[訴訟参加]現場編 「原告と役所だけの裁判です」の罠。判決で権利を失う第三者と、法廷の外から呼び込まれる行政庁
裁判というものは、二人で喧嘩するものだと思っていました。
訴える人。
訴えられる側。
原告。
被告。
向かい合って、
はい、勝ち負け。
ところが行政裁判には、ときどき。
「その判決、こっちにも刺さるんですけど」
という人が、横から現れます。
しかも。
その人を無視したまま話を進めると、裁判そのものが妙なことになる。
行政法。
今日も登場人物が増えます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談者は、扉を開けるなり言いました。
「裁判にしてやります!」
おお。
今日はずいぶん勢いがあります。
「絶対に取り消させます!」
「まず座ってください」
私は椅子を勧めました。
「お茶、出しますから」
「お茶なんか飲んでる場合じゃない!」
「では出しません」
「いや、喉は渇いてます」
「出します」
人間、怒っていても喉は渇く。
行政法より確実な法則かもしれません。
相談者は、
杉浦文雄さん、五十八歳。
湖の北側にある古い住宅地で、妻と暮らしています。
問題になっているのは、その家のすぐ南。
かつて小さな製材所があった土地でした。
そこへ今年の春、
東浜開発株式会社という地元の建設会社が、
五階建ての集合住宅を建てる計画を出した。
鉄筋コンクリート造。
三十二戸。
杉浦さんの家との距離は、近いところで十メートル少々。
「こんなもの建てられたら、冬なんか昼から日が入らなくなる!」
机の上に図面が広げられます。
「しかもですよ!」
杉浦さんは指を叩きつけました。
「市は建築確認を出したんです!」
私は図面を見ました。
敷地。
道路。
建物配置。
高さ。
杉浦宅。
なるほど。
かなり近い。
「確認をしたのは?」
「市の建築主事です」
私は少し姿勢を正しました。
建築確認。
建物を建てる前に、建築基準関係規定に適合しているかを確認する行政処分。
そして杉浦さんは、
その確認処分を争いたい。
「弁護士には?」
片桐所長が聞きました。
「まだです」
「なぜ、うちへ」
「町内会長に聞いたんです。片桐さんは役所相手の話に詳しいって」
所長は表情を変えませんでした。
「うちは行政書士事務所です。裁判の代理はできません」
「分かってます。でも、何を持って弁護士のところへ行けばいいのか分からない」
「それなら整理はできます」
「お願いします」
杉浦さんは身を乗り出しました。
「絶対に裁判で勝ちたいんです」
そこです。
私の頭の中で、
現代の受験知識が一斉に起きました。
取消訴訟。
原告適格。
訴えの利益。
出訴期間。
管轄。
被告適格。
そして。
建築確認を取り消してもらう。
よし。
いけるかもしれない。
いや待って。
もし工事が始まりそうなら。
差止訴訟?
いや。
昭和六十三年。
ありません。
法定されていません。
なら義務付け――
ない。
これもない。
仮の差止め――
ない。
あるのは基本的に執行停止。
「……昭和、きつい」
「何がだ」
相馬先輩が煙草をくわえながら言いました。
「独り言です」
「顔が死んでるぞ」
「未来ならもう少し道具があるんですよ」
「未来の話はいい」
「はい」
本当にこの時代、
行政裁判の武器箱が薄い。
でも今日は、そこだけではありませんでした。
杉浦さんが持ってきた封筒から、
一枚の紙が落ちました。
「これは?」
私が拾います。
「開発会社から来た通知です」
読む。
――近隣説明会開催のお知らせ。
事業者。
東浜開発株式会社。
代表取締役、東浜辰夫。
「工事は?」
「来月から基礎工事に入るって言ってます」
「来月?」
「だから急いでるんです!」
相馬先輩が図面を引き寄せました。
「確認処分の日は」
「六月二日」
「知ったのは」
「六月十日頃です」
今日の日付を確認。
まだ三か月は経っていない。
昭和六十三年の取消訴訟。
現代の六か月ではありません。
三か月。
私は無意識に胸を撫でました。
「何してる」
「命拾いしたなと」
「誰が」
「私が」
「お前は訴えねえだろ」
そのとおりです。
相馬先輩は杉浦さんに向き直りました。
「で。建設会社とは話したのか」
「話しましたよ」
「何て」
「『市から正式に確認を受けてるんだから問題ない』と」
「まあ、そう言うわな」
「腹が立ちますよ! 役所と俺の裁判なのに、あいつらは安全地帯から建てるだけなんですから!」
その瞬間。
片桐所長の指が止まりました。
「違う」
短い一言でした。
「え?」
杉浦さんが所長を見る。
「東浜開発は、安全地帯ではない」
「どういうことです?」
所長が図面の上に指を置きました。
「もし建築確認が取り消されたら、困るのは誰だ」
「そりゃ……」
杉浦さんが言葉を止めます。
私は先に分かりました。
「あ」
東浜開発。
建築確認を受けた側。
その確認を前提にマンションを建てようとしている会社。
もし杉浦さんの取消訴訟が認められて、
建築確認が取り消されたら。
東浜開発は、
建てられなくなる。
少なくとも、その確認に基づいて工事を続けることはできなくなる。
「つまり」
私は言いました。
「東浜開発も、この裁判の結果で権利を害される立場になる」
「権利?」
杉浦さんが怪訝そうな顔をします。
「私が役所を訴えるのに?」
「はい」
「会社は被告じゃないんですよね?」
「被告ではありません」
「じゃあ関係ないでしょう」
「それが」
私は言いかけました。
「関係ある」
片桐所長が引き取りました。
「裁判の結果で自分の権利を害される第三者は、訴訟に参加することがある」
杉浦さんが目を丸くします。
「参加?」
「法廷に?」
「場合によっては」
私は頭の中で条文の形を探しました。
行政事件訴訟法。
第三者の訴訟参加。
訴訟の結果によって権利を害される第三者があるとき。
当事者の申立て。
第三者自身の申立て。
または職権。
裁判所の決定によって参加させることができる。
そして決定前には、
当事者と第三者の意見を聴く。
「ちょっと待ってください」
杉浦さんが両手を上げました。
「私が市の処分を取り消せって裁判する」
「はい」
「そこへ、その処分で得してる建設会社が入ってくる?」
「可能性があります」
「敵が増えるじゃないですか!」
正直な感想です。
「嫌なんですけど!」
それも正直。
相馬先輩が鼻で笑いました。
「裁判は客を選べねえよ」
「でも俺が訴えるのは役所ですよ!」
「だからって、判決食らう奴を透明人間にはできねえ」
それです。
相馬先輩の言葉は雑なのに、
妙に核心を突きます。
裁判の当事者は、
原告と被告。
けれど、
判決の影響は必ずしも二人だけに閉じない。
行政処分というのは、
一つの処分で、
複数の人の利害が絡むことがあります。
建築確認。
営業許可。
競争関係。
免許。
土地利用。
一人にとっての利益が、
別の人にとっては不利益になる。
そういう行政処分を取り消そうとすれば、
訴訟の外側にいる人の権利まで揺れる。
「所長」
私は聞きました。
「参加するかどうかって、会社が勝手に決めるんですか」
「違う」
「裁判所?」
「決定が要る」
「ですよね」
私は杉浦さんの前にメモ用紙を置きました。
「東浜開発が『今日から参加します』と言えば自動的に入れるわけではありません」
「じゃあ誰が決めるんです」
「裁判所です」
「会社が頼むんですか」
「第三者自身が申し立てることもあります」
相馬先輩が続けます。
「お前さん側か、被告側が申し立てることもある」
「こっちから?」
「必要ならな」
「敵を自分で呼ぶんですか?」
「敵って決めつけんな」
「いやどう考えても向こうは建てたいでしょう!」
「まあ、そこはそうだろうな」
「敵じゃないですか!」
相馬先輩。
そこはもう少し相談者に寄り添ってください。
「それだけじゃありません」
私は言いました。
「裁判所が職権で参加させることもできます」
「本人たちが何も言わなくても?」
「はい」
杉浦さんの顔に、
裁判って思っていたより勝手が違うな、
と書いてありました。
よく分かります。
私だって受験生のとき、
参加。
という字面だけ見て、
法廷に追加メンバーが入る程度にしか思っていませんでした。
でも。
今ここで見ると意味が違う。
マンションを止めたい住民。
確認処分をした行政庁。
その確認を信じて億単位の工事を進める建設会社。
三者の利害が、
一つの処分に結びついている。
「参加を決める前には」
片桐所長が言いました。
「裁判所は当事者と第三者の意見を聴く」
「俺の意見も?」
「そうだ」
「会社の意見も?」
「そうだ」
「役所の意見も?」
「当事者だからな」
杉浦さんは腕を組みました。
「……面倒ですね、裁判って」
「だから怒鳴って始めるもんじゃねえんだよ」
相馬先輩が言います。
「要件を揃えてから弁護士へ渡す」
「でも」
杉浦さんは図面を見ました。
「それでも、やります」
怒りだけだった声が、
少し低くなっていました。
「家は、三十年以上住んでるんです」
「はい」
「冬になると、妻が縁側で洗濯物畳むんですよ」
図面の南側を指す。
「そこへ五階建てが来る」
杉浦さんはゆっくり言いました。
「法律上、建てられるかどうかは分かりません。でも、確認の仕方がおかしいなら、ちゃんと見てもらいたい」
さっきまでの、
裁判にしてやる。
とは違う。
何を争いたいのかが、
少しだけ形になりました。
片桐所長が頷きます。
「では調べる」
「何をです?」
「入口からだ」
原告適格。
取消しを求める法律上の利益。
出訴期間。
処分性。
被告。
管轄。
そして。
処分が取り消された場合、
直接権利を害される第三者が誰か。
「相馬」
「はい」
「建築確認関係を洗え」
「分かりました」
「こはる」
「はい」
「行政庁も見ろ」
「行政庁?」
「建築主事だけで終わると思うな」
私は首をかしげました。
そこで所長は、
もう一つの宿題を投げてきました。
「この件に関係する行政庁を全部拾え」
午後。
私は市役所の建築担当部署で、
猛烈に混乱していました。
「ですから」
職員さんが説明します。
「建築確認自体は建築主事が行っています」
「はい」
「ただ、この計画については道路関係、消防関係、それから県との協議もあります」
「はい」
「それぞれ別です」
「はい」
はいしか言えなくなってきました。
行政組織。
人間の脳を試している。
そんな気がします。
隣で相馬先輩は平然と資料をめくっていました。
「消防は」
「事前協議済みです」
「県の建築指導側は」
「今回の確認処分そのものの処分庁ではありません」
「道路管理者は」
「市長部局です」
「なるほど」
会話についていけない。
私は必死でメモします。
建築確認をした行政庁。
それ以外に、
関連する権限や専門的知見を持つ行政庁。
そして行政事件訴訟法には。
処分または裁決をした行政庁以外の行政庁を、
訴訟に参加させる制度もある。
これが、
行政庁の訴訟参加。
「朝比奈」
「はい」
「何で難しい顔してる」
「行政庁も増えるんだなって」
「役所は一枚岩じゃねえぞ」
「市役所っていう巨大生物だと思ってました」
「解剖すると部署だらけだ」
「嫌な解剖ですね」
そのまま総務課へ行くと。
やはりいました。
「またあなた方ですか」
沢渡課長。
この人、
行政法のテーマごとに待ち構えている気がします。
「今度は何でしょう」
相馬先輩が資料を置きました。
「杉浦文雄さん。北浜町。集合住宅の建築確認」
「ああ」
「知ってるんですか」
私が聞くと、
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「訴訟を検討しているという話は建築担当から聞いています」
「情報回るの早いですね」
「市役所ですから」
そう言われると、
何となく怖い。
「杉浦さんは取消訴訟を考えている」
相馬先輩が言いました。
「まだ弁護士へ引き継ぐ前だ」
「行政書士事務所として要件整理中、ということですか」
「そうだ」
沢渡課長は私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「今度は六か月と言わないでくださいね」
「三か月です!」
「まだ何も聞いてません」
「先制防御です」
この人。
絶対、前の私の失敗を覚えている。
「それで」
片桐所長が静かに言いました。
「市はこの件を、建築主事だけの問題と考えているか」
沢渡課長の視線が変わりました。
「どういう意味でしょう」
「訴訟になった場合だ」
「……なるほど」
「関連行政庁の参加が必要になる可能性は」
少しの沈黙。
沢渡課長は椅子へ深く座り直しました。
「あり得ます」
「例えば」
「事案次第です」
「便利な答えですね」
私が言う。
「適切な答えです」
「そういうところですよ、課長」
「何がですか」
「壁」
「褒め言葉として受け取っておきます」
相馬先輩が資料を指で叩きます。
「訴訟になれば、処分庁以外の行政庁を参加させる制度がある」
「ええ」
「必要があると裁判所が認めればな」
「そのとおりです」
「申立ては?」
私が聞きました。
沢渡課長が私を見る。
「当事者からもできます」
「はい」
「参加しようとする行政庁からも」
「はい」
「それから裁判所が職権で決めることもできる」
「そうですね」
私は心の中で小さくガッツポーズ。
今日は間違えていません。
「ただし」
沢渡課長が続けました。
「裁判所が参加を決定する前には、当事者と、その行政庁の意見を聴く必要があります」
「そこまで覚えてます」
「試験ですか」
「現場です」
「結構」
何なんでしょう。
この人との会話。
敵なのか模擬試験監督なのか分かりません。
片桐所長が話を戻しました。
「市としては、杉浦さんの訴訟をどう見る」
沢渡課長は一瞬だけ黙りました。
「現時点では」
来ました。
役所語。
「建築確認は適法に行われたと認識しています」
「でしょうね」
「したがって、仮に取消訴訟が提起されたとしても」
「勝てる、と?」
私が聞く。
「こちらから勝敗を申し上げる立場ではありません」
「絶対心の中では言ってる」
「朝比奈さん」
「はい」
「訴訟は、怒っている人が勝つ制度ではありません」
ぐう。
正しい。
「杉浦さんに原告適格があるのか」
沢渡課長が続けます。
「訴えの利益はあるのか。出訴期間は守られているのか。管轄はどこか。被告は誰か」
最後の言葉で、
私は頭の中の現代知識を踏み抜きかけました。
現代なら公共団体。
この時代は違う。
処分をした行政庁。
「それらを満たして」
沢渡課長は冷静に言いました。
「ようやく中身の話でしょう」
悔しい。
でも。
そのとおりです。
訴訟要件。
入口。
どんなに日照が奪われるとしても。
どんなに確認処分がおかしいと感じても。
入口で落ちれば、
裁判所は本体を見てくれない。
「それと」
沢渡課長が言いました。
「東浜開発のこともお忘れなく」
「第三者参加ですか」
「ええ」
「確認が取り消されたら、建設会社側の権利に直接影響する」
「そういうことです」
「つまり」
私は言いました。
「原告対行政庁だけ見てたら足りない」
沢渡課長の眼鏡の奥が少し細くなりました。
「ようやく分かってきましたね」
腹が立つ。
でも今日は、
言い返せません。
事務所に戻ってから。
私たちは、
杉浦さんの件を一枚の紙にまとめました。
中央。
建築確認処分。
左。
杉浦文雄。
近隣住民。
取消訴訟を検討。
右。
東浜開発株式会社。
建築確認を受けてマンションを建築する側。
確認取消しによって、
直接不利益を受ける可能性。
下。
建築主事。
処分をした行政庁。
さらに、その周囲。
関連行政庁。
「何か」
私は紙を見て言いました。
「蜘蛛の巣みたいですね」
「行政事件はだいたいそうだ」
相馬先輩が答えます。
「処分一本だけ見てると足元すくわれる」
「第三者参加って、最初はもっと地味な制度だと思ってました」
「試験だと地味だろ」
「はい」
当事者若しくは第三者の申立て。
または職権。
裁判所の決定。
あらかじめ当事者と第三者の意見を聴く。
丸暗記すると、
眠い。
ものすごく眠い。
でも。
東浜開発の社長が、
「確認を信じて土地を買って、設計して、工事契約までしたのに、知らないところで確認を取り消されたらどうする」
と言ったら。
急に分かる。
無視できない。
その人の権利も、
判決で動くから。
「行政庁参加も同じですね」
私は言いました。
「処分した行政庁だけで全部分かるとは限らない」
「そういうことだ」
「別の行政庁が持ってる資料とか、専門的な立場とか、関係する権限が必要になる場合もある」
「裁判所が必要だと認めりゃ参加させられる」
「はい」
私はメモを書きました。
第三者。
判決で権利が傷つく人。
行政庁。
処分庁以外でも、必要なら裁判へ入る。
「でも」
私はペンを止めました。
「杉浦さんから見たら、怖いでしょうね」
「何が」
「自分は役所の処分を争いたいだけなのに、建設会社まで出てくる」
「そりゃ怖いだろ」
「相手が増えた感じがする」
「実際、利害関係人は最初からいる」
片桐所長が言いました。
私は顔を上げました。
「参加させたから増えるんじゃない」
「え?」
「最初からいる」
所長は図面を指しました。
「裁判所に見えていなかっただけだ」
その一言で。
訴訟参加という制度が、
少し違って見えました。
新しく敵を作る制度じゃない。
判決で権利が動く人を、
最初からいなかったことにしない制度。
なるほど。
法律って、
こういうところは妙に冷たい。
あなたの事情も聞く。
こっちの事情も聞く。
役所の事情も聞く。
誰がかわいそうかだけで決めない。
その冷たさが、
逆に誰かを守っている。
三日後。
提携先の弁護士、
宮坂先生が事務所へ来ました。
五十代。
細身。
笑うと穏やかですが、
書類を見る目だけ妙に怖い人です。
「片桐さん、ずいぶん整理しましたね」
机の上には、
杉浦さんの家と計画建物の位置関係。
建築確認の年月日。
杉浦さんが処分を知った時期。
周辺の高さ関係。
日照への影響。
関係行政庁。
そして、
東浜開発の立場。
宮坂先生は最後の紙を見て、
指を止めました。
「第三者参加まで見ていますか」
「必要になるかもしれません」
片桐所長が答えました。
「ええ」
宮坂先生が頷く。
「これは助かります」
私は少し嬉しくなりました。
いや。
私たちは裁判をするわけじゃない。
代理人でもない。
でも。
弁護士が裁判に入るとき、
何を確認しなければならないか。
どこに落とし穴があるか。
そこまで事実を揃えて渡す。
行政書士にできる戦い方は、
剣を振ることではなく。
剣を持つ人が転ばないよう、
地面の穴を先に見つけることなのかもしれません。
「ただ」
宮坂先生が言いました。
「杉浦さんには説明が必要ですね」
「東浜開発の参加ですか」
「そうです」
「嫌がると思います」
「でしょうね」
宮坂先生は苦笑しました。
「でも、訴訟参加は敵を増やすための制度ではない」
私は片桐所長を見る。
同じことを言っています。
「判決で権利を害される人がいるなら、その人にも手続に関わる機会を与える」
「はい」
「それが、結局は判決の納得性にもつながる」
なるほど。
勝ちたい側から見ると、
参加者が増えるのは邪魔に見える。
でも裁判所は、
原告だけを救えばいいわけでもない。
被告だけ守ればいいわけでもない。
一つの判決によって、
誰の権利がどう動くのか。
そこを見る。
「朝比奈さん」
宮坂先生が私を見る。
「杉浦さんには、あなたから先に話してもらえますか」
「私が?」
「ここまで相談を聞いているでしょう」
「はい」
「第三者が参加するかもしれないと聞いて、裁判を諦めるかもしれない」
「……はい」
「逆に、理解したうえで争うと言うかもしれない」
私は頷きました。
「分かりました」
その日の夕方。
杉浦さんが来ました。
「建設会社が入ってくるかもしれない?」
「はい」
やっぱり顔が曇りました。
「何で、あいつらまで」
「杉浦さん」
私はなるべくゆっくり言いました。
「東浜開発が裁判に参加すると決まったわけではありません」
「はい」
「でも、確認処分が取り消されれば、東浜開発は建物を建てられなくなる可能性があります」
「それはそうでしょう」
「つまり」
私は図を見せました。
「杉浦さんが勝ったとき、影響を受ける相手なんです」
「……」
「だから法律は、その相手を完全に蚊帳の外に置かない仕組みを持っています」
「相手のための制度ですか」
「相手だけのためじゃないと思います」
「じゃあ何のためです?」
少し考えました。
「判決で人生や権利が動く人を、いなかったことにしないためです」
杉浦さんが黙りました。
「杉浦さんも」
私は続けます。
「市役所と建設会社だけで話が進んで、『近所の人には関係ない』と言われたら嫌ですよね」
「そりゃ嫌です」
「同じなんだと思います」
少し間。
「なるほどね」
杉浦さんは図面を見ました。
「向こうから見れば、俺も厄介者か」
「たぶん」
「そこは否定してくれてもいいでしょう」
「すみません」
相馬先輩が奥で吹き出しました。
「でも」
杉浦さんはしばらくして言いました。
「それでも訴える方向で、先生に相談します」
「分かりました」
「会社が出てくるなら、出てくればいい」
少し前なら、
喧嘩腰に聞こえた言葉です。
でも今は違いました。
「その代わり」
杉浦さんは図面を叩きました。
「こっちも、ちゃんと話を聞いてもらいます」
「はい」
それでいい。
たぶん。
裁判というのは、
相手を黙らせる場所ではない。
むしろ、
黙っていた人まで呼んで、
それぞれの利害を法の言葉に変換する場所なのかもしれません。
一週間後。
事務所へ、
東浜開発の社長がやってきました。
私は思わず立ち上がりました。
「え」
「東浜ですが」
「はい」
「杉浦さんの件で」
来た。
当の第三者。
訴訟参加の教材が歩いてきました。
「片桐さんいます?」
「おります」
応接室へ通す。
東浜辰夫社長は、
想像していたより普通の人でした。
五十歳前後。
日焼けした顔。
高そうでも安そうでもない背広。
もっとこう、
悪徳開発業者です、
と額に書いてある人を想像していました。
現実はそう便利にできていません。
「うちも」
東浜社長は言いました。
「建築確認が取り消される可能性があると聞きました」
「訴訟になれば、その可能性はあります」
片桐所長が答えます。
「土地も買った。設計も済んでる。下請けとも契約してる」
「はい」
「それが知らんところで取り消されたら困る」
「そうでしょう」
「だから弁護士に相談します」
「それがいい」
敵同士のはずなのに。
妙に静かな会話でした。
「杉浦さんのことを恨んでますか」
つい聞いてしまいました。
東浜社長が私を見る。
「そりゃ困るよ」
「ですよね」
「でも、あの家が近いのも事実だ」
「……はい」
「俺だって逆の立場なら文句言うかもしれん」
私は少し驚きました。
「だから」
東浜社長は言いました。
「裁判になるなら、こっちの話も聞いてほしい。それだけです」
訴訟の結果により、
権利を害される第三者。
その文字が。
急に、人の顔になりました。
建築会社。
というラベルではない。
土地を買い、
契約を結び、
従業員を抱え、
処分を信じて計画を進めている人。
一方で。
杉浦さんも、
三十年住んだ家の日照を心配している。
どちらも、
自分の側から見れば正しい。
だから難しい。
だから、
片方だけ法廷の外に置いてはいけない。
東浜社長が帰ったあと。
私はしばらく扉を見ていました。
「何だ」
相馬先輩が言います。
「いえ」
「悪徳業者じゃなくてがっかりしたか」
「心を読まないでください」
「顔に書いてある」
「行政法の事件って」
私は言いました。
「悪者が一人いれば楽なんですね」
「現実はそうはいかねえよ」
先輩が煙草に火をつけます。
「住民には住民の事情」
「うん」
「業者には業者の事情」
「うん」
「役所には役所の事情」
「うん」
「だから法で整理する」
片桐所長が帳簿から目を上げました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
来た。
最近これ、
抜き打ち試験みたいになってません?
私は少し考えました。
「裁判は」
「うん」
「原告と被告だけ見ればいいとは限らない」
「もう少し」
「判決で権利を動かされる人がいるなら、その人も無視できない」
「そうだ」
私はさらに続けました。
「それと、処分した行政庁だけで足りない場合は、別の行政庁が訴訟に参加することもある」
「決めるのは」
「裁判所」
「きっかけは」
「当事者や第三者、行政庁からの申立て。それから職権」
「決定の前は」
「関係者の意見を聴く」
相馬先輩が煙を吐きました。
「今日は珍しく全部出たな」
「珍しくは余計です」
「じゃあ明日には忘れる」
「忘れません!」
たぶん。
もう忘れない。
訴訟参加。
受験テキストでは、
四角い枠の中に収まる知識でした。
第三者。
行政庁。
申立て。
職権。
裁判所の決定。
意見聴取。
でも現場では。
一つの建築確認に、
三つも四つも生活がぶら下がっている。
誰か一人だけを見れば、
簡単な話になります。
近隣住民がかわいそう。
建設会社がかわいそう。
役所は適法に処分した。
それぞれ、
一方向から見れば正しい。
法律はそこを、
面倒でも一つの机に乗せる。
あなたにも言い分がある。
あなたにも。
あなたにも。
だったら、
全部見てから決めよう。
そのための入口の一つが、
訴訟参加なのかもしれません。
私はノートの端に書きました。
――裁判の外にいる人でも、判決の外にいるとは限らない。
「何書いてる」
相馬先輩が覗き込みます。
「今日の教訓です」
「長い」
「いいんです」
「試験直前に見返しにくいぞ」
「じゃあ短くします」
下にもう一行。
――判決が刺さる人は、法廷の外に置かない。
相馬先輩が黙りました。
「どうです?」
「刺さる、って表現どうなんだ」
「分かりやすいでしょう」
「法律用語ではない」
「覚えられれば勝ちです」
「受験生の思想だな」
そのとき。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「東浜社長が忘れ物だ」
机を見る。
茶菓子の包み。
「何ですかこれ」
「煎餅」
「おお」
相馬先輩が即座に手を伸ばします。
「ちょっと待ってください」
「何だよ」
「杉浦さん側から相談受けてるのに、利害関係のある会社から煎餅もらうって微妙じゃないですか」
「ただの手土産だろ」
「でも」
「返すか?」
「……」
包みを見る。
老舗の醤油煎餅。
かなり美味しそうです。
「こはる」
所長が言いました。
「迷うなら返せ」
「はい」
正論。
私は包みを持ち上げました。
その瞬間。
相馬先輩の手が伸びる。
「一枚だけ」
「駄目です!」
「第三者として参加する」
「何にですか!」
「煎餅の処分」
「参加要件ありません!」
「結果によって俺の利益が害される」
「ただ食べたいだけでしょう!」
「重要な利益だ」
「裁判所に却下されます!」
片桐所長が一言。
「返してこい」
「はい」
「相馬」
「はい」
「手を離せ」
「……はい」
これが裁判所の決定なら、
ずいぶん迅速です。
ただし。
「所長」
「何だ」
「先輩の意見、あらかじめ聞きました?」
「聞く必要がない」
「訴訟参加じゃないからな」
相馬先輩が悔しそうに言いました。
「ですよね」
私は笑って、
煎餅の包みを抱え直しました。
判決で権利を害される人なら、
法廷の外に置いてはいけない。
でも。
煎餅を食べ損ねる先輩まで救済するほど、
行政事件訴訟法は親切にはできていないようです。
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