[取消訴訟の判決の種類と効力]現場編 「違法なら、裁判所が全部元に戻してくれる」の罠。建ち始めたホテルと事情判決、そして“勝った後”まで読む行政書士
裁判で勝てば、全部元に戻る。
そう思いたくなる気持ちは、よく分かります。
違法だった。
だから取り消す。
あとは昔どおり。
――法律が、そんなに素直なら。
たぶん裁判所には、もう少し笑顔が多いと思います。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
朝九時十二分。
「裁判にしてやる!」
玄関の引き戸が開くなり、その人は言いました。
まだ名前も聞いていません。
お茶も出していません。
椅子にも座っていません。
なのに裁判だけは始まっています。
行政事件、展開が早い。
「まず座ってください」
「座ってる場合じゃないんですよ!」
「座らないと話が聞けません」
「あ……はい」
座りました。
素直な人でした。
相談者は、
原田徳次さん、五十八歳。
駅から湖へ向かう古い商店通りで、時計店を営んでいます。
原田時計店。
木造二階建て。
道路に面したガラスケースには、腕時計と目覚まし時計。
奥には大きな振り子時計が一台。
その店の裏手で今、大きな工事が始まろうとしていました。
「八階建てですよ!」
原田さんが机を叩きます。
「八階!」
「聞こえてます」
「この町で八階ですよ!」
「数字は増えてません」
「朝比奈」
相馬先輩が横から睨みました。
「はい」
「煽るな」
「煽ってません」
問題の建物は、
湖西観光開発株式会社が計画する八階建てのホテル。
駅前再整備と観光振興に合わせた大型事業でした。
一階に土産物店。
二階に宴会場。
三階以上が客室。
屋上には展望ラウンジ。
市としても、
観光客を呼び込みたい。
税収も欲しい。
駅前再整備の目玉も欲しい。
どう見ても歓迎案件です。
ただし。
近隣住民にとっては話が違います。
「うちは真裏なんです」
原田さんが持ってきた地図を広げました。
「ここ」
私は鉛筆で場所を確認します。
原田時計店。
その南側。
細い市道一本を挟んでホテル予定地。
「近いですね」
「近いどころじゃない。裏の窓から建物しか見えなくなる」
「日照ですか」
「それもある。風も抜けなくなる。工事車両も毎日通る」
「ほかの住民は?」
「反対してますよ。署名も集めた」
原田さんは封筒から何枚もの紙を出しました。
住民署名。
市への要望書。
建築計画の概要。
そして一番下。
一枚の写し。
建築確認通知書。
「これを取ったんですね」
「そうです」
建築主事による建築確認。
つまり、
ホテル側は、建築基準関係法令への適合を確認され、工事へ進もうとしている。
「でも、おかしいんですよ」
原田さんが言いました。
「何がです?」
「道路です」
「道路?」
「ホテルの正面の道ですよ」
地図を見る。
確かに狭い。
「幅員が足りないって話ですか」
「それだけじゃない」
原田さんは別の資料を出しました。
昔の公図。
道路台帳の写し。
現況写真。
「この部分」
指を置く。
「市は道路として扱ってる。でも昔から私有地が入り込んでるんです」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「誰の土地だ」
「三軒の共有です」
「境界は?」
「揉めてます」
「最悪だな」
先輩。
相談者の前です。
でも私も心の中で同じことを思いました。
道路幅員。
接道。
敷地。
建築確認。
しかもホテル。
揉める要素が豪華客船です。
「市には言ったんですか」
「言いましたよ!」
「何て?」
「建築指導課は『確認済みです』」
「それだけ?」
「『問題ありません』」
出ました。
行政事件四天王の一人。
――確認済みです。
行政の側から見ると、
確認した。
処分した。
手続は終わった。
だから次へ進む。
でも住民側から見ると、
こっちは今から困るんですけど。
ということになる。
「それで裁判に?」
「そうです」
原田さんは腕を組みました。
「建築確認を取り消してもらえばいいんでしょう」
「まあ……」
私は答えかけました。
取消訴訟。
行政庁の処分を、
違法だとして取り消してもらう訴訟。
建築確認が処分。
それを取り消す。
ここまでは分かる。
そして私の脳内には、
現代の行政事件訴訟法が勝手に立ち上がりました。
差止め。
義務付け。
取消訴訟。
仮の救済。
六か月。
自治体を被告に――
待て。
待て待て待て。
私は両手でこめかみを押さえました。
「どうした」
相馬先輩が聞きました。
「時代が」
「何だ?」
「いえ。頭痛です」
ここは昭和六十三年。
平成十六年改正前。
差止訴訟は法定されていません。
義務付け訴訟もありません。
仮の救済として現在のような仮の義務付け、仮の差止めもない。
基本的に頼れるのは執行停止。
しかも被告適格も今とは違う。
現代なら国や公共団体を被告とする。
でもこの時代は、
処分をした行政庁。
今回なら建築確認をした建築主事。
そして。
出訴期間。
現代の六か月じゃない。
三か月。
未来知識を握りしめて昭和の行政裁判へ突っ込んだら、入口で死ねます。
「工事はいつからです?」
片桐所長が聞きました。
「来週です」
「来週?」
私は思わず大きな声を出しました。
「はい」
「基礎工事?」
「杭を打つって」
まずい。
裁判というのは、判決まで時間がかかる。
その間に建物は進む。
取消訴訟を起こしたからといって、
処分の効力や手続が自動的に止まるわけではない。
「訴えれば工事は止まると思っていますか」
所長が聞きました。
原田さんは当然のように頷きました。
「裁判してるんですよ?」
出ました。
一般人の感覚としては、ものすごく自然です。
揉めてる。
裁判中。
なら保留。
ところが行政事件訴訟は、そんな親切設計ではありません。
「止まりません」
所長が言いました。
「え?」
「取消訴訟を起こしただけでは、処分の効力は止まりません」
「じゃあ何のための裁判なんです!」
「だから止めるための手続を別に検討する」
相馬先輩が言いました。
「執行停止だ」
「しっこうていし?」
「ただし簡単じゃねえ」
「……じゃあホテルが建っちゃうじゃないですか」
「その可能性はある」
原田さんの顔から、怒りが少し引きました。
代わりに。
不安が入ってきました。
「待ってください」
私は言いました。
「まず順番に整理しましょう」
「でも来週から工事ですよ」
「だからこそです」
焦る。
その気持ちは分かります。
でも行政裁判で焦ると、
訴訟要件を落とす。
訴訟要件を落とすと、
違法かどうか以前に終わる。
「原田さん」
私は紙を一枚取りました。
「裁判所が出す判決って、全部『勝ち』『負け』だけじゃないんです」
「どういうことです?」
私は三本線を引きました。
却下。
認容。
棄却。
「まず却下」
「却下?」
「入口の条件を満たしてなくて、中身を見てもらえない」
「そんなのあるんですか」
「あります」
処分性。
原告適格。
訴えの利益。
出訴期間。
管轄。
被告適格。
その他。
一個でも致命的な問題があれば、
中身の違法性へ行く前に終わる。
「裁判所が、『建築確認が違法だったか』を見てくれないこともあります」
「それじゃ門前払いじゃないですか」
「そのとおりです」
相馬先輩が言いました。
「だから言ってんだ。裁判なんて負け戦だ」
「先輩」
「何だ」
「相談者の前です」
「だがやるなら要件を揃えろ」
出ました。
先輩の口癖。
「勝てるかどうか考える前に、裁判所の中に入れるか考える」
相馬先輩は地図を指しました。
「原田さん。あんたの店は建設予定地から何メートルだ」
「二十メートルあるかないかです」
「日影は?」
「冬は昼過ぎからかかるって聞いてます」
「用途地域は」
「商業地域です」
「反対署名じゃなくて、具体的にあんた自身が何の不利益を受けるか整理する」
「私自身?」
「裁判ってのは、『町のみんなが嫌がってる』だけじゃ弱え」
私は頷きました。
原告適格。
その処分の取消しを求める法律上の利益があるのか。
取消訴訟の入口。
ここで落とされたら、
建築確認が本当に違法でも審理されない。
「次」
私は二つ目を指しました。
「認容判決」
「これは?」
「原告の言い分に理由がある。処分が違法だから取り消す」
「それですよ!」
原田さんが身を乗り出しました。
「それを取ればいい!」
「取れれば、です」
相馬先輩が冷たい水をかけます。
「だからそれを取ればホテルは終わりでしょう」
「そこも」
片桐所長が言いました。
「単純ではない」
原田さんが固まりました。
「建築確認の取消判決が確定すれば、その建築確認は効力を失う」
「じゃあ終わりじゃないですか」
「確認を受けた会社にも影響する」
「当たり前でしょう」
「だが」
所長は続けました。
「裁判が終わるまでに、工事がどこまで進む」
部屋が静かになりました。
そこ。
今回、一番嫌なところです。
「……建っちゃったら?」
原田さんが聞きました。
誰もすぐには答えませんでした。
私は教材の文字を思い出していました。
事情判決。
処分が違法。
普通なら取り消す。
しかし。
取り消すことで公の利益に著しい障害を生じる場合。
諸事情を考慮して、
処分を取り消さず、
請求を棄却することができる。
ただし。
主文で処分が違法であることを宣言する。
勉強していたとき。
私は正直、
何ですかそれ。
と思いました。
違法なんですよね。
なのに取り消さない?
それ裁判に勝ったのか負けたのかどっちですか。
でも今。
来週から杭を打つ八階建てホテルを前にすると。
嫌なくらい意味が分かります。
「事情判決っていうものがあります」
私が言いました。
「じじょう?」
「はい」
「事情があれば市が勝つんですか」
「正確には違います」
私は少し言葉を選びました。
「裁判所が、処分は違法だった、と判断しても」
原田さんの目が細くなる。
「でも、その処分を今さら取り消すことで、公の利益に著しい支障が出る」
「……はい」
「そういう場合には、取り消さずに請求を棄却することがあるんです」
「ちょっと待ってください」
原田さんが手を上げました。
「違法なんでしょう?」
「はい」
「こっちの言ってることが正しかったんでしょう?」
「はい」
「なのに取消してくれない?」
「あり得ます」
原田さんは天井を見ました。
しばらく戻ってきませんでした。
「法律って」
やっと言いました。
「ひどくないですか」
その言葉に。
私はすぐ反論できませんでした。
「そう見えることはあります」
片桐所長が言いました。
原田さんが所長を見る。
「だが」
所長は静かに続けました。
「だから、判決が出るまで待っていればいい、という話でもない」
私ははっとしました。
「今やるんですね」
「そうだ」
行政書士は訴訟代理人にはなれない。
裁判所へ行って原田さんの代わりに争うこともできない。
でも。
弁護士へ渡す前に、
事実を固める。
訴訟要件を整理する。
工事が進む前に争点を絞る。
市役所へ、
本当にこのまま工事を進めていいのか。
取消訴訟になったとき、
処分を維持できるのか。
そのリスクを突きつけることはできる。
「市役所へ行きましょう」
私が言いました。
相馬先輩が立ち上がります。
「その前に」
地図を畳みました。
「道路だ」
「はい」
「道路台帳、公図、現況幅員、確認申請時の配置図」
「集めます」
「あと原田さん」
「はい」
「工事始まるまで、現場の写真を毎日撮れ」
「毎日?」
「日付入りでな」
「そんなに必要ですか」
「裁判は記憶でやらねえ」
先輩。
今日も口は悪いですが、言っていることは強い。
午後三時。
市役所。
建築指導課の会議室。
私たちの向かいに座ったのは、
建築指導課の担当者二人。
そして。
「また来ましたね」
沢渡課長。
「こっちの台詞です」
私は言いました。
「私はここで働いているんですが」
「そうでした」
「朝比奈」
相馬先輩が止めます。
「はい」
沢渡課長の前に、
資料を並べました。
建築確認。
道路台帳。
公図。
測量図。
現況写真。
ホテル配置図。
「この接道部分です」
相馬先輩が言いました。
「現況と台帳が合ってない」
建築指導課の担当者が資料を見ます。
「市としては道路として取り扱っています」
「根拠は」
「従前から道路として使用されていること、台帳上の取扱い、それから――」
「所有関係は」
「確認手続において、所有権の確定そのものを行うわけではありません」
それはそう。
建築確認は、
土地の所有権紛争を全部解決する制度ではない。
でも問題は、
確認の前提となった道路条件が本当に満たされているのか。
そこです。
「現況幅員」
私は言いました。
「一番狭いところで三・六メートルですよね」
「測定方法によります」
「確認申請書では四メートル確保されている扱いです」
「後退部分を含めています」
「その後退部分について、権利者との整理が済んでいない」
担当者の顔が少し硬くなりました。
沢渡課長が口を開きます。
「朝比奈さん」
「はい」
「行政庁の処分に疑問があるからといって、直ちに取消訴訟が認容されるわけではありませんよ」
「分かってます」
「原告適格」
「整理します」
「出訴期間」
「確認します」
「被告」
「建築主事ですね。この時代は」
一瞬。
沢渡課長が黙りました。
「……最近は少し学びましたね」
「最近?」
「前は六か月ある顔をしていました」
「顔で期間を判断しないでください」
危なかったことを覚えている。
この人、嫌なところだけ記憶力がいい。
「それに」
沢渡課長は続けました。
「仮に訴訟になっても、訴えが適法でなければ却下です」
「ええ」
「適法でも、処分が適法なら棄却」
「ええ」
「行政庁が違法だと主張するだけで、行政が止まるわけではありません」
「それも分かってます」
「なら」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「どうぞご自由に」
来た。
この人の必殺技です。
――どうぞご自由に。
自由という言葉なのに、
なぜこんなに門が重く閉まるのか。
「ただし訴訟要件は満たしていますか?」
追撃まで来ました。
でも。
今日はその一言を聞きに来たわけではありません。
「課長」
私は言いました。
「逆に聞いていいですか」
「どうぞ」
「もし取消判決が出たら」
沢渡課長の目が止まります。
「何でしょう」
「市は、『じゃあ同じ理由でもう一回、同じ建築確認を出します』ってできます?」
担当者の一人がこちらを見ました。
沢渡課長は答えません。
「取消判決が確定したら」
私は続けます。
「取り消された処分は効力を失いますよね」
「ええ」
「しかも、関係する行政庁はその判決に拘束される」
「ええ」
「同じ事情で、同じ理由、同じ内容の処分を繰り返すことはできない」
「……原則としては」
「つまり」
私は机のホテル配置図を指しました。
「この接道判断に違法があるって裁判所に言われたら、同じ図面を見て『いや、やっぱり大丈夫です』とは簡単に戻せない」
沢渡課長の表情が。
ほんの少しだけ変わりました。
そう。
裁判は、
判決を一枚もらって終わる話じゃない。
取消判決には、
その後を縛る力がある。
私はまだ、
既判力。
形成力。
拘束力。
それぞれを頭の中で完全にきれいに分けられてはいません。
でも、
現場で何が怖いのかは見えてきました。
裁判で違法と判断され、
取消しが確定したら。
行政は、
はい一回負けました。
次は同じことをします。
では済まない。
「それと」
相馬先輩が言いました。
「ホテル会社」
「何ですか」
「取消判決が出たら、役所と原田さんだけの話じゃ済まねえだろ」
沢渡課長の指が止まりました。
そのとおり。
建築確認を受けたのはホテル会社。
取消訴訟の当事者ではなくても、
建築確認が取り消されれば、
ホテル会社にも影響が及ぶ。
取消判決の効力は、
当事者だけの箱の中には閉じ込められない。
「第三者にも及ぶ」
私は言いました。
「建築確認を受けた会社にも」
「取消判決には第三者効がありますからね」
沢渡課長が静かに答えました。
「つまり」
私は続けました。
「市が今、疑義を放置して工事を進めれば進めるほど」
一呼吸。
「後で取消判決が出たときの影響も大きくなる」
部屋が静かになりました。
建築指導課の担当者二人が互いを見ます。
沢渡課長は、ホテル配置図を見ました。
「一方で」
彼が言います。
「工事が進み、公共的な影響が大きくなれば、事情判決という問題も出てくる」
「はい」
その言葉を。
市役所側から出してきた。
「事情判決になれば、処分が違法でも取消しをしないことがあり得る」
「そうですね」
「なら市は困らないでしょう」
沢渡課長が私を見る。
挑発です。
たぶん。
私は少し考えてから答えました。
「困ると思います」
「なぜです?」
「事情判決でも、違法だったことは主文で宣言されるからです」
一瞬。
相馬先輩がこちらを見ました。
「違法だけど、公共の利益のため取り消さない」
私は言いました。
「市にとって、それは勝ちですか?」
沢渡課長は黙ります。
「駅前再整備の目玉ホテルです」
私は続けました。
「建築確認が違法だったって判決に書かれる」
「……」
「しかも、工事が進みすぎたから今さら取り消せない、と」
「……」
「それ、行政としてかなりまずくないですか」
建築指導課の担当者が咳払いしました。
沢渡課長は私ではなく、担当者へ視線を移します。
「確認時の道路判定資料」
「はい」
「全部、出せますか」
「え?」
「内部で再点検します」
空気が変わりました。
相馬先輩は何も言いません。
片桐所長も黙っています。
でも。
分かりました。
反転した。
「ホテル会社にも」
沢渡課長が続けます。
「着工工程について確認します」
「止めるんですか」
私は聞きました。
「そこまでは言っていません」
「ですよね」
「ただ」
沢渡課長は資料を閉じました。
「争いが現実化している以上、確認処分の前提資料を点検せず工事を急がせるのは合理的ではない」
合理的。
この人らしい言葉です。
「原田さんには」
片桐所長が初めて口を開きました。
「弁護士を紹介する」
「訴訟ですか」
「必要なら」
「市としては止めません」
沢渡課長が言います。
「知っています」
「ただし」
また来ます。
「取消訴訟を提起したからといって、勝てるとは限りません」
「それも知っています」
「却下もある」
「知っています」
「棄却もある」
「知っています」
「事情判決も」
「それも」
私は少し笑いました。
「今日覚えました」
「現場で覚える内容ではないと思いますが」
「私もそう思います」
事務所に戻る途中。
相馬先輩が歩きながら言いました。
「お前」
「はい」
「事情判決のところは悪くなかった」
「褒めました?」
「事実を言っただけだ」
「褒めましたよね」
「うるせえ」
私は少し嬉しくなりました。
「でも」
すぐに気になることがあります。
「何だ」
「事情判決って、変ですよね」
「何が」
「違法なのに取り消さない」
「法律がいつも白黒で終わると思うな」
「でも原告からしたら」
私は言いました。
「『あなたが正しいです。でも処分は残します』ですよ」
「そうだな」
「きつい」
「だから、そうならねえように早く動くことも仕事だ」
私は足を止めかけました。
なるほど。
事情判決は、
判決の知識として覚えるだけじゃない。
行政事件では、
時間が結果を変える。
工事が進む。
人が動く。
第三者が契約する。
施設ができる。
生活が変わる。
違法な処分を取り消したくても、
もう社会の側が先へ進みすぎている。
だから。
早く争う。
証拠を残す。
仮の救済を検討する。
行政にも早く問題を突きつける。
時間そのものが、訴訟戦略になる。
現代の受験テキストで、
事情判決。
公の利益に著しい障害。
と丸暗記していたころには、全然分からなかった。
八階建てホテルが杭を打ち始める。
それだけで、
条文に急に重量が出ます。
三日後。
原田さんが事務所へ来ました。
「工事」
私は立ち上がりました。
「どうなりました?」
「止まってます」
「え?」
「正式な工事中止じゃないですよ」
原田さんは慌てて付け足しました。
「ホテル会社が、杭打ちを一週間延ばしたそうです」
相馬先輩が顔を上げました。
「市の点検待ちか」
「そう聞きました」
「市から連絡は?」
「道路の扱いを再確認するって」
「よし」
私は思わず拳を握りました。
でも所長が言います。
「まだ何も勝っていない」
「はい」
一瞬で冷静になります。
行政法、
喜びの制御までしてきます。
「弁護士の先生にも相談してきました」
原田さんが続けました。
「何て?」
「取消訴訟を起こすなら、原告適格とか期間とか、まず入口を詰めるって」
「ですよね」
「それで」
原田さんが少し笑いました。
「裁判にしてやる、って言ったら怒られました」
相馬先輩が鼻で笑います。
「まともな先生だ」
「『裁判は怒りを出すところじゃなくて、事実と法律を出すところです』って」
「それは名言ですね」
「朝比奈」
「はい」
「お前も覚えとけ」
「はい」
確かに。
私はすぐ熱くなるので。
「でも先生が言ってました」
原田さんの表情が少し変わりました。
「片桐事務所でここまで資料を揃えてくれてるなら助かるって」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「そりゃそうだ」
「先輩、ちょっと嬉しそうですね」
「気のせいだ」
「絶対嬉しい」
片桐所長は何も言わず、
原田さんから新しい資料を受け取りました。
「市は何を再確認すると」
「道路の指定経緯と、確認時の幅員算定だそうです」
「分かった」
その日の夕方。
市役所から電話がありました。
相馬先輩が取ります。
「はい。……ああ。……そうか」
切る。
「どうでした?」
「建築確認」
「はい」
「一回、ホテル会社側に計画変更を求めるそうだ」
「え?」
「道路側の敷地利用を見直す」
「つまり?」
「現状の図面のまま突っ込むのをやめた」
私は立ち上がりました。
「処分を取り消すんですか?」
「そこまではまだだ」
「じゃあ」
「ホテル会社が変更申請を検討する」
つまり。
裁判で取消判決を取ったわけではない。
取消訴訟すら、まだ起こしていない。
でも。
取消訴訟になった場合のリスク。
却下ではなく本案まで入られる可能性。
違法判断を受ける可能性。
取消判決が確定すれば、
建築確認そのものが効力を失う。
第三者であるホテル会社にも影響する。
行政庁は判決に拘束される。
そして工事が進みすぎれば、
今度は事情判決という最悪に後味の悪い話まで出てくる。
そこまで見たから。
市役所が、
裁判になる前に一度戻した。
「裁判って」
私は呟きました。
「判決を取るためだけのカードじゃないんですね」
片桐所長がこちらを見ました。
「どういう意味だ」
「判決が出たら何が起きるかを、相手に想像させることにも意味がある」
所長が小さく頷きました。
「そうだ」
行政書士は裁判を代理できない。
法廷で戦えない。
判決を書く裁判官でもない。
でも。
この処分を争ったら、
入口で何が問題になるのか。
本案で何が争点になるのか。
認容されたら何が消えるのか。
誰にまで影響するのか。
行政庁は次に何をしなければならないのか。
そこまで整理して、
弁護士へ渡す。
行政へ示す。
それだけで、
現場が動くことがある。
数日後。
原田さんと一緒に現場を見に行きました。
ホテル予定地には、
杭打ち機が止まったまま置かれています。
巨大です。
「これが動き始めたら」
私は見上げました。
「早いですよね」
「建物はな」
相馬先輩が言います。
「裁判より?」
「たいていな」
嫌な答え。
でも本当なのでしょう。
向かいの原田時計店。
古い看板。
ガラス越しにたくさんの時計。
カチ。
カチ。
カチ。
それぞれ少しずつ違う音で動いています。
「変な感じですね」
私は言いました。
「何が」
「今日のテーマ、時間ばっかり」
「行政事件はだいたい時間に追われるだろ」
「出訴期間もあるし」
「工事も進む」
「判決が出るまでにも時間がかかる」
「そうだ」
「それで進みすぎると、事情判決まで出てくる」
相馬先輩が私を見ました。
「少し分かってきたじゃねえか」
私は原田時計店の振り子時計を見ました。
カチ。
カチ。
カチ。
法律の時間と、
現実の時間は、
同じ速さでは進んでくれない。
裁判所が違法かどうかを考えている間にも、
杭は打たれる。
鉄骨は立つ。
契約は増える。
人は働く。
客室の予約だって始まるかもしれない。
だから。
取消訴訟で本当に怖いのは、
勝てるか負けるかだけじゃない。
裁判所へ入れるのか。
入って勝ったら何が起こるのか。
勝っても取り消されない場合があるのか。
その判決は誰を縛るのか。
行政は次に何をしなければならないのか。
そこまで読まなければならない。
「朝比奈さん」
原田さんが店の中から出てきました。
「これ」
手には、小さな目覚まし時計。
「え?」
「古いやつだけど、まだ動くから」
「いやいや、もらえませんよ」
「売り物じゃないんです」
「でも」
「朝、弱いでしょう」
なぜ知っている。
私は相馬先輩を見ました。
「何で見ますか」
「先輩、喋りました?」
「事務所来る時間見りゃ分かる」
「個人情報保護が昭和すぎる」
「何だそりゃ」
まだない。
たぶん今その話を始めると別の法律編が始まります。
私は目覚まし時計を受け取りました。
丸い白い文字盤。
銀色のベル。
「ありがとうございます」
「今回」
原田さんがホテル予定地を見ました。
「まだどうなるか分からないんですよね」
「はい」
「ホテルも建つかもしれない」
「計画変更して建つ可能性は十分あります」
「裁判するかもしれない」
「はい」
「負けるかもしれない」
「あります」
原田さんは笑いました。
「最初に来たときより、嫌な話が増えましたね」
「すみません」
「いや」
首を振りました。
「逆です」
「え?」
「最初は、裁判すれば止まると思ってた」
「……はい」
「でも、裁判にも入口がある。勝っても、その後がある。違法でも取り消さないことまである」
「はい」
「その代わり」
原田さんは工事現場を見ます。
「向こうも、裁判で負けたら一枚紙を出し直せば済むわけじゃない」
私は少し驚きました。
「そうですね」
「だったら」
原田さんが言いました。
「怒鳴るより、ちゃんと調べた方が効くんですね」
その一言が。
今日の教訓そのものでした。
私は心の中で短くまとめます。
――判決は、勝ち負けの紙じゃない。その後の行政まで動かす。
取消判決が出れば、
処分は消える。
第三者にも及ぶ。
行政庁は判決に縛られる。
でも。
事情によっては、
違法と分かっても処分を取り消さない判決さえある。
法律は冷たい。
住民がどれだけ怒っているかでは決めない。
ホテル会社がどれだけ金をかけたかだけでも決めない。
処分は違法か。
訴えは適法か。
取消しによる影響は何か。
確定判決のあと、誰が何をしなければならないか。
一個ずつ切り分ける。
でも。
その冷たさのおかげで、
「もう建てると決まったから」
だけでは終わらない。
怒鳴り声より、
一枚の図面。
一枚の公図。
一センチの道路幅。
一つの訴訟要件。
そして、
一つの判決が持つ効力。
そういうものが、
巨大な杭打ち機を止めることもある。
その夜。
事務所。
私は原田さんにもらった目覚まし時計を机に置きました。
「先輩」
「何だ」
「もし私が明日遅刻したら」
「知らん」
「この時計の処分性って――」
「ねえ」
「まだ最後まで言ってません」
「目覚まし時計は行政処分じゃねえ」
「じゃあ起きなかった場合、却下ですか」
「お前が遅刻した事実を認定して怒る」
「本案審理される!」
「所長が認容する」
「何をです?」
「俺の『こいつ減給しろ』って請求」
「そんな請求するんですか!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「棄却する」
「所長!」
「よかったな」
「助かりました!」
「ただし」
嫌な間。
「遅刻三回で掃除当番一か月」
「それは何判決ですか」
「事情判決だ」
「絶対違います!」
相馬先輩が笑います。
「主文で遅刻が違法だと宣言してやれ」
「私の遅刻は行政処分じゃありません!」
「朝比奈」
所長が言いました。
「明日は八時半」
「はい」
「来なかったら」
「はい」
「蒸し返しは認めん」
「既判力まで出てきた!」
笑い声の横で。
原田さんにもらった目覚まし時計が、
カチ。
カチ。
カチ。
と動いていました。
裁判所の時計より、
工事現場の時計より、
たぶん少しだけ呑気な音で。
でも。
今日の私は知っています。
行政事件では、
時間が進むほど、
同じ「取消し」でも意味が変わってしまうことがある。
だから。
判決を見るときは、
勝った。
負けた。
だけでは足りない。
入口で終わったのか。
中身を審理して負けたのか。
処分が取り消されたのか。
違法なのに残されたのか。
そして、
確定したその一枚が、
誰の明日をどう変えるのか。
そこまで読む。
それが、
取消訴訟の判決を知るということなのだと思います。
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