[執行停止]法理編 こはるノート
法律は、ときどき判決より先に時計を止めます。
ただし。
止めてくれ、と言っただけでは止まりません。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外は、もう薄い橙色に染まり始めていました。
西村さんの開発許可事件を弁護士へ引き継いでから、三日。
机の上には、現場写真のコピー。
造成計画図。
工事工程表。
住宅地図。
そして。
私はその全部を横へどけて、ノートを開きました。
ページの一番上に書く。
――執行停止。
「よし」
「何がよしなんだ」
向かいの机から、相馬先輩が言いました。
「復習です」
「勝手にやれ」
「今日は付き合ってください」
「嫌だ」
「所長」
「付き合え」
奥から即答。
相馬先輩が天井を見ました。
「この事務所には俺の意思決定権はねえのか」
「不服申立てします?」
「誰にだ」
「所長に」
「結果見えてんだろ」
はい。
たぶん棄却です。
私はノートへ視線を戻しました。
執行停止。
受験生時代の私は、この言葉を見ると、
処分を一時停止する制度。
くらいに覚えていました。
それで正しい。
正しいけれど。
西村さんの山を見たあとでは、意味がまるで違います。
判決を待っていたら間に合わない。
だから。
判決の前に、いったん止める。
それが執行停止です。
「まず」
私はノートに書きました。
取消訴訟を提起しても、
処分の効力。
処分の執行。
手続の続行。
これらは原則として止まらない。
「名前は?」
相馬先輩。
「執行不停止の原則」
「そうだ」
私は二重線を引きました。
執行不停止の原則。
「これ、最初に聞いたとき納得できなかったんですよね」
「何がだ」
「だって、処分が違法かもしれないから裁判してるのに」
「うん」
「その処分を生かしたまま進むって、怖くないですか」
「じゃあ逆に聞く」
相馬先輩が煙草の箱を指で叩きました。
「訴訟起こしただけで全部止まったらどうなる」
「……」
「営業停止処分も」
「はい」
「税金の徴収も」
「はい」
「公共事業も」
「はい」
「誰かが裁判起こすたびに全部止めるのか」
「ああ」
そこなんです。
私はノートに書き足しました。
執行不停止の原則。
理由。
行政の継続性。
行政活動を、訴訟提起だけで自動停止させないため。
「つまり」
私は言いました。
「訴訟を起こした、というだけでは行政側を止めるほどの理由にならない」
「そういうことだ」
「でも」
「でも?」
「止めなきゃ間に合わない事件はある」
「西村さんの件だな」
はい。
山が削られる。
木が切られる。
地形が変わる。
工事が完成する。
そして場合によっては、
開発許可取消訴訟そのものについて、
訴えの利益まで失われかねない。
「つまり執行停止は」
私は言いました。
「執行不停止の原則に対する例外」
「そうだ」
原則。
止まらない。
例外。
必要なら裁判所が止める。
行政事件訴訟法は、
最初から停止させるのではなく、
事情を見て個別に止める方式を取っている。
「だから仮の救済なんですね」
「本案判決までの間のな」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「永久に処分を消す制度ではない」
「はい」
「最終的に処分が違法かどうかは、本案で決める」
「その前に手遅れになるのを防ぐ」
「そうだ」
私は大きく囲みました。
――執行停止は、本案判決が間に合わないときの仮の救済。
「じゃあ要件」
私は次の見出しを書きました。
執行停止の要件。
一つ目。
処分の取消しの訴えが提起されていること。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「執行停止だけ先に頼むことはできねえ」
「はい」
「まず本案がいる」
「取消訴訟が前提」
私は線を引きました。
これ。
現場ではかなり重い条件です。
明日工事が始まる。
とにかく止めてほしい。
そう思っても、
単独で、
執行停止してください。
とはいかない。
取消訴訟を提起したうえで、
その訴訟と並行して執行停止を求める。
「訴えを組み立てる時間が要るんですよね」
「ああ」
「だから西村さんの件で、三日確保できたのが大きかった」
「そういうことだ」
行政書士が裁判を代理することはできない。
でも。
処分通知。
到達日。
処分庁。
原告候補。
住所。
現場との距離。
工事工程。
過去の被害。
そうした材料を先に整理しておけば、
弁護士が本案と執行停止の判断を早くできる。
「行政書士の仕事って」
私は言いました。
「裁判の外側にいるけど、時間勝負の事件だと結構大事ですね」
相馬先輩がこちらを見ます。
「今さら気づいたか」
「再確認です」
「便利な言葉だな」
二つ目。
私はペン先を止めました。
「ここです」
「何だ」
「時代錯誤ポイント」
相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。
「また未来の話か」
「大事なんです」
現代の行政事件訴訟法なら。
執行停止の積極要件は、
重大な損害を避けるため緊急の必要があること。
でも。
昭和六十三年。
この時代は違う。
私はノートへ大きく書きました。
――回復の困難な損害を避けるため、緊急の必要があること。
「『重大』じゃない」
「そうだ」
「『回復の困難な損害』」
「条文見ろって言っただろ」
「本当に危なかったです」
もし現代知識だけで、
重大な損害です!
と胸を張っていたら。
未来人、昭和の条文に負けるところでした。
「でも意味としては」
私は考えながら言いました。
「単に損害が出ます、では足りない」
「当然だ」
「あとで戻せるなら?」
「止める必要性は弱くなる」
「金銭賠償などで回復できるなら?」
「事件によるが、それだけでは回復困難とは言いにくい場合がある」
「逆に」
私は西村さんの写真を手に取りました。
木々。
斜面。
住宅。
「山を削る」
「ああ」
「地形が変わる」
「ああ」
「崖崩れで人がけがをするかもしれない」
「ああ」
「生命や身体の損害は、あとで元に戻せない」
「そこだ」
回復の困難な損害。
その言葉は、受験テキストだと固い。
でも。
西村さんの写真を見ると、急に分かります。
木を切ったあとで、
判決が出ました。
だから木を元に戻してください。
そう簡単にはいかない。
斜面を大規模に削ったあとで、
元の地形に完全に戻せ。
それも難しい。
まして。
土砂災害で誰かが傷ついたあとなら。
裁判に勝っても、
時間は巻き戻せません。
「回復困難って」
私は言いました。
「つまり『あとで勝っても遅い』ってことですね」
片桐所長が頷きました。
「それで覚えろ」
私はノートの端に書きました。
回復困難な損害。
=あとで勝っても戻せない損害。
「これ、試験答案にそのまま書いたら怒られますかね」
「定義としては雑だ」
「ですよね」
「でも覚え方としては使える」
「ありがとうございます」
「次」
相馬先輩が言いました。
「緊急の必要」
「はい」
私は工事工程表を開きました。
西村さんの事件では、
工事開始が目前でした。
伐採。
表土剥ぎ取り。
斜面掘削。
仮設排水。
つまり。
半年後に危険かもしれない。
ではない。
数日後から地形変更が始まる。
「だから緊急性がある」
「そうだ」
「もし工事開始が一年先だったら?」
「同じ申立てを今すぐ認める必要は下がるだろうな」
「要するに」
私は書きます。
回復困難な損害。
だけでは足りない。
それを避けるため、
今止める必要がある。
「『困る』と『急ぐ』の両方ですね」
「そういうことだ」
私は二つを矢印でつなぎました。
回復の困難な損害。
+
緊急の必要。
この二つがセット。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「要件を満たせば必ず止まるわけじゃない」
「はい」
ここからが行政法らしい。
例外の中に、さらに歯止めがある。
私は次の見出しを書きました。
執行停止をしてはならない場合。
一。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき。
二。
本案について理由がないとみえるとき。
「西村さんの件で考えてみます」
私はペンを置きました。
「まず公共の福祉」
「うん」
「仮に工事を止めることで、地域全体の防災に重大な支障が出るとか」
「あり得るな」
「あるいは、重要な公共施設の整備が止まって、多数の住民に重大な影響が出るとか」
「そういう比較になる」
執行停止は。
原告だけを見ればいい制度ではありません。
止めたことで、
社会全体にもっと大きな害が出るなら。
裁判所は止められない。
「事業者の損害だけなら即アウト、ではないですよね」
「当然だ」
「工事を止めれば損が出る、だけで全部却下したら執行停止なんてほぼ使えません」
「そうだ」
問題は、
公共の福祉に重大な影響。
重大。
そこまでいくか。
個々の事情で判断する。
次。
本案について理由がないとみえるとき。
「これ、簡単に言うと」
私は言いました。
「本案でどう見ても勝ち目がないなら、仮に止める意味も薄い」
「そうだ」
「例えば、処分に明らかな違法性の主張がなくて」
「うん」
「ただ嫌だから取り消してくれ、くらいしかない」
「止める理由にはならねえな」
執行停止は本案の先取りではありません。
ここで最終的に勝敗を決めるわけでもない。
でも。
本案がどう見ても無理そうなら、
行政を止めるほどの仮救済は認めない。
「だから現場編で所長が」
私は思い出しました。
「危険性だけじゃなくて、県がその危険性を許可判断でどう検討したのか、って言ってたんですね」
片桐所長が頷きます。
「執行停止だけ整えても駄目だ」
「本案もいる」
「そうだ」
原告適格。
処分の違法性。
許可基準。
判断過程。
全部つながっています。
私はノートに書きました。
――仮の救済でも、本案と切り離せない。
「次、停止するもの」
私はページをめくりました。
執行停止という言葉から、
何となく、
処分そのものを停止する。
と考えがちです。
でも。
停止の対象には種類がある。
処分の効力。
処分の執行。
手続の続行。
全部または一部。
「ここ、試験で嫌なところですね」
「お前は何でも試験で嫌がるな」
「受験生だったので」
そして。
重要な制限。
処分の執行または手続の続行を停止すれば目的を達成できるなら、
処分の効力そのものは停止できない。
「何でです?」
私はあえて相馬先輩に振りました。
「必要以上に行政処分を止めるなってことだろ」
「ですよね」
「止める範囲は最小限」
「はい」
たとえば。
目的が具体的な執行行為を止めることなら。
処分そのものの効力全部まで止めなくても足りる場合がある。
「強い薬から使うな、みたいな感じですね」
「例えは分かる」
「珍しく褒められた」
「気のせいだ」
またそれです。
私はノートに小さく書きました。
――目的を達成できる範囲で、必要最小限の停止。
「じゃあ」
私は次の見出しへ進みます。
即時抗告。
「執行停止の申立てに対する裁判所の決定に不服がある場合」
「即時抗告」
「はい」
執行停止を認めた。
あるいは認めなかった。
その決定に対して、
不服がある者は即時抗告できる。
「ここも」
私は言いました。
「時間勝負だから『即時』なんですね」
「その理解でいい」
仮の救済なのに。
不服申立てをいつまでも待っていたら意味が薄れる。
急ぐ制度には、
急ぐための手続が用意されている。
「でも」
相馬先輩が言いました。
「即時抗告したから自動的に現状が変わる、と短絡するなよ」
「はい」
「何でも自動停止だと思うな」
「今日そればっかりですね」
「行政事件訴訟は勝手に止まると思うやつが多いからだ」
耳が痛い。
昨日までの私です。
「次」
私は丸を描きました。
事情変更による執行停止の取消し。
「これ、ちょっと切ない制度ですね」
「何がだ」
「せっかく執行停止が認められても」
「うん」
「ずっと保証されるわけじゃない」
「仮の救済だからな」
執行停止の決定後。
停止する理由がなくなった。
あるいは、
その他の事情が変わった。
その場合。
行政庁側の申立てによって、
裁判所は執行停止決定を取り消すことができる。
「例えば西村さんの件なら」
私は考えます。
「工事方法が大幅に変更されて、問題になっていた危険性がなくなったとか」
「あり得る」
「あるいは、新しい防災措置が取られて、回復困難な損害のおそれが消えたとか」
「そうだな」
「逆に社会側の事情が変わって、止め続ける影響が大きくなったとか」
「そういうこともあり得る」
つまり。
執行停止は、
一度認められたら本案判決まで絶対維持。
ではない。
状況が変われば、仮の判断も変わる。
「仮だから」
私は言いました。
「現状に合わせて動くんですね」
「そうだ」
「法律って意外と融通ありますね」
「お前、普段どれだけ法律を石みたいに思ってるんだ」
「行政法は特に」
「失礼なやつだな」
「そして」
私はページの端に星印を付けました。
「今日いちばん変なやつ」
「言い方」
「内閣総理大臣の異議」
相馬先輩が煙草を止めました。
「ああ」
私は改めてノートへ書きます。
執行停止の申立てがあったとき。
内閣総理大臣は、
やむを得ない場合に、
理由を付けて、
裁判所に対し異議を述べることができる。
「そして異議が出たら?」
相馬先輩が聞きます。
「裁判所は従わないといけない」
「具体的に」
「執行停止決定前なら、執行停止できない」
「うん」
「決定後なら、執行停止決定を取り消さないといけない」
「そうだ」
私はペンを止めました。
「……これ、すごいですよね」
「まあな」
「裁判所が執行停止しようとしても」
「うん」
「内閣総理大臣が異議を出したら従う」
「そういう制度だ」
「三権分立どこ行った、って受験生は一回思いますよ」
片桐所長がこちらを見ました。
「だから無制限じゃない」
「はい」
やむを得ない場合。
理由を付ける必要がある。
行政側が好き勝手に、
止められると困るから異議!
では足りない。
「しかも」
私は言いました。
「こういう強い制度があるってこと自体」
「何だ」
「行政訴訟で行政を止めることが、それだけ重い意味を持つってことですよね」
所長が少し頷きました。
「そう見てもいい」
執行停止は、
単なる民事の仮処分と同じ感覚では読めない。
行政活動を裁判所が一時的に止める。
そこには、
司法による救済。
行政の継続性。
公共の利益。
いくつもの力がぶつかっています。
「受験テキストだと」
私は言いました。
「内閣総理大臣の異議、かなり浮いて見えるんですよ」
「急に総理大臣出てくるからな」
「そうなんです」
「でも仕組み全体で見ると」
「はい」
「行政活動を仮に止めることへの、かなり強い政治的な安全弁なんですね」
相馬先輩が笑いました。
「未来人みたいなこと言うな」
「未来人なんです」
「何だ?」
「何でもないです」
私はここまでのページを見直しました。
執行不停止の原則。
取消訴訟を起こしても、自動的には止まらない。
執行停止。
本案判決までの仮の救済。
前提。
取消訴訟が提起されていること。
昭和六十三年当時。
回復の困難な損害を避けるため緊急の必要。
ただし。
公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき。
本案について理由がないとみえるとき。
執行停止はできない。
さらに。
より限定的な停止で足りるなら、
処分の効力そのものまで止めない。
決定に不服があれば即時抗告。
事情が変われば、
行政庁の申立てによって執行停止決定が取り消されることもある。
そして。
内閣総理大臣の異議。
「うわあ」
「何だ」
「急に試験範囲っぽくなりました」
「最初から試験範囲だろ」
「現場では山しか見えてなかったので」
でも。
そこが不思議です。
条文だけ読んでいたときは、
執行停止。
即時抗告。
事情変更。
総理大臣の異議。
ばらばらの暗記項目でした。
今は違う。
全部。
「行政を仮に止める」という強い措置を、
どういう条件で使い、
どういう条件で戻すか。
その一本の話になっています。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「未来だと違うんだろ」
「はい」
来ました。
新旧比較。
私は別の色のペンを出しました。
昭和六十三年。
旧法。
回復の困難な損害。
現代。
重大な損害。
「平成十六年改正で変わります」
「何でだ」
「執行停止を使いやすくする方向です」
昔の、
回復の困難な損害。
という要件は厳しかった。
そこで改正後は、
重大な損害。
という基準へ変更される。
さらに現代法では、
重大な損害が生じるかを判断する際、
損害の回復の困難の程度。
損害の性質・程度。
処分の内容・性質。
そうした事情を考慮することが明文化されている。
「つまり」
私は言いました。
「昔より、仮の救済を機能させようって方向」
「昔が使いにくかったからか」
「そうです」
しかも。
現代では。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
そして一定の場合の仮の義務付け、仮の差止め。
制度としての仮救済も広がっている。
「昭和六十三年は?」
「そんなものは法定されてません」
「気の毒だな」
「本当に」
西村さんの事件で。
未来の私は一瞬、
工事差止め。
と考えました。
でも。
昭和では、そのカードが法定されていない。
使える仮の救済は、
基本的に執行停止。
「だから昔の行政訴訟は」
私は言いました。
「入口だけじゃなくて、途中も厳しい」
「途中?」
「原告適格で揉める」
「うん」
「出訴期間も今より短い」
「うん」
「被告も処分庁」
「うん」
「差止訴訟や義務付け訴訟は法定されてない」
「うん」
「仮の救済も狭い」
「そうだな」
「……国民、よく戦ってましたね」
相馬先輩が少し笑いました。
「だから裁判なんて負け戦だって言ってんだ」
「でも」
私は先に言いました。
「やるなら要件を揃えろ」
「取るな、俺の台詞」
◇
「出訴期間も復習しとくか」
相馬先輩が言いました。
「昭和六十三年は?」
「処分を知った日から三か月」
「現代は?」
「六か月」
「被告は?」
「昭和六十三年なら処分をした行政庁」
「今回なら」
「県知事」
「現代なら」
「県そのもの」
よし。
もう反射的に答えられます。
転生者、ようやく昭和仕様になってきました。
「でも」
私は言いました。
「怖いのは、未来法のほうが救済しやすいから、つい未来の感覚で油断することなんですよ」
「例えば」
「六か月あると思って三か月過ぎる」
「終わるな」
「差止訴訟できると思って準備する」
「法定されてねえ」
「県を被告にする」
「違う」
「重大な損害って書く」
「当時の条文じゃねえ」
私は机に突っ伏しました。
「未来人、不利すぎません?」
「知ったこっちゃねえ」
そのとき。
電話が鳴りました。
相馬先輩が取ります。
「はい。……ああ先生」
弁護士です。
「はい。……そうですか」
私と所長が顔を上げます。
「分かりました。本人にも?」
少し話して。
電話を切りました。
「どうでした?」
「弁護士、正式に受任した」
「はい」
「住民側で取消訴訟と執行停止の申立てを進める」
「本当ですか」
「ああ」
私は思わず椅子から半分立ちました。
「ただし」
相馬先輩が言います。
「認められるとは限らん」
「分かってます」
「原告適格も、本案も、執行停止も全部争われる」
「はい」
「だから喜ぶのはまだ早い」
「はい」
でも。
少しだけ嬉しかった。
私たちは裁判を起こしていない。
申立書を書いたわけでもない。
法廷にも立たない。
けれど。
西村さんが怒鳴り込んできたときには、
裁判すれば工事が止まる。
と思っていた。
そこから。
訴訟提起だけでは止まらない。
と知り。
工事工程を確認し。
写真を集め。
過去の崩落記録を集め。
住宅との距離を測り。
三日を確保し。
弁護士へ引き継いだ。
これでようやく。
裁判所に、
止める必要があるか。
を判断してもらえるところまで来た。
「行政書士って」
私は呟きました。
「橋みたいですね」
「何が」
「相談者と裁判所の間の」
「裁判所とは直接つながんねえぞ」
「だから弁護士を経由する橋です」
「ややこしい橋だな」
「でも落ちたら困る橋ですよ」
相馬先輩は返事をしませんでした。
ただ。
少しだけ口元が緩みました。
たぶん。
気のせいでしょう。
私はノートの最後のページを開きました。
「一行の覚え書き」
「またやるのか」
「やります」
考える。
執行停止。
裁判を起こしても行政は止まらない。
だから。
判決を待ったら手遅れになる場合には、
裁判所に仮に止めてもらう。
でも。
その入口は狭い。
昭和六十三年なら、
回復困難な損害。
緊急の必要。
本案の見込み。
公共の福祉。
全部を見る。
私は書きました。
――訴訟は行政を止めない。だから「あとで勝っても遅い」ときに、執行停止で時間を守る。
「長い」
相馬先輩。
「またですか」
「一行に詰め込みすぎだ」
「じゃあ短くします」
私はその下に書きました。
――勝つ前に、手遅れを止める。それが執行停止。
相馬先輩が黙りました。
「どうです」
「まあ」
「まあ?」
「悪くねえ」
「褒めた」
「二度は言わねえ」
私は丸で囲みました。
勝つ前に。
手遅れを止める。
たぶん。
今日いちばん覚えておくべきことです。
外はもう暗くなっていました。
私は西村さんの写真を一枚、封筒へ戻します。
山。
木。
その下の家。
裁判の勝敗は、まだ分かりません。
開発許可が違法かどうか。
執行停止が認められるかどうか。
何一つ決まっていない。
でも。
法律は、
最終判決だけで人を救うわけではありません。
むしろ。
判決を待っていたら救えない場面がある。
そんなとき。
法律は一度だけ、
時計に手を掛けます。
止まれ。
まだ結論は出ていない。
だから今は、
取り返しのつかないことをするな。
そう言うための制度。
それが執行停止。
もちろん。
何でも止められるわけではありません。
行政も動かなければならない。
公共の利益もある。
事業者の生活もある。
だから要件は厳しい。
昭和六十三年ならなおさらです。
回復の困難な損害。
緊急の必要。
文字だけ見ると冷たい。
でも。
その冷たさのおかげで、
ただ大声を出した人ではなく、
本当に待てない人を拾える。
制度が厳しいことと、
制度が人を救わないことは、
同じではありません。
むしろ。
厳しい入口を通るために事実を集める。
写真を並べる。
日付を確かめる。
距離を測る。
工程を読む。
その地味な作業の先に、
一日でも、
三日でも、
誰かの時間を取り戻せることがある。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
「はい」
「じゃあ帰るぞ」
「ちょっと待ってください」
「何だ」
「コピー機」
「……あ?」
「また止まってます」
相馬先輩が目を閉じました。
「紙詰まりか」
「はい」
「直せ」
「執行停止の取消しを申し立てます」
「誰にだ」
「機械に」
「通るか」
「事情変更があります」
「どんな」
「紙詰まりが解消しました」
「じゃあ動かせ」
「はい」
私はコピー機の蓋を閉めました。
低い音を立てて、
機械が再び動き出します。
「先輩」
「何だ」
「事情変更による執行停止の取消し、理解しました」
「コピー機で理解するな」
「実例は大事です」
「試験に書くなよ」
「書きませんよ」
その直後。
奥から片桐所長の声がしました。
「こはる」
「はい」
「そのコピー、十部」
「え?」
「弁護士へ追加で送る」
「今からですか」
「急げ」
私は時計を見ました。
午後六時四十分。
「所長」
「何だ」
「業務終了の執行停止を申し立てたいです」
「却下」
「理由は?」
「本案について理由がない」
「即時抗告します!」
「棄却」
「まだ抗告先に行ってません!」
相馬先輩が吹き出しました。
コピー機は何事もなかったように紙を吐き続けています。
どうやら今夜の片桐行政書士事務所では、
執行不停止の原則が、
誰よりも厳格に適用されるようでした。
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