[取消訴訟の管轄裁判所]法理編 こはるノート
近い裁判所と、行くべき裁判所は、同じとは限りません。
地図だけ見れば、
湖西からなら浜松。
それで話は終わりそうです。
でも、
裁判所には管轄がある。
さらに支部には、
扱う事件と扱わない事件がある。
そこまで考え始めると。
地図は急に法律になります。
夕方。
静岡県湖西市。
片桐行政書士事務所。
私は机いっぱいに静岡県の地図を広げていました。
湖西市。
浜名湖。
浜松。
静岡。
県庁。
静岡地方裁判所浜松支部。
静岡地方裁判所本庁。
そして。
湖西から浜松まで一本。
湖西から静岡まで一本。
赤鉛筆で線を引く。
「……納得いかない」
「まだ言ってんのか」
向かいの机で相馬先輩が煙草に火をつけました。
「だって見てくださいよ」
「嫌だ」
「見てください」
「嫌だ」
「所長」
「見ろ」
「毎回それ使うのやめろ!」
相馬先輩が渋々こちらを向きました。
私は地図を指します。
「ここが湖西」
「ああ」
「ここが浜松」
「ああ」
「ここが静岡」
「ああ」
「どう見ても浜松のほうが近いでしょう」
「地図見なくても分かる」
「なのに行政事件は静岡本庁」
「そうだ」
「浜松支部、そこにあるのに!」
「裁判所に文句言え」
「制度を勉強してるんです!」
私は椅子へ座り直しました。
目の前にはノート。
今日の見出し。
――取消訴訟の管轄裁判所。
受験生だった頃。
正直に言えば。
私はこの単元が、かなり地味だと思っていました。
取消訴訟。
処分性。
原告適格。
訴えの利益。
出訴期間。
執行停止。
裁量権の逸脱・濫用。
そういう大物論点の横に、
管轄裁判所。
と書いてある。
なんだか法律というより、
役所の窓口案内みたいに見えるのです。
――何階の何番窓口へどうぞ。
そのくらいの扱いでした。
でも。
三崎さんの事件で分かりました。
浜名湖で遊覧船をやっている。
湖西市に住んでいる。
桟橋も湖西側。
浜松はすぐ近く。
静岡地方裁判所浜松支部もある。
だから、
裁判するなら浜松。
普通はそう思います。
ところが。
行政事件は浜松支部ではなく、
静岡地方裁判所本庁。
「相馬先輩」
「何だ」
「これ、受験問題だったら一行ですよね」
「何が」
「行政事件は本庁」
「まあな」
「現場にすると百キロ級の重さがあります」
「物理的な話か」
「物理的でもあります」
湖西から静岡。
同じ県内。
でも。
静岡県は東西に長い。
同じ県、
という言葉でまとめるには、
少々横に長すぎます。
「復習、付き合ってください」
「嫌だ」
「昨日の事件の反省会です」
「俺は反省することがねえ」
「私にはあります」
「勝手にしろ」
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿をめくったまま言いました。
相馬先輩が煙草をくわえたまま止まります。
「お前、そのうち所長を行政庁みたいに使い始めるぞ」
「もう少しだけ使ってます」
「否定しろ」
では。
始めます。
「まず基本です」
私はノートに書きました。
――取消訴訟の第一審は、原則として地方裁判所。
「昨日の三崎さんは」
私は言います。
「裁判所へ行けばいい、と思ってました」
「間違いではねえ」
「でも、裁判所なら何でもいいわけじゃない」
「ああ」
簡易裁判所。
地方裁判所。
家庭裁判所。
高等裁判所。
最高裁判所。
裁判所にはそれぞれ役割があります。
「取消訴訟の第一審は?」
相馬先輩が聞きます。
「原則として地方裁判所」
「簡裁は?」
「違います」
「家裁」
「違います」
「最高裁」
「いきなりラスボスへ行かせないでください」
「例だ」
まず、
第一審は地方裁判所。
その判決に不服があれば、
高等裁判所へ控訴。
さらに。
高等裁判所の判決に不服があれば、
最高裁判所へ上告。
私は縦に書きました。
地方裁判所。
↓
高等裁判所。
↓
最高裁判所。
「これが三審制」
「最大三段階」
「はい」
「ただし」
片桐所長が口を挟みました。
「三回、同じ裁判を最初からやると思うな」
「はい」
そこは大事です。
三審制だからといって。
三つの裁判所で、
完全に同じ内容を、
毎回一から繰り返すわけではありません。
特に最高裁判所は、
法律問題を中心に審査します。
「受験上は」
私は言いました。
「まず、地方、高裁、最高裁の流れを押さえる」
「それでいい」
でも。
三崎さんの事件では。
三審制以前に、
一審をどこへ出すのか。
そこから問題になりました。
私は次の見出しを書きます。
――管轄裁判所。
「昨日の本丸ですね」
「そうだな」
「取消訴訟を起こすとして、どこの地方裁判所へ持っていくのか」
「それが管轄」
「はい」
裁判所には、
事件を扱える範囲があります。
全国どこの地方裁判所でも、
好きな場所へ出していいわけではない。
「たとえば」
私は言いました。
「静岡県知事の処分が気に入らないから、沖縄旅行ついでに那覇地裁へ――」
「出すな」
「まだ最後まで言ってません」
「出すな」
「例です」
「例が遠すぎる」
「極端なほうが覚えやすいんです」
要するに。
その事件を、
どこの裁判所が扱うのか。
それが管轄。
そして。
三崎さんの事件では、
もう一段あります。
「湖西市なら」
私は地図を指しました。
「普通の感覚だと浜松ですよね」
「ああ」
「浜松支部があります」
「ああ」
「でも行政事件は?」
「本庁」
「どこ?」
「静岡」
「遠い!」
「復習するたび叫ぶな」
ここが今回の肝です。
湖西市は、
地理的には浜松に近い。
通常の民事事件などなら、
浜松支部との関係が出てくる。
でも。
三崎さんが起こそうとしているのは、
静岡県知事の処分を争う取消訴訟。
行政事件。
そしてこの時代の静岡地方裁判所では、
行政事件は本庁で扱う。
だから。
近い浜松支部ではなく、
静岡市の本庁。
「つまり」
私は言いました。
「地理上の管轄だけ見ても足りない」
「ああ」
「支部がその事件を扱うかまで見る」
「そうだ」
なるほど。
裁判所名だけでは終わらない。
静岡地方裁判所。
と分かった。
じゃあ浜松支部でいい。
ではない。
「支部って」
私は言いました。
「本庁の小さい版じゃないんですね」
「何でも扱う出張所だと思ってたのか」
「ちょっと」
「雑だな」
反省しています。
支部には、
地域的な役割があります。
でも。
事件の種類によっては、
本庁で集中して扱われるものがある。
行政事件もその一つ。
三崎さんの場合。
船は浜名湖。
自宅は湖西。
浜松支部は近い。
それでも。
取消訴訟の入口は、
静岡本庁。
「これ」
私は言いました。
「法律を知らない人からすると、かなり罠じゃないですか」
「罠じゃねえ」
「結果的に罠です」
地図を見る。
浜松のほうが圧倒的に近い。
裁判所もある。
名前も、
静岡地方裁判所浜松支部。
同じ静岡地方裁判所です。
だから、
ここでいい。
そう思ってしまう。
「三崎さんが言ってました」
私は昨日を思い出しました。
――同じ静岡地方裁判所だろ!?
あれ。
すごく分かります。
でも。
法律は、
看板の前半が同じだから、
どちらでもいい。
とは言ってくれない。
「で」
相馬先輩が言いました。
「処分庁の話はどうなる」
「そこです」
私はノートに書きます。
昭和六十三年。
取消訴訟。
被告。
――処分をした行政庁。
三崎さんへの取消処分。
名義は、
静岡県知事。
「だから被告は?」
「静岡県知事」
「県じゃない」
「この時代は、です」
ここが。
現代の私の知識が事故を起こすところ。
現代の行政事件訴訟法では、
原則として、
処分をした行政庁が所属する国または公共団体を被告にします。
県知事が処分したなら、
県。
市長なら、
市。
国の行政庁なら、
国。
「だから昨日」
私は言いました。
「三崎さんが『静岡県を訴える』って言ったとき、一瞬そのまま頷きそうになった」
「未来病」
「病名みたいに言わないでください」
「昭和で治せ」
「治療法が乱暴」
でも。
これは本当に危ない。
現代知識で考えると、
静岡県。
昭和六十三年で考えると、
静岡県知事。
同じ事件でも、
被告欄に書く相手が違う。
私はノートを二つに分けました。
左。
昭和六十三年。
右。
現代。
昭和六十三年。
被告――処分をした行政庁。
現代。
被告――その行政庁が所属する国・公共団体。
「ここまではいいな」
「はい」
「じゃあ管轄」
「はい」
この時代の三崎さんの事件では、
処分庁である静岡県知事の所在地は静岡市。
そして、
静岡地方裁判所では行政事件は本庁扱い。
「なので」
私は地図を叩きました。
「浜松ではなく静岡」
「そういうことだ」
「ここ、分けて覚えたほうがいいですね」
「何を」
「行政事件訴訟法上の管轄の話と、裁判所内部で支部が何を扱うかという話」
片桐所長がこちらを見ました。
「そうだ」
よし。
そこ大事。
三崎さんの事件が静岡本庁になる理由を、
単純に、
県知事が静岡にいるから。
だけで終わらせると、
浜松支部の存在が説明できません。
正確には。
どの地方裁判所に管轄があるか。
そして。
その地方裁判所の中で、
支部がその種類の事件を扱うのか。
二段階で見る。
「なるほど」
私はノートに矢印を書きました。
管轄。
↓
裁判所を決める。
事務分配。
↓
本庁・支部のどこで扱うかを見る。
「似てますけど」
私は言いました。
「同じじゃない」
「そうだ」
「昨日まで全部『どこの裁判所問題』でまとめてました」
「雑だ」
「すみません」
でも。
現場では、
この雑さが怖い。
静岡地裁なら、
浜松支部でも静岡本庁でも同じだろう。
と思ってしまうから。
私は次の見出しを書きました。
――現代の管轄。
「未来へ行くのか」
「比較です」
現代法では。
取消訴訟は、
原則として、
被告の普通裁判籍の所在地を管轄する裁判所。
または、
処分や裁決をした行政庁の所在地を管轄する裁判所。
そういう形で管轄が定められています。
「普通裁判籍」
相馬先輩が顔をしかめました。
「出たな。眠いやつ」
「分かります」
「お前が言うな」
「意味はそんなに難しくないです」
普通裁判籍。
ざっくり言えば。
その人や法人などについて、
普通に訴えを起こす場合の基準となる場所。
「教材レベルなら」
私は言いました。
「住所地みたいなイメージから入ればいい」
「かなり雑だぞ」
「最初の理解としてです」
現代では。
三崎さんのように、
県知事の処分を争うなら、
被告は県。
だから、
被告である県の普通裁判籍。
さらに、
処分をした行政庁である県知事の所在地。
そういう管轄の規定を見る。
「結果として」
私は言いました。
「静岡県知事の事件なら、結局静岡になることが多くて、新旧の違いが見えにくい」
「結果は同じでも理由が違う」
「はい」
昭和六十三年。
処分庁を被告にする。
現代。
国や公共団体を被告にする。
結論の裁判所名だけ丸暗記すると、
この制度変更が見えなくなる。
「行政法」
私は呟きました。
「結論が同じときほど怖いですね」
「何でだ」
「間違った理由で正解できるからです」
相馬先輩が少し笑いました。
「試験あるあるだな」
「分かります?」
「実務でもある」
なるほど。
もっと怖かった。
「ところで」
相馬先輩が言いました。
「昨日、お前、浜松支部へ出したら即却下みたいな顔してたな」
「顔で法律知識まで判定しないでください」
「実際どうなんだ」
私は少し考えます。
「ここは丁寧に分けます」
管轄を間違えた。
あるいは。
扱う裁判所を間違えた。
だから、
即座に本案について門前払い。
そう単純に覚えるのは危険です。
「管轄違いなら」
私は言いました。
「適切な裁判所への移送が問題になる場合があります」
「なら浜松へ出しても平気か」
「平気じゃありません」
「なぜ」
「時間です」
三崎さんの事件。
昭和六十三年。
取消訴訟の出訴期間。
処分を知った日から三箇月。
現代の六箇月ではない。
「短いですね」
「今さらか」
「現場にすると毎回短く感じます」
この短い期間で。
資料を集める。
事実を確認する。
弁護士へ引き継ぐ。
誰を被告にするか確認する。
どの裁判所か確認する。
浜松支部で扱うのか、
静岡本庁なのか確認する。
訴状を作る。
「そこで」
私は言いました。
「最初から浜松支部へ持っていって、違います、静岡です、って余計な手続が増えたら」
「時間を食う」
「はい」
「だから」
片桐所長が言いました。
「入口で揉めるな」
短い。
でも。
今日一番重要かもしれません。
管轄を覚えるのは、
試験問題で一点を取るためだけじゃない。
処分の違法性。
つまり本案。
そこへ最短距離でたどり着くため。
「三崎さんの件」
私は言いました。
「かなり危なかったですよね」
「ああ」
「午後から浜松支部へ行くって言ってた」
「ああ」
「被告は静岡県だと思ってた」
「ああ」
「昭和六十三年なのに」
「ああ」
「さらに私まで一瞬、六箇月ありそうな気が――」
「それはお前だけだ」
「はい」
もし。
三崎さんが何も知らないまま。
浜松支部へ行って。
県を訴えるつもりだと言って。
書類も足りず。
弁護士へ相談するのも遅れて。
役所の再検討を待っているうちに。
三箇月。
そんなことになったら。
笑えません。
「行政事件訴訟法って」
私は言いました。
「何も知らない住民にはかなり厳しいですね」
「裁判はだいたいそうだ」
「でも行政事件は特に、昔は入口が細い」
「そうだな」
◇
私はノートに次の見出しを書きました。
――なぜ、こんなに遠いのか。
「それ法律か?」
相馬先輩が聞きます。
「半分、三崎さんの叫びです」
「じゃあ飛ばせ」
「飛ばしません」
三崎さんは昨日、
本気で怒っていました。
浜名湖の事件だぞ。
船も桟橋も湖西だ。
俺も湖西に住んでる。
浜松支部なら近い。
なのに。
なぜ静岡まで行かなければならない。
「これ」
私は言いました。
「制度を使う側からしたら、すごく大事ですよね」
「ああ」
訴訟を起こせる。
法律上の権利がある。
それだけでは。
実際に使えるとは限らない。
裁判所までの距離。
交通費。
仕事。
弁護士との打合せ。
家族。
証拠の場所。
全部、
現実の負担になります。
浜名湖の桟橋を見るためには、
静岡側から人が来なければならない。
でも。
住民が裁判するなら、
静岡へ向かわなければならない。
「昨日、三崎さん言ってましたね」
私は思い出しました。
――検査なら向こうが浜名湖まで来るのに、裁判だと俺が静岡まで行くのか。
ちょっと笑いました。
でも。
考えると笑えない。
「だから」
私はノートの右側を叩きました。
「後の行政事件訴訟法改正って、入口を広げる方向なんですね」
「未来の話か」
「はい」
平成十六年の大改正。
行政事件訴訟法は、
かなり大きく変わります。
被告適格。
処分庁そのものではなく、
国または公共団体。
出訴期間。
三箇月から六箇月へ。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
法定化。
そして。
管轄についても、
利用者側の負担を軽くする方向の仕組みが加わります。
「例えば」
私は書きました。
――特定管轄裁判所。
「また嫌な名前出たな」
相馬先輩が言いました。
「未来では現役です」
「未来へ帰ってから使え」
「聞いてください」
現代法では。
国や一定の独立行政法人などを被告とする取消訴訟について。
一定の場合、
原告の普通裁判籍の所在地を管轄する高等裁判所の所在地を管轄する地方裁判所にも、
訴えを提起できます。
「長い」
「法律なので」
「日本語を短くしろ」
「簡単に言うと」
私は言いました。
「国の処分を争うために、何でも東京まで行かなきゃならない、みたいな負担を軽くする仕組みです」
「それなら最初からそう言え」
「試験ではそれだけじゃ足りません!」
例えば。
地方在住者が、
国の行政庁による処分を争う。
行政庁所在地だけを基準にすれば、
裁判所が遠くなることがあります。
そこで、
一定の場合には、
原告側に近い地域の高裁所在地にある地方裁判所でも訴えられる。
「これ」
私は言いました。
「昨日の三崎さん見たあとだと、意味が分かります」
「どういう意味だ」
「裁判所が遠いこと自体が、救済を諦める理由になるから」
片桐所長が頷きました。
それです。
法律上、
訴訟できます。
と言われても。
行く場所が遠い。
期限が短い。
制度が複雑。
費用もかかる。
それでは、
権利が紙の上だけになりかねない。
「だから」
私はノートに書きました。
――管轄の拡大は、地図の変更ではなく、司法救済への距離を縮める改正。
「長い」
「いいんです!」
「でもな」
相馬先輩が言いました。
「三崎さん、結局裁判しなかっただろ」
「はい」
「なら、浜松か静岡か調べた意味あったのか」
来ました。
嫌な質問。
でも。
大事です。
「ありました」
「なぜ」
「本当に裁判できるところまで準備したからです」
三崎さんは最初、
裁判にしてやる!
と怒鳴っていました。
でも。
それだけなら、
役所側から見れば。
怒っている住民。
で終わる可能性があります。
裁判する。
という言葉は、
言うだけなら誰でも言える。
でも。
誰が原告になるのか。
何を取り消してほしいのか。
原告適格はあるか。
出訴期間は残っているか。
被告は誰か。
浜松支部なのか。
静岡本庁なのか。
どの資料を弁護士へ渡すのか。
そこまで整理する。
「つまり」
私は言いました。
「怒りを訴訟可能な形にした」
「それなら分かる」
「だから役所側も無視しにくい」
もちろん。
訴訟をちらつかせれば、
行政庁が怖がって処分を取り消す。
そんな話ではありません。
沢渡課長も言いました。
違法でないなら争う。
安全に関する処分ならなおさら。
その通りです。
でも。
改善報告書が、
処分起案の資料から漏れていた。
処分判断の前提に、
見落としがある可能性が出た。
そして住民側は、
本当に取消訴訟へ進めるよう準備している。
となれば。
行政側も考えます。
裁判になったとき、
この処分を説明できるのか。
「だから」
私はノートに書きます。
――訴訟要件の整理は、裁判所へ行くためだけの作業ではない。
「交渉にも効く」
相馬先輩が言います。
「はい」
「ただし」
「脅しに使わない」
「そうだ」
裁判にしてやるぞ。
ではなく。
この処分には、
こういう問題があります。
原告適格。
期間。
被告。
管轄。
弁護士への引継ぎ。
全部整理しています。
処分を維持するなら、
裁判で説明してもらうこともできます。
そういう状態にする。
「行政書士としては」
私は言いました。
「そこまで」
「そうだ」
所長が答えます。
「越えるな」
「訴訟代理の線を」
「ああ」
行政書士は、
裁判所で訴訟代理人にはなれません。
だから。
片桐事務所がやったのは、
裁判そのものではない。
三崎さんの話を整理する。
通知を確認する。
処分日。
到達日。
改善報告。
写真。
県と市とのやり取り。
どんな訴訟要件が問題になるのか。
そこまでまとめる。
そして。
弁護士へつなぐ。
「昨日、所長が言った言葉」
私はノートを見ました。
――訴訟は最後の手段でも、使えない最後の手段では意味がない。
「これ、やっぱりいいですね」
「そうか」
「今日の一行に――」
「長い」
「先に言われた」
◇
私はページをめくりました。
「次」
「まだあるのか」
「普通裁判籍」
「さっきやった」
「もう少しです」
普通裁判籍。
聞いた瞬間、
受験生の脳に睡眠命令が出る言葉。
でも。
概念としてはそこまで難しくありません。
「民事訴訟でも」
私は言いました。
「どこの裁判所で裁判するか決めるために、裁判籍という考え方があります」
「うん」
「普通裁判籍は、その人や法人について一般的な裁判管轄を決める基礎になる場所」
「うん」
「ざっくり住所地」
「試験でそのまま書くなよ」
「覚え方です」
現代行政事件訴訟法では、
取消訴訟の管轄について、
被告の普通裁判籍。
という言葉が出てくる。
「ここ」
私は言いました。
「現代の被告適格とセットで見ると分かりやすいです」
「言ってみろ」
「現代では県知事そのものじゃなく、県を被告にする」
「ああ」
「だから被告の普通裁判籍というと、県側の普通裁判籍を考える」
「そういうことだな」
改正前。
処分庁を被告。
改正後。
国または公共団体を被告。
被告を変えれば。
管轄規定も連動して直す必要がある。
「法律改正って」
私は言いました。
「一か所だけ差し替えれば終わりじゃないんですね」
「当たり前だ」
「被告を変えれば、管轄も変わる」
「ああ」
「訴訟類型を増やせば、仮の救済も必要になる」
「そうだ」
「出訴期間を伸ばせば、救済可能性も変わる」
「そうだ」
制度は歯車。
一つ動かせば、
隣も動く。
平成十六年改正が、
大改正だった理由が見えます。
「じゃあ問題」
相馬先輩が突然言いました。
「嫌な予感」
「三崎さんが一審で負けた」
「いきなり負けさせないでください」
「どこへ行く」
「高等裁判所へ控訴」
「そこでも負けた」
「最高裁判所へ上告」
「三回負けた」
「三崎さんに謝ってください!」
「次」
「続くんですか」
「三崎さんが『最高裁が一番上なら最初からそこへ行く』と言った」
「駄目です」
「なぜ」
「取消訴訟の第一審は原則として地方裁判所だから」
「三崎さんが『湖西からなら浜松支部が近いからそこでいい』と言った」
「行政事件は静岡本庁」
「三崎さんが『同じ静岡地方裁判所なら一緒だろ』と言った」
「支部がすべての事件を扱うとは限らない」
「三崎さんが『県を訴える』と言った」
「昭和六十三年なら県知事という行政庁」
「期間は半年」
「三箇月!」
「よし」
「最後わざとですよね!」
完全に試験です。
「じゃあ私から」
私は仕返しします。
「昭和六十三年。静岡県知事の処分を争う。被告は?」
「静岡県知事」
「現代は?」
「静岡県」
「昭和六十三年の出訴期間?」
「三箇月」
「現代?」
「六箇月」
「昭和六十三年、湖西の人がこの行政事件を出す。浜松支部?」
「静岡本庁」
「現代に法定されてるけど昭和六十三年には法定されてない抗告訴訟」
「義務付けと差止め」
全部即答。
「先輩、何でそんなにできます?」
「仕事だからだ」
「受験生に一番刺さる答えやめてください」
私はノートに、
二つの列を作りました。
昭和六十三年。
現代。
昭和六十三年。
出訴期間。
三箇月。
現代。
六箇月。
昭和六十三年。
被告。
処分をした行政庁。
現代。
国または公共団体。
昭和六十三年。
義務付け訴訟・差止訴訟。
法定なし。
現代。
法定あり。
昭和六十三年。
仮の救済。
基本は執行停止。
現代。
執行停止に加えて、
義務付け・差止めに対応する仮の救済も整備。
そして。
管轄。
さらに。
浜松支部と静岡本庁。
「こうやって並べると」
私は言いました。
「改正の方向が見えます」
「どんな方向だ」
「行政訴訟を、本当に使える救済にする方向」
昔の制度。
期間は短い。
被告は行政庁。
訴訟類型も少ない。
仮の救済も狭い。
裁判所へのアクセスも重い。
それが。
後の改正で。
期間を延ばす。
被告を分かりやすくする。
義務付けや差止めを法定する。
管轄の選択肢も広げる。
「要するに」
私は言いました。
「入口を少しずつ広げた」
片桐所長が頷きました。
「救済を、使えるものにする」
「はい」
権利があります。
でも。
期限が短すぎます。
裁判所が遠すぎます。
誰を訴えるか間違えやすいです。
使いたい訴訟類型もありません。
では。
紙の上の権利になってしまう。
「今の制度だけ暗記すると」
私は言いました。
「何でこうなってるのか分かりにくいんですよね」
「昔を見れば分かる」
「はい」
三崎さんを置いてみる。
浜名湖で遊覧船をやっている。
県の処分を受ける。
裁判したい。
浜松なら近い。
でも静岡。
県を訴えばいい。
でも昭和なら県知事。
六箇月くらいある。
でも三箇月。
営業させろと義務付けを。
でも法定されていない。
全部。
壁。
だからこそ。
現代法がどちらへ向かって改正されたのかが見える。
――救済を現実に使いやすくする。
「一個いいですか」
私は言いました。
「何だ」
「教材で、管轄裁判所以外へ出したら却下、って一行で書かれることありますよね」
「ああ」
「これ、丸暗記は危ない」
法律学習では、
要件を満たさない。
却下。
と短く整理したくなります。
でも。
実際の訴訟手続では、
もう少し丁寧に考える必要がある。
管轄違いなら。
移送が問題になることがあります。
「つまり」
私は言いました。
「管轄違いイコール必ずその場で終わり、ではない」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「だが」
「はい」
「最初から間違えるな」
「はい」
結局そこ。
救済手段があるから、
大丈夫。
ではありません。
行政訴訟では、
出訴期間が走っている。
時間は止まらない。
「三崎さんも」
私は言いました。
「県が再検討すると言ったあとも、三箇月の時計は止まってませんでした」
「ああ」
「だから弁護士への引継ぎ準備も止めなかった」
「そうだ」
役所が、
再検討します。
少し待ってください。
と言った。
だから安心。
ではない。
その言葉が、
当然に出訴期間を止めてくれるわけではありません。
「行政法って」
私は言いました。
「待ってるだけで地雷踏めますね」
「踏むな」
「分かってます!」
窓の外は、
すっかり暗くなっていました。
浜名湖のほうから吹く風が、
古い窓ガラスをかすかに鳴らします。
私は最後のページを開きました。
「今日の一行」
「やっとか」
「失礼ですね」
何を書くか。
少し迷います。
地方裁判所。
三審制。
管轄。
普通裁判籍。
処分庁所在地。
本庁。
支部。
昭和。
現代。
覚えることはたくさんある。
でも。
三崎さんの事件で一番残ったのは、
やっぱり地図でした。
湖西。
浜松。
静岡。
目の前に近い裁判所がある。
でも。
その扉が、
自分の事件を扱うとは限らない。
私は書きました。
――取消訴訟は、「勝てるか」の前に、「どこで戦えるか」を確かめる。
「昨日と同じじゃねえか」
相馬先輩が言いました。
「完成度が高いので」
「手抜き」
「では今回専用」
私はその下に書きます。
――近い裁判所ではなく、その事件を扱える裁判所へ。
相馬先輩が少し黙りました。
「どうです?」
「分かりやすい」
「褒めた!」
「気のせいだ」
「今は明確に褒めましたよ!」
そのとき。
事務所の引き戸が開きました。
「こんばんは」
聞き覚えのある声。
三崎さんでした。
「どうしたんです?」
「これ」
大きな紙袋を机へ置きます。
「何です?」
「浜名湖の売店で売ってる饅頭」
「おお」
相馬先輩が即座に立ち上がりました。
「反応早すぎません?」
「食えるからな」
「花のときと態度違いすぎます」
三崎さんが笑いました。
「船、今日から正式に通常運航だ」
「本当ですか」
「ああ」
「初便、何人でした?」
「三人」
「少ないですね」
「ほっとけ」
「すみません」
「でもな」
三崎さんは少し照れたように笑いました。
「一人は、昔親父の船に乗ったっていう婆さんだった」
「へえ」
「今度は孫連れてきた」
そこで。
三崎さんは少し黙りました。
「続けられてよかったよ」
その一言で。
今日ノートに書いた、
管轄。
本庁。
支部。
普通裁判籍。
三審制。
行政庁所在地。
全部の文字が。
一瞬だけ、
浜名湖の水の匂いを持った気がしました。
もし。
三崎さんが、
同じ静岡地方裁判所なんだから、
浜松支部でいい。
と思ったままだったら。
もし。
静岡県でも県知事でも同じだ。
と思っていたら。
もし。
まだ半年ある。
と私の未来知識で考えていたら。
もし。
県が見直すと言ったから、
裁判の準備は止めよう。
と思っていたら。
そのどれか一つで。
時間を失っていたかもしれません。
法律の入口は、
ときどき細かすぎます。
冷たいほどです。
でも。
細かいからこそ。
本当に困ったとき、
道筋を一本ずつ確認できる。
「朝比奈さん」
三崎さんが言いました。
「はい」
「結局、静岡の裁判所まで行かなくて済んだな」
「そうですね」
「浜松支部にも行かなかった」
「はい」
「なのにそこまで調べた」
「はい」
「無駄じゃなかった?」
私は首を振りました。
「無駄じゃないです」
「何でだ」
「本当に静岡まで行ける準備があったから、行かずに済んだんです」
三崎さんが少し考えます。
「難しいこと言うな」
「私も今、ちょっと格好つけました」
相馬先輩が饅頭の箱を開けながら言います。
「要するに」
「はい」
「抜ける刀だから、抜かなくて済んだ」
「あ」
私は止まりました。
「先輩」
「何だ」
「それ、すごくいいです」
「そうか」
「今日の一行、それにします」
「やめろ」
「何でです?」
「俺の言葉だ」
「著作権主張するんですか!」
三崎さんが笑いました。
片桐所長も、
ほんの少し口元を緩めています。
私は結局。
ノートの最後に、
二行書きました。
――近い裁判所ではなく、その事件を扱える裁判所へ。
その下に。
――使える訴訟だからこそ、使わずに済ませられることがある。
「二行じゃねえか」
相馬先輩が言います。
「恒例です」
「一行の覚え書きだろ」
「行政法には例外があります」
「そこに使うな」
そして。
机の上には。
三崎さんの饅頭。
静岡県の地図。
湖西。
浜松。
静岡。
赤鉛筆。
取消処分の写し。
全部が一緒に並んでいました。
行政事件訴訟法。
昔の私は。
裁判所で行政と戦うための法律だと思っていました。
でも。
少し違います。
裁判になる前から、
この法律はもう働いている。
誰が争えるのか。
いつまでなのか。
誰を相手にするのか。
どこの地方裁判所なのか。
支部で扱うのか。
本庁なのか。
その一つ一つを確認することで。
住民の怒りは、
ただの怒鳴り声から、
法的な選択肢へ変わる。
冷たい要件は、
人を追い返す壁にもなる。
けれど。
正しく揃えれば。
その壁は、
裁判所まで続く道にもなる。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「明日の県庁行き」
「え」
「なくなった」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!?」
「ああ」
「やった!」
「代わりに」
嫌な予感。
「朝六時半から三崎さんの船に乗る」
「何でですか!」
「現場確認」
「もう処分見直されましたよね!?」
三崎さんが笑います。
「浜名湖の朝便、無料にしとくぞ」
「そういう問題じゃありません!」
相馬先輩が饅頭を食べながら言いました。
「静岡より近いだろ」
「比較対象がおかしいです!」
「浜松支部よりも近い」
「何でも距離で決めないでください!」
「管轄内だ」
「何の管轄ですか!」
三崎さんまで笑っています。
私は机の上の地図を見ました。
湖西。
すぐ隣の浜松。
その先の静岡。
浜名湖の事件なのに、
裁判するなら静岡本庁。
受験テキストなら、
たった数行。
でも。
現場では。
その数行の間に、
人が移動する距離があります。
時間があります。
費用があります。
仕事があります。
生活があります。
だから。
管轄は、
単なる地図問題ではない。
裁判を、
本当に使える救済にするための入口なのです。
そして。
取消訴訟の管轄は整理できても。
片桐行政書士事務所における、
見習いの職務管轄だけは。
昭和六十三年現在。
浜松どころか静岡を飛び越えて、
どこまでも広がり続けているようでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




