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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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269/402

[取消訴訟の手続きの流れ]現場編 「裁判所が全部調べてくれる」の罠。入口の六要件と証拠集めを越えて、ようやく違法を争える

挿絵(By みてみん)

 裁判所へ行けば、裁判官が真相を全部調べてくれる。


 なんとなく。


 そんな気がします。


 白い法廷。


 黒い法服。


 机の上には分厚い記録。


 裁判官が、


「では真実を調べましょう」


 と言って、役所の奥の棚まで全部ひっくり返してくれる。


 ――だったら楽なんですけどね。


 現実の裁判は、そんな親切な宝探しではありません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてやる!」


 午前九時十二分。


 開業から十二分。


 今日最初のお客様は、たいへん元気でした。


 勢いよく引き戸を開けた男性は、五十代半ば。


 作業服。


 日に焼けた顔。


 右手には茶封筒。


 左手には怒り。


 怒りというのは本来持てないはずですが、この人はたぶん両手で持っています。


「市を訴える!」


「お掛けください」


 片桐所長が言いました。


「いや、座ってる場合じゃない!」


「立ったままでは話が長くなる」


「……そうですか」


「座れ」


「はい」


 座りました。


 強い。


 片桐所長、怒鳴っている相手に対しても音量を一ミリも上げません。


 そのほうが怖いことがあります。


 相馬先輩が煙草に火をつけながら、男性の前へ灰皿を置きました。


「で、何をされた」


「これです!」


 茶封筒から一枚の紙が飛び出します。


 私は受け取りました。


 市長名義。


 題名。


 ――市道沿道工作物設置許可取消通知書。


「許可取消し……」


 私は小さく呟きました。


 男性は大塚信夫さん。


 市内で製材所を営んでいます。


 製材所の前を通る市道沿いに、十数年前から木材搬入用の案内看板を立てていた。


 看板といっても巨大な広告塔ではありません。


 高さ二メートルほど。


 鉄柱二本。


 上部に、


 ――大塚製材所 大型車入口五十米先。


 と書かれている。


 昔から許可を取って設置していたそうです。


 ところが。


「先月、市役所の道路課から電話が来たんですよ」


「何と?」


「駅北側の道路整備で、景観を統一するから外してくれって」


「任意に撤去してほしい、と?」


「最初はそうです」


 大塚さんは机を叩きそうになって、片桐所長を見てやめました。


「でも、うちは困るって言ったんです。大型トラックが曲がるところ、初めて来た運転手には分かりづらい。一本間違えると住宅地へ入っちまう」


「それで?」


「話し合いになってたんです。ところが一昨日、いきなりこれですよ」


 許可取消し。


 理由。


 ――道路環境整備及び景観保全上の必要があるため。


 短い。


 また出ました。


 役所文章にありがちな、


 読めば日本語なのに、読んでも事情が分からない一文。


「他にも看板はあります?」


 私が聞くと、大塚さんはすぐ頷きました。


「ありますよ」


「近くに?」


「向かいのガソリンスタンドの看板。百メートル先には観光旅館の案内板。その先に農協の看板」


「それらも撤去?」


「そのままです」


 相馬先輩が煙草を指で挟んだまま言いました。


「写真は」


「あります」


 大塚さんは鞄から写真を出しました。


 道路。


 製材所の看板。


 向かいのガソリンスタンド。


 少し離れた旅館案内。


 確かに。


 大塚製材所のものだけが、特別巨大とも見えない。


「道路課は何て言ってるんです?」


「『市の方針です』」


「それだけ?」


「『行政には裁量があります』とも」


 最近、この町では裁量という言葉が流行っているのでしょうか。


 何でも包める風呂敷みたいに使われています。


「だから裁判です!」


 大塚さんが身を乗り出しました。


「裁判所なら調べてくれるんでしょう?」


 私は一瞬。


 答えそうになりました。


 はい。


 裁判なら、


 役所がどういう資料で判断したのか。


 他の看板との扱いがどう違うのか。


 裁判所が全部――


 そこで。


 頭の中の行政事件訴訟法が、こちらを見ました。


 弁論主義。


 私は口を閉じました。


「……全部は、調べてくれません」


「え?」


 大塚さんが止まりました。


「裁判所でしょう?」


「はい」


「真相を調べるところでしょう?」


「それはそうなんですが」


 私は言葉を選びます。


「取消訴訟では、基本的に、自分たちで主張する事実と証拠を出さないといけません」


「役所の書類を、裁判所が全部取り寄せるんじゃないんですか」


「原則、そういう仕組みではないです」


「じゃあ何のための裁判所なんですか」


 ごもっとも。


 裁判所という言葉の響きには、


 全部やってくれそう感があります。


 でも違う。


 裁判官は探偵ではない。


 当事者が出した事実と証拠をもとに、


 法律を適用して判断する。


 もちろん行政事件訴訟には、裁判所が必要に応じて職権で証拠調べをする仕組みもあります。


 でも。


 それは、


 裁判所が役所へ出かけて行って、


 机を開けて、


「何か隠してませんか」


 と資料を探してくれる制度ではありません。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「まだそこじゃねえ」


「え?」


「証拠の話より先がある」


「……あ」


 そうでした。


 私は通知を見ました。


 裁判で違法性を争う。


 その前に。


 入口。


「大塚さん」


 片桐所長が静かに言いました。


「裁判で勝てるかどうかを考える前に、裁判で中身を見てもらえるかを確認します」


「中身?」


「はい」


「取消しがおかしいかどうかを見るんじゃないんですか」


「それは後です」


「後?」


 大塚さんの眉間に皺が寄りました。


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きます。


「裁判には入口があるんだよ」


「入口?」


「通れなきゃ、中身は見てもらえねえ」


「何ですか、それ」


「訴訟要件だ」


 私はノートを開きました。


 処分性。


 原告適格。


 訴えの利益。


 被告適格。


 出訴期間。


 管轄裁判所。


 頭の中に、六枚の札が並びます。


 受験生時代。


 私はこれを語呂合わせで覚えようとして挫折しました。


 でも実務では、


 六枚全部そろわないと、


 どれだけ役所の判断がおかしく見えても、


 入口で終わる。


 不適法。


 却下。


 つまり。


 裁判所が、


「役所の処分は正しかったのか」


 を判断する前に、


「そもそもこの裁判を扱ってよいのか」


 を判断する。


 それが要件審理。


「まず処分性」


 相馬先輩が通知を指します。


「単なるお願いか。それとも法的な効果を生む処分か」


「これは許可取消しです」


 私が答えました。


「市道沿道の工作物設置許可を取り消している。大塚さんの法的地位に直接影響する」


「次」


「原告適格」


「誰が争える」


「許可を取り消された本人。大塚さん」


 大塚さんが自分を指しました。


「俺?」


「はい。そこはまず問題ないと思います」


「次」


「訴えの利益」


 今も取消しを求める意味があるか。


 すでに看板を撤去してしまって、


 再設置もできない事情があるとか。


 許可期間が終わって、


 取り消しても回復できる利益が何もないとか。


 そういう事情がないか。


「看板はまだ立ってます?」


「あります」


「市から撤去期限は?」


「今月末」


「まだ十日以上ありますね」


「はい」


「許可自体は、期間満了じゃない?」


「来年三月までです」


 よし。


 取消しを争う利益はある。


「次」


 相馬先輩が言います。


「被告」


 私は反射的に言いかけました。


「湖西市――」


 止まる。


 相馬先輩がこちらを見る。


「何だ」


「……何でもないです」


「未来の顔したな」


「してません」


 危ない。


 また踏むところでした。


 現代なら、原則として国や公共団体。


 この件なら市を被告とする。


 でも今は昭和六十三年。


 平成十六年改正前。


「被告は、市長です」


「俺、市を訴えるんじゃないんですか?」


 大塚さんが言いました。


「今の制度ならそう整理されます。でも、この時代では処分をした行政庁を被告にします」


「市長本人と法廷で戦う?」


「市長が本人尋問席に毎回来るって意味じゃありません」


「ややこしいな」


「私もそう思います」


「朝比奈」


「はい」


「余計な感想を入れるな」


「はい」


 でも。


 ややこしいのです。


 制度が後に改正された理由を、こういうところで身体で感じます。


 誰を被告にすべきか。


 そこで間違えるだけでも、訴訟の入口で問題になる。


 今なら自治体を被告。


 当時なら処分庁。


 未来人には、時代そのものが地雷です。


「次。期間」


 相馬先輩。


 来ました。


 私は日付を見ます。


 取消通知を知った日。


 一昨日。


 処分日もほぼ同じ。


「大丈夫です」


「何が」


「まだ二日です」


「何か月ある」


 反射。


 六か月。


 言うな私。


「……三か月です」


「そうだ」


 昭和六十三年。


 取消訴訟の出訴期間。


 処分または裁決があったことを知った日から三か月。


 現代なら六か月。


 ここでも半分。


 未来のゆとりが昭和では命取りになります。


「三か月しかないんですか!」


 大塚さんが声を上げました。


「はい」


「市役所と話し合ってるうちに過ぎるじゃないですか」


「だから期間管理が大事なんです」


「じゃあ明日裁判を!」


「待て」


 相馬先輩が止めました。


「まだ一個ある」


「まだ?」


「管轄」


 どこの裁判所へ持っていくか。


 行政事件訴訟は、


 怒りを持って最寄りの裁判所へ走れば受け付けてくれる、


 というものではありません。


 この件でどこの裁判所に提起すべきか。


 それも整理する。


 大塚さんが頭を抱えました。


「裁判って、役所がおかしいかどうかを見る前に、こんなにあるんですか」


「あります」


「裁判所、入口広げたほうがいいんじゃないですか」


 私もそう思ったことがあります。


 でも。


 片桐所長が言いました。


「入口が厳しいから、誰でも何でも裁判にできるわけではない」


「でも俺は、本当に困ってる」


「困っていることと、訴訟要件を満たすことは別です」


 冷たい。


 片桐所長は、本当にこういうとき冷たい。


 でも。


 この冷たさが、大塚さんを助けます。


 期待を持たせて、


 裁判所へ行って、


 半年かけたあと、


「そもそも入口を通れてません」


 と言われるより。


 今。


 六つ並べる。


 足りないものを確認する。


 それが行政書士事務所の仕事です。


「あと」


 私は言いました。


「裁判所が見るのは、不当かどうかじゃありません」


「不当?」


「行政の判断として、気に入らないとか、もっと別のやり方がよかったとかではなく」


 一度考えてから、言います。


「違法かどうかです」


「じゃあ、あの看板だけ外せってのが不公平でも駄目なんですか」


「その不公平さが、裁量権の逸脱や濫用など、違法と評価できるところまで行けば争えます」


「そこまで?」


「はい」


「役所のやり方が変だ、じゃ駄目?」


「裁判では、それだけだと弱いです」


 大塚さんは椅子に深く座り直しました。


「……不服申立てと違うんですね」


「そうです」


 私は頷きました。


「行政不服審査なら、不当まで見直しの対象になります。でも取消訴訟は、基本的に違法性を審理してもらう」


「じゃあ裁判って、思ったより狭いな」


「はい」


 口に出してから、


 これはその通りだと思いました。


 行政裁判は何でも正義を判定する場所ではない。


 裁判所が見るのは、


 法的に許されるか。


 違法か。


 その線です。


 その日の午後。


 私たちは市役所へ向かいました。


 もちろん。


 裁判を起こすためではありません。


 行政書士は訴訟代理人にはなれない。


 片桐事務所が法廷へ立つことはできません。


 私たちがするのは。


 処分内容。


 理由。


 経緯。


 比較対象。


 許可の根拠。


 行政庁。


 日付。


 証拠。


 それらを整理して、


 本当に訴訟へ進むなら、


 弁護士へ引き継げる状態にすること。


 そして。


 その材料を市役所にも見せる。


 裁判になったとき、


 何が問題になるか。


 役所側にも分からせる。


 総務課。


 今日も沢渡課長は灰色の背広でした。


「またですか」


「またです」


 私が答えます。


「朝比奈さんは、もう少し市役所以外の場所へ遊びに行ったほうがいいのでは」


「仕事です」


「それは失礼」


 絶対失礼と思ってない。


 片桐所長が取消通知を机に置きました。


「大塚製材所の工作物設置許可取消し」


「道路課の件ですね」


「理由を確認したい」


「通知にあります」


 またそれです。


「道路環境整備及び景観保全上の必要」


 相馬先輩が読み上げます。


「便利だな、この町の『必要』って言葉は」


「事業上の判断です」


 沢渡課長は平然としています。


 私は写真を置きました。


「大塚さんの看板だけ取消しになっています」


「そうとは限りません」


「他にも撤去予定が?」


「道路課で順次整理しています」


「向かいのガソリンスタンドは?」


「民有地です」


「観光旅館の案内板は?」


「設置形態が異なります」


「農協は?」


「個別事情があります」


 個別事情。


 この町の役所では、たぶん万能カードです。


「では」


 片桐所長が言いました。


「大塚さんの看板を取り消す判断に使った個別事情は」


 沢渡課長が少し止まりました。


「交通安全上の問題もあります」


「通知には書いてないな」


 相馬先輩。


「理由は複数あります」


「具体的には?」


「大型車の誘導表示が、一般交通に誤認を与えるおそれがある」


 私は写真を見ました。


 ――大塚製材所 大型車入口五十米先。


「この表示で?」


「道路課の判断です」


「事故は?」


「確認します」


「苦情は?」


「確認します」


「交通管理者との協議は?」


「確認します」


 相馬先輩が片眉を上げました。


「課長」


「何でしょう」


「確認するものが多いな」


「私は総務ですので」


「でも、取消しはもう出てる」


 一瞬。


 空気が変わりました。


 そう。


 そこです。


 処分はもう出ている。


 なのに、


 なぜ取消しが必要だったのか。


 その判断材料が、


 今になって、


「確認します」


 ばかり。


「訴訟になった場合」


 片桐所長が言いました。


「市は、取消しが適法だったことを主張することになる」


 沢渡課長が眼鏡の奥で所長を見ました。


「行政書士事務所が訴訟をするのですか」


「しない」


「では?」


「弁護士に引き継ぐ」


 即答。


 行政書士の線を越えない。


 そこは一ミリもぶれません。


「その前に事実を整理している」


「なるほど」


「こちらは」


 所長が写真を順に並べました。


「許可通知」


「はい」


「取消通知」


「はい」


「現況写真」


「はい」


「周辺の類似看板」


「はい」


「道路課との電話記録」


「……記録を取っているんですか」


 大塚さん。


 電話の内容を手帳に残していました。


 日付。


 担当者名。


 内容。


 素晴らしい。


 本人はただ腹が立って書き殴っていただけらしいですが、


 現場では怒りのメモが証拠候補になります。


「道路課から最初に言われたのは、任意撤去です」


 私は言いました。


「景観統一のため、と」


「そう聞いています」


「ところが取消通知後は、交通安全上の理由も出てきた」


「事情は一つとは限りません」


「もちろん」


 私は頷きました。


「でも、裁判になったら、事実と証拠で説明する必要がありますよね」


 沢渡課長の視線が少し変わりました。


「裁判所は行政庁の判断を尊重します」


「裁量がある部分では、そうでしょうね」


「なら――」


「でも」


 私は写真を一枚指しました。


「裁量があるのと、裁判所が何も見ないのは違います」


 沈黙。


 心臓が少し速くなりました。


 でも続けます。


「どんな目的で」


「……」


「どんな事実を見て」


「……」


「なぜこの看板だけ取消しが必要だったのか」


「……」


「市がそこを説明できなければ、裁量判断の過程に問題がなかったか、争点になりますよね」


 相馬先輩が小さく煙を吐きました。


 沢渡課長は私から片桐所長へ視線を移しました。


「朝比奈さん」


「はい」


「取消訴訟は、不当性を争う場ではありません」


「分かっています」


「ほかの看板が残っているというだけでは足りない」


「はい」


「市の判断がもっと良いやり方だったかを、裁判所が選び直すわけでもない」


「はい」


「なら、何を言いたいんです」


「違法になるほど、判断が雑じゃなかったかを確認したいんです」


 沢渡課長が黙りました。


 私も黙りました。


 ちょっと言い方が強かったかもしれない。


 でも。


 これが今回の線です。


 不当。


 ではない。


 違法。


 そこへ持っていけるか。


 目的と判断材料。


 考慮した事情。


 比較対象。


 交通安全という理由が本当に処分時に存在したのか。


 それを事実と証拠で組み立てる。


「それと」


 相馬先輩が言いました。


「裁判になったら、俺たちが役所の倉庫を勝手に漁れるわけじゃねえ」


「当然です」


「裁判所だって、勝手に全部調べてくれるわけじゃねえ」


「その通りです」


「だったら今のうちに、そっちも記録を固めといたほうがいいんじゃねえか」


 沢渡課長が先輩を見ます。


「脅しですか」


「親切だよ」


「相馬さんの親切はいつも物騒ですね」


「褒め言葉として受け取っとく」


 この二人。


 仲が悪いのか良いのか本当に分かりません。


 事務所へ戻ると。


 片桐所長は白紙を一枚出しました。


「こはる」


「はい」


「弁護士に渡す資料を作れ」


「分かりました」


「最初の見出しは?」


 私は少し考えます。


「処分の違法性」


「違う」


「え」


「先に訴訟要件」


 またです。


 今日ずっとこれです。


「違法かどうかより先に入口」


「そうだ」


 私は紙の上に書きました。


 一、処分性。


 二、原告適格。


 三、訴えの利益。


 四、被告適格。


 五、出訴期間。


 六、管轄裁判所。


「その次」


「処分経緯」


「次」


「市側の理由」


「次」


「争点になり得る事実」


「証拠」


「はい」


 私は別欄を作りました。


 許可通知書。


 取消通知書。


 現場写真。


 周辺看板写真。


 道路課との通話メモ。


 過去の更新記録。


 案内看板設置後の事故・苦情の有無。


 市の道路整備計画。


 看板整理基準。


 類似看板の処理状況。


 書けば書くほど。


 裁判は、


 「おかしい!」


 と叫ぶ場ではないのだと分かります。


 おかしい。


 ではなく。


 どの事実がある。


 どの証拠がある。


 そこからどの法的評価になる。


 その積み重ね。


「裁判所って」


 私は言いました。


「もっと自分で真相を探してくれるところだと思ってました」


「探偵じゃねえからな」


 相馬先輩が言います。


「でも行政事件訴訟では、職権証拠調べありますよね」


「ああ」


「じゃあ多少は――」


「期待すんな」


「早い」


「補充だ」


 先輩は煙草を灰皿へ押しつけました。


「基本は当事者が出す」


「はい」


「裁判所が必要だと思えば、職権で証拠調べをすることはある」


「はい」


「だが、裁判所が勝手に役所の中を歩き回って、証拠を探してくる制度じゃねえ」


「職権探知主義とは違う」


「そうだ」


 そこ。


 受験生の頃。


 私は何度混ぜたか分かりません。


 職権探知。


 職権証拠調べ。


 文字が似すぎです。


 法律用語界の間違い探し。


「裁判の基本は弁論主義」


 私は確認します。


「事実と証拠は基本的に当事者が提出する」


「ああ」


「行政事件訴訟では必要に応じて職権証拠調べがある」


「ああ」


「でも裁判所が証拠を探しに行く職権探知主義ではない」


「そういうことだ」


「だったら」


 私は資料一覧を見ました。


「行政書士が裁判に立てなくても、前段階でできること、かなりありますね」


 相馬先輩がこちらを見ます。


「今ごろ気づいたのか」


「だって訴訟は弁護士さんの世界って思ってたので」


「訴訟はな」


「でも、その前の事実整理は別」


「そうだ」


 処分の日。


 通知を知った日。


 誰が処分したのか。


 何が取り消されたのか。


 どんな資料があるのか。


 どんな経緯だったのか。


 何を主張したいのか。


 それらを、


 感情の束ではなく、


 弁護士が見て使える形にする。


 裁判の代理はできない。


 でも。


 裁判の入口で転ばないための地面をならすことはできる。


「これ」


 私は通話メモを持ちました。


「大塚さんが書いててくれてよかったですね」


「だから依頼人の話は細かく聞け」


「はい」


「役に立たねえと思った一言が、あとで効く」


「はい」


「逆もある」


「逆?」


「本人は決定的だと思ってる話が、法的には何の役にも立たん」


「ああ」


 ある。


 むしろ多い。


 役所の担当者が態度悪かった。


 窓口で笑われた。


 昔から気に入らなかった。


 もちろん不快です。


 でも。


 取消訴訟の違法性判断に直結するとは限らない。


 逆に。


 本人が何気なく残した日付入りの手帳。


 古い許可書。


 一本の電話。


 写真の隅に写った他の看板。


 そういうものが、


 あとから争点を支える。


 翌日。


 市役所から電話がありました。


「総務課の沢渡です」


 私が受話器を握り直しました。


「はい」


『昨日の件です』


「大塚さんの?」


『道路課の記録を確認しました』


「どうでした?」


 一瞬。


 間。


『少し問題があります』


 この人が、


 問題があります。


 と言うとき。


 本当に問題があります。


「何がです?」


『取消処分の決裁文書上、理由は景観整備です』


「交通安全は?」


『処分時の決裁理由には入っていません』


「……はい」


『さらに』


「さらに?」


『今年度の看板整理対象一覧を確認したところ、大塚製材所は第二期対象でした』


 私は固まりました。


「第二期?」


『今年撤去する予定ではありませんでした』


「じゃあ、なぜ取消しを?」


『道路課の担当者が、第一期対象と誤認した可能性があります』


 事務所の音が消えました。


 私は受話器を握ったまま、片桐所長を見ました。


「課長」


『はい』


「それ、処分の前に確認されてないんですか」


『……結果として、確認が不十分だったと言わざるを得ません』


 沢渡課長が。


 結果として。


 確認が不十分。


 と言いました。


 これはかなり大きい。


「処分は?」


『道路課に再検討を指示しました』


「取消処分を?」


『ええ』


「撤回?」


『まだ正式決定ではありません』


「いつ?」


『近日中です』


「分かりました」


『それと』


「はい」


『朝比奈さん』


「何でしょう」


『昨日あなたが言ったことですが』


「何を言いましたっけ」


『裁量があることと、何も見なくていいことは違う、と』


「ああ」


『その点は、その通りです』


 私は少しだけ目を見開きました。


「課長が褒めた」


『褒めてはいません』


「気のせい?」


『気のせいです』


 この人まで使い始めた。


『ただし』


「はい」


『訴訟になった場合、市側にも主張立証が必要になります』


「はい」


『こちらも記録を整えておくべきでした』


「……はい」


『行政側が、裁判所が何とか整理してくれると思っていても駄目ですからね』


 沢渡課長がそんなことを言う。


 不思議な気分でした。


「弁論主義、ですね」


『そうです』


「職権証拠調べもありますけど」


『補充的なものです』


「ですよね」


『では』


「はい」


『正式な処理が決まれば連絡します』


 電話が切れました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「どうした」


「第二期対象だったそうです」


「何が」


「大塚さんの看板。今年撤去する対象じゃなかった」


「は?」


「道路課が間違えた可能性があるって」


 相馬先輩は数秒黙ってから。


「おい」


 と言いました。


 所長は驚きませんでした。


「決裁理由は」


「景観整備だけ。交通安全は後から出た話でした」


「そうか」


「再検討するそうです」


 所長は一度だけ頷きます。


「大塚さんに連絡しろ」


 三日後。


 大塚さんの取消処分は見直されました。


 正式には。


 市が取消処分を撤回。


 看板の許可は、少なくとも現在の許可期間中は維持。


 そのうえで翌年度以降、


 道路整備計画に沿って、


 設置場所や表示方法を協議することになりました。


「裁判しなくて済んだんですか」


 事務所に来た大塚さんが聞きました。


「今のところは」


 私は答えました。


「市が取消処分自体を戻したので」


「じゃあ勝った?」


「勝ったというより」


 私は少し考えます。


「裁判になる前に、役所が間違いを認めて直した、ですかね」


「でも裁判の準備したからでしょう?」


「それはあると思います」


 大塚さんは笑いました。


「俺、裁判所へ行けば裁判官が全部調べてくれると思ってました」


「私もちょっと前まで似たようなこと思ってました」


「朝比奈」


 相馬先輩。


「言わなくていい」


「はい」


 でも本当です。


 法廷。


 裁判官。


 真実。


 そう並ぶと、


 裁判所が全部探して、


 全部調べて、


 全部正してくれそうに見える。


 けれど。


 まず。


 裁判そのものを始めるかどうかは、原告側が決める。


 誰を相手に。


 何について。


 どんな救済を求めるのか。


 訴えを起こさない自由もある。


 起こしたあとに、一定の範囲で終わらせる選択もある。


 処分権主義。


 そして訴えを起こしたら。


 裁判所はまず、


 入口を確認する。


 処分性。


 原告適格。


 訴えの利益。


 被告適格。


 出訴期間。


 管轄裁判所。


 一つでも欠ければ、


 中身の違法性まで行けないことがある。


 入口を通ったら。


 今度は、


 違法かどうかを争う。


 不当かどうかではない。


 もっと良いやり方があったかでもない。


 法的に許される処分だったか。


 そして。


 その判断の材料となる事実と証拠は、


 基本的に当事者が出す。


 裁判所は、


 こちらの人生を一から取材してくれる記者ではない。


 役所の棚を探す探偵でもない。


 必要があれば職権で証拠を調べることはできる。


 でも、


「証拠は裁判所が探してくれる」


 と任せていい制度ではない。


「俺が電話のこと書いてなかったら?」


 大塚さんが聞きました。


「それだけで負けるわけじゃありません」


「でも?」


「事実を組み立てる材料は、一つ減ってました」


「写真も?」


「大事です」


「古い許可書も?」


「大事です」


「何でも捨てちゃ駄目だな」


「全部取っておけばいいってものでもないですけどね」


「どっちなんだ」


「必要なものを見極めるんです」


「難しいな」


「難しいです」


 即答しました。


 行政法は、


 最後まで難しい。


 でも。


 難しいからこそ、


 一個ずつ分ける。


 入口。


 争点。


 事実。


 証拠。


 法律。


 そうすると。


 怒りで全部真っ赤だった事件が、


 少しずつ形を持ち始める。


「朝比奈さん」


 大塚さんが立ち上がりました。


「看板、今度ちゃんと写真撮っときます」


「お願いします」


「道路の向こう側も」


「お願いします」


「ガソリンスタンドのも」


「それも」


「旅館も」


「大丈夫です」


「農協も」


「もう十分です」


 証拠収集に目覚めすぎました。


「ただし勝手に敷地へ入らないでくださいね」


「そこは分かってる」


「人の顔を勝手に撮りまくらないでくださいね」


「分かってるって」


「役所の机を開けたりも」


「犯罪者扱いしてないか?」


「念のためです」


 大塚さんは笑って帰っていきました。


 夕方。


 事務所の窓から、西日が差していました。


 私は今日作った弁護士引継ぎ用の資料を見直しました。


 結局。


 使わずに済んだ。


 取消訴訟は起こさなかった。


 でも。


 無駄だったとは思いません。


 訴えるなら、


 どこが入口になる。


 何が足りない。


 どんな証拠が必要になる。


 処分の違法性をどう組み立てる。


 そこまで具体化したから、


 市役所も、


 もし裁判になったら、


 どこを説明しなければならないか。


 見えた。


 そして役所自身が、


 記録を調べた。


 間違いを見つけた。


 処分を戻した。


 裁判は始まっていない。


 それでも、


 訴訟という仕組みを正確に知っていたことが、


 結果として裁判を避ける力になった。


「不思議ですね」


 私は言いました。


「何が」


 相馬先輩が帳簿を書きながら答えます。


「裁判の準備をちゃんとしたら、裁判しなくて済んだ」


「よくある」


「そうなんですか」


「相手が何も分かってねえと思えば、強気になる」


「はい」


「要件も証拠も分かったうえで話してると分かれば、計算し直す」


「沢渡課長みたいに」


「特にな」


 合理的な人は、


 感情で折れません。


 でも。


 敗訴リスク。


 説明困難。


 記録の穴。


 そういうものは計算する。


「行政書士って」


 私は言いました。


「裁判できないから、訴訟の知識いらないってわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「むしろ」


「むしろ?」


「裁判へ行く前の整理に必要」


「そういうことだ」


 片桐所長が奥から出てきました。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓」


 急に来ました。


 私は考えます。


 取消訴訟。


 まず要件。


 そのあと本案。


 審理対象は違法性。


 基本は弁論主義。


 事実と証拠は当事者が出す。


 職権証拠調べはある。


 でも職権探知ではない。


 全部を一言に。


「……裁判は」


「うん」


「『役所がおかしい』と叫んだら始まるんじゃない」


 相馬先輩が顔を上げました。


 私は続けます。


「入口を通って、事実と証拠を持って、初めて違法を争える」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートに書きました。


 ――取消訴訟は、正義を叫ぶ場所ではない。入口をそろえ、証拠を持ち込み、違法を争う場所。


「長いな」


 相馬先輩が言いました。


「今日は情報量多かったんです」


「短くしろ」


「じゃあ」


 考える。


 消す。


 書き直す。


 ――入口を越え、証拠を出して、ようやく違法を争える。


「どうです?」


「まあいい」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 最近、この事務所で気のせいが多すぎます。


 そこへ電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


「またですか」


『第一声が失礼ですね』


「すみません」


『大塚さんの件で、道路課の処分手順を見直すことになりました』


「手順?」


『許可取消しをする場合、対象一覧と決裁理由の照合を必須にします』


「それは……」


『一件のミスなら、一件直して終わりでもいいでしょう』


「はい」


『ですが同じ仕組みなら、また起きます』


 私は少しだけ笑いました。


「課長」


『何でしょう』


「意外とちゃんとしてますね」


『朝比奈さん』


「はい」


『それは褒めているつもりですか』


「かなり」


『なら表現方法を改めることを勧めます』


「行政指導ですか」


『単なる助言です』


「従う義務は?」


『ありません』


「じゃあ考えておきます」


『そうしてください』


 電話が切れました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「道路課の処分手順、見直すそうです」


「へえ」


「対象一覧と決裁理由の照合を必須にするって」


 所長は何も言わず、少しだけ窓の外を見ました。


 町の道路を、


 車が何台も走っています。


 そのどこかに。


 大塚さんの看板も、まだ立っている。


 たった一枚。


 大型車入口五十米先。


 その看板を巡って。


 裁判は起きなかった。


 判決も出なかった。


 新聞にも載らない。


 でも。


 訴訟の入口を一つずつ確認し。


 証拠を並べ。


 違法性を争うなら何が必要かを考えたことで。


 一つの処分が戻った。


 役所の手順も少し変わった。


 裁判という制度は、


 裁判所へ行った人だけのものではないのかもしれません。


 正確に知っているだけで、


 役所との話し合いの重さが変わる。


 裁判にできるのか。


 できないのか。


 何が足りないのか。


 何を証明しなければならないのか。


 それを知っているだけで。


「訴えてやる!」


 という怒鳴り声が。


「この事実を、この証拠で、この違法として争います」


 という言葉に変わる。


 たぶん。


 法律が人を強くする瞬間というのは、


 声を大きくするときではありません。


 何を言えばいいかが、


 分かったときです。


「朝比奈」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「大塚さんの資料、片付けろ」


「もう終わった事件ですよ?」


「だから片付ける」


「裁判所みたいに職権で片付けてください」


「意味分かって言ってるか?」


「職権で」


「それは職権証拠調べですらねえ」


「じゃあ職権整理」


「そんな制度はねえ」


 片桐所長が一言。


「こはる」


「はい」


「自分でやれ」


「弁論主義ですか?」


「ただの自分の机だ」


「ですよね」


 裁判所は、


 証拠を勝手に探してはくれません。


 そして片桐行政書士事務所も、


 散らかった書類を勝手には片付けてくれません。


 昭和六十三年。


 どうやら世の中というものは、


 思っていた以上に、


 自分で出すものを自分で用意しなければならないようです。

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