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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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274/366

[訴えの変更]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の事務所というのは、昼間より法律用語が少しだけ偉そうに見えます。


 電話が鳴らない。


 来客もいない。


 机の上には、水野さんの事件資料。


 営業停止処分通知書。


 温度管理表。


 廃棄した食材の伝票。


 予約台帳。


 売上帳。


 そして私は、


 その全部の横にノートを広げていました。


 表紙を開く。


 今日の見出し。


 ――訴えの変更。


「……地味」


「何がだ」


 向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけました。


「名前です」


「名前?」


「もっとこう、事件の途中で方向転換する制度なんだから、ドラマチックな名前でもいいじゃないですか」


「たとえば?」


「訴訟進路変更制度」


「余計分かりにくい」


「請求チェンジ」


「法律を玩具みてえに言うな」


「じゃあ訴えの変更でいいです」


「最初からそうしろ」


 はい。


 法律用語というものは、だいたい名前に華がありません。


 でも。


 水野さんの事件を見たあとでは、


 この地味な四文字が、


 かなり重要な分岐器に見えます。


 私はノートの最初に書きました。


 ――訴えの変更とは。


 訴訟の係属中に、


 原告が、


 請求の趣旨、


 または、


 請求の原因を変更すること。


「まずそこからです」


「言ってみろ」


 相馬先輩が言いました。


「請求の趣旨っていうのは、裁判所に何をしてほしいか」


「うん」


「請求の原因は、その請求を支える事実関係」


「まあ、大筋ではな」


 私は昨日の資料を引き寄せました。


 水野さんの場合。


 最初は、


 営業停止処分を取り消してほしい。


 これが中心。


 ところが、


 営業停止期間が終わり、


 店の経営も傷つき、


 本人の関心が、


 処分を消すことから、


 その処分で生じた損害を回復することへ移った。


「だから」


 私は言いました。


「取消請求から損害賠償請求へ変えたい、という話になった」


「そうだな」


「ただし、何でも好きに変更できるわけじゃない」


「そこからが本番だ」


 私はノートに大きく数字を書きました。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 七。


「七個もあるんですよ」


「昨日数えてたな」


「行政法って、条件を並べるの好きですよね」


「法律はだいたいそうだ」


「受験生には厳しい文化です」


「文化じゃねえ」


 では。


 一つずつ。


 一つ目。


 ――訴えの変更は、原告の申立てによる。


「ここ、意外と大事です」


「何が」


「裁判所が勝手に変えられない」


 私は鉛筆で丸をつけました。


 たとえば裁判官が、


 この人は取消しより損害賠償のほうが得でしょう。


 と考えたとしても。


 それだけで、


 勝手に請求を変更することはできない。


「原告の事件だから?」


「そういう理解でいい」


 所長が奥から言いました。


 帳簿を見ながらなのに、ちゃんと聞いています。


「裁判所は、原告が求めていないものを勝手に別の請求へ作り替える場所ではない」


「だから申立てが必要」


「そうだ」


 水野さんの件でも。


 本人が、


 もう取消しだけでは足りない。


 損害の回復を求めたい。


 そう考えた。


 その意思をもとに、


 代理人である久世先生が、


 訴えの変更を検討する。


「ここ、行政事件訴訟っぽくないですね」


「どういう意味だ」


「裁判所が行政を正してくれる、っていうより、原告がちゃんと自分で動かないと始まらない」


「当たり前だ」


 そう。


 裁判は、


 困っている人を見つけて自動的に救済内容を最適化してくれる制度ではありません。


 何を求めるのか。


 どこまで求めるのか。


 原告側が選ぶ。


 その選択をしなければ、


 変更も始まらない。


 私は一行。


 ――変更は原告発。裁判所発ではない。


 と書きました。


 二つ目。


 ――訴えの変更は、口頭弁論の終結に至るまで。


「締切です」


「そうだ」


「これ、昨日一番怖かったです」


 水野さんの訴訟は、まだ口頭弁論が終わっていませんでした。


 だから、


 訴えの変更を検討できた。


 もし。


 もう口頭弁論が終結していたら。


 同じようにはいかない。


「裁判って」


 私は言いました。


「始めたあとも時間制限があるんですね」


「訴訟は永遠に論点を追加していい場所じゃねえからな」


 相馬先輩が煙草の灰を落とします。


「最後の最後まで何でも持ち込めるなら、いつまで経っても判決できねえ」


「ああ」


 なるほど。


 原告の救済だけ見れば、


 いつでも変更できたほうが親切です。


 でも被告側だって、


 防御の準備をする。


 裁判所だって、


 どこかで審理を終えなければならない。


 だから、


 口頭弁論終結まで。


「救済と手続の安定の折り合いなんですね」


「そんなところだ」


 私は書きました。


 ――変更には締切がある。終結前に動く。


 そして横に大きく、


 「訴訟は時間との戦い」


 と囲みました。


「お前、何でも戦いにするな」


「現場に来ると本当に戦いなんですよ」


 三つ目。


 ――請求の基礎に変更がないこと。


「本丸です」


「そうだな」


 私はペンを置きました。


 ここは、ただ暗記すると分かりにくい。


 請求の基礎。


 という言葉自体が、


 すごく法律っぽい。


 でも水野さんの事件なら分かりやすい。


 営業停止処分。


 これが根っこ。


 取消訴訟では、


 その営業停止処分を取り消してほしい。


 一方。


 損害賠償請求では、


 その営業停止処分によって生じた損害を賠償してほしい。


 結論は違う。


 でも。


 中心になっている出来事は同じ。


「だから」


 私は言いました。


「事実の根っこが同じなら、請求の基礎に変更がない」


「単に事件名が同じってだけじゃねえぞ」


 相馬先輩が言いました。


「ですよね」


「審理する事実や証拠が、相当程度共通しているかを見る」


「そこ大事ですね」


 たとえば。


 営業停止処分通知書。


 立入検査記録。


 温度管理表。


 衛生課の判断資料。


 担当者の記録。


 これらは、


 処分取消しを争うときにも使う。


 そして損害賠償請求でも、


 そもそも処分がどういう事情で出されたのか。


 違法性があったのか。


 そこを判断する材料として使える。


「つまり」


 私はノートに書きました。


 ――事実と証拠をかなり共有できる。


「それが裁判の効率にもつながる」


 所長が言います。


「訴訟経済ですね」


「そうだ」


 同じ出来事を、


 別の裁判で最初から全部やり直す。


 それは時間も費用もかかる。


 だから。


 請求の基礎が変わらないなら、


 既存の訴訟手続を活用して、


 請求を変更する余地を認める。


「でも」


 私は言いました。


「何でも『同じ人のトラブルだから同じ基礎』にはならない」


「当然だ」


「たとえば水野さんが突然、店の大家との賃貸借トラブルをこの訴訟に持ち込む」


「無理だな」


「同じ店に関する話ではある」


「だが営業停止処分とは別の事実関係だ」


「はい」


 ここです。


 同じ人物。


 同じ店。


 同じ時期。


 では足りない。


 訴えの土台となる事実が、


 同じか。


「請求の基礎って」


 私は言いました。


「木の根っこみたいですね」


「また比喩か」


「枝は変えられる。でも根っこごと別の木にするのは駄目」


 相馬先輩が少し黙りました。


「……まあ、それは分かりやすい」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 出ました。


 四つ目。


 ――訴えの変更を認める場合、裁判所は決定をもって行う。


「ここも大事」


「申立てたら自動で変わるわけじゃない」


「はい」


 原告が、


 変更したいです。


 と言う。


 それだけでは終わらない。


 裁判所が、


 この変更を許してよいか。


 要件を満たしているか。


 判断する。


「決定」


 私は二重線。


「判決じゃないんですね」


「手続上の判断だからな」


 相馬先輩が言います。


 訴え変更そのものの可否について、


 裁判所が決定する。


 つまり。


 変更後の請求について最終的に勝つか負けるか。


 とは別問題。


「そこ、勘違いしそうです」


「何を」


「変更を認められたら、損害賠償も認められたような気がする」


「全然違う」


「ですよね」


 変更許可。


 これは、


 その請求をこの訴訟で扱ってよい。


 という入口の話。


 その請求に理由があるかどうかは、


 そのあと審理される。


「門を通れただけ」


「そうだ」


 最近。


 行政事件訴訟を勉強していると、


 本当に門ばかりです。


 原告適格。


 訴えの利益。


 出訴期間。


 被告適格。


 管轄。


 そして訴え変更でも、


 まず変更できるかどうか。


 裁判所へ行けば本題を聞いてもらえる。


 なんて思ったら大間違いです。


 その前に、


 入り口が何個あるのか。


 数えなければならない。


「昔の行政裁判って、やっぱり大変ですね」


 私が呟くと、


 相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「今も楽じゃねえだろ」


「未来では少し救済手段が増えるんです」


「また未来か」


「義務付けとか差止めとか」


「知らん」


「昭和六十三年には法定されてませんもんね」


「今使えねえ制度は忘れろ」


 はい。


 毎度のことながら、


 未来知識は実務で役に立ったり邪魔したりします。


 五つ目。


 ――裁判所は、変更を許す決定をする前に、あらかじめ被告の意見を聞かなければならない。


「ここ、昨日ちょっと勘違いしかけました」


「何を」


「被告の同意が必要なのかと思いました」


「違う」


「意見を聞く、ですよね」


「そうだ」


 この違い。


 かなり大事です。


 被告側に、


 変更していいですか。


 と許可を取る制度ではない。


 でも。


 被告に何も知らせず、


 裁判所と原告だけで請求内容を変えてしまうわけでもない。


「そりゃそうですよね」


 私は言いました。


「取消請求だと思って防御してたら、急に損害賠償請求になってたら困る」


「相手にも準備がある」


「だから意見を聞く」


 水野さんの事件では、


 市側から見れば、


 営業停止処分の取消しだけを争うつもりだった。


 ところが。


 損害賠償請求へ変更されれば、


 損害額。


 因果関係。


 違法性。


 責任。


 防御の重点も変わる。


 だから、


 被告の意見を聞く。


「でも最終決定権は裁判所」


「そのとおり」


 私は書きました。


 ――被告には発言権はある。拒否権ではない。


「雑だが覚え方としては悪くない」


「やった」


「試験答案に書くなよ」


「分かってます」


 六つ目。


 ――訴えの変更を許す決定に対しては、即時抗告ができる。


「ここから左右非対称ゾーンです」


「何だその呼び方」


「だってそうでしょう」


 許す。


 即時抗告できる。


 許さない。


 不服申立てできない。


 きれいに対称ではない。


「まず許す決定」


 私は言いました。


「被告からすると、訴訟の中身が変わる」


「うん」


「しかも、それによって防御の負担も増えることがある」


「だから即時抗告の道がある」


「はい」


 訴え変更を許されることにより、


 被告側の手続的利益にも影響が出る。


 だから。


 その許可決定について、


 不服を申し立てる手段が認められている。


 即時抗告。


「即時、って付くと急に怖いですね」


「期間が短いからな」


「法律は急がせるの好きですね」


「いつまでも争わせないためだ」


 確かに。


 手続上の判断を延々争われたら、


 本体の訴訟が進まない。


 だから、


 即時抗告という形で、


 迅速に処理する。


 そして七つ目。


 ――訴えの変更を許さない決定に対しては、不服を申し立てることができない。


「ここです」


 私はペンを止めました。


「昨日、相馬先輩に聞かれて逃げました」


「法理編に取っておく、とか意味不明なこと言ってたな」


「今日は逃げません」


「言ってみろ」


 私は少し考えました。


「変更を許さないと言われた場合でも」


「うん」


「原告は、変更したかった新しい請求を、別訴として提起できる余地がある」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


「だから」


 私は続けます。


「変更不許可そのものを、さらに上級審で争わせる必要性が低い」


「少なくとも制度はそう割り切ってる」


「なるほど」


 変更を許さない。


 だから、


 新しい請求そのものが永久に封じられる。


 とは限らない。


 別の訴えとして起こせる可能性がある。


 ならば。


 今の訴訟の中に入れることを認めなかったという手続上の判断についてまで、


 不服申立てを認めて手続を止める必要はない。


「一方」


 私は言いました。


「許す決定は被告に直接負担が来る」


「そうだ」


「だから即時抗告できる」


「そう整理しておけ」


 左右非対称。


 でも。


 理由を考えると少し見える。


 単なる意地悪な暗記項目ではない。


「こういうの」


 私は言いました。


「理由を知ると覚えやすいですね」


「今さらか」


「受験生時代は、許可=即時抗告、不許可=不服不可って呪文で覚えてました」


「雑だな」


「でも覚えてましたよ」


「意味が分かってなきゃ現場じゃ使えねえ」


 はい。


 それを毎日叩き込まれています。


 私はノートを見直しました。


 一。


 原告の申立て。


 二。


 口頭弁論終結まで。


 三。


 請求の基礎に変更がない。


 四。


 裁判所が決定。


 五。


 あらかじめ被告の意見を聞く。


 六。


 許可決定には即時抗告。


 七。


 不許可決定には不服申立て不可。


「よし」


 私は満足して頷きました。


「何がよしだ」


「七個並びました」


「試験なら順番入れ替えて出してくるぞ」


「やめてください」


「『裁判所は職権で変更できる』」


「誤り」


「『口頭弁論終結後でもできる』」


「誤り」


「『請求の基礎が変わってもよい』」


「誤り」


「『被告の同意が必要』」


「誤り。意見を聞く必要はあるけど、同意までは要らない」


「『変更不許可決定には即時抗告できる』」


「誤り!」


「『変更許可決定には不服申立てできない』」


「誤り! 逆!」


「まあまあだな」


 ふう。


 急に模擬試験を始めないでください。


「ところで」


 私はノートの端に、


 昭和六十三年。


 と書きました。


「今回の訴え変更自体は、現代でも基本的な考え方は残ってますけど」


「また未来と比べるのか」


「せっかく転生してるので」


「お前の都合だろ」


「でも行政事件訴訟全体を見ると、今と昔ではかなり違います」


 私は三本、線を引きました。


 一つ目。


 出訴期間。


「現代の取消訴訟は、原則として処分を知った日から六か月」


「今は?」


「昭和六十三年は三か月」


「半分か」


「はい」


 短い。


 現代感覚で、


 まだ六か月ある。


 なんて思っていたら、


 昭和ではとっくに手遅れになることがある。


「二つ目」


 私は書きます。


 被告。


「現代なら国や公共団体を被告にする」


「この時代は?」


「処分をした行政庁」


 たとえば市長の処分なら、


 市ではなく、


 市長。


「ここも間違えたら入口で転ぶ」


「そうだ」


「未来人には地雷ですね」


「未来人じゃなくても確認しろ」


「はい」


 三つ目。


 抗告訴訟の種類。


「現代では義務付け訴訟や差止訴訟が法定されてる」


「昭和六十三年には?」


「法定されていない」


「じゃあ使えねえのか」


「無名抗告訴訟として議論はあり得るけど、かなり厳しい」


「そういうことだ」


 今なら。


 行政庁に処分をしてほしい。


 これからされる処分を止めたい。


 という場面について、


 法律上の訴訟類型が用意されている。


 でもこの時代。


 そういう救済はずっと狭い。


 仮の救済も、


 現代のような仮の義務付けや仮の差止めはない。


 基本は執行停止。


「昔の行政裁判」


 私は言いました。


「使いにくいですね」


「だから要件を外すな」


 相馬先輩が即答しました。


「裁判なんて負け戦だ」


「口癖出ましたね」


「だがやるなら」


「要件を揃えろ」


「分かってんじゃねえか」


 はい。


 かなり染みついてきました。


 行政事件訴訟は、


 行政が悪そうだから裁判。


 ではない。


 まず。


 誰が。


 何を。


 いつまでに。


 誰を相手に。


 どの訴訟類型で。


 どの裁判所に。


 何を求めるのか。


 そして途中で事情が変わったら、


 訴えの変更ができるのか。


 全部。


 入口です。


「そう考えると」


 私は言いました。


「訴えの変更って、救済の柔軟性を少し確保する制度なんですね」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「そうだな」


「厳格な訴訟の中に、少しだけ方向転換できる仕組みがある」


「ただし条件付きだ」


「はい」


 好き勝手に変えていい。


 ではない。


 厳しい条件を守った上で、


 同じ争いの根から生まれた別の請求へ、


 手続をつなぎ直す。


 だから。


 硬い制度の中の、


 柔らかい継ぎ目。


 そんな感じがします。


 私は昨日の水野さんを思い出しました。


 店を閉める。


 営業停止処分を取り消してもらっても遅い。


 最初は、


 全部無駄だった。


 そんな顔をしていました。


 でも。


 取消訴訟で集めた資料。


 営業停止処分を巡る事実。


 そこまで積み上げたものは、


 全部消えたわけではない。


 同じ処分を基礎とする損害賠償請求へ、


 つながる可能性がある。


「訴えの変更って」


 私は言いました。


「失敗した訴訟をやり直す制度じゃないんですね」


「違う」


「途中で見えてきた別の救済を、同じ訴訟の土台に乗せ直す制度」


「その理解でいい」


 所長が答えました。


「だから請求の基礎が同じ必要がある」


「そうだ」


 もし根っこまで違うなら、


 別訴でやる。


 同じ根なら、


 今までの審理を生かして変更できる余地がある。


 ここが肝です。


 私はノートの最後に、


 今日の一行。


 と書きました。


「来たな」


 相馬先輩が言います。


「毎回ここが難しいんですよ」


「七個全部入れるなよ」


「無理です」


 考えます。


 原告の申立て。


 終結まで。


 同じ基礎。


 裁判所の決定。


 被告意見。


 即時抗告。


 不許可は不服不可。


「……一行じゃ入りません」


「だから意味をまとめろ」


「意味」


 少し考えます。


 そして書きました。


 ――訴えの変更は、同じ事件の根を残したまま、終結前に救済の向きを変える制度。


「悪くねえ」


「お」


「ただ試験対策には七個覚えろ」


「結局それですか」


「当たり前だ」


 私はその下に小さく書き足しました。


 ――許可は即時抗告。不許可は不服不可。


「結局二行じゃねえか」


「そこは落とせません」


 所長が立ち上がりました。


「終わったか」


「はい」


「なら帳簿」


「え」


「昨日の残りだ」


「ちょっと待ってください」


「何だ」


「請求の趣旨を変更します」


 相馬先輩が吹き出しました。


「何から何へだ」


「『帳簿整理をする』から、『今日は帰宅する』へ」


「請求の基礎が違う」


「同じですよ!」


「どこがだ」


「私の労働という事実から発生してます!」


「却下」


「裁判所の決定ですか?」


「所長決定だ」


「被告の意見は?」


「俺が被告か?」


「じゃあ原告は私で――」


「こはる」


 所長が静かに言いました。


「変更不許可」


「即時抗告します!」


「できない」


 私は止まりました。


「……あ」


 相馬先輩が机を叩いて笑います。


「覚えたな」


「こんな形で確認問題にしないでください!」


「不許可決定には?」


「不服申立てできません!」


「よし」


「よしじゃない!」


 帳簿が一冊。


 私の机に置かれました。


 逃げ道がありません。


 法律上も。


 事務所内政治上も。


 私はため息をついて椅子へ戻りました。


 窓の外では、


 商店街の明かりがゆっくり灯り始めています。


 水野さんの店にも、


 まだ看板が出ているでしょう。


 来月には、その看板が外れるかもしれない。


 でも。


 若い従業員が別の場所で店を継ぐかもしれない。


 訴訟も同じです。


 最初に求めたものが、


 途中で現実に合わなくなることがある。


 時間が経つ。


 事情が変わる。


 損害が生まれる。


 原告の本当に欲しい救済が変わる。


 法律は、


 それを全部無視して、


「最初に決めたんだから最後までそのまま」


 とは言わない。


 ただし。


 何でも許すわけでもありません。


 原告から申し立てる。


 口頭弁論の終結まで。


 請求の基礎は変えない。


 被告の意見を聞く。


 裁判所が決める。


 許された側には即時抗告の道がある。


 許されなかった側は、その決定自体を争えない。


 厳しい。


 細かい。


 面倒です。


 でも。


 その細かさがあるから、


 相手を突然振り回さず、


 裁判を壊さず、


 それでも現実に合わせて救済の向きを変えられる。


 柔軟さというのは、


 好き勝手にできることではありません。


 むしろ。


 決められた関節があるから、


 折れずに曲がれる。


 訴えの変更とは、


 たぶんそういう制度です。


「こはる」


「はい」


「手が止まってる」


 相馬先輩が言いました。


「今いいこと考えてたんです」


「帳簿は考えても減らねえ」


「現実が厳しい」


「訴えを変更するか?」


「帰宅請求へ」


「不許可」


「不服は?」


「できねえ」


「……今日の復習、完璧ですね」


 相馬先輩が笑いました。


 私も笑いました。


 昭和六十三年。


 法律の救済は、


 今よりずっと狭い。


 期間も短い。


 訴訟の種類も少ない。


 間違えれば入口で終わる。


 そんな時代です。


 だからこそ。


 使える制度は、一つも雑に扱えない。


 途中で道を変える制度ですら、


 七つの関門を抜けなければならない。


 でも。


 その七つを抜ければ。


 一度走り出した裁判にも、


 まだ別の出口が残っていることがある。


 私はノートの最後の一行を、


 もう一度だけ読みました。


 ――訴えの変更は、同じ事件の根を残したまま、終結前に救済の向きを変える制度。


 そして。


 その下に小さく。


 ――人生の変更には、たぶん裁判所の決定はいらない。


 と書き足しました。


「何書いた」


「秘密です」


「見せろ」


「嫌です」


「所長命令」


「それ、職権ですか?」


「そうだ」


「訴えの変更は職権ではできません!」


「だから訴えじゃない」


「またそれ!」


 どうやら。


 法律知識が増えるほど、


 この事務所では言い逃れの材料も増えていくようでした。

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