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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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265/274

[取消訴訟の出訴期間]現場編 「六か月あるから大丈夫」の罠。昭和の裁判所が閉める三か月の扉と、残り十一日を拾う行政書士

挿絵(By みてみん)

 締切というものは、過ぎてから急に本気を出します。


 昨日までは、ただの日付。


 今日になった瞬間、


 ――はい、もう入れません。


 と扉を閉める。


 しかも法律の扉は、閉まったあとで泣いても、怒っても、だいたい開きません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


「裁判にしてやる!」


 午前九時十二分。


 事務所の引き戸が勢いよく開いて、男性が飛び込んできました。


 五十代半ば。


 日に焼けた顔。


 作業着。


 左手には茶封筒。


 右手には、怒り。


 怒りというのは目に見えないはずなのですが、この人の右手にはたしかに握られているような気がしました。


「市役所を訴える!」


「おはようございます」


 私は反射的に言いました。


 怒鳴り込んできた相手にも挨拶をする。


 社会人の習性は時代を超えます。


「おはようじゃない!」


「ですよね」


「こはる」


 奥から相馬先輩の声が飛んできました。


「最初から同意すんな」


「だっておはようって空気じゃないでしょう」


「そういう問題じゃねえ」


 男性は私たちのやり取りなど聞いていませんでした。


 茶封筒から一枚の紙を引っぱり出し、机へ叩きつけます。


「これだ!」


 紙の上部。


 大きく書かれていました。


 ――露店営業許可取消通知書。


 私は目を細めました。


「お名前を伺っても?」


「本間昭吉」


「本間さん。これは――」


「市役所の連中、勝手に俺の許可を取り消しやがった!」


 駅北口から少し離れた商店街。


 本間さんはそこで、焼き栗と甘栗を売る小さな露店を営んでいました。


 秋から冬。


 炭火の上で栗を焼く。


 紙袋へ入れる。


 学校帰りの子ども。


 買い物帰りのお年寄り。


 駅へ向かう会社員。


 三十年以上続けている商売だそうです。


「火気の使用方法に問題があるって言うんだ!」


 本間さんは通知書を指で叩きました。


「消防にも言われた通り直した! 消火器も置いた! 燃えやすいものもどけた! なのに取消しだ!」


「いつ、通知を受けました?」


「それが何だ」


「大事なんです」


「七月だ」


 私は止まりました。


 七月。


 今は十月。


「何日です?」


「知らん」


「知らない?」


「紙なんかいちいち覚えてるか!」


 相馬先輩が奥から出てきました。


「封筒は?」


「捨てた」


「通知書を見せろ」


 本間さんから紙を受け取る。


 右上。


 昭和六十三年七月十八日付。


 私は壁のカレンダーを見ました。


 十月。


 嫌な汗が背中を流れました。


 でも。


 同時に。


 現代の行政書士受験生だった私の頭には、反射的に数字が浮かびます。


 取消訴訟の出訴期間。


 処分または裁決があったことを知った日から――


 六か月。


 そう。


 六か月。


 七月なら、まだ余裕が――


「あ、大丈夫です」


 口から出ました。


 相馬先輩がこちらを見ました。


「何が」


「出訴期間です。七月ならまだ三か月くらいですから、六か月――」


 言いながら。


 脳内で。


 何かが。


 ものすごい勢いで急ブレーキを踏みました。


 キィィィィィィッ。


「……あ」


「どうした」


「待ってください」


「何だ」


「今のなしです」


「何がなしだ」


「私が生きてた時代の話です」


 本間さんが眉をひそめました。


「は?」


「こいつは時々こうなる」


 相馬先輩が言いました。


「気にしなくていい」


「気にしてくださいよ」


 ここは昭和六十三年。


 平成十六年改正前。


 取消訴訟の出訴期間は――


 六か月じゃない。


 三か月。


「……三か月」


 私は呟きました。


 本間さんが私を見る。


「何だって?」


「この時代の取消訴訟は……原則として、処分があったことを知った日から三か月です」


「三か月?」


「はい」


「七月から?」


「実際に処分があったことを知った日からです」


「じゃあ、まだ三か月経ってないかもしれんだろ!」


「そうです」


 そこに望みがあります。


 処分の日。


 通知書の日。


 知った日。


 これは、必ずしも全部同じではありません。


「本間さん」


 私は椅子を勧めました。


「いつこの紙を受け取りました?」


「だから覚えてないって」


「そこを思い出してください」


「何日違ったって同じだろ」


「違います」


 自分でもびっくりするくらい強い声が出ました。


「一日違えば、裁判所に入れるかどうかが変わるかもしれません」


 本間さんが黙りました。


 怒りで真っ赤だった顔から、少しずつ色が引きます。


「……そんなにか」


「そんなにです」


 相馬先輩が椅子を引いて座りました。


「裁判ってのはな、本間さん」


「うん」


「役所がひでえとか、あんたが正しいとか、それを聞いてもらう前に」


 通知書を指で叩く。


「入口で止められることがある」


「入口?」


「期間。誰が訴えるか。何を訴えるか。誰を被告にするか。そもそも裁判で争える処分なのか」


「……」


「そこを通れなきゃ、中身がどれだけ立派でも終わりだ」


 出ました。


 相馬先輩の嫌いな言葉ランキング上位。


 訴訟要件。


 裁判所が、


 あなたの言い分に理由があるか。


 を考える前に、


 そもそもその訴えを審理していいのか。


 を見るための入口。


 そして期間を過ぎていれば。


 内容を判断して負ける。


 ではない。


 中身に入らず、


 却下。


 です。


 敗訴より怖いことがあります。


 戦わせてもらえないことです。


「家に何か残ってませんか」


 私は聞きました。


「何かって?」


「日記。家計簿。配達記録。通知が来た日に何をしていたか分かるもの。家族が覚えているとか」


 本間さんが腕を組みました。


「女房なら……覚えてるかもしれん」


「なぜです?」


「役所の封筒が来た日に、大喧嘩した」


「それです!」


「何で嬉しそうなんだ」


「日付が分かる可能性があります!」


「夫婦喧嘩を証拠にすんな」


 相馬先輩が言いました。


「でも大事でしょう」


「大事だ」


 本間さんが困惑した顔をしています。


「裁判って、そんなことから調べるのか」


「そんなことが裁判になるんです」


 私は答えました。


 通知を現実に知った日。


 それを確定させる。


 法律の教科書なら一行です。


 現場では、その一行を拾うために、


 夫婦喧嘩の日付まで調べる。


 こういう瞬間、


 法律が急に生活臭くなります。


 片桐所長が奥から出てきました。


「本間さん」


「はい」


「取消しの理由は」


 本間さんの顔に怒りが戻ります。


「火事になる危険があるって」


「改善後の確認は?」


「来た。職員が見た」


「いつ」


「六月の終わり」


「その後に取消し」


「ああ」


「警告書は」


「ある」


「改善命令は」


「ある」


「全部持ってこられるか」


「持ってくる」


 所長は頷きました。


「もう一つ」


「何だ」


「不服申立てはしたか」


「した」


 全員が止まりました。


「……何ですって?」


 私が聞き返します。


「役所に文句の紙を出した」


「いつです?」


「八月の頭」


「どこへ?」


「市長宛て」


「何て書いて?」


「取消しをやめろって」


 相馬先輩が身を乗り出しました。


「返事は」


「まだだ」


 また。


 空気が変わりました。


 私は頭の中で、ばらばらだった札を並べ直します。


 行政不服申立て。


 裁決。


 取消訴訟。


 出訴期間。


 この時代。


 もし法律上の適法な不服申立てをしているなら――


「所長」


「ああ」


 片桐所長も同じところを見ています。


「本間さん。その紙、控えはありますか」


「ある」


「受領印は」


「押してもらった」


「持ってきてください」


「それで何が変わる」


 私は答えようとして、止まりました。


 ここは慎重に。


 現代知識の勢いでしゃべると危ない。


「不服申立てをしている場合、出訴期間の数え方が変わる可能性があります」


 本間さんの目が少し開きます。


「助かるのか」


「まだ分かりません」


 所長が先に言いました。


「申立てが適法か。何の手続として受理されているか。その処分について不服申立てを経る必要があるのか。確認する」


「裁判に間に合うんだろ?」


「だから、まだ分からない」


 期待させすぎない。


 この人はいつもそこが冷たい。


 でも。


 たぶん、その冷たさが大事です。


「今日中に書類を全部持ってきてください」


 私は言いました。


「今日中?」


「今日中です」


「明日じゃ駄目か」


「駄目です」


「何でだ」


 相馬先輩が鼻を鳴らしました。


「お前がさっき裁判にしてやるって飛び込んできたからだ」


「は?」


「やるなら今日から全部急ぐ」


 本間さんが眉を寄せます。


「そんなに急ぐのか」


「裁判なんて負け戦だ」


 相馬先輩は言いました。


「だがやるなら、要件を揃えろ」


 口癖。


 でも今日は、いつもより重く聞こえました。


 本間さんは午後一時に戻ってきました。


 奥さん同伴で。


「この人、七月二十二日よ」


 奥さんは入ってくるなり言いました。


「何がです?」


「通知が来た日」


「なぜ分かるんですか」


「次の日が娘の誕生日だったから」


 本間さんが渋い顔をします。


「その日に喧嘩したのよ」


「言わんでいい」


「役所の紙見て怒鳴るから、せっかくケーキ焼く準備してたのに台所で――」


「そこまでは大丈夫です!」


 家庭事情が一気に流れ込んできた。


 でも。


 七月二十二日。


 私はカレンダーに丸をつけました。


 今日。


 十月十一日。


 三か月の満了まで。


 まだ少しある。


 私は指で日付を追いました。


「……十一日」


「何が?」


「単純計算では、三か月の期限まで残り十一日です」


 本間さんの顔から、また色が引きました。


「十一日しかないのか」


「現時点で確認できる事情では、です」


 しかも。


 不服申立てをしたことで、別の期間計算になる可能性もある。


 ただし、


 それに安心しきるのも危険。


 制度。


 手続。


 個別法。


 前置主義の有無。


 何が適法に受理されているのか。


 全部確認しなければいけません。


 机の上に書類を並べます。


 六月二十七日。


 改善確認。


 七月十八日。


 許可取消処分。


 七月二十二日。


 通知受領。


 八月三日。


 異議申立書らしき書面提出。


 受領印あり。


 そして。


 まだ決定なし。


「これは……」


 私は提出書面を読みました。


 表題。


 ――露店営業許可取消しに対する異議申立書。


「ちゃんとしてます」


「知り合いに書いてもらった」


「誰です?」


「元市役所の職員」


「強い知り合いですね」


 相馬先輩が紙を奪うように見ます。


「形式は悪くねえ」


 片桐所長が市の条例集を開きます。


 関係規定。


 不服申立て。


 処分庁。


 手続。


 ページをめくる音だけが続きました。


 私はその横で、別のことを考えていました。


 現代なら。


 処分を知ってから六か月。


 かなり長くなっています。


 この時代は三か月。


 半分です。


 三か月。


 仕事をして。


 家族と相談して。


 役所へ何度か足を運んで。


 不服申立てもして。


 返事を待って。


 そうしているうちに、


 普通に消える期間です。


 しかも当時は、


 義務付け訴訟も法定されていない。


 差止訴訟も法定されていない。


 仮の義務付けもない。


 仮の差止めもない。


 あるのは、


 取消訴訟を中心とした狭い抗告訴訟の枠組みと、


 執行停止。


 私は心の中で呻きました。


 昭和の行政訴訟、


 入口が狭い。


 狭いうえに、


 閉まるのが早い。


「こはる」


「はい」


「また未来の顔してるぞ」


「現代の六か月が恋しくなりまして」


「何だそれ」


「この時代、三か月なんですよ」


「知ってる」


「短くないですか」


「短い」


 相馬先輩はあっさり言いました。


「だから急ぐんだろ」


 その一言で終わりました。


 制度が不親切。


 使い勝手が悪い。


 もっと長ければいいのに。


 そう思うのは自由。


 でも。


 今この机の前にいる本間さんを救うには、


 未来の改正を待っても意味がありません。


 今ある期間の中で、


 今ある制度を使う。


 それしかない。


 午後三時。


 私たちは市役所にいました。


 総務課。


 いつもの机。


 いつもの眼鏡。


 いつもの、


 感情という機能を標準装備していないような顔。


「またですか」


 沢渡課長が言いました。


「またです」


 私も言いました。


「今日は本間昭吉さん」


「露店営業許可取消し」


「ご存じで」


「総務ですから」


 相馬先輩が異議申立書の控えを置きます。


「八月三日提出」


「ええ」


「今どうなってる」


「審査中です」


「二か月以上だぞ」


「資料確認に時間がかかっています」


「何の資料だ」


「安全管理上の記録です」


 私は横から聞きました。


「六月二十七日の改善確認記録も?」


 沢渡課長の視線が動きます。


「あります」


「改善済みになってます?」


「一部改善」


「一部?」


「火気周辺の整理、消火器の設置については改善を確認しています」


「じゃあ、何が未改善なんですか」


「露店そのものの位置です」


「位置?」


「避難経路への影響です」


 初耳です。


 本間さんから聞いていない。


 相馬先輩も眉を寄せました。


「取消通知にそんな理由書いてねえぞ」


「火災予防および安全確保上の支障、とあります」


「広すぎる」


「理由として不足していると?」


「それは別の論点だ」


 相馬先輩が言います。


「今日は期間だ」


 そう。


 私たちが行政書士として今やるべきことは、


 裁判で代理することではない。


 訴状を書くことでもない。


 弁護士へつなぐために、


 何がいつ起きたか。


 不服申立てはどうなっているか。


 裁判の入口がまだ開いているか。


 そこを完璧に整理する。


「課長」


 片桐所長が言いました。


「この処分は、不服申立てを経なければ取消訴訟を提起できない扱いか」


 沢渡課長がこちらを見る。


「個別の訴訟相談には答えられません」


「相談じゃない。市側の手続上の整理を確認している」


「……」


「本間さんの異議申立てを、市は適法な不服申立てとして受理しているのか」


「受理しています」


「却下予定ではない」


「現時点では」


「処分取消しについて実体審理している」


「はい」


 所長が一度だけ頷きました。


「それでいい」


 私は沢渡課長を見ました。


「課長」


「何でしょう」


「裁決――じゃなくて、この場合は異議申立てに対する決定ですね。いつ出ます?」


「未定です」


「未定?」


「審査中ですから」


「本間さんの商売、もう止まってるんですよ」


「取消処分が出ていますので」


「そのまま何か月でも待てってことですか」


「制度上必要な審査をしています」


 冷たい。


 でも。


 ここで感情に乗ると負けます。


 私は深呼吸しました。


「三か月」


「何です?」


「不服申立てをしてから、もう二か月以上です」


 沢渡課長の目が細くなりました。


 相馬先輩が私を見る。


 私は続けます。


「このまま審査が長引いた場合、裁決――決定を待たずに訴訟へ進める例外も問題になりますよね」


 沈黙。


 本間さんが私を見ます。


 沢渡課長はゆっくり椅子へ背を預けました。


「朝比奈さん」


「はい」


「ずいぶん裁判の勉強をしましたね」


「今日の朝です」


「正直ですね」


 審査請求前置。


 法律上、


 まず行政内部の不服申立てを経なければ訴訟へ行けない場合。


 原則なら、


 裁決を待つ。


 でも。


 行政がいつまでも答えを出さなければ、


 それだけで裁判への道を塞げてしまう。


 そんな制度では困る。


 だから例外がある。


 一定期間たっても裁決がない場合。


 処分の執行などで著しい損害が生じ、緊急の必要がある場合。


 その他、裁決を経ないことについて正当な理由がある場合。


 現代の教科書で読んだときは、


 「はい、例外三つ」


 で終わっていました。


 でも今。


 目の前に、


 店を止められて二か月以上、


 返事を待っている人がいる。


 三か月という数字が、


 突然、


 生きた数字になります。


「もちろん」


 片桐所長が言いました。


「この場で訴訟をどうするか決めるのは私たちではない」


 沢渡課長が頷きます。


「行政書士ですからね」


「分かっている」


「弁護士へ引き継ぐ?」


「必要なら」


「どうぞご自由に」


 沢渡課長は言いました。


 声に感情はありません。


「ただし」


 来る。


 私は思いました。


 この人が壁になるときの言葉。


「裁判に持ち込めば、実体だけを見てもらえると思わないことです」


 本間さんが眉をひそめます。


「どういう意味だ」


 沢渡課長は本間さんを見ました。


「取消訴訟には要件があります」


「……」


「出訴期間。原告適格。処分性。訴えの利益。被告適格。必要な不服申立てを経ているか」


 淡々と並べる。


「一つ欠ければ、内容に入らず終わることがあります」


 本間さんの拳が固くなります。


「役所が勝手に許可を取り消しといて、裁判にも入れんことがあるってのか!」


「制度上は」


「ふざけるな!」


「本間さん」


 相馬先輩が止めました。


 沢渡課長は表情を変えません。


「裁判に訴えてやる、という言葉は簡単です」


 そして。


「どうぞご自由に。ただし、訴訟要件は満たしていますか?」


 来た。


 絵に描いたような門前払いワード。


 腹が立ちます。


 でも。


 間違っていません。


 だから余計に腹が立つ。


 私は机の上の資料を一枚ずつ並べました。


「七月二十二日」


「何です?」


「本間さんが処分を現実に知った日です」


 沢渡課長が私を見る。


「通知到達日を確認しました。奥さんの記憶だけじゃありません。翌日が娘さんの誕生日で、家計簿にも二十二日に『市役所通知』と記載があります」


 本間さんの奥さんが持ってきてくれた家計簿のコピー。


「八月三日」


 次。


「異議申立て提出。市の受領印あり」


 次。


「市はこれを適法な不服申立てとして受理し、現在も実体審理中」


 次。


「六月二十七日」


「……」


「火気管理について改善確認済み。ただし、市は別に避難経路上の支障が残ると主張している」


 次。


「取消し後、本間さんは営業停止。収入はほぼゼロ」


 沢渡課長は黙っています。


「弁護士へ渡す材料は整理します」


 私は言いました。


「出訴期間も。不服申立ての経過も。処分理由も。営業停止による損害も」


「行政書士が訴訟代理を?」


「しません」


 即答しました。


「私たちは裁判所には立ちません」


「では?」


「裁判所の入口まで、迷子にならない地図を作ります」


 相馬先輩が横で小さく鼻を鳴らしました。


 たぶん、


 格好つけやがって。


 という意味です。


 でも続けます。


「その地図を、訴訟を扱う先生に渡します」


「……」


「市役所が『どうぞ裁判へ』と言うなら」


 私は資料を揃えました。


「本当に裁判へ行ける状態にしてから、もう一度話します」


 沢渡課長の指が、机の上で止まりました。


 その日の夕方。


 片桐事務所に戻ると、すぐ提携先の弁護士へ電話が入りました。


 片桐所長が事情を説明します。


 私は横で時系列表を作りました。


 処分日。


 通知到達日。


 実際に知った日。


 異議申立日。


 審理経過。


 営業停止期間。


 改善確認。


 市の追加主張。


 訴訟に進むなら何を確認すべきか。


 出訴期間。


 前置の要否。


 執行停止の必要性。


 処分理由。


 裁量判断。


 私は途中でペンを止めました。


「先輩」


「何だ」


「怖いですね」


「何が」


「期限」


「今さらか」


「違います。試験で見てた時と全然違う」


 三か月。


 六か月。


 一年。


 数字だけなら暗記できます。


 でも。


 三か月は、


 相談するか悩んでいるうちに過ぎる。


 三か月は、


 役所の返事を待っているうちに過ぎる。


 三か月は、


 仕事や家族のことを優先していれば普通に過ぎる。


 そして、


 過ぎたあとで、


 処分は違法だった。


 とどれだけ言っても。


 取消訴訟の入口に入れない。


 それが期間制限です。


「法律って」


 私は言いました。


「中身が正しいだけじゃ駄目なんですね」


「当たり前だ」


「期限までに、正しい場所へ持っていかないと意味がない」


「そうだ」


「……冷たいなあ」


「だから使えるんだろ」


「え?」


 相馬先輩が書類から顔を上げました。


「いつまでも処分がひっくり返るかもしれねえなら、行政も相手方も困る」


「あ」


「処分がいつ確定するか分からねえ社会なんざ、そっちの方が面倒だ」


 なるほど。


 出訴期間。


 市民を困らせるためだけの壁ではない。


 行政関係をいつまでも不安定にしないため。


 法律関係を早く確定させるため。


 だから期間を切る。


 ただ。


 その必要性が分かっても、


 三か月はやっぱり短い。


 私は心の中で未来を思いました。


 後に、


 三か月は六か月へ伸びる。


 今より救済の入口が広がる。


 たぶん。


 こういう人が何人もいたからです。


「こはる」


 片桐所長が電話を置きました。


「先生は何て?」


「明日の朝、資料を持っていく」


「訴訟ですか」


「まだ決めない」


「はい」


「まず期間と前置の関係を確認する」


「はい」


「その上で、市ともう一度話す」


「裁判を起こす前に?」


「訴訟は目的じゃない」


 所長は言いました。


「本間さんが商売へ戻れるか。それが目的だ」


 そうでした。


 裁判に勝つこと。


 それ自体が依頼人の人生ではありません。


 営業許可を取り戻したい。


 栗を焼きたい。


 いつもの場所で、


 いつもの客に売りたい。


 裁判はそのための道具の一つ。


 翌朝。


 弁護士へ資料を渡したあと、


 私たちは再び市役所へ向かいました。


 沢渡課長は昨日と同じ顔で待っていました。


「早いですね」


「期間が短いので」


 私が言うと、


 沢渡課長の口元が少しだけ動きました。


「勉強しましたね」


「痛いほど」


 片桐所長が一枚の書面を置きました。


 昨日までの時系列。


 争点。


 出訴期間に関する整理。


 異議申立ての経過。


 営業停止による損害。


 そして、


 弁護士への引継ぎ済み。


 沢渡課長は数分かけて読みました。


「……執行停止も検討ですか」


「先生の判断だ」


「市として争うことになりますよ」


「それは市が決めればいい」


「許可取消しに合理性があるとこちらは考えています」


「なら裁判所で説明すればいい」


 静かです。


 怒鳴らない。


 脅さない。


 でも、


 昨日より空気が張っています。


 沢渡課長は資料の一か所で止まりました。


「六月二十七日の改善確認」


「そこだ」


「火気対策は改善されている。しかし避難経路への支障については――」


「それ」


 相馬先輩が口を挟みました。


「取消し前に本間さんへ言ったのか」


 沈黙。


「改善しろって」


「……記録を確認します」


「昨日からそればっかりだな」


「行政記録ですから、確認は必要です」


「なら確認してくれ」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「取消しの理由にしてるならな」


 沢渡課長の顔から、


 ほんの少しだけ余裕が消えました。


 私は気づきました。


 こちらが、


 裁判にしてやる!


 と怒鳴っているだけのとき。


 市役所は強い。


 どうぞご自由に。


 で終わる。


 でも。


 通知日はいつ。


 知った日はいつ。


 不服申立てはいつ。


 市はどう受理した。


 営業損害はいくら。


 改善確認はいつ。


 処分理由は何。


 弁護士は誰。


 執行停止を検討。


 そこまで並ぶと。


 同じ「裁判」という言葉でも、


 重さが変わる。


 脅しではなくなる。


 現実になる。


「一時間ください」


 沢渡課長が言いました。


「何をするんです?」


「担当課と協議します」


「ここで待ちます」


 相馬先輩が椅子へ座り直しました。


「長くなるかもしれませんよ」


「十月二十二日よりは短いだろ」


 沢渡課長が相馬先輩を見ました。


 それから立ち上がりました。


「……そうですね」


 一時間十五分後。


 沢渡課長が戻ってきました。


 手には新しい書類。


「市として」


 彼は言いました。


「本間さんの異議申立てに対する判断を急ぎます」


「結論は」


「まだです」


「それだけ?」


「もう一つ」


 書類を置く。


「処分の効力について、担当課から再検討の申出がありました」


 本間さんが身を乗り出します。


「どういうことだ」


「営業場所を約二メートル後退させること。追加の消火設備を設置すること。通路幅を確保すること」


「それをやれば?」


「異議申立ての判断が出るまでの間、営業再開を認める方向で調整します」


 本間さんが固まりました。


「……栗、焼いていいのか」


「条件を満たせば」


「いつから」


「早ければ明後日です」


 本間さんの口が少し開きました。


 あれほど怒鳴っていた人が、


 何も言いません。


「取消しを認めたってことですか」


 私は聞きました。


「いいえ」


 沢渡課長は即答しました。


「市は処分が違法だったと認めていません」


 さすがです。


 そこは一ミリも譲らない。


「ただ」


 沢渡課長は書面を見ます。


「改善状況と営業停止による影響を踏まえ、異議申立ての審理中まで全面的に営業を止める必要があるかは、再検討すべきだと判断しました」


「合理的だから?」


「私は合理的なだけです」


「出ました」


「何がです?」


「いえ」


 本間さんが机の下で拳を握っていました。


 さっきまでの怒りの拳とは違う。


 震えていました。


「……また、焼けるのか」


「条件を守っていただければ」


「焼けるんだな」


「はい」


 本間さんは俯きました。


 奥さんが隣で、


 そっとその背中を叩きました。


「よかったじゃない」


「うるさい」


「何よ」


「……よかった」


 声が小さくなりました。


 私はそれを見て、


 胸の奥に引っかかっていたものが少しほどけるのを感じました。


 全部解決したわけではありません。


 取消処分はまだ残っている。


 異議申立ての結論も出ていない。


 訴訟へ進む可能性もある。


 その場合、


 出訴期間をどう数えるか。


 どの処分を対象にするか。


 不服申立てとの関係をどう整理するか。


 弁護士と詰めなければならない。


 でも。


 少なくとも。


 裁判所の入口が閉まるかもしれないと分かったから、


 みんなが動いた。


 市役所も。


 弁護士も。


 私たちも。


 そして本間さんは、


 栗を焼ける。


 事務所へ戻る道で、


 本間さんが小さく言いました。


「俺な」


「はい」


「最初は、裁判にすりゃ何とかなると思ってた」


「分かります」


「裁判所行って、役所が悪いって言えばいいんだろって」


「そう思いますよね」


「違うんだな」


「……はい」


 相馬先輩が前を歩きながら言いました。


「まず入口だ」


「期間とか?」


「そうだ」


「面倒だな」


「面倒じゃなきゃ裁判所が毎日祭りになる」


「それも困るな」


 本間さんが笑いました。


 初めて見た笑顔でした。


「でも」


 私は言いました。


「期限があるって知っていれば、動けます」


「知らなきゃ?」


「気づいたときには扉が閉まってることがあります」


 本間さんが空を見ました。


「十一日だったな」


「はい」


「危なかった」


 本当に。


 あと十一日。


 もし本間さんが、


 もう少し様子を見よう。


 役所の返事を待とう。


 年末まで待とう。


 そう思っていたら。


 少なくとも一つの重要な選択肢を、


 知らないうちに失っていたかもしれません。


 現代なら六か月。


 昭和六十三年なら三か月。


 その違いは、


 試験問題なら、


 数字の正誤です。


 でも現場では。


 三か月と六か月の差に、


 一人の商売が入る。


 家族の生活が入る。


 相談する時間が入る。


 迷う時間が入る。


 役所の返事を待つ時間まで入る。


 私はようやく、


 出訴期間という制度が怖い理由を理解しました。


 期限を守れば勝てるわけじゃない。


 期限を守って、


 やっと負ける権利をもらえる。


 いや。


 違う。


 やっと、


 中身を見てもらう権利を得る。


 そこから初めて、


 処分が違法だったのか。


 裁量を逸脱していないか。


 手続に問題はなかったか。


 本当の戦いが始まる。


 裁判の入口は、


 正しい人のために開いているんじゃない。


 正しい手順で、


 間に合った人のために開いている。


 それは冷たい。


 でも。


 誰にでも同じ時計を置くことで、


 裁判という制度は動いている。


「先輩」


「何だ」


「今日の教訓、分かりました」


「言ってみろ」


「怒る前に日付を見る」


 相馬先輩が止まりました。


「……まあ、間違っちゃいねえ」


「ですよね」


「でも行政法の教訓としては雑すぎる」


「じゃあ」


 少し考える。


「取消訴訟は、正しいかどうかの前に、間に合っているか」


「それだな」


 私は頷きました。


 今日の教訓。


 ――取消訴訟は、勝てるかを考える前に、まだ入口が開いているかを確認する。


 三日後。


 片桐事務所に甘い匂いが充満しました。


「何ですかこれ」


 私は紙袋を覗き込みました。


「栗だ」


 相馬先輩が言います。


「見れば分かります」


 本間さんからの差し入れ。


 営業再開初日の焼き栗。


 袋いっぱい。


「こんなに?」


「売れ残りだとよ」


「絶対嘘ですよ。これ差し入れ用に焼いてますよ」


 片桐所長が一つ取りました。


「所長、熱くないですか」


「熱い」


「顔に出ないですね」


「出す必要があるか」


「焼き栗食べるのにも訴訟要件みたいな顔しないでください」


 相馬先輩がもう三つ剥いています。


「先輩、早い!」


「食わねえとなくなる」


「あなたがなくしてるんですよ!」


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 今日も来ました。


「はい」


『本間さんの件ですが』


「結論出ました?」


『まだです』


「まだなんですか」


『ただし、安全基準の運用について見直しを行うことになりました』


「また?」


『また、とは?』


「前にも似たようなことが」


『行政は学習します』


「すごく役所っぽい言い方ですね」


『褒め言葉として受け取ります』


「たぶん違います」


『それから朝比奈さん』


「はい」


『一つ訂正しておきます』


「何でしょう」


『昨日、あなたは現代なら六か月だと言っていましたね』


 私は固まりました。


「……聞こえてました?」


『廊下で』


「忘れてください」


『意味は分かりませんが』


「なら大丈夫です」


『ただ』


 少し間がありました。


『三か月という期間が短い、という感覚には私も同意します』


「課長が?」


『制度には、利用する側から見なければ分からない不都合もあります』


 私は受話器を持ったまま黙りました。


『では』


 切れました。


 相馬先輩が焼き栗を口へ放り込みます。


「何だって?」


「三か月は短いって」


「沢渡が?」


「はい」


「珍しいな」


「行政にも血が流れてました」


「失礼だぞ」


 窓の外。


 秋の風が商店街の旗を揺らしていました。


 その向こうのどこかで、


 本間さんは今日も栗を焼いているはずです。


 十一日。


 たった十一日。


 でも。


 その十一日を拾えたから、


 一つの店に火が戻った。


 法律の期限は、


 冷たい数字です。


 三か月。


 一年。


 何月何日まで。


 そこに、


 かわいそうだから三日延ばしましょう。


 なんて情は、原則として入りません。


 だからこそ。


 その冷たい数字を、


 困っている人より先に見つける。


 それも、


 行政書士の仕事なのかもしれません。


「こはる」


「はい」


「栗」


 片桐所長が言いました。


「ありますよ」


「ない」


「え?」


 袋を見る。


 空。


 相馬先輩を見る。


「……先輩」


「何だ」


「何個食べました?」


「数えてねえ」


「出訴期間は一日単位で気にするくせに、栗は数えないんですか!」


「栗に出訴期間はねえ」


「あります!」


「何の」


「私が怒り出すまでです!」


「もう経過したな」


「却下しないでください!」


 片桐所長が静かにお茶をすすりました。


「こはる」


「何ですか」


「次から、自分の分は先に確保しろ」


「それ今日の教訓じゃないですよね?」


「期限を過ぎてから言っても遅い」


「そこだけ法律に寄せないでください!」


 相馬先輩が笑いました。


 机の上には、


 空になった紙袋と、


 本間さんの事件の時系列表。


 七月二十二日。


 十月二十二日。


 その二つの日付を結ぶ赤線だけが、


 妙にまっすぐ伸びていました。


 三か月。


 短い。


 冷たい。


 けれど。


 まだ間に合ううちなら、


 その線は、


 誰かを裁判所の入口まで連れていく道にもなるのです。

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