[不作為の違法確認の訴え]法理編 こはるノート
返事がない。
それだけなら、ただの沈黙です。
でも。
返事をしなければならない人が、返事をしない。
そこまで来ると。
沈黙にも、法律上の名前がつきます。
夕方。
片桐行政書士事務所。
机の上には、昨日の西岡さんが置いていったメロンパンの紙袋。
中身はもうありません。
正確には。
「先輩」
「何だ」
「最後の一個、食べました?」
「知らん」
「口の横に砂糖ついてますけど」
「証拠にならねえ」
「なりますよ」
「なら立証しろ」
「行政事件訴訟じゃなくてメロンパン事件なんですが」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
絶対食べました。
私は諦めてノートを開きます。
今日の見出し。
大きく。
――不作為の違法確認の訴え。
書いたところで、ペンが止まりました。
「地味ですよね」
「何が」
「不作為の違法確認」
「名前はな」
「取消訴訟は分かるんです。処分を取り消す。分かりやすい」
「うん」
「差止めとか義務付けとかも、現代なら目的が見えやすい」
「また未来の話か」
「今日は必要な未来です」
「便利な言い訳だな」
私はノートの上でペンを回しました。
昨日。
西岡さんの道路占用許可申請。
六月二日に申請。
追加資料。
補正。
現地確認。
それでも三か月近く、許可も不許可も出ない。
役所は、
審査中。
そう言い続けていました。
もしあのままだったら。
西岡さんは、
明日も二十五キロの小麦粉を手で運ぶ。
来週も。
来月も。
その間。
許可が出ない。
でも不許可も出ない。
だから、
不許可処分の取消しを求めることもできない。
「……あれ」
私は呟きました。
「何だ」
「処分がないから、取消訴訟の土俵にも上がれないんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が煙を吐きました。
「だから不作為を争う」
私はノートに書きます。
不作為の違法確認の訴え。
行政庁が、
法令に基づく申請に対し、
相当の期間内に、
何らかの処分又は裁決をすべきなのに、
何もしない。
その不作為が違法であることの確認を求める抗告訴訟。
「まず」
私は所長を見ました。
「これ、抗告訴訟なんですよね」
「ああ」
「処分がないのに」
「そこが引っかかるか」
「はい」
抗告訴訟。
行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟。
取消訴訟。
無効等確認。
不作為の違法確認。
そして現代なら、
義務付け。
差止め。
「処分が出てないのに、抗告訴訟」
私は言いました。
「ちょっと変な感じがします」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「行政権の働き方には二つある」
「二つ?」
「やったことが問題になる場合」
「はい」
「やらないことが問題になる場合」
あ。
短い。
でも分かりやすい。
「取消訴訟は、やった行政を争う」
「そうだ」
「不作為の違法確認は、やらない行政を争う」
「そうだ」
私はそのままノートに書きました。
やった行政。
やらない行政。
どちらも、
国民の権利利益を傷つけることがある。
「昨日の西岡さんは、まさに後者ですね」
「ああ」
「不許可にされたわけじゃない」
「うん」
「でも、判断しないことで仕事が止まっていた」
「そういうことだ」
行政の違法。
と聞くと。
私はどうしても、
役所が変な処分をした。
間違った命令をした。
許可を取り消した。
そういう積極的な行為を想像します。
でも。
法律上、
一定のときには、
何もしないことも違法になる。
「まず要件を切るぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「昨日、お前が西岡に説明したやつだ」
私は新しいページを開きました。
一つ目。
法令に基づく申請があること。
「ここでいう申請って」
私は言います。
「単に『お願いです、許可してください』って手紙を出せばいいわけじゃない」
「当然だ」
「法令上、行政庁に処分や裁決を求める申請ですね」
「そうだ」
昨日の西岡さんなら、
道路占用許可申請。
法令上の手続に基づいて、
行政庁に許可という処分を求めた。
「じゃあ」
相馬先輩が聞きます。
「役所に『駅前にベンチ置いてください』って要望書出しただけなら?」
「それだけでは駄目です」
「なぜ」
「法令に基づく申請じゃないから」
「陳情は?」
「同じです」
「苦情は?」
「違います」
「投書は?」
「違います!」
「よし」
「わざとですよね」
「試験じゃ似た言葉を混ぜてくるからな」
嫌ですが正しい。
不作為の違法確認訴訟は、
行政庁が返事してくれないなら何でも使える制度、
ではありません。
あくまで。
法令に基づいて、
処分や裁決を求める申請をした。
そこが出発点。
私は丸で囲みました。
――法令に基づく申請。
「二つ目」
片桐所長が言います。
「誰が訴えられる」
「申請した者」
「それだけか」
「はい」
ここ。
かなり大事です。
不作為の違法確認の訴えは、
処分又は裁決について申請をした者に限って提起できます。
「西岡さんの奥さんは?」
相馬先輩。
「店を一緒にやっていても、申請者じゃなければ原則駄目」
「息子は?」
「駄目」
「パート従業員は?」
「もっと駄目」
「近所の人は?」
「何を争うんですか!」
「念のためだ」
昨日も思いましたが。
困っている人。
影響を受けている人。
原告になれる人。
ここは一致しないことがあります。
「不作為の違法確認って」
私は言いました。
「原告適格がかなり分かりやすいですね」
「取消訴訟よりはな」
「取消訴訟だと『法律上の利益を有する者』とかで大変なのに」
「こっちは申請した者」
「はい」
そこはシンプル。
でも。
シンプルだからこそ厳格です。
申請していない人が、
いくら困っていても、
この訴訟の原告にはなれない。
「じゃあ次」
私は言いました。
「昨日の一番面白いところ」
「何だ」
「申請が不適法でもいい」
相馬先輩が頷きます。
ここ。
受験生的には、
引っかけ問題の香りが強いところです。
私はノートに書きました。
――申請が適法であることは、原告適格の要件ではない。
「最初にこれ見たとき」
私は言いました。
「え、いいの? って思いました」
「何が」
「不備だらけの申請でも?」
「現に申請してりゃな」
「形式違反があっても?」
「却下されてないならな」
「受理すべきじゃない申請でも?」
「その判断をまだしてないならな」
なるほど。
私はペンを止めました。
「理由、分かりました」
「言ってみろ」
「不適法なら、不適法で処分すればいいから」
所長が頷きました。
「そうだ」
それです。
行政庁は、
この申請は要件を欠く。
だから却下する。
そう判断することができます。
なら、
申請に不備があることと、
永遠に放置していいことは、
別問題。
「昨日の市役所も」
私は思い出します。
当初の構造図が不足していた。
申請として適法か検討が必要。
そう言っていました。
「でも、それならそれで処理しろ、と」
「そういうことだ」
「補正を求めるなり」
「ああ」
「却下するなり」
「ああ」
「許可するなり」
「そうだ」
「黙るな」
相馬先輩が言いました。
「一言で言えばな」
私は大きく書きました。
――不備があるなら、不備があると答えろ。
いい。
これ、覚えやすい。
「試験答案には書くなよ」
「分かってます」
次。
相当の期間。
ここが一番ふわっとしています。
「三か月たったら違法」
私は書いてから、
大きくバツをつけました。
「それは昨日もやりましたね」
「ああ」
「標準処理期間を過ぎたら違法」
さらにバツ。
「これも違う」
「そうだ」
相当の期間。
処分又は裁決をするのに通常必要とする期間。
何日。
何か月。
そうやって法律が一律に決めているわけではない。
「道路占用許可なら?」
相馬先輩が聞きます。
「案件次第」
「建物の許可なら?」
「案件次第」
「営業免許なら?」
「案件次第」
「全部それで逃げる気か」
「だって本当にそうでしょう!」
所長が少しだけ笑いました。
「見る事情を言え」
「はい」
私は指を折ります。
「申請内容の複雑さ」
「うん」
「必要な現地調査」
「うん」
「関係機関との協議」
「うん」
「申請者側の補正にかかった時間」
「うん」
「行政庁側の処理状況」
「そうだ」
つまり。
三か月という数字だけを見て、
長い。
短い。
と決めるものではない。
難しい案件なら時間はかかる。
追加資料が必要なら延びる。
他機関との協議が必要なら、それも考慮される。
でも。
「担当者が忙しかった」
私は言いました。
「それだけなら?」
「事情にはなる」
相馬先輩。
「でも免罪符にはならねえ」
「ですよね」
「人手が足りない。担当が異動した。机の下に入ってた」
「最後は駄目でしょう」
「現場じゃそういうこともある」
怖い。
でも。
だから制度が要る。
「標準処理期間との違い」
私は見出しを書きました。
これも試験では狙われます。
「標準処理期間は」
私は言います。
「申請が行政庁の事務所に到達してから処分するまでに、通常要する標準的な期間」
「うん」
「でも、不作為の違法確認でいう相当期間と、必ず一致するわけじゃない」
「そうだ」
「だから、標準処理期間を一日過ぎた!」
「うん」
「即違法!」
「違う」
「ですよね」
逆も同じ。
標準処理期間内だから、
絶対に不作為違法にならない。
とも単純には言い切れない。
個別具体的な事情を見る。
「じゃあ標準処理期間って意味ないんですか」
「そんなことはない」
片桐所長が答えました。
「一つの材料にはなる」
「目安ですね」
「ああ」
私は矢印を書きました。
標準処理期間。
↓
重要な参考資料。
しかし、
相当期間そのものではない。
「昨日の西岡さんの件でも」
私は振り返ります。
三か月。
ただそれだけでは弱い。
だから所長は市役所で聞いた。
現地確認はいつ。
警察協議はしたか。
最後の補正はいつ。
その後何をしていたか。
「裁判になったら」
私は言いました。
「こういう記録が効くんですね」
「そうだ」
「三か月待ったんです、ひどいでしょう、だけじゃない」
「裁判所は日記帳じゃねえからな」
「言い方」
「だがそういうことだ」
何月何日。
申請。
何月何日。
追加資料。
何月何日。
現地確認。
何月何日。
最後の補正。
そして。
一か月動きなし。
そうやって、
相当期間を超えたか判断できる材料を作る。
「行政書士が訴訟代理をできないからこそ」
私は言いました。
「ここまで整理して弁護士に渡す」
「それがお前らの仕事だ」
所長が言いました。
なるほど。
裁判をする人ではない。
でも。
裁判の入口までの道を、
崩れないように舗装する。
行政書士の実務って、
こういうところに強さがあるのかもしれません。
「次」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「勝ったらどうなる」
「これですよ」
私はノートに大きく書きました。
勝訴の効果。
昨日、西岡さんが一番がっかりしたところ。
「不作為の違法確認訴訟で勝っても」
私は言いました。
「裁判所が、許可を出せとは命じてくれない」
「そうだ」
「確認されるのは、不作為が違法だということ」
「そうだ」
「行政庁は何らかの応答をしなければならなくなる」
「うん」
「でも、その内容は許可とは限らない」
「不許可もある」
「却下もあり得る」
「そうだ」
私はノートに、
大きく矢印を書きました。
不作為違法確認。
↓
「答えろ」
であって、
「許可しろ」
ではない。
「ものすごく重要ですね」
「ああ」
「試験でも実務でも」
「ああ」
「依頼人に説明しないと危ない」
「特にな」
これ。
相談者は、
裁判に勝つ。
と聞けば。
普通、
自分の希望が通ると思います。
でも不作為の違法確認訴訟では違う。
「勝ちました」
↓
「役所は返事をしてください」
↓
「不許可です」
があり得る。
何とも言えない。
「でも昨日」
私は言いました。
「所長が西岡さんに、『まず答えを出させる意味がある』って言いましたよね」
「ああ」
「今なら分かります」
処分がなければ。
争う対象もない。
理由も分からない。
行政庁がどこを問題にしているかも分からない。
だから、
まず答えを出させる。
それだけで、
次の権利救済に進める。
「地味だけど」
私は呟きます。
「ものすごく重要な訴訟ですね」
「そういう訴訟は多い」
片桐所長が言いました。
「派手な判決だけが人を救うわけじゃない」
私は少し黙りました。
昨日。
軽トラックで小麦粉を運べるようになった。
それだけで、
西岡さんは本当に嬉しそうでした。
「ここから未来だろ」
相馬先輩が言いました。
「来ましたね」
「顔がうるさい」
「現代法との比較は大事なんです」
「勝手にしろ」
私はノートを二つに分けました。
左。
昭和六十三年。
右。
現代。
まず、
不作為の違法確認の訴え。
「これは」
私は言います。
「昭和六十三年にもある」
「ああ」
「現代にもある」
「ああ」
「ここは残ってる」
「そうだな」
問題はその先です。
現代。
義務付け訴訟。
法定されています。
でも。
昭和六十三年。
法定されていません。
「昨日、私が危なく言いかけたやつ」
「『義務付け訴訟も』だな」
「覚えてたんですか」
「笑えたからな」
「忘れてください」
不作為の違法確認は、
行政庁に、
とにかく判断しろ。
と迫る制度。
一方。
現代の義務付け訴訟なら、
一定の要件のもとで、
行政庁に一定の処分をせよ、
と求めることができる。
「例えば西岡さんなら」
私は言いました。
「現代法で要件を満たす場合には、単に『返事をしろ』だけじゃなく」
「うん」
「『許可処分をせよ』と求める可能性まで出てくる」
「未来は便利だな」
「簡単ではないですけどね」
もちろん。
義務付け訴訟には要件があります。
何でも、
私の希望どおりの処分をしろ。
と裁判所に頼めるわけではありません。
でも少なくとも。
法定された訴訟類型として、
道が明確に用意されている。
「昭和六十三年は?」
相馬先輩。
「法定された義務付け訴訟はありません」
「やりたければ?」
「無名抗告訴訟として認めてもらうしかない」
「簡単か」
「極めて困難」
「そういうことだ」
私はため息をつきました。
「昔の人、きついですね」
「今さらか」
「だって」
不作為で困っている。
裁判所へ行く。
勝つ。
行政庁、
返事をする。
不許可。
「また争う」
「そうなる場合もある」
「二段階ですよ」
「ああ」
「遠い」
「だから改正されたんだろ」
相馬先輩が言いました。
私は顔を上げました。
そう。
なぜ改正したのか。
そこです。
平成十六年改正で、
義務付け訴訟。
差止訴訟。
これらが法定された。
行政救済を、
単に、
違法な処分を消す。
違法な沈黙を確認する。
そこだけにとどめず。
必要な処分をさせる。
違法な処分がされる前に止める。
そういう方向へ救済の幅が広がった。
「現代の制度って」
私は言いました。
「昔より、救済をゴールまで近づけようとしてるんですね」
「ゴール?」
「はい」
不作為違法確認。
答えさせる。
取消訴訟。
違法な処分を消す。
それだけだと。
国民が本当に欲しい状態に、
必ずしも届かない。
「許可が欲しい人は、許可まで欲しい」
「ああ」
「違法な処分をされそうな人は、される前に止めたい」
「ああ」
「そこで義務付けや差止めが法定された」
「そういうことだ」
昭和の行政訴訟。
入口が狭い。
出口も遠い。
救済の形も限定されている。
だから。
不作為の違法確認の訴えは重要だけれど、
それだけでは足りない場面も多かった。
「今の受験生って」
私は言いました。
「義務付けと差止めを暗記するの大変だって文句言いますけど」
「お前も言ってた顔だな」
「言ってました」
「正直でよろしい」
「でも」
私はノートの右側を見ました。
「制度が増えたっていうより、救済の穴を埋めたって考えた方が分かります」
「そうだな」
未来の私。
ちゃんと覚えておいてください。
義務付け訴訟は、
受験生を苦しめるために追加されたわけではありません。
昔の人が、
不作為違法確認だけでは届かなかった場所へ、
裁判所の救済を届かせるためです。
「次」
相馬先輩が言います。
「出訴期間」
「あ」
私は少し笑いました。
「昨日、危なかったところです」
「取消訴訟の三か月を持ち込もうとしたな」
「持ち込んでません。思っただけです」
「顔に出てた」
「最近みんな私の顔を答案用紙にしすぎです」
不作為の違法確認の訴え。
出訴期間。
基本的に、
不作為が続いている限り、
いつでも提起できます。
「理由は」
所長。
「不作為状態が続いているから」
「そうだ」
取消訴訟なら。
処分が出る。
処分を知る。
そこから一定期間。
昭和六十三年なら原則三か月。
現代なら原則六か月。
でも。
不作為は違う。
今日も何もしない。
明日も何もしない。
不作為状態が継続する。
「だから」
私は言いました。
「不作為が続いている限り、期間切れという形にはならない」
「そうだ」
「じゃあ十年後でも?」
「理屈だけで雑に言うな」
相馬先輩が止めました。
「はい」
「現実の権利関係や申請の意味が失われてるかもしれねえ」
「ですよね」
「何より、困ってるなら早く動け」
「はい」
法律上、
いつでも提起できる。
と。
いつ提起しても同じ。
は別です。
昨日の西岡さんなら、
待つほど毎日の負担が増える。
「出訴期間なし」
だから、
安心して寝かせる。
ではない。
「これ」
私はノートに書きました。
――法律上の締切がなくても、生活には締切がある。
相馬先輩が覗き込みます。
「それは試験に出ねえぞ」
「でも覚えやすいです」
「まあな」
「一個聞いていいですか」
「何だ」
「不作為の違法確認訴訟を起こしたあと」
私は言いました。
「裁判中に処分が出たらどうなるんです?」
「いいところに気づいたな」
相馬先輩が言いました。
不作為の違法確認は、
行政庁が処分をしない状態を争う訴訟。
なら。
行政庁が途中で処分を出したら。
不作為状態は消えます。
「つまり」
私は言いました。
「不作為の違法確認を求める意味がなくなる」
「原則としてな」
「訴えの利益が問題になる」
「そうだ」
昨日の西岡さん。
実際。
裁判を起こす前に許可が出ました。
もし提訴後に許可が出ていたとしても、
少なくとも、
現在の不作為を違法確認してもらう必要はなくなる。
「じゃあ」
私は少し笑いました。
「ある意味、この訴訟って、判決まで行かない方が成功することもあるんですね」
「どういう意味だ」
「裁判を起こされた役所が、途中で処分を出す」
「ああ」
「申請者の目的は、とにかく答えを出してもらうこと」
「そうだな」
「なら、訴訟が役所を動かして処分が出れば」
私はペン先で机を軽く叩きました。
「訴え自体は役目を終える」
片桐所長が頷きました。
「裁判は判決をもらうためだけにやるものじゃない」
「ですよね」
「相手を法の手続に戻すために使うこともある」
それ。
このシリーズの仕事そのものかもしれません。
裁判で勝つ。
だけが目的ではない。
裁判になったら、
役所は説明できるか。
記録はあるか。
期間は合理的か。
申請を放置した理由は何か。
そこを突きつける。
すると。
役所自身が、
このままはまずい。
と判断することがある。
西岡さんの件もそうでした。
裁判所には行かなかった。
でも。
訴訟要件を詰めたからこそ、
市役所側も、
ただの苦情として流せなくなった。
「じゃあ整理するぞ」
相馬先輩が言いました。
「試験みたいですね」
「お前は受験生だろ」
「この時代では見習いです」
「面倒くせえな」
私は背筋を伸ばしました。
「不作為の違法確認の訴えとは?」
「行政庁が、法令に基づく申請に対して、相当の期間内に何らかの処分又は裁決をすべきなのにしない場合、その不作為が違法であることの確認を求める抗告訴訟」
「誰が提起できる?」
「その処分又は裁決について申請をした者」
「申請は適法じゃなきゃ駄目か」
「適法である必要はない」
「なぜ」
「不適法なら、不適法として却下などの応答をすればいい。申請が不適法だからといって、行政庁が何もしなくていいわけではないから」
「相当期間って何だ」
「その処分又は裁決をするのに通常必要な期間」
「標準処理期間と同じか」
「必ずしも一致しない」
「勝ったら許可されるか」
「されるとは限らない。不作為が違法だと確認され、行政庁は応答する必要があるけれど、その応答は許可とは限らない」
「出訴期間」
「不作為が続いている限り、いつでも提起できる」
「昭和と現代の差」
「不作為の違法確認自体はどちらにもある。ただし昭和六十三年には義務付け訴訟が法定されていない。現代では平成十六年改正により義務付け訴訟が法定され、一定の場合には単に『答えろ』だけでなく、一定の処分をするよう求める道が明文化された」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「百点ですか」
「八十」
「何で!」
「調子に乗るから」
「採点基準が裁量逸脱してます!」
所長が小さく笑いました。
私はノートを見直しました。
不作為。
その言葉だけを見ると、
何もしていない。
ただそれだけに見えます。
でも。
申請者から見れば違う。
行政庁が何もしない間にも、
時間は進みます。
家賃は出る。
借入金は減らない。
商品は腐る。
工事は止まる。
人は年を取る。
身体も疲れる。
行政庁が、
まだ決めていません。
と言っている間。
申請者の生活は、
停止してくれません。
「所長」
「何だ」
「不作為って、処分より冷たいときありますね」
「そうか」
「処分なら少なくとも、行政の答えはある」
「ああ」
「不許可でも、争える」
「ああ」
「でも沈黙は」
私は言葉を探しました。
「人を待合室に閉じ込める感じがします」
所長がこちらを見ました。
「だから出口を作った」
「不作為の違法確認」
「そうだ」
ただし。
その出口も。
昭和六十三年では、
まだ細い。
答えを出せ。
までは言える。
でも。
望む答えを出せ。
まで届く法定の道はない。
現代なら。
義務付け訴訟という次の道がある。
だから私は、
昨日より少しだけ、
平成十六年改正が好きになりました。
受験生としては、
覚える訴訟類型を増やした犯人。
でも。
現場から見れば。
昔の制度で救い切れなかった人のために、
出口を少し広げた改正。
「法改正って」
私は呟きました。
「不便だった人の跡が残ってるんですね」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「法律なんざ、大体そうだ」
「格好いいですね」
「気のせいだ」
「最近それ多くないです?」
私はノートの最後を開きました。
一行の覚え書き。
何にしよう。
しばらく考えて。
書きます。
――不作為の違法確認は、「許可しろ」ではなく、「黙るな、答えろ」と迫る訴訟。
「長い」
相馬先輩。
「内容が大事です」
「もっと短くしろ」
「じゃあ」
その下。
――行政の沈黙も、違法になる。
うん。
短い。
分かりやすい。
「どうです?」
「そっちでいい」
「褒めました?」
「事実だ」
「沢渡課長みたいな言い方しないでください」
私はノートを閉じました。
その瞬間。
電話が鳴ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『市役所道路課です』
嫌な予感。
「はい」
『先日お願いした照会書の件ですが』
私は止まりました。
「……照会書?」
『朝比奈さん宛てに、先週お送りしている件です』
先週。
私はゆっくり机の左端を見ました。
書類の山。
一番下。
白い封筒。
道路課。
「朝比奈さん?」
「はい」
『ご回答、まだでしょうか』
視線を上げる。
相馬先輩と目が合いました。
笑っています。
ものすごく笑っています。
「……相当期間は、まだ経過していないと思われます」
電話の向こうが黙りました。
『明日までにお願いします』
「はい」
電話が切れます。
「おい」
相馬先輩。
「何ですか」
「行政の沈黙も?」
「違法になることがあります」
「見習いの沈黙は?」
「今から処理します」
「相当期間は?」
「まだです!」
「標準処理期間は?」
「ありません!」
「義務付け訴訟するか」
「昭和六十三年には法定されてません!」
「じゃあ無名抗告訴訟で」
「そこまでして私に書類を書かせないでください!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「明日までだ」
「はい」
「答えろ」
「はい……」
なるほど。
今日の教訓。
答えるべき人が答えないと、
相手は困る。
行政でも。
行政書士事務所でも。
たぶん同じです。
私は封筒を開きました。
横で相馬先輩が、
「黙るな、答えろ」
と笑っています。
「今やってます!」
昭和六十三年。
不作為の違法確認訴訟がなくても。
片桐行政書士事務所では、
仕事を放置した者に対する救済制度だけは、
妙に充実しているのでした。
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