袋を机に置きました。
「お礼なんだけど」
相馬先輩が反応します。
「食い物ですか」
「先輩」
「大事だろ」
中身。
卵。
一パック。
「あの日、全部割れちゃったでしょう」
杉本さんが笑いました。
「だから今度は割れてないのを」
「ありがとうございます!」
私は受け取りました。
「目玉焼きできます!」
「お前の喜び方も相馬と大差ねえぞ」
「食べ物は大事です」
片桐所長が書類から顔を上げました。
「杉本さん」
「はい」
「まだ終わっていません」
「分かってます」
「治療が終わるまでは、領収書を全部残してください」
「はい」
「通院日も記録を」
「はい」
「仕事を休んだ日も」
「はい」
杉本さんは一つずつ頷きました。
そして。
「先生」
片桐所長を見ました。
「私、最初は思ったんです」
「何を」
「市の道で転んだって言っても、そんなの自分が運悪かっただけだって」
所長は黙っています。
「役所の人にも、避けられたんじゃないかって言われたし」
杉本さんは左手で、右腕を少しさすりました。
「でも、私が転ぶ前から、危ないって言ってた人がいたんですね」
「いました」
「それでも直らなかった」
「はい」
「だったら」
少し間を置いて。
「私が我慢して終わりにしなくてよかったんですね」
所長が答えました。
「ああ」
短い。
でも。
たぶんそれで十分でした。
杉本さんが帰ったあと。
私は卵のパックを眺めながら、ノートを開きました。
国家賠償。
損失補償。
受験生だった頃。
私はこの二つを表で覚えていました。
国家賠償。
違法な行政活動。
損害の賠償。
損失補償。
適法な行政活動。
特別の犠牲。
正当な補償。
それだけ。
そこへさらに。
国家賠償法一条。
公務員の公権力行使。
故意・過失。
違法。
二条。
道路その他の公の営造物。
設置・管理の瑕疵。
表。
矢印。
丸暗記。
でも。
今日の私は。
その表の中に、
道路の穴が見えます。
濁った水。
十一センチ。
夕方の木陰。
曲がった自転車。
三角巾。
自治会長の控え。
受付印。
ポラロイド写真。
そして、
高校生を探して二時間歩いた足。
「法律って」
私は呟きました。
「条文だけ同じでも、使い方は時代で全然違うんですね」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「また未来の話か」
「違いますよ」
「じゃあ何だ」
「証拠です」
「うん」
「国賠法は、この時代も私の知ってる法律と同じだった」
「さっきからそれ何なんだ」
「でも、立証する道具が全然違う」
相馬先輩は煙を吐きました。
「道具なんざ何でもいいだろ」
「え」
「写真がなきゃ見に行く。映像がなきゃ人を探す。記録がなきゃ聞く」
「でも大変ですよ」
「だから仕事なんだろ」
さらっと言います。
嫌になります。
この人。
たまにものすごくまともです。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「法律は事実に適用する」
「はい」
「事実が分からなければ、適用できん」
「はい」
「だから現場へ行く」
「……はい」
国家賠償法第二条。
たった数行。
道路の設置または管理に瑕疵があったか。
文字だけなら、
一分で読めます。
でも。
その一行を、
杉本さんの事故に当てはめるためには。
穴を測る。
暗くなるまで待つ。
写真を撮る。
住民を訪ねる。
自治会長を探す。
市役所の受付印を確認する。
事故を見た高校生を探す。
病院の書類を揃える。
修理代を調べる。
仕事を休んだ日を確かめる。
一個ずつ。
本当に一個ずつです。
法律は、
机の上だけでは人を救わない。
事実とつながって、
初めて動く。
「それにしても」
私は言いました。
「国家賠償法、昭和から変わってないの、ちょっと好きになりました」
「法律を好き嫌いで見るな」
「だって安心するじゃないですか」
「何が」
「『実はこの時代、条文違います』って罠がない」
「お前は何と戦ってるんだ」
「法改正です」
「受験生みたいなこと言うな」
「受験生ですから!」
言ってから。
少し笑いました。
そうでした。
私はまだ。
行政書士受験生です。
ただ。
現代でテキストを読んでいた頃より、
国家賠償法第二条のことを、
少しだけ本当に知った気がしました。
夕方。
事務所を閉める前。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課、沢渡です』
「課長」
『道路の件ですが』
「はい」
『市内の補修要望で、未処理のものを一度洗い直すことになりました』
私は少し黙りました。
「全部ですか」
『危険度の高いものからです』
「予算は?」
『朝比奈さん』
「はい」
『それ、気に入ったんですか』
「ちょっと」
『予算には限界があります』
「はい」
『しかし限界があるからこそ、優先順位を誤ってはいけない』
沢渡課長が言いました。
『事故が起きてから払う賠償金も、市民の負担ですから』
私は机の端に置かれたポラロイド写真を見ました。
道路の穴。
巻尺。
夕暮れ。
「課長」
『何でしょう』
「今回の杉本さんの件」
『はい』
「もし訴訟になったら、やっぱり負けそうでした?」
少し沈黙。
『仮定の質問には答えません』
「やっぱり危なかったんだ」
『答えていません』
「分かりました」
『分かっていないでしょう』
「でも示談するんですよね」
『適切に処理します』
「役所語」
『行政実務です』
相変わらず。
最後まで言葉を崩さない。
でも。
電話を切る前。
沢渡課長は一言だけ言いました。
『杉本さんが怪我をする前に直しておくべきでした』
私は何も言いませんでした。
『では』
電話が切れます。
静かになった事務所。
相馬先輩が聞きました。
「何だって」
「市内の危ない道路、見直すそうです」
「そうか」
「それと」
「うん」
「怪我する前に直すべきだったって」
相馬先輩は煙草を灰皿へ押しつけました。
「当たり前だ」
「はい」
当たり前。
たぶん。
法律が目指しているのは、
そこです。
誰かが転んだあと、
お金を払わせることだけじゃない。
危ないものを、
危ないまま放っておかない。
それでも事故が起きたなら、
被害を受けた一人に、
全部を押しつけない。
国家賠償という制度は、
国や役所を懲らしめるためだけにあるわけではありません。
公の仕事によって生じた損害を、
たまたまそこにいた一人だけに背負わせないためにある。
そして。
適法な公共事業によって、
一人だけ特別な犠牲を負わせるなら。
そこには損失補償という別の道がある。
違法なら、賠償。
適法でも特別な犠牲なら、補償。
理由は違う。
入口も違う。
でも。
どちらにも、
似た考えが流れている気がしました。
公共のためだから。
役所だから。
予算がないから。
だから、
あなた一人で我慢してください。
法律は、
それを簡単には許さない。
冷たい条文が、
弱い側へ重さを戻すことがある。
窓の外。
薄暗くなった市道を、
一台の自転車がゆっくり走っていきました。
私は少しだけ、その後ろ姿を見送りました。
「こはる」
「はい」
片桐所長が言いました。
「卵」
「はい?」
「持って帰るのか」
「あ」
杉本さんにもらった一パック。
「事務所のみんなで分けましょう」
「十個だぞ」
「三人」
相馬先輩が即答しました。
「俺、四」
「何でですか!」
「先輩だから」
「法的根拠は」
「慣習」
「そんな慣習ありません!」
「長年続けば慣習になる」
「今日初めてでしょう!」
片桐所長が静かに言いました。
「三、三、四」
「所長!」
「余りは俺だ」
「一番強い人が取った!」
相馬先輩が笑います。
「不満なら請求しろ」
「何請求ですか」
「損失補償」
「適法に卵取られた前提なんですか!」
「じゃあ国家賠償」
「所長の卵配分は公権力の行使じゃありません!」
片桐所長が卵を一つ持ち上げました。
「よく分かってきたな」
「教材にしないでください!」
こうして。
道路の穴から始まった私の国家賠償法は、
最後には卵の取り分を争うところまで来ました。
ただし。
これだけは、もう間違えません。
割れた卵を弁償してもらう話と、
公共のために財産を使われて補償を受ける話は、
同じではない。
そして。
道路にできた穴も。
法律にできた穴も。
見つけたなら、
なるべく誰かが転ぶ前に塞いだほうがいい。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も法律は変わっていません。
変わっていたのは、
そこへ辿り着くまでに、
私たちが歩かなければならない距離のほうでした。
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