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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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287/685

[義務付け訴訟]現場編 「裁判所に命じてもらえば許可は出ます」の罠。昭和六十三年にはなかった“義務付け”と、閉ざされた店を開けるための遠回り

挿絵(By みてみん)

 役所に「駄目です」と言われたとき、


 その「駄目」を消すだけでは、欲しいものが手に入らないことがあります。


 欲しいのは、


 拒否を消すことではない。


 許可そのもの。


 ――だったら裁判所に、


「役所に許可を出せと命じてください」


 と言えばいい。


 現代なら。


 少なくとも、そういう訴訟はあります。


 でも。


 昭和六十三年の裁判所は、そんなに親切ではありません。


「裁判にしてやる!」


 片桐行政書士事務所の引き戸が開いた瞬間。


 その日の相談内容は、だいたい分かりました。


 分かったのは内容の方向だけですが。


「役所なんか訴えてやる!」


 もう一回言いました。


 入ってきた男性は五十代半ば。


 日に焼けた顔。


 作業着。


 片手には茶封筒。


 もう片方の手には、なぜか金属製の弁当箱。


「とりあえず座ってください」


 私は椅子を引きました。


「座ってられるか!」


「では立ったままでも」


「こはる」


 相馬先輩が低い声で言います。


「煽るな」


「煽ってません」


「顔が楽しそうだ」


 失礼な。


 行政法案件が来るとちょっとだけ血圧が上がるだけです。


「お名前を」


 片桐所長が言いました。


 男性はようやく椅子へ腰を下ろしました。


「宮下辰雄」


「ご用件は」


「これだ!」


 茶封筒から一枚の紙が出てきました。


 私は受け取ります。


 市長名。


 営業許可申請に対する不許可通知。


 宮下さんは、駅の東側にある古い市場で総菜店を始める予定だったそうです。


 もともとは魚屋。


 父親の代から市場で干物や鮮魚を扱っていた。


 けれど駅前再整備の影響で客足が落ち、


 今度は店の一角を改装して、


 魚の煮付け。


 揚げ物。


 弁当。


 そういう持ち帰り総菜を売る計画を立てた。


 改装費。


 冷蔵設備。


 調理台。


 換気設備。


 全部そろえた。


 保健関係の確認も受けた。


 そして営業に必要な市の許可を申請した。


 ところが。


「不許可」


 宮下さんが吐き捨てるように言いました。


「理由は?」


 私は通知を見る。


 ――周辺環境及び市場再整備計画との調整上、適当でないため。


「……広い」


「だろ!」


「はい。かなり広いです」


「何が適当じゃねえんだ!」


「市役所では説明を?」


「したさ。何度も行った!」


「何て?」


「今、新しい店を増やすと再整備の妨げになるってよ!」


 相馬先輩が通知を取ります。


「市場そのものを潰す計画か?」


「まだ決まっちゃいねえ!」


「立退き時期は」


「決まってねえ!」


「工事は」


「来年になるか再来年になるかも分からねえ!」


 うーん。


 役所あるあるの香りがします。


 計画はある。


 でも時期は固まっていない。


 なのに計画を理由に現在の営業を止める。


「で」


 相馬先輩が言いました。


「裁判で何をしたい」


「決まってる!」


 宮下さんは机を叩きました。


「許可を出させるんだ!」


 私は反射的に思いました。


 ――申請型義務付け訴訟。


 法令に基づく申請をした。


 拒否処分が出た。


 その拒否処分の取消訴訟と併合して、


 行政庁に許可処分をするよう求める。


 これ。


 めちゃくちゃ教材どおりです。


「それなら――」


 言いかけました。


 相馬先輩が私を見る。


「何だ」


「……いえ」


 待て。


 朝比奈こはる。


 ここはいつだ。


 昭和六十三年。


 一九八八年。


 平成十六年の行政事件訴訟法改正より、


 ずっと前。


 つまり。


 義務付け訴訟。


 ――法定されてない。


「…………」


「どうした」


 相馬先輩が言います。


「また顔色悪いぞ」


「未来が遠いなと思って」


「意味分からん」


 いや。


 本当に遠い。


 現代の行政事件訴訟法なら。


 取消訴訟だけでは足りない場面に、


 義務付け訴訟という武器があります。


 拒否処分を消すだけではなく。


 場合によっては、


 行政庁に、


 処分をせよ。


 と裁判所から命じてもらう。


 でも。


 昭和六十三年。


 そんな便利な抗告訴訟は、法律に並んでいません。


 今の感覚で、


「申請型義務付けでいきましょう」


 なんて言ったら。


 私は行政法のタイムトラベル事故第一号になります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何を考えた」


「裁判所に、市へ許可を出すよう命じてもらえないかと」


 宮下さんが身を乗り出しました。


「それだ!」


「ただし」


 私は言葉を止めます。


「簡単ではありません」


「なんでだよ。許可しない役所がおかしいなら、裁判所が許可しろって言えばいいだろ」


 気持ちは分かります。


 理屈としても分かりやすい。


 でも制度は、


 人間が思いつく一番分かりやすい救済方法を、


 必ずしも用意してくれているとは限りません。


「今の法律だと……」


「今?」


「いえ。何でもありません」


 危ない。


 昭和で現代法講義を始めるところでした。


 片桐所長が静かに言います。


「宮下さん」


「はい」


「裁判所は、市役所の上司ではありません」


「……は?」


「役所の判断が違法なら、それを取り消すことはできる」


「だったら――」


「だが、行政庁に特定の処分をしろと命じるとなると、話は別です」


 宮下さんの眉が寄りました。


「意味が分からん」


「私も最初は分かりませんでした」


「お前が言うな」


 相馬先輩に叩かれました。


「痛い」


「裁判所には裁判所の仕事がある」


 片桐所長は続けました。


「行政には行政の仕事がある。特に、許可を出すかどうかについて行政に判断の余地がある場合、裁判所が代わりに『許可を出せ』と命じるのは簡単ではない」


「じゃあ何だ」


 宮下さんの声が低くなります。


「裁判して勝っても、店は開けねえのか」


 その一言。


 私は黙りました。


 そう。


 そこなんです。


 取消訴訟で拒否処分を取り消してもらう。


 それで終わり。


 ――ではない。


 宮下さんが欲しいのは、


 不許可処分の紙を消すことではありません。


 店を開けること。


 営業すること。


 弁当を売ること。


 許可です。


 拒否処分が取り消されても、


 役所があらためて申請を審査する。


 その結果。


 また別の理由で拒否する可能性だってある。


 俗にいう、


 キャッチボール。


 役所が投げる。


 裁判所が返す。


 また役所が投げる。


 その間。


 宮下さんの店は開かない。


「……それじゃ裁判なんて役に立たんじゃないか」


 宮下さんが言いました。


 怒鳴り声ではありませんでした。


 さっきより小さい。


 そっちのほうが重い。


「改装に八百万かかった」


 八百万。


 私は通知から顔を上げます。


「借入れですか」


「ああ」


「返済は」


「もう始まってる」


「営業できなくても?」


「銀行は待ってくれん」


「食材は?」


「仕入先とも話をつけてる」


「従業員は」


「女房と、妹。それから近所の奥さん一人雇う予定だった」


 宮下さんは弁当箱を机に置きました。


「今日も作ってきたんだ」


「え?」


「試作だよ」


 蓋を開ける。


 鯖の味噌煮。


 卵焼き。


 煮物。


 ご飯。


 地味。


 でも。


 猛烈にうまそう。


「これを?」


「駅前で売るつもりだった」


 宮下さんは蓋を閉じました。


「親父が魚屋始めて四十年だ。俺は魚だけじゃ食えねえから、形を変えて残そうとした。それが」


 不許可。


 一枚の紙。


 たった四文字で。


 八百万円の設備も。


 雇う予定だった人も。


 四十年続いた店も。


 全部止まる。


 行政事件訴訟法の教科書には、


 営業許可申請。


 拒否処分。


 取消訴訟。


 としか書いていません。


 でも現場では。


 拒否処分の後ろに冷蔵庫がある。


 借金がある。


 家族がいる。


 魚の味噌煮まである。


 眠い言葉に血が通う瞬間は、


 だいたい胃にも来ます。


「食べるなよ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ何も言ってません」


「顔に書いてある」


 そこから片桐所長の質問が始まりました。


「申請日は」


「五月十二日」


「不許可処分の日」


「六月三日」


「通知を受け取った日」


「六月四日」


「今日は」


「八月二十六日」


 私はカレンダーを見ました。


 危ない。


 昭和六十三年の取消訴訟。


 出訴期間。


 処分を知った日から三か月。


 現代なら六か月。


 未来人の感覚なら、


 まだ余裕。


 でも。


 昭和なら。


「あと……」


 私は指で数えます。


「九日?」


「そうだ」


 相馬先輩。


 声が急に仕事モードになりました。


「九日しかねえ」


「三か月だから……」


「何だ」


「何でもありません」


 危なかった。


 危なすぎる。


 六か月あるつもりでのんびりしていたら、


 出訴期間が吹き飛んでいました。


 義務付けがない。


 しかも取消訴訟の入口まで閉まりかけている。


 昭和の行政訴訟、


 殺意が高い。


「裁判はできますか」


 宮下さんが聞きました。


 片桐所長は即答しません。


「それを今から確認します」


「勝てるかどうかじゃないのか」


「その前です」


「前?」


「裁判所に中身を見てもらえるかどうか」


 所長は机の上へ一枚の白紙を置きました。


 中央に一本線。


 左に、


 入口。


 右に、


 本案。


 と書きます。


「裁判は、役所が悪いかどうかをいきなり見てくれるわけではありません」


「どういうことだ」


「先に入口を見る」


 相馬先輩が横から言いました。


「期限内か。訴える資格があるか。対象になる処分か。訴える意味がまだあるか。被告は誰か。裁判所はどこか」


「そんなことより、中身だろ」


「裁判所にはそんなことが中身より先なんだよ」


 相馬先輩は煙草を灰皿へ押しつけました。


「入口で落ちたら、役所の処分が正しかったかどうかなんざ一文字も判断されねえ」


「……」


「却下だ」


 宮下さんが黙りました。


 裁判に勝つ。


 そんな言葉はよく聞きます。


 でも行政訴訟では、


 勝つ前に。


 そもそも土俵へ上がれるか。


 そこが怖い。


「こはる」


「はい」


「整理しろ」


 片桐所長に言われ、


 私はノートを開きました。


 処分性。


 ある。


 営業許可申請に対する正式な不許可処分。


 原告適格。


 申請者本人。


 宮下辰雄。


 訴えの利益。


 営業許可を得て営業したい利益が現に残っている。


 出訴期間。


 残り九日。


 被告。


「……市」


 言いかけて、


 口を押さえました。


 相馬先輩がにやりとします。


「何だ」


「罠が多すぎません?」


「何の話だ」


「いえ」


 昭和六十三年。


 当時の取消訴訟の被告。


 現代のように、


 湖西市。


 ではない。


 処分をした行政庁。


「市長」


「そうだ」


 また現代知識で死にかけた。


 未来人、


 本日二回目の墜落未遂。


「期間、当事者、処分」


 片桐所長が言います。


「そこを全部固める」


「はい」


「それから、この不許可の根拠と判断過程」


 私は不許可通知を見る。


 ――周辺環境及び市場再整備計画との調整上、適当でないため。


「理由が抽象的ですね」


「担当課へ行くぞ」


 相馬先輩が立ちました。


「今からですか」


「九日しかねえんだぞ」


「そうでした」


 昭和の三か月。


 容赦がありません。


 市役所二階。


 総務課。


 またこの場所です。


「片桐先生」


 沢渡課長が眼鏡の奥からこちらを見ました。


「今日は何でしょう」


「市場の宮下さん」


 相馬先輩が通知書を置きます。


「ああ」


 沢渡課長は知っていました。


「総菜販売の許可申請ですね」


「不許可理由を確認したい」


「通知に記載されています」


「抽象的すぎる」


「市場再整備との調整です」


「いつ工事する」


「現時点では未定です」


 出ました。


 未定。


 便利な二文字。


「じゃあ」


 私は聞きました。


「何が営業許可の障害なんですか」


「朝比奈さん」


「はい」


「再整備事業は、工事当日だけ始まるものではありません」


「それは分かります」


「テナント配置、衛生設備、避難経路、動線、将来の施設計画。総合的に判断しています」


 沢渡課長は資料を閉じました。


「許可しないことにも合理性はあります」


「でも、宮下さんは設備を整える前に担当課へ相談してますよね」


「事前相談と許可は別です」


「そのとき止めなかった」


「許可を保証した事実はありません」


 強い。


 さすが沢渡課長。


 感情論で殴れる隙がない。


「宮下さんは裁判も考えています」


 相馬先輩が言いました。


「どうぞご自由に」


 来た。


 冷たい。


 氷点下。


「ただし」


 沢渡課長は淡々と続けます。


「訴訟要件は満たしていますか?」


 ぞくっとしました。


 これです。


 役所の処分がひどい。


 生活が困る。


 許可してほしい。


 そんな話を全部したところで。


 裁判所の入口に立てなければ、


 何も始まらない。


「期間はまだ切れていません」


 私は言いました。


「残り九日ですね」


 沢渡課長。


 知ってる。


「原告は申請者本人」


「ええ」


「対象は不許可処分」


「ええ」


「処分庁は市長」


「そのとおり」


 私は一つずつ置いていきます。


 未来知識の地雷を踏まないように。


 ゆっくり。


「取消訴訟は検討できます」


「でしょうね」


「ただ」


 私は言いました。


「取消しだけでは宮下さんは営業できません」


 沢渡課長が私を見ました。


「そうでしょうね」


「不許可が取り消されても、再審査ですよね」


「当然です」


「再審査で、また別の理由を出すこともあり得る」


「適法な理由があれば」


 悔しい。


 理屈はそうです。


「だったら」


 私は思わず言いました。


「許可を出せって裁判所から――」


「こはる」


 片桐所長の声。


 止まりました。


 沢渡課長が眉を上げます。


「行政庁に一定の処分をせよ、と命じる訴訟ですか」


「……はい」


「面白い発想ですね」


 まずい。


 その言い方。


 昭和の人が未来人を見る目だ。


「ただ」


 沢渡課長は机に指を置きました。


「現行法上、そのような訴訟類型が用意されているとは承知していませんが」


「…………ですよね」


「何です、その反応」


「何でもありません」


 私の中で、


 申請型義務付け訴訟。


 取消訴訟との併合提起。


 仮の義務付け。


 という現代の単語たちが、


 一斉に未来へ帰っていきました。


 さようなら。


 まだ十六年くらい早かった。


「理論上」


 片桐所長が静かに言いました。


「法定外の抗告訴訟として議論される余地はある」


「無名抗告訴訟ですか」


 沢渡課長が言いました。


「だが」


 所長は続けます。


「認めさせる壁は高い」


「でしょうね」


「この段階で、それ一本に賭ける気はない」


 私は所長を見ました。


 淡々としている。


 でも。


 目はもう次の手を探しています。


「では」


 沢渡課長が言いました。


「取消訴訟でしょうか」


「それも準備する」


「それも?」


「市に再検討してもらう」


「根拠は?」


「まず事実だ」


 片桐所長は相馬先輩を見る。


「宮下さんが設備投資をする前、市へ相談した回数」


「四回」


「記録は」


「本人の日記と、担当者名入りのメモ」


「設備図面を提出した日は」


「二月十七日」


「市が市場再整備計画を正式に公表したのは」


 沢渡課長が少し黙りました。


「四月です」


 相馬先輩が続けます。


「宮下さんが換気設備を発注したのは三月」


「……」


「その時点で、市は止めたか」


「正式な許可申請前です」


「止めたかどうかを聞いてる」


「許可できないと確定していたわけではありません」


「じゃあ四月に何が変わった」


 沢渡課長の表情が初めて少し動きました。


「市場再整備の基本方針がまとまりました」


「基本方針のどこに、宮下さんの営業を認めないって書いてある」


「個別店舗については書いていません」


「営業すると何が困る」


「先ほど申し上げたとおり――」


「具体的に」


 相馬先輩が低く言いました。


「避難経路か」


「……現時点では問題ありません」


「衛生設備」


「基準は満たしています」


「動線」


「現在の店舗配置では、大きな支障はありません」


「じゃあ何だ」


 沈黙。


 沢渡課長の目が細くなりました。


「将来の再配置です」


「いつ」


「未定です」


「宮下さんの店が、その再配置まで営業してたら何が困る」


「営業実績ができれば、将来の立退き交渉が難しくなる可能性があります」


 一瞬。


 部屋の空気が変わりました。


 私は沢渡課長を見ました。


「……それ」


「何です」


「営業許可の判断で考えていい事情なんですか」


 沢渡課長は答えませんでした。


 相馬先輩も黙った。


 片桐所長だけが、


 ほんの少し指先を動かしました。


 そこ。


 なんだ。


 市場再整備の工事に直接支障があるわけではない。


 衛生上の問題もない。


 避難経路も問題ない。


 今すぐ営業させられない具体的事情も見当たらない。


 なのに。


 将来立退きを求めたとき、


 営業している店があると面倒になる。


 だから今のうちに許可しない。


 もし本当にそこが判断の中心なら。


 少なくとも。


 許可制度が考慮すべき目的と、


 判断に使った事情が、


 ずれている可能性がある。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「その説明は、市の正式見解か」


 沢渡課長は数秒黙りました。


「確認します」


「確認してくれ」


「裁判を前提に?」


「弁護士へ引き継ぐ準備はする」


 所長は淡々と言います。


「処分理由。根拠規定。判断過程。事前相談記録。再整備計画。全部整理する」


「行政書士事務所が訴訟代理を?」


「しない」


「ですよね」


「こちらがやるのは、事実と書類の整理までだ」


 片桐所長は一拍置きました。


「裁判に持っていくなら、期限内に弁護士へ渡す」


 私はそこではっきり分かりました。


 これが片桐事務所の戦い方。


 裁判所で立つことはできない。


 代理人にはなれない。


 だから。


 裁判所へ行く直前まで、


 入口を整える。


 どの処分を争う。


 誰が訴える。


 いつまでに訴える。


 誰を被告にする。


 どの資料がある。


 何が処分理由で。


 行政が何を考慮した。


 何が欠けている。


 そこまで積み上げて、


 弁護士に渡す。


「課長」


 私は言いました。


「一つだけ確認していいですか」


「どうぞ」


「市としては、本当に裁判まで行っていいんですか」


 沢渡課長の眉が少し動きました。


「脅しですか」


「違います」


「では?」


「訴訟要件は整理できます」


 自分で言って、


 心臓がどくっと鳴りました。


「処分もある。申請者本人がいる。出訴期間もまだ間に合う。処分庁も確認した。あとは不許可理由の中身を弁護士さんに渡せます」


 沢渡課長は黙っています。


「そして今の説明だと」


 私は続けました。


「市が何を守ろうとして不許可にしたのか、裁判で問題になる余地があります」


「朝比奈さん」


「はい」


「一つ訂正します」


「何でしょう」


「まだ市の正式な処分理由として、立退き交渉への影響を確認したわけではありません」


「だから確認してください」


 私は通知書を指しました。


「もし本当の理由が違うなら、それも知りたいです」


「……」


「宮下さんは、何が駄目だったのか分からないまま八百万円払ってるんです」


 少し。


 言いすぎたかもしれません。


 相馬先輩を見る。


 止めない。


 所長も何も言わない。


「訴訟になれば」


 私は続けました。


「取消しだけで宮下さんがすぐ営業できるとは限りません」


「そうでしょうね」


「今の法律では、裁判所に『許可しろ』と命じてもらう道も簡単じゃない」


「ええ」


「だからこそ」


 私は言いました。


「今、市が見直す意味があると思います」


 沢渡課長はしばらく私を見ていました。


 そして、


 資料を閉じました。


「三日ください」


「三日?」


「担当課の記録を確認します」


 相馬先輩が言います。


「出訴期間は止まらねえぞ」


「承知しています」


「三日後に『やっぱり駄目です』でも、こっちは待たん」


「どうぞ」


 いつもの沢渡課長です。


 冷たい。


 でも。


 ほんの少しだけ、


 扉が動いた気がしました。


 事務所へ戻るなり、


 片桐所長は電話を取りました。


「先生。片桐です」


 提携している弁護士先生。


 私は急いで資料を並べます。


 処分通知。


 申請書控え。


 設備図面。


 事前相談の記録。


 市の市場再整備基本方針。


 借入関係は参考資料。


 許可基準。


 そして、


 日付一覧。


「こはる」


「はい」


「一枚にしろ」


「何をです?」


「時系列」


「はい」


「読む人間に計算させるな」


 う。


 これは効きます。


 相談日。


 申請日。


 処分日。


 到達日。


 出訴期間満了予定日。


 私は赤で囲みました。


 ――九月四日。


 残り九日。


 現代なら六か月ある。


 そんな知識は、


 ここでは毒です。


 昭和六十三年。


 三か月。


 一日でも遅れれば、


 どれだけ不許可がおかしくても、


 原則として取消訴訟の入口が閉じる。


「怖いですね」


 私は呟きました。


「何が」


 相馬先輩が書類を綴じながら言います。


「行政訴訟って」


「今さらか」


「中身以前に死ぬところが多すぎます」


「だから言ってるだろ」


 相馬先輩はクリップを留めました。


「裁判なんて負け戦だ」


「でもやるなら?」


「要件を揃えろ」


 出た。


 口癖。


 今日は妙に重い。


「先輩」


「何だ」


「もし現代なら」


「また未来か」


「拒否処分を取り消してもらうだけじゃなくて、許可を出すよう求める訴訟が法律に用意されるんです」


「へえ」


「義務付け訴訟」


「便利だな」


「条件はかなり厳しいですけど」


「なら今と同じじゃねえか」


「何がです?」


「結局、要件揃えなきゃ門前払いなんだろ」


「……確かに」


 時代が変わって、


 武器は増える。


 でも。


 持てば勝てるわけじゃない。


 入口の鍵は、


 やっぱり必要です。


「ただ」


 私は言いました。


「少なくとも、救済の形は増えます」


「今はねえんだろ」


「はい」


「じゃあ今ある札でやれ」


「はい」


 相馬先輩。


 未来人への扱いがだんだん上手になっています。


 三日後。


 沢渡課長から電話がありました。


 片桐所長が受話器を取ります。


「はい。……分かりました」


 短い。


 置く。


「どうでした?」


「担当課が再検討する」


「え」


「不許可処分を維持するかどうかも含めて」


「本当ですか」


「理由は二つ」


 所長が指を立てます。


「一つ。現時点の営業が再整備に具体的支障を与えるという資料がなかった」


「はい」


「二つ。将来の立退き交渉への影響を考慮していた形跡があった」


「やっぱり」


「その事情を営業許可判断の主要な根拠にしていいのか、庁内で疑義が出た」


 私は椅子から少し浮きました。


「じゃあ許可?」


「まだだ」


 所長が止めます。


「再検討だ」


「はい」


 浮いた分だけ戻る。


 行政法では、


 喜ぶのも要件が必要です。


「あと」


 所長が言いました。


「弁護士から連絡だ」


「はい」


「取消訴訟の準備は進める」


「再検討するのに?」


「だからだ」


 相馬先輩が言います。


「役所が考え直してる間に三か月過ぎました、じゃ笑えねえ」


「あ」


「時計は止まらん」


 そうでした。


 交渉している。


 再検討している。


 役所も前向きだ。


 だから安心。


 ――ではない。


 期間は期間。


 訴訟要件は、


 人間関係の空気を読んで延びてくれません。


「行政法、そこは本当に冷たいですね」


「冷たいから使えるんだ」


 片桐所長が言いました。


「え?」


「役所が『検討します』と言ったから期限を延ばす。担当者が親切だから例外にする。そんな制度なら、誰も期限を信用できない」


 なるほど。


 冷たい。


 でも。


 誰に対しても同じ時計が動く。


 それも法律です。


 さらに四日後。


 出訴期間満了まで、


 あと二日。


 宮下さんが事務所へ飛び込んできました。


「出た!」


「何がです?」


「許可!」


 声で分かりました。


 私は立ち上がります。


「本当ですか」


「条件付きだけどな!」


 書面を見る。


 営業許可。


 ただし、


 市場再整備に伴う将来の移転協議に誠実に応じることなどの条件付き。


「営業できますね」


「ああ!」


 宮下さんは笑いました。


 初めて見た。


 怒っていない顔。


「明後日からだ」


「ずいぶん急ですね」


「もう材料頼んだ!」


「早い!」


「三か月止められてたんだ。これ以上待てるか」


 相馬先輩が書面を確認します。


「条件の中身はあとでちゃんと見ろよ」


「ああ」


「再整備が消えたわけじゃねえからな」


「分かってる」


「立退き問題は別に来るぞ」


「分かってるって」


 宮下さんは笑ったまま、


 机へ例の弁当箱を置きました。


「今日は試作じゃない」


「え」


「売り物第一号」


「まだ営業開始前ですよね」


「だから金はいらん」


「そういう問題なんですか」


 蓋を開ける。


 鯖の味噌煮。


 卵焼き。


 煮物。


 今度は、


 赤い梅干しまで載っています。


「四つある」


「四つ?」


「先生。兄ちゃん。嬢ちゃん。あと市役所の眼鏡」


「沢渡課長の分まで?」


「あいつにも食わせろ」


「なぜ」


「腹立つけど」


 宮下さんは頭を掻きました。


「最後は調べ直したんだろ」


「まあ」


「なら一個くらい食わせてやる」


 相馬先輩が笑いました。


「懐広えな」


「魚屋だからな」


「関係あります?」


 でも。


 たぶん、


 こういうところが町なんだと思います。


 裁判になるところだった。


 片方は役所。


 片方は住民。


 法廷に行けば、


 原告。


 被告。


 そんな名前になる。


 でもその前なら。


 まだ。


 弁当を一個渡せる距離にいる。


 午後。


 私は市役所へ弁当を届けました。


「何ですか、これは」


 沢渡課長が露骨に警戒します。


「爆発物ではありません」


「そんなことは聞いていません」


「宮下さんからです」


「私に?」


「はい」


「なぜ」


「私も聞きました」


「答えは」


「腹立つけど食わせてやる、だそうです」


「……そのまま伝えなくて結構です」


「すみません」


 沢渡課長は弁当箱を見ました。


「許可が出てよかったですね」


「課長が言うんですか」


「再検討の結果です」


「最初から出せばよかったのに」


「結果を知った後なら、何とでも言えます」


「じゃあ最初の判断も正しかったと?」


「いいえ」


 即答でした。


 私は少し驚きます。


「考慮すべき事情と、考慮すべきでない事情の整理が不十分でした」


「認めるんですね」


「合理的でない判断を守る理由はありません」


 この人は本当に。


 嫌な人なのか、まともな人なのか、


 毎回判断に困ります。


「ただし」


 沢渡課長が言います。


「朝比奈さん」


「はい」


「今回、訴訟になっていたとしても、宮下さんが望む結果がそのまま裁判所から出たとは限りません」


「……許可そのものですね」


「ええ」


 拒否処分を取り消す。


 それと。


 許可を出せと命じる。


 似ているようで、


 全然違う。


「裁判所が行政庁に積極的な処分を命じる」


 沢渡課長は言いました。


「行政と司法の役割分担に深く関わる話です」


「分かってます」


「本当に?」


「……今朝からかなり分かってきました」


「それはよかった」


「先生みたいに言わないでください」


「では弁当だけいただきます」


「そこは素直なんですね」


 帰ろうとすると、


 沢渡課長が後ろから言いました。


「朝比奈さん」


「はい」


「将来」


 私は振り返ります。


「行政救済の制度は、もっと使いやすくなると思いますか」


 一瞬。


 息が止まりました。


 未来のことを知っている私に、


 昭和六十三年の沢渡課長が聞いている。


「……なると思います」


「根拠は?」


「必要だからです」


「抽象的ですね」


「課長に言われたくありません」


 私は少し考えました。


「取消しだけじゃ救えない人がいるから」


 沢渡課長は黙っています。


「処分を消しても、欲しい許可が出なければ生活が動かない人がいる。役所が動かないこと自体で困る人もいる。そういう人を救うなら」


 私は言いました。


「裁判所に『取り消します』だけじゃなく、『行政はこれをしなさい』と言える仕組みが必要になると思います」


「かなり踏み込みますね」


「でしょうね」


「行政側は嫌がりそうです」


「課長も?」


「制度がそうなれば従います」


「合理的ですね」


「それしか取り柄がありませんので」


 自分で言うんだ。


「でも」


 沢渡課長は弁当箱を持ち上げました。


「今回のように、裁判になる前に行政が修正できるなら、そのほうがいい」


「同感です」


「裁判は時間がかかります」


「お金も」


「行政側も同じです」


「そこなんですね」


「当然です」


 敵だからといって、


 役所も裁判が好きなわけではない。


 負ければ運用を変えなければならない。


 記録も残る。


 説明もしなければならない。


 敗訴リスクが具体的になれば、


 合理的な役所ほど、


 その前に修正する。


 片桐所長たちは、


 裁判を起こさない。


 起こせない。


 でも。


 裁判になったら何が争われるかを、


 裁判に耐えられる形まで整理する。


 それが圧力になる。


 法律は、


 法廷に立っているときだけ働くわけではありません。


 二日後。


 宮下さんの店が開きました。


 昼休み。


 相馬先輩と一緒に市場へ行きます。


「混んでますね」


「初日だからだろ」


「先輩、何買います?」


「鯖」


「私は唐揚げ」


「魚屋だぞ」


「総菜屋です」


「信念がねえな」


「食に信念を求めないでください」


 店の奥で、


 宮下さんが声を張っています。


「いらっしゃい!」


 奥さんが弁当を包む。


 妹さんが揚げ物を並べる。


 近所の奥さんらしい女性が会計をしている。


 誰も、


 行政事件訴訟法のことなんて話していません。


 義務付け訴訟。


 取消訴訟。


 無名抗告訴訟。


 出訴期間。


 被告適格。


 そんな言葉は、


 油の弾ける音に全部負けています。


 それでいい。


 法律は、


 法律の話をするためにあるんじゃない。


 この店が開くか。


 この人が働けるか。


 明日の売上があるか。


 そういうところで初めて、


 意味を持つ。


「嬢ちゃん!」


 宮下さんが私を見つけました。


「これ持ってけ!」


 唐揚げが二個追加されました。


「いいんですか」


「相談料の足しだ!」


「現物払いは所長に怒られます」


「じゃあ俺からの差し入れ!」


「それならいただきます」


「お前、判断早いな」


 相馬先輩が呆れます。


「適法です」


「何法だ」


 知りません。


 帰り道。


 私は紙袋を抱えながら言いました。


「先輩」


「何だ」


「今日、分かりました」


「唐揚げがうまいって?」


「それもありますけど」


 私は振り返りました。


 市場の奥。


 宮下さんの店には、


 小さな赤い暖簾が出ています。


「取消訴訟って」


「うん」


「『駄目』を消す訴訟なんですね」


「雑だな」


「でも義務付け訴訟は」


 言ってから、


 今は存在しないことを思い出します。


「未来の話か」


「はい」


「続けろ」


「『やれ』まで求める訴訟」


 相馬先輩は少し考えました。


「なるほどな」


「処分を取り消すだけでは救えない人がいる」


「ああ」


「宮下さんみたいに、欲しいのは不許可通知の取消しじゃなくて、許可そのものって人がいる」


「そうだな」


「だから後の時代に義務付け訴訟が法定される」


「お前、本当に未来から来たのか?」


「今さら?」


「冗談だ」


「ですよね」


 危ない。


「でも」


 相馬先輩が言いました。


「未来でそんな訴訟ができても、簡単じゃねえだろ」


「はい」


「誰でも役所に『これやれ』って命令させられるなら、行政なんか回らねえ」


「そうですね」


「なら結局」


 相馬先輩は紙袋から勝手に唐揚げを一個取りました。


「あっ」


「入口を揃えるんだろ」


「……はい」


「じゃあ今日と同じだ」


 腹立つけど。


 その通りです。


 未来では、


 義務付け訴訟が法定される。


 申請をしていない第三者が、


 行政庁に一定の処分を求める類型。


 申請した本人が、


 拒否されたり放置されたりしたときに、


 処分を求める類型。


 重大な損害。


 他に適当な方法がないこと。


 法律上の利益。


 併合提起。


 処分をすべきことが明らか。


 裁量権の逸脱・濫用。


 たくさんの鍵がいる。


 でも。


 今日はまだ、


 そこを詳しく考える日ではありません。


 今日の教訓は、


 もっと手前。


 私は呟きました。


「欲しい救済と、使える訴訟は同じとは限らない」


「何だって?」


「今日の覚え書きです」


「長い」


「じゃあ短くします」


 少し考えて。


 私は言いました。


「『取り消せ』と『やれ』は、別物」


 相馬先輩が頷きました。


「それなら覚えやすい」


「でしょう?」


「ただし」


「はい?」


「今のお前は『やれ』が使えねえ」


「……はい」


 昭和六十三年。


 義務付け訴訟は、


 まだ法律の表舞台にいません。


 宮下さんが欲しかったのは、


 不許可を消す判決ではなく、


 店を開けるための許可。


 けれど裁判所に、


「許可を出せ」


 と正面から命じてもらう道は、


 まだ極端に狭い。


 だから。


 期限を守る。


 取消訴訟の入口を固める。


 処分理由を洗う。


 判断過程を確認する。


 弁護士へ渡せる形にする。


 そして、


 訴訟になったときの危険を役所にも見せる。


 遠回りです。


 面倒です。


 格好よくもない。


 でも。


 その遠回りで、


 一軒の店の暖簾が上がった。


 それなら。


 悪くない。


「ところで先輩」


「何だ」


「それ私の唐揚げですよね」


「証拠は」


「今食べたでしょう!」


「立証できるか」


「口の中見せてください!」


「嫌だ」


「返してください!」


「もう無理だ」


「原状回復してください!」


「行政事件訴訟法にそんな訴訟はねえ」


「民事で訴えますよ!」


「勝手にしろ」


 市場から事務所まで。


 相馬先輩は逃げました。


 私は追いました。


 そして思いました。


 裁判所に、


 ――相馬誠司に唐揚げ一個を返せと命じる。


 そんな義務付け訴訟だけは、


 平成十六年を待っても、


 たぶん法定されません。

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