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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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262/274

[取消訴訟の訴えの利益(狭義)]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)


 裁判所の扉は、開いているように見えて、実は何枚もあります。


 一枚目を開けたら終わりではありません。


 その奥に、


 また扉。


 また扉。


 そして最後のほうで、


 とても静かな声で聞かれるのです。


 ――それで、この処分を今さら取り消して、あなたに何が戻るんですか。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 窓の外では、国道を走るトラックの音が途切れ途切れに聞こえていました。


 私は机の上に昨日の資料を並べました。


 大迫忠義さん。


 運送業。


 運転免許取消処分。


 取消訴訟係属中。


 その間に、もともとの免許の有効期間が経過。


 市役所では、


 もう期限切れなのだから、取消しを求めても意味がないのでは。


 そんな話まで出た。


 けれど。


 取消処分がなかったなら、大迫さんは本来、免許の更新手続をすることができた。


 ならば、


 取消処分が取り消されることによって、


 本来維持できたはずの免許上の地位を回復できる可能性がある。


 つまり。


 まだ訴訟を続ける実益が残っている。


「……訴えの利益」


 私はノートの中央に書きました。


 その下に、


 小さく付け足します。


 ――狭義。


「先輩」


「何だ」


「今日はここです」


「嫌なところ選んだな」


 相馬先輩は帳簿をめくりながら言いました。


「嫌なんですか」


「嫌だろ」


「どうしてです?」


「勝てるかどうか以前に、裁判やる意味あるのかって聞かれるんだぞ」


「確かに」


「違法な処分でした。役所が間違ってました。証拠もあります」


「はい」


「でも取り消しても何も変わりません」


「……」


「はい却下」


「怖い」


「だから嫌なんだよ」


 その通りです。


 取消訴訟を考えるとき、


 つい本案に目が行きます。


 処分は違法か。


 行政庁に裁量逸脱・濫用はなかったか。


 理由付記は十分か。


 平等原則に反していないか。


 でも。


 そこまで行く前に、


 訴訟要件。


 入口の条件を全部満たさなければならない。


「まず定義」


 私はノートに書きました。


 狭義の訴えの利益。


 取消訴訟によって処分を取り消すことについて、


 現実に法律上の実益が残っていること。


「固いな」


 相馬先輩が言います。


「じゃあ先輩版」


「今、取り消して何が戻る」


「それ、昨日のままじゃないですか」


「一番分かりやすいだろ」


「否定できない」


 私はその下に書きました。


 ――今、取り消して何が戻る?


 試験答案には書けません。


 でも覚えるには強い。


「所長」


「何だ」


「狭義の訴えの利益って、原告適格とは何が違うって説明するのが一番いいですか」


 片桐所長は書類から目を上げました。


「原告適格は、誰が争えるか」


「はい」


「狭義の訴えの利益は、今なお争う意味があるか」


「なるほど」


 短い。


 今日も所長は短い。


 私は二つを並べます。


 原告適格。


 ――この人が取消しを求める資格を持つか。


 狭義の訴えの利益。


 ――この処分を今取り消すことで、この人に実益があるか。


「つまり」


 私は整理します。


「最初から原告適格がない場合と」


「ああ」


「途中で訴えの利益がなくなる場合がある」


「そうだ」


「昨日の大迫さんは?」


「最初はもちろん利益がある」


「免許取消処分を受けた本人ですしね」


「だが裁判中に免許の有効期間が切れた」


「そこで問題になる」


 まさに。


 訴訟を始めたときには意味があった。


 でも時間が経った。


 事情が変わった。


 すると、


 裁判を続ける意味がまだ残っているのか。


 そこが問われる。


「訴えの利益って」


 私は言いました。


「時間に弱いんですね」


「何だそれ」


「原告適格は、本人の立場の問題が中心ですけど」


「うん」


「訴えの利益は、途中で事情が変わると消えることがある」


「そうだな」


「裁判が長引くほど危ない」


「事件によってはな」


 そこで私は昨日の大迫さんの資料を見ました。


 免許取消処分。


 裁判中に有効期間経過。


 一見すれば、


 もう期限が切れた。


 だったら取消しても免許は使えない。


 訴える意味なし。


 そう見える。


 でも最高裁はそう考えなかった。


「最判昭和四十年八月二日」


 私は口に出しました。


「運転免許取消処分」


 相馬先輩が面倒そうな顔をします。


「判例暗唱大会か」


「重要なんです」


「続けろ」


「取消訴訟の係属中に、免許の有効期間が経過した」


「うん」


「でも訴えの利益はなくならない」


「なぜだ」


「取消処分がなければ、その有効期間中に更新手続をして、免許を維持できたから」


「そうだ」


 つまり。


 紙の免許証そのものの有効期間が切れた。


 そこだけを見てはいけない。


 取消処分を消すことで、


 その先の更新という法的な道が戻る。


 だから実益が残っている。


「取消しって」


 私は言いました。


「処分だけを見るんじゃないんですね」


「どういう意味だ」


「その処分を消したら、後ろに何がつながってるかまで見る」


 片桐所長が頷きました。


「そうだ」


 ここ、大事です。


 取消しによって、


 直接、昔の状態そのものが完全復元されなくてもいい。


 取消しによって、


 別の法律上の地位や手続上の利益が回復するなら、


 訴えの利益が残ることがある。


「大迫さんの場合」


 私はノートに矢印を書きました。


 免許取消処分。


 ↓


 取消し。


 ↓


 本来可能だった更新との関係が回復。


 ↓


 訴えの利益あり。


「これが肯定例」


「そうだ」


「じゃあ、他の肯定例も整理します」


「まだやるのか」


「やります」


 一つ目。


 公務員の免職処分。


 私はノートに書きました。


 懲戒免職を受けた公務員が、


 取消訴訟の途中で議員選挙に立候補する。


 公務員は立候補によって自動的に失職する。


「じゃあ」


 私は相馬先輩に振ります。


「もう公務員には戻れない」


「そうだな」


「だったら免職処分を取り消しても意味なし?」


「違うんだろ」


「はい」


 もし懲戒免職が取り消されれば。


 立候補によって失職するまでの期間について、


 本来受けられた給与。


 退職金。


 そうした利益が回復し得る。


「つまり」


 私は言いました。


「職そのものに戻れなくても、取消しでお金の権利が戻るなら利益が残る」


「そういうことだ」


 これも同じ発想です。


 処分の取消し。


 その先に、


 まだ回復する法律上の利益があるか。


 あるなら訴えの利益は消えない。


「この感覚」


 私はペンを回しました。


「ちょっと分かってきました」


「何がだ」


「元通りにできるか、だけじゃない」


「ああ」


「取消しが何か法的効果を生むか」


「そこを見ろ」


 さらに。


 未来の判例が頭に浮かびました。


 土地改良事業の施行認可処分。


 平成四年。


 工事が完了して、


 社会通念上、元に戻すことが難しい。


 それでも。


 認可処分を取り消すことで、


 換地処分など別の法的効力に影響する。


 だから訴えの利益が残る。


「未来」


 思わず口に出してしまいました。


 相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「何でもありません」


 危ない。


 昭和六十三年。


 平成四年の最高裁判決はまだ存在しません。


 私はノートの余白に、


 小さく、


 ※未来。


 とだけ書いておきました。


「何だその未来って」


「気にしないでください」


「気になるだろ」


「受験生の秘密です」


「意味分からん」


 次。


 訴えの利益が否定される場合。


 ここがまた怖い。


「例えば」


 私は書きました。


 特定の日に公会堂や公園を使うための許可。


 その使用不許可処分を争う。


 でも。


 裁判をしているうちに、その日が過ぎてしまった。


「今さら不許可処分を取り消しても」


 私は言います。


「その過ぎた日に使うことはできない」


「時間は戻らん」


「ですよね」


「なら?」


「取消しによる実益がない」


「訴えの利益なし」


 最判昭和二十八年十二月二十三日。


 皇居外苑使用不許可。


 特定日使用の不許可処分。


 使用予定日が過ぎた後では、


 取消しをしても、


 その日に使うという利益は回復しない。


 だから訴えの利益は失われる。


「これ」


 私は顔をしかめました。


「切ないですね」


「法律だからな」


「文化祭の会場を借りたかったのに、裁判中に文化祭が終わる感じ」


「まあ近い」


「勝っても去年の文化祭は戻らない」


「そういうことだ」


 行政事件訴訟は、


 タイムマシンではありません。


 取消判決が出ても、


 時間そのものは戻らない。


 だから。


 時間が過ぎることで、


 処分を取り消す意味そのものが消えてしまうことがある。


「でも」


 私は言いました。


「免許取消しも時間が過ぎてたのに、あっちは利益あり」


「違いは?」


「後ろに更新が残ってた」


「そうだ」


「特定日の使用不許可は?」


「後ろに何も残ってない」


「そういうことですね」


 私はノートに大きく書きました。


 時間が経過したかどうかでは決まらない。


 取消し後に回復する法律上の利益が残っているかで決まる。


「これ、試験でかなり重要ですね」


「今さらか」


「今までは判例を丸暗記してました」


「最悪だな」


「否定できません」


 次。


 生活保護。


 私は少し表情を引き締めました。


 生活保護処分について取消訴訟。


 その途中で受給者本人が死亡。


「これは?」


 相馬先輩が聞きます。


「訴えの利益なし」


「なぜ」


「生活保護受給権は一身専属的で、相続されないから」


「そうだ」


 本人が亡くなった。


 その権利は相続人に引き継がれない。


 取消しによって、


 誰かがその受給権を回復するわけでもない。


「つまり」


 私は書きます。


 本人死亡。


 受給権消滅。


 相続なし。


 取消しで回復する利益なし。


 よって訴えの利益消滅。


「ここでも」


 私は言いました。


「かわいそうとか、処分が正しかったかとかとは別なんですね」


「別だ」


「裁判所が処分の違法性を判断する前に」


「争う意味がなくなったなら終わる」


「厳しい」


「何度目だ」


 何度でも言いたくなります。


 厳しい。


 行政訴訟。


 次。


 土地収用の明渡裁決。


 明渡裁決によって、


 土地を明け渡す義務が生じる。


 そして。


 代執行まで完了して、


 実際に明渡しが終わった。


「このあと明渡裁決を取り消したら?」


 私は聞きました。


「もう明け渡したんだからな」


「裁決による明渡義務は、もう履行済み」


「うん」


「取消しても、その義務が消えることで戻る利益がない」


「そうだ」


 訴えの利益なし。


 また一つ。


 済んでしまった行為。


 取消しによって回復できるものがない。


 すると訴訟は終わる。


「でも所長」


 私は聞きました。


「建物とか土地って、現実に戻せる場合もありますよね」


「だから事案ごとに見る」


「単純に『工事完了=全部利益なし』ではない?」


「当然だ」


 そこです。


 判例を単語で覚えると危ない。


 完成した。


 終わった。


 だから利益なし。


 そうではない。


 見るのは、


 取消しによって法律上何が変わるか。


 たとえば建築確認。


 最判昭和五十九年十月二十六日。


 建築確認がされて、


 その後建物が完成した。


 建築確認は、


 工事を開始してよいという確認。


 完成後に建築確認を取り消しても、


 その取消しだけで完成した建物が撤去されるわけではない。


「だから」


 私はまとめました。


「工事完成後は、建築確認取消しの訴えの利益は失われる」


「そういう整理だ」


 ここは大事です。


 建築確認を取り消す。


 イコール。


 建物撤去。


 ではない。


 だから。


 完成後に確認だけ取り消しても、


 原告にとって実益がない。


「処分の法的効果を正確に見ないと」


 私は言いました。


「訴えの利益も判断できないんですね」


「そうだ」


「何となく悪影響がありそう、とかじゃ駄目」


「駄目だ」


「取消しが具体的に何を変えるか」


「そこまで見ろ」


 私は二重線を引きました。


 次。


 運転免許停止処分。


 これも免許関係ですが、


 昨日の大迫さんの取消処分とは結論が違う場合がある。


「停止処分を受けました」


 私は仮定します。


「はい」


 相馬先輩。


「停止期間が終わりました」


「はい」


「さらに無事故無違反で一年経過」


「はい」


「法律上、停止処分を受けたことによる不利益も残らない」


「はい」


「取消しを求める利益は?」


「なし」


「正解」


「何で俺が受験生なんだ」


「付き合ってください」


 最高裁昭和五十五年十一月二十五日。


 停止期間が終わっただけでは、


 直ちに利益が消えるとは限らない。


 でも。


 さらに一定期間が経ち、


 法令上の不利益までなくなっている。


 そんな状態なら、


 停止処分を取り消しても、


 具体的に回復する利益がない。


 だから訴えの利益なし。


「ここ」


 私は大迫さんの事件と並べました。


 免許取消処分。


 有効期間経過。


 でも更新利益あり。


 ↓


 訴えの利益あり。


 免許停止処分。


 停止期間経過。


 さらに法令上の不利益消滅。


 ↓


 訴えの利益なし。


「似てるのに」


「結論違うだろ」


「試験が好きそう」


「嫌な言い方するな」


 行政法の試験は、


 似た事例を並べて、


 違いを見抜かせるのが大好きです。


 こちらとしては勘弁してほしい。


 でも。


 現場ではもっと重要。


 結論だけ覚えると、


 目の前の人に間違った説明をする。


「じゃあ覚え方」


 私は言いました。


「免許取消しだから利益あり、停止だからなし」


「駄目だ」


「ですよね」


「取消しの効果を見ろ」


「はい」


 つまり。


 事件名ではなく、


 処分取消しによって何が回復するか。


 そこを見る。


 次。


 保安林指定解除処分。


 これは少し毛色が違います。


 保安林指定が解除される。


 周辺住民は、


 洪水や渇水の危険が増えるとして争う。


 当初は。


 解除処分を取り消せば、


 保安林の機能を維持できる。


 だから訴えの利益がある。


「でも」


 私は書きます。


 その後。


 保安林の代わりになる施設が設置された。


 洪水・渇水の危険が解消。


「そうなると?」


 相馬先輩が聞きます。


「保安林指定解除を取り消す必要性がなくなる」


「うん」


「住民の守られる利益が、別の施設によって満たされた」


「そうだ」


「だから訴えの利益なし」


 最判昭和五十七年九月九日。


 ここでまた見えてきます。


 訴えの利益は、


 処分があったかどうかだけでは決まらない。


 その後、


 代替手段によって利益が満たされた場合にも、


 消えることがある。


「つまり」


 私は言いました。


「『まだ処分は残ってます』だけじゃ足りない」


「そうだ」


「取消しが必要かを見る」


「その通りだ」


 処分が存在していても。


 取消しによって守られるはずだった利益が、


 もう別の方法で完全に満たされている。


 なら。


 取消訴訟を続ける実益はない。


「訴えの利益って」


 私はペン先で机を軽く叩きました。


「処分の存在じゃなくて、取消しの必要性を見るんですね」


「それが狭義の訴えの利益だ」


 片桐所長が言いました。


 私は大きく丸をつけました。


 取消しの必要性。


 これが一番しっくり来ます。


 次。


 未来の判例を二つ。


 もちろん、


 今の昭和六十三年の事務所で、


 私は口には出せません。


 でも。


 頭の中の受験ノートでは整理できます。


 一つ。


 公文書非公開決定。


 公開請求した文書が、


 別の裁判で証拠として提出された。


 一見すると、


 もう内容を見られたんだから取消しは不要では。


 そう思う。


 でも。


 証拠として出たからといって、


 誰でも自由に閲覧・謄写できるわけではない。


 非公開決定を取り消せば、


 条例に基づく閲覧や写しの交付を受ける利益が残っている。


 だから訴えの利益あり。


 二つ。


 優良運転者。


 優良運転者である旨の記載がない免許証で更新された。


 その人が本来、


 優良運転者として扱われる法律上の地位を持っていたなら。


 その地位を回復するため、


 更新処分取消しの利益がある。


「やっぱり」


 私は小声で呟きました。


「紙じゃない」


「何がだ」


「いや」


 相馬先輩に聞かれてしまいました。


「免許証の紙に何が書いてあるかだけじゃないんです」


「じゃあ何だ」


「法律上の地位」


「急に難しくなったな」


「でもそこです」


 訴えの利益。


 形のある物を取り戻せるかだけではない。


 法律上の地位。


 手続を受ける利益。


 給与請求権。


 更新できる地位。


 そういうものでもいい。


「要するに」


 相馬先輩が言いました。


「取消判決をもらって、それを額に入れて飾るだけなら駄目ってことだ」


「極端ですけど、分かりやすい」


「役所が間違ってた証明書が欲しいだけじゃ足りん」


「そうですね」


 名誉。


 感情。


 納得。


 もちろん人にとって大切です。


 でも。


 取消訴訟の狭義の訴えの利益では、


 取消しによって回復する法律上の実益を見る。


 ただの「勝った証明」が欲しいだけでは、


 通常、足りない。


「じゃあ」


 私はページを変えました。


 見出し。


 ――訴えの利益がなくなるタイミング。


「そこも大事です」


「訴訟提起時だけ見ればいいのか」


「いいえ」


「だな」


 訴えの利益は、


 訴訟を起こした時点だけ必要なのではない。


 訴訟が続いている間も必要。


 途中で事情が変わり、


 取消しによる実益がなくなれば。


 その時点で訴えの利益を失うことがある。


「維持する意味」


 私は言いました。


「教材にありました」


「何が」


「訴訟を行う意味だけじゃなく、訴訟を維持する意味」


「ああ」


 そこです。


 訴訟提起時。


 利益あり。


 でも。


 途中で、


 対象となる期間終了。


 本人死亡。


 工事完成。


 代替施設完成。


 法令上の不利益消滅。


 そんな事情が起きる。


 すると、


 訴えの利益が消えることがある。


「裁判中も監視しなきゃいけない」


「そうだ」


「入口って、一回通ったら終わりじゃないんですね」


「だから怖いんだよ」


 相馬先輩の最初の言葉に戻りました。


 勝てるか以前に。


 裁判を続ける意味があるか。


 常に問われる。


「ところで」


 私はノートをめくりました。


「現代法では、事情が少し変わってますよね」


 相馬先輩が嫌そうな顔をします。


「また未来か」


「未来です」


「知らんぞ」


「聞いてください」


 昭和六十三年。


 取消訴訟の訴訟要件。


 出訴期間は、


 処分又は裁決があったことを知った日から三か月。


 そして被告は、


 処分をした行政庁。


「昨日やったところだな」


「はい」


 現代では。


 出訴期間は原則、


 処分又は裁決があったことを知った日から六か月。


 そして。


 被告は、


 処分行政庁そのものではなく、


 その行政庁が所属する国または公共団体。


「例えば市長の処分なら」


 私は言います。


「現代では、市長個人を被告にするんじゃなくて、市」


「昭和六十三年は?」


「処分をした行政庁。市長」


「そうだ」


 さらに。


 現代では、


 義務付け訴訟。


 差止訴訟。


 こうした訴訟類型が法定されています。


 でも昭和六十三年は違う。


 法定されていない。


 無名抗告訴訟として、


 非常に厳しい条件のもとで議論されるだけ。


「大迫さんの件で」


 私は言いました。


「もし単純に『免許を出せ』って義務付け訴訟をしようって考えたら」


「できるのか」


「現代なら制度として検討できます」


「昭和は?」


「法定されてません」


「じゃあ?」


「地獄」


「説明になってねえ」


「かなり難しいです」


 取消訴訟で処分を消す。


 そして。


 行政側に改めて適法な判断をさせる。


 昭和の制度では、


 そこに依存する部分が大きい。


「今の制度って」


 私は少し考えました。


「昔より出口が増えたんですね」


「出口?」


「昔はとにかく取消し中心」


「うん」


「でも取消しただけじゃ救われない事件もある」


「あるだろうな」


「だから義務付けや差止めが整備された」


 もちろん。


 現代でも要件は厳しい。


 魔法ではない。


 でも。


 制度として用意されているかどうかは大きい。


「昔は」


 私は言いました。


「取消しても、その先行政が動いてくれなきゃ困る事件でも」


「ああ」


「国民側の武器が少なかった」


「そういうことだな」


 そして仮の救済。


 現代では、


 一定の場合に仮の義務付けや仮の差止めがある。


 でも昭和六十三年。


 仮の救済は基本的に執行停止。


「つまり」


 私はため息をつきました。


「裁判が終わるまで待ってたら意味がなくなる事件ほど」


「苦しい」


「ですよね」


 さっきの特定日使用不許可。


 典型です。


 使いたい日は近い。


 でも裁判には時間がかかる。


 裁判が終わる頃には、


 その日が過ぎている。


 そうなれば訴えの利益がなくなる。


「残酷ですね」


「だから訴訟は時間との戦いでもある」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「利益が消える前に何をするか」


「執行停止?」


「事件による」


「そうですよね」


 不許可処分の場合、


 単純な執行停止で目的が達成できるとは限らない。


 そこがまた難しい。


 執行停止は、


 処分の効力や執行を止める制度。


 でも。


 何もしてくれない状態に対して、


 行政庁に積極的な行為をさせる制度ではない。


「だから昔は」


 私は言いました。


「救済の穴が大きかった」


「穴?」


「取消せても間に合わない」


「うん」


「取消しても次の処分を出してもらわないと救われない」


「うん」


「でも義務付けは法定されてない」


「うん」


「仮の救済も弱い」


「それが当時の制度だ」


 片桐所長の声は淡々としていました。


 でも。


 未来を知っている私には、


 その淡々とした言葉が少し重く聞こえます。


 平成十六年。


 行政事件訴訟法の大改正。


 出訴期間の延長。


 被告適格の整理。


 義務付け訴訟。


 差止訴訟。


 仮の義務付け。


 仮の差止め。


 原告適格判断の考慮事項の明確化。


 全部、


 理由もなく増えたわけではありません。


 昔の行政訴訟が、


 あまりに使いにくかった。


 救済が間に合わなかった。


 入口も狭かった。


 出口も少なかった。


 その積み重ねがある。


「未来の改正って」


 私は言いました。


「受験生を苦しめるためじゃないんですね」


「またそれか」


「いや、本当に」


 昔の私は、


 法改正と聞くと、


 覚える表が増える。


 過去問の知識が使えなくなる。


 面倒。


 くらいに思っていました。


 でも。


 昭和六十三年の現場から見ると。


 改正の向こうに、


 救われなかった人たちが見える。


「改正って」


 私はぽつりと言いました。


「制度の失敗ノートなんですね」


 片桐所長がこちらを見ました。


「いい言い方だ」


 珍しく褒められました。


 相馬先輩が言います。


「調子乗るな」


「まだ何も言ってないです」


「顔が乗ってる」


「顔?」


 私は咳払いして、


 ノートへ戻りました。


 次。


 訴えの利益と、


 本案勝訴の違い。


「ここも混ぜちゃ駄目ですね」


「ああ」


「訴えの利益あり」


「うん」


「だから処分違法」


「違う」


「ですよね」


 訴えの利益は、


 あくまで訴訟要件。


 その訴訟を続ける意味があるか。


 そこをクリアしただけ。


 処分が違法かどうかは、


 本案の問題。


「大迫さんも」


 私は言います。


「訴えの利益が残る可能性はある」


「ある」


「でも、それだけで免許取消処分が違法になるわけじゃない」


「当然だ」


「入口を通っただけ」


「そうだ」


 これ、大事。


 訴えの利益あり。


 イコール。


 勝訴。


 ではない。


 逆に。


 処分がかなり怪しそうでも、


 訴えの利益なし。


 なら。


 中身に進まず却下される可能性がある。


「理不尽に感じます」


「そうだな」


「違法かもしれない処分なのに」


「うん」


「裁判所が違法か判断しないことがある」


「訴訟要件を欠けばな」


「やっぱり怖い」


「今日何回目だ」


 でも。


 そこには理由もある。


 裁判所は、


 抽象的に法律問題を答えるための相談所ではない。


 現実の紛争を解決するために裁判をする。


 だから。


 処分を取り消しても、


 当事者の法律上の状態が何も変わらない。


 そんな事件についてまで、


 判決を出し続けるわけではない。


「要するに」


 私は言いました。


「裁判所は法律クイズを解く場所じゃない」


「そういうことだ」


「現実に解決する意味がある紛争を扱う」


「うん」


「だから訴えの利益が必要」


「そうだ」


 少し腑に落ちました。


 制度の冷たさには、


 制度なりの理由がある。


 誰かが怒っている。


 それだけで、


 国家が裁判手続を最後まで動かすわけではない。


 今、


 取り消す必要がある。


 そこまで必要。


「ただし」


 片桐所長が言いました。


「だから行政側が時間を稼げば勝ち、という話ではない」


「はい」


「そこを勘違いするな」


「もちろんです」


 期間経過によって利益が消える事件では、


 迅速な救済が重要になる。


 だからこそ、


 仮の救済制度。


 訴訟類型の整備。


 出訴期間の見直し。


 そうした改正が意味を持つ。


「そう考えると」


 私は言いました。


「訴えの利益の判例って、制度の欠点も見せてくれますね」


「どういうことだ」


「時間が経つと利益が消える」


「うん」


「でも裁判は時間がかかる」


「うん」


「だったら、急いで救える制度がないとおかしい」


 片桐所長が頷きます。


「そういうことだ」


 私は新しい囲みを作りました。


 ――訴えの利益が消える前に救済しなければならない事件がある。


 この感覚が、


 現代の義務付け。


 差止め。


 仮の救済。


 そういう制度につながっていく。


「昭和六十三年の私たちには」


 私は言いました。


「使えないですけどね」


「未来の話しても仕方ねえだろ」


「はい」


「今ある制度で仕事しろ」


「それ、前にも言われました」


「何度でも言う」


 そうです。


 未来法を知っていても、


 施行前には使えない。


 今。


 大迫さんのために必要なのは、


 平成十六年改正の知識を語ることではない。


 昭和六十三年の制度で、


 訴えを続ける意味があることを、


 事実に沿って弁護士へ渡すこと。


「じゃあ」


 私は昨日の整理票を見ました。


「大迫さんの訴えの利益を一文で言うと」


 相馬先輩が腕を組みます。


「言ってみろ」


「免許取消処分がなければ、有効期間内に更新手続をすることで免許を維持できた以上、免許の有効期間経過後も、取消処分を取り消すことによって回復し得る法律上の利益が残っている」


「まあいい」


「長い」


「法律だからな」


「先輩の説明なら?」


「取消しが消えれば、更新への道が戻る」


「短い」


「使え」


 私は横に書きました。


 大迫事件。


 ――取消しが消えれば、更新への道が戻る。


 これなら忘れません。


「じゃあ否定例を一行ずつ」


「まだやるのか」


「仕上げです」


 私は声に出します。


「特定日使用不許可」


「日が過ぎれば、その日は戻らん」


「生活保護」


「本人死亡、権利は相続されん」


「明渡裁決」


「明渡し終わって、取消しても義務はもうない」


「免許停止」


「不利益が完全に消えた後なら、取消しても戻るものなし」


「保安林解除」


「代替施設で危険がなくなれば、取消す必要なし」


「建築確認」


「建物完成後、確認を消しても建物は消えん」


「完璧」


「何で俺が受験勉強させられてんだ」


「才能ありますよ」


「いらん」


 私は笑いながらノートをまとめました。


 狭義の訴えの利益。


 見るのは、


 処分の違法性ではない。


 原告の怒りでもない。


 事件の大きさでもない。


 処分を取り消すことによって、


 今なお法律上の利益が回復するのか。


 それがあるなら、


 訴訟を続ける意味がある。


 それがないなら、


 訴えの利益は失われる。


 そして。


 訴えの利益は、


 訴訟提起時だけでなく、


 訴訟係属中も必要。


 事情が変われば、


 途中で消える。


 私は最後のページに、


 太い線を引きました。


「一行の覚え書き」


「今度こそ一行にしろ」


 相馬先輩が言います。


「分かってます」


 少し考えます。


 そして書きました。


 ――取消訴訟は、「今さら消して何が戻る?」に答えられて初めて続けられる。


「どうです?」


「まあいい」


「珍しく即採用」


「もっと短くできる」


「え?」


 相馬先輩が私のペンを取りました。


 その下に書きます。


 ――消して戻るものがあるか。


 私は黙りました。


「……先輩」


「何だ」


「今日いちばん分かりやすいです」


「だろ」


「ちょっと悔しい」


「知るか」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「覚えておけ」


「はい」


「訴えの利益は、気持ちでは作れない」


「はい」


「処分を消したあとに、何が法的に変わるか。それを事実で示す」


「昨日と同じですね」


「同じことが大事なんだ」


 所長は立ち上がりました。


 私はノートを閉じます。


 窓の外。


 ちょうど一台のトラックが信号で止まりました。


 運転席には、


 知らない男の人。


 大迫さんではありません。


 今の大迫さんには、


 あの席に座ることができない。


 でも。


 取消処分が違法で、


 その処分を消すことができるなら。


 本来進めたはずの更新手続。


 本来維持できたはずの免許。


 そこへ戻る道が残っている。


 だから。


 裁判を続ける意味も残っている。


 法律は、


 過去を消してくれるわけではありません。


 失った時間を返してくれるわけでもない。


 過ぎた日を戻すこともできない。


 亡くなった人を戻すこともできない。


 完成した建物を、


 判決一枚で消すこともできない。


 だからこそ。


 取消しで何が戻るのか。


 その一点を、


 冷たく見る。


 冷たい。


 でも。


 その冷たさがあるから、


 大迫さんのように、


 一見「もう終わった」と見える人の中から、


 まだ残っている利益を拾い上げることもできる。


 有効期間が過ぎた。


 だから終わり。


 ではない。


 処分を消せば、


 更新への道が戻る。


 なら、


 まだ終わっていない。


 私はノートを鞄へ入れました。


「さて」


 相馬先輩が立ち上がります。


「帰るぞ」


「はい」


「電気消せ」


「はい」


 私は事務所の照明に手を伸ばしました。


 その瞬間。


 片桐所長が言います。


「こはる」


「はい?」


「掃除当番」


「……」


 忘れていました。


 昨日、


 笑っていた罪で、


 一週間の掃除当番処分。


「所長」


「何だ」


「この処分を取り消したら」


「うん」


「私の自由時間が回復します」


「だから?」


「訴えの利益があります」


 相馬先輩が吹き出しました。


「原告適格は?」


「処分を受けた本人なので完璧です」


「出訴期間は?」


「まだ一日目です」


「被告は?」


 私は所長を指しました。


「昭和六十三年なので処分行政庁たる片桐所長!」


「お前」


 相馬先輩が腹を抱えます。


「何です」


「事務所を裁判所にするな」


「でも訴訟要件は揃ってます!」


 片桐所長は無表情でした。


「訴えの利益は認める」


「やった!」


「本案は棄却」


「早い!」


「処分理由は、昨日お前が笑って仕事を止めたからだ」


「裁量権の逸脱・濫用を主張します!」


「証拠は?」


「先輩」


「俺を巻き込むな」


「証人です!」


「拒否する」


「先輩!」


 片桐所長が箒を差し出しました。


「執行停止は?」


「認めない」


「仮の救済が弱すぎる!」


 私は箒を受け取りました。


 相馬先輩が笑っています。


「未来なら仮の義務付けでもするか?」


「掃除させない義務付けって何ですか!」


「知らねえよ」


 昭和六十三年。


 義務付け訴訟も。


 差止訴訟も。


 まだ法律にきちんと用意されていない時代。


 どうやら私は、


 平成十六年の大改正を、


 誰より切実に待つことになりそうです。


 もっとも。


 掃除当番処分の取消しを平成まで待っていたら、


 さすがに訴えの利益は消えていそうですが。

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