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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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264/402

[取消訴訟の被告適格]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 夕方の事務所は、昼間より少しだけ裁判所に近い顔をします。


 電話が鳴らない。


 来客もいない。


 相馬先輩の煙草の煙だけが、窓から差し込む西日の中をゆっくり漂っている。


 机の上には。


 昨日、市役所へ持っていった柴田幸三さんの資料。


 工作物設置許可取消処分通知書。


 道路拡幅計画の図面。


 現場写真。


 過去の許可証。


 撤去期限のメモ。


 そして。


 私のノート。


 今日の見出しは、これです。


 ――取消訴訟の被告適格。


「……地味」


 思わず口に出ました。


「何がだ」


 相馬先輩が煙草をくわえたまま言います。


「今日のテーマです」


「被告適格か」


「はい」


「大事だろ」


「大事なんですけど」


 私はノートの文字を見ました。


「原告適格とか処分性って、まだ『争えるかどうか』って感じがするじゃないですか」


「うん」


「被告適格って」


 私は一呼吸置きました。


「結局、『誰を訴えますか』ですよね」


「そうだ」


「地味じゃないです?」


「じゃあ間違えてみろ」


「嫌です」


「却下されるぞ」


「もっと嫌です」


 昨日。


 柴田さんは、


「市役所を訴えてやる」


 と怒鳴り込んできました。


 気持ちは分かります。


 処分を出したのは市役所。


 自分の店の前にある展示台を撤去しろと言ってきたのも市役所。


 だったら市役所を訴える。


 普通の感覚なら、何もおかしくありません。


 でも。


 法律はそこで聞いてきます。


 ――具体的に、誰を被告にするんですか。


 私はノートに書きました。


 被告適格。


 取消訴訟で、誰を被告としなければならないかという問題。


「これでいいですか」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まあな」


「もっと試験っぽく書きます?」


「好きにしろ」


「じゃあ」


 書き足します。


 ――正しい被告を選ばなければ、取消訴訟の訴訟要件を欠く。


「で」


 私はペンを止めました。


「昨日の一番大事なところ」


 昭和六十三年。


 ここです。


 ここを間違えると。


 現代知識を持っている私は、かなり危険です。


「先輩」


「何だ」


「確認です」


「また未来の話か」


「未来の話です」


「帰っていいか」


「駄目です」


「何でだよ」


「旧法と現代法の比較要員です」


「俺を教材にするな」


 片桐所長が奥から言いました。


「付き合え」


「……はい」


 強い。


 今日も所長が最上級行政庁です。


 私はノートに線を引きました。


 まず。


 昭和六十三年。


 つまり平成十六年改正前の行政事件訴訟法。


 取消訴訟の被告は、原則として。


 処分又は裁決をした行政庁。


「柴田さんの処分は?」


 私は相馬先輩に聞きました。


「市長名義」


「だから?」


「被告は市長」


「正解」


「誰が採点してんだ」


「私です」


「お前、昨日まで間違えてただろ」


「昨日の私は昨日の私です」


「便利な理屈だな」


 そう。


 昨日の私は。


 危うく、


 被告は市。


 と言いかけました。


 現代なら、それでいい。


 でも昭和六十三年では違う。


 ここが今回最大の地雷です。


 私はノートを二つに分けました。


 左。


 昭和六十三年。


 右。


 現代。


 左側に書く。


 ――旧法:原則、処分又は裁決をした行政庁を被告とする。


 右側。


 ――現代:原則、処分又は裁決をした行政庁が所属する国または公共団体を被告とする。


「つまり」


 私は言いました。


「市長が処分した場合」


「昔は市長」


「今は市」


「県知事なら?」


「昔は県知事。今は県」


「税務署長なら?」


「昔は税務署長。今は国」


「そういうことだ」


 うん。


 並べると分かりやすい。


 そして。


 試験では現代法。


 今の行政書士試験で問われるなら、


 原則として、


 国または公共団体。


 これを押さえる。


「でも」


 私は首を傾げました。


「そもそも何で変えたんです?」


 相馬先輩が肩をすくめます。


「未来の法律だろ。お前が知ってるんじゃねえのか」


「知識としては知ってます」


「じゃあ言え」


「実感が欲しいんです」


「面倒くせえ受験生だな」


 でも。


 そこが大事です。


 旧法では。


 処分庁を見つけなければならない。


 市長なのか。


 委員会なのか。


 税務署長なのか。


 許可を出した行政庁は誰なのか。


 しかも。


 行政組織というものは、住民から見ると分かりにくい。


 役所の中には。


 課。


 部。


 局。


 委員会。


 長。


 いろいろあります。


「柴田さんなんて」


 私は言いました。


「『建築指導課を訴えるのか』『市役所を訴えるのか』『市長を訴えるのか』って、普通分からないですよね」


「ああ」


「通知の担当欄には建築指導課って書いてあっても、処分名義は市長」


「そうだ」


「住民からしたら、ひっかけ問題ですよ」


「裁判所は試験会場じゃねえぞ」


「余計怖いですよ」


 行政訴訟は。


 間違えれば零点。


 ではなく。


 自分の生活に関係します。


 だから。


 後の改正では。


 もっと分かりやすく。


 行政庁そのものではなく、


 その行政庁が所属する行政主体を被告とする仕組みに変わった。


 市長の処分なら市。


 県知事なら県。


 国の行政庁なら国。


「これ」


 私はノートに大きく書きました。


 ――機関から主体へ。


「何だそれ」


「覚え方です」


「機関?」


「市長とか税務署長とか、処分をした行政庁」


「主体?」


「市、県、国」


「なるほどな」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれ。


 でも。


 これなら覚えやすい。


 旧法。


 処分した行政庁。


 現代。


 その行政庁が所属する行政主体。


 機関から主体へ。


 私はさらに例を書きます。


 一。


 税務署長が所得税の課税処分。


 現代では被告は国。


 二。


 県知事が営業許可について処分。


 現代では被告は県。


 三。


 市長が許可取消処分。


 現代では被告は市。


「柴田さんの事件なら」


 私は言いました。


「昭和六十三年だから市長」


「うん」


「現代なら市」


「うん」


「同じ事件でも、時代が違えば被告欄が変わる」


「お前向けの罠だな」


「本当にそうです」


 転生者。


 条文改正に弱い。


 過去へ来るなら歴史と経済だけじゃなく、法改正年表も持ってくるべきでした。


 私は次の見出しを書きます。


 ――なぜ被告適格が必要なのか。


「これ、単に名前の問題じゃないんですよね」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「当然だ」


「ですよね」


「行政庁がした処分を取り消せと言う以上、誰にその訴訟を受けさせるかを決めなければならない」


「はい」


「裁判は相手なしにはできん」


 その通りです。


 昨日。


 柴田さんは怒っていました。


 市役所が悪い。


 市役所を訴える。


 でも。


 法律は感情の矢印ではなく、


 訴訟上の相手方を特定する。


 誰が訴えるか。


 誰が訴えられるか。


 何を取り消すのか。


 いつまでに訴えるか。


 それを整理して。


 初めて本案。


 つまり。


 処分が本当に違法だったかどうかへ進める。


「入口の要件」


 私は言いました。


「そうだ」


 所長が頷きます。


「昨日も言ったが、中身より先だ」


 私はノートに書きました。


 ――被告適格は、処分の違法性を判断する前に確認される訴訟要件。


 だから。


 こちらがどれほど正しくても。


 理由提示がおかしくても。


 裁量が逸脱していても。


 平等原則に問題がありそうでも。


 被告を正しく置けなければ、


 そこまでたどり着けない。


「怖いですね」


「裁判はそういうもんだ」


 相馬先輩が言います。


「でも先輩」


「何だ」


「現代法だと、少し利用者に優しくなってるわけですよね」


「被告を主体にしたことで?」


「はい」


 たとえば。


 住民から見れば。


 細かな行政組織を完璧に把握するより、


 国。


 県。


 市。


 という行政主体を相手にする方が分かりやすい。


 さらに。


 行政庁の統廃合や権限移管があったときにも、


 処分庁という「機関」より、


 行政主体を基準にした方が安定する。


「つまり改正って」


 私は言いました。


「単なる看板の掛け替えじゃない」


「当たり前だ」


「訴える側にとって、誰を被告にするのか分かりやすくした」


「そういう面はあるだろうな」


 私はノートに矢印を書きました。


 旧法。


 処分庁を特定。


 ↓


 現代法。


 原則として行政主体を被告。


 ↓


 被告選択を分かりやすく。


「昭和の行政裁判って」


 私は呟きました。


「入口が狭いですね」


「今さらか」


「出訴期間三か月」


「うん」


「被告も処分庁」


「うん」


「義務付け訴訟も差止訴訟も法定されてない」


「うん」


「仮の救済も基本的に執行停止」


「うん」


 並べると。


 なかなか容赦がありません。


 現代の行政事件訴訟法も簡単ではない。


 でも。


 昭和六十三年と比べると。


 少なくとも、


 救済手段を広げよう。


 入口を少し使いやすくしよう。


 という方向の改正が行われてきたことが見えてきます。


「昨日の柴田さん」


 私は言いました。


「現代なら、被告は市ですよね」


「ああ」


「出訴期間も六か月」


「未来ではな」


「訴訟類型も増えてる」


「そうなんだろ」


「これ、制度が住民側に少しずつ近づいたってことですかね」


 片桐所長が答えました。


「近づいたというより」


「はい」


「救済の実効性を上げようとしたんだろう」


 なるほど。


 優しくなった。


 というだけでは少し違う。


 裁判制度は、


 親切にするためだけにあるわけではない。


 行政によって権利利益を侵害された人が、


 現実に救済を受けられるようにする。


 そのために。


 期間を延ばしたり。


 被告を分かりやすくしたり。


 訴訟類型を整備したりした。


 制度を使える形にする。


 そういう改正。


「所長」


「何だ」


「昨日言ってた」


「何を」


「『誰が悪いかと、誰を訴えるかは別だ』」


「ああ」


「あれ、ノートに書いていいですか」


「好きにしろ」


「名言集に」


「やめろ」


 私は笑いながら書きました。


 ――誰が悪いかと、誰を訴えるかは別。


 これ。


 かなり大事です。


 行政事件訴訟では。


 腹が立つ部署。


 窓口で説明した担当者。


 通知書を作った課。


 決裁した人。


 そして、


 法律上の処分庁。


 全部が一致するとは限りません。


「たとえば」


 私は言いました。


「窓口の担当者に腹が立ってても、その人を被告にはしませんよね」


「当然だ」


「担当課長にも、普通はしない」


「処分庁が誰か見ろ」


「はい」


 だから最初に確認するもの。


 通知書。


 処分名義。


 誰の名前で処分がされたか。


 昨日の柴田さんなら。


 担当課は建築指導課。


 でも処分名義は市長。


 昭和六十三年の取消訴訟なら、


 被告は市長。


「実務って」


 私は言いました。


「通知書の一番上と一番下をちゃんと見る仕事なんですね」


「真ん中も見ろ」


「見てますよ!」


 相馬先輩は、こういう揚げ足だけは速い。


 私は次の見出しを書きました。


 ――現代法の例外。


「ん?」


 相馬先輩が覗き込みます。


「まだあるのか」


「あります」


「法律は一回で終われねえのか」


「それを私に言われても」


 現代法では原則として。


 処分又は裁決をした行政庁が所属する国または公共団体を被告にする。


 でも。


 処分庁がどの行政主体にも所属しない場合。


 その場合は。


 その行政庁自体を被告とすることがある。


「たとえば」


 私は少し考えました。


「現代なら、指定確認検査機関みたいなものですね」


「何だそれ」


「未来の制度です」


「じゃあ俺には関係ねえ」


「はい。今は試験向け整理です」


「急に置いていくな」


 指定確認検査機関。


 行政主体に所属する普通の行政庁とは少し違う。


 そうした場合には、


 処分をした機関自体が被告になることがある。


 私はノートに書きます。


 原則。


 行政主体。


 例外。


 行政主体に所属しない処分庁なら、その処分庁。


「さらに」


 私は続けます。


「被告とすべき国や公共団体、行政庁がない場合」


「そんなことあるのか」


「統廃合とか移管です」


 処分した機関がなくなっている。


 組織が再編された。


 その事務が別のところへ移った。


 そういう場合。


 現代法では。


 その処分又は裁決に係る事務が帰属する国または公共団体を被告とする。


「……ややこしいな」


「ですよね」


「でも試験では?」


「行政書士なら、まず基本」


 私は赤線を引きます。


 ――取消訴訟は、原則として国または公共団体を被告とする。


「これが中心です」


「細かい例外は?」


「余裕があれば整理」


「受験生っぽくなってきたな」


「受験生ですから」


 そこで私は、


 はた。


 と気づきました。


「先輩」


「何だ」


「私、今さらですけど」


「うん」


「現代の行政書士試験なら、『県知事を被告とする』って選択肢は原則バツですよね」


「未来の話は知らん」


「そうなんです」


「自分で答えるなら聞くな」


「確認ですよ」


 たとえば。


 甲県知事が営業許可を取り消した。


 取消訴訟を提起する。


 誰を被告とするか。


 現代なら。


 甲県知事ではなく、


 甲県。


 ここ。


 試験では綺麗に出せます。


 また。


 税務署長が所得税の課税処分。


 誰を被告にするか。


 税務署長ではなく。


 国。


「つまり」


 私はまとめました。


「処分した人の肩書きを、そのまま被告に書けばいいわけじゃない」


「現代では、な」


「はい」


 ここは絶対に時代を混ぜない。


 昭和六十三年。


 市長。


 現代。


 市。


 昭和六十三年。


 県知事。


 現代。


 県。


 昭和六十三年。


 税務署長。


 現代。


 国。


「すごいですね」


「何が」


「私、昨日から同じ人に対して二種類の答えを覚えてます」


「時代が違うんだから当たり前だ」


「試験問題で時空を越えたくないです」


「普通は越えねえよ」


 ごもっとも。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


 私が取ります。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『総務課の沢渡です』


 来た。


 私は姿勢を正しました。


「お世話になっております」


『柴田幸三さんの件ですが』


「はい」


 相馬先輩がこちらを見る。


 所長も帳簿から顔を上げます。


『担当課で再検討した結果、工作物設置許可の取消処分について、いったん撤回した上で、道路拡幅計画の具体化後に改めて判断することになりました』


「……え?」


『聞こえませんでしたか』


「聞こえました」


 私は受話器を握り直しました。


「処分を、撤回?」


『ええ』


「撤去もしなくていい?」


『現時点では』


 思わず相馬先輩を見ます。


 口だけ動かします。


 ――撤回。


 先輩の眉が上がりました。


「理由は?」


『現段階で直ちに撤去を求める必要性について、庁内で十分な整理がされていなかったためです』


 沢渡課長の声は、いつも通り淡々としています。


 でも。


 これは大きい。


「裁判になるからですか」


 聞いてみました。


 電話の向こうで一拍。


『それだけではありません』


「では?」


『不適切な処分を維持する合理性はありません』


 この人らしい。


 謝罪ではない。


 感情もない。


 でも。


 間違いがあれば戻す。


「柴田さんには正式に通知します」


「分かりました」


『それと』


「はい」


『朝比奈さん』


「何でしょう」


『昨日の件』


「昨日?」


『被告の話です』


 嫌な予感。


『市長で正解でしたよ』


「知ってます!」


『念のため』


「絶対楽しんでますよね?」


『何のことでしょう』


「課長」


『では』


 切られました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「処分、撤回するそうです」


「お」


「具体的な工事計画が固まってから改めて判断」


「なら柴田さん、今は展示台を残せるな」


「はい」


 所長が静かに頷きました。


「弁護士にも連絡しておけ」


「はい」


「訴訟の必要がなくなった可能性がある」


「そうですね」


 私は受話器を置きました。


 裁判にならなかった。


 取消訴訟も起こさなかった。


 被告欄を書くこともなかった。


 でも。


 被告適格まで含めて、


 裁判になった場合の入口をきちんと整理した。


 だから。


 市役所側も、


 このまま処分を維持して争うのか。


 そこまで考えざるを得なかった。


「行政書士って」


 私は呟きました。


「裁判しないのに、裁判の入口を知ってないと駄目なんですね」


「そりゃそうだ」


 相馬先輩が言います。


「弁護士に渡すならな」


「しかも」


「うん」


「役所と交渉するときも」


「そうだ」


 こちらが、


 裁判にします。


 と叫ぶだけなら怖くない。


 でも。


 処分性。


 原告適格。


 訴えの利益。


 出訴期間。


 被告適格。


 執行停止。


 そこまで整理した上で、


 弁護士へ引き継げる状態になっている。


 となれば。


 行政側も。


 本当に訴訟になった場合のリスクを計算する。


 それが昨日。


 沢渡課長の、


「訴えるのは自由です」


 を、


「確認します」


 に変えた。


 そして今日。


 処分撤回。


「裁判って」


 私は言いました。


「起こすことだけが武器じゃないんですね」


 片桐所長が答えました。


「起こせる状態にしておくことも武器だ」


 私はノートに、そのまま書きました。


 ――訴訟は、起こしてから始まるとは限らない。


 相馬先輩が横から覗きます。


「今日のテーマとずれてねえか」


「ちょっとだけ」


「被告適格だろ」


「分かってます」


 私はページの最後に。


 大きく枠を作りました。


 一行の覚え書き。


 ここです。


 今日のまとめ。


 何と書くか。


 少し迷って。


 私は書きました。


 ――被告適格は、「腹が立つ相手」ではなく「法律が訴えろという相手」を選ぶ。


「長い」


 相馬先輩が言います。


「またですか」


「試験直前に読みにくい」


「じゃあ短くします」


 私はその下に書きます。


 ――取消訴訟、昔は行政庁、今は行政主体。


「お」


「どうです?」


「分かりやすい」


「褒めた!」


「気のせいだ」


 はいはい。


 私はさらに、小さく補足しました。


 昭和六十三年。


 処分庁。


 現代。


 原則、国または公共団体。


 そして赤ペンで。


 ――時代を混ぜるな。


 ここは私専用です。


 窓の外。


 夕方の商店街が少しずつ暗くなっていきます。


 柴田さんの自転車店では。


 明日もきっと。


 店先に中古自転車が並ぶでしょう。


 処分は撤回された。


 永久に置けると決まったわけではありません。


 道路拡幅計画が具体化すれば。


 また撤去の話は出るかもしれない。


 でも。


 少なくとも。


 理由も時期も曖昧なまま、


 一か月後に全部どかせ。


 という話はいったん止まった。


 行政法の勝ち負けは。


 いつも派手ではありません。


 処分取消判決。


 全面勝訴。


 新聞に載る判決。


 そんな形ばかりではない。


 誰を訴えるかを正しく確認して。


 期限を確認して。


 資料を揃えて。


 弁護士へ渡せる形にする。


 そして。


 その準備を見た行政が、


 自分たちの処分をもう一度確認する。


 結果。


 裁判をしないまま。


 一人の生活が守られることもある。


 昨日の私は。


 被告適格なんて、


「誰を被告にするか」


 それだけの暗記事項だと思っていました。


 でも。


 その一行を間違えないことが。


 裁判所の扉まで事件を運ぶ。


 そして。


 扉まで運べると相手に分からせることが。


 扉を開かずに済ませることさえある。


 法律の入口は冷たい。


 名前を間違えたから。


 期限を過ぎたから。


 相手が違うから。


 そんな理由で止まる。


 でも。


 冷たいからこそ。


 誰に対しても、


 同じ入口が用意されている。


 役所だから特別扱い。


 住民だから感情で通す。


 そういう世界ではない。


 要件を満たした者だけが中へ進む。


 厳しい。


 でも。


 その厳しさを理解すれば。


 普通の市民でも、


 行政を裁判の場まで連れていける。


 だから。


 訴訟要件は、人を追い返す壁であると同時に。


 壁の位置を知っている人にとっては、


 入口の場所を示す地図でもある。


「こはる」


 所長が言いました。


「はい」


「柴田さんに電話」


「あ」


「結果を伝えろ」


「はい」


 私は受話器を取りました。


 番号を回す。


 数回の呼出音。


『はい、柴田自転車店です』


「片桐行政書士事務所の朝比奈です」


『おお』


「市役所から連絡がありました」


『どうだった』


「処分、撤回です」


 電話の向こうが。


 一瞬。


 静かになりました。


『……撤去しなくていいのか』


「今のところは」


『本当か』


「はい」


『裁判しなくていい?』


「たぶん」


 私は笑いました。


「ただ、正式な通知は確認してください」


『分かった』


 少しだけ。


 向こうで鼻をすする音がしました。


『ありがとう』


「いえ」


『朝比奈さん』


「はい」


『結局、誰を訴えずに済んだんだ?』


「え?」


『市長か、市か、市役所か』


 私は吹き出しました。


「この時代なら、市長です」


『そうだったな』


「でも」


『うん』


「今回は、誰も訴えずに済みました」


 柴田さんも笑いました。


『それが一番いいな』


「はい」


 本当に。


 たぶん。


 それが一番いい。


 電話を切ります。


「終わったか」


 相馬先輩が聞きました。


「はい」


「じゃあ帰るぞ」


「待ってください」


「何だよ」


 私はノートを持ち上げました。


「最終確認です」


「まだやるのか」


「試験です」


「誰の」


「先輩の」


「嫌だ」


「第一問」


「始めんな」


「昭和六十三年。市長が処分しました。取消訴訟の被告は?」


「市長」


「正解」


「帰るぞ」


「第二問」


「まだあるのか」


「現代。同じ処分なら?」


「……市?」


「正解!」


「よし帰る」


「第三問」


「しつこい!」


「税務署長が課税処分。現代の被告は?」


「国」


「完璧です!」


「俺、未来の行政書士試験受けられるんじゃねえか」


「出訴期間は?」


「三か月」


「落ちました」


「何でだよ!」


「現代は六か月です」


「お前!」


 私は笑いながら逃げました。


「未来の問題を昭和の人間に出すな!」


「時代を見ろって、先輩が言ったんでしょう!」


「受験する時代を選ばせろ!」


 奥で。


 片桐所長が小さくため息をつきました。


「うるさい」


「すみません」


「すみません」


 二人で即答。


 事務所が静かになります。


 私は最後に。


 ノートの隅へ、小さく書き足しました。


 ――誰を訴えるかを間違えるな。


 ――昭和六十三年は処分庁。


 ――現代は原則、国・公共団体。


 ――そして一番いいのは、訴えずに直ること。


 相馬先輩がまた覗き込みました。


「最後の一行、試験に出ねえぞ」


「知ってます」


「じゃあ何で書く」


 私は柴田さんの店の方角を見ました。


「忘れたくないからです」


 法律を勉強していると。


 正解を当てることばかり考えます。


 被告は誰か。


 期間は何か月か。


 行政庁か。


 行政主体か。


 でも。


 本当の現場では。


 正解を書くために法律があるわけじゃない。


 誰かが明日も店を開けるようにするため。


 誰かが、


「もう決まったことです」


 の一言で追い返されないため。


 そのために。


 冷たい要件を、一つずつ確認する。


 取消訴訟の被告適格。


 眠くなる名前です。


 でも今日。


 私にはもう。


 ただの暗記事項には見えませんでした。


 裁判所の扉に貼られた、


 小さな名札。


 そこに。


 正しい相手の名前を書けるかどうか。


 たったそれだけで。


 扉が開くか。


 閉じたままか。


 変わることがある。


 ――昔は行政庁、今は行政主体。


 私はそこに赤線を引きました。


 そして。


 もう一度だけ。


 壁のカレンダーを確認します。


 昭和六十三年。


「よし」


「何がだ」


 相馬先輩が聞きました。


「今日は未来法で事故らずに済みました」


「昨日事故りかけてただろ」


「今日はです!」


 法律には。


 時効があります。


 期間があります。


 要件があります。


 そしてどうやら。


 私の失敗だけは。


 なかなか時効にかからないようでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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