[客観訴訟――民衆訴訟と機関訴訟]法理編 こはるノート
夕方の事務所は、昼間より少しだけ法律が素直になります。
電話が減る。
来客が途切れる。
誰かの怒鳴り声もない。
その代わり。
昼間に分かったつもりになったことが、夜になると急に怪しくなる。
受験勉強でもよくありました。
昼。
「完全に理解した」
夜。
「何も分からない」
行政法には、そういう魔物が住んでいます。
片桐行政書士事務所。
私の机の上には、二つの箱が並んでいました。
一つ。
――駅前モニュメント契約。
杉浦孝三さんの件。
市が三千八百万円で契約した駅前モニュメント。
随意契約。
価格決定の妥当性。
契約相手と関係者とのつながり。
杉浦さん自身の土地を取られたわけでもない。
営業を止められたわけでもない。
それでも。
住民として、
「市の金の使い方がおかしいんじゃないか」
と問う。
もう一つ。
――市長・市議会 権限問題。
こっちは、市長と議会。
行政機関同士の権限争い。
二つの箱を見比べて。
私はノートに大きく書きました。
――客観訴訟。
「……名前が分かりにくい」
「始まったな」
向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけました。
「何がです?」
「お前の法律用語への文句」
「だって客観訴訟ですよ」
「そう書いてあるんだから仕方ねえだろ」
「名前だけ見たら、裁判官が冷静に客観的に判断する訴訟みたいじゃないですか」
「主観訴訟は感情でやるのか」
「そう言われると違いますね」
「三秒で崩れる文句を言うな」
嫌な先輩です。
私はノートのページをめくりました。
「じゃあ整理します」
「勝手にしろ」
「付き合ってください」
「嫌だ」
「所長」
「付き合え」
奥から片桐所長の声。
即決。
相馬先輩が煙草をくわえたまま天井を見ました。
「この事務所には行政救済が必要だ」
「機関訴訟します?」
「誰と誰がだ」
「先輩と所長」
「俺は行政機関じゃねえ」
「残念」
「何が残念なんだ」
私はノートの上に線を引きました。
まず。
行政事件訴訟法上の訴訟。
大きく分けると、
主観訴訟。
客観訴訟。
「今日の基本ですね」
「違いは」
相馬先輩が聞きます。
「主観訴訟は、個人の権利利益を救済するため」
「例えば」
「取消訴訟」
「うん」
「営業許可を取り消された人が、その取消処分は違法だとして争う」
「ほかは」
「公務員が懲戒処分を取り消してほしいとか」
「うん」
「自分の権利や法律上の利益を守るために争う」
「それが主観訴訟」
「はい」
私はノートに書きます。
主観訴訟。
――私の権利を守る訴訟。
もちろん試験答案に、
「私の権利」
なんて書いたら雑すぎます。
でも覚えるには便利です。
「じゃあ客観訴訟は?」
相馬先輩。
「行政の適法性を確保することが目的」
「もっと事件に引きつけろ」
「はい」
杉浦さん。
モニュメント契約。
三千八百万円。
杉浦さん個人の財産権が直接侵害されたわけではない。
それでも住民として、
市の財務会計が適法に行われているか。
そこを問題にする。
「つまり」
私は言いました。
「『私が困った』から争うんじゃない」
「うん」
「『行政が法律どおり動いているか』を争う」
「それが客観訴訟だ」
片桐所長が言いました。
私はノートに書きます。
客観訴訟。
――私のためではなく、行政の適法性を確保するための訴訟。
昨日書いた一行を思い出しました。
客観訴訟は、私のためではなく、法のために争う。
「やっぱり昨日の表現、悪くないですね」
「格好つけすぎだ」
「でも方向は合ってるでしょう」
「方向はな」
相馬先輩は厳しい。
ここで。
私は二つ目の見出しを書きました。
――客観訴訟は、いつでもできる?
「答え」
相馬先輩が言います。
「できない」
「早い」
「昨日やっただろ」
「復習です」
客観訴訟。
ここが重要。
自分の個人的な権利利益を守る訴訟ではない。
だからこそ。
行政が違法そうだ。
腹が立つ。
税金がもったいない。
市民だから訴える。
それだけでは駄目。
「法律に定めがある場合に限って提起できる」
「そうだ」
私はそこを四角で囲みました。
法律が特別に認めたときだけ。
民衆訴訟も。
機関訴訟も。
同じです。
「なぜ?」
私は自分で問いを書きます。
相馬先輩が答えました。
「自分の権利を侵害されたわけでもねえ奴まで、何でも裁判できたら収拾つかねえからだろ」
「雑ですけど、分かりやすいです」
「また雑って言ったな」
「褒めてます」
「聞こえねえ」
でも本当に。
もし。
市が公園の時計を赤く塗った。
気に入らない。
行政がおかしい。
民衆訴訟。
なんてことが全部許されたら、
行政活動の相当部分が裁判沙汰になります。
客観訴訟には公益的な意味がある。
でも。
公益を理由に無制限に裁判を認めれば、
逆に行政も司法も動かなくなる。
だから。
法律が、
「この場面では特別に争ってよい」
と入口を作る。
「客観訴訟の特徴は」
所長が言いました。
「公益性が高い」
「はい」
「その代わり」
「入口が限定される」
「そうだ」
なるほど。
公益のためだから広そうで。
実は狭い。
行政法。
このあたりのツンデレが激しい。
「今、変なこと考えただろ」
相馬先輩。
「なぜ分かるんです?」
「顔」
「顔に行政法への感想が出る体質になってる」
次。
――民衆訴訟。
私はノートに書きました。
行政事件訴訟法上。
民衆訴訟とは。
国または公共団体の機関の法規に適合しない行為の是正を求める訴訟で、
選挙人たる資格その他、
自己の法律上の利益にかかわらない資格で提起するもの。
「長い」
「条文系は長いんです」
「噛み砕け」
「はい」
私は下に書き直しました。
――住民や選挙人などが、自分個人の権利とは別の立場から、行政の違法を正すために起こす訴訟。
「昨日の杉浦さんですね」
「ああ」
杉浦さん。
市民。
納税者。
住民。
でも。
住民だからというだけで、
通常の取消訴訟の原告適格が当然に認められるわけではない。
「ここ、混同しやすいですよね」
「何と」
「住民なら何でも訴えられる、って感覚」
「実際、杉浦さんもそう思ってたな」
「はい」
市の税金。
自分も払っている。
だから自分も損している。
その気持ちは分かります。
でも。
通常の主観訴訟では、
それだけで個別具体的な法律上の利益があるとは限らない。
そこで。
法律が別の仕組みとして、
住民という立場から行政の適法性を問える訴訟を用意する。
それが民衆訴訟。
「代表例は?」
所長。
「地方自治法に基づく住民訴訟」
「もう一つ」
「選挙や当選の効力に関する訴訟」
「そうだ」
私はノートに二つ書きました。
民衆訴訟の代表例。
一。
住民訴訟。
二。
選挙・当選の効力に関する訴訟。
まず。
住民訴訟。
昨日の事件そのものです。
「市長が公金を違法に支出した場合」
私は言いました。
「住民が、自治体の損害を回復するなどのため、住民訴訟を提起できる」
「いきなりか?」
相馬先輩。
「いえ」
「そこ大事だろ」
「はい」
私は大きく矢印を書きました。
住民監査請求。
↓
住民訴訟。
「原則として先に住民監査請求」
「そうだ」
「昨日の杉浦さんも、いきなり地方裁判所へ行く話ではなかった」
「だから資料を整理した」
「はい」
随意契約。
価格決定。
財務会計行為。
どの行為が問題なのか。
何が違法なのか。
それを特定する。
「ここ、すごく大事ですね」
「何がだ」
「民衆訴訟って聞くと、住民が正義のために行政と戦う、みたいに見える」
「まあな」
「でも実務は、もっと地味」
「地味って言うな」
「いや、良い意味で」
正義。
怒り。
不信。
もちろん出発点にはなる。
でも。
裁判所へ持っていくなら。
どの財務会計行為。
いつ。
誰が。
どんな法的根拠で。
どこが違法。
そこまで落とさないといけない。
「『税金の無駄遣いです!』だけじゃ足りない」
「そういうことだ」
所長が言いました。
「住民訴訟は感情の投書じゃない」
「はい」
私はノートの端に書きました。
――公益の訴訟ほど、事実の特定が要る。
「これ、今日の教訓候補です」
「まだ早え」
相馬先輩。
次。
選挙または当選の効力に関する訴訟。
「例えば」
私は言いました。
「市議会議員選挙でAさんが当選した」
「うん」
「でもAさん側に重大な選挙違反があった」
「うん」
「そこで、選挙や当選の効力を争う」
「誰が?」
「選挙人など、法律で認められた資格を持つ者」
ここも。
自分の私有地を取られたとか。
自分の営業許可を取り消されたとか。
そういう個人的利益ではない。
選挙が適法に行われたか。
当選の効力が正しいか。
その公的な秩序を問題にする。
「つまり民衆訴訟は」
私はまとめます。
「住民や選挙人が、行政の法適合性をチェックするために、法律が特別に認めた訴訟」
「そうだ」
「住民なら何でも、ではない」
「そこを何回でも書いとけ」
「そんなに重要?」
「試験で引っかけるならそこだ」
確かに。
民衆訴訟。
名前だけで、
「民衆なら誰でも」
と連想すると危険です。
民衆訴訟は。
民衆が自由に起こせる訴訟ではない。
法律が、
「この資格を持つ人に、この場面で認める」
と定めて初めて成立する。
「名前にだまされるな」
「お前は法律用語全部にだまされてるな」
「最近そう思います」
私は次のページを開きました。
――機関訴訟。
ここから、昨日の二つ目の箱。
市長と市議会。
「定義」
相馬先輩。
「国または公共団体の機関相互間における権限の存否、またはその行使に関する紛争についての訴訟」
「長い」
「今度は先輩が言った」
「噛み砕け」
「はい」
私は下に書きます。
――行政機関同士が、どちらに権限があるか、権限をどう使えるかで争う訴訟。
「昨日の市長と議会みたいな話」
「ああ」
「例えば市長が」
私は考えます。
「議会の議決が法令に従った手続を踏んでいないから無効だ、と争う」
「そういう類型だ」
機関訴訟。
ここで重要なのは。
私人対行政ではない。
住民対行政でもない。
行政機関対行政機関。
国や地方公共団体の中で、
誰がどこまで決められるのか。
権限の境界を争う。
「行政内部の喧嘩」
「お前、その言い方好きだな」
「分かりやすいので」
「喧嘩なら全部機関訴訟になるのか」
「なりません」
「即答できるようになったな」
「昨日痛い目を見ましたから」
行政機関同士が対立。
それだけでは足りない。
ここでも。
法律に定めがある場合だけ。
「また出た」
「客観訴訟の門番です」
法律の定め。
ここは絶対に外せません。
「でも」
私はペンを止めました。
「ちょっと不思議じゃないですか」
「何が」
「行政機関同士の紛争って、全部裁判所で解決したほうが公平そうですけど」
「そう単純じゃない」
片桐所長が言いました。
「行政内部の問題を、何でも司法に持ち込むのか」
「……あ」
「政治的調整で解決すべきものもある」
「行政内部の監督関係で処理できるものもある」
「はい」
「司法に判断させる必要があるものだけ、法律が訴訟を認める」
なるほど。
ここでも。
司法権を使う入口を、
法律が絞っている。
客観訴訟は、
「行政を監視するための便利な何でも訴訟」
ではない。
「制度的に必要とされたところだけ、裁判所が出てくる」
「そう考えろ」
「はい」
私はここで。
二つを横に並べました。
民衆訴訟。
――住民・選挙人などから行政へ。
機関訴訟。
――行政機関から行政機関へ。
「違いは分かりやすいですね」
「共通点は?」
「客観訴訟」
「それだけか」
「個人の権利利益の救済が直接の目的じゃない」
「うん」
「行政の適法性確保が目的」
「うん」
「法律に定めがある場合だけ提起できる」
「そこだ」
所長が言いました。
私は三本線を引きました。
客観訴訟の共通点。
一。
自己の権利利益救済が中心ではない。
二。
行政の適法性確保が目的。
三。
法律に定めがある場合だけ。
「三番が試験で一番怖そう」
「だろうな」
「例えば問題文で」
私は勝手に試験問題を作ります。
『甲市の住民Aは、市長の政策が違法だと考えた。Aは住民であることを理由として、常に民衆訴訟を提起できる』
「×」
相馬先輩。
「早い」
「法律の定めが必要」
「正解」
「賞品は?」
「ありません」
「帰るぞ」
「待ってください」
ここで。
私の頭の中に、
現代の行政事件訴訟法が割り込んできました。
差止訴訟。
義務付け訴訟。
仮の義務付け。
仮の差止め。
でも。
今は昭和六十三年。
「先輩」
「何だ」
「昨日の杉浦さんの件、私、最初は『差止訴訟で支出を止めれば』って考えかけたんですよ」
「差止訴訟?」
「未来の話です」
「またか」
「現代では法定されてるんです」
「今は?」
「法定されてません」
「じゃあ使えねえ」
「そうなんですよ」
本当に。
この時代の行政訴訟は、
現代より入口が少ない。
義務付け訴訟も。
差止訴訟も。
今のように法定抗告訴訟として整備されていない。
「だからこそ」
私は言いました。
「昭和の人が行政を止めたいとき、訴訟類型の選択がさらに苦しかった」
「そうだろうな」
「今なら制度上名前のついてる救済が、まだない」
「未来は便利なんだな」
「少しは」
「少しか」
「行政法なので」
「何でも行政法のせいにするな」
でも。
平成十六年の行政事件訴訟法改正で、
義務付け訴訟。
差止訴訟。
そうした救済が法定された背景には。
それまでの制度だけでは救済しきれない場面があった。
という事情がある。
この時代にいると、
改正後の制度が、
「覚える項目が増えた」
ではなく。
「入口が増えた」
ように見えます。
「現代の受験生だったころは」
私は言いました。
「差止め、義務付け、覚えるの面倒だなって思ってました」
「最低だな」
「でも今なら、増えた理由が分かる気がします」
「使える道が増えた」
「はい」
「行政に勝ちやすくなったのか」
「そこまでは単純じゃないです」
要件は厳しい。
何でも認められるわけではない。
それでも。
法定されている。
ということは大きい。
どの訴訟類型に乗せるか。
入口が見えているから。
「昭和の頃は、その入口自体がもっと少なかった」
そういうことです。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「客観訴訟も、将来もっと増えるのか」
「そこは別の話です」
「何でだ」
「客観訴訟は、自分の権利利益の救済じゃないから」
「うん」
「無制限に広げると、行政のあらゆる違法を誰でも争えることになりかねない」
「だから法定主義が強い」
「そうです」
ここ。
主観訴訟の救済拡充と、
客観訴訟の限定。
似ているようで、理由が違う。
主観訴訟。
自分の権利利益を守る。
その救済が不十分なら、
制度を拡充する理由が強い。
一方。
客観訴訟。
行政の適法性そのものを確保する。
誰にそのチェック権を与えるか。
どこまで司法に持ち込ませるか。
法律政策上の判断が強く出る。
「客観訴訟って」
私は呟きました。
「正義のための万能訴訟じゃないんですね」
「当たり前だ」
「でも名前だけ見ると、そう見えなくもない」
「お前だけだ」
私は昨日の杉浦さんの資料を開きました。
随意契約理由書。
見積書。
選定経緯。
あの人は最初、
「税金を三千八百万も使いやがって」
と怒っていました。
でも。
最後には言った。
ちゃんとした契約なら、それならそれでいい。
違法なら直せ。
違法じゃないなら説明しろ。
「所長」
「何だ」
「民衆訴訟って、行政を倒すための制度じゃないんですね」
「当然だ」
「違法な行政を正すため」
「そうだ」
「結果として行政側が正しかったと確認されることもある」
「ある」
「住民の感情が正しいかどうかを裁判するわけでもない」
「そうだ」
行政の適法性。
そこだけを見る。
だから。
杉浦さん自身が善人かどうか。
市長が嫌な人かどうか。
モニュメントが格好いいかどうか。
そんなことは本質ではない。
見るのは。
財務会計行為が法に適合しているか。
そこ。
「冷たいですね」
「法律だからな」
「でも」
「何だ」
「冷たいから、役所が嫌いな人だけの道具にならない」
所長がこちらを見ました。
「そうだ」
冷たい言葉。
適法。
違法。
権限。
財務会計行為。
住民監査請求。
民衆訴訟。
機関訴訟。
誰の味方もしない。
だから。
誰かの怒りを、
そのまま正義にしない。
逆に。
役所の肩書きだけで、
その行為を正しいことにもしない。
私は次に、
機関訴訟の箱を開けました。
市長。
市議会。
駅前再整備。
権限問題。
「これ」
私は言いました。
「住民からしたら、どっちも市役所側に見えますよね」
「まあな」
「でも内部では、権限がぶつかる」
「組織が違えばな」
「行政って一枚岩じゃないんだ」
「今さらか」
「教科書だと『行政庁』って一単語で出てくるので」
「現場は人も組織も分かれてる」
「ですよね」
市長。
議会。
教育委員会。
選挙管理委員会。
国と地方。
それぞれ権限がある。
その境界で争いが起きる。
「機関訴訟って」
私は言いました。
「行政の中の権限配分を守る訴訟なんですね」
「そういう見方でいい」
誰が決めるべきなのか。
誰が止められるのか。
誰が越権したのか。
その線引き。
「だから個人の権利救済じゃない」
「うん」
「組織としての行政が、法どおり動くため」
「そうだ」
なるほど。
民衆訴訟と機関訴訟。
見た目はかなり違います。
片方は住民。
片方は行政機関。
でも。
目的を見ると同じところへ戻る。
行政の適法性の確保。
「試験っぽく整理します」
私はページの中央に線を引きました。
左。
主観訴訟。
右。
客観訴訟。
主観訴訟。
目的。
個人の権利利益の救済。
客観訴訟。
目的。
行政の適法性の確保。
主観訴訟の典型。
取消訴訟など。
客観訴訟。
民衆訴訟。
機関訴訟。
「ここまで」
「うん」
「客観訴訟は?」
「法律に定めがある場合に限る」
「そうだ」
「民衆訴訟とは?」
「住民や選挙人などが、自分の法律上の利益とは別の資格で、行政の違法是正を求める訴訟」
「例」
「住民訴訟。選挙・当選の効力に関する訴訟」
「機関訴訟」
「国または公共団体の機関同士が、権限の有無や行使について争う訴訟」
「よし」
片桐所長が言いました。
私は少し嬉しくなりました。
「完璧?」
「まだだ」
「何がです?」
「杉浦さんの件で、お前が最初に考えたこと」
嫌な予感。
「差止訴訟」
「それは今の制度か」
「未来です」
「昭和六十三年は?」
「法定されてない」
「義務付けは?」
「それも法定されてません」
「出訴期間は?」
「突然そこ来ます?」
「取消訴訟」
危ない。
現代知識が顔を出します。
六か月。
違う。
昭和六十三年。
「三か月」
「被告は?」
現代なら公共団体。
でも昭和。
「処分をした行政庁」
「そうだ」
私は机に突っ伏しました。
「行政事件訴訟法、時代差分が多すぎます」
「未来から来るからだ」
「先輩、設定を自然に受け入れないでください」
「何の話だ」
「何でもないです」
現代。
取消訴訟の出訴期間。
処分を知った日から六か月。
被告。
原則として国または公共団体。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
法定。
昭和六十三年。
出訴期間。
三か月。
被告。
処分をした行政庁。
義務付け・差止め。
法定されていない。
こうやって並べると。
平成十六年改正の重さがよく分かります。
「現代って」
私は言いました。
「昔より行政訴訟の使い勝手を改善しようとしてるんですね」
「そうなのか」
「はい」
「期間も延びた」
「三か月から六か月」
「被告も分かりやすくなった」
「処分庁じゃなく、国や公共団体」
「訴訟類型も増えた」
「義務付け、差止め」
「じゃあ昔は相当きつかったんだな」
「きついです」
私は即答しました。
「行政に対して裁判するだけでも大変なのに」
「うん」
「入口で間違えると、実体判断まで行かない」
「うん」
「しかも今より入口が狭い」
「そういうことだ」
所長が言いました。
「だから」
「はい」
「訴える前に整理する」
何を争うのか。
誰が訴えるのか。
どんな資格で訴えるのか。
主観訴訟か。
客観訴訟か。
民衆訴訟か。
機関訴訟か。
法律に定めがあるか。
前置手続はあるか。
期間は。
被告は。
「行政書士の仕事って」
私は言いました。
「裁判しないのに、裁判の入口をすごく気にしますね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「弁護士に渡す資料がぐちゃぐちゃだったら意味ねえだろ」
「はい」
「住民が『役所がムカつく』って言ってる」
「はい」
「それを」
相馬先輩は机を指で叩きました。
「何の行為」
「うん」
「どの法律」
「うん」
「誰の資格」
「うん」
「どの訴訟類型」
「うん」
「どの期限」
「うん」
「そこまで落とす」
「それが地ならし」
「そうだ」
昨日。
杉浦さんが言っていました。
裁判の前の地ならし。
まさにそれです。
行政書士は法廷には立たない。
でも。
法廷に届く前の道が、
崖になっていないか。
穴が空いていないか。
道そのものが法律上存在するか。
そこを確認する。
私はノートの最後に、
大きく、
民衆訴訟。
機関訴訟。
と書きました。
その間に一本の線。
下に。
――どちらも客観訴訟。
「一行の覚え書き、そろそろですかね」
「長くするなよ」
「分かってます」
私は考えました。
民衆訴訟。
住民・選挙人。
自己の法律上の利益と無関係な資格。
行政の違法是正。
機関訴訟。
行政機関同士。
権限の存否・行使。
共通。
客観訴訟。
行政の適法性確保。
法律に定めがある場合だけ。
「全部入れると一行にならないですね」
「だから覚え書きなんだろ」
「じゃあ」
私は書きました。
――民衆は住民から、機関は役所同士から。どちらも“私”ではなく法を守る客観訴訟。
「法律に定めがある場合だけ、がない」
所長。
「ああ!」
「一番落とすな」
「じゃあ直します」
書き直します。
――民衆も機関も、“私”ではなく法を守る客観訴訟。ただし入口は法律が開けたときだけ。
相馬先輩が覗き込みます。
「また格好つけたな」
「でも合ってるでしょう」
「まあな」
「褒めた」
「気のせいだ」
出ました。
ノートを閉じようとしたとき。
電話が鳴りました。
相馬先輩が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所。……はい。……分かりました」
受話器を置く。
「市議会事務局」
「機関訴訟!」
「まだ言うな」
「はい」
「市長側と協議するらしい」
「裁判じゃない?」
「今のところはな」
「なんだ」
思わず口に出ました。
相馬先輩が睨みます。
「なんだって何だ」
「ちょっと期待してました」
「何を期待してんだ」
「教材的に」
「現場は教材じゃねえ」
「正論」
所長が帳簿を閉じました。
「それでいい」
「裁判にならなくて?」
「訴訟は最後の手段だ」
あ。
「制度があるからといって、使うことが目的じゃない」
「はい」
「権限争いなら、法に従って整理して、行政内部で解けるならそのほうがいい」
「住民の件も?」
「同じだ」
杉浦さんの件。
監査請求。
住民訴訟。
法律上の道はある。
でも。
市が支出前に契約手続を見直して。
違法があるなら自分で直す。
それで済むなら、
そのほうが早い。
裁判に勝つことが目的ではない。
行政を適法な状態に戻すことが目的。
「客観訴訟の目的って」
私は呟きました。
「行政を負かすことじゃないんですね」
「そうだ」
「行政を法律の位置まで戻す」
所長が頷きました。
「それでいい」
それなら。
裁判になる前に役所が直れば、
むしろ成功なのかもしれない。
住民訴訟を起こさずに済む。
機関訴訟にまで行かずに済む。
でも。
その後ろに、
必要なら裁判できる。
という制度が立っている。
だから。
行政内部の話し合いにも重さが出る。
昨日。
沢渡課長が支出手続を止めた理由。
それも。
そこに法律上の入口があると分かっているから。
私は窓の外を見ました。
市役所の建物。
その向こうに駅。
モニュメントが建つ予定の広場。
まだ何もありません。
三本の銀色の柱も。
工事用の囲いも。
ただ。
普通の駅前があるだけです。
この先。
契約に問題がなかったと分かって、
予定どおりモニュメントが建つかもしれない。
違法な点が見つかって、
契約が見直されるかもしれない。
分かりません。
でも。
杉浦さんの一言で、
少なくとも書類はもう一度開かれた。
市長と議会の争いも、
裁判になる前に、
互いの権限を法に照らして確認することになった。
客観訴訟は、
誰か一人の傷を治す制度ではありません。
だから。
物語としては、
取消処分が取り消された。
店を続けられるようになった。
そんな分かりやすい救済より、少し地味です。
でも。
行政が、
誰にも直接見えないところで間違ったまま進む。
それを止める仕組みも必要です。
自分が被害者でなくても。
住民として。
選挙人として。
あるいは、
行政機関同士で。
法律が特別に認めた場面では、
「その行政、本当に法どおりですか」
と裁判所に問える。
それが。
民衆訴訟。
機関訴訟。
客観訴訟。
冷たい言葉です。
でも。
誰も直接困っていないように見えるところで、
法律を守るための制度。
そう考えると。
少しだけ頼もしく見えます。
「こはる」
「はい」
「帰るぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「待ってください」
「何だ」
「最後に確認」
「まだやるのか」
「民衆訴訟」
「住民とか選挙人」
「機関訴訟」
「役所同士」
「共通点」
「客観訴訟」
「目的」
「行政の適法性確保」
「条件」
「法律に定めがある場合だけ」
「完璧です」
「俺がな」
「私もです!」
そこへ。
片桐所長が一言。
「こはる」
「はい」
「民衆訴訟なら、お前も所長の判断を訴えられると思ってないだろうな」
「ちょうど考えてました」
「考えるな」
「水替え当番が不当なんですよ」
「事務所内部の業務分担だ」
「機関訴訟!」
「行政機関じゃねえ」
相馬先輩が机を叩いて笑いました。
「今日だけで何回同じ間違いすんだ!」
「確認です!」
「お前の確認は訴訟コストが高すぎる!」
片桐所長が無言で窓際の花瓶を指しました。
水。
交換しろ。
という意味です。
私は立ち上がりました。
「異議があります」
「却下」
「また本人が裁く!」
「簡易迅速だ」
「それ行政不服審査法のネタでしょう!」
「今日は客観訴訟だぞ」
「じゃあ住民訴訟します!」
「何の財務会計行為だ」
「……水道代?」
「事務所のだ」
「私も使ってます!」
「法律上の入口を示せ」
「うっ」
言葉に詰まりました。
相馬先輩がにやりと笑います。
「今日の勉強が役に立ったな」
「何がです?」
「正義感だけじゃ裁判所の入口は開かねえ」
ぐう。
私は花瓶を持ち上げました。
冷たい水が、瓶の中で小さく揺れます。
民衆訴訟。
機関訴訟。
行政の適法性を守るための客観訴訟。
ただし。
法律が開けた入口から。
そこを忘れた瞬間。
どれだけ「おかしい」と叫んでも、
裁判所の扉は開かない。
昭和六十三年。
昔の行政裁判は、
現代よりさらに入口が狭い。
だからこそ。
入口を知ることそのものが、
人を救い。
行政を正す武器になる。
私は花瓶の水を替えながら、
今日の一行をもう一度頭の中で唱えました。
――民衆も機関も、“私”ではなく法を守る客観訴訟。ただし入口は、法律が開けたときだけ。
「こはる」
「はい」
「水、多い」
「細かい!」
どうやら。
客観訴訟を完璧に理解しても、
片桐行政書士事務所の花瓶行政を是正する法律上の入口だけは、
まだ見つからないようでした。
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