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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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[無効等確認の訴え]現場編 「三か月過ぎたら、もう何もできません」の罠。存在しない土地の税金と、“取り消すまでもなく無効”をめぐる入口の戦い

挿絵(By みてみん)

 取り消すというのは、


 いったん立っているものを倒すことです。


 では。


 最初から立っていなかったものは、


 どうすればいいのでしょう。


「裁判にしてやる!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 朝九時十二分。


 その日の最初のお客さんは、挨拶より先に宣戦布告しました。


「役所を訴える! 絶対だ!」


「落ち着いてください」


「落ち着けるか!」


 無理そうです。


 私は麦茶を出す手を止めました。


 相談者は、


 長谷川源一さん。


 五十八歳。


 駅南で小さな自転車店を営んでいます。


 日に焼けた腕。


 油の染みた指。


 声は大きい。


 そして机の上には、


 一枚の督促状。


「俺が税金を払ってねえって言うんだ!」


「税金の種類は?」


 相馬先輩が聞きます。


「固定資産税だよ!」


「土地?」


「土地だ!」


「どこの」


「知らん!」


「……はい?」


「だから知らん土地だ!」


 私は長谷川さんと紙を交互に見ました。


「知らないって、場所を知らないという意味ですか」


「違う。俺の土地じゃない!」


 なるほど。


 これは少し話が変わってきます。


 私は督促状を受け取りました。


 市内北部。


 字名。


 地番。


 宅地。


 面積二百三十一平方メートル。


 固定資産税。


 未納。


 督促。


 その前には当然、賦課処分があったはずです。


「納税通知書は?」


「これだ」


 出てきました。


 古い封筒。


 発付日は、


 三か月どころではありません。


「……四か月前」


 私は呟きました。


「そうだよ。最初は何かの間違いだと思って役所に電話した」


「そのときは?」


「調べますって言われた」


「その後は」


「何にも来ない」


「で、督促が来た?」


「そうだ!」


 長谷川さんが机を叩きました。


「だから昨日、市役所へ行ったんだよ。そしたらな」


 嫌な予感がします。


「何と言われました?」


「不服があるなら、もっと早く言ってくださいってよ!」


 ああ。


 嫌な予感、的中。


「それで?」


「四か月経ってるから、もう無理だって!」


 私は思わず納税通知書の日付を見ました。


 四か月。


 取消訴訟。


 昭和六十三年。


 出訴期間。


 処分を知った日から三か月。


 頭の中で赤い警報灯が回りました。


 まずい。


 現代なら六か月。


 だから一瞬、


 まだ間に合う。


 と思いました。


 でも違う。


 ここは昭和六十三年です。


 三か月。


「……終わった?」


 口から出ました。


「おい」


 相馬先輩が私を見る。


「え」


「誰が終わったって?」


「いや、その」


 危ない。


 また未来人の知識が事故を起こすところでした。


 いや。


 未来知識以前に。


 三か月を過ぎた。


 だから取消訴訟は難しい。


 そこまでは分かります。


 でも。


 私は通知書をもう一度見ました。


「長谷川さん」


「何だ」


「本当に、この土地と何の関係もないんですね」


「ない」


「昔持っていたとか」


「ない」


「相続したとか」


「ない」


「売買契約をしたことも」


「ない!」


「同姓同名の人は?」


「知らん」


 相馬先輩が椅子から立ちました。


「登記見るぞ」


「今からですか」


「今見ねえでいつ見るんだ」


「ですよね」


 そして一時間後。


 私たちは登記の内容を確認していました。


 所有者。


 長谷川源一。


「……同じ名前」


 私は言いました。


「だから役所も間違えたんじゃねえのか」


 相馬先輩が言います。


「住所は?」


「違います」


 同姓同名。


 しかも同じ市内。


 所有者欄には、


 北町三丁目。


 相談者の長谷川さんは、


 駅南一丁目。


「生年月日は登記に出ませんよね」


「ああ」


「じゃあ、市が名前だけで名寄せを?」


「可能性はある」


 しかし。


 それだけではまだ分かりません。


 固定資産課税台帳。


 市役所側の資料。


 どういう根拠で相談者を納税義務者としたのか。


 確認しなければならない。


「市役所行くぞ」


 相馬先輩が言いました。


「今日二回目ですね」


「まだ一回も行ってねえ」


「気持ちの上ではもう三回くらい行ってます」


「知らん」


 片桐所長が奥から出てきました。


「こはる」


「はい」


「何を争う」


「固定資産税の賦課処分です」


「それだけか」


「……え?」


「三か月は過ぎている」


「はい」


「取消しを求めるのか」


 私は止まりました。


 取消し。


 処分に違法がある。


 でも公定力がある。


 だから取り消されるまでは有効。


 通常はそこです。


 けれど。


 今回の処分がもし、


 本当に。


 まったく別人に対してされたものなら。


「所長」


「何だ」


「これって……取消しの問題じゃないんですか」


 片桐所長は答えません。


 相馬先輩がにやりとしました。


「やっとそこまで来たか」


「何ですか、その顔」


「考えろ」


 私は通知書を見ました。


 相談者は土地を持っていない。


 同姓同名の別人が所有者。


 住所も違う。


 それなのに、


 この人へ固定資産税を課した。


 もしそれが単なる軽い違法ではなく。


 処分の根っこから崩れるほど重大で。


 しかも記録を見れば誰でも分かるほど明白なら。


「重大かつ明白な瑕疵……」


 口に出した瞬間。


 教科書の文字が頭から飛び出してきました。


 行政行為。


 公定力。


 取消し。


 無効。


 そして。


「無効等確認の訴え」


 私は言いました。


 片桐所長が頷きました。


「可能性はある」


「ということは」


「まだ勝った顔をするな」


「してません」


「してた」


 相馬先輩が言います。


「してません!」


 でも。


 ちょっとだけしていました。


 だって。


 さっきまで私は、


 三か月過ぎた。


 取消訴訟できない。


 終わり。


 と思っていたのです。


 ところが。


 行政処分には、


 もう一つの世界がある。


 違法だから取り消される処分。


 ではなく。


 瑕疵が重大かつ明白だから、


 最初から効力がない処分。


「でも」


 私は言いました。


「無効なら、取り消してもらう必要がないんですよね」


「原則はな」


 相馬先輩が答えます。


「じゃあ放っておけば?」


「督促が来てるだろうが」


「あ」


「次は何だ」


 私は督促状を見ました。


 税金。


 払わない。


 督促。


 さらに進めば。


「滞納処分……」


「そうだ」


 差押え。


 それが現実になれば、


 長谷川さんの自転車店の預金や財産に影響が出るかもしれない。


 無効だから無視。


 というほど世の中は親切にできていません。


 無効だとこちらが思っていても、


 行政側が有効だと思って手続きを進めれば、


 争いは続く。


 だから。


「確認してもらう必要がある」


 私は呟きました。


「この処分は無効です、と」


「そこで無効等確認の訴えだ」


 片桐所長が言いました。


「ただし」


 来た。


 行政法名物。


 ただし。


 私は姿勢を正しました。


「何ですか」


「裁判所は、何でも無効確認を受け付けるわけではない」


「……ですよね」


「訴訟要件を調べろ」


 出ました。


 入口。


 裁判に勝つ負ける以前。


 そもそも法廷に入れてもらえるか。


 行政訴訟は、ここが冷たい。


 市役所二階。


 総務課。


 沢渡課長は、


 私たちを見るなり眼鏡を押し上げました。


「今日は税務課では?」


「税務課に行く前に、法務の確認です」


 相馬先輩が言いました。


「長谷川源一さんの固定資産税」


「ああ」


 知っている。


 やっぱり話が上がってきていました。


「昨日、窓口でかなり大きな声を出されたそうですね」


「出したくなる内容でしょう」


 私が言うと、


 沢渡課長は書類をめくりました。


「同姓同名の件ですか」


「もう分かってるんですか」


「確認中です」


「確認中なのに督促は止めない?」


「現時点で処分は存在していますので」


 冷たい。


 でも。


 これが公定力です。


 役所側が、


 あれは間違いでした。


 と認めない限り、


 処分は処分として動いている。


「課長」


 私は言いました。


「長谷川さん本人は、その土地を所有したことがありません」


「そのようですね」


「登記上の所有者は同姓同名の別人で、住所も違います」


「その点も把握しています」


「それでも賦課処分を維持するんですか」


「維持すると決めたとは言っていません」


「じゃあ取り消す?」


「調査中です」


 便利な四文字。


 調査中。


 行政界の万能毛布です。


 何でも一回くるめます。


 相馬先輩が机に手を置きました。


「課長。窓口じゃ、『三か月過ぎてるから争えない』って説明したそうだな」


 沢渡課長の視線が上がります。


「取消訴訟の出訴期間について説明したのだと思います」


「それだけなら間違ってねえ」


「ええ」


「だが」


 相馬先輩の声が低くなりました。


「この処分が無効なら話は別だ」


 部屋の空気が変わりました。


 沢渡課長は何も言いません。


 私は心の中で、


 先輩、その言い方ちょっと格好いいな。


 と思いました。


 言いませんけど。


「無効」


 沢渡課長がゆっくり言いました。


「重大かつ明白な瑕疵がある、と?」


「可能性はある」


「氏名は一致しています」


「住所は違う」


「課税資料の作成過程は確認中です」


「だから確認してくれ」


 相馬先輩が言います。


「名前だけで別人を課税したなら、単なる計算ミスとは話が違う」


 沢渡課長は腕を組みました。


「仮に処分に瑕疵があったとしても、直ちに無効になるとは限りません」


 その通りです。


 違法イコール無効ではない。


 ここを雑にすると、


 受験生は行政法に殴られます。


 普通の違法なら。


 取り消されるまでは有効。


 無効になるには、


 もっと深い傷が必要です。


 重大。


 かつ。


 明白。


「分かっています」


 私は言いました。


「だから課税資料を確認してほしいんです」


「何をです」


「どうして相談者の長谷川さんが納税義務者として登録されたのか」


 沢渡課長がこちらを見る。


「もし所有者の住所確認もせず、氏名一致だけで別人に名寄せしたなら」


「仮定の話です」


「はい。だから記録を見てください」


 一歩。


 ここで言い切らない。


 行政書士事務所は裁判所ではない。


 私たちが、


 無効です。


 と判決を出すわけでもない。


 ただ。


 弁護士へつなぐなら、


 事実を固める。


 そして市役所へ見直しを求めるなら、


 役所が無視できない形に論点を並べる。


 片桐所長が初めて口を開きました。


「もう一点」


「何でしょう」


「督促の次は」


「滞納処分の可能性はあります」


「いつだ」


「個別案件ですので、現段階では申し上げられません」


「差押えの可能性は否定しない?」


「法定の手続に従います」


 私は息を呑みました。


 そこです。


 今ここで何もしなければ。


 元の課税処分を前提に、


 次の処分が来る。


 そしてその次も。


「先輩」


「何だ」


「これ……」


「ああ」


「処分に続く処分で損害を受けるおそれ」


 相馬先輩が頷きました。


「弁護士に渡す論点だ」


 無効等確認の訴え。


 ただ、


 過去の処分が無効かどうかを学術的に確認してもらう制度ではない。


 現実の権利利益を守るために必要だから使う。


 この件なら。


 課税処分を前提とした滞納処分。


 差押え。


 そこへ進むおそれがある。


 だから、


 元の課税処分の無効確認を求める意味がある。


 予防。


 その言葉が頭に浮かびました。


「朝比奈さん」


 沢渡課長が言いました。


「何か思いついた顔をしていますね」


「よく分かりますね」


「顔に出るので」


「最近みんなに言われます」


「直した方がいい」


「善処します」


「それで?」


「いえ」


 私は少し考えてから言いました。


「三か月を過ぎているから、それだけで全部終わりという話ではないと思っています」


 沢渡課長の目が細くなりました。


「取消訴訟ではない、と」


「はい」


「無効確認を検討する?」


「私たちは訴訟代理できません」


「分かっています」


「ですから」


 私は机の上の資料を見ました。


「弁護士へつなぐ前提で、重大かつ明白な瑕疵があると言える事実があるか。滞納処分のおそれがあるか。ほかの訴えで目的を達成できないか。そこまで整理します」


 一瞬。


 沢渡課長が黙りました。


「……よく調べていますね」


「まだ調べます」


「結構です」


 相馬先輩が横で小さく笑いました。


 何ですか。


 今日くらい褒めてもいいでしょう。


「ただし」


 沢渡課長が続けました。


「無効確認訴訟は、出訴期間を過ぎた人の救済用の抜け道ではありません」


 刺さりました。


「はい」


「取消訴訟の期間を過ぎた。だから無効だと言い換える。そんな主張が通るなら、出訴期間を定めた意味がありません」


「分かっています」


「本当に瑕疵が重大かつ明白なのか」


「はい」


「そして無効確認を求める法律上の利益があるのか」


「はい」


「そこが入口です」


 敵なのか先生なのか。


 今回も分からない。


 でも。


 ありがたい壁ではあります。


 高いけど。


 事務所へ戻るなり、


 私は紙を三枚並べました。


 一枚目。


 課税処分。


 二枚目。


 督促。


 三枚目。


 今後予想される滞納処分。


 矢印でつなぐ。


「何してる」


 相馬先輩が煙草をくわえます。


「未来予想図です」


「縁起悪いな」


「処分の連鎖です」


 課税。


 未納。


 督促。


 差押え。


 元の処分が無効なら、


 その土台から崩れる。


「でも」


 私はペンを止めました。


「先輩。ひとつ疑問があります」


「言え」


「無効なら、長谷川さんには納税義務がない」


「そうだな」


「じゃあ、『納税義務がないことの確認』を求めれば済むんじゃないですか」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「いいところに気づいたな」


「珍しく褒めましたね」


「まだ褒めてねえ」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「そこが無効等確認の訴えの面倒なところだ」


「面倒なところ?」


「無効確認を直接求めなくても、現在の法律関係を争えば目的を達成できる場合がある」


「……あ」


 現在の法律関係。


 例えば。


 免職処分が無効だ。


 だから今も公務員だ。


 というなら、


 処分の無効だけを確認するより、


 今も公務員としての地位がある。


 という確認を求めれば目的を達成できる。


 あるいは。


 土地収用裁決が無効だ。


 だから今も自分が所有者だ。


 というなら、


 所有権確認の争いで足りる場合がある。


「じゃあ長谷川さんの件は?」


「検討しろ」


「またですか」


「俺が全部答えたら、お前が育たん」


「所長が急に教育者みたいなことを」


「失礼だぞ」


 相馬先輩が言います。


「すみません」


 私は考えました。


 今回。


 課税処分はすでにされている。


 長谷川さんが欲しいのは、


 税金を払わなくていいという状態。


 そして。


 滞納処分を止めること。


 現在の法律関係として、


 納税義務不存在。


 そういう確認で救済できる可能性もある。


 なら。


 無効確認訴訟が本当に必要なのか。


「うわ」


「何だ」


「急に難しくなりました」


「最初から難しい」


「教科書だと一ページなんですよ!」


「現場はページ数で動かねえ」


 まったくです。


 しかも。


 無効等確認の訴えには、


 いつでも、


 誰でも、


 何でも、


 無効と言えば使える。


 なんて便利さはない。


 むしろ逆。


 無効確認そのものを裁判所に求める必要があるのか。


 ほかの訴えで目的を達成できないのか。


 そこを見られる。


「補充性……」


 私は呟きました。


「そうだ」


 片桐所長が言います。


「無効確認でなければならない理由を考えろ」


 また入口。


 行政事件訴訟法。


 入口。


 入口。


 入口。


 この法律、


 玄関が多すぎませんか。


 翌日。


 市役所から連絡が来ました。


 税務課の資料確認が終わったとのこと。


 私たちは再び総務課へ向かいました。


 沢渡課長の机には、


 数枚の写しが置かれていました。


「結論から申し上げます」


「はい」


「課税対象となった土地の所有者は、相談者の長谷川源一さんではありません」


 長谷川さんが、


 隣で大きく息を吐きました。


「やっぱりじゃねえか!」


「はい」


 沢渡課長は否定しません。


「課税台帳への入力時に、同姓同名者の納税者番号を誤って紐付けたようです」


「住所確認は?」


 相馬先輩が聞きます。


「されていませんでした」


 部屋が静まりました。


「登記上の住所は別人」


「はい」


「課税台帳の住所とも一致しない」


「はい」


「それなのに氏名だけで?」


「入力担当者の誤りです」


 私は沢渡課長を見ました。


「課長」


「何でしょう」


「これは」


「こちらで職権による是正手続に入ります」


 先に言われました。


「賦課処分は?」


「取り消します」


「督促は?」


「当然、前提を失います」


 長谷川さんが机を叩きました。


「だったら最初からそうしろ!」


「その点は申し訳ありません」


 沢渡課長が頭を下げました。


 珍しい。


 本当に珍しい。


 私はちょっと驚きました。


「さらに」


 沢渡課長は続けます。


「同姓同名者に関する名寄せ処理を点検します」


「ほかにも?」


「可能性を排除できません」


「……なるほど」


 片桐所長が言いました。


「では裁判は不要だな」


「そうしていただけると助かります」


 沢渡課長は淡々と答えました。


 でも。


 私はまだ一つ気になっていました。


「課長」


「はい」


「昨日、窓口で三か月を過ぎているから無理だと言った件」


 沢渡課長の表情が少し固くなりました。


「確認しました」


「どうでした」


「説明が不適切でした」


 珍しい。


 本日二回目。


「取消訴訟の出訴期間だけを念頭に置いた説明だったようです」


「やっぱり」


「ただし」


 来ました。


「今回、市が職権で処分を取り消すため、無効確認訴訟を実際に提起する必要はなくなりました」


「はい」


「したがって、この件について裁判所が重大かつ明白な瑕疵を認定したわけでもありません」


「分かっています」


 そこは大事です。


 私たちは、


 勝訴したわけではない。


 裁判所が、


 これは無効です。


 と判決したわけでもない。


 役所が自分で記録を確認し、


 間違いを認め、


 処分を消した。


「じゃあ」


 長谷川さんが言いました。


「俺はもう税金払わなくていいんだな」


「この土地については」


 沢渡課長が答えます。


「もちろんです」


「差押えも?」


「ありません」


 そこでようやく。


 長谷川さんの肩から力が抜けました。


 裁判にしてやる。


 と怒鳴って入ってきた人が、


 急に十歳くらい老けたように椅子へもたれました。


「……よかった」


 小さい声でした。


 怒っていたんじゃない。


 怖かったんだ。


 私はそこで初めて気づきました。


 自転車店の預金を差し押さえられたらどうしよう。


 商売道具まで持っていかれたらどうしよう。


 自分のものでもない土地のために、


 なんで生活を壊されなきゃならない。


 そんな恐怖が、


 ずっと怒鳴り声の下にあった。


「長谷川さん」


 私は言いました。


「もう大丈夫です」


「ああ」


「市から正式な通知が出るまで書類は保管してください」


「分かった」


「今度何か届いたら、すぐ持ってきてください」


「分かった」


 長谷川さんは何度も頷きました。


 市役所を出ると、


 秋の風が吹いていました。


「結局」


 私は言いました。


「裁判になりませんでしたね」


「それが一番いい」


 片桐所長が答えました。


「ですよね」


「裁判は目的じゃない」


 その通りです。


 無効等確認の訴え。


 今日はその名前を覚えました。


 でも。


 実務で一番いいのは、


 そのカードを使わずに済むこともある。


 こちらが、


 三か月を過ぎたから終わりではない。


 処分が重大かつ明白な瑕疵を抱えていれば、


 無効という問題がある。


 さらに、


 その処分を前提に次の処分が来るなら、


 無効確認によって損害を防ぐ意味もある。


 そこまで整理して役所へ持っていけば。


 市役所だって、


 裁判で無効判決を食らう前に、


 自分で直すという選択をする。


「でも先輩」


「何だ」


「私、最初に三か月過ぎてるから終わったと思いました」


「駄目だな」


「もう少し優しく言えません?」


「じゃあ」


 相馬先輩が少し考えます。


「かなり駄目だな」


「悪化した!」


「取消しと無効を一緒にすんな」


「はい」


「違法だから取消しになる処分と」


「はい」


「重大かつ明白な瑕疵があって、最初から効力がない処分は別だ」


「はい」


「ただし何でも無効と言えばいいわけじゃねえ」


「はい」


「そこが今日のところだ」


 私は歩きながら、


 頭の中で短くまとめました。


 取消し。


 立っている処分を倒す。


 無効。


 そもそも法的に立っていない。


 だけど。


 立っていないはずのものでも、


 役所が立っているつもりで動かせば、


 人は困る。


 だから。


 裁判所に、


 あれは最初から効力がありません。


 と確認してもらう意味が出てくる。


「……変ですね」


 私が言いました。


「何が」


「無効なら放っておけばいいはずなのに、放っておけない」


「役所の紙はな」


 相馬先輩が言いました。


「紙一枚でも、次の紙を連れてくる」


 課税通知。


 督促状。


 差押え。


 一枚が次の一枚を呼ぶ。


 だから最初の一枚を止めなければならないことがある。


 無効等確認の訴え。


 その言葉が、


 急に血の通ったものに見えました。


 午後。


 長谷川さんが事務所へ戻ってきました。


「忘れ物ですか」


「違う」


 大きな紙袋を机に置きます。


「これ」


 中には。


 自転車のベル。


 三つ。


「……ベル?」


「店に余ってたやつだ」


「何に使えと」


「自転車につけろ」


「私、自転車持ってません」


「じゃあ机につけろ」


「なぜ」


 相馬先輩が一個取ります。


 チリン。


 鳴らしました。


「お、いい音だ」


「先輩、気に入らないでください」


 長谷川さんが笑いました。


「助かったよ」


「まだ正式な取消通知は確認してくださいね」


「ああ」


「あと今後は、役所の通知が来たら放っておかない」


「分かった」


「三か月とか六十日とか、期間がある手続もありますから」


「分かった分かった」


 そこへ。


 相馬先輩がまたベルを鳴らしました。


 チリン。


「何ですか」


「警告」


「何の」


「期間徒過」


「嫌なベルだな!」


 長谷川さんが笑います。


 片桐所長も、


 ほんの少しだけ口元を緩めました。


 私はベルを一つ手に取りました。


 小さい。


 銀色。


 軽い。


 でも鳴らせば、


 ちゃんと聞こえる。


 今日の法律も、


 少し似ています。


 三か月過ぎました。


 もう終わりです。


 そう言われたとき。


 本当にそうなのか。


 その処分は、


 単に取り消し得るだけなのか。


 それとも。


 最初から効力を持てないほど壊れているのか。


 さらに、


 次の処分で損害を受けるおそれはないか。


 現在の法律関係を争う別の訴えで足りるのか。


 入口を一つずつ確かめる。


 裁判所に行く前に。


 行政書士ができるのは、


 その道をきれいにして、


 必要なら弁護士へ渡すこと。


 そして。


 その整理を市役所へ突きつけることで、


 裁判になる前に行政自身を動かすこと。


 今日の教訓。


 三か月を過ぎても、


 何でも終わるわけじゃない。


 でも。


 三か月を過ぎたからといって、


 何でも「無効」と呼べるわけでもない。


 無効という言葉は、


 最後の逃げ道ではありません。


 最初から効力を認めてはいけないほど、


 処分の土台が壊れているときにだけ開く扉です。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


 チリン。


「だから何ですか、そのベル」


「電話」


「電話?」


 気づけば事務所の電話が鳴っていました。


「あっ」


「ぼーっとすんな」


「先輩がベル鳴らすからでしょう!」


 受話器を取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 またですか。


「はい」


『長谷川さんの件ですが』


「何でしょう」


『正式な取消通知を本日発送します』


「ありがとうございます」


『それと』


「はい」


『税務課の窓口対応についても、説明手順を見直すそうです』


「三か月過ぎたら終わり、って説明ですか」


『そうです』


「よかった」


『朝比奈さん』


「はい」


『一点だけ』


「何でしょう」


『無効確認訴訟を、“期限を忘れた人の復活呪文”のように理解しないでください』


「してません!」


 思わず声が大きくなりました。


『本当ですか』


「本当です!」


『では、重大かつ明白』


「分かってます!」


『補充性』


「それもこれから整理します!」


『なら結構です』


 電話が切れました。


 私は受話器を睨みました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「沢渡課長が」


「うん」


「無効確認を復活呪文だと思うなって」


 相馬先輩が吹き出しました。


「的確じゃねえか」


「私そんなこと思ってません!」


「三か月過ぎて終わったと思った直後に、無効確認って聞いて顔が輝いてただろ」


「見てたんですか!」


「顔に出る」


 またです。


「もう無表情で仕事します」


「無理だな」


「できます」


「じゃあ所長に今日の残業時間聞いてみろ」


 私は片桐所長を見ました。


「所長。今日、何時までですか」


「終わるまで」


「……」


「顔」


 相馬先輩が指をさします。


「出てるぞ」


「これは重大かつ明白な残業です」


「意味分かって言ってんのか」


「無効を主張します」


「残念だな」


「何がです?」


「現在の法律関係を確認しろ」


 相馬先輩が机の山を指しました。


「そこに仕事がある」


「目的達成できちゃう!」


「補充性なし」


「無効確認の入口で落とされた!」


 片桐所長が淡々と言いました。


「却下」


「所長まで!」


 チリン。


 相馬先輩がベルを鳴らします。


「何の音ですか!」


「判決」


「雑すぎる!」


 長谷川さんの置いていった小さなベルが、


 夕方の事務所に高く響きました。


 無効なのに、


 確認しなければならないことがある。


 有効に見えても、


 最初から効力がないものがある。


 行政法は、


 今日もややこしい。


 けれど。


 そのややこしさのおかげで、


 「もう遅い」


 の一言だけでは閉じない扉も、


 ちゃんと残されているのでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
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動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
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