[取消訴訟の被告適格]現場編 「市役所を訴えればいいんでしょう」の罠。昭和の取消訴訟で名前を間違えれば、入口で終わる
喧嘩をするなら、相手の名前くらいは間違えてはいけません。
まして。
裁判なら、なおさらです。
どれだけ腹が立っていても。
どれだけこちらに理屈があっても。
訴える相手を間違えれば、
「その話、中身を見る前に終わりです」
と裁判所から追い返されることがあります。
行政事件訴訟というものは。
そういうところだけ、妙に冷たい。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「市役所を訴えてやる!」
午後二時。
入口の引き戸が壊れるんじゃないかという勢いで開きました。
飛び込んできたのは、五十代くらいの男性です。
作業着。
日に焼けた顔。
手には茶封筒。
そして怒気。
怒気だけならたぶん、書留で送れます。
「落ち着いてください」
私が立ち上がると、
「落ち着いてられるか!」
ですよね。
分かっていました。
言ってみただけです。
相馬先輩が奥の机から顔を上げました。
「誰に何された」
「市役所だよ!」
「役所のどこだ」
「市役所は市役所だ!」
「そういうのが一番困る」
先輩は容赦がありません。
「役所は一枚岩じゃねえ。誰が、何の名義で、何を決めた」
男の人は一瞬詰まりました。
「……建築指導課だ」
「処分通知は」
「これだ!」
茶封筒から紙が出てきます。
私は受け取りました。
文面を読む。
――工作物設置許可取消処分通知書。
名義。
市長。
理由。
道路拡幅計画との抵触。
相談者の名前は、
柴田幸三さん。
駅から少し離れた商店街で、自転車店を営んでいるそうです。
店舗前には、道路との境目ぎりぎりに小さな屋根付き展示台がある。
十年以上前に許可を取り、
修理待ちの自転車や中古車を置いてきた。
ところが一週間前。
市から突然、許可取消しの通知が届いた。
道路拡幅事業のため、占用状態を解消してほしい。
しかも一か月以内に撤去しろ。
「こんなの無茶苦茶でしょう!」
柴田さんは机を叩きました。
「十何年も何も言わなかったんだぞ。それをいきなり撤去しろって」
「道路拡幅の話は前から?」
「噂はあったよ。でも工事なんていつ始まるかも決まってない」
「説明会は?」
「去年一回あっただけだ」
「個別に、あなたの展示台が支障になるって説明は?」
「ない!」
私は通知を見直しました。
理由。
道路拡幅事業を円滑に実施するため。
またこの類です。
便利ですね。
円滑な実施。
行政文書界の万能調味料。
相馬先輩が煙草を一本取り出しかけて、
柴田さんの勢いを見て、また箱へ戻しました。
「で、裁判したいと」
「当たり前だ!」
「何を求める」
「この取消しを取り消させる!」
「なるほど」
ここまでは話が早い。
行政庁がした処分。
それを取り消してほしい。
取消訴訟。
頭の中に、現代の行政事件訴訟法が立ち上がります。
取消訴訟。
被告。
処分をした行政庁の所属する国または公共団体。
つまり今回なら――
「じゃあ、市を被告にして――」
「誰が?」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「誰を被告にするって?」
「市です」
「違う」
「……え?」
短い。
あまりにも短い。
私は固まりました。
「いや、だって地方公共団体の処分なら、その公共団体を――」
「それは何年の話だ」
来た。
来てしまいました。
この言い方。
最近、私にとって最も嫌な種類の質問です。
「何年の話だ」
つまり、
朝比奈こはるさん。
あなた今、未来の法律で喋っていますね?
という意味です。
私はゆっくり壁のカレンダーを見ました。
昭和六十三年。
逃げ場なし。
「あ」
声が出ました。
相馬先輩が鼻で笑います。
「思い出したか」
「待ってください」
「待たねえ」
「今、脳内で法改正年表を起動してるんです」
「知らん」
私は机に手をつきました。
取消訴訟の被告。
現代では。
国や公共団体。
市長が処分しても、被告は市。
県知事が処分しても、被告は県。
税務署長が処分しても、被告は国。
それが今の行政書士試験で覚える基本です。
でも。
平成十六年の行政事件訴訟法改正より前は違う。
昭和六十三年。
旧法。
取消訴訟では、
原則として。
処分又は裁決をした行政庁。
その行政庁を被告にする。
「……市長」
私は言いました。
「今回の被告は、市じゃなくて、市長」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「この時代はな」
柴田さんが私と先輩を交互に見ました。
「何の話だ?」
「すみません」
私は座り直しました。
「裁判で誰を相手にするか、という話です」
「市役所だろ」
「そこが違うんです」
「何が違う」
「役所そのものに腹を立てているのと、法律上誰を被告にするかは別なんです」
柴田さんは眉間に皺を寄せました。
当然です。
普通の人からすれば、
市長。
市役所。
市。
全部同じ側に見えます。
でも。
訴訟では違う。
そこを間違えると、
事件の中身以前に止められる。
「市長本人を訴えるのか?」
「個人としての市長じゃありません」
「じゃあ何だ」
「処分をした行政庁としての市長です」
自分で言いながら。
面倒くさい。
これは面倒くさい。
法律というやつは、普通の日本語で一度できあがった世界を、わざわざ分解して再構築してきます。
「つまり」
柴田さんが言いました。
「俺は市長と喧嘩するのか」
「感覚的には違います」
「じゃあ誰と喧嘩する」
「行政です」
「市長なんだろ?」
「被告名は市長です」
「市役所じゃなくて?」
「はい」
「市でもなく?」
「はい」
「何で?」
来た。
一番もっともな質問。
私は口を開きかけて、
閉じました。
説明しようとすると、法理編が始まりそうになります。
今は現場です。
だから。
「この時代の法律が、そういう入口を作っているからです」
私は答えました。
「そこを外すと、裁判所に中身を見てもらう前に問題になるんです」
柴田さんは椅子に深く座りました。
「……面倒だな」
「はい」
心から同意します。
片桐所長が奥から出てきました。
「通知を」
私は渡します。
所長は数十秒、黙って読みました。
「柴田さん」
「はい」
「まず言っておきます」
「何を」
「うちは裁判の代理はできません」
空気が一度止まりました。
「……行政書士だもんな」
「そうです」
「じゃあ、ここへ来ても裁判はできない?」
「私たちが代理人になることはできません」
所長は静かに続けました。
「ただし」
その一言で。
柴田さんが少し顔を上げます。
「弁護士に渡す前に、入口で落ちないよう整理することはできます」
「入口?」
「訴訟要件です」
柴田さんがますます困った顔になります。
相馬先輩が横から言いました。
「裁判ってのはな」
「はい」
「『役所が悪い』って叫べば始まるもんじゃねえ」
「……」
「誰が訴えるのか」
「俺だ」
「何を取り消してほしいのか」
「この通知だ」
「期限に間に合ってるか」
「……」
「訴える相手は誰か」
「市長?」
「そういうのを全部揃えて、ようやく中身を見てもらえる」
柴田さんの顔から。
少しだけ怒りが引いていきました。
代わりに。
不安が出てくる。
怒りは前を向けます。
でも。
要件という言葉は、人を急に足元へ向かせます。
「期限って」
柴田さんが聞きました。
「どのくらいある」
私は反射で言いかけました。
「六か――」
「こはる」
相馬先輩。
低い。
怖い。
「……三か月です」
「そうだ」
昭和六十三年。
取消訴訟。
処分を知った日から三か月。
現代なら六か月。
危ない。
また未来人が一人、法改正の谷に落ちかけました。
「三か月?」
柴田さんが目を剥きました。
「そんな短いのか」
「今の時代は、はい」
「一週間前だからまだ大丈夫だろ?」
「期間だけなら、まだ余裕があります」
私は言いました。
「でも、余裕があると思って寝かせないでください」
「何で」
「行政事件訴訟は、期限のほかにも入口があります」
相馬先輩が通知を指で叩きます。
「処分性」
「はい」
「原告適格」
「はい」
「訴えの利益」
「はい」
「被告適格」
「はい」
「出訴期間」
「はい」
「管轄」
「そこまで今言います?」
「弁護士に渡すなら揃えろ」
「はい」
柴田さんが額を押さえました。
「裁判って、相手が悪いかどうかだけじゃないのか」
「違います」
所長が答えました。
「裁判所は、まず入口を見る」
静かな言い方でした。
でも。
その一言が一番怖い。
私は改めて通知を見ました。
処分名。
許可取消処分。
名義。
市長。
到達日。
一週間前。
そして。
現場の状況。
「柴田さん」
「何だ」
「展示台を撤去したら、営業にどのくらい影響します?」
「かなり困る」
「店内に入れられません?」
「無理だ。修理待ちでいっぱいだ」
「展示台があることで、どれくらい売上に関係します?」
「中古車はほとんどあそこで見てもらってる」
「撤去期限は一か月後」
「ああ」
私はメモします。
処分が執行される前に時間がない。
取消訴訟だけを考えていればいいとは限らない。
執行停止。
頭の中に浮かびます。
この時代。
現代のような仮の義務付けや仮の差止めはありません。
仮の救済は、基本的に執行停止。
しかも簡単ではない。
「先輩」
「何だ」
「これ、弁護士につなぐの急いだほうがいいですよね」
「やっとまともなこと言ったな」
「さっきからまともです」
「六か月って言いかけた奴が?」
「三文字目までです」
「十分危ねえ」
片桐所長が柴田さんに言いました。
「提携している弁護士に連絡します」
「勝てるのか」
「それは今は言えません」
「でも、裁判はできるんだろ?」
「できる、ではなく」
所長は言葉を選びました。
「訴えとして成立するよう、まず入口を整えます」
柴田さんが苦い顔をしました。
「入口入口って、ずいぶん大事なんだな」
「行政裁判は特に」
相馬先輩が言いました。
「中身に行く前に死ぬことがある」
言い方。
でも。
間違ってはいません。
その日の夕方。
私たちは柴田さんの店へ行きました。
駅前再整備区域から少し外れた古い商店街。
シャッターの閉まった店も増えています。
その中で柴田自転車店だけは、店先に色あせた赤い空気入れと、何台もの自転車が並んでいました。
問題の展示台は。
「これですか」
「ああ」
道路沿い。
簡単な庇。
幅二メートル少々。
中古自転車が三台。
確かに歩道と近い。
でも。
すぐ隣には電柱。
さらに先には商店街の共用看板。
向かい側には自動販売機。
「道路拡幅って、どこまで広がるんです?」
私が聞くと、
「ここら一帯って話だ」
「工事開始は?」
「来年以降らしい」
相馬先輩が周囲を見ます。
「来年以降なのに、一か月で撤去」
「ああ」
「他の店は?」
「まだ何も言われてない」
「展示物ある店は?」
「ある」
「撤去通知は?」
「聞いてない」
嫌な匂いです。
法的な意味で。
私はメモ帳を開きました。
取消処分の理由。
道路拡幅。
工事開始時期。
周辺店舗の取扱い。
撤去期限。
営業への影響。
これらは本案。
処分の違法性。
裁量。
理由。
平等取扱い。
でも。
その前に。
誰を相手に争うのか。
入口の一行を間違えたら、
この全部が裁判所に届かない可能性がある。
「変な話ですね」
私は呟きました。
「何が」
相馬先輩が聞きます。
「こっちは現場を見て、理由がおかしくないかとか、扱いが公平かとか、必死に調べてるのに」
「ああ」
「訴状の被告欄を間違えたら、それ以前の問題になる」
「そういうもんだ」
「冷たすぎません?」
「だから要件なんだろ」
「え?」
相馬先輩は道路の向こうを見たまま言いました。
「誰でも、誰にでも、何でも裁判できるなら、それはそれで無茶苦茶になる」
「……」
「冷たい線を引くから、裁判になる」
私は黙りました。
悔しい。
こういうときの先輩は、たまに格好いい。
悔しいので本人には言いません。
翌朝。
片桐事務所の机には、資料が積まれました。
処分通知。
許可証の写し。
過去の更新記録。
道路拡幅計画の説明資料。
展示台の写真。
周辺店舗の配置図。
到達日。
撤去期限。
そして一枚。
大きく、
――訴訟要件確認。
と書いた紙。
相馬先輩が上から順に読みます。
「処分は市長名義」
「はい」
「取消しを求める対象は明確」
「はい」
「柴田本人が処分の相手方」
「はい」
「現在も撤去義務が残っている」
「はい」
「処分を知ったのは一週間前」
「はい」
「三か月以内」
「はい」
「被告は」
一瞬だけ間を置く。
「市長」
私は答えました。
「よし」
「もう間違えませんよ」
「昨日まで市だと思ってた奴が偉そうに言うな」
「改正後なら市で合ってます」
「今は昭和だ」
「分かってます!」
所長が書類をめくります。
「弁護士には今日渡す」
「はい」
「その前に市役所へ行く」
「交渉ですか」
「確認だ」
「何を?」
「処分を維持するつもりか」
沢渡課長。
頭に顔が浮かびます。
嫌な予感しかしません。
市役所二階。
総務課。
「今度は自転車店ですか」
沢渡課長は、こちらを見るなり言いました。
「情報が早いですね」
「役所ですので」
「その便利な言葉、ずるいですね」
「何のことでしょう」
相変わらずです。
机を挟んで。
片桐所長。
相馬先輩。
私。
向こうに沢渡課長。
所長が通知の写しを置きました。
「柴田幸三さん。工作物設置許可取消処分」
「承知しています」
「撤去期限は一か月後」
「そうです」
「道路拡幅工事の着手はいつだ」
「現在、年度内の関係調整を進めています」
出た。
役所語。
答えているようで、時期を言っていません。
「着手日は」
所長がもう一度聞きます。
「確定していません」
「柴田さんだけ先に撤去させる理由は」
「道路管理上の必要性です」
「近隣店舗にも同様の通知を出したか」
「個別案件については回答できません」
「柴田さんの件だけでいい」
相馬先輩が言いました。
「なぜ今なんだ」
「計画を順次進める必要があります」
「来年工事かもしれねえのに、一か月でどかせと?」
「許可は永久的な権利ではありません」
「それは分かってる」
「では問題はないでしょう」
乾いています。
今日もよく乾いています。
私は口を挟みました。
「課長」
「何でしょう」
「処分を争われる可能性は想定していますか」
沢渡課長の目が私に向きます。
「不服申立てですか」
「取消訴訟です」
ほんの少し。
部屋の空気が変わりました。
「裁判ですか」
「必要なら」
「行政書士が代理するわけではありませんよね」
来た。
きっちり刺してくる。
「もちろんです」
「なら、弁護士案件でしょう」
「はい。引継ぎ前の整理です」
「そうですか」
沢渡課長は眼鏡を上げました。
「訴えるのは自由です」
またそれ。
この人は本当に、
どうぞ。
がお好きです。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「取消訴訟には要件があります」
「承知しています」
「期間」
「確認済みです」
「原告適格」
「処分の名宛人本人です」
「訴えの利益」
「撤去義務が現に残っています」
「被告は?」
来た。
絶対。
分かっていて聞いています。
この人。
昨日の私だったら、
「市です!」
と元気よく未来法を答えて即死していました。
私は息を吸いました。
「市長です」
沢渡課長の眉が、ほんの少し上がりました。
「……そうですね」
「昭和六十三年ですから」
「何を当たり前のことを」
「今、かなり勝負どころだったんです」
「何の勝負ですか」
「私の中の平成以降との」
「意味が分かりません」
相馬先輩が横で咳をしました。
たぶん笑いを隠しています。
腹が立つ。
「ともかく」
私は続けました。
「訴訟要件は整理しています」
「それで?」
「本案まで進んだ場合のリスクも、市として検討されますよね」
沢渡課長が黙りました。
私は資料を一枚出します。
現場写真。
配置図。
道路拡幅予定線。
「工事着手日は未確定」
「……」
「柴田さんの展示台は十年以上継続許可」
「……」
「取消し理由は道路拡幅事業の円滑な実施」
「……」
「でも、現段階で一か月以内に撤去させる具体的必要性がどこまであるのか」
「行政には道路管理上の裁量があります」
「分かっています」
私は言いました。
「だからこそ、裁量の使い方が問われます」
少し。
手が震えていました。
でも言葉は止めません。
「裁判になれば、処分の根拠だけじゃなく、なぜこの時点で取消しが必要だったのか、記録を見られる可能性があります」
「……」
「しかも撤去期限は一か月」
「……」
「弁護士からは、執行停止も含めて検討してもらいます」
現代の感覚なら。
差止訴訟。
仮の差止め。
あるいは義務付け。
そんな言葉も頭に浮かびます。
でも。
今は昭和六十三年。
法定された義務付け訴訟も差止訴訟もない。
仮の義務付けもない。
仮の差止めもない。
使える武器は狭い。
だからこそ。
一本一本を外せない。
沢渡課長はしばらく資料を見ました。
「弁護士に渡す資料としては、ずいぶん揃っていますね」
「行政書士ですから」
相馬先輩が言いました。
「裁判はできねえ。だから裁判になる前の紙は、馬鹿みたいに揃える」
「それは褒めているんですか」
「自分で言ってんだよ」
沢渡課長の口元が少しだけ動きました。
「一つ確認します」
片桐所長が言いました。
「市は、現時点でこの処分を維持するのか」
「処分は有効です」
「質問が違う」
所長の声は静かでした。
「再検討する余地があるか、と聞いている」
沢渡課長が黙る。
こういうとき。
沈黙の長さで、少しだけ分かります。
絶対に動かないときは、即答する。
検討するときは。
この人は黙る。
「道路管理課に確認します」
来た。
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
一歩。
です。
勝ったわけじゃない。
処分が消えたわけでもない。
でも。
さっきまで、
訴えるならどうぞ。
だった。
今は、
確認します。
に変わった。
所長が立ち上がりました。
「明日までに回答を」
「急ですね」
「撤去期限は行政が切った」
短い。
強い。
沢渡課長は眼鏡の奥から所長を見て、
「分かりました」
と言いました。
市役所を出ると。
私は大きく息を吐きました。
「疲れた……」
「お前、被告聞かれたとき顔引きつってたぞ」
相馬先輩が言います。
「そりゃそうですよ」
「市って言わなくてよかったな」
「昨日予習しましたから」
「昨日知ったんだろ」
「学習速度を褒めてください」
「遅え」
「厳しい」
片桐所長が前を歩きながら言いました。
「忘れるな」
「はい」
「誰が悪いかと、誰を訴えるかは別だ」
私は足を止めそうになりました。
今日の話が。
一行になった感じがしたからです。
誰が悪いか。
感情の話。
誰を被告とするか。
訴訟要件の話。
そこを混ぜない。
裁判は、
腹の立つ相手の名前を書く制度ではない。
法律が指定する相手を、正確に置く制度です。
翌日の午後。
電話が鳴りました。
相馬先輩が出ます。
「はい、片桐行政書士事務所。……ああ。……そうか。分かった」
切る。
「市役所?」
私が聞きます。
「ああ」
「どうでした?」
「撤去期限、いったん延ばすってよ」
「えっ」
「処分を取り消すわけじゃねえ」
先輩は指を一本立てました。
「二か月延長」
「何で?」
「道路拡幅の工程を確認したら、少なくとも当面、あの場所の工事予定はないらしい」
「じゃあ」
「その間に、処分自体を再検討」
私は椅子から少し立ちかけました。
「やった」
「まだだ」
所長が言います。
「はい」
「処分は残っている」
「はい」
「弁護士への引継ぎも止めるな」
「はい」
そうです。
一歩前進。
それ以上でも、それ以下でもない。
夕方。
柴田さんが事務所へ来ました。
「二か月延びたって?」
「はい」
「じゃあ撤去しなくていいのか?」
「今すぐは」
「処分そのものは?」
「まだ残っています」
柴田さんは少し黙りました。
「でも」
私は続けました。
「市は再検討に入りました」
「……そうか」
「弁護士にも資料を渡します」
「裁判するかどうかは?」
「市の再検討結果も見て決めることになります」
柴田さんは机の上の資料を見ました。
「こんなに調べたのか」
「入口で転ばないためです」
「また入口か」
「大事なんです」
私は笑いました。
「ほんとに」
柴田さんも少し笑いました。
「俺はさ」
「はい」
「市役所を訴えてやるって、それだけ考えてた」
「普通そうだと思います」
「市役所に腹が立ってるんだから、市役所を訴えるんだろって」
「はい」
「でも裁判じゃ違うんだな」
「違います」
「市長か」
「今の時代なら」
「今の時代?」
「あ」
危ない。
また未来人の口が滑りました。
「ええと」
「何だ」
「いえ。今、この昭和六十三年なら、市長です」
柴田さんが変な顔をしました。
「未来じゃ変わるのか?」
「……」
相馬先輩が向こうで吹き出しました。
「先輩!」
「お前が変なこと言うからだろ」
柴田さんも笑います。
さっきまで裁判に怒鳴り込む勢いだった人が。
少しだけ笑う。
それだけでも、今日は悪くない日だった気がします。
帰り際。
柴田さんが振り返りました。
「朝比奈さん」
「はい」
「俺、法律ってのは、悪い奴をやっつけるためのもんだと思ってた」
「私も昔は、ちょっとそんな感じでした」
「違うんだな」
「たぶん」
私は考えました。
「悪いかどうかを判断してもらう前に、ちゃんとその場所までたどり着くための道でもあるんです」
「面倒な道だ」
「ものすごく」
「でも」
柴田さんは言いました。
「道があるだけ、まだましか」
「……そうですね」
引き戸が閉まります。
夕日の差し込む事務所で。
私は訴訟要件確認表をもう一度見ました。
被告適格。
昨日までなら。
試験問題で、
国。
都道府県。
市町村。
行政庁。
そのどれに丸をつけるか。
それだけの言葉でした。
でも今は。
違う。
柴田さんが、
「市役所を訴える」
と言った。
それを。
「この時代は、市長です」
と直す。
たったそれだけ。
たった一行。
でも。
その一行を間違えると、
道路拡幅の必要性も。
十年以上の継続許可も。
撤去による営業への打撃も。
周辺店舗との扱いの違いも。
裁判所に届く前に止まるかもしれない。
訴訟要件とは。
たぶん。
正しい人を勝たせるためのルールではありません。
正しいかどうかを判断してもらう場所まで、
事件を運ぶためのルールです。
そこは冷たい。
同情してくれない。
知らなかったでは済まない。
でも。
誰を訴えるのか。
いつまでに訴えるのか。
誰が訴えられるのか。
何を取り消してほしいのか。
全部を厳密に決めるからこそ、
裁判は裁判になる。
「こはる」
所長が言いました。
「はい」
「今日の教訓は」
突然来ました。
「え?」
「整理しろ」
私は少し考えました。
そして言いました。
「腹が立つ相手と、法律上の被告は同じとは限らない」
所長が頷きます。
「もう一つ」
「昭和の取消訴訟は、処分をした行政庁を被告にする」
「そうだ」
相馬先輩が横から口を挟みました。
「間違えたら?」
「入口で転ぶ」
「よし」
「何で先輩が先生みたいなんですか」
「昨日まで市を訴えようとしてた奴よりは先生だ」
「だから現代なら合ってるんです!」
「ここは昭和だ」
「知ってます!」
私は机を叩きました。
「じゃあ未来ではどうなるんだよ」
相馬先輩が聞きます。
「え」
「さっきから現代なら現代ならってうるせえから、言ってみろ」
「……未来では」
「うん」
「原則として、処分庁じゃなくて、その行政庁が所属する国や公共団体を被告にするようになります」
「今回なら?」
「市長じゃなくて、市」
「何で変える」
「それは――」
私は口を開きました。
そして止めます。
「今日はそこまでです」
「何だそりゃ」
「その話を始めると長くなります」
「逃げたな」
「次回です」
「誰に言ってんだ」
「独り言です」
未来では。
被告を行政庁から行政主体へ変える。
そこにはちゃんと理由がある。
行政庁が廃止されたらどうするのか。
処分した機関がどこに所属しているのか。
誰を被告にするのか。
旧制度には、住民にとって分かりにくいところがあった。
だから後に、
国や公共団体を被告にする仕組みへ変わっていく。
でも。
それはまだ未来の話。
昭和六十三年の私たちには。
昭和六十三年の入口を通るしかない。
窓の外では。
商店街の方角へ向かう夕方のバスが走っていきました。
たぶん明日も。
柴田さんの店先には中古自転車が並ぶ。
少なくとも、明日すぐ撤去されることはない。
二か月。
また時間を稼いだ。
法律が人を救うとき。
必ずしも、
大逆転。
全面勝訴。
完全取消し。
みたいな派手な形になるわけではありません。
ときには。
訴状の被告欄を間違えないこと。
期限を落とさないこと。
資料を一枚ずつ揃えること。
その地味な作業が、
人の生活を次の日までつなぎます。
「先輩」
「何だ」
「行政事件訴訟って」
「うん」
「中身に行くまでが長いですね」
「だから言ってるだろ」
相馬先輩が煙草を取り出します。
「裁判なんて負け戦だ」
「はい」
「だが」
火をつける前に、こちらを見る。
「やるなら要件を揃えろ」
「……はい」
今日だけは。
その口癖が、少し格好よく聞こえました。
絶対本人には言いません。
「朝比奈」
所長が言いました。
「はい」
「柴田さんの資料、被告欄をもう一度確認しろ」
「市長です」
「見て確認しろ」
「市長ですって」
「確認しろ」
「信用ないなあ!」
相馬先輩が笑います。
「昨日まで市だったからな」
「もう直りました!」
「行政庁は?」
「市長!」
「行政主体は?」
「市!」
「被告は?」
「昭和六十三年なら市長!」
「よし」
「だから何で先輩が先生なんですか!」
事務所の中に笑い声が響きました。
取消訴訟の被告適格。
誰を訴えるのか。
たったそれだけの話です。
でも。
法律の世界では。
その「たったそれだけ」が、
裁判所の扉を開ける鍵になることがあります。
そして鍵は。
だいたい、
一本でも違えば、
開きません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




