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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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282/371

[行政事件訴訟法における教示]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 道案内というものは、迷っていないときには邪魔なくらい目につきます。


 でも。


 本当に迷ったときに限って、


 その一枚の看板が、ものすごくありがたい。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 大崎源一さんが帰ってから、私は机の上に二枚の紙を並べていました。


 一枚目。


 大崎さんに届いた、


 ――湖畔観光施設使用許可取消通知書。


 二枚目。


 私のノート。


 通知書のほうは、驚くほどすっきりしています。


 処分内容。


 理由。


 日付。


 市長印。


 終わり。


 対する私のノートには、


 赤。


 青。


 黒。


 矢印。


 丸。


 吹き出し。


 そして大きな文字で、


 ――教示。


「……差がすごい」


「何がだ」


 向かいの机で、相馬先輩が煙草に火をつけました。


「役所の通知、一枚」


「ああ」


「私の復習、三ページ目」


「お前が要領悪いんじゃねえか」


「違います。行政事件訴訟法が悪いです」


「法律に責任転嫁すんな」


 私は大崎さんの通知書を持ち上げました。


「でも、この余白ですよ」


「余白?」


「何も書いてない」


「見りゃ分かる」


「現代だったら、ここに裁判についての案内が入るんですよ」


「また未来の話か」


「今日はそこが本題です」


 私はノートの一番上に書きました。


 ――行政事件訴訟法における教示。


 受験生だったころ。


 ここは、それほど苦手ではありませんでした。


 覚える項目が少ないからです。


 取消訴訟なら、


 一、被告とすべき者。


 二、出訴期間。


 三、不服申立てを経なければ訴えられない場合は、その旨。


「三つ」


 私は指を三本立てました。


「何が」


「現代法で、取消訴訟について教示する基本事項です」


「言ってみろ」


「被告」


「うん」


「出訴期間」


「うん」


「法律で、審査請求に対する裁決を経た後でなければ取消訴訟を提起できないとされている場合には、その旨」


「長い」


「条文が悪いです」


「また責任転嫁した」


 でも。


 三つだけ。


 試験では、


 被告。


 期間。


 不服申立て前置。


 と縮めて覚えればいい。


 私はそう思っていました。


 昨日までは。


「大崎さんの件で」


 私は通知書を指しました。


「この三つ、一つも書いてありませんでした」


「ああ」


「しかも、この時代ではそれで行政事件訴訟法違反とはいえない」


「そうだ」


 昭和六十三年。


 平成十六年の行政事件訴訟法改正より前。


 現在ある訴訟に関する一般的な教示制度は、まだ存在していません。


 つまり。


 今の私たちから見ると、


 どうやって訴えるか。


 誰を訴えるか。


 いつまでか。


 そういう重要な入口情報を、


 行政庁が処分の相手方へ教えなければならない一般的な仕組みがなかった。


「やっぱり厳しいですよね」


「何がだ」


「昔の行政訴訟」


「今さらか」


「だって大崎さん、役所と話し合っているうちに三か月の期限が迫ってたんですよ」


「ああ」


「しかも被告も、未来の知識で答えたら間違える」


「市じゃねえからな」


「当時は処分庁。今回なら市長」


「そうだ」


 私はノートに書きます。


 昭和六十三年。


 出訴期間。


 処分を知った日から三か月。


 被告。


 処分をした行政庁。


 今回なら湖西市長。


 その横に赤字。


 ――現代とは違う。


「これだけでも怖いのに」


 私は言いました。


「案内なし」


「お前、昨日からそこに妙に怒ってるな」


「怒りますよ」


「未来人だからか」


「受験生だったからです」


 受験生のときは、


 現行法しか見ていませんでした。


 教示制度がある。


 それが当然。


 だから、


 なぜそんな規定が必要なのか、


 本気では考えていなかった。


 でも。


 制度がない時代へ来ると、


 よく分かります。


「所長」


 私は奥の机を見ました。


「なんで現代では教示制度を作ったんですか」


 片桐所長が帳簿から顔を上げます。


「未来の法律を俺に聞くな」


「正論」


 相馬先輩が笑います。


「じゃあ私が考えます」


「勝手にしろ」


 私はペンを持ちました。


 行政事件訴訟。


 難しい。


 一般の人にとって、


 何訴訟なのか。


 誰を被告にするのか。


 期間はいつまでなのか。


 不服申立てを先にしなければならないのか。


 判断が簡単ではない。


 しかも。


 間違えると、


 本案に入る前に終わることがある。


「だから」


 私は書きました。


 ――裁判を受ける入口の情報を、処分をした行政側から知らせる。


「ただ親切にするためじゃないんですよね」


 相馬先輩が煙を吐きました。


「何が」


「訴訟制度を本当に使えるものにするため」


「ほう」


「制度だけ用意して、『詳しい人だけ来てください』じゃ意味がない」


「大崎さんみたいなのが困ると」


「そうです」


 大崎さんは、


 法学部卒でもない。


 弁護士でもない。


 行政書士受験生でもない。


 貸しボート屋です。


 普通、


 市役所から通知をもらって、


 これは取消処分だから取消訴訟。


 被告適格はこれ。


 出訴期間はこれ。


 なんて考えません。


 まず役所へ行く。


 担当者と話す。


 議員へ相談する。


 知り合いへ聞く。


 それで二か月、三か月が過ぎる。


「……怖」


「今さらだな」


「行政法って、時間の使い方まで法律なんですね」


「訴訟はだいたいそうだ」


 私は次の見出しを書きました。


 ――現代法の取消訴訟に関する教示。


「ここから試験向けです」


「聞いてねえぞ」


「昨日、所長が付き合えって言いました」


 私は奥を見る。


 片桐所長。


「付き合え」


「ほら」


「お前ら結託してないか」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「では問題です」


「嫌だ」


「行政庁が、取消訴訟を提起することができる処分または裁決をするとき」


「うん」


「相手方に対し、原則として何で教示する?」


「口でいいんじゃねえのか」


「ぶぶー」


「腹立つな」


「書面です」


 私は大きく、


 ――原則 書面。


 と書きます。


「ただし例外」


「あるのか」


「処分を口頭でする場合」


「その場合は?」


「教示しなくてもよい」


「何でだ」


「書面で通知してない処分についてまで、別に訴訟案内書を必ず渡せっていう仕組みにはしてない、という整理です」


「なるほどな」


 私はノートを区切りました。


 原則。


 取消訴訟を提起できる処分または裁決をする。


 相手方に書面で教示。


 例外。


 処分を口頭でする場合。


 教示不要。


「で、内容が三つ」


 指を一本。


「第一。誰を被告にするか」


 二本。


「第二。出訴期間」


 三本。


「第三。法律に不服申立て前置の定めがあるときは、その旨」


「昨日の大崎さんなら?」


 相馬先輩が聞きました。


「現代の制度を仮に当てはめるなら、まず取消訴訟の被告とすべき者」


「今なら市長じゃねえんだろ」


「そうです」


 現代なら。


 市長の処分でも、


 原則として被告は、


 その行政庁が所属する公共団体。


 つまり、


 湖西市。


「そこも改正されてるのか」


「されてます」


「未来、ずいぶん入口を整理したな」


「本当に」


 昭和六十三年なら、


 湖西市長。


 現代なら、


 湖西市。


 しかも現代では、


 その被告を誰にすべきかまで、


 原則として行政庁側が教えてくれる。


「未来人には優しいですね」


「お前は今、未来人じゃねえ」


「そこなんですよ!」


 間違えるたびに時代が悪い。


 たぶん悪いのは私です。


「第二」


 私は言います。


「出訴期間」


「今は六か月だったな」


「はい」


 現代法では、


 原則として、


 処分または裁決があったことを知った日から六か月。


 そして、


 処分または裁決の日から一年。


 ただし、


 正当な理由がある場合には例外が認められる。


「昭和は?」


「三か月」


「大崎さんは?」


「十日前で発見」


「危ねえな」


「本当に」


 だから。


 現代の教示制度で、


 出訴期間を知らせる意味は大きい。


 いつまで争えるかを知らないまま、


 行政との話し合いだけで時間を使い切る危険を減らせる。


「第三」


 私は続けました。


「不服申立て前置」


「審査請求を先にしなきゃいけないやつか」


「はい」


 取消訴訟は原則として、


 不服申立てをしなくても提起できます。


 これを自由選択主義といいます。


 でも。


 個別法に、


 審査請求に対する裁決を経た後でなければ訴えられない。


 とする特別な定めがある場合がある。


「そういう場合は」


 私はノートに書きます。


 ――先に不服申立てが必要である旨も教示。


「知らずにいきなり裁判所へ行ったら?」


 相馬先輩が聞きます。


「訴訟要件で問題になります」


「また入口か」


「また入口です」


 行政事件訴訟法。


 本当に入口が多い。


「でも」


 私はペンを止めました。


「教材だと、まだ二つあるんですよね」


「何が」


「特殊な教示」


「特殊?」


「一つは裁決主義」


 相馬先輩の顔に、


 明らかに面倒くさそうな色が出ました。


「説明しろ」


「します」


 原則。


 行政処分に不服があるなら、


 原処分そのものを取消訴訟で争う。


 行政不服審査をして裁決も出た場合、


 原処分にも、


 裁決にも、


 それぞれ取消訴訟があり得る。


「ただし」


「出たな」


「法律によっては、原処分ではなく、裁決だけを取消訴訟の対象にしなさい、というものがあります」


「それが裁決主義」


「はい」


 私は矢印を書きます。


 原処分。


  ↓


 審査請求。


  ↓


 裁決。


  ↓


 裁決取消訴訟。


「こういう場合」


 私は言いました。


「処分の相手方に、法律上、裁決だけを取消訴訟で争える仕組みになっている旨を教示します」


「知らなかったらどうなる」


「原処分を直接訴えようとして、入口を間違える可能性があります」


「また道案内か」


「そうです」


 ここまで来ると、


 教示制度の意味が見えてきます。


 何を争えばいい。


 誰を相手にする。


 いつまでにやる。


 その前に別の手続が要るのか。


 訴える対象は処分か裁決か。


 全部、


 入口の案内です。


「行政訴訟って」


 私は呟きました。


「法律知識がある人には当たり前でも、初めての人には分岐だらけですね」


「駅の乗り換え案内みてえだな」


「そう!」


 私は思わず相馬先輩を指差しました。


「それです」


「何が」


「取消訴訟という駅に行きたいのに、入口だけで分岐が五個くらいある」


「大げさだろ」


「しかも昭和は案内板なし」


「駅員に聞け」


「その駅員が役所なんですよ!」


「うるせえ」


 でも。


 本当にそんな感じです。


 現代の教示制度は、


 行政訴訟という複雑な駅に、


 最低限の乗換案内を置いた制度。


 そう思えば覚えやすい。


「もう一つ」


 私はノートの次の欄を開きました。


 ――形式的当事者訴訟。


 相馬先輩の顔がさらに嫌そうになりました。


「名前からして嫌だな」


「分かります」


「何だそれ」


「行政事件訴訟法にある当事者訴訟の一種です」


「普通の取消訴訟と違うのか」


「違います」


 形式的当事者訴訟。


 名前は難しい。


 でも仕組みは、


 ある意味で教示が必要になる典型です。


 行政庁が処分や裁決をする。


 その処分や裁決によって、


 当事者間の法律関係が確認されたり形成されたりする。


 そして法律が、


 その法律関係の当事者の一方を被告にして訴えなさい。


 と定めている。


「つまり行政庁じゃなくて」


 相馬先輩が言いました。


「別の当事者を相手にする場合がある」


「そうです」


「分かるか、普通」


「分かりませんよね」


 だから。


 行政庁が、


 形式的当事者訴訟を提起できる処分または裁決をするときには、


 相手方に対して書面で教示する。


「何を?」


 私は指を二本立てました。


「一つ。被告とすべき者」


「うん」


「二つ。出訴期間」


「さっきより一個少ねえな」


「そうです」


 取消訴訟の三点セットとは区別。


 形式的当事者訴訟なら、


 被告。


 出訴期間。


 この二つ。


「ここ、試験で混ぜられそうですね」


「お前が作問者なら混ぜるだろうな」


「絶対混ぜます」


「性格悪いな」


「行政書士試験への敬意です」


 そして。


 こちらも、


 処分を口頭でする場合には教示不要。


「つまり」


 相馬先輩が指を折ります。


「取消訴訟の教示」


「はい」


「裁決主義の教示」


「はい」


「形式的当事者訴訟の教示」


「はい」


「未来は教えること多いな」


「昭和が教えなさすぎなんです」


「また怒った」


 ここで。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「教示を間違えたらどうなる」


「来ましたね」


 ここ。


 行政不服審査法と混ぜると危ないところです。


 私はノートに、


 二つの箱を書きました。


 左。


 行政不服審査法。


 右。


 行政事件訴訟法。


「まず、不服審査法のほう」


 私は言いました。


「行政庁が間違った教示をした場合とか、教示しなかった場合について、救済の規定があります」


「制度上ちゃんと処理がある」


「はい」


「訴訟法は?」


「そこが違います」


 行政事件訴訟法には、


 教示を間違えた場合。


 あるいは、


 本来すべき教示をしなかった場合について、


 行政不服審査法のような形で直接その後の処理を定めた規定は置かれていません。


「じゃあ」


 相馬先輩が言いました。


「役所が『一年以内で大丈夫ですよ』って間違えて教えて、それを信じて半年を超えたら終わりか」


「そこが完全放置じゃないんです」


「どうなる」


「出訴期間の例外」


 取消訴訟の出訴期間には、


 正当な理由がある場合の救済があります。


 だから。


 行政庁の誤った教示を信じた。


 本来必要な教示がなかったために、期間を徒過してしまった。


 そうした事情は、


 正当な理由の判断で救済される余地がある。


「なるほど」


 相馬先輩が言います。


「教示ミス専用の救済規定があるんじゃなくて」


「はい」


「出訴期間側の例外で拾う」


「そういう整理です」


 私は二重線を引きました。


 行政不服審査法。


 誤教示・教示なしについて直接の規定あり。


 行政事件訴訟法。


 同じ形の直接規定はない。


 ただし。


 出訴期間の「正当な理由」で救済される余地。


「これ」


 私は言いました。


「試験ではかなり危ないですよ」


「どういう問題になる」


「『行政庁が取消訴訟の出訴期間を誤って教示した場合、行政事件訴訟法にはその場合の救済について何らの規定もないため、一切救済されない』」


「×か」


「×です」


「正当な理由があり得るから」


「そうです」


「じゃあ逆に、『誤教示があれば必ず出訴期間を過ぎても訴えられる』」


「それも×」


「必ずじゃない」


「はい。正当な理由があると認められるかという問題になります」


 法律問題。


 「必ず」


 「常に」


 「一切」


 このあたりが出てくると、


 だいたい罠の匂いがします。


「でも」


 私は大崎さんの通知を見ました。


「昨日の事件には、それ使えませんよね」


「何が」


「教示しなかったことを理由にした救済」


 昭和六十三年。


 そもそも。


 現代のような行政事件訴訟法上の一般的な教示義務がない。


 だから、


 「教示義務があるのに教示しなかった」


 という現代法の問題を、そのまま持ち込むことはできない。


「大崎さんの場合」


 私は言いました。


「だからこそ怖かったんですよね」


「ああ」


「役所から裁判の期間を教えてもらえる前提で動いちゃ駄目」


「そういうことだ」


「話し合い中でも時計を見る」


「そうだ」


 私は昨日の片桐所長の言葉を書きました。


 ――待つなら、時計を見ながら待つ。


 これ。


 行政事件訴訟の勉強の横に置いておきたい言葉です。


「役所が再検討しますって言っていても」


 私は続けました。


「それだけで出訴期間が止まるとは限らない」


「うん」


「担当者が、『もう少し待ってください』って言っていても」


「うん」


「勝手に期間が延びるわけじゃない」


「そうだ」


「だから大崎さんの件では、市が見直しに入ったからって、訴訟準備を止めなかった」


「それが実務だ」


 行政との交渉。


 不服申立て。


 裁判。


 それぞれの時計を、


 別々に見る。


 この感覚は。


 教科書だけでは、なかなか怖さまで分かりません。


 私はページをめくりました。


「それにしても」


「何だ」


「平成十六年改正、いろいろ変えてますよね」


「また未来か」


「今回は大事です」


 行政事件訴訟法の大改正。


 昭和六十三年の私から見れば、


 かなり先の未来。


 でも現代の受験生にとっては、


 今の制度の基礎になっている重要な改正です。


「大崎さんの事件だけでも」


 私は指を折りました。


「昭和だと出訴期間三か月」


「うん」


「現代は六か月」


「うん」


「昭和は被告が処分庁」


「うん」


「現代は国または公共団体」


「うん」


「昭和には一般的な訴訟の教示制度なし」


「うん」


「現代はあり」


「うん」


「さらに現代では義務付け訴訟と差止訴訟が法定」


「昭和じゃ難しいやつな」


「そうです」


 昭和六十三年。


 義務付け訴訟。


 差止訴訟。


 現在のような法定抗告訴訟として整備されていない。


 無名抗告訴訟として理論上の議論はあっても、


 国民が当然に使える訴訟類型ではない。


 仮の救済も、


 現在ほど多様ではない。


「そう考えると」


 私は言いました。


「改正って全部、同じ方向向いてません?」


「何がだ」


「入口を広くする」


 出訴期間を三か月から六か月へ。


 被告を、


 分かりにくい行政庁中心の仕組みから、


 国・公共団体へ。


 義務付け訴訟・差止訴訟を法定。


 仮の義務付け・仮の差止めも整備。


 そして。


 訴訟に関する教示制度。


「昔の制度が」


 私は言いました。


「国民から見て使いにくかったから」


「裁判所へ来るな、って制度だったわけじゃねえだろ」


「もちろんです」


 制度としてはあった。


 取消訴訟もある。


 司法救済もある。


 でも。


 制度が存在することと、


 普通の人が現実に使えることは違う。


 三か月しかない。


 被告を間違えやすい。


 訴訟類型が狭い。


 案内もない。


 そういう小さな壁が積み重なると、


 実際にはかなり高い壁になる。


「大崎さん」


 私は通知書を指しました。


「裁判する権利がない人じゃなかった」


「ああ」


「ただ、入口を知らなかった」


「ああ」


「あと十日遅かったら」


 そこで。


 私は言葉を止めました。


 十日。


 偶然です。


 奥さんが封筒に日付を書いてくれていた。


 偶然、事務所へ来た。


 偶然、間に合った。


 制度というものは。


 偶然に救済を任せるべきではない。


「だから教示が要る」


 私は呟きました。


 片桐所長がこちらを見る。


「何だ」


「未来の制度です」


「うん」


「教示って、役所に親切にしてくださいってお願いしてるんじゃない」


「じゃあ何だ」


「訴訟制度を、現実に使える制度にするための入口整備」


 所長は少し黙りました。


 それから。


「そう考えればいい」


 とだけ言いました。


 私はノートに表を作りました。


 昭和六十三年。


 現在。


「読み上げます」


「まだあるのか」


「まとめです」


「早くしろ」


「昭和六十三年。取消訴訟の出訴期間」


「三か月」


「現在」


「六か月」


「被告」


「昭和は処分庁」


「現在」


「国または公共団体」


「訴訟の教示制度」


「昭和はなし」


「現在はあり」


「義務付け訴訟・差止訴訟」


「昭和は法定されてない」


「現在は法定」


「仮の救済」


「昭和は執行停止中心」


「今は仮の義務付けとか仮の差止めもある」


「完璧じゃないですか」


「毎日お前に付き合わされてりゃ嫌でも覚える」


「行政書士試験受けます?」


「受けねえよ」


「受かると思いますよ」


「仕事増えるだろ」


「もう行政書士事務所で働いてるのに」


「細けえな」


 そこ。


 行政法なので。


 私はもう一度、


 現代の教示事項を整理しました。


 取消訴訟。


 原則として書面で。


 一、被告とすべき者。


 二、出訴期間。


 三、不服申立て前置の定めがある場合、その旨。


 裁決主義の場合。


 裁決についてのみ取消訴訟を提起できる旨。


 形式的当事者訴訟。


 一、被告とすべき者。


 二、出訴期間。


 いずれも、


 口頭による処分の場合は教示しなくてもよい。


「よし」


 私は言いました。


「覚えました」


「明日忘れるなよ」


「忘れません」


「何で」


「大崎さんの通知の余白を覚えてるから」


 あの白い部分。


 そこに何もなかった。


 それだけです。


 でも。


 その何もないところに、


 未来では制度が入る。


 被告。


 期間。


 手続。


 道案内。


 法改正って、


 条文が増えることだと思っていました。


 でも。


 今回だけは。


 空白だった場所に、


 人を裁判所まで連れていく矢印が一つ増えた。


 そんなふうに見えます。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「最後」


「はい」


「一行にしろ」


 来た。


 こはるノート恒例。


 一行の覚え書き。


 私は少し考えました。


 ――教示とは、被告と期間を教える制度。


 違う。


 試験には使えるけど、


 今日の話じゃない。


 消す。


 ――行政庁は、裁判への入口を相手方に教えなければならない。


 悪くない。


 でも。


 昭和と現代の違いが入らない。


 私はもう一度考えました。


 そして。


 書きました。


 ――教示は、訴える権利を「知っている人だけのもの」にしないための道標。


 相馬先輩が横から覗き込みます。


「長い」


「またですか」


「一行は一行だが」


「内容が大事です」


「試験で聞かれたらそれ書くのか」


「書きません」


「じゃあもう一個作れ」


「要求が多い」


 仕方ない。


 その下に。


 試験直前版。


 と書きます。


 ――取消訴訟の教示=被告・期間・前置。


「短いな」


「でしょう」


「裁決主義は」


「裁決だけ訴えられるなら、その旨」


「形式的当事者訴訟は」


「被告・期間」


「口頭処分は」


「教示不要」


「誤教示は」


「行政不服審査法みたいな直接の救済規定ではなく、出訴期間の『正当な理由』で救済される余地」


「よし」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。


「受かるんじゃねえか」


「褒めました?」


「気のせいだ」


「出た」


 外はもう暗くなっていました。


 湖のほうから、


 少し湿った風が入ってきます。


 大崎さんの貸しボート屋は、


 明日も営業します。


 少なくとも、


 十月一日に突然、小屋を撤去する話はいったん止まった。


 市は処分理由を見直す。


 弁護士の久世先生は、


 こちらがまとめた資料を見ながら、


 出訴期間をにらんで次の手を考える。


 まだ勝っていません。


 処分も完全には消えていません。


 裁判になるかどうかも分かりません。


 でも。


 今回は、


 入口を失わなかった。


 それだけで大きい。


 法律は。


 争えば必ず人を救うわけではありません。


 教示されたから、


 必ず裁判で勝てるわけでもありません。


 ただ。


 どこへ行けばいいか。


 誰を相手にすればいいか。


 いつまでに行けばいいか。


 そこすら分からないまま、


 権利が時間切れになる。


 それを少しでも減らすことはできる。


 私はノートを閉じました。


「終わったか」


 相馬先輩が立ち上がります。


「はい」


「帰るぞ」


「待ってください」


「何だ」


「昨日の大崎さんの件、市役所から新しい通知が来たら」


「うん」


「今度はちゃんと教示が書いてあるか確認しましょう」


「この時代は訴訟の教示義務ねえだろ」


「そこは自主的な行政サービスということで」


「沢渡に頼め」


「嫌そうな顔するでしょうね」


「確実にな」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 嫌な予感。


 取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 ほら。


「こんばんは」


『まだいらっしゃいましたか』


「勉強してました」


『何の』


「行政事件訴訟法の教示」


 数秒。


 沈黙。


『……一般的な訴訟教示制度はありませんが』


「知ってます!」


『なら結構です』


「課長」


『何でしょう』


「将来、そういう制度ができたらどう思います?」


 また沈黙。


『将来?』


「例えば、処分の通知に、被告とか出訴期間とか書くんです」


『行政側の事務は増えますね』


「第一声それですか」


『ですが』


「はい」


『相手方が誤った訴え方をするよりは、双方にとって合理的でしょう』


 私は笑いました。


 やっぱり。


 この人は未来へ行っても、


 沢渡課長です。


「ですよね」


『何の話ですか、これは』


「二十年くらい先で分かります」


『意味が分かりません』


「気にしないでください」


『それより大崎さんの件ですが』


「はい」


『観光課との協議で、今年度中は現状の営業を認める方向になりました』


「え」


 私は立ち上がりました。


「今年度中?」


『はい。処分自体の扱いは、正式な決裁後に改めて連絡します』


「……ありがとうございます」


『私に礼を言われても困ります』


「じゃあ言いません」


『そこは普通に言ってください』


「難しい人だなあ」


『朝比奈さん』


「はい」


『一つだけ』


「何です?」


『期限の管理は続けてください』


 私は黙りました。


『こちらが内部検討していることと、法定期間は別問題です』


 昨日、


 片桐所長が言ったのと同じ。


 待つなら、


 時計を見ながら待つ。


「はい」


 私は答えました。


「分かってます」


『なら結構です』


「課長」


『はい』


「未来の教示制度、やっぱり必要だと思います」


『未来の制度については回答できません』


「合理的ですよ」


『……それなら検討に値します』


「検討!」


『何か』


「いえ。行政らしいなと思って」


『では』


 電話が切れました。


 受話器を置きます。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きました。


「今年度中、大崎さんの営業を認める方向です」


「へえ」


「でも期限管理は続けろって」


「まともだな」


「沢渡課長に言われると悔しい」


「何でだよ」


 私は窓の外を見ました。


 暗い浜名湖の方角。


 明日の朝になれば、


 大崎さんはまた受付小屋の戸を開けるでしょう。


 舟の紐をほどく。


 客が来る。


 料金を受け取る。


 いつもの一日。


 法律が守ったのは、


 大げさな権利宣言ではありません。


 今のところ、


 ただ明日も店を開けられるということだけ。


 でも。


 行政事件訴訟法の教示も、


 たぶん同じです。


 華やかな制度じゃない。


 被告を書け。


 期間を書け。


 必要なら不服申立て前置を書け。


 数行。


 たったそれだけ。


 でも。


 その数行が、


 誰かの「間に合った」を作る。


 未来の私は。


 それを三項目の暗記問題として覚えていました。


 今なら。


 もう少し違って見えます。


 法律の入口には、


 大きな門より、


 小さな案内板のほうが必要なことがある。


 そして。


 その案内板がまだない昭和六十三年では。


 片桐事務所みたいな小さな事務所が、


 紙をひっくり返し、


 日付を拾い、


 被告を確かめ、


 弁護士へつなぎながら、


 代わりに道を探している。


「先輩」


「何だ」


「今日の一行、やっぱりこれにします」


「何だよ」


 私はノートを開き直しました。


 最後に大きく、


 一行。


 ――教示は、権利を増やす制度ではない。権利へたどり着く道を失わせない制度だ。


 相馬先輩が見ます。


「長い」


「もう知ってます」


「でも」


「はい?」


「悪くねえな」


 私は顔を上げました。


「今、褒めました?」


「気のせいだ」


「またそれ!」


 奥で。


 片桐所長が静かに照明を一つ消しました。


「帰るぞ」


「はい」


「戸締まり」


「はい」


「六法」


「持ちました」


「ノート」


「持ちました」


「期間」


「三か月!」


 条件反射で答える。


 所長が一瞬だけ止まりました。


「何の期間だ」


「昭和六十三年の取消訴訟!」


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


「未来なら?」


「六か月!」


「被告は?」


「未来なら国または公共団体!」


「今は?」


「処分庁!」


「教示は?」


「未来はあり! 今は一般的制度なし!」


「帰れ」


「急に雑!」


 こうして。


 私の頭の中では、


 昭和と現代を隔てる法律の橋が、


 今日も一本増えました。


 その橋の名前は、


 教示。


 たった数行の、


 道案内です。

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