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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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273/394

[訴えの変更]現場編 「裁判を始めたら、もう請求は変えられない」の罠。ひとつの営業停止処分から生まれた損害と、訴訟の途中で進路を変えるための七つの関門

挿絵(By みてみん)

 走り出した列車は、途中で行き先を変えられない。


 私はずっと、裁判もそんなものだと思っていました。


 取消しを求めて始めたなら、最後まで取消し。


 損害賠償なら、最初から損害賠償。


 途中で、


「やっぱりこっちへ行きます」


 なんて言ったら、


 裁判官に怒られる。


 ――ところが。


 法律というものは、ときどき列車に分岐器を用意しています。


 ただし。


 好き勝手にハンドルを切れるわけではありません。


 分岐器には鍵がついている。


 しかも、その鍵穴がやたら多い。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の相談者は、扉を開けるなり言いました。


「もう裁判なんかどうでもいい!」


 私は持っていた湯呑みを落としかけました。


「え」


「取り消してもらったって、もう遅いんだ!」


 男の名前は、


 水野宗一郎。


 四十七歳。


 駅から少し離れた商店街で、小さな仕出し屋を営んでいました。


 弁当。


 折詰。


 法事料理。


 宴会料理。


 町内会の集まりから工場の昼食まで、地元ではそれなりに知られた店だったそうです。


 ところが二か月前。


 市から営業停止処分を受けた。


 理由は、衛生管理上の重大な問題。


 五日間の営業停止。


 それだけ聞けば、


「五日くらいなら」


 と思うかもしれません。


 でも。


 仕出し屋にとっての五日は、単なる五日ではありません。


 その週末には、


 結婚披露宴。


 法事。


 自治会の総会。


 工場の創立記念会。


 予約が集中していた。


 全部キャンセル。


 材料は廃棄。


 得意先は離れた。


 しかも、


「食中毒でも出したらしい」


 という噂まで町に広がった。


「実際に食中毒は?」


 私が聞くと、水野さんは机を叩きました。


「出てない!」


「問題になったのは?」


「冷蔵庫の温度記録だ」


「記録?」


「一日だけ空欄になってた。それと、保健所の担当が来たとき、作業場のバケツが所定の位置に置かれてなかったとか、そんな話だ!」


「それで五日間の営業停止……」


「だからおかしいと思って、弁護士さんに頼んだんだ!」


 ここで。


 私は顔を上げました。


「もう訴訟になってるんですか」


「ああ」


 水野さんは鞄から書類の束を取り出しました。


「営業停止処分の取消しだ」


 私は紙を受け取ります。


 提携先の弁護士事務所名。


 訴状の写し。


 処分庁。


 処分日。


 取消しを求める旨。


 すでに訴訟は裁判所に係属している。


 ここから先は、私たち行政書士が代理人として触れる領域ではありません。


 だから今日、水野さんが片桐事務所へ来たのも、裁判を任せに来たわけではありませんでした。


 もともと処分前後の営業許可関係資料や、衛生管理記録の整理を片桐事務所が手伝っていた。


 その流れで、


 訴訟に使う事実関係をまとめ、


 弁護士へ渡していたのです。


「それで」


 相馬先輩が煙草を指に挟みながら聞きました。


「何が変わった」


「店だ」


「店?」


「もう閉める」


 水野さんの声が低くなりました。


 私は言葉を失いました。


「得意先が戻らない。銀行もいい顔をしない。従業員も二人辞めた」


「……」


「営業停止を取り消してもらったって、俺はもうあの店を続けられない」


 取消訴訟。


 処分を消してほしい。


 そのために始めた裁判。


 でも。


 裁判が続いている間にも、現実は進みます。


 店は傷つく。


 信用は落ちる。


 金は出ていく。


 人は離れる。


 判決だけが、時間の外にいるわけではありません。


「だから」


 水野さんが言いました。


「俺はもう、処分を取り消せなんて言わない」


 書類を指で押さえる。


「失った金を払ってもらいたい」


 私は息をのみました。


 損害賠償。


 その四文字が頭に浮かびました。


 営業停止処分によって生じた損害。


 売上減少。


 廃棄材料。


 キャンセル。


 信用低下。


 もし処分に問題があったなら。


 国や公共団体に損害賠償を求める余地がある。


「じゃあ」


 私は言いかけました。


「今の取消訴訟をやめて、新しく損害賠償請求を――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい」


「何でいきなり訴訟を捨てる」


「だって請求が違いますよ」


「だから?」


「取消しを求める訴えと、損害賠償を求める訴えですよ?」


「だから?」


 嫌な聞き方をします。


 私は少し考えました。


「……別の裁判を起こす?」


「それしかねえと思ってる顔だな」


「違うんですか」


 相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。


「所長」


 片桐所長は、水野さんの訴状を読んでいました。


 しばらくして、


「訴えを変更できる可能性がある」


 と言いました。


「訴えの変更」


 私は反復しました。


 知っています。


 もちろん知っています。


 受験生ですから。


 でも。


 現場で出会うと、また顔が違います。


「途中から請求を変えるんですか」


「原告の申立てでな」


「裁判所が勝手に?」


「違う」


 所長が即答しました。


「原告が申し立てる」


 一本目。


 原告の申立て。


 私は頭の中に赤線を引きました。


「じゃあ裁判官が、『取消しより損害賠償のほうがいいですね』って勝手に変えることは――」


「できねえよ」


 相馬先輩が言いました。


「裁判所は人生相談所じゃねえ」


「言い方」


「だが」


 所長が続けました。


「何でも変更できるわけじゃない」


「ですよね」


 そりゃそうです。


 取消訴訟を始めておいて、


 途中から、


 隣家との境界争いに変更します。


 なんて言われたら裁判所も困る。


「請求の基礎に変更がないこと」


 所長が言いました。


 出ました。


 教材で見ると、急に眠気を誘ってくる日本語。


 請求の基礎に変更がない。


「つまり」


 私は慎重に言いました。


「根っこになっている事実が同じ?」


「そう考えろ」


 私は目の前の資料を見ました。


 水野さんが営業停止処分を受けた。


 取消訴訟では、


 その営業停止処分がおかしい。


 だから取り消してくれ。


 と争っている。


 一方。


 損害賠償なら、


 その営業停止処分によって損害を受けた。


 だから賠償してくれ。


 となる。


「同じ営業停止処分から出てる……」


 私が呟くと、


 水野さんが眉を寄せました。


「何がだ」


「裁判の根っこです」


 私は書類を並べました。


「取消しでも、損害賠償でも、中心になる出来事は同じです。水野さんがこの営業停止処分を受けたこと」


「じゃあ変えられるのか」


「まだそこまでは」


 所長が止めました。


「可能性があるだけだ」


 そうでした。


 行政法は、


「要件ひとつ見つけた! 勝った!」


 と思った瞬間に、次の要件が後ろから殴ってきます。


「ほかには?」


 私が聞くと、


 相馬先輩が指を折りました。


「まず時間だ」


「期間?」


「口頭弁論が終わってから、『やっぱ変えます』は無理だ」


「あ」


「変更できるのは口頭弁論の終結まで」


 二本目。


 口頭弁論終結前。


「今、どこまで進んでます?」


 私は水野さんへ聞きました。


「この前、二回目が終わった」


「終結は?」


「知らん」


「弁護士の先生にすぐ確認です」


 相馬先輩が頷きます。


「そこだ」


 私は時計を見ました。


 こういうとき、法律には不思議な力があります。


 さっきまで、


 水野さんの店が潰れそうだ。


 信用がなくなった。


 損害が出た。


 という重い話だったのに、


 口頭弁論終結。


 という言葉が出た瞬間、


 現場の空気が締まる。


 悲しいかどうかではない。


 間に合うか。


 要件を満たすか。


 そこを冷たく確認する。


 でも。


 たぶん、その冷たさが人を救う。


「電話します」


 相馬先輩が提携先の弁護士へ連絡しました。


 短いやりとり。


「……はい。水野さん来てます。ええ。取消訴訟の件です。本人は損害賠償へ比重を移したいと」


 少し間。


「まだ終結してない?」


 私は思わず顔を上げました。


「分かりました。資料まとめます」


 電話を切る。


「間に合う」


 水野さんが息を吐きました。


「じゃあ、変えられるのか?」


「まだだ」


 相馬先輩がまた止めます。


「何なんだ!」


「裁判は自動販売機じゃねえ。条件入れたら判決が出てくるわけじゃねえんだ」


「先輩、それ余計怒らせます」


 私は水野さんを見ました。


「裁判所に申し立てて、認めてもらう必要があります」


「裁判所が決めるのか」


「はい」


 所長が補足しました。


「決定でな」


 三本目……ではなく。


 待て。


 順番。


 原告の申立て。


 口頭弁論終結まで。


 請求の基礎に変更がない。


 そのうえで、


 裁判所が決定。


「被告は?」


 私が聞きました。


「どういう意味だ」


「突然、『今日から損害賠償請求になりました』って言われるんですか」


 所長は首を横に振りました。


「裁判所は、あらかじめ被告の意見を聞く」


「ですよね」


 被告側だって裁判の準備をしています。


 取消しの話だけだと思っていたのに、


 いきなり、


 一千万円払え。


 と言われたらたまりません。


「相手の同意が必要なんですか?」


「同意とまでは言ってねえ」


 相馬先輩が言います。


「意見を聞く」


「あ」


「決めるのは裁判所だ」


 なるほど。


 被告に拒否権があるわけではない。


 でも、


 黙って変更するわけでもない。


 先に意見を聞く。


「じゃあ」


 私は紙の余白に書きました。


 原告が申し立てる。


 終結まで。


 請求の基礎は同じ。


 被告の意見を聞く。


 裁判所が決定。


「五個」


「まだあるぞ」


 相馬先輩が言いました。


「まだ?」


「許可する決定に不満がある側は?」


「……即時抗告?」


「そうだ」


「じゃあ、変更を認めない決定に対しても即時抗告?」


「それはできねえ」


「え」


「不服申立てはできない」


「片方だけ?」


「片方だけだ」


 私は眉を寄せました。


「嫌な試験問題ですね」


「現場の話してるときに試験問題って言うな」


「でも絶対出したくなる並びじゃないですか!」


 許す決定。


 即時抗告できる。


 許さない決定。


 不服申立てできない。


 対称に見えて、対称じゃない。


 行政法。


 こういうのが好きすぎます。


 受験生は好きじゃありません。


「それで」


 水野さんが苛立ったように言いました。


「俺は何をすればいいんだ」


 その一言で。


 私は現場へ戻りました。


 そう。


 今日は暗記大会ではありません。


 人の店が消えるかもしれない話です。


 所長が言いました。


「事実を揃える」


「事実?」


「取消訴訟で使っている資料と、損害の資料をつなげる」


 そこです。


 請求の基礎が同じ。


 ということは。


 同じ事実から争いが生じている。


 ならば、


 すでに集めた証拠の多くが、新しい請求にも使える可能性がある。


 営業停止処分通知書。


 保健所の立入記録。


 冷蔵庫の温度管理表。


 従業員の陳述書。


 衛生状態の写真。


 担当者とのやりとり。


 これらは取消訴訟で、


 処分に問題がなかったか。


 を判断する資料です。


 でも損害賠償でも、


 そもそも処分がどういう事情で出されたのか。


 という根っこの部分で使える。


「追加で必要なのは」


 私は言いました。


「損害の資料」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「数字にしろ」


 水野さんが少し顔をしかめました。


「数字?」


「『店が潰れた』だけでは足りない」


「……」


「何が、いくら減った」


 相馬先輩が続けます。


「何件キャンセルされた。材料をいくら廃棄した。どの取引先が離れた。営業停止とのつながりは何か」


「全部出せっていうのか」


「出さなきゃ裁判所は分からねえ」


 冷たい。


 でも正しい。


 裁判所は、


 水野さんがどれだけ悔しかったかを自動的に知ってくれる場所ではありません。


 事実にする。


 数字にする。


 証拠にする。


 その作業が必要です。


「分かりました」


 私はノートを開きました。


「予約台帳、残ってます?」


「ああ」


「営業停止期間中に入っていた注文を全部確認しましょう」


「分かった」


「キャンセル連絡の記録は?」


「電話ばっかりだ」


「覚えている範囲で相手先と日付を」


「はい」


「仕入れ伝票」


「ある」


「廃棄した材料の記録」


「一部は」


「取引停止になった相手先」


「三社」


「その前後の売上帳」


「全部店にある」


 水野さんの声が変わってきました。


 怒鳴り声ではない。


 仕事の声です。


 何を確認する。


 何を探す。


 何を証明する。


 その順番が見え始めると、人は少しだけ落ち着きます。


 相馬先輩が言いました。


「こはる。表にしろ」


「何の?」


「損害」


「はい」


「営業停止前、期間中、停止後」


「売上推移」


「予約取消し」


「仕入廃棄」


「取引停止」


「人件費」


「銀行関係」


「はい」


「あと噂話と実損を混ぜるな」


「了解です」


 所長がさらに言います。


「取消訴訟で争っている事実との対応も付けろ」


 なるほど。


 単なる損害一覧では足りない。


 この損害が、


 あの営業停止処分から生じたのか。


 そこまで線を引く。


 それが、


 請求の基礎が同じという話を、


 実務の資料に落とすということです。


 二日後。


 私たちは分厚いファイルを持って、提携先の弁護士事務所へ行きました。


 担当の弁護士、


 久世先生は、


 資料の山を見るなり言いました。


「ずいぶん揃えましたね」


「所長が容赦なくて」


「お前もだろ」


 相馬先輩が言います。


「私は優しく聞きましたよ」


「『伝票ありませんか、台帳ありませんか、通帳ありませんか』って三時間やった奴が言うな」


「必要な確認です」


 水野さんも一緒でした。


 久世先生は、


 取消訴訟の記録と、


 新たに整理した損害資料を並べます。


「水野さん」


「はい」


「まず確認ですが、訴えの変更を申し立てたからといって、必ず認められるとは限りません」


「……はい」


「今回はこちらとしては、営業停止処分という同一の事実関係を基礎にしていると主張します」


「請求の基礎に変更がない」


 私が思わず言うと、


 久世先生がこちらを見ました。


「そうです」


 ちょっと嬉しい。


 法律用語が現場で通じた瞬間です。


「取消しを求めていた訴えと、損害賠償を求める訴えでは請求内容は違います。ただ、営業停止処分に至る経緯、その違法性を基礎づける事情など、審理の土台には共通する部分が大きい」


 久世先生がファイルを叩きました。


「証拠もかなり重なります」


「だったら認められますよね」


「だから断言はできません」


 水野さんが苦い顔をします。


「法律家はそればっかりだな」


「断言して外すよりましです」


「……そりゃそうだ」


 その返しは気に入ったらしく、水野さんは少し笑いました。


「それと」


 久世先生が続けました。


「これは原告である水野さん側から申し立てます」


「裁判所が勝手に変えるんじゃない」


 私が確認します。


「はい」


「口頭弁論が終わる前」


「はい」


「そして裁判所は被告の意見を聞く」


「そのとおり」


 水野さんが顔をしかめます。


「市役所が反対したら終わりか」


「いいえ」


 久世先生が首を横に振ります。


「意見は聞きます。しかし被告の同意が訴え変更の絶対条件というわけではありません。最終的には裁判所が決定します」


「なるほど……」


 私は脳内で整理しました。


 被告に、


「どう思います?」


 とは聞く。


 でも、


「いいですよ」


 と言わせなければならないわけではない。


 裁判所が判断する。


 この微妙な距離感。


 法律っぽい。


 そして。


「被告側が、変更を許した決定そのものに不服なら?」


 私が聞くと、


「即時抗告ができます」


「逆に、こちらの変更が認められなかったら?」


「その不許可決定自体については、不服申立てはできません」


 やっぱり。


 左右非対称。


 試験委員が笑っている気がする。


 いや、現場で笑っている場合ではありません。


「明日」


 久世先生が言いました。


「市側にも連絡を入れます。こちらが訴え変更を検討していることは、いずれ分かりますから」


「沢渡課長が出てきそうですね」


 私が言うと、


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「呼ぶな」


 呼んでません。


 でも。


 翌日。


 本当に出てきました。


 市役所二階。


 総務課。


「訴えを変更するお考えだと伺いました」


 沢渡課長は、相変わらず隙のない顔で言いました。


「情報早いですね」


「係属中の訴訟ですから」


「まだ裁判所が認めたわけじゃありません」


「承知しています」


 久世先生から、


 訴訟外の事実確認について行政書士側でも対応してよい範囲を整理してもらい、


 今日は片桐所長、


 相馬先輩、


 私。


 そして水野さん。


 訴訟そのものの代理交渉ではありません。


 市側の処分資料や事実経過を確認し、


 弁護士へ引き継ぐための場です。


「水野さんは」


 沢渡課長が言いました。


「営業停止処分の取消しから、損害賠償へ請求を変更するお考えだと」


「その可能性を検討しています」


 水野さんが答えました。


「営業停止が終わった今、取消しだけでは俺の商売は戻らない」


 沢渡課長は一拍置きました。


「しかし、取消訴訟と損害賠償請求は別の請求です」


「別ですね」


 私が答えました。


「ならば別訴を提起すべきでは?」


 来た。


 壁です。


 この人は毎回、


 こちらが法律用語をひとつ覚えるたびに、


 その次のページを開いて待っています。


「必ず別訴じゃなきゃ駄目なんですか」


「私に聞かれても困ります」


「じゃあ確認です」


 私は資料を開きました。


「今回の取消訴訟で中心になっているのは、水野さんへの営業停止処分ですよね」


「当然です」


「処分理由となった衛生管理の事実」


「ええ」


「立入検査」


「ええ」


「温度管理記録」


「そうですね」


「担当職員の判断」


「はい」


「損害賠償請求に変えた場合でも、その処分がどういう事情で出されたのかは中心的な事実になります」


 沢渡課長が黙ります。


「同じ営業停止処分を基礎にしている」


 私は続けました。


「取消しなら、その処分を取り消してほしい。損害賠償なら、その処分から生じた損害を賠償してほしい。請求は違う。でも根っこになっている事実関係は重なる」


「請求の基礎に変更がない、と?」


「こちらはそう整理しています」


 もちろん。


 私が裁判所で主張するわけではありません。


 そこは久世先生の仕事。


 私たちは事実を揃える。


 弁護士が法的主張にするための骨を作る。


 行政書士としての線は越えない。


「裁判所が認めるとは限りませんよ」


 沢渡課長が言いました。


「分かっています」


「被告側の意見も聞かれます」


「分かっています」


「請求内容が変われば、防御方法も変わります」


「それも当然です」


 沢渡課長は少し目を細めました。


「ずいぶん調べましたね」


「調べてません」


 相馬先輩が横から言います。


「仕事です」


 こういうことをさらっと言えるの、ずるい。


「それに」


 片桐所長が初めて口を開きました。


「市側にも利点はある」


「何でしょう」


「同じ営業停止処分をめぐる資料を、また一から別の訴訟で出し直す必要がない」


 沢渡課長が少しだけ表情を変えました。


「……訴訟経済ですか」


「同じ事実を別々の裁判で繰り返し争うよりはな」


 そう。


 訴えの変更が許される背景には、


 効率という現実的な理由もある。


 すでに審理した資料。


 すでに提出された証拠。


 同じ出来事。


 それらを活用できるなら、


 一度走り出した手続を全部捨てて、


 また一からやり直す必要はない。


「ただし」


 沢渡課長が言いました。


「損害額については厳しく争います」


「どうぞ」


 水野さんが答えました。


 以前なら、


「裁判にしてやる!」


 と怒鳴っていたかもしれません。


 でも今は違う。


「こっちも数字で出します」


 静かでした。


 私は少し驚きました。


 たった二日で、人が変わったわけではありません。


 怒りはまだある。


 店を失う悔しさもある。


 でも。


 戦う場所が見えた。


 それだけで声は変わる。


「一点」


 片桐所長が言いました。


「処分時の衛生課内部の判断記録について、まだ出ていない資料がある」


「どの資料です」


「営業停止日数を決めた協議記録」


 沢渡課長の指が止まりました。


「……なぜそう思われます」


「五日という日数の根拠が見えない」


「処分基準があります」


「一般的な基準は見た」


「では」


「水野さんに五日を当てた個別判断だ」


 沈黙。


 ヒリッとする。


 沢渡課長が眼鏡の位置を直しました。


「確認します」


 相馬先輩が腕を組みます。


「あるのか」


「確認すると申し上げました」


「ないとは言ってねえな」


「相馬さん」


「何だ」


「そういう詰め方をすると、話が進みません」


「進まねえ資料を探してんだよ」


 空気が乾きました。


 私は口を挟みます。


「課長」


「何でしょう」


「これ、取消しだけなら、処分が消えるかどうかの話です」


「ええ」


「でも損害賠償まで争点になれば、市がどういう判断過程でこの処分を出したか、もっと細かく見られる可能性がありますよね」


 沢渡課長は答えませんでした。


「市側としても」


 私は続けます。


「今の段階で処分資料をもう一度確認しておいたほうがよくないですか」


「脅しですか」


「まさか」


 本当に脅してはいません。


 ただ。


 敗訴リスク。


 損害賠償リスク。


 判断過程の説明可能性。


 沢渡課長が反応するのは、


 感情ではない。


 合理性です。


「合理的な提案です」


 私は言いました。


 沢渡課長の眉が、ほんの少し動きました。


「私の台詞を取らないでいただけますか」


「気のせいです」


 相馬先輩が咳払いしました。


 笑ったな。


 三日後。


 市から連絡がありました。


 営業停止五日を決めた個別協議記録。


 ありました。


 正確には。


 あるには、あった。


 でも。


 ひどく薄かった。


 担当者のメモ。


 過去の類似事例。


 内部決裁。


 そこまではある。


 問題は、


 過去の類似事例が、


 実際に食中毒事故が発生した事案だったことです。


 水野さんの店では、


 食中毒は発生していない。


 温度記録の一部欠落と、


 衛生管理上の不備。


 それを、


 実害が発生した事案と並べて、


 五日間の営業停止。


「……これ」


 私は資料を読んで呟きました。


「市側、かなり嫌ですよね」


「訴訟で出ればな」


 相馬先輩が言います。


「処分の取消しだけじゃなく、賠償まで来る」


「そうですね」


「沢渡も計算する」


 その午後。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 はい。


 計算した人からです。


「どうされました」


『水野さんの件について、市側でも再検討を行います』


「再検討?」


『処分の妥当性ではありません』


「予防線が早いですね」


『処分に違法があったと認める趣旨でもありません』


「はい」


『ただし、訴訟継続に伴う負担、損害賠償請求への変更可能性、事実関係等を総合的に勘案し――』


 役所文章が来た。


「つまり?」


『和解協議の余地がないか、代理人間で検討することになりました』


 私は黙りました。


「……和解?」


『まだ検討段階です』


「分かってます」


『水野さん側の代理人には市の訴訟代理人から連絡します』


「はい」


『なお』


「何でしょう」


『朝比奈さん』


「はい」


『裁判というものは、最初に書いた請求だけを見ていればいいとは限りませんね』


 私は少し笑いました。


「訴え、変わることがありますからね」


『裁判所が許せば、ですが』


「細かい」


『法律ですので』


「知ってます」


 電話が切れました。


 最終的に。


 水野さんが求めた訴えの変更がどう扱われるのか。


 和解になるのか。


 取消訴訟を維持するのか。


 損害賠償請求へ軸足を移すのか。


 その判断は、弁護士と水野さんがすることです。


 片桐事務所が決める話ではありません。


 ただ。


 一つだけ変わったことがありました。


 市役所が、


「取消訴訟なら、処分の適法性を争えばいい」


 という構えではいられなくなった。


 同じ営業停止処分から、


 損害賠償という別の請求が伸びてくる。


 そしてその変更が、


 まったく別の事件ではなく、


 同じ事実の根から生えている。


 だからこそ。


 裁判所が許せば、


 一つの訴訟の中で進路を変えられる。


 一週間後。


 水野さんが事務所へやって来ました。


 前より少し痩せたように見えました。


「店」


 私は聞きました。


「本当に閉めるんですか」


「ああ」


 やっぱり。


 そこは変わりませんでした。


「来月いっぱいだ」


「そうですか」


「ただ」


 水野さんが小さく笑いました。


「厨房の若いのが一人、店を継ぎたいって言ってきた」


「え?」


「場所も変える。屋号も少し変える。俺は裏で手伝うだけだ」


「それなら――」


「どうなるか分からん」


 水野さんは首を振りました。


「でもな」


「はい」


「全部終わったと思ってた」


 その声は穏やかでした。


「処分はもう終わった。客も離れた。裁判で取消しを取ったって何になる。だから全部無駄だと思った」


 机の上に、営業停止処分の通知書がありました。


 たった一枚の紙です。


 でも。


 そこから、


 取消し。


 損害。


 訴えの変更。


 和解協議。


 店の閉鎖。


 店の引継ぎ。


 いくつもの道が伸びていました。


「裁判も」


 水野さんが言いました。


「途中で道を変えられるんだな」


 私は答えます。


「好き勝手には無理ですけど」


「だろうな」


「原告から申し立てて」


「うん」


「口頭弁論が終わる前で」


「うん」


「請求の基礎が同じで」


「うん」


「裁判所が被告の意見も聞いて」


「うん」


「決定で認めてくれれば」


「多いな!」


「法律ですから」


 自分でも笑ってしまいました。


「でも」


 私は続けました。


「いったん裁判を始めたら、最初の請求に最後まで縛られるわけじゃないんです」


「そうみたいだな」


「同じ出来事から別の問題が見えてきたなら、途中で進路を変えられる余地がある」


 水野さんは、少しだけ黙ってから言いました。


「店もそうならいいんだがな」


「え?」


「一回失敗したら、それで終わりじゃなくて」


 私は何も言えませんでした。


 法律の話より、


 そっちのほうが重かったからです。


 片桐所長が奥から出てきました。


「終わりじゃない」


 短く言いました。


 水野さんが見る。


「訴訟も商売も、同じとは言わん」


「……はい」


「だが、選べる道が残っているうちは、整理して選べばいい」


 水野さんはしばらく所長を見ていました。


 そして、


「先生」


 と笑いました。


「たまにはいいこと言いますね」


 相馬先輩が吹き出しました。


 私は慌てます。


「水野さん、それ本人に言っちゃ駄目なやつです」


「そうか?」


「所長、地味に根に持ちますから」


「こはる」


「はい」


「今日の帳簿整理、お前一人でやれ」


「ほら!」


 夕方。


 水野さんが帰ったあと。


 私は損害資料のファイルを棚へ戻しました。


 取消し。


 損害賠償。


 言葉だけなら、別の訴えです。


 でも。


 同じ営業停止処分という一つの出来事から生まれている。


 事実が同じ。


 証拠も重なる。


 だから、


 訴訟の途中でも、


 条件を満たせば請求を変える道がある。


 今日の教訓。


 ――訴えは走り出したら終点固定、ではない。


 ただし。


 勝手に進路変更もできない。


 原告が申し立てる。


 口頭弁論終結まで。


 請求の基礎は変えない。


 被告の意見を聞く。


 裁判所が決定する。


 変更を許す決定には即時抗告。


 許さない決定には不服申立てができない。


「……七個」


 私は呟きました。


「何がだ」


 相馬先輩が聞きます。


「訴え変更の関門」


「試験勉強するなら家でやれ」


「現場で覚えたほうが忘れません」


「じゃあ最後の二つ言ってみろ」


「え」


「変更を許す決定」


「即時抗告できる」


「変更を許さない決定」


「不服申立てできない」


「何でだ」


「そこまで今日やります?」


「分かってねえのか」


「法理編に取っておきます」


「何だそれ」


 危ない。


 これ以上はまだ深入りしません。


 今日は現場。


 理屈を全部開くのは、次です。


 私は鞄を持ちました。


「じゃあ帰ります」


「待て」


「何です?」


 所長が帳簿の山を指しました。


「変更」


「はい?」


「今日の業務内容を変更する」


「……まさか」


「帳簿整理を追加」


「所長の職権で?」


「そうだ」


「異議あり!」


「却下」


「待ってください!」


 私は机を叩きました。


「今日習ったばっかりでしょう!」


「何をだ」


「訴えの変更は原告の申立てでやるんです! 裁判所が勝手にやっちゃ駄目!」


「これは訴えじゃない」


「そこ正確に切り返さないでください!」


 相馬先輩が腹を抱えて笑いました。


「請求の基礎は同じだぞ」


「何がですか!」


「お前が見習いだって事実」


「そんな基礎いらない!」


「口頭弁論終結までにやれ」


「うちはいつから裁判所になったんですか!」


 所長は帳簿を一冊、私の机に置きました。


「不服申立ては?」


「できますか?」


「できない」


「訴え変更を許さない決定と同じ扱い!」


「よく覚えたな」


「こんな形で定着させたくなかった!」


 窓の外では、


 商店街の灯りが一つずつ点き始めていました。


 たぶん。


 水野さんの店にも、今夜はまだ灯りがついている。


 一つの店が終わる。


 でも。


 そこから別の店が始まるかもしれない。


 一つの訴えが始まる。


 でも。


 事情が変われば、請求も変わるかもしれない。


 法律は、


 一度選んだ道を何でもやり直せる魔法ではありません。


 むしろ逆です。


 期限がある。


 要件がある。


 裁判所の判断が要る。


 相手方への配慮も要る。


 厳しい。


 面倒。


 自由ではない。


 それでも。


 全部を一から捨ててやり直すしかないわけでもない。


 同じ事実の上に立っているなら、


 これまで積み上げたものを抱えたまま、


 別の出口へ向きを変えられることがある。


 その小さな分岐器が、


 誰かにとって、


 裁判を続ける意味そのものになることもあるのです。


「こはる」


「はい」


「帳簿」


「今やります!」


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 訴えの変更は原告の申立てが必要ですが、


 見習いの残業変更については、


 どうやら本人の申立てを必要としないようでした。


 ――少なくとも、この事務所では。

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