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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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267/272

[取消訴訟の管轄裁判所]現場編 「近所の裁判所へ出せばいい」の罠。訴える相手の“住所”が入口を決める、昭和の遠すぎる裁判所

挿絵(By みてみん)

 裁判所は、どこでも裁判所――ではありません。


 病院なら、具合が悪くなったとき近くの病院へ駆け込めばいい。


 交番なら、とりあえず近くの交番へ行けば話を聞いてくれる。


 でも裁判所には、


 ――その事件は、ここでは扱いません。


 という、ものすごく事務的な入口があります。


 しかも。


 すぐ近くに同じ名前の裁判所の支部があったとしても、


 事件の種類によっては、


 もっと遠くまで行かなければならない。


 中身がどれだけ切実でも、


 まず地図の話から始まります。


 昭和六十三年。


 静岡県湖西市。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてやる!」


 朝九時十二分。


 事務所の引き戸が壊れるかと思いました。


「県を訴えてやる! 知事だろうが何だろうが関係ない!」


 飛び込んできたのは、五十代半ばくらいの男性でした。


 日に焼けた顔。


 紺色の作業着。


 手には、茶封筒。


 そして額には、


 いまから行政法と殴り合います、


 とでも書いてありそうな青筋。


「まあ、座ってください」


 私は椅子を勧めました。


「座ってられるか!」


「では立ったままでも」


「こはる」


 奥から片桐所長の声が飛んできます。


「刺激するな」


「はい」


 相馬先輩は新聞を畳みながら、男を見ました。


「で。何をされた」


「これだ!」


 机に紙が叩きつけられました。


 私は拾い上げます。


 通知書。


 静岡県知事名。


 内容を追う。


 ――浜名湖遊覧船事業に係る係留施設使用許可を取り消す。


「……取消処分?」


「ああ!」


 男性は荒い息を整えました。


「俺は三崎圭介。浜名湖で遊覧船をやってる。親父の代からだ。二十七年だぞ」


 三崎さん。


 浜名湖の湖畔にある小さな桟橋から、十二人乗りの遊覧船を出しているそうです。


 春は桜。


 夏は夕涼み。


 秋は渡り鳥。


 冬は風の強い日を避けながら細々と運航する。


 派手な観光船ではありません。


 家族経営。


 妻が切符を売り、


 三崎さんが船を操縦する。


 舘山寺まで行くような大型観光船でもない。


 湖西側の入り江を中心に、


 地元の人が親戚を連れて乗りに来るような、小さな遊覧船でした。


「県の土地にある桟橋を使う許可を取っていたんですね」


「ああ。それが突然、取り消すって」


「理由は?」


「安全管理に問題があるってよ」


 通知を見る。


 前年の検査で、


 係留杭の一部に腐食。


 救命具の保管方法にも改善指導。


 なるほど。


 何もなしに処分されたわけではない。


「改善は?」


 相馬先輩が聞きました。


「した!」


 三崎さんは鞄から写真を出しました。


「杭は替えた。救命胴衣の棚も作った。県の担当にも見せた」


「いつだ」


「二か月前だ」


「書面は?」


「これ」


 改善報告書。


 受領印もあります。


 相馬先輩の目が変わりました。


「そのあと再検査は?」


「来てない」


「来ないまま取消し?」


「そうだ」


 片桐所長が通知を手に取りました。


「理由は」


「安全確保の観点から、当該施設を引き続き使用させることは適当でない、と」


 私も読みます。


 うん。


 いや。


 待って。


「改善した内容への評価が書いてないですね」


「だろ!」


 三崎さんが机を叩きました。


「直せって言うから直したんだ。それで見にも来ないで、駄目だって何なんだよ!」


 怒るのも分かります。


 もちろん。


 改善したから必ず許可継続、


 とは限りません。


 県側には県側の安全判断がある。


 船。


 桟橋。


 水上事故。


 浜名湖は穏やかに見える日でも、風向きひとつで水面が変わる。


 何か起これば、人命に関わる。


 行政が慎重になる理由もある。


 でも。


 改善指導に従った。


 報告もした。


 それを確認しないまま、


 以前の状態を前提に取消処分をしたのだとすれば。


 少なくとも、


 ちゃんと調べて判断しましたか。


 という問題は出てきます。


「でな」


 三崎さんが椅子へ腰を下ろしました。


 ようやく座ってくれました。


「知り合いに言われたんだ」


「何をです?」


「そんなもん、裁判所へ行けばいいって」


「はあ」


「だから午後から行ってくる」


「どこへ?」


 三崎さんは胸を張りました。


「浜松だよ」


「……浜松?」


「静岡地方裁判所浜松支部。湖西からなら近いだろ」


 あ。


 そう来た。


 私は瞬きをしました。


 確かに。


 湖西市から見れば、浜松は近い。


 買い物。


 仕事。


 病院。


 鉄道。


 生活圏としてもつながっている。


 静岡地方裁判所浜松支部も、


 湖西からなら静岡市の本庁よりはるかに近い。


 三崎さんの感覚では、


 裁判をするなら浜松。


 ごく自然です。


 でも。


 頭の中で、


 行政事件訴訟法。


 取消訴訟。


 管轄。


 裁判所の事務分配。


 という単語が一斉に起き上がりました。


「あ」


「何だ?」


「ええと」


 私は現代の知識を引っ張り出します。


 取消訴訟の管轄。


 被告の普通裁判籍の所在地。


 または、


 処分をした行政庁の所在地。


 さらに国を被告とする場合には特定管轄裁判所という仕組みが――


 そこまで考えて。


 私は固まりました。


 待て。


 ここは昭和六十三年。


 平成十六年改正より前。


 しかも。


 もっと根本的なことがあります。


「三崎さん」


「何だ」


「裁判をするなら……誰を被告にするつもりです?」


「誰って」


 三崎さんは当然のように言いました。


「静岡県だろ」


 私は天井を見ました。


 未来人。


 本日一個目の地雷発見。


「違います」


「は?」


「この時代だと、そのまま『静岡県』を被告にするわけじゃありません」


「じゃあ誰だ」


 相馬先輩が新聞を机へ置きました。


「処分した行政庁だ」


「ぎょうせいちょう?」


「この通知、誰の名前で出てる」


「県知事」


「なら、そこから考える」


 三崎さんが通知を見ました。


「知事個人を訴えるってことか?」


「知事本人に個人的な恨みをぶつける話じゃねえ」


 相馬先輩が言います。


「県知事という行政庁を被告にするんだ」


 そう。


 現代なら。


 取消訴訟の被告は、原則として国または公共団体。


 県知事の処分なら、


 静岡県を被告にする。


 でも昭和六十三年は違う。


 平成十六年改正前。


 処分をした行政庁を被告とする時代です。


 頭の中の制度を一回全部入れ替えなければなりません。


 私は額を押さえました。


「どうした」


 相馬先輩が言います。


「また六箇月ありそうな顔してるぞ」


「今回は期間じゃありません」


「じゃあ何だ」


「被告と管轄が未来と違いすぎます」


「知らねえよ」


 冷たい。


 でも正しい。


 三崎さんが苛立った声を出しました。


「で、結局、浜松支部へ行けばいいんだろ」


「駄目です」


 相馬先輩が即答しました。


「何でだよ!」


「行政事件だからだ」


 三崎さんが止まりました。


「……は?」


「浜松支部は近い。湖西なら普通そう思う」


「ああ」


「だが、この取消訴訟は行政事件だ」


「だから何だよ」


「浜松支部じゃ扱わねえ」


 三崎さんの顔から、


 一瞬、


 怒りが消えました。


「待て」


「何だ」


「静岡地方裁判所浜松支部だぞ?」


「ああ」


「静岡地方裁判所だろ?」


「ああ」


「じゃあいいじゃねえか!」


「支部が何でも扱うと思うな」


 相馬先輩は淡々と言いました。


「行政事件は本庁だ」


「本庁?」


「静岡市」


 沈黙。


 三崎さんが、


 私を見る。


 相馬先輩を見る。


 片桐所長を見る。


 もう一度私を見る。


「……静岡?」


「はい」


「浜松じゃなくて?」


「はい」


「ここ湖西だぞ?」


「はい」


「浜松、すぐそこだぞ?」


「ですね」


「静岡まで行けってのか!?」


 来ました。


 今日の本題。


「そういうことです」


「遠いだろ!」


「遠いです」


「浜名湖の話だぞ!」


「はい」


「船も桟橋も湖西だ!」


「はい」


「俺も湖西に住んでる!」


「はい」


「何で静岡だ!」


 気持ちはものすごく分かります。


 むしろ。


 私も同じことを言いたい。


 浜名湖の西側で起きた事件。


 湖西市の事業者。


 浜松支部は生活圏のすぐそば。


 なのに。


 行政事件となった途端、


 静岡地裁本庁。


 静岡市。


 浜名湖から見れば、


 県を横に長く移動する感覚です。


「だから裁判は嫌なんだよ!」


 三崎さんが机を叩きました。


「近くに裁判所あるのに、そこじゃ駄目って何だよ!」


「気持ちは分かる」


 相馬先輩が言いました。


「でも、近いかどうかで裁判所は決まらねえ」


「同じ静岡地裁だろ!」


「同じ看板でも、支部には支部の担当がある」


「役所より分かりにくいじゃねえか!」


「裁判所だから分かりやすいと思ったか」


「思うだろ普通!」


 私は内心で深く頷きました。


 思います。


 普通は思います。


 静岡地方裁判所。


 静岡地方裁判所浜松支部。


 名前だけ見れば、


 本店と支店みたいなもの。


 近いほうでいいじゃないか。


 そう思います。


 でも。


 そうはいかない。


「三崎さん」


 私は言いました。


「正確には、訴状を出すたびに毎回本人が静岡まで通う、という意味ではありません」


「じゃあ行かなくていいのか」


「代理人を立てれば、弁護士さんが対応しますし、手続上、郵送でできることもあります」


「じゃあ――」


「でも」


 私は続けました。


「裁判所そのものは静岡本庁です」


 三崎さんが黙りました。


「事件の場所は浜名湖なのに?」


「はい」


「近くに浜松支部があるのに?」


「はい」


「……ひでえな」


 その一言。


 妙に重かった。


「昔の行政裁判……」


 私は思わず呟きました。


「何だ?」


「住民側からすると、遠いですね」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「今さら気づいたのか」


「今さら体感しました」


 受験勉強なら。


 管轄。


 本庁。


 支部。


 行政事件。


 と一行覚えて終わります。


 でも。


 湖西から静岡。


 時間。


 交通費。


 仕事を休む。


 弁護士との打合せ。


 証拠は浜名湖にある。


 処分を受けた本人も浜名湖にいる。


 それでも裁判所は静岡。


 たった一行の管轄の話が、


 現場ではそのまま距離になります。


「そんな馬鹿な話あるか!」


 三崎さんが声を上げました。


「問題の船はここだぞ! 桟橋もここだ! 県の担当だって浜名湖まで見に来てる!」


「気持ちは分かる」


 相馬先輩が言いました。


「でも裁判は、気持ちで裁判所を選べねえ」


「浜松でやったっていいだろ!」


「いいか悪いかと、扱えるかどうかは別だ」


 また出た。


 行政法の冷たいところ。


 今回は。


 行政事件訴訟法だけでなく、


 裁判所の事務分配まで冷たい。


 三崎さんが腕を組みました。


「じゃあ、俺は裁判なんかできないってことか」


「まだ誰もそんなこと言ってません」


 私は言いました。


 三崎さんがこちらを見る。


「遠いことと、できないことは別です」


「でもよ」


「だから」


 私は通知を手に取りました。


「裁判すると決める前に、入口を全部確認しましょう」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく仕事の話になったな」


「さっきまで何だったんですか」


「地理の授業」


「行政法です!」


 片桐所長がメモ用紙を机の中央に置きました。


「順番に整理する」


 一本。


 縦線を引く。


「処分」


 浜名湖遊覧船の係留施設使用許可取消し。


「処分庁」


 静岡県知事。


「通知到達日」


 十二日前。


「処分によって失うもの」


 浜名湖畔の桟橋を使用できなくなる。


 遊覧船営業の継続が困難。


「原告になる者」


 三崎圭介。


「取消しを求める法律上の利益」


 営業継続に直結する。


「期間」


 所長が私を見る。


「こはる」


「三箇月」


 即答しました。


 今日は踏みません。


 昭和六十三年。


 取消訴訟の出訴期間は、


 処分を知った日から三箇月。


 現代の六箇月ではない。


「十二日経過」


 所長が書きます。


「まだ時間はある」


 三崎さんが少し安心した顔をしました。


 でも。


「ただし」


 相馬先輩が言います。


「『まだ三箇月近くある』と思うな」


「え?」


「弁護士に引き継ぐ。事実を整理する。資料を揃える。被告を確認する。どこの裁判所で扱うか確認する。訴状を作る。全部時間が要る」


「そういうものなのか」


「裁判所の入口で転ぶ奴はな」


 相馬先輩が通知を指で弾きました。


「中身まで行く前に時間を食う」


 私はその言葉をノートに書き留めました。


 入口。


 行政事件訴訟で怖いのは、


 処分が本当におかしかったか。


 そこへ行く前に、


 誰が訴えられるのか。


 いつまでなのか。


 誰を被告にするのか。


 どこの裁判所なのか。


 そして。


 近くの支部で扱ってくれる事件なのか。


 そういう入口が並んでいることです。


「裁判って」


 三崎さんが言いました。


「正しいか間違ってるかを決めるところじゃないのか」


「決めます」


 私は答えました。


「でも、その前に――」


「正しい入口から入れ」


 相馬先輩が言いました。


「そういうことです」


 三崎さんは頭を抱えました。


「面倒くせえな……」


 気持ちは分かる。


 私も受験生だった頃、


 管轄なんて地味すぎると思っていました。


 取消訴訟。


 原告適格。


 訴えの利益。


 出訴期間。


 執行停止。


 裁量。


 そういう論点に比べると、


 どこの裁判所ですか、


 なんて。


 なんだか住所録みたいです。


 でも。


 現場では違う。


 湖西なら浜松支部。


 普通はそう思う。


 でも行政事件は本庁。


 静岡。


 そこを知らないだけで、


 裁判への道筋そのものを間違える。


 管轄違いがあれば移送が問題となることもあるので、


 何でも直ちに本案の「却下」で終わると単純化はできない。


 だからこそ。


 期限の短い行政訴訟で、


 最初から裁判所を外すようなことは避けなければならない。


「所長」


 私は聞きました。


「提携してる弁護士の先生に繋ぎますか」


「ああ」


「取消訴訟を検討する前提で?」


「検討だ」


 片桐所長は三崎さんを見ました。


「うちは訴訟代理はできない」


「行政書士だからか」


「そうです」


 私が答えました。


「裁判を直接やるのは弁護士さんです」


「じゃあ、ここへ来ても意味なかったのか?」


「逆です」


 三崎さんが私を見る。


「裁判所へ行く前に、ここへ来てもらってよかったです」


「何でだ」


「今日、そのまま浜松支部へ行くつもりだったでしょう」


「……まあな」


「静岡県を被告にするつもりだった」


「……そうだ」


「今の制度なら発想として近いですけど、この時代は違います」


「今の?」


「何でもありません」


 危ない。


「それに」


 相馬先輩が続けました。


「裁判に勝てるかどうか以前に、改善報告の扱いを確認してねえ」


「あ」


 三崎さんが顔を上げます。


「県が、改善報告を見たうえで取消したのか。それとも見落として処分したのか。そこは大違いだ」


 そうでした。


 浜松か静岡かに気を取られすぎていました。


 行政訴訟は、


 地図当てゲームではありません。


「県庁へ確認します」


 私は言いました。


「処分理由と、改善報告が判断資料に入っていたか」


「教えてくれるのか?」


「全部を教えてくれるとは限りません。でも聞く価値はあります」


 所長が立ち上がりました。


「沢渡にも連絡する」


「沢渡課長ですか?」


「ああ」


「県の案件なのに?」


「市役所経由で県との調整記録がある」


 そうか。


 浜名湖の湖西側の観光整備なら、


 市の観光担当も関わっている。


 県だけで判断した案件ではない。


 相馬先輩が笑いました。


「またあいつか」


「便利な敵役みたいに言わないでください」


「敵か味方か分からん奴が一番便利なんだよ」


 午後二時。


 湖西市役所二階。


 総務課。


「裁判にすると?」


 沢渡課長は眼鏡の奥から私たちを見ました。


「まだ決めてません」


「三崎さんは朝から『裁判にしてやる』と言っていたそうですが」


「情報早いですね」


「観光担当から聞きました」


 市役所ネットワーク、怖い。


 相馬先輩が改善報告書の写しを置きます。


「これ、市から県へ送ってるな」


「ええ」


「いつ」


「先月十六日です」


「県の取消処分は」


「今月三日付」


 私は日付を書きます。


 改善報告。


 先月十六日。


 取消処分。


 今月三日。


「じゃあ、処分前には県へ届いてた」


「形式上は」


 沢渡課長が言いました。


「形式上?」


「県の担当課が、取消処分の起案時にその資料を参照したかは別です」


 部屋の空気が少し変わりました。


「参照してない可能性がある?」


 私が聞くと、沢渡課長は答えません。


「県の内部事情について私から断定はできません」


「でも何か知ってますよね」


「朝比奈さん」


「はい」


「顔に出ていますか」


「ものすごく」


 沢渡課長は小さく息を吐きました。


「市からは、改善済みである旨を付記して送っています」


「それでも取消しになった」


「そうです」


「再検査なしで」


「私が把握している限りでは」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ話は単純じゃねえな」


「ええ」


 沢渡課長が頷きます。


「もっとも」


「何です?」


「訴訟になれば、県側は当然、適法だったと主張するでしょう」


「でしょうね」


「安全管理上の裁量も主張する」


「でしょうね」


「三崎さんが改善したから当然に取消処分が違法になるわけでもない」


「そこも分かってます」


「なら」


 沢渡課長が私を見ました。


「どこで訴えるつもりです?」


 来た。


 わざとだ。


 絶対わざと聞いてます。


「静岡地方裁判所本庁です」


「浜松支部では?」


「行政事件なので本庁です」


「湖西市なのに?」


「本庁です」


「被告は静岡県ですか?」


「この時代は静岡県知事です」


「期間は?」


「三箇月」


「六箇月ではなく?」


「三箇月!」


 沢渡課長の口元が、ほんの少し動きました。


「笑いましたね」


「気のせいでしょう」


「最近その逃げ方、市役所で流行ってるんですか」


 相馬先輩が横から口を挟みました。


「課長」


「何でしょう」


「こいつの試験やってんじゃねえ」


「失礼しました」


 絶対楽しんでいました。


 私は机上の資料を見ます。


「課長。この件、静岡の県庁へ話を上げる前に、市から確認を入れてもらえませんか」


「何をです」


「処分時に、改善報告が検討資料へ入っていたのか」


「県の判断です」


「分かってます」


「なら県へ聞くべきでしょう」


「聞きます」


 私は一呼吸置きました。


「でも、市も改善済みと付記して送ってますよね」


「ええ」


「それが判断から落ちていたなら、市が送った情報が処分に反映されてないことになる」


 沢渡課長が黙りました。


「浜名湖の観光事業として、市にも関係あります」


「だから内部確認しろと?」


「はい」


「訴訟をちらつかせて?」


「違います」


「違う?」


「訴訟要件を整えてから聞いてるんです」


 自分で言って、


 少し背筋が伸びました。


「三崎さんは取消訴訟を検討しています。原告になる利益もある。出訴期間もまだ残ってる。被告も整理した。浜松支部ではなく静岡本庁だというところまで確認した。弁護士へ繋ぐ準備もしています」


「……なるほど」


「だから」


 私は通知書を指しました。


「役所側も、『どうせ裁判なんてできない』では済まないですよね」


 沢渡課長の目が細くなりました。


 そこです。


 行政書士は裁判所へ立って代理人にはなれない。


 でも。


 裁判になるなら、


 どこが争点になるか。


 入口でつまずかないか。


 何を弁護士へ渡すべきか。


 そこを整理できる。


 訴えるぞ。


 それだけでは弱い。


 でも。


 この処分について、


 この人には原告適格があり、


 出訴期間内で、


 この行政庁を被告として、


 浜松支部ではなく静岡地方裁判所本庁へ取消訴訟を提起する準備があります。


 そこまで組み上がれば。


 役所にとっても、


 ただの怒鳴り声ではなくなる。


「朝比奈さん」


 沢渡課長が言いました。


「一つ訂正します」


「何です?」


「『訴訟要件を整えたから役所が折れる』という話ではありません」


「もちろんです」


「違法でないなら争います」


「はい」


「安全に関する処分なら、なおさらです」


「分かっています」


「ただし」


 沢渡課長は改善報告書を見ました。


「判断資料の欠落があるなら別問題です」


 来た。


 私は何も言いませんでした。


「確認します」


 沢渡課長が受話器を取ります。


「静岡へ?」


「県庁です」


「ですよね」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「じゃあ今日は帰る」


「結果は?」


「催促すると嫌われる」


「もう十分嫌われてる気がしますけど」


「お前は特にな」


「何でですか!」


 沢渡課長が受話器を持ったまま言いました。


「よく来るので」


「それ前にも言われました!」


 二日後。


 午前十一時三十七分。


 片桐事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『沢渡です』


 私は思わず姿勢を正しました。


「はい」


『三崎さんの件です』


「どうでした?」


『県側で再確認されました』


 私はペンを持ちます。


『改善報告書が、処分起案の添付資料から漏れていました』


「……漏れてた」


『ええ』


「じゃあ」


『それだけで当然に処分が違法になる、と私から申し上げるつもりはありません』


 さすがです。


 先回りが早い。


『ですが、県としては改善後の状態を浜名湖で現地確認したうえで、処分を再検討するとのことです』


「取消処分は?」


『当面、その効力をどう扱うかも含めて県側で整理すると聞いています』


「撤回ですか?」


『まだです』


「取消し?」


『まだです』


「じゃあ――」


『朝比奈さん』


「はい」


『喜ぶのは早い』


「相馬先輩みたいなこと言わないでください」


 電話の向こうで、一瞬だけ沈黙。


『では』


「あ、待ってください」


『何でしょう』


「一つだけ」


『はい』


「もし三崎さんが、そのまま浜松支部へ行ってたらどうなってたと思います?」


『少なくとも、行政事件を扱う裁判所の確認から始まったでしょうね』


「ですよね」


『本案以前の話です』


 そこで電話は切れました。


 本案以前。


 今日一番怖い言葉でした。


「どうした」


 相馬先輩が聞きます。


「改善報告、県の起案資料から漏れてたそうです」


「やっぱりか」


「現地再検査して、処分を見直すって」


「まだ勝ってねえぞ」


「分かってます」


「顔が勝ってる」


「ちょっとだけです」


 三崎さんへ電話しました。


 三十分後。


 本人が飛んできました。


「取り消されたのか!?」


「まだです!」


 第一声で釘を刺します。


「県が浜名湖まで現地確認に来ます」


「じゃあ船を出していいのか?」


「そこもまだ確認が必要です」


「何だよ!」


「でも」


 私は言いました。


「処分を出しっぱなしにはしない。改善後の状態を見て、もう一度判断することになりました」


 三崎さんが止まりました。


「……見に来るのか」


「はい」


「静岡から?」


「はい」


「県のほうが浜名湖まで来るのか」


「今回は」


 三崎さんが鼻で笑いました。


「裁判だと俺が静岡まで行くのに、検査なら向こうが来るんだな」


「言われてみれば」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「そこ拾うな」


「すみません」


 三崎さんは椅子へ座りました。


 しばらく黙る。


 それから。


「じゃあ」


 三崎さんが言いました。


「磨いとくか」


「何をです?」


「船」


「あ」


「客を乗せられなくてもな。見に来るってんなら、汚い船見せるわけにいかん」


 その声から、


 朝の怒鳴り声が消えていました。


「三崎さん」


 片桐所長が言いました。


「訴訟の準備は止めません」


 三崎さんが所長を見る。


「まだやるのか?」


「県の再判断がどうなるか分からない」


「……そうか」


「出訴期間は進む」


 そうです。


 役所が再検討します。


 その言葉だけで安心していたら、


 三箇月は平気で過ぎる。


 待ってくださいと言われて待っているうちに、


 裁判の入口が閉じた。


 では洒落になりません。


「弁護士には予定どおり資料を渡す」


「分かった」


「処分通知」


「ある」


「到達日」


「覚えてる」


「改善報告」


「これだ」


「写真」


「ある」


「県と市とのやり取り」


「取れる分は整理する」


 相馬先輩が次々確認します。


「そして」


 三崎さんが先回りしました。


「裁判所は浜松じゃなくて静岡」


「そうだ」


「静岡地裁の本庁」


「そうだ」


「被告は静岡県じゃなくて県知事」


「この時代はな」


 三崎さんはため息をつきました。


「裁判って、喧嘩より面倒だな」


「喧嘩なら相手の家まで行けばいいですからね」


 私が言うと、


 相馬先輩が眉を寄せました。


「その例えやめろ」


「すみません」


 一週間後。


 静岡から県の担当者が浜名湖まで来ました。


 三崎さんの桟橋。


 新しい係留杭。


 補修された床板。


 救命胴衣の保管棚。


 点検記録。


 一つずつ確認。


 浜名湖の水面には、


 午後の光が細かく跳ねていました。


 そして。


 さらに九日後。


 県から連絡がありました。


 取消処分については再検討の結果、


 改善措置を前提に、


 一定期間の追加点検を条件として見直す。


 遊覧船事業は、


 条件付きながら継続できることになりました。


「裁判しなくて済んだ……」


 三崎さんは事務所の椅子に沈み込みました。


「今のところは、です」


 私は言いました。


「まだ今後の点検もあります」


「分かってる」


「条件守ってくださいね」


「守るよ」


 そして少し黙ってから。


「変なもんだな」


「何がです?」


「裁判するつもりで、浜松じゃ駄目だ、静岡まで行かなきゃならんってところまで調べたら、裁判しなくて済んだ」


 私は笑いました。


「行政書士としては、そのほうがいいです」


「そうなのか?」


「裁判は弁護士さんの仕事ですから」


「じゃあ、お前らは何したんだ」


 私は少し考えました。


 相馬先輩が先に答えます。


「入口までの道を掃除した」


「道?」


「誰が訴える。何を争う。いつまで。誰を相手にする。浜松か静岡か。どこの裁判所へ行く。それを揃えた」


 三崎さんが頷きます。


「なるほど」


「そうすりゃ役所も」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こいつは怒鳴ってるだけじゃねえ、と分かる」


 片桐所長が書類を閉じます。


「訴訟は最後の手段でも」


 珍しく長く喋りました。


「使えない最後の手段では意味がない」


 私はその言葉をノートに書きました。


 ――使える形にしておく。


 たぶん。


 行政書士が裁判の前でできる仕事の一つは、


 そういうことなのだと思います。


 その日の夕方。


 私は机の上に静岡県の地図を広げていました。


「何してんだ」


 相馬先輩が聞きます。


「裁判所を見てます」


「暇なのか」


「復習です」


 湖西市。


 浜名湖。


 浜松。


 静岡。


 県庁。


 静岡地方裁判所浜松支部。


 静岡地方裁判所本庁。


 赤鉛筆で線を引く。


「こうして見ると遠いですね」


「何が」


「三崎さんから静岡地裁」


「ああ」


「浜松支部ならすぐ近いのに」


「行政事件だからな」


「問題の桟橋は浜名湖ですよ」


 窓の向こう。


 夕日に光る浜名湖。


 あの湖で起きた事件なのに。


 すぐ近くの浜松ではなく。


 裁判の入口は静岡市にある。


「現代なら」


 私は思わず言いかけました。


「何だ」


「いえ」


 今はまだ。


 頭の中だけでいい。


 後の時代。


 平成十六年の行政事件訴訟法改正では、


 被告適格そのものが変わる。


 行政庁ではなく、


 国や公共団体が被告になる。


 さらに。


 行政訴訟を利用する側の負担を軽くする方向で、


 管轄の仕組みも見直されていく。


 義務付け訴訟。


 差止訴訟。


 出訴期間の延長。


 被告適格の変更。


 管轄の拡大。


 昭和六十三年の現場に立つと、


 なぜ後の時代に、


 行政訴訟をもっと使いやすくしようという改正が必要になったのか。


 受験テキストよりずっと分かりやすい。


「先輩」


「何だ」


「裁判所って、場所も入口なんですね」


「当たり前だ」


「昔は『管轄』って地味だと思ってました」


「今は?」


 私は地図を見ました。


「近くに裁判所があるのに、そこへ入れないこともある門だと思ってます」


「分かりにくい例えだな」


「でも今回そうだったじゃないですか」


 浜松支部。


 目の前に近い入口がある。


 だけど。


 行政事件は、


 そこの扉ではない。


「どれだけ正しいこと言ってても」


 私は言いました。


「入る扉を間違えたら、話が始まらない」


 相馬先輩が少し笑いました。


「まあ、そういうこった」


 窓の外では、


 浜名湖へ沈む夕日が赤く揺れていました。


 三崎さんの船も、


 明日からまた水へ出るそうです。


 条件付き。


 点検付き。


 完全勝利なんて格好いいものではありません。


 でも。


 船を磨く意味は戻った。


 妻が切符売場の札を出せる。


 週末に予約していた家族連れへ、


 「浜名湖、出ますよ」


 と電話できる。


 法律が救った、


 なんて大げさな話ではないのかもしれません。


 ただ。


 裁判に行くなら、


 誰が。


 いつまでに。


 誰を相手に。


 浜松なのか。


 静岡なのか。


 どこの裁判所へ行くのか。


 そこまで冷たく確認したからこそ、


 役所も処分をもう一度見直した。


 行政事件訴訟法は、


 正義の味方を裁判所まで連れていってくれる案内人ではありません。


 むしろ。


 期限を間違えるな。


 相手を間違えるな。


 支部を間違えるな。


 本庁を間違えるな。


 入口を間違えるな。


 と、


 ひどく細かいことばかり言います。


 でも。


 その細かさがあるから、


 裁判という強い手段を、


 本当に使える形にできる。


 今日の教訓。


 私はノートの端に書きました。


 ――「近い裁判所」ではなく、「扱える裁判所」を探す。


「こはる」


 片桐所長が奥から声をかけました。


「はい」


「明日、県庁へ書類を届ける」


「はい」


「行け」


「え?」


「朝一番だ」


 私は地図を見ました。


 湖西。


 浜松。


 そして。


 そのずっと向こうの静岡。


「所長」


「何だ」


「浜松支部じゃ駄目ですか」


「県庁は浜松にない」


「そうでした!」


「朝七時」


「早い!」


「遅れるな」


「静岡、遠いんですけど!」


「仕事だ」


「浜名湖の事件なのに!」


「県庁は静岡だ」


「今日ずっとそれです!」


「せめて相馬先輩と――」


「俺は行かねえぞ」


「まだ最後まで言ってません!」


「顔に書いてある」


「みんな私の顔読みすぎじゃないですか!」


 所長が机の上に封筒を置きます。


「朝七時」


「異議があります!」


「却下」


「それは不服審査法です!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ取消訴訟でも起こすか?」


「どこの裁判所ですか!」


「浜松支部」


「今日やったでしょう! 行政事件は静岡本庁です!」


「覚えたじゃねえか」


「私で確認問題やらないでください!」


 窓の向こうでは、


 浜名湖が夕闇に沈んでいきます。


 すぐ東には浜松がある。


 でも。


 明日の私は、


 そこを通り越して、


 さらに静岡まで行かなければならない。


 どうやら。


 行政事件訴訟の管轄というものは、


 受験テキストで読むより、


 東海道を実際に移動したほうが、


 ずっとよく頭に入るようでした。

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