[取消訴訟の訴えの利益(狭義)]現場編 「もう終わった話だから裁判も終わりです」の罠。処分を消して“何が戻るか”を問う、入口の壁
裁判というものは、怒っている人のためにあるわけではありません。
勝ちたい人のためでもない。
処分を取り消したあと。
その人に、何が戻るのか。
そこまで答えられなければ、
裁判所の入口は、驚くほど静かに閉じます。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「裁判にしてやる!」
朝九時十三分。
事務所の引き戸が壊れそうな勢いで開きました。
入ってきた男性は、五十代半ば。
角刈り。
日に焼けた顔。
作業服。
右手には、何度も折り畳まれた通知書。
「市役所を訴える!」
もう一度言いました。
声量がさっきより上がっています。
私は反射的にお茶を出そうとして、
やめました。
たぶん今、この人に必要なのは湯呑みではありません。
「座れ」
相馬先輩が言いました。
「まず何があった」
「だから、訴えるんだ!」
「それは結果だ。原因を言え」
「言い方」
私が小声で突っ込むと、先輩はこっちを見もしません。
男性は荒い息のまま椅子に座りました。
「大迫です」
「大迫さん」
片桐所長が名刺を受け取ります。
大迫忠義。
駅南で小さな運送業をしている人でした。
トラック二台。
従業員三人。
本人も運転する。
話を聞いていくうちに、怒りの中身が見えてきました。
半年ほど前。
大迫さんは運転免許について行政処分を受けた。
原因は、違反点数の累積。
ただし本人は、その前提になった一件の違反について強く争っていた。
「俺はあの日、その場所を走ってないんですよ」
「違反日は?」
私は聞きました。
「去年の十一月十四日」
「何の違反です?」
「一時停止」
「反則切符は?」
「いや、それが……」
大迫さんは鞄から書類を出しました。
違反関係の書面。
免許関係の通知。
処分書。
いろいろ混ざっています。
相馬先輩が一枚ずつ並べていく。
「処分そのものは?」
「免許取消し」
私は顔を上げました。
停止じゃない。
取消し。
運送業者にとって、これは重い。
「それで取消訴訟を?」
「弁護士の先生に頼んだ」
「もう訴えているんですか」
「ああ」
なるほど。
今日の相談は、これから裁判するかではない。
すでに裁判中。
「だったら、うちに来る話じゃ――」
と言いかけた私を、
相馬先輩が肘で止めました。
「続けろ」
「裁判してる間に」
大迫さんは机を叩きました。
「免許の期限が切れたんですよ!」
「……期限?」
「もともとの免許の有効期限だ」
相馬先輩が言いました。
あ。
私はようやく分かりました。
取消処分を受けた。
その取消しを求めて裁判している。
でも裁判はすぐ終わらない。
その間に、
本来の免許証に書かれていた有効期間が過ぎた。
大迫さんは唇を噛みました。
「そしたら市の人間に言われたんだ」
「何て?」
「もう期限切れでしょうって」
嫌な予感。
「だから?」
「今さら取消処分を取り消しても、免許はもう期限切れなんだから意味がない。裁判も終わりじゃないですか、って」
部屋が静かになりました。
私は思いました。
うわ。
嫌なところ突いてくるなあ。
取消訴訟。
処分性。
原告適格。
出訴期間。
被告適格。
そして。
訴えの利益。
処分を取り消す意味が、まだ残っているか。
そこがなくなれば。
仮に処分そのものに違法の疑いがあっても、
中身の判断まで進まない。
門前払い。
不適法。
却下。
行政事件訴訟法というのは、
悪い処分なら何でも裁判所が最後まで裁いてくれる、
そんな優しい仕組みではありません。
「それで弁護士の先生は?」
片桐所長が聞きました。
「確認してるところだって」
「うちへ来た理由は」
大迫さんは少し目を伏せました。
「先生から言われたんです」
「何を」
「昔の免許関係の資料とか、更新の時期とか、仕事への影響とか、全部整理してくれって」
なるほど。
行政書士事務所に来た理由が分かりました。
私たちが訴訟代理をするわけではない。
でも。
弁護士が裁判で使うための、
事実。
日付。
行政手続の流れ。
処分を取り消した場合に何が回復するのか。
そこを整理する。
入口で落とされないための材料作り。
「大迫さん」
片桐所長が言いました。
「ひとつ確認します」
「はい」
「あなたが裁判で欲しいのは何です」
「取消しですよ!」
「その先です」
「その先?」
「取消処分が取り消されたら、何が欲しい」
大迫さんは止まりました。
「……免許ですよ」
「今の免許は期限が切れている」
「だから困ってるんだ!」
「そこを整理する」
所長の声は静かでした。
「取消しによって、何が法的に戻るのか」
私は背筋を伸ばしました。
これです。
今日のテーマ。
取消訴訟の訴えの利益。
しかも狭義。
訴訟を続ける意味があるか。
「こはる」
「はい」
「更新関係を確認しろ」
「分かりました」
私は書類を集めました。
有効期間満了日。
取消処分の日。
取消訴訟を提起した日。
通常なら更新手続が可能だった期間。
大迫さんが取消処分を受けていなければ、
更新できた可能性。
そこを一本の時間軸にします。
相馬先輩は運送業の営業記録。
片桐所長は処分通知と争点。
仕事が分かれました。
「でも」
私は資料を見ながら言いました。
「これ、もう免許の期限が切れてるなら……」
「何だ」
「やっぱり、取消してもその免許証自体は戻らないですよね」
「そうだな」
「じゃあ」
一瞬。
現代受験生だった頃の記憶が、頭の奥から飛び出しました。
運転免許取消処分。
訴訟中に免許の有効期間が経過。
でも。
取消処分が取り消されれば、
本来なら更新手続によって免許を維持できた。
だから訴えの利益は失われない。
最判昭和四十年八月二日。
あ。
「ある」
思わず声が出ました。
「何がだ」
相馬先輩が顔を上げます。
「意味、あります」
「だから何の」
「取消処分を取り消す意味です」
私は立ち上がりました。
「取消処分がなかったなら、有効期間内に更新手続をして免許を維持できた可能性があります」
大迫さんがこちらを見る。
「どういうことです?」
「今持っていた免許証の紙そのものは期限切れです。でも――」
私は机上の紙を並べました。
「取消処分が違法で取り消されたら、そもそも大迫さんは『免許を失った人』ではなかったことになる」
「……ああ」
「そうなれば、本来できたはずの更新手続との関係で、回復できる利益が残ってる」
相馬先輩が頷きました。
「少なくとも、『期限切れだから何の意味もない』とは言えねえな」
「ですよね」
私は少し興奮していました。
教科書で見たときは、
ふうん。
更新できるから利益ありね。
くらいでした。
でも。
目の前に運転で食べている人がいると、
意味が違います。
免許の更新。
たった五文字。
でも大迫さんにとっては、
仕事を続けられるかどうか。
従業員三人の給料。
トラック二台のローン。
家族の生活。
全部ぶら下がっている。
「よかった……」
大迫さんが言いました。
「まだ裁判、続けられるんですね」
「待て」
相馬先輩がすぐ止めました。
「え?」
「俺らは裁判所じゃねえ」
「でも今――」
「訴えの利益がある方向の材料は見えた。だから弁護士に渡せる。そこまでだ」
きっちり線を引く。
行政書士は訴訟代理人ではありません。
ここを曖昧にしない。
「それに」
片桐所長が言いました。
「裁判は入口が一つじゃない」
「はい」
「処分性」
「はい」
「原告適格」
「はい」
「期間」
私は一瞬、反射で、
「六か月」
と言いかけました。
危ない。
昭和六十三年。
危険危険危険。
「……三か月」
言い直しました。
相馬先輩が目を細めます。
「今、何か飲み込んだか」
「唾です」
「嘘つけ」
「昭和の空気です」
「もっと分からん」
冷や汗が出ます。
現代なら取消訴訟の出訴期間は原則、
処分又は裁決があったことを知った日から六か月。
でも今は改正前。
三か月。
未来知識があるせいで、逆に危ない。
「被告は」
相馬先輩。
「処分をした行政庁」
「市そのものじゃねえぞ」
「はい」
現代なら国や公共団体。
でも昭和六十三年は違う。
処分をした行政庁。
訴訟要件というのは、
道路に並んだ検問みたいです。
一個通っても、
次がある。
「で」
相馬先輩が書類を指で叩きました。
「今回さらに見なきゃならんのが、訴えの利益」
「処分を取り消す実益が残っているか」
「そうだ」
大迫さんが眉を寄せます。
「それって」
「はい」
私は答えました。
「簡単に言うと、裁判を続けて勝ったとき、大迫さんにちゃんと何かが戻るか、です」
「戻るでしょう。免許が」
「そこを具体的に言わなきゃ駄目なんです」
「具体的に?」
「『悔しいから取消してほしい』だけでは足りない」
「……」
「『役所が間違ってたと認めさせたい』だけでも足りない」
大迫さんの顔が少し曇りました。
これは冷たい。
分かっています。
でも。
訴訟要件は感情に合わせて曲がりません。
「取消しによって」
私はゆっくり言いました。
「法律上、何が回復するのか」
大迫さんは黙りました。
「今回なら、取消処分がなければできたはずの免許更新」
所長が続けます。
「そこが残っているなら、期間が切れたことだけで訴えの利益がなくなったとは言えない」
「なるほど……」
大迫さんは手元の書類を見ました。
「じゃあ、俺が腹立ててることより」
「はい」
「勝ったら何が戻るかのほうが大事なのか」
「取消訴訟の入口では」
私は言いました。
「すごく大事です」
その日の午後。
私たちは市役所へ向かいました。
大迫さんの免許処分そのものは県公安委員会関係。
ただし今回、
別件で市の道路交通安全関係資料と営業許可関係を確認する必要があり、
総務課にも顔を出すことになっていました。
そして。
なぜかこういう日に限って、
あの人がいます。
「またですか」
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
人の怒りを室温くらいにまで冷却する能力を持つ男。
「今度は免許ですか」
「直接は県の処分だ」
相馬先輩が答えます。
「市の資料を確認したい」
「何のために」
「弁護士に渡す」
「訴訟ですか」
「そうだ」
沢渡課長は書類の表題を見ました。
「大迫さん」
「知ってるんですか」
私が聞くと、
「市内で運送業をしていますから」
「顔広いですね」
「仕事です」
沢渡課長は資料請求の内容を確認してから、
ふと顔を上げました。
「もっとも」
嫌な予感。
「訴訟を続けられるかは別問題でしょう」
「どういう意味だ」
相馬先輩が言いました。
「免許の有効期間はもう経過しているのでは?」
来た。
沢渡課長は続けます。
「仮に取消処分が取り消されても、当時の免許の有効期間自体は戻らない」
「だから訴えの利益はない、と?」
私が聞く。
「私はそう断定していません」
「逃げましたね」
「慎重と言ってください」
「同じです」
沢渡課長は私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「取消訴訟は、行政に腹を立てた人の名誉回復制度ではありません」
「分かってます」
「処分を取消しても法律上の利益が回復しないなら、訴えを続ける実益はない」
「それも分かってます」
「では」
「今回は残る可能性があります」
私は即答しました。
沢渡課長の目が少し細くなります。
「何が」
「更新です」
「更新?」
「取消処分がなければ、大迫さんは有効期間内に免許更新手続を取れた」
沢渡課長は黙ります。
「取消処分が取り消されれば」
私は続けました。
「本来維持できたはずの免許資格との関係で利益が回復する余地がある」
「……」
「だから、期限が切れた。その一事だけで、訴えの利益消滅とは言えない」
相馬先輩が横から言います。
「昔からそういう考え方だ」
沢渡課長は数秒黙ってから、
「なるほど」
とだけ言いました。
勝った。
いや。
議論でちょっと前に出ただけです。
でも。
あの沢渡課長が「なるほど」と言うと、
なんか一勝した気分になります。
「ただし」
当然、続きがあります。
「免許取消しと免許停止は同じではありませんよ」
「分かっています」
「停止なら?」
う。
試されてる。
相馬先輩がこっちを見ています。
私は頭を回しました。
教材で見た判例。
免許停止処分。
停止期間が終わり。
さらに無事故無違反で一定期間が経過。
法令上の不利益も残らない。
そうなれば。
取消しても利益が戻らない。
「後に法令上の不利益が完全になくなって」
私は慎重に言いました。
「処分を取り消しても何も回復しない状態になれば、訴えの利益が否定されることはあります」
「そうです」
沢渡課長が頷きました。
「処分を受けたという嫌な記憶が残っている。それだけでは足りない」
「ですね」
「取消訴訟は慰謝制度ではない」
「言い方が冷たい」
「法律はだいたい冷たいでしょう」
「課長が言うと三割増しです」
相馬先輩が咳払いしました。
「遊ぶな」
「すみません」
でも。
沢渡課長の言っていることは重要です。
嫌だった。
腹が立った。
名誉が傷ついた。
だから処分を消したい。
感情としては分かる。
でも、
それだけで狭義の訴えの利益が認められるわけではない。
取消しによって、
法律上、まだ回復するものがあるか。
裁判はそこを見る。
「じゃあ」
私は沢渡課長に聞きました。
「逆に、処分を取り消しても現実が戻らない場合でも、別の法律効果に影響するなら利益は残ることがありますよね」
「何を想定しています?」
「例えば工事が終わってても、取消しが後の換地処分とか別の法的効力に影響する場合」
「話が急に農地寄りですね」
「行政書士ですから」
「便利な返しですね」
未来の判例まで頭に浮かびましたが、
これはまだ昭和六十三年。
平成四年の土地改良事業判例は未来です。
危ない。
未来の最高裁判決を先取りして市役所で披露するところでした。
転生者の口は時空を壊します。
「こはる」
片桐所長が低い声で言いました。
「今ある材料だけ見ろ」
「はい」
ばれている気がします。
事務所へ戻ってから。
私たちは弁護士へ渡す整理票を作りました。
一枚目。
処分。
運転免許取消処分。
二枚目。
時系列。
処分日。
訴え提起日。
免許有効期間満了日。
本来の更新可能期間。
三枚目。
取消しによる具体的利益。
私はそこに書きました。
取消処分がなければ、
有効期間内に更新手続を行い、
免許を維持し得た。
したがって、
単に当初免許の有効期間が経過したというだけでは、
取消処分を取り消す法律上の実益が当然に消滅するとはいえない。
相馬先輩が覗き込みます。
「固い」
「裁判用資料ですから」
「大迫さんに説明するときは?」
「勝ったあと何が戻るかを見る」
「それでいい」
四枚目。
仕事上の影響。
運送業。
本人運転の必要性。
従業員への配車。
車両稼働。
これらは訴えの利益そのものを直接決める事情とは限らない。
でも事件の実態として整理しておく。
弁護士が必要なものと不要なものを選べるように。
五枚目。
訴訟要件確認欄。
処分性。
原告適格。
出訴期間。
被告適格。
狭義の訴えの利益。
「こうやって並べると」
私は言いました。
「怖いですね」
「何が」
「取消訴訟」
「今さらか」
「違法な処分だったとしても」
「うん」
「訴訟要件で落ちたら、中身まで見てもらえない」
「そういうことだ」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「裁判なんて負け戦だ」
「また始まった」
「だがやるなら要件を揃えろ」
「口癖になってません?」
「なってる」
「自覚あるんですね」
片桐所長が整理票を一枚ずつ確認していきます。
「狭義の訴えの利益」
所長が言いました。
「これを忘れるな」
「はい」
「原告適格と混ぜるな」
「あ」
そこも罠です。
広い意味で「訴えの利益」と言うと、
原告適格まで含めて語ることがある。
でも今回扱っているのは、
狭義。
この人が取消訴訟を起こせる立場か。
ではなく。
今、この処分を取り消す意味がまだあるか。
「原告適格は」
私が言いました。
「この人が争う資格を持つか」
「雑だがいい」
「狭義の訴えの利益は」
少し考えます。
「今さら取り消して何が戻るか」
「それだ」
相馬先輩が言いました。
「すごく試験向けじゃない言い方ですね」
「覚えりゃいい」
「答案には書きませんよ」
「当たり前だ」
翌日。
提携先の弁護士が事務所へ来ました。
五十代の小柄な先生で、
資料を読むのが異様に速い。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、
更新可能期間を書いた表で手が止まりました。
「ここ、確認取れてます?」
「はい」
私は答えました。
「取消処分がなければ、更新申請できた期間です」
「なるほど」
先生は頷きました。
「助かります」
大迫さんが不安そうに聞きます。
「裁判、続けられますか」
先生は即答しませんでした。
片桐所長と同じです。
専門家は、
安心させるためだけの断言をしない。
「少なくとも」
先生は言いました。
「『有効期間が切れたから訴えの利益もなくなった』という主張には、反論できます」
「本当ですか」
「取消処分が取り消されれば、本来なら更新によって免許を維持できたという利益が考えられます」
大迫さんの肩が少し下がりました。
「じゃあ、勝てますか」
「それは別です」
先生は言いました。
「今話しているのは、裁判の中身に入る前の話です」
「入口」
私が呟きました。
「そう」
先生がこちらを見ます。
「入口を通れるかどうか」
それから。
大迫さんは事務所を出る前、
少しだけ立ち止まりました。
「朝比奈さん」
「はい」
「俺ね」
「はい」
「裁判って、役所が悪いことしたかどうか決めてもらう場所だと思ってた」
「私も昔、そんな感じで考えてました」
「違うんですね」
私は少し考えました。
「違うというか」
「うん」
「それを判断してもらう前に、たくさん入口があるんです」
「面倒だなあ」
「ものすごく」
正直に言いました。
大迫さんが苦笑します。
「でも今日」
「はい」
「期限が切れたから全部終わりじゃないって分かっただけでも、来てよかったです」
「そうですね」
「免許そのものじゃなくて」
大迫さんは自分で確認するように言いました。
「取り消したあと、何が戻るか」
私は頷きました。
「そこです」
事務所を出ていく背中は、
昨日より少しだけまっすぐでした。
夕方。
沢渡課長から電話がありました。
なぜか最近この人、
事件が終わると電話してきます。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『沢渡です』
「どうも」
『大迫さんの件、弁護士に繋いだそうですね』
「早いですね、情報」
『市役所ですから』
「万能ワード」
『一つだけ』
「何でしょう」
『あなた、今日やっと取消訴訟の怖さが分かった顔をしていましたね』
何ですかそれ。
「前から分かってます」
『そうですか』
「なんです、その含み」
『行政処分が違法かどうかを勉強している人は多い』
「はい」
『しかし裁判では、その前に聞かれる』
「訴訟要件」
『ええ』
沢渡課長の声は淡々としていました。
『その人が訴えられるのか』
「原告適格」
『期間内か』
「出訴期間」
『相手は正しいか』
「被告適格」
『そして』
少し間が空きました。
『今さら取り消して、何が変わるのか』
私は受話器を持ったまま黙りました。
「狭義の訴えの利益」
『そうです』
「課長」
『何でしょう』
「たまに先生みたいですよね」
『不本意です』
「そっちが?」
『では』
「切るの早いな」
電話が切れました。
私はしばらく受話器を見ていました。
「何だって」
相馬先輩が聞きます。
「今さら取り消して何が変わるのかって」
「正しいだろ」
「正しいですけど」
私は机の上の整理票を見ました。
免許取消処分。
取消訴訟。
有効期間経過。
一見すると、
もう終わったこと。
でも。
処分を取り消すことで、
本来できたはずの更新。
失わずに済んだ法的地位。
回復できるものが残っている。
なら。
裁判を続ける意味も残る。
反対に。
出来事が終わったあと、
処分を取り消しても、
法律上もう何一つ戻らないなら。
どれだけ悔しくても。
どれだけ役所に腹が立っていても。
取消訴訟の入口は閉じることがある。
「冷たいですね」
私は言いました。
「何が」
「訴えの利益」
「法律だからな」
「でも」
少し考えます。
「冷たいから、逆にちゃんと探せるんでしょうね」
「何を」
「まだ残ってる利益を」
感情ではなく。
かわいそうだからでもなく。
悔しいからでもなく。
処分を取り消せば、
法的に何が回復するのか。
そこを一個ずつ探していく。
大迫さんの場合は、
更新の可能性だった。
「今日の教訓」
私はノートの端に書きました。
――「終わった出来事」でも、「戻る利益」が残っていれば裁判は終わらない。
相馬先輩が覗き込みます。
「逆も書いとけ」
「逆?」
「取り消しても何も戻らんなら終わる」
「厳しい」
「そこが大事だろ」
私は下に書き足しました。
――取消訴訟は、過去を責める裁判じゃない。取消しで今、何を回復できるかを見る。
「長い」
「先輩の口癖ほどじゃないです」
「俺のは短い」
「裁判なんて負け戦だ、だがやるなら要件を揃えろ」
「短いだろ」
「十五文字以上あります」
「数えんな」
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい」
「明日の朝、大迫さんの資料を追加で整理しろ」
「何をです?」
「更新申請の扱い」
「はい」
「訴えの利益は、言葉だけで作るな」
私はペンを止めました。
「事実で作る」
「そうだ」
やっぱり。
この人はたまに一言で全部持っていきます。
「所長」
「何だ」
「今の、ノートに書いていいですか」
「勝手にしろ」
私は大きく書きました。
――訴えの利益は、感情ではなく、取消しで回復する具体的な利益から作る。
窓の外では、
古い国道をトラックが一台走っていきました。
大迫さんの車ではありません。
彼は今、
運転できない。
でも。
もし処分が取り消されるなら。
本来持っていた道へ、
戻れる可能性がまだある。
裁判所が過去をやり直してくれるわけではありません。
期限の切れた免許証を魔法のように新品へ戻してくれるわけでもない。
ただ。
取消しによって、
失われた法的な利益を回復できるなら。
その人には、
まだ裁判をする意味がある。
その日の最後。
私は戸締まりをしながら言いました。
「先輩」
「何だ」
「もし先輩が所長に一週間禁煙処分を受けて」
「嫌な処分だな」
「一週間終わったあとに取消しを求めても」
「うん」
「もう吸えなかった一週間は戻りませんよね」
「そうだな」
「だったら訴えの利益なし?」
「待て」
「はい」
「その処分を受けた奴は、次に一か月禁煙になるという内部規則があるなら?」
「……」
「取消せば、その不利益が消える」
「ありますね」
「利益が」
「あります」
私は感心してしまいました。
「先輩」
「何だ」
「説明うまいですね」
「だろ」
「禁煙の例じゃなければ完璧でした」
「うるせえ」
奥から片桐所長の声がしました。
「相馬」
「はい」
「明日から禁煙だ」
「何でですか!」
「灰皿をまた山盛りにした」
「一週間ですか」
「一か月」
「重い!」
私は反射的に言いました。
「先輩、訴えます?」
「まず所長に異議申立てだ!」
「昭和だ!」
「こはる」
所長の声。
「お前も笑っていたな」
「え」
「連帯処分だ」
「私、煙草吸いません!」
「掃除当番一週間」
「取消しを求めます!」
「取り消したら何が戻る」
「私の自由時間です!」
相馬先輩が吹き出しました。
片桐所長は書類から顔も上げません。
「具体的に立証しろ」
「そこまでやるんですか!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら裁判所だけでなく、
うちの事務所でも。
何かを取り消してほしいときには、
その先に何が戻るのかまで説明しなければならないようです。
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