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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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281/316

[行政事件訴訟法における教示]現場編 「役所の紙に裁判のことが書いてないなら、まだ大丈夫」の罠。誰も入口を教えてくれない昭和の三ヶ月と、十日で訴訟要件を拾う行政書士

挿絵(By みてみん)

 道を教えてもらえなかったからといって、締切が待ってくれるとは限りません。


 むしろ。


 知らない道ほど、入口は静かに閉まります。


「裁判にしてやる!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 午前九時十三分。


 開業から十三分で、その日いちばん大きな声が出ました。


 記録更新が早い。


「役所を訴える! 市長でも何でも出てこい!」


「落ち着いてください」


「落ち着いていられるか!」


 机を叩いた男性は、六十二歳。


 大崎源一さん。


 浜名湖近くの市営観光施設で、二十年以上、小さな貸しボート屋を営んできた人でした。


 市から湖畔施設の一角について使用許可を受け、


 木造の受付小屋を置き、


 手こぎ舟を十艘ほど並べている。


 春は家族連れ。


 夏は釣り客。


 秋には観光客。


 冬はほとんど暇。


 そういう商売です。


 ところが。


 二か月ほど前。


 市から一通の通知が来た。


 私は机の上に置かれた紙を読みました。


 ――湖畔観光施設使用許可取消通知書。


「取消し……」


「ああ」


 大崎さんが吐き捨てます。


「観光開発だか何だか知らねえが、来月までに小屋をどけろってんだ」


 処分理由。


 湖畔観光振興計画に基づく施設再編のため。


 以上。


 短い。


 役所の通知というものは、ときどき俳句より短いくせに、人の生活だけは大きく動かします。


「ほかの貸しボート屋さんは?」


「あそこの地区じゃ俺だけだ」


「代わりの営業場所は?」


「ない」


「市から何か提案は?」


「民間のマリーナに行けってよ」


「賃料は?」


「今の五倍だ」


「……それは」


「無理だ」


 大崎さんは腕を組みました。


「だから最初は、役所と話せば何とかなると思ったんだ」


 通知が届いたあと、


 観光課へ何度も行った。


 議員にも相談した。


 地区の観光協会にも頼んだ。


 市長宛てに嘆願書まで出した。


 けれど。


 返ってきた答えは同じ。


 処分は変更しない。


 施設再編の方針も変わらない。


「昨日、役所で言われたよ」


 大崎さんの拳が膝の上で固くなりました。


「『不満なら裁判でも何でもしてください』ってな」


 私は眉をひそめます。


「誰にです?」


「総務の課長だ。眼鏡の」


 嫌な予感しかしません。


「沢渡課長?」


「そうだ。知ってんのか」


「……よく」


 よく知っています。


 できれば知り合いたくなかった種類の知り合いです。


 大崎さんは身を乗り出しました。


「だから裁判する。あいつらがそこまで言うならやってやる」


「分かりました」


 私は通知書を手に取りました。


「まず、いつ届いたか確認させてください」


「いつ?」


「この紙です」


「六月の終わりだ」


「正確な日は?」


「そんなの覚えてねえよ」


「封筒は?」


「家にあるかもしれん」


 私はカレンダーを見ました。


 今は九月。


 胸の奥に、いやなものが落ちます。


 待って。


 処分を知った日。


 取消訴訟。


 出訴期間。


 現代なら――


「六か月……」


「何だ?」


 相馬先輩が新聞から目を上げました。


「いえ」


 私は口を閉じました。


 危ない。


 またやるところでした。


 現代人の脳が、


 まだ余裕ありますよ。


 と私を殺しに来た。


 ここは昭和六十三年。


 平成十六年改正前。


 取消訴訟の出訴期間は、


 六か月ではない。


 三か月。


「大崎さん」


 自分でも分かるくらい、声が変わりました。


「通知が届いたの、六月の何日ごろですか」


「だから覚えてねえって」


「二十五日より前です?」


「いや……その辺だったかな」


「月末?」


「たぶん」


「『たぶん』じゃ困ります」


「何でだよ」


「裁判を起こせる期間があるからです」


 大崎さんが止まりました。


「期間?」


「はい」


「裁判にも締切なんかあるのか」


 あります。


 しかも。


 この時代は短い。


「先輩」


 私は相馬先輩を見ました。


「三か月ですよね」


「ああ」


「ですよね……」


「何で絶望してんだ」


「六か月欲しい」


「知らん」


「未来なら六か月なのに」


「寝言は夜言え」


 容赦なし。


 大崎さんが私たちを見比べます。


「ちょっと待て」


「はい」


「三か月って、何の話だ」


 私は通知書を見ました。


「この取消処分を裁判で取り消してもらおうとするなら、昭和六十三年の制度では、原則として処分があったことを知った日から三か月以内に取消訴訟を起こさなければならないんです」


「三か月?」


「はい」


「そんな話、役所から聞いてねえぞ」


「……そこなんです」


 私は通知の表を見ます。


 裏返す。


 裏。


 何もない。


 もう一度表。


 処分理由。


 日付。


 市長印。


 それだけ。


「教示が……ない」


 私は呟きました。


「きょうじ?」


「裁判をする場合に、誰を相手にするのか、いつまでに起こさなきゃいけないのか、そういう案内です」


「ほら!」


 大崎さんが机を叩きました。


「書いてねえだろ!」


「書いてません」


「じゃあ役所の落ち度じゃねえか!」


「そうですよ」


 反射的に答えた。


「今の法律なら――」


「こはる」


 片桐所長の声でした。


 低い。


 短い。


 嫌なときの声です。


「はい」


「今の法律なら?」


「……行政事件訴訟法の教示制度が」


「いつできた」


「え」


 止まる。


 片桐所長はこちらを見ています。


 相馬先輩も新聞を畳みました。


 その顔。


 あ。


 これ。


 また私が時代を間違えている顔です。


「待ってください」


 私は本棚へ向かいました。


「まさか」


 六法を取る。


 開く。


 めくる。


 行政事件訴訟法。


 条文を追う。


 追う。


 ない。


「……ない」


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「教示の条文が」


「そりゃそうだろ」


「嘘でしょう」


「何で俺が法令集で嘘つくんだ」


 私はもう一度めくりました。


 ない。


 本当にない。


 現代の行政事件訴訟法なら。


 取消訴訟を提起できる処分や裁決を書面でする場合、原則として、


 誰を被告にすべきか。


 出訴期間はいつまでか。


 不服申立てを経なければ訴えられない特別な定めがあるなら、その旨。


 そういった情報を行政庁が書面で教える制度があります。


 でも。


 昭和六十三年。


 ない。


 後世の平成十六年改正で新設され、平成十七年から施行される制度です。改正前には、行政庁が訴えの提起に関する情報を教える一般的な規定そのものがありませんでした。


 私は椅子へ戻りました。


「……鬼では?」


「誰が」


「旧行政事件訴訟法」


「法律に人格を持たせるな」


「だって」


 大崎さんの通知を指差します。


「三か月しかないんですよ」


「ああ」


「被告を誰にするかも分かりにくい」


「ああ」


「どこの裁判所へ行くかも調べなきゃいけない」


「ああ」


「なのに役所側に、裁判の道を教えろって一般的な義務がない?」


「ああ」


「無理ゲーじゃないですか」


「何だそれ」


「入口に看板がない迷路です」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「だから裁判なんて負け戦なんだよ」


「まだ中身を争ってませんよ」


「そこだ」


 先輩が火をつけます。


「中身まで行けねえことがある」


 その一言で。


 私は黙りました。


 訴訟要件。


 入口。


 教科書では何度も見ました。


 処分性。


 原告適格。


 訴えの利益。


 被告適格。


 管轄。


 出訴期間。


 審査請求前置。


 そういうものを確認して、


 全部そろってから、


 ようやく。


 行政の処分が違法だったか。


 本丸の話へ進める。


 大崎さんがどれだけ怒っていても。


 市の判断がどれだけおかしく見えても。


 三か月の入口が閉まれば、


 その違法性を裁判所で判断してもらうことさえ難しくなる。


「大崎さん」


 片桐所長が言いました。


「家へ戻ってください」


「何だと?」


「封筒を探す」


「今から?」


「今すぐ」


「でも俺は裁判の相談を――」


「だからです」


 所長の声は変わりません。


「届いた日を一日でも早く確定させる」


 大崎さんは少し黙りました。


「そんなに大事なのか」


「はい」


 私が答えます。


「たぶん、今回いちばん大事です」


 一時間半後。


 大崎さんは戻ってきました。


 手には茶色い封筒。


「これだ」


 私は受け取ります。


 消印。


 六月二十二日。


 中には配達された日を大崎さんの奥さんが書いたらしいメモ。


 六月二十四日。


「奥さんが?」


「あいつ、役所から来た紙は日付書いて取っとく癖があるんだ」


「奥様に感謝してください」


「そんなにか」


「ものすごく」


 今日は九月十四日。


 六月二十四日に知ったとする。


 三か月。


 残り。


「十日」


 私は言いました。


「正確には今すぐ弁護士の先生に確認してもらいますけど、単純計算なら、かなり切迫しています」


「十日……」


 さっきまで裁判にしてやると叫んでいた人の声が、小さくなりました。


「そんな」


 大崎さんは通知書を見ます。


「どこにも書いてないじゃねえか」


 私は何も言えませんでした。


 そう。


 書いてない。


 この時代では、


 それ自体が直ちに、


 行政事件訴訟法上の教示義務違反だ。


 とは言えない。


 だって。


 その一般的な義務そのものが、まだないから。


「俺は」


 大崎さんが言いました。


「役所と話してたんだぞ」


「はい」


「何度も行った」


「はい」


「向こうだって、俺が納得してないのは知ってた」


「はい」


「なのに誰も、三か月だなんて言わなかった」


 そこには、


 さっきまでの怒鳴り声とは違う怒りがありました。


 知らなかった。


 教えてくれなかった。


 気づいたときには、


 入口が閉まる寸前だった。


 そういう怒りです。


 片桐所長は慰めませんでした。


「相馬」


「はい」


「弁護士の久世先生に電話」


「今やります」


「こはる」


「はい」


「処分関係を全部時系列にしろ」


「はい」


「大崎さん」


「おう」


「これまで市へ出した嘆願書、回答書、観光課とのやり取り。全部持ってきてください」


「全部?」


「一枚残らず」


 大崎さんが立ち上がりました。


「裁判、できるのか」


 所長は少しだけ考えました。


「それを調べるための十日です」


 そこから。


 事務所が戦場になりました。


 もっとも。


 行政書士事務所なので、


 誰も法廷には立ちません。


 訴状も私たちの名前では出せない。


 訴訟代理人にもなれない。


 だからこそ。


 弁護士へ渡す前に、


 何があるか。


 何がないか。


 どこが危ないか。


 それを一つずつ洗う。


「処分庁」


「湖西市長」


「処分日」


「六月二十日」


「知った日」


「六月二十四日と確認できる資料あり」


「処分内容」


「湖畔観光施設使用許可の取消し」


「営業への影響」


「受付小屋撤去。現在地での貸しボート営業継続が不可能」


「現在も効力あるか」


「あります」


「撤去期限」


「十月一日」


「よし」


 相馬先輩が私の書いた紙に線を引きます。


「次。誰を被告にする」


 私は反射的に答えました。


「湖西市――」


「やり直し」


「あ」


 またです。


 現代なら、取消訴訟の被告は原則として国または公共団体。


 市長の処分なら、市。


 でも。


 昭和六十三年は違う。


「湖西市長」


「そうだ」


「危ない……」


「お前、未来じゃ何歳だ」


「そこは秘密です」


「未来人は便利そうに見えて不便だな」


「制度改正が全部罠なんですよ」


 私は紙の上に大きく書きます。


 ――被告 湖西市長。


 書いてから。


 大崎さんの通知を見ました。


 当然。


 そんなことも書いていない。


「これ」


 私は呟きました。


「普通の人、分かります?」


「分からねえから専門家に聞くんだろ」


「でも専門家に聞こうと思う前に期間が過ぎたら?」


「終わることがある」


「怖すぎません?」


「だから何度も言ってるだろ」


 相馬先輩が煙草の灰を落とします。


「裁判なんて負け戦だ。だがやるなら要件を揃えろ」


 今日ほど、その口癖が重く聞こえたことはありません。


 午後。


 私たちは市役所へ行きました。


 二階。


 総務課。


 そして。


「早かったですね」


 沢渡課長。


 今日も灰色の背広。


 今日も細い眼鏡。


 今日も、


 住民の怒りを全部「関係書類」という名前の箱に詰めて棚へ置けそうな顔です。


「大崎源一さんの件だ」


 相馬先輩が言いました。


「湖畔施設の使用許可取消し」


「存じています」


「昨日、裁判でも好きにしろって言ったそうだな」


「『法的手段を取られるのであれば、それは妨げません』とは申し上げました」


「翻訳すると大体同じだろ」


「言葉は正確にお願いします」


 さすが沢渡課長。


 こういう人を相手にすると、


 会話にも逐語録が必要な気分になります。


 私は通知書を机へ置きました。


「課長」


「何でしょう」


「これ、訴訟について何も書いてありませんね」


 沢渡課長が通知を見る。


「そうですね」


「誰を被告にするか」


「ありません」


「出訴期間」


「ありません」


「不服申立てを先にしなければならない特別な制度かどうか」


「この件については、そのような記載はしていません」


「教えなくていいんですか」


 沢渡課長が私を見ました。


 わずかに。


 目が細くなる。


「現行法上、何の規定を根拠におっしゃっていますか」


「……」


 く。


 分かってて聞いてる。


 絶対分かってて聞いてる。


「朝比奈」


 相馬先輩が小声で言います。


「殴るなよ」


「殴りません」


「顔に出てる」


「制度改正への怒りです」


 私は沢渡課長を見ました。


「今の行政事件訴訟法には、一般的な教示義務の規定はない」


「はい」


「だから、この通知に裁判の案内がなくても、それだけで違法とは言えない」


「その理解です」


「……感じ悪いですね」


「感想には回答いたしかねます」


 強い。


 でも。


 ここで終わったら、


 ただ昔の法律は不親切でした、で終わります。


 片桐所長が前へ出ました。


「課長」


「はい」


「大崎さんが通知を受け取ったのは六月二十四日だ」


 沢渡課長の表情が変わりません。


 でも。


 視線だけが一瞬、卓上カレンダーへ行きました。


 やっぱり。


 分かってる。


「出訴期間が近い」


「そうでしょうね」


「このまま弁護士へ回す」


「どうぞ」


「処分理由の資料も整理する」


「それもご自由に」


「湖畔観光振興計画のどの箇所が、大崎さんの営業を今すぐ排除する根拠になっているか確認したい」


「行政内部資料については、開示できる範囲があります」


「来月までに撤去させる必要性は」


「施設再編の日程に基づいています」


「工事着手日は」


 少し。


 間がありました。


「十一月予定です」


「撤去期限は十月一日だ」


「準備期間です」


「他の施設撤去は」


「段階的に行います」


「大崎さんだけ先行する理由は」


「貸しボート設備が湖面側にあるためです」


 所長は黙って聞いています。


 相馬先輩が一枚の紙を出しました。


「これ」


「何でしょう」


「観光協会からもらった再編図」


 沢渡課長の目が止まる。


「大崎さんの受付小屋」


 相馬先輩が指差します。


「第一期工事区域から外れてる」


「……」


「湖面側の桟橋も、今年度は工事しない」


「計画は変更されることがあります」


「変更した資料は?」


 沈黙。


 おお。


 空気が。


 乾いてきました。


「課長」


 私は言いました。


「私たちは裁判の代理はできません」


「承知しています」


「でも、弁護士の先生に渡す材料はまとめられます」


「ええ」


「処分性。原告適格。訴えの利益。出訴期間。被告。処分理由。裁量の判断過程」


 沢渡課長の指が止まります。


「大崎さんは、もう『裁判にしてやる』だけじゃありません」


 私は一枚ずつ資料を置きました。


「処分を知った日も確定しました」


 一枚。


「営業が現在も続いていて、取消しによって具体的な不利益が生じることも整理しました」


 一枚。


「撤去期限もあります」


 一枚。


「弁護士の先生にも、今日中に資料を見てもらいます」


 一枚。


「そして市の再編図では、大崎さんの施設は少なくとも第一期工事区域外です」


 一枚。


 沢渡課長は、それを見下ろしました。


「朝比奈さん」


「はい」


「ずいぶん準備しましたね」


「入口で追い返されたくないので」


「なるほど」


「課長が言ったんでしょう」


「何をです」


「訴訟要件は満たしていますか、って」


 沢渡課長が初めて。


 ほんの少しだけ、


 困ったような顔をしました。


「私はそこまで言っていません」


「言いそうだから先回りしました」


「それは私の責任でしょうか」


「たぶん違います」


「でしょうね」


 でも。


 私たちはもう分かっています。


 この人は、


 大声では動かない。


 可哀想でも動かない。


 怒鳴っても動かない。


 動くとしたら。


 役所側の敗訴リスクが、


 数字と論点の形になったときです。


 片桐所長が言いました。


「課長」


「はい」


「ひとつ提案する」


「何でしょう」


「撤去期限を一か月延ばせ」


「理由は」


「市側で処分理由と工事工程を再確認するためだ」


「必要はないと考えています」


「なら予定どおり弁護士へ渡す」


「それは構いません」


「執行停止も検討してもらう」


 沢渡課長の視線が動きました。


 この時代。


 現代みたいに、


 義務付け訴訟。


 差止訴訟。


 仮の義務付け。


 仮の差止め。


 そんな整った道具箱はありません。


 法定された抗告訴訟の類型は狭い。


 仮の救済として頼れる中心は執行停止。


 昔の行政訴訟は、


 本当に手札が少ない。


 それでも。


 少ないなら、


 一枚ずつ使うしかない。


「仮に」


 所長が続けました。


「工事工程と処分理由の対応が説明できず、しかも処分によって営業継続が困難になるなら、市としても訴訟対応の負担は軽くないはずだ」


「脅しですか」


「確認だ」


「何の」


「合理性の」


 沢渡課長が黙ります。


 長い。


 十秒くらい。


 役所の十秒は、


 民間の一分くらい長く感じます。


「……観光課に確認します」


 ようやく。


 沢渡課長が言いました。


「今日中に」


「お願いします」


「ただし」


 私を見る。


「処分を撤回するという意味ではありません」


「分かってます」


「撤去期限を変更するとも申し上げていません」


「はい」


「それから」


「まだあります?」


「朝比奈さん」


「はい」


「行政事件訴訟は、役所と喧嘩をする制度ではありません」


 私は瞬きしました。


「それ、私に言います?」


「あなたが一番喧嘩腰なので」


「心外です」


 相馬先輩が横で咳払いしました。


 絶対笑っています。


 事務所へ戻って一時間後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


「早いですね」


『観光課と確認しました』


「はい」


『第一期工事区域について、先生方がお持ちの図面が現行のものです』


 私は受話器を握り直しました。


「じゃあ大崎さんの場所は」


『第一期区域外です』


「……はい」


『ただし、湖畔施設全体の再編対象であることに変わりはありません』


「でも、十月一日までに撤去させる必要は?」


 間。


『その点については、再検討します』


 来た。


「再検討」


『言葉を繰り返さなくて結構です』


「好きな言葉なので」


『初めて聞きました』


「今日からです」


 受話器の向こうで、小さなため息。


『撤去期限については、当面十二月末まで延期する方向で調整します』


「三か月?」


『はい』


「処分そのものは?」


『取消処分自体の扱いも含めて、法務担当と確認します』


「分かりました」


『それと』


「はい」


『大崎さんには、こちらからも説明します』


「裁判のことも?」


 沈黙。


 私はちょっと意地悪だったかもしれません。


『現行法上、行政事件訴訟に関する一般的な教示義務がないことは先ほど確認したとおりです』


「そうですね」


『ですが』


「はい」


『それと、住民に分かりやすく説明しなくてもよいという話は別でしょう』


 私は少し黙りました。


 この人。


 本当に。


 敵として完成度が高すぎる。


「課長」


『何でしょう』


「それ、最初からやってください」


『検討します』


「便利ですね、その言葉」


『行政用語として優秀です』


 電話が切れました。


 三日後。


 大崎さんが事務所へ来ました。


「十二月まで?」


「はい」


「小屋、置いてていいのか」


「少なくとも撤去期限は延期する方向です」


「裁判は?」


「そこは久世先生と相談です」


 片桐所長が答えました。


「出訴期間の問題がある。市が見直すと言っているからといって、こちらが勝手に安心するわけにはいかない」


「じゃあまだ準備するのか」


「します」


「役所が考え直すって言ってるのに?」


「それと期間管理は別です」


 私は頷きます。


 これ。


 今日いちばん大事かもしれません。


 行政と話し合っている。


 再検討してくれている。


 担当者が上司に相談している。


 もう少し待ってくださいと言われた。


 そういう言葉は、


 生活の現場では希望になります。


 でも。


 訴訟の時計まで止めてくれるとは限らない。


「大崎さん」


 私は言いました。


「役所との話し合いが続いてても、裁判の締切は別に考えないといけません」


「厳しいな」


「はい」


「紙に書いてありゃ、まだ分かったんだけどな」


「……そうですね」


 私は通知書を見ました。


 真っ白な余白。


 たった数行。


 そこに。


 誰を相手にするか。


 いつまでに訴えるか。


 そんな案内があったら。


 大崎さんは六月のうちに誰かへ相談したかもしれない。


 少なくとも。


 九月になってから、


 あと十日。


 なんてことにはならなかったかもしれない。


 私は知っています。


 未来では。


 その反省が制度になります。


 行政事件訴訟をもっと使いやすくするために、


 平成十六年改正で教示制度が新しく入る。


 処分や裁決をした行政庁が、


 原則として書面で、


 取消訴訟の被告。


 出訴期間。


 必要な場合には不服申立てを先に経るべきこと。


 そういう入口の情報を相手方へ伝える。


 未来の受験生だった私は、


 それをただ暗記していました。


 ①被告。


 ②出訴期間。


 ③不服申立て前置。


 三つ覚える。


 はい次。


 そんな感じです。


 でも。


 今は違う。


 なぜ教える必要があるのか。


 分かった気がします。


 知らない人を、


 知らないまま締切の外へ出さないためだ。


 入口を知っている人だけが裁判できる制度にしないためだ。


 法律の進歩って。


 もっと格好いいものだと思っていました。


 新しい権利。


 新しい訴訟。


 大きな判例。


 でも実際には。


 「誰を訴えればいいです」


 「いつまでです」


 そんな案内を紙に書くことも、


 立派な進歩なのかもしれない。


「朝比奈さん」


 大崎さんが言いました。


「ん?」


「最初にあんたに相談してりゃ良かったな」


「私ですか」


「ああ」


「いや、私も最初、六か月あると思いかけました」


「おい」


 相馬先輩が睨みます。


「余計なこと言うな」


「事実です」


「お前に相談してたら危なかったじゃねえか」


「最終的には気づきました!」


「所長に止められてな」


「結果オーライです!」


「実務で一番言っちゃいけねえ言葉だぞ」


 ぐう。


 それはそう。


 大崎さんが笑いました。


 初めて。


 声を出して笑いました。


「じゃあ、ここに来て良かったってことにしとくよ」


「そうしてください」


「十二月まで商売できりゃ、秋の観光客は迎えられる」


「はい」


「その間に次の場所も考える」


「はい」


「役所が処分自体を見直すなら、それも待つ」


 そこで。


 片桐所長が首を横に振りました。


「待つだけは駄目です」


「え?」


「期限は管理する」


「……ああ」


「待つなら、時計を見ながら待つ」


 静かな言葉でした。


 私は。


 その一言を、頭の中で何度も繰り返しました。


 待つなら。


 時計を見ながら待つ。


 夕方。


 大崎さんが帰ったあと。


 私は通知書の写しを机に置いていました。


「先輩」


「何だ」


「教示って、地味ですね」


「急に何だ」


「だって」


 私は余白を指差します。


「ここに数行増えるだけでしょう」


「まあな」


「被告は誰です」


「うん」


「何か月以内です」


「うん」


「不服申立てを先にしなきゃいけないなら、その旨」


「うん」


「地味すぎる」


「で?」


「でも」


 私はペンを回しました。


「大崎さんにとっては、その数行があったかどうかで、全然違った」


 相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。


「法律なんてそんなもんだろ」


「そんなもん?」


「困る前は細かい」


「……はい」


「困ったあとで見ると命綱だ」


 私は黙りました。


 今日の教訓。


 もう出ています。


 教示は、


 役所からの親切な注意書きじゃない。


 裁判への入口を、


 知っている人だけのものにしないための道標。


 そして。


 昭和六十三年の今、


 その道標はまだない。


 だから。


 こちらで探す。


 処分を知った日はいつか。


 何の訴訟なのか。


 誰が原告になれるのか。


 誰を被告にするのか。


 期間は残っているか。


 不服申立てを先にしなければならないのか。


 裁判所はどこか。


 一つずつ。


 冷たく。


 正確に。


 人の怒りを、


 訴訟要件という形に直していく。


 それが。


 法廷に立てない行政書士にもできる、


 裁判の入口での仕事なのだと思います。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今日の日報」


「はい」


「大崎さんの件、何て書く」


 私は少し考えました。


「『湖畔施設使用許可取消処分に関する相談』」


「普通だな」


「じゃあ、『知らされなかった三か月との戦い』」


「却下」


「早い」


「日報だ」


「文学性を」


「要らん」


「冷たい!」


 相馬先輩が笑います。


「不服があるなら裁判でもしろ」


「やめてください、その言い方!」


「期間は?」


 私は即答しました。


「三か月!」


「被告は?」


「湖西市長!」


「よし」


「急に試験始めないでください」


 でも。


 答えながら思いました。


 昨日までなら、


 三か月。


 行政庁。


 ただの暗記でした。


 今日はもう違う。


 三か月には、


 大崎さんの六月二十四日がある。


 被告適格には、


 「市じゃなくて市長」と赤字で直した紙がある。


 教示には、


 何も書かれていなかった通知の余白がある。


 法律の言葉は。


 やっぱり冷たいです。


 出訴期間。


 被告適格。


 処分庁。


 教示。


 知らない人には、


 閉じた扉に貼られた難しい札みたいに見える。


 でも。


 その札の読み方を知らないせいで、


 扉そのものを失う人がいる。


 だから未来では、


 行政の側にも、


 入口を示す役目が課される。


 そう考えると。


 教示という制度は、


 法律の優しさというより。


 法律が昔より少しだけ、


 自分の冷たさを自覚した結果なのかもしれません。


「先輩」


「何だ」


「未来の行政事件訴訟法、ちょっとだけ偉いですね」


「また未来か」


「入口に案内板を立てるようになります」


「へえ」


「被告と、期間と、場合によっては不服申立て前置」


「親切だな」


「はい」


「で、お前は今日その未来の期間を答えかけた」


「……」


「六か月って」


「忘れてください」


「日報に書いとくか」


「やめて!」


 片桐所長が帳簿を閉じます。


「書いておけ」


「所長まで!」


「何を間違えたかは残せ」


「未来知識との混同です!」


「なら、そう書け」


「日報に『未来知識との混同』って書いたら、私の身元が別の意味で危なくなります!」


 相馬先輩が吹き出しました。


 窓の外。


 湖の方角へ沈んでいく夕日が、


 事務所の床を細長く照らしていました。


 大崎さんに残っていたのは、


 たった十日。


 知らなかった三か月は、


 戻りません。


 それでも。


 十日残っていた。


 十日あれば、


 資料を集められる。


 弁護士へつなげられる。


 市役所にも、


 こちらが入口を越える準備をしていると示せる。


 そして。


 閉まりかけた扉に、


 足を一本だけ差し込める。


 法律は、


 道を知らなかったことを、


 いつも許してくれるわけではありません。


 だからこそ。


 教える仕組みが要る。


 そして。


 まだ教える仕組みがない時代なら。


 私たちが、


 先に道を探すしかない。


 私はノートの端に、小さく書きました。


 ――裁判の入口は、勝ち負けより先に確認する。


 そしてその下に。


 ――道案内がなくても、時計は止まらない。


 今度こそ。


 絶対に忘れないと思います。

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