[関連請求の併合]現場編 「裁判は一個ずつやるしかない」の罠。取消しも損害も同じ事件なら、一つの法廷へ集められる
壊れた皿が一枚なら、拾う破片も少なくて済みます。
でも。
役所の一つの処分で、
店が止まり、
売上が消え、
契約が飛び、
別の処分まで続けて出されたら。
被害だけが、きれいに一枚ずつ分かれてくれるわけではありません。
なのに裁判まで、
「それは別件です」
と言われたら。
たぶん、人間のほうが先にばらばらになります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、扉が開くなり。
「全部まとめて訴えてやる!」
男性の怒鳴り声が飛び込んできました。
私はちょうど湯呑みにお茶を注いでいたところだったので、危うく机を行政処分するところでした。
「熱っ」
「こはる、何やってんだ」
「先輩、お客様より先に私の指を心配してください」
「赤くもなってねえ」
「心が赤いです」
「意味が分からん」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
怒鳴り込んできた男性は、四十代半ば。
紺色の作業着。
額に汗。
手には分厚い封筒。
「片桐先生は!」
「奥です」
相馬先輩が椅子を指しました。
「まず座れ。裁判は立ったままじゃ始まらねえ」
「裁判を始めに来たんだ!」
「うちは裁判所じゃねえ」
「じゃあ訴状を書いてくれ!」
「それもそのままはやらねえ」
男性が止まりました。
「……行政書士だろ?」
「だからだ」
相馬先輩は淡々と答えました。
「俺たちは訴訟代理人じゃねえ。裁判所であんたの代わりに戦う仕事じゃない」
「じゃあ何ができるんだ」
「何を争うのか整理する。役所の処分を洗う。資料を揃える。弁護士に渡すなら、入口で蹴られねえ形まで持っていく」
そこで奥から片桐所長が出てきました。
「話を聞こう」
男性は封筒を机に置きました。
「西野商会の西野です」
駅から少し離れた県道沿い。
中古農機具の販売と修理をしている店だそうです。
古い耕運機。
草刈り機。
小型トラクター。
町の農家から買い取り、直し、また売る。
父親の代から三十年以上続いている。
「それが先月」
西野さんは封筒から一枚の通知を出しました。
――中古機械展示場使用許可取消処分通知書。
「市から借りてる土地か」
片桐所長が聞きます。
「そうです。店の横です。前から展示場として使ってきた」
「取消理由は」
「安全確保だそうです」
通知を読む。
市道拡幅工事に伴い、工事車両の進入および資材置場として使用する必要が生じたため。
「いつから明け渡せと」
「今月末です」
「代替地は」
「ない」
「工事開始は」
「来月って話でした」
私は顔を上げました。
「でした?」
「昨日聞いたら、早くても三か月後だそうです」
「三か月」
「しかもですよ」
西野さんが別の紙を出しました。
「これです」
――原状回復命令。
許可取消しに伴い、展示機械、簡易屋根その他物件を撤去し、土地を原状に復すること。
「もう一個出てる」
私は呟きました。
「そうだよ!」
西野さんが机を叩きました。
「展示場の許可を取り消す。機械を全部どけろ。屋根も壊せ。こっちは撤去費で百何十万かかる!」
「落ち着け」
相馬先輩が言います。
「まだあるだろ」
「……あります」
西野さんは三枚目を出しました。
今度は見積書と帳簿の写し。
「展示場を使えないせいで、先週の農機展示会も中止した。予約も三件飛んだ。取引先への違約金も出る」
「損害か」
「そうです」
そして。
四枚目。
市役所との打合せ記録。
「最初は工事が始まるから仕方ないと思ったんです。でも、隣の資材屋は残る。向かいの月極駐車場もそのまま。それで工事自体が三か月先」
西野さんの声が震えました。
「うちだけ先に追い出される理由が分からん」
私は机の上を見ました。
使用許可取消処分。
原状回復命令。
損害。
全部同じ土地。
全部同じ市道拡幅工事。
全部同じ判断から枝分かれしている。
そして西野さんは言いました。
「だから全部裁判にする」
「全部、ですか」
「取消しも。撤去命令も。損害賠償も」
「なるほど」
私は頷きました。
頭の中に。
現代の行政事件訴訟法。
取消訴訟。
義務付け。
差止め。
国家賠償。
訴訟の併合。
いくつかのカードが一気に浮かびます。
そして。
「だったら」
私は言いかけました。
「取消訴訟と、撤去させないための差止めを――」
「何を差し止めるって?」
相馬先輩がこちらを見ました。
しまった。
ここは昭和六十三年。
現代の差止訴訟は、まだ法定されていない。
無名抗告訴訟として理論上の議論はあっても、簡単に使えるカードじゃない。
私は喉の奥で未来を飲み込みました。
「……なんでもありません」
「今、未来人みたいな顔したぞ」
「気のせいです」
危険です。
この時代。
行政訴訟の道具箱は、現代より明らかに狭い。
しかも今の問題はそれだけじゃない。
西野さんは、
全部まとめて訴えたい。
と言っている。
でも。
裁判というのは、
腹が立つものを机に全部載せれば一件になる。
そんな仕組みではありません。
「西野さん」
片桐所長が言いました。
「まず分けます」
「分ける?」
「争いたいことを」
所長は紙を三つの山にしました。
一つ目。
展示場使用許可取消処分。
二つ目。
原状回復命令。
三つ目。
営業停止による損害。
「全部同じ話でしょう」
「事実関係は近い」
「じゃあ一緒じゃないですか」
「同じ事件から生じても、請求は別だ」
西野さんは怪訝そうな顔をしました。
相馬先輩が横から言います。
「役所の処分を取り消せ、って話と」
一本指を立てる。
「もう一個の処分を取り消せ、って話と」
二本。
「金を払え、って話」
三本。
「全部、裁判所に求める結論が違う」
「じゃあ三つ裁判するんですか」
その声に。
少しだけ勢いがなくなりました。
当然です。
三つ。
弁護士。
資料。
期日。
費用。
時間。
想像しただけで重い。
私は言いました。
「でも、関連してるなら、まとめられる可能性があります」
西野さんがこちらを見ました。
「まとめられる?」
「はい」
相馬先輩も私を見る。
「続けろ」
「取消訴訟と、それに関連する請求なら、併合して審理できる場合があります」
「併合」
「一緒に扱う、って意味です」
西野さんの顔が少し変わりました。
「じゃあ三つを一つの裁判に?」
「条件があります」
片桐所長が静かに言いました。
「何でも一つにはならない」
ですよね。
行政法。
希望を見せた直後に条件を置く。
得意技です。
「まず」
所長は取消処分の紙を指しました。
「中心はこれだ」
「展示場の許可取消し」
「そうだ」
「それを取り消す訴訟」
「取消訴訟だ」
次。
原状回復命令。
「これは」
私は考えました。
「最初の処分とつながってる」
「どうつながる」
相馬先輩が聞きます。
「使用許可を取り消したから、土地を返せ。そのために撤去しろ、という流れです」
「つまり?」
「一連の手続として関連性が強い」
所長が頷きました。
「整理の候補にはなる」
次。
損害。
展示場が使えない。
展示会中止。
契約が飛んだ。
撤去費用も出る。
「これも」
私は言いました。
「取消処分に関連する損害回復の請求として、一緒に扱える可能性がある」
「国家賠償かどうかは弁護士と詰める」
片桐所長が言いました。
「だが少なくとも、関連請求として訴訟設計を検討する価値はある」
西野さんが椅子の背にもたれました。
「……じゃあ、本当にまとめられるんですね」
「可能性はある」
所長は即答しません。
「断定はしない。管轄、被告、請求の性質、関連性を確認する」
「また入口ですか」
私は小声で言いました。
「また入口だ」
相馬先輩が聞き逃しませんでした。
「行政訴訟はな」
「はい」
「中身がどれだけ筋が良くても、入口の整理が雑なら終わる」
「耳が痛いです」
「お前はまだ訴えてねえだろ」
「人生全般に刺さります」
その日の午後。
私たちは市役所総務課にいました。
沢渡課長は、書類を一枚ずつ見ていました。
「西野商会の件ですか」
「そうです」
片桐所長が答えます。
「取消処分の理由を確認したい」
「通知書記載のとおりです」
「市道拡幅工事」
「ええ」
「着工は三か月先か」
一瞬。
沢渡課長の視線が止まりました。
「現場工程の調整で遅れています」
「なら、今月末までに退去させる必要性は」
「工事準備があります」
「具体的には」
「資材搬入計画、仮囲い、測量」
「測量日は」
「確認します」
「資材搬入日は」
「未定です」
「仮囲いは」
「設計中です」
相馬先輩が腕を組みました。
「未定、未定、設計中」
「何か?」
沢渡課長が冷たく返します。
「ずいぶん急いで人を追い出す割に、役所側はのんびりしてるな」
「行政計画は段階的に進みます」
「便利な言葉だ」
「事実です」
相変わらず。
会話が刃物です。
私は横から言いました。
「隣の資材業者は退去対象じゃないんですか」
「現段階では」
「向かいの駐車場は?」
「同様です」
「西野さんだけ?」
「使用形態が違います」
「何が違うんです」
「展示機械が多数あります」
「隣の資材置場にも資材が積んでありますよね」
「用途が異なります」
出た。
用途が違う。
行政の万能接続詞。
「具体的に、工事上どう違うんですか」
私が聞くと。
沢渡課長は少し間を置きました。
「担当課の判断です」
「その判断記録を確認したい」
片桐所長が言います。
「正式な手続によってお願いします」
「そうする」
所長は淡々と答えました。
そして。
「もう一つ」
「何でしょう」
「この取消処分を争う」
沢渡課長は眉を上げました。
「訴訟ですか」
「選択肢には入っている」
「どうぞご自由に」
来ました。
この人の必殺技。
どうぞご自由に。
たぶん市役所で最も冷たい七文字です。
「ただし」
沢渡課長は眼鏡を直しました。
「朝比奈さん」
「なぜ私を見るんです」
「訴訟要件は大丈夫ですか」
「……確認中です」
「出訴期間は?」
脳内。
六か月。
と現代知識が手を挙げました。
座れ。
お前の出番じゃない。
「三か月」
私は答えました。
「昭和六十三年ですから」
「今回は間違えませんね」
「過去に何かありました?」
「顔です」
「顔で減点しないでください」
沢渡課長は続けます。
「被告は?」
湖西市。
と未来知識がまた立ち上がる。
座れ。
お前もまだ早い。
「処分をした行政庁」
私は答えました。
「この処分なら、市長」
「そうですね」
昭和の行政事件訴訟法。
被告は公共団体そのものではなく、処分行政庁。
現代人。
二個目の地雷を回避。
私は心の中で小さく拍手しました。
でも。
沢渡課長はまだ終わらない。
「取消訴訟だけですか」
「それだけじゃありません」
私は言いました。
「原状回復命令の取消しも検討します」
「別の処分ですよ」
「でも同じ使用許可取消しからつながってます」
「だから?」
「関連請求として併合できる可能性があります」
そこで。
沢渡課長の表情が、ほんの少し変わりました。
本当に少しだけ。
この人の表情変化は、気温でいうと〇・五度くらいです。
「勉強しましたね」
「実務です」
「見習いでしょう」
「そこを刺します?」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「さらに」
片桐所長が言います。
「使用許可取消しに伴う損害についても、弁護士と請求構成を検討する」
沢渡課長の目が細くなりました。
「損害賠償まで?」
「取消しと同じ事実関係を前提にする」
「当然に認められるものではありません」
「当然とは言っていない」
「違法性も必要でしょう」
「それも弁護士と詰める」
沢渡課長は黙りました。
ここです。
行政書士事務所が訴訟代理をするわけではない。
私たちが裁判所で、
「異議あり!」
と叫ぶこともない。
でも。
何を争えるのか。
何と何をつなげられるのか。
証拠は共通するのか。
どこまで一つの事件として組み上げられるのか。
それを整えて弁護士へ渡す。
その時点で。
役所側から見える景色も変わる。
単なる、
怒っている住民。
ではなくなる。
取消訴訟。
関連する処分の取消し。
損害回復。
同じ事実関係。
同じ工事計画。
同じ判断記録。
別々に争えば、役所側だって三回説明することになる。
同じ資料を三回出す。
同じ職員が三回呼ばれる。
同じ判断の合理性を三方向から見られる。
「課長」
私は言いました。
「これ、役所側も別々に争うより、一緒に整理されたほうが楽じゃないですか」
「朝比奈」
相馬先輩が小声で言いました。
「『楽』で交渉すんな」
「効率的、と言い換えます」
「最初からそう言え」
沢渡課長は書類を見たまま言いました。
「裁判所が併合を認めるかどうかは、そちらが決めることではありません」
「分かっています」
「そもそも別の裁判所に係属すれば、移送の問題も出る」
私はぴくっとしました。
「移送」
「知らないとは言わせませんよ」
「知ってます」
取消訴訟と関連請求が。
別々の裁判所に係属した場合。
相当と認められれば。
関連請求側の裁判所から、取消訴訟が係属する裁判所へ。
申立てまたは職権で移送できる。
つまり。
ばらけた訴訟を、中心となる取消訴訟の裁判所に寄せる。
行政法の、
散らかった書類を一冊のファイルに戻す仕組み。
そんな感じです。
「課長」
私は言いました。
「だったらなおさら、最初から同じ事実関係を一つに整理しておいたほうがいいですよね」
「訴訟戦術の相談なら弁護士になさってください」
「そこはそうします」
「即答ですね」
「職域は守ります」
片桐所長がほんの少し頷きました。
よし。
そこは大事です。
行政書士は訴訟代理人ではない。
訴訟の最終的な法的構成や裁判上の代理は弁護士。
だからこそ。
こちらは事実を詰める。
処分を特定する。
日付を確認する。
関係資料を集める。
請求どうしの関連性を整理する。
そして。
弁護士が訴訟を組みやすい形にする。
「あと」
沢渡課長が言いました。
「原状回復命令は、使用許可取消しとは別個の根拠に基づいています」
「だから関連しない?」
私が聞きます。
「そうは言っていません」
「言わないんですね」
「事実として指摘しただけです」
この人。
絶対こちらの論点整理を採点しています。
「ただ」
沢渡課長が続けました。
「市としても、同一の土地、同一の工事計画から生じた問題であることは認識しています」
相馬先輩が眉を上げます。
「へえ」
「何ですか」
「役所が『関連してる』って自分から言った」
「曲解しないでください」
「記録しとくぞ」
「勝手にどうぞ」
乾いた火花が散ります。
そこで。
片桐所長が一枚の工程表を机に置きました。
「課長」
「何でしょう」
「これを見てくれ」
市道工事の地元説明会で配られた資料。
西野さんが持っていたものです。
工区が色分けされています。
第一工区。
第二工区。
第三工区。
西野商会の土地。
赤鉛筆で丸。
「ここです」
私は指しました。
「西野さんの展示場は第二工区」
「ええ」
「来月着工するのは第一工区ですよね」
沢渡課長が止まりました。
「……この資料はいつのものですか」
「先月の住民説明会」
「工程は変更される場合があります」
「変更後は」
「確認します」
「第一工区と第二工区を同時にやる決定は」
「確認します」
また。
確認します。
でも。
さっきまでとは違います。
沢渡課長の手が、工程表の上で止まっている。
「片桐先生」
「何だ」
「この資料、写しをいただけますか」
「構わない」
「担当課と確認します」
相馬先輩が言いました。
「取消処分も?」
「必要があれば」
「原状回復命令も?」
「前提が変われば、当然検討対象になります」
「損害は?」
「それは別です」
「全部は乗ってこねえか」
「行政ですから」
沢渡課長は淡々と答えました。
でも。
空気が変わっていました。
裁判にしてやる。
そう怒鳴るだけなら。
役所は、
どうぞご自由に。
で終われる。
でも。
取消処分の根拠。
原状回復命令とのつながり。
損害との関係。
工事工程。
比較対象。
訴訟要件。
関連請求。
併合。
移送。
そこまで具体的に積み上がると。
役所側も、
「好きにすれば」
では済ませにくくなる。
裁判という言葉が怖いのではありません。
負ける可能性が見える裁判が怖い。
同じ事実関係から複数の請求が組まれ、
一つの法廷で一緒に見られる。
行政側からすれば。
一枚の処分通知だけではなく。
その後ろにある判断過程までまとめて照らされることになる。
三日後。
事務所へ電話が入りました。
私が取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
来た。
「はい」
『西野商会の件です』
「どうなりました」
『工程確認の結果、第二工区の着工は最短でも四か月後です』
「四か月」
『使用許可取消しの時期について、担当課で再検討します』
「原状回復命令は?」
一拍。
『取消しの効力発生日を延期する場合、それに合わせて見直します』
「つまり」
『まだ結論は出ていません』
「課長、それ便利ですね」
『何がです』
「結論は出ていません」
『事実です』
やっぱり便利です。
「西野さん、今月中に機械を全部撤去しなくてよくなる可能性はある?」
『あります』
「展示会は?」
『市として許可するとは言っていません』
「そこまでは乗らないんですね」
『当然です』
でも。
大きい。
今月末までに撤去。
という崖っぷちが。
四か月先まで伸びる可能性が出た。
『それと』
沢渡課長が続けます。
「はい」
『弁護士へ引き継ぐのでしょう』
「はい」
『資料の整理はしておいたほうがいいですよ』
「役所側から助言ですか」
『違います』
「じゃあ何です」
『訴訟になったとき、同じ資料を何度も出すのは非効率なので』
私は笑いました。
「関連請求、気にしてるじゃないですか」
『切りますよ』
「すみません」
『朝比奈さん』
「はい」
『請求が関連しているからといって、何でも一緒にすればいいわけではありません』
「分かってます」
『中心になる処分は何か。どの請求がどの事実を共有しているか。そこを外すと、ただ散らかった訴訟になります』
「……はい」
『では』
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
「何だって」
相馬先輩が聞きます。
「取消時期を見直すって」
「ほう」
「原状回復命令も連動して見直す可能性あり」
「で?」
「課長が関連請求の整理を教えてくれました」
「敵から授業受けんな」
「向こうが勝手に始めたんです」
片桐所長が奥から出てきました。
「西野さんに連絡しろ」
「はい」
一時間後。
西野さんは事務所に来ました。
「じゃあ」
話を聞いて。
しばらく黙ってから。
「今月中に全部壊さなくていいかもしれない?」
「はい」
「店、続けられる?」
「少なくとも、すぐ展示場を空にしろという話は見直し中です」
「そうか」
西野さんは背もたれに深く座りました。
怒鳴り込んできたときより。
十歳くらい疲れて見えました。
「正直」
ぽつりと言います。
「裁判にするって言えば、役所もびびると思ってました」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「逆だ」
「逆?」
「『裁判するぞ』だけなら、役所は慣れてる」
「そうなんですか」
「毎月何人か言う」
「そんなに?」
「知らん。適当に言った」
「先輩」
「でも似たようなもんだ」
片桐所長が続けました。
「重要なのは、何を争うかだ」
机の上に。
三枚の紙。
取消処分。
原状回復命令。
損害資料。
「これを」
所長が言います。
「全部同じと言えば雑になる」
「はい」
「全部別だと言えば、今度は事件のつながりを失う」
私はその言葉を頭の中で繰り返しました。
全部同じではない。
でも。
全部ばらばらでもない。
関連請求。
まさにその名前のとおりです。
「弁護士の先生には」
私は言いました。
「中心になる取消訴訟と、原状回復命令の取消し、それから損害の請求がどう関連するか。資料を分けて渡します」
「一緒に裁判できるんですか」
「最終判断は弁護士と裁判所です」
「絶対じゃない」
「はい」
「でも、最初から三つ全部別に動かなくてもいいかもしれない」
「そうです」
西野さんは長く息を吐きました。
「助かります」
その一言。
たぶん。
今日一番重かった。
勝ったわけではない。
取消処分が消えたわけでもない。
損害賠償が認められたわけでもない。
裁判すらまだ始まっていない。
それでも。
同じ原因から出てきた問題を。
全部別々の戦争にしなくていい。
それだけで。
人の負担は少し減る。
「朝比奈さん」
西野さんが聞きました。
「関連請求って、変な言葉ですね」
「そうですか?」
「なんか、地味で」
「地味ですね」
「でも便利なんですね」
「かなり」
私は少し考えました。
「たぶん」
「はい」
「事件が一個なのに、法律上の請求だけ三つ四つに割れることってあるじゃないですか」
「今回みたいに」
「そうです。関連請求の併合って、その割れたものを、もう一回同じ机に戻す仕組みなんだと思います」
「同じ机」
「同じ処分。同じ土地。同じ工事。同じ資料。同じ人たち。それを裁判所ごとに最初から説明し直すの、無駄ですから」
「なるほど」
そこで。
相馬先輩が言いました。
「ただし」
「はい」
「高裁が絡むと、好き勝手に移送できねえ場合がある」
「今それ言います?」
「大事だろ」
「現場編ですよ」
「何編だろうが法律は法律だ」
西野さんが首をかしげました。
「高裁?」
「今日は忘れてください」
「おい」
「次回です」
「勝手に次回予告すんな」
片桐所長が書類を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
来ました。
最近この人、完全に私の口頭試問を楽しんでいます。
私は少し考えました。
「怒りは、一個です」
「うん」
「でも法的な請求は、一個とは限らない」
「うん」
「だから一度ばらして」
取消し。
別の処分。
損害。
「関連しているものは、もう一度まとめる」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの端に書きました。
――事件は一つでも、請求は複数。だから、ばらしてからまとめる。
「長いな」
相馬先輩が言います。
「今日のは難しいんです」
「もっと短くしろ」
「じゃあ」
私は書き直しました。
――別々に争うな。関連するなら、一つの法廷へ。
「言い切りすぎだ」
「先輩、厳しい!」
「要件があるだろ」
「分かってます!」
「高裁もある」
「今は出さないでください!」
西野さんが笑いました。
ようやく。
最初に事務所へ来たときの険しい顔が消えました。
「でも」
西野さんは言いました。
「裁判って、何でも一個ずつやるもんだと思ってました」
「私もです」
私は答えました。
「役所の処分は一枚ずつ来ますし」
「そうそう」
「通知書が三枚なら、争いも三個、みたいな」
「違うんですね」
「完全に一個でもないし、完全に三個でもない」
「難しいなあ」
「行政法ですから」
「それ、便利な言葉ですね」
「沢渡課長みたいなこと言わないでください」
夕方。
西野さんが帰ったあと。
私は机の上の書類をまとめていました。
取消処分。
原状回復命令。
工事工程表。
損害一覧。
見積書。
契約書。
全部。
最初はばらばらに見えました。
でも。
一本の赤鉛筆で線を引くと。
全部が、
市道拡幅工事。
という一点につながる。
法律は。
ときどき人の事情を無理やり細かく切ります。
取消訴訟。
損害賠償。
別処分の取消し。
原告。
被告。
管轄。
訴訟要件。
一個ずつ。
冷たく。
正確に。
でも。
切ったままにしておく必要はない。
同じ事実に根を持つ請求なら。
法律自身が、
もう一度まとめて扱う道を用意している。
そこが少し。
面白いと思いました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何だ、その顔」
「関連請求って、人間的だなと思って」
「は?」
「法律って、一回ばらばらにするじゃないですか」
「まあ」
「でも関連してたら戻す」
「うん」
「ちゃんと話が分かるところもあるんですね」
「何だと思ってたんだ、法律を」
「巨大な仕分け棚」
「だいたい合ってる」
「合ってるんですか」
そこへ。
片桐所長が一冊のファイルを私の机へ置きました。
「これも一緒に綴じろ」
「何です?」
「西野商会の過去三年の使用許可」
「うわ、分厚い」
「関連する」
「物理的にも併合するんですね」
「そうだ」
「法的併合より重いです」
「持て」
「行政事件訴訟法十三条は、ファイルの重量まで救済してくれませんか」
「しない」
「冷たい!」
相馬先輩が笑います。
「分けた書類をまとめんのがお前の仕事だろ」
「今日のテーマそのものじゃないですか」
私は分厚いファイルを抱えました。
重い。
本当に重い。
でも。
ばらばらの三冊を別々に抱えるより。
一冊にまとまっているほうが。
少なくとも。
どこへ持っていけばいいかは分かります。
行政訴訟も。
たぶん同じです。
争いが増えたとき。
大事なのは、
数えることではなく。
つながりを見ること。
その日。
私の行政事件訴訟法のノートに、
また一つ。
眠そうだった言葉が起き上がりました。
関連請求の併合。
名前は地味です。
でも。
一つの行政処分から人生が何方向にも壊れた人にとっては。
壊れた破片を、
同じ法廷の机へ戻してくれる。
案外、大事な仕組みなのかもしれません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




