[客観訴訟――民衆訴訟と機関訴訟]現場編 「市民なら何でも裁判できる」の罠。自分の権利ではなく“行政のルール違反”を争う、法律が開けた二つの特別な入口
自分が損をしていなくても、「それ、おかしいでしょう」と言いたくなることがあります。
税金の使い道。
選挙のやり方。
役所同士の権限争い。
自分の家を取り上げられたわけじゃない。
営業許可を取り消されたわけでもない。
それでも。
行政が法律を破っているなら、誰かが止めなければならない。
では――。
ただの住民である私たちは、
「役所が違法だから」
という理由だけで、いつでも裁判所へ駆け込めるのでしょうか。
答えは。
思ったより、ずっと意地悪でした。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「裁判にしてやる!」
朝九時十四分。
事務所の引き戸が開いた直後、そう叫んだ男の人は、私がこの世界へ来てから見た相談者の中でも、かなり上位に入る勢いでした。
「絶対に許さん!」
「まあ、座ってください」
「座っていられるか!」
「では立ったままでも」
「こはる」
片桐所長に名前だけ呼ばれました。
「はい。すみません」
相談者は五十代くらい。
日に焼けた顔。
作業着。
脇に、折り畳まれた地方新聞を抱えています。
「俺は杉浦孝三。この市に四十八年住んでる」
「はい」
「市民税だって払ってる!」
「はい」
「なのに市は、こんなものに三千八百万も使うってんだ!」
ばさっ。
机の上に新聞が開かれました。
見出し。
――駅前再整備の象徴に「湖風の塔」。
駅前再整備事業の一環として、市が駅前広場に大型モニュメントを設置する。
高さ十一メートル。
ステンレス製。
事業費、三千八百万円。
私は写真を見ました。
細長い銀色の棒が三本、ねじれながら空へ伸びています。
「……何です、これ」
「『湖を渡る風と未来への飛躍を表現した』らしい」
相馬先輩が新聞を覗き込みました。
「未来、ずいぶん尖ってんな」
「刺さりそうですね」
「そこじゃない!」
杉浦さんが机を叩きました。
「問題は金だ!」
「ですよね」
「この前まで市は財政が厳しいって言ってたんだぞ。道路の補修は来年。公民館の雨漏りも来年。それで棒三本に三千八百万だ!」
「棒三本」
「作品に謝れ」
相馬先輩が言いました。
「先輩もさっき尖ってるって言ってたじゃないですか」
「俺は芸術批評だ」
「どこがですか」
杉浦さんは新聞とは別に、数枚のコピーを取り出しました。
「しかもな。契約がおかしい」
空気が変わりました。
片桐所長が顔を上げます。
「どうおかしい」
「制作会社だ」
「はい」
「市長の後援会の幹部がやってる会社だ」
私は相馬先輩を見る。
先輩もこちらを見る。
嫌な匂いがしてきました。
「それだけですか」
所長が聞きました。
「まだある。随意契約だ」
「競争入札じゃない?」
「市は『芸術作品だから作者を指定する必要がある』って説明してる」
「なるほど」
「だが、その会社は今まで大型モニュメントなんか作ったことがない」
「作者は?」
「東京の彫刻家らしい。その彫刻家に頼むって決めたのも、市のほうだ」
「資料あります?」
「市議会の議事録を見てきた」
どん。
また紙。
この人。
怒りの熱量に対して、資料収集がやたら堅実です。
「市議会でも揉めた。でも結局、予算は通った」
「もう支払われたんですか」
「まだ契約したばかりだ」
「工事は?」
「来月からだ」
杉浦さんは身を乗り出しました。
「先生」
片桐所長を見る。
「こんなの、市民なら裁判できるでしょう」
来た。
裁判。
私は背筋を伸ばしました。
行政事件訴訟法。
今やっているところです。
処分。
原告適格。
訴えの利益。
取消訴訟。
差止め。
義務付け――
そこまで考えて。
私は止まりました。
いや。
待て。
昭和六十三年。
差止訴訟は、まだ法定されていません。
義務付け訴訟も法定されていません。
現代なら行政事件訴訟法上の法定抗告訴訟として頭に浮かぶものが、この時代にはない。
無名抗告訴訟として理論上の議論はあっても、
「じゃあ差止訴訟で工事を――」
なんて気軽に言える世界ではありません。
危ない。
未来人、また地雷を踏みかける。
しかも。
もっと手前に問題があります。
「杉浦さん」
私は聞きました。
「このモニュメントができることで、杉浦さん個人には何か具体的な不利益がありますか」
「ある!」
「どんな?」
「腹が立つ!」
「それは具体的な不利益に入らないです」
「こはる」
「はい」
所長の声が少し冷たくなりました。
「聞き方」
「すみません」
危ない。
相談者の怒りに正論を正面衝突させるところでした。
私は言い直します。
「例えば、杉浦さんの土地が使われるとか」
「ない」
「家の前が通れなくなるとか」
「ない」
「商売に直接影響するとか」
「ない」
「モニュメントのせいで、杉浦さんだけ特別に何か負担を受けるとか」
「そんなのはない」
杉浦さんの顔が曇りました。
「でも、俺たちの税金だぞ」
「はい」
「市民全員の問題じゃないか」
「そうですね」
「だったら、なおさら裁判できるだろ」
私は答えに詰まりました。
感覚だけなら。
そう思います。
自分の権利だけが裁判になる。
というほうが、むしろ変に聞こえる。
でも。
行政事件訴訟法は、
誰でも何でも裁判所へ持ち込める仕組みにはなっていません。
「朝比奈」
相馬先輩が言いました。
「普通の取消訴訟だったら、まず何を見る」
「原告適格」
「この人は?」
杉浦さんの前で「この人」って。
でも答えます。
「自分の法律上の利益を侵害された、という形では……難しいです」
「何だそりゃ」
杉浦さんが声を上げました。
「俺は住民だぞ」
「はい」
「税金払ってるんだぞ」
「はい」
「それでも、訴える資格がないのか」
つらい質問です。
私は言葉を探しました。
片桐所長が代わりました。
「通常の行政訴訟では、そうなることがあります」
「通常の?」
「自分の権利や法律上の利益を守るための訴訟です」
「じゃあ、俺みたいに市全体の問題を争いたい奴は泣き寝入りか」
「そうは言っていません」
所長が新聞を閉じました。
「別の入口があります」
「……別の?」
所長が私を見ます。
「こはる」
「はい」
「行政事件訴訟法は、大きくどう分ける」
いきなり試験ですか。
私は頭の中で教科書の図を出しました。
「主観訴訟と、客観訴訟」
「違いは」
「主観訴訟は、個人の権利利益を救済するための訴訟」
「うん」
「客観訴訟は……」
そこで。
目の前の杉浦さんを見る。
市の税金。
自分だけが損したわけではない。
市の財務会計が適法か。
行政が法に従っているか。
「行政の適法性を確保するための訴訟」
「そうだ」
所長が言いました。
「杉浦さんの話は、そっちを検討する」
私は息を吸いました。
客観訴訟。
受験テキストでは、
民衆訴訟。
機関訴訟。
その二つを括る分類。
私は何度も見ています。
なのに。
目の前に税金三千八百万円が置かれた瞬間、
急に意味が出ました。
「民衆訴訟……」
私が呟くと、杉浦さんが眉をひそめました。
「民衆?」
「名前は大げさですけど」
「こはる」
「はい。余計でした」
片桐所長が説明します。
「国や地方公共団体の機関が、法規に適合しない行為をしている。その是正を、選挙人や住民などの資格で求める訴訟です」
「つまり、市民として訴える?」
「そうです」
「ほら!」
杉浦さんが机を叩きました。
「できるじゃないか!」
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「ここからが行政法だ」
「何だよ」
「喜ぶと次の壁が来る」
「先輩、それを行政法の性格みたいに言わないでください」
「間違ってねえだろ」
否定しにくい。
所長が続けました。
「民衆訴訟は、住民なら何でも提起できる訴訟ではありません」
「え?」
「法律に定めがある場合だけです」
杉浦さんの顔が止まりました。
私も、改めてそこを噛みしめます。
そう。
客観訴訟の大事なところ。
自分の権利利益を守る訴訟ではない。
だからこそ。
法律が特別に認めた場合にだけ、裁判所へ持ち込める。
行政の違法を見つけた。
私は市民だ。
だから民衆訴訟。
ではない。
「じゃあ結局、駄目なのか」
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「お前さんの話は、公金の支出だろ」
「ああ」
「そこには法律で用意された仕組みがある」
所長が一枚の紙を引き寄せました。
「住民監査請求」
「監査?」
「そのうえで、要件を満たせば住民訴訟」
杉浦さんは数秒、黙っていました。
「……いきなり裁判じゃない?」
「原則として、先に監査請求を検討します」
「市を訴える前に、市の監査委員へ言うのか」
「そういうことです」
「面倒だな」
「面倒なんです」
思わず私が答える。
相馬先輩がこちらを見ました。
「でも」
私は続けました。
「意味はあります」
「何がだ」
「誰でも『税金の使い方が気に入らない』だけで訴訟できたら、市の事業が全部裁判になります」
杉浦さんが黙る。
「だから入口がある」
「監査請求」
「はい。そこで、本当に違法な財務会計上の行為なのか、まず整理する」
「それでも駄目なら?」
「要件を満たせば、住民訴訟につなげる」
杉浦さんは腕を組みました。
「じゃあ、やる」
早い。
「まず資料を確認します」
所長が止めました。
「随意契約だから違法、ではありません」
「何だと」
「随意契約が許される場合はある」
「市長の後援会幹部だぞ」
「それだけでも決まりません」
「じゃあ何なら決まるんだ」
「事実です」
所長の声は静かでした。
「なぜ競争入札をしなかったのか」
「……」
「随意契約を選んだ法的根拠は何か」
「……」
「その会社でなければならない理由は何か」
「……」
「契約金額はどう決めたのか」
「……」
「市長や担当者と契約相手との関係が、手続や価格決定に影響しているのか」
「……」
「そこを集めます」
杉浦さんの怒りが、少しだけ形を変えました。
火だったものが、
輪郭のあるものになる。
「先生」
「はい」
「やってくれるか」
片桐所長は首を横に振りました。
「訴訟代理はできません」
「あ」
「うちは行政書士事務所です」
そこは大事です。
私たちは裁判所で杉浦さんの代理人にはなれない。
法廷で戦うのは弁護士。
でも。
「資料整理はします」
所長が続けました。
「契約関係の公開資料。議会資料。処分ではなく財務会計行為のどこが問題なのか。住民監査請求の対象になるか。そこまで整理して、必要なら弁護士につなぎます」
「裁判の前の地ならしってことか」
「そうです」
相馬先輩が口を挟みます。
「怒鳴り込むより効くぞ」
「俺は怒鳴ってない」
全員黙りました。
「……少し声が大きかっただけだ」
「かなりです」
「こはる」
「はい」
二日後。
私たちは市役所にいました。
目的地は総務課。
そして。
案の定。
いました。
「またですか」
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も人間の感情を役所の規程集に挟んで保管しているような顔です。
「最近よく会いますね」
私が言うと、
「朝比奈さんがよく来るのです」
「こちら側のせいでしたか」
「ええ」
相馬先輩が資料を机に置きます。
「駅前モニュメント」
「ああ」
沢渡課長の目が少し細くなりました。
「杉浦孝三さんですね」
「知ってるのか」
「昨日、企画課へ抗議に来られました」
「行ったんだ……」
行動が速い。
「裁判にするとおっしゃっていました」
「言ってました」
「どうぞご自由に」
出た。
沢渡課長の必殺技。
どうぞご自由に。
法的な入口を知っている側が言うと、ものすごく感じが悪い言葉です。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「何を、どの資格で争うのかは整理されたほうがよろしいかと」
さらに刺してきた。
「市民だから取消訴訟、では原告適格の問題があります」
分かって言ってる。
絶対分かって言ってる。
「取消訴訟で来たら門前払いだぞ、ってことですか」
私が言うと、
「私は一般論を申し上げただけです」
「便利ですね、一般論」
「法律ですから」
う。
正しい。
腹立つ。
相馬先輩が椅子に座りました。
「取消訴訟の話じゃねえ」
「では?」
「住民監査請求を検討してる」
沢渡課長の表情が。
ほんの少しだけ変わりました。
本当に少し。
でも、私は見逃しませんでした。
「……なるほど」
「民衆訴訟の入口は、ちゃんと法律にある」
「ありますね」
「ただし何でも住民訴訟にできるわけじゃねえ」
「そのとおりです」
「だから確認に来た」
相馬先輩が資料を指で叩きました。
「随意契約の理由」
「情報公開の手続による資料請求で確認してください」
「もちろんする。今日は事実関係だけだ」
片桐所長が口を開きます。
「契約は締結済みか」
「はい」
「支払いは」
「着手金の支出手続中です」
「工事開始は」
「十一月初旬を予定しています」
「契約相手の選定は企画課か」
「最終決裁は市長です」
「随意契約理由書はあるな」
「当然です」
「作者指定の経緯を記した文書は」
一拍。
「あるはずです」
「『あるはず』?」
相馬先輩が眉を上げます。
「私は担当課ではありません」
沢渡課長は崩れません。
「ただし、決裁文書一式には含まれていると思います」
「契約金額三千八百万の積算根拠」
「それも資料があります」
「相見積もりは」
間。
「……確認が必要です」
相馬先輩と私の目が一瞬合いました。
そこ。
「課長」
私は言いました。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「住民が『税金の使い方がおかしい』って怒っても、それだけじゃ裁判にはならない」
「はい」
「でも、法律が特別に入口を作っているところなら、住民自身の個人的な損害がなくても争える」
「はい」
「それが民衆訴訟」
「大まかには」
「じゃあ市にとって怖いのは」
沢渡課長が私を見る。
「住民が怒っていることじゃなくて」
「……」
「法律上の入口を正確に選ばれることですね」
しばらく。
沢渡課長は何も言いませんでした。
それから、
「朝比奈さん」
「はい」
「少しは行政事件訴訟法が分かってきましたね」
「少しは余計です」
「以前よりは」
「もっと余計です」
相馬先輩が笑いを噛み殺しています。
沢渡課長は資料を閉じました。
「おっしゃるとおりです」
そして、いつもの冷たい声で続けました。
「『裁判にしてやる』という言葉だけなら、行政は怖くありません」
ぞくり。
「訴訟要件を満たさない訴えは、実体判断まで行かないことがある」
門前払い。
行政事件訴訟法の怖さです。
違法かどうかを判断してもらう前に、
あなたはこの裁判をする資格がありますか。
この種類の訴訟は法律上認められていますか。
期間は守っていますか。
前置手続は済んでいますか。
そういう入口で落とされる。
「しかし」
沢渡課長が言いました。
「地方自治法上の手続を踏んで、財務会計行為を具体的に特定し、違法事由まで整理されれば」
「無視はできない」
片桐所長が言いました。
「そういうことです」
役所の空気が変わった。
怒鳴り声では変わらなかった空気が。
法律の名前を正しく出しただけで、
一段、重くなる。
制度って。
こういうところが怖い。
そして、頼もしい。
その帰り。
市役所の階段を降りていたときです。
一階の廊下が妙に騒がしいことに気づきました。
職員が何人か、小声で話しています。
「何だ?」
相馬先輩が立ち止まります。
そこへ後ろから沢渡課長が来ました。
「どうかしました?」
私が聞くと、
「別件です」
「別件?」
「市議会との関係で少々」
少々。
役所の「少々」は信用してはいけません。
「何があったんです」
「朝比奈さんには関係ありません」
「その言い方、気になるんですよ」
沢渡課長はため息をつきました。
「駅前再整備に関連して、市議会が一部事業の執行停止を求める付帯決議をしたのです」
「へえ」
「市長側は、その決議が執行権に踏み込み過ぎていると見ています」
私は階段の途中で止まりました。
「市長と議会が揉めてる?」
「平たく言えば」
その瞬間。
頭の中で別の用語が光りました。
行政機関同士。
権限の存否。
権限の行使。
「……機関訴訟?」
私が呟くと、沢渡課長がこちらを見ました。
「すぐ裁判へ結びつけないでください」
「でも、市長と議会の権限争いですよね」
「政治的な調整で解決することもあります」
「あ」
「それに」
沢渡課長が続けます。
「機関同士が争えば、何でも機関訴訟になるわけではありません」
嫌な予感。
また壁ですか。
「これも法律に定めがある場合だけ……」
「ええ」
私は額を押さえました。
「客観訴訟、入口狭すぎません?」
「自分の権利利益と無関係な問題まで裁判所へ持ち込む制度ですから」
沢渡課長は淡々と言いました。
「法律上、特別に認められた場合に限るのは当然でしょう」
「理屈は分かりますけど」
「なら結構です」
「気持ちが追いついてないんです」
相馬先輩が私の肩を叩きました。
「今日のお前、壁にぶつかってばっかりだな」
「行政事件訴訟法が壁を建てすぎなんですよ」
「法律に文句言うな」
「言いたくもなります」
そこで片桐所長が止まりました。
「こはる」
「はい」
「今の二つ、違いを言ってみろ」
「今ここで?」
「忘れないうちに」
私は指を一本立てました。
「杉浦さんみたいに、住民や選挙人などが、自分自身の法律上の利益とは別の資格で行政の違法を是正しようとするのが民衆訴訟」
「うん」
二本目。
「行政機関同士が、権限の有無や、その権限をどう行使するかで争うのが機関訴訟」
「共通点は」
「どっちも客観訴訟」
「なぜ」
「自分個人の権利利益を救うことが目的じゃなくて、行政の適法性を確保するためだから」
所長が頷きました。
「もう一つ」
来ると思いました。
「法律に定めがある場合に限って提起できる」
「そうだ」
私はため息をつきました。
「そこが一番大事ですね」
「そういうことだ」
なるほど。
民衆訴訟。
機関訴訟。
名前だけ見ると。
民衆が立ち上がる!
行政機関が法廷で激突!
みたいで、派手です。
でも実際は、
まず法律が、
その裁判をしていいですよ。
と入口を開けてくれなければ、始まらない。
行政事件訴訟法。
相変わらず、入口の警備が厳しすぎます。
一週間後。
杉浦さんは、また事務所に来ました。
今度は叫びませんでした。
代わりに、
「持ってきた」
と言って、分厚い封筒を机に置きました。
「何です?」
「市から出た資料」
情報公開で入手した契約関係文書。
随意契約理由書。
起案書。
見積書。
決裁文書。
作家選定の経緯。
私は一枚ずつ並べました。
「うわ……」
「何だ」
「多い」
「裁判してやるって言ってた奴が紙の多さで怯むな」
相馬先輩が言います。
「私は言ってません」
「似たようなもんだ」
片桐所長は黙って書類を読み進めます。
やがて。
一枚の見積書で指が止まりました。
「相馬」
「はい」
「これ」
相馬先輩が覗き込みます。
「……一社だけ?」
「そうだ」
見積書は一通。
契約額。
三千八百万円。
その根拠として、
作品制作費。
設計費。
輸送費。
設置費。
監修費。
ずらり。
しかし。
「比較した資料がないですね」
私が言いました。
「随意契約だから必ず複数見積もりが要る、とは単純に言えねえ」
相馬先輩が言います。
「でも価格の妥当性はどう確認したんだ」
「ここです」
私は別の文書を見つけました。
――芸術的価値を金銭的に比較することは困難であり、作家側提示額を参考として契約額を決定した。
「これだけ?」
「らしいな」
さらに。
作家選定経緯。
市の観光振興懇談会で推薦された。
推薦委員。
五名。
その一人に、
契約会社代表者の名前。
私は黙りました。
「これ」
杉浦さんが身を乗り出します。
「おかしいだろ」
「おかしいと断定するのはまだ早いです」
私は言いました。
自分でも驚くくらい、冷静な声でした。
一週間前の私なら、
「怪しい!」
と一緒に騒いでいたかもしれない。
でも今は違う。
怪しい。
と、
違法。
は別。
「推薦に関わった人と、契約相手の関係」
私はメモします。
「随意契約を選んだ理由」
「うん」
「価格の決定過程」
「うん」
「市に損害が生じる可能性」
「そこだ」
所長が言いました。
「住民監査請求で何を問題にするのか、そこまで絞れ」
「はい」
杉浦さんが私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「前より慎重になったな」
「最近、行政法に殴られ続けてるので」
「何だそりゃ」
「こっちの話です」
所長は資料を閉じました。
「弁護士に相談する」
「裁判か?」
「まだです」
「まだ?」
「監査請求の組み立てを確認する」
杉浦さんは少し不満そうでした。
「俺は早く止めたいんだ」
「だから急ぐ」
「じゃあ今すぐ訴えれば」
「杉浦さん」
所長の声が低くなりました。
「裁判所は、怒りの大きさで入口を開けません」
部屋が静まりました。
「正しい手続を踏む」
「……」
「対象を間違えない」
「……」
「法律が認めた資格で入る」
「……」
「それができなければ」
所長は杉浦さんをまっすぐ見ました。
「どれだけ役所が間違っていても、その間違いを裁判所に判断してもらう前に終わることがあります」
厳しい。
本当に厳しい。
でも。
これが行政訴訟の現実です。
制度の冷たさは、
行政だけに向いているわけじゃない。
争う住民にも同じように向いている。
だから。
その冷たい入口を、
一つずつ確認する。
私たち行政書士が法廷には立てなくても。
そこまでなら。
できることがある。
杉浦さんは長く息を吐きました。
「……分かった」
「はい」
「怒鳴るだけじゃ駄目ってことだな」
「かなり前からそう言ってます」
「お前、結構言うな」
「すみません」
杉浦さんが笑いました。
初めてでした。
三日後。
片桐事務所から、提携先の弁護士へ資料一式を送りました。
住民監査請求の対象となり得る財務会計行為。
契約締結。
支出命令。
随意契約の根拠。
契約価格決定過程。
関係者の利害関係。
時系列。
証拠資料。
杉浦さんの主張。
そして。
単なる、
「税金の無駄遣いだ」
ではなく。
どの行為の、
どの部分について、
何が違法なのか。
そこまで整理しました。
その日の夕方。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「また課長」
『その言い方は何ですか』
「最近よく電話しますね」
『朝比奈さんがよく問題を持ち込むからです』
「私は運んでるだけです」
『十分です』
「で、何でしょう」
少し間がありました。
『駅前モニュメント契約について、支出手続を一時保留することになりました』
「……え?」
私は立ち上がりました。
相馬先輩がこちらを見る。
「どうした」
私は手で待ってくださいと合図しました。
「保留って」
『契約手続と価格決定過程を内部で再確認します』
「監査請求、まだ出してませんよ」
『知っています』
「じゃあ、なぜ」
『出されてから確認しても遅くはありませんが』
沢渡課長の声はいつも通り。
冷たい。
でも。
『争点が具体的に整理されている以上、先に確認するほうが合理的です』
出た。
沢渡課長の合理主義。
「負けるかもしれないから?」
『私はそのような表現はしていません』
「でも計算しましたよね」
『行政は常にリスクを検討します』
「つまり」
『朝比奈さん』
「はい」
『勝ち誇るのは早いですよ』
「まだ何も言ってません」
『声がそうでした』
「声で分かるんですか」
『よく来るので』
やっぱり覚えられてる。
「それと」
沢渡課長が続けました。
『杉浦さんには、まだ結果を約束しないでください』
「もちろんです」
『随意契約自体が直ちに違法というわけではない』
「分かってます」
『市に裁量がないわけでもない』
「はい」
『手続に問題がなければ、そのまま進む可能性もあります』
「はい」
『ただ』
一拍。
『確認すべき点はある』
私は少し笑いました。
「それで十分です」
電話を切りました。
「何だって?」
相馬先輩が聞きます。
「支出を一時保留」
「ほう」
「契約手続を再確認するそうです」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「監査請求前に?」
「はい」
「沢渡らしい」
「やっぱり負け筋を計算したんですかね」
「勝ち負けだけじゃない」
所長が言いました。
「違法の疑いがあるなら、支払う前に直すほうが安い」
なるほど。
ものすごく沢渡課長っぽい。
正義感ではなく。
合理性。
でも。
動機が何であれ。
三千八百万円の支出は、
一度止まった。
その翌日。
杉浦さんに伝えると、
しばらく黙っていました。
「止まった?」
「一時的です」
「中止じゃない?」
「違います」
「契約が無効になったわけでも?」
「ありません」
「じゃあまだ勝ってないな」
「はい」
以前なら。
ここで怒ると思いました。
でも杉浦さんは、
「そうか」
とだけ言いました。
「じゃあ調べてもらえばいい」
「はい」
「ちゃんとした契約なら、それならそれで」
私は少し驚きました。
「いいんですか?」
「俺だって、芸術が嫌いなわけじゃない」
「棒三本って言ってましたけど」
「それは言い過ぎた」
「覚えてたんですね」
「三千八百万使うなら、三千八百万使うだけの筋を通せって話だ」
杉浦さんは新聞を折り直しました。
「違法なら直せ」
「はい」
「違法じゃないなら、ちゃんと説明しろ」
「はい」
「市民って、そういうことだろ」
私は。
そこでやっと、
民衆訴訟という名前が少し好きになりました。
自分が得をしたいわけじゃない。
賠償金が欲しいわけでもない。
自分の営業許可を戻してほしいわけでもない。
ただ。
公の仕組みが、
法律どおり動いているか。
そこを住民という立場から問う。
自分のためではない裁判。
だから客観訴訟。
そして。
自分のためではないからこそ、
誰でも好き勝手に裁判できるわけではない。
法律が特別に入口を作ったところだけ。
その厳しさにも、理由がある。
「朝比奈さん」
「はい」
「最初に俺が『裁判にしてやる』って言ったとき」
「はい」
「内心、面倒くさい奴だと思っただろ」
「……」
「黙るなよ」
「守秘義務って、内心にも適用されますかね」
「思ったんだな!」
相馬先輩が吹き出しました。
「正直だな、お前」
「私は何も言ってません!」
杉浦さんも笑いました。
その笑い声の向こう。
窓から市役所の方向が少し見えます。
あの建物の中では今、
三千八百万円の契約書が、
もう一度机の上に広げられている。
それだけ。
まだ取消しでもない。
返金でもない。
裁判ですらない。
けれど。
住民一人が、
「おかしい」
と言った。
その言葉を、
法律の入口まで連れていった。
すると行政は、
「ただの苦情」
として捨てられなくなった。
たぶん。
制度というのは、
そういうためにある。
声の大きい人を勝たせるためではない。
権力の強い人を黙らせるためでもない。
誰が言ったかではなく。
どの制度を使い。
どの要件を満たし。
どの事実を示したか。
そこへ話を戻すためにある。
「所長」
私は言いました。
「今日の教訓、分かりました」
「聞いてない」
「言わせてください」
「勝手にしろ」
私はノートの端に書きました。
――自分が損していなくても争える裁判はある。でも、“正義感”だけでは裁判所の入口は開かない。
「長えな」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ短くします」
書き直す。
――客観訴訟は、私のためではなく、法のために争う。
相馬先輩が覗き込みました。
「ちょっと格好つけたな」
「いいじゃないですか」
「肝心な条件が抜けてる」
「条件?」
片桐所長が言いました。
「法律に定めがある場合だけだ」
「あ」
忘れてた。
私は慌てて追記しました。
――ただし、法律が開けた入口から。
「台無しですね」
「正確になった」
「法律って、格好いい一言をすぐ長くしますよね」
「それが仕事だ」
所長が言いました。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
相馬先輩が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所。……はい。……市議会事務局?」
私は顔を上げました。
相馬先輩も眉をひそめます。
「……市長と議会の権限の件?」
え。
「相談したい?」
ええ?
相馬先輩が受話器を押さえました。
「所長」
「何だ」
「市議会からだ」
「用件は」
「市長側と揉めてる件で、手続を確認したいと」
私は椅子から半分立ち上がりました。
「機関訴訟!」
「座れ」
「はい」
所長の一言で着席。
杉浦さんが私を見る。
「今度は何だ」
「役所同士の喧嘩です」
「こはる」
「はい。言い方」
でも。
頭の中では、
さっきまで眠かった二つの言葉が、もう完全に起きていました。
民衆訴訟。
住民や選挙人などが、
自分の法律上の利益とは別の資格で、
行政の違法を是正するために争う。
機関訴訟。
国や公共団体の機関同士が、
権限の有無や行使をめぐって争う。
どちらも。
誰か一人の権利を救うためではない。
行政そのものを、
法律どおりに動かすための裁判。
客観訴訟。
そしてどちらも、
法律が特別に認めたときだけ使える。
派手な名前のわりに、
入口は狭い。
でも。
狭い入口があるということ自体が、
たぶん大事なのです。
市民全員の問題だから、
誰の問題でもない。
行政機関同士の問題だから、
裁判所は知らない。
そんなふうに放り出さないために。
法律は。
ほんの一部だけ。
扉を作っている。
「朝比奈」
相馬先輩が電話を切りました。
「はい」
「ぼーっとすんな。市議会の資料箱、作れ」
「はい!」
「ラベルは?」
私は少し考えて。
油性ペンで書きました。
――市長・市議会 権限問題。
その横に小さく、
――機関訴訟?
と書く。
相馬先輩がすぐ消しました。
「何するんですか!」
「疑問符付きの法律用語を事件箱に書くな」
「分かりやすいでしょう!」
「まだ訴訟になるって決まってねえ」
「厳密!」
「今日習ったばっかりだろ」
私は口を尖らせながら書き直しました。
――市長・市議会 権限問題。
今度は所長が見て、
「それでいい」
と言いました。
法律は、
何でもすぐ裁判にするための道具ではありません。
むしろ逆です。
その争いを、
本当に裁判所へ持っていってよいのか。
誰が。
どんな資格で。
何を求めて。
法律がその入口を開けているのか。
一つずつ確かめる。
その面倒くささが。
ときどき。
行政を正しく動かす最後の歯止めになる。
私は新しい事件箱を棚へ差し込みました。
その隣には、
杉浦さんの資料箱。
背表紙には、
――駅前モニュメント契約。
二つの箱。
一方は住民から行政へ。
もう一方は行政機関から行政機関へ。
向きは違う。
でも。
どちらも見ている先は同じです。
行政は、
法律どおり動いているか。
どうやら客観訴訟というのは。
誰かの「私」を守る裁判ではなく、
みんなの「ルール」を守るための裁判らしい。
そしてそのルールは。
裁判を始める前から、
容赦なくこちらにも向いてくるのでした。
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