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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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277/284

[執行停止]現場編 「裁判を起こせば工事は止まる」の罠。判決を待つ間にも山は削られる――昭和の仮の救済をつなぐ行政書士

挿絵(By みてみん)

 裁判を起こしたからといって、世の中まで止まってくれるわけではありません。


 訴状を出した。


 争いが始まった。


 だから、判決が出るまでは現状維持。


 ――そう思いたくなる。


 でも行政法は、そんな親切な待ったをかけてくれません。


 争っている間にも。


 木は切られる。


 土は掘られる。


 道は造られる。


 そして。


 勝ったころには、守りたかったものがなくなっていることがあります。


「裁判にしてやる!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 午前九時十二分。


 その日の最初のお客さんは、扉を開けるなりそう叫びました。


 私は湯飲みを落としかけました。


「わっ」


「おい、こぼすな」


 相馬先輩が新聞から顔も上げずに言います。


「今の私が悪いですか?」


「湯飲み持ってるやつの責任だ」


「厳しい世界ですね」


 幸い、お茶は机の上に三滴落ちただけでした。


 私は布巾で拭きながら、入口に立つ男性を見ました。


 五十代半ばくらい。


 作業着。


 日に焼けた顔。


 片手には茶封筒。


 もう片方には――


「それ、写真ですか?」


「ああ!」


 男性は机まで来ると、何枚もの写真を広げました。


 雑木林。


 斜面。


 その下に並ぶ住宅。


 そして一本の細い県道。


「明後日から、ここを削るってんだ!」


「削る?」


「造成工事だよ!」


 男性は写真の山腹を指で叩きました。


「宅地にするんだと!」


 片桐所長が奥から出てきました。


「お名前を」


「西村です。西村孝一」


「座ってください」


「いや、座ってる場合じゃ――」


「座ってください」


 所長がもう一度言いました。


 西村さんは座りました。


 強い。


 片桐所長の「座ってください」には、たぶん行政代執行より即効性があります。


 私は写真を並べ直しました。


 一枚目。


 山の全景。


 二枚目。


 斜面下の住宅地。


 三枚目。


 コンクリートの細い排水溝。


 四枚目。


 去年の大雨で土砂が流れた跡。


「ここ、どこです?」


「北山町だ。湖へ抜ける旧道の上」


「ああ」


 分かります。


 駅から車で二十分ほど。


 町外れの丘陵地です。


 住宅地の背後に雑木林が残っている。


 その山を不動産会社が買い取り、分譲地にする計画がある。


 新聞で小さく見た記憶がありました。


「開発許可は?」


 相馬先輩が聞きます。


「出た」


 西村さんが茶封筒から紙を出しました。


 県知事名義。


 開発行為許可通知。


「住民説明会は?」


「あったよ。俺たちは反対した」


「理由は?」


「崖だ」


 西村さんが写真を一枚抜きました。


「この辺り、昔から水が出る。大雨になると斜面の途中から水が噴くんだ。三年前にも小さい崩れがあった」


「県には言いました?」


「言った」


「事業者にも?」


「何度もな」


「それでも許可が出た」


「ああ」


 西村さんの拳が震えました。


「だから裁判する。許可を取り消してもらう」


 私は頷きかけました。


 取消訴訟。


 開発許可という行政処分を争う。


 周辺住民の原告適格。


 災害防止規定が近隣住民の生命・身体を個別的利益として保護しているか。


 処分性。


 原告適格。


 訴えの利益。


 出訴期間。


 被告適格。


 頭の中で、最近嫌というほど整理した単語たちが整列します。


 そして。


 一つ、ものすごく魅力的な言葉が浮かびました。


 差止め。


 そうだ。


 工事を止めればいい。


 取消訴訟と――


「差止訴訟も――」


「ないぞ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ全部言ってません」


「顔で分かる」


「何で最近みんな私の顔を読むんですか」


「分かりやすいからだ」


 私は黙りました。


 はい。


 そうでした。


 ここは昭和六十三年。


 現代では行政事件訴訟法に義務付け訴訟や差止訴訟が法定されています。


 でも今は、平成十六年改正よりずっと前。


 法定された差止訴訟はない。


 無名抗告訴訟として理論上の議論はあっても、簡単に使える武器ではありません。


 つまり。


 未来人の私が「工事を止めたいなら差止訴訟!」と勢いよく出すカードは、


 まだ印刷されていない。


「……昭和、武器少なくないですか」


「何の話だ」


「独り言です」


 しかし。


 それでも取消訴訟はある。


 開発許可を取り消してもらえば――


「裁判を起こせば、工事は止まるんですよね」


 西村さんが言いました。


「県だって裁判中に勝手なことはできんでしょう」


 私は口を開きました。


 そして。


 閉じました。


 あれ。


 相馬先輩が新聞を畳みます。


「誰がそんなこと言った」


「え?」


「裁判を起こしたら工事が止まるって、誰が言った」


「だって」


 西村さんが目を瞬きます。


「許可が正しいか裁判で争うんだろ?」


「ああ」


「だったら結論が出るまで、普通は待つだろ」


「待たねえ」


「……は?」


「原則としてな」


 空気が変わりました。


 相馬先輩が机の写真を一枚取ります。


「取消訴訟を起こしただけじゃ、処分の効力も、処分の執行も、その後の手続も止まらねえ」


 西村さんの顔から怒りが消えました。


 代わりに。


 理解できない、という顔になりました。


「裁判してるのに?」


「裁判しててもだ」


「許可が間違ってるかもしれないのに?」


「それでもだ」


「じゃあ……」


 西村さんは写真を見ました。


「裁判してる間に、山を削るのか」


「あり得る」


「木も?」


「ああ」


「擁壁も造る?」


「進めることはできる」


「道路も?」


「止める措置を取らなければな」


 西村さんが立ち上がりました。


「そんな馬鹿な!」


 机が揺れます。


「何のための裁判だ!」


 誰もすぐには答えませんでした。


 その怒りは。


 かなり正しい。


 私だって初めて行政事件訴訟法のこの部分を勉強したとき、


 え?


 と思いました。


 処分を争っているのに処分は生きたまま。


 行政は走り続ける。


 裁判所が「ちょっと待った」と言わなければ、そのまま進む。


 これが、


 執行不停止の原則。


「理由はあります」


 私は言いました。


「行政処分が訴えられるたびに全部自動停止したら、行政が動かなくなるので」


「じゃあ住民はどうなる!」


「だから――」


 私は言いかけて。


 止まりました。


 ここで使うのが。


「執行停止です」


 片桐所長が言いました。


 西村さんが振り返ります。


「何です?」


「取消訴訟を起こしたうえで、裁判所に、判決が出るまで一定の効力や手続を止めてもらう」


「できるんですか」


「要件を満たせば」


 西村さんの表情が戻りました。


「じゃあ、それをしてください」


 片桐所長は首を振りました。


「私たちはできません」


「え?」


「行政書士は訴訟代理人にはなれません」


「でも今、裁判の話を――」


「裁判を起こすのも、執行停止を申し立てるのも、弁護士へ引き継ぎます」


「じゃあ、ここじゃ何もできないのか」


「違います」


 所長が写真に目を落としました。


「裁判所へ持っていく材料を揃える」


 西村さんが黙ります。


「執行停止は」


 所長が続けます。


「『怖いから止めてくれ』では通らない」


「……」


「いつ工事が始まる」


「明後日です」


「どこから削る」


「東側の斜面からだと」


「何日で樹木を伐採する」


「聞いてない」


「雨水は今どこへ流れている」


「この側溝です」


「過去の崩落記録は」


「町内会に写真があります」


「地質調査書は見たか」


「説明会で一部だけ」


「工事工程表は」


「事業者から回覧が来た」


「持ってこられるか」


「できます」


「それを全部集めてください」


 声は静かでした。


 でも。


 所長はもう戦いを始めていました。


 裁判所へ行かない人間の戦い。


 裁判所へ行く弁護士が、


 一発で状況を理解できるようにする戦いです。


「執行停止の要件」


 西村さんが資料を取りに帰ったあと。


 片桐所長は黒板に二文字書きました。


 停止。


「こはる」


「はい」


「言ってみろ」


「まず、取消訴訟が提起されていること」


「うん」


「それから、処分、処分の執行または手続の続行によって生ずる――」


 私は止まりました。


 現代の条文が頭に出ます。


 重大な損害を避けるため緊急の必要。


 でも。


 嫌な予感がしました。


 昭和六十三年。


 平成十六年改正前。


 私は本棚へ走りました。


「おい」


「確認です!」


 行政事件訴訟法。


 条文を開く。


 そして。


「……あ」


「何だ」


「違います」


「何が」


「現代と」


 私は条文を指しました。


「この時代は『重大な損害』じゃない」


 相馬先輩が鼻を鳴らします。


「また未来法か」


「はい……」


 昭和六十三年当時。


 執行停止の積極要件は、


 処分、処分の執行または手続の続行により生ずる、


 回復の困難な損害を避けるため、


 緊急の必要があること。


 現代法の、


 重大な損害。


 ではない。


「同じように見えて、違いますね」


「だから条文を見ろって言ってんだ」


「ほんとこの時代、未来人を殺しに来ますね」


「未来人じゃなくても条文見ないやつは死ぬ」


「もっともです」


 私は赤鉛筆で囲みました。


 ――回復の困難な損害。


「要するに」


 相馬先輩が椅子をこちらへ向けました。


「今止めなきゃ、あとで勝っても元に戻せねえって話だ」


「乱暴ですけど、分かりやすいです」


「山削られたあとで、許可取消しの判決もらってどうする」


 私は黙りました。


 そこです。


 雑木林。


 斜面。


 土砂。


 伐採。


 造成。


 全部終わったあとで。


 開発許可が違法でした。


 と判決をもらっても。


 山は元に戻らない。


 さらに。


 開発行為そのものが完了してしまえば、


 開発許可を取り消す訴えについて、


 訴えの利益そのものが問題になる可能性まである。


 入口を突破して。


 裁判を始めて。


 何か月も争って。


 やっと結論が出るころには、


 そもそも裁判で守る対象が消えている。


「……ひどいですね」


「何がだ」


「判決で勝てるかどうか以前に、時間に負ける」


「行政訴訟じゃ珍しくねえ」


 相馬先輩は煙草に火をつけました。


「だから仮の救済がある」


「執行停止」


「ああ」


「でも自動じゃない」


「当然だ」


 裁判を起こす。


 それだけでは止まらない。


 別に、


 止めてください。


 と申し立てる。


 しかも。


 回復困難な損害。


 緊急性。


 本案で理由がないと見える場合ではないこと。


 公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがないこと。


 入口は狭い。


「昔の行政裁判って」


 私は呟きました。


「本当に住民に厳しいですね」


「だから裁判なんて負け戦だって言ってんだ」


「でも、やるなら?」


 相馬先輩が私を見る。


「要件を揃えろ」


 出ました。


 口癖。


 でも今日は、いつもより重く聞こえました。


 午後二時。


 西村さんが戻ってきました。


 段ボール箱を抱えて。


「全部持ってきた」


「全部?」


「ああ」


 中身を出します。


 住民説明会の資料。


 造成計画平面図。


 工事工程表。


 雨水排水計画図。


 地元住民の要望書。


 三年前の崩落写真。


 町内会長が記録していた降雨時の写真。


 事業者からの工事開始通知。


 そして。


「これ」


 西村さんが一枚出しました。


 今後の工程。


 第一週。


 樹木伐採。


 表土剥ぎ取り。


 第二週。


 斜面掘削。


 仮設排水路設置。


「順番、これですか?」


 私は聞きました。


「そうらしい」


「仮設排水路より先に表土を剥ぐ?」


「俺もそこが怖い」


 西村さんは別の写真を出しました。


「この山、水が多いんだ」


 写真には、晴れた日なのに斜面から水が染み出している場所が写っていました。


「今週、雨の予報もある」


 相馬先輩が顔を上げます。


「いつ」


「三日後から」


「工事開始は」


「明後日」


 まずい。


 伐採。


 表土剥ぎ取り。


 その直後に雨。


 もちろん。


 だから即、崖崩れが起きると断定することはできません。


 私たちは技術者ではない。


 工事業者には安全対策もあるでしょう。


 でも。


 執行停止を求めるなら、


 何が起こるかもしれない。


 では弱い。


 何が、


 いつ、


 どの範囲に、


 どれほど回復困難な形で起こり得るのか。


 そこまで具体化しなければならない。


「住宅は何軒ですか」


「斜面直下が十一軒」


「住民は?」


「三十二人」


「高齢者は」


「七人」


「避難路は?」


「この道一本」


 私は地図に線を引きました。


「崩れた場合、この道が塞がる可能性は?」


「ある」


「井戸を使ってる家は?」


「二軒」


「工事区域からの距離は」


「一番近い家で二十メートルくらい」


 数字にする。


 位置にする。


 時間にする。


 感情を、


 要件へ翻訳する。


 怖い。


 ではなく。


 斜面直下二十メートルに住宅。


 三十二名居住。


 過去に土砂流出あり。


 降雨時の湧水記録あり。


 工事開始後、表土剥ぎ取り予定。


 数日後に降雨が予想されている。


 一度斜面が大規模に掘削されれば、原状回復は容易でない。


 何より。


 人の生命や身体への損害は、


 あとで金を払えば元通り、


 ではありません。


「先生」


 西村さんが言いました。


「これなら止まりますか」


 片桐所長は答えませんでした。


「先生」


「裁判所が判断します」


「……」


「私が止まると言えば、安心しますか」


 西村さんは黙りました。


「その安心に意味はない」


 厳しい。


 でも。


 嘘をつかない。


「私たちがやるのは」


 所長は資料を揃えながら言いました。


「止めるべき理由を、弁護士と裁判所が読める形にすることです」


 夕方。


 私たちは市役所ではなく、県の出先機関へ向かいました。


 許可処分庁は県知事。


 しかし。


 地元の市役所も開発計画には関与している。


 特に、防災や道路、水路の現場事情については市が握っている情報もある。


 そして。


 なぜか。


 会議室には沢渡課長がいました。


「何でいるんですか」


 私が聞きました。


「市の道路と排水路に関係しますので」


「行政法の事件があると必ずいますね」


「あなたもですね」


「仕事なので」


「私もです」


 ぐう。


 今日は引き分けです。


 県の担当者。


 開発会社の担当者。


 市役所から沢渡課長。


 片桐所長。


 相馬先輩。


 私。


 そして西村さん。


 机の真ん中には造成計画図。


「工事開始を一週間だけでも延期できませんか」


 片桐所長が切り出しました。


 県の担当者が答えます。


「許可はすでに出ています」


「承知しています」


「事業者に工事を行う法的資格がある以上、県が任意に停止させるのは難しい」


 開発会社の担当者も頷きます。


「重機も手配しています。下請けとの契約も済んでいます」


「住民側は取消訴訟を検討しています」


 相馬先輩が言いました。


 担当者が少し表情を変えました。


「訴訟ですか」


「必要ならな」


 沢渡課長が眼鏡を押し上げます。


「訴訟を提起することは自由です」


 出た。


 沢渡語録。


 だいたいこのあと嫌なことを言います。


「ただし」


 ほら。


「訴訟を提起しただけでは、工事は停止しません」


 西村さんの顔が強張ります。


「知ってます」


 私は言いました。


「執行不停止の原則ですね」


「ええ」


「だから執行停止も検討しています」


 一瞬。


 会議室が静かになりました。


 沢渡課長の目が少し細くなります。


「執行停止」


「はい」


「取消訴訟を提起した上で?」


「もちろんです」


「誰が訴えるのです」


「そこは弁護士と詰めます」


「原告適格は?」


 来た。


「斜面直下の住民を中心に整理します」


「出訴期間は」


「三か月」


 言ってから。


 私は心の中でガッツポーズしました。


 六か月じゃない。


 昭和六十三年。


 三か月。


 今日は踏まなかった。


 沢渡課長の眉が、ほんの少し動きます。


「被告は?」


「現代みたいに県じゃありません」


「では?」


「処分をした行政庁」


「具体的には」


「県知事」


 よし。


 二問連続正解。


 何の試験だ、これ。


「そして執行停止の理由は?」


 沢渡課長がさらに聞きます。


 相馬先輩が小さく舌打ちしました。


「おい課長。いつから口頭試験官になった」


「裁判に持ち込むと言うなら、こちらもリスクを評価する必要があります」


 なるほど。


 沢渡課長らしい。


 脅しでは動かない。


「裁判にするぞ!」


 では一ミリも動かない。


 でも。


 本当に訴訟要件を揃え、


 本当に執行停止まで取り得る相手なら。


 行政側も負ける可能性を計算し始める。


 私は資料を開きました。


「工事が進めば、斜面の樹木が伐採され、表土が剥ぎ取られます」


「ええ」


「元に戻すことは容易ではありません」


「それだけですか」


「斜面直下二十メートル付近から住宅があります」


「計画上、安全対策はされています」


「過去三年以内に土砂流出があります」


「小規模なものです」


「降雨時の湧水記録があります」


「把握しています」


「工事工程では、仮設排水路の完成前に一部の表土剥ぎ取りが予定されている」


 県の担当者が計画表を見ました。


「……その点は施工上の順序があります」


「今週後半は雨になる可能性があるそうです」


「天候に応じて対応します」


「その対応内容を住民側は知らされていません」


 沢渡課長が口を挟みました。


「朝比奈さん」


「はい」


「執行停止は、不安があるから認められる制度ではありません」


「分かっています」


「昭和六十三年の条文なら」


 来た。


「『回復の困難な損害を避けるため緊急の必要』です」


「……はい」


 先に言われた。


 悔しい。


「そこまで立証できますか」


 私は答えようとしました。


 しかし。


 片桐所長が先に言いました。


「できます、とは言わない」


 沢渡課長が所長を見る。


「裁判所が決めることだ」


「その通りです」


「だが」


 所長は写真を一枚、机に置きました。


 三年前の土砂流出。


「少なくとも、裁判所に検討してもらう材料はある」


 次に。


 工事工程表。


「工事開始は二日後」


 次に。


 住宅地図。


「斜面直下に住宅」


 次に。


 雨天時の写真。


「湧水記録」


 そして。


 住民説明会議事録。


「住民側は許可以前から危険性を指摘している」


 所長の声は低い。


「県がそれをどこまで検討して許可をしたのか。本案でも確認する」


 県の担当者の表情が変わりました。


 つまり。


 執行停止だけではない。


 本案。


 開発許可そのものが適法だったのか。


 そこにも踏み込む。


「もちろん」


 沢渡課長が言いました。


「本案について理由がないとみえるときは、執行停止は認められません」


「分かっている」


「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがある場合も同じです」


「分かっている」


「造成工事の停止による事業者の損害もある」


「それも出せばいい」


 片桐所長は淡々としていました。


「こっちは住民側の損害を出す」


 静かでした。


 怒鳴っていない。


 机も叩かない。


 でも。


 一番ヒリヒリする瞬間でした。


 西村さんの最初の、


 裁判にしてやる。


 とは違う。


 これはもう。


 法律上、どこを争うのかが見えている。


 相手もそれを理解している。


「一つ確認します」


 私は県の担当者に聞きました。


「許可の効力そのものを止めなければ、目的を達成できませんか」


「どういう意味でしょう」


「仮に裁判所が執行停止を検討するとして」


 私は言いました。


「処分の執行や、その後の手続の続行を止めることで足りるなら、処分の効力そのものまで停止するのは後ですよね」


 沢渡課長がこちらを見ました。


 そこ。


 執行停止には段階があります。


 処分の効力の停止。


 処分の執行の停止。


 手続の続行の停止。


 何でも最大限止めればいいわけではない。


 より限定的な停止で目的が達成できるなら、


 いきなり処分の効力そのものを止めるわけではない。


「工事を止めることが目的なら」


 私は続けました。


「何を停止してもらうべきか、弁護士と詰めます」


 沢渡課長が腕を組みました。


「そこまで整理していますか」


「はい」


「誰の指導です?」


「所長です」


「朝比奈」


 相馬先輩が低い声で言います。


「全部人の手柄にすんな」


「先輩もです」


「お前は?」


「私は……未来法を言いかけて止められました」


「何の話ですか」


 沢渡課長が聞きました。


「こちらの話です」


 危ない。


 会議は一時間近く続きました。


 結論は。


 工事の全面延期ではありませんでした。


 でも。


「伐採と表土剥ぎ取りは、再協議まで見合わせます」


 県の担当者が言いました。


 西村さんが顔を上げます。


「本当ですか」


「ただし、現場測量、資材搬入、安全柵の設置など、土地の形状を変更しない準備作業は行います」


「それなら……」


「県としても、追加資料を確認します」


 開発会社の担当者は明らかに不満そうでした。


「いつまでですか」


「まず三日」


「短すぎます」


 西村さんが言いました。


 所長が手で制しました。


「三日あればいい」


「先生?」


「弁護士へつなぐ」


 私は理解しました。


 止まったのではない。


 止まったふりでもない。


 三日。


 たった三日。


 でも。


 執行停止の準備をする時間ができた。


 訴状を整える。


 原告を固める。


 証拠を並べる。


 必要なら専門家の意見を取る。


 裁判所へ駆け込むための、


 三日です。


 県庁舎を出ると、西村さんが深く息を吐きました。


「三日だけか」


「はい」


「三日で何ができるんでしょうね」


 私は答えました。


「三日前まで」


 西村さんがこちらを見る。


「裁判を起こせば工事が止まると思ってましたよね」


「……ああ」


「何もしなければ、明後日から木が切られてた」


「そうだな」


「それが三日延びました」


「でも三日だ」


「はい」


 私は頷きます。


「だから三日を使います」


 西村さんはしばらく黙っていました。


 それから。


「法律って」


 ぽつりと言いました。


「もっと、白黒つけるものだと思ってました」


「私もです」


「勝つか負けるか」


「はい」


「でも今日は、三日を取るために法律使ったな」


 その言葉に。


 私は少しだけ胸を突かれました。


「そうですね」


 勝訴判決じゃない。


 処分取消しでもない。


 執行停止の決定ですらない。


 ただ、


 その準備のための三日。


 それでも。


 明後日消えるはずだった林が、


 三日後までは残る。


 その間に次の手を打てる。


 法律は、


 勝ち負けだけではない。


 時間を確保する道具にもなる。


 事務所へ戻ると。


 片桐所長はすぐ電話を取りました。


「先生。片桐です」


 提携している弁護士でした。


「開発許可取消しです。住民側」


 短く事情を話す。


「はい。工事開始予定は――当初明後日。三日間、形状変更を伴う作業は事実上見合わせになりました」


 私は書類を揃えます。


 事件概要。


 処分日。


 処分庁。


 許可内容。


 住民の住所。


 斜面との距離。


 原告適格の検討材料。


 出訴期間。


 工事工程。


 危険性に関する記録。


 執行停止を求める必要性。


 全部。


 一枚ずつ。


「取消訴訟を提起しないと」


 私は小さく呟きました。


「執行停止だけ先に頼む、ってできないんですよね」


 相馬先輩が頷きます。


「ああ」


「訴えが前提」


「そうだ」


「でも訴えを起こしただけじゃ止まらない」


「そうだ」


「……意地悪な制度ですね」


「制度が意地悪なんじゃねえ」


「じゃあ何です?」


「行政を止めるってのは、それだけ重いってことだ」


 私は黙りました。


 確かに。


 行政処分を争えば自動的に止まる。


 そんな制度だったら。


 許認可。


 徴税。


 公共事業。


 営業停止。


 その他あらゆる行政活動が、


 訴訟一本で一時停止してしまう。


 それでは社会が動かない。


 だから原則は止めない。


 でも。


 本当に待っていられない人には、


 例外として止める道を残す。


 厳格だから冷たい。


 でも。


 厳格だからこそ、


 「止める」という強い効果を裁判所が命じられる。


「今日の教訓」


 私は言いました。


「何だ」


「訴えたら止まる、と思うな」


「まあな」


「止めたいなら、止める要件を揃える」


「それだ」


 そして。


 昭和なら。


「回復の困難な損害」


「おう」


「緊急の必要」


「おう」


「取消訴訟の提起」


「忘れんな」


「本案で勝ち目なしに見えたら駄目」


「そうだ」


「公共の福祉に重大な影響がある場合も駄目」


「そうだ」


「……狭いですねえ」


「だから言ってんだろ」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「裁判なんて負け戦だ」


「でも、やるなら?」


「要件を揃えろ」


「今日は説得力ありますね」


「今日は、は余計だ」


 二日後。


 朝八時。


 電話が鳴りました。


 私が取りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『西村です』


「西村さん」


『今、山にいます』


 私は一瞬、緊張しました。


「工事、始まりました?」


『いや』


 後ろから鳥の声が聞こえました。


『重機は来てる。でも木には手をつけてない』


「そうですか」


『測量だけやってる』


「約束どおりですね」


『ああ』


 少し間。


『先生たちに、ありがとうって言っといて』


「まだ何も終わってませんよ」


『分かってる』


「裁判だってこれからです」


『分かってるよ』


 西村さんが笑いました。


『でもな』


「はい」


『今朝、鳥が鳴いてたんだ』


 私は窓の外を見ました。


『昨日までは、明日の朝にはこの木がないかもしれんと思ってた』


「……」


『今日はある』


 それだけでした。


「はい」


『三日だけでもな』


「はい」


 電話を切りました。


「どうした」


 相馬先輩が聞きます。


「工事、約束どおり待ってるそうです」


「そうか」


「鳥が鳴いてるって」


「は?」


「山で」


「そりゃ鳥くらいいるだろ」


「先輩には情緒というものがないんですか」


「仕事中だ」


「そういうところですよ」


 奥から片桐所長が出てきました。


「弁護士から連絡だ」


「はい」


「今日、住民と打合せをする」


「執行停止も?」


「検討する」


 私は頷きました。


 ここから先は。


 弁護士の仕事です。


 私たちは法廷には立てない。


 住民の代理人として裁判所へ申立てもできない。


 でも。


 その入口まで運ぶことはできる。


 処分日。


 工事日。


 危険箇所。


 住民との距離。


 過去の被害。


 写真。


 工程表。


 全部を整理し、


 裁判所で戦える形にして渡す。


 行政書士の仕事は、


 ときどき地味です。


 でも。


 地味な一枚がなければ、


 次の扉が開かないこともある。


「所長」


「何だ」


「もし執行停止が認められたら、工事はずっと止まるんですか」


「事情が変われば、取消しもある」


「行政庁の申立てで?」


「そうだ」


「厳しいなあ」


「仮の救済だからな」


 仮。


 その言葉が妙に残りました。


 永久に守る制度ではない。


 本案判決までの間。


 取り返しのつかないことが起きないように、


 一時的に時間を止める。


 ただし。


 事情が変われば、その停止すら見直される。


 仮の救済。


 仮だから弱い。


 でも。


 仮だから間に合うことがある。


 私は机の上の写真を見ました。


 雑木林。


 斜面。


 家々。


 今朝もそこにあるらしい木。


 たぶん法律は、


 山を守るために作られたわけではありません。


 鳥の声を守るためでもない。


 けれど。


 判決が間に合わないとき。


 勝つか負けるかを決める前に、


 まず、


 なくしてしまわない。


 そのための制度がある。


 それが執行停止。


「こはる」


 所長が言いました。


「弁護士に渡す資料、もう一部コピーしろ」


「はい」


「急げ」


「はい」


 私は立ち上がりました。


 そしてコピー機へ向かいながら、


 頭の中で今日の教訓を一行にしました。


 ――裁判を起こすだけでは、行政は止まらない。


 だから。


 間に合わないなら、


 判決を待つ前に、


 時間そのものを止めてもらう。


 ただし。


 昭和六十三年のその扉には、


 太い字でこう書いてあります。


 回復の困難な損害。


 緊急の必要。


 簡単には開きません。


 だからこそ。


 開けるなら、


 感情ではなく、


 事実で押す。


「先輩!」


「何だ!」


「コピー用紙ありません!」


「昨日補充しただろ!」


「使い切りました!」


「誰が!」


「私です!」


「止めろ!」


「執行停止ですか!」


「コピーをだ!」


「それは自動停止できます!」


「さっさと倉庫行け!」


「はい!」


 私は廊下へ飛び出しました。


 どうやら。


 行政事件訴訟より先に、


 片桐行政書士事務所のコピー機には、


 完璧な執行停止がかかったようでした。

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