[取消訴訟の原告適格]現場編 「近所なんだから裁判できる」の罠。怒っているだけでは裁判所に入れない――第三者を救う“法律上の利益”という入場券
裁判所の扉は、怒っている人から順番に開くわけではありません。
むしろ。
どれだけ怒っていても。
どれだけ困っていても。
どれだけ役所の判断がおかしく見えても。
最初に聞かれることがあります。
――あなたは、その処分を争える人なんですか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「裁判にしてやる!」
その日の相談者は、椅子に座る前から裁判を始めていました。
「絶対に許さん! あんなもの、うちの隣に造らせてたまるか!」
「まず座ってください」
私は湯呑みを置きました。
「裁判は座ってからでも間に合います」
「朝比奈、お前は裁判所の受付か」
相馬先輩が呆れたように言いました。
「だって、この方ずっと立ってるので」
「立つくらい腹が立ってるんだ!」
「それは分かりました」
相談者は、
小野寺源一さん。
五十八歳。
駅から少し離れた旧街道沿いで、小さな銭湯――『松の湯』を営んでいます。
父親の代から続いて四十年以上。
煙突。
番台。
富士山の壁絵。
男湯の体重計だけ、なぜか針が二キロ軽く出る。
最後の情報は法的にはどうでもいいのですが、私はかなり好きです。
「で」
相馬先輩が煙草を灰皿へ置きました。
「何ができるんだ」
「風呂屋だ!」
「それは聞いた」
「違う! 新しい風呂屋だ!」
机に一枚の新聞折り込み広告が叩きつけられます。
――近日開業。
――大浴場。
――薬湯。
――家族風呂。
――駐車場完備。
写真には、やたら立派な建物の完成予想図。
名前は、
『湖西健康浴場』
「うちから何メートルだと思う!」
小野寺さんが指を突き出します。
「何メートルです?」
「二百八十!」
「細かい」
「測ったんだ!」
「何で?」
「歩幅で!」
「誤差が大きそうですね」
「朝比奈」
「はい」
「煽るな」
相馬先輩に怒られました。
私は広告を見直しました。
新しい公衆浴場。
小野寺さんの銭湯から近い。
それで怒っている。
「市が許可したんですか」
「県だ!」
「県?」
「保健所で聞いた。営業許可が出たそうだ!」
そこまで聞いて。
私は少し姿勢を正しました。
公衆浴場。
営業許可。
既存業者。
距離。
頭の奥で、受験時代に見た判例がむくりと起き上がります。
――公衆浴場法。
――既存業者の営業上の利益。
――原告適格。
あ。
これ。
知ってる。
「先輩」
「何だ」
「これ、いけるかもしれません」
「何が」
「取消訴訟です」
小野寺さんが勢いよく私を見ました。
「ほら!」
「待て」
相馬先輩が即座に止めました。
「何でお前が煽ってんだ」
「いや、判例が――」
「判例で商売するな。事実を聞け」
「はい」
怒られました。
でも。
心の中では、ちょっと浮き足立っていました。
これです。
受験生なら一度は見る。
処分の相手方以外の第三者。
新しい公衆浴場に許可が出た。
その許可を受けたのは、新規業者。
困るのは既存業者。
既存業者は処分の名宛人ではない。
でも、一定の場合には許可取消しを求めて訴えられる。
つまり。
第三者でも原告適格が認められることがある。
教材の文字だった話が、今、目の前で湯気を立てています。
「小野寺さん」
片桐所長が初めて口を開きました。
「新しい浴場ができると、何が困る」
「何がって、客を取られる!」
「それだけか」
「それだけって!」
「他には」
小野寺さんは少し怯みました。
「うちはな、今でもぎりぎりなんだよ」
声が少し落ちます。
「昔は工場帰りの客が多かった。今は家に風呂がある家が増えた」
なるほど。
昭和六十三年。
家庭風呂はもう珍しくない。
昔ながらの銭湯経営は、楽ではありません。
「ボイラーも古い。タイルも去年張り替えた。あいつらみたいな駐車場なんかねえ」
「新しい浴場ができたら」
「客は半分持っていかれるかもしれん」
相馬先輩が聞きます。
「それは予想か」
「そりゃ、まだ開いてねえからな」
「商圏は」
「同じだ」
「利用客は重なる」
「重なるどころじゃねえ。うちの町内全部向こうへ流れる」
「許可の根拠は確認したのか」
「そんなもん知らん」
相馬先輩が私を見る。
「行くぞ」
「どこへ?」
「保健所」
「ですよね」
情報。
また情報です。
この人、法律事務所にいるくせに、条文より先に現場へ行きます。
いや。
たぶん、それが正しい。
片桐所長が小野寺さんに言いました。
「まだ裁判できるとは言えません」
「何でだ!」
「あなたが怒っているからでは足りない」
「客取られるんだぞ!」
「それでも足りないことがある」
小野寺さんが黙りました。
所長は続けます。
「裁判所は、誰でも行政処分を取り消せる場所じゃない」
「じゃあ、俺は関係ないっていうのか」
「それを調べる」
短い。
でも。
たぶん今日の核心です。
――関係がある。
それだけでは足りない。
法的に、争う資格があるか。
原告適格。
裁判の入口。
私はその言葉を頭の中に置きました。
午後。
県の保健所。
公衆浴場営業許可の担当窓口。
担当者は、眼鏡をかけた四十代くらいの男性でした。
「湖西健康浴場の件ですね」
「はい」
相馬先輩が言います。
「既存の浴場経営者から相談を受けている」
「許可は既に出ています」
「確認したいのは基準だ」
担当者は少し慎重な顔になりました。
「公衆浴場法と県の条例に基づいて審査しています」
「配置基準は」
「あります」
「既存浴場との距離を見るんだな」
「ええ」
私はそこで、ぴくりとしました。
距離を見る。
これ、大事です。
もし公衆浴場法が、
ただ単に、
町のみんなが快適に風呂へ入れるようにしましょう。
という一般公益だけを目的にしているなら。
小野寺さんの営業上の利益は、たまたま守られているだけ。
反射的利益。
そう扱われる可能性がある。
でも。
公衆浴場の濫立を防ぎ、
既存業者の経営が不合理になることまで防止する趣旨が法に含まれるなら。
話が変わります。
小野寺さん自身の営業上の利益が、
法によって保護されている。
そう言える。
つまり。
原告適格につながる。
「具体的な距離は」
相馬先輩が聞きました。
担当者は条例集を開きます。
区域。
人口密度。
既存浴場との位置関係。
例外要件。
いくつかの数字と条件が並んでいました。
「新設予定地は」
私は地図を指します。
「松の湯から、このくらいですよね」
「おおむねそうですね」
「小野寺さんは二百八十メートルと言ってました」
「歩幅で測ったそうだな」
「何で知ってるんですか」
「さっき聞いただろ」
「そうでした」
緊張すると私の短期記憶が弱くなります。
担当者が地図を見ます。
「直線距離では、もう少しあります」
「基準内?」
相馬先輩が聞きます。
「通常なら問題になります」
「通常なら?」
「例外があります」
嫌な言葉が出ました。
法律の世界で、
原則。
の次に強いのは、
例外。
です。
「人口増加や住宅開発など、特別の事情がある場合には許可できることがあります」
「今回、その例外を使った?」
「はい」
私は地図を覗き込みました。
「人口増加?」
「駅南側の宅地造成があります」
「そこからこの浴場まで?」
「生活圏として需要が見込まれると判断されています」
相馬先輩が地図の端を指しました。
「造成地はここだろ」
「はい」
「松の湯より、新設浴場の方が近いわけでもない」
「距離だけで決めるものではありません」
「需要予測は」
「あります」
「既存浴場への影響は」
一瞬。
担当者の手が止まりました。
「総合的に判断しています」
出た。
行政語。
総合的に判断しています。
便利です。
何を総合したかは分からないけれど、とにかく総合されている。
「影響調査は」
相馬先輩が重ねます。
「ありますか」
「内部資料ですので」
「あるかないかだけでいい」
「……あります」
「松の湯は対象に入ってる?」
「個別の内容は申し上げられません」
相馬先輩はそれ以上押しませんでした。
「分かった」
引く。
意外。
外へ出てから私は聞きました。
「もっと聞かないんですか」
「十分だ」
「どこがです?」
「基準がある。例外を使った。既存浴場への影響も審査要素に入ってるらしい」
「あ」
「そこから先は、こっちの仕事じゃねえ」
私は少し遅れて理解しました。
行政書士事務所は訴訟代理人ではありません。
裁判所で証拠調べをするわけでもない。
でも。
弁護士へ渡す前に、
何が争点になるのか。
どの書類が必要なのか。
誰に訴える資格があるのか。
そこを整理する。
「小野寺さん」
私は言いました。
「原告適格、ありそうですね」
「ありそう、だ」
「断言しませんね」
「裁判所に入れるかどうかは、簡単に断言するな」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「入口で追い返されたら、中身がどれだけ立派でも終わりだ」
煙が細く流れました。
「行政訴訟はな」
先輩は言います。
「役所が間違ってるかどうかの前に、お前がそれを言える立場かって聞かれる」
冷たい話です。
でも。
その冷たさが、急に現実味を帯びました。
事務所へ戻ると。
もう一人、待っている人がいました。
「あの、私も訴えたいんです」
女性です。
三十代後半くらい。
名前は大沢美佐子さん。
新設浴場予定地の近くに住んでいるそうです。
「何を?」
私が聞くと、
「湖西健康浴場です」
「え」
「小野寺さんが裁判するって聞いて」
情報、早い。
町内ネットワーク。
昭和にSNSはありませんが、井戸端会議の通信速度はかなり速い。
「うち、すぐ近所なんです」
「何が心配です?」
「車が増えるでしょう。夜もうるさくなるし。知らない人が大勢来るのも嫌だし」
「なるほど」
「私だって訴えられますよね」
私は口を開きました。
そして。
閉じました。
さっきまでなら。
近隣住民。
影響あり。
ならいけるんじゃないか。
そう考えていたかもしれない。
でも。
今日のテーマは、もう見えています。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「何を見る」
「……法律上の利益」
「そうだ」
私は大沢さんに向き直りました。
「近所だから、というだけでは足りない可能性があります」
「何で?」
「その法律が、大沢さんの利益まで個別に守ろうとしているかを見ないといけないからです」
大沢さんは怪訝な顔をしました。
「法律って、みんなを守るものじゃないんですか」
う。
いい質問。
そして。
説明しにくい質問です。
「みんなを守るための法律もあります」
「じゃあ」
「でも、裁判で行政処分を取り消してもらえる人は、もっと絞られることがあります」
「……どう違うの?」
私は少し考えました。
「たとえば」
机の上の広告を指します。
「新しい浴場ができた結果、この町全体の交通量が増える。それを嫌だと思う人は大勢います」
「そうよ」
「でも、その不利益が法律上、個人一人ひとりの利益として守られているのか。それとも町全体の環境みたいな一般的な利益としてしか守られていないのか」
「一般的だと駄目なの?」
「取消訴訟では、原告適格が認められないことがあります」
大沢さんは納得できない顔をしました。
「でも迷惑なのは同じでしょう」
「はい」
「だったら裁判できてもいいじゃない」
私は何も言えませんでした。
気持ちは分かる。
ものすごく分かる。
でも。
片桐所長が静かに言いました。
「裁判は、不満の投票所ではありません」
大沢さんが所長を見る。
「行政処分を誰でも争えることにすると、行政の判断はいつまでも確定しない」
「だから?」
「だから法律は、取消しを求められる人を限定している」
「……それが原告適格?」
「そうです」
私は頷きました。
「処分によって、自分の権利や、法律によって個別に守られた利益を侵害されるおそれがある人」
「私は?」
「今聞いた事情だけでは、まだ分かりません」
相馬先輩が横から言います。
「少なくとも、小野寺さんと同じ理屈では無理だ」
「どうして?」
「小野寺さんは、既存の公衆浴場経営者だからだ」
「私だって住民です」
「そこが違う」
相馬先輩は乱暴ですが、こういうとき話をぼかしません。
「公衆浴場法の配置規制は、衛生や住民の利便だけじゃなく、既存浴場が乱立で共倒れするのを防ぐ趣旨もある」
「共倒れ?」
「風呂屋が増えすぎて、どこも儲からなくなる。設備に金をかけられなくなる。結果、衛生状態まで悪くなる。そういうのを防ぐ」
「それで?」
「だから既存業者の営業上の利益は、法が守ってる利益だと考えられる」
私は頷きました。
「小野寺さんの場合、その許可によって直接競争関係に入る。しかも、その利益を法律が保護している可能性が高い」
「私の静かな暮らしは?」
「大切です」
私は答えました。
「でも、大切かどうかと、取消訴訟で原告適格があるかどうかは別なんです」
言いながら。
嫌な制度だなと思いました。
でも。
それが法律です。
人として大事な利益。
社会的に大事な利益。
法的に保護された利益。
全部が同じではない。
そこを混ぜると、裁判の入口で転ぶ。
「じゃあ私は何もできないの?」
大沢さんの声が少し弱くなりました。
「いえ」
片桐所長が言いました。
「訴訟以外の方法はある」
「例えば」
「生活環境上の懸念について、事業者や行政に申し入れる。営業時間や駐車場の運用について確認する。自治会で要望を出す」
私はそこで、ほっとしました。
原告適格がない。
だから黙れ。
ではない。
裁判の入口が閉じているからといって、社会の入口まで全部閉じるわけじゃない。
「大沢さん」
私は言いました。
「訴えられないかもしれないことと、困っていると言えないことは別です」
大沢さんは少しだけ表情を緩めました。
「……ややこしいわね」
「はい」
「法律ってもっと、正しいか間違ってるかだけだと思ってた」
「私もです」
相馬先輩が横から言います。
「お前は今でもたまにそうだろ」
「否定できません」
翌日。
小野寺さんの件について、
私たちは弁護士へ引き継ぐための資料を整えました。
新設浴場の営業許可。
既存の松の湯の営業許可関係。
二つの浴場の位置関係。
条例上の配置基準。
例外許可の根拠。
周辺人口。
住宅開発の範囲。
既存浴場への影響。
そして。
なぜ小野寺さんが、
新規業者への許可処分の相手方ではないのに、
その取消しを求める法律上の利益を持つのか。
「ここです」
私はメモを指しました。
「第三者の原告適格」
「うん」
「処分の名宛人じゃない」
「うん」
「でも、処分によって自己の法律上保護された利益を害されるおそれがある」
「うん」
「公衆浴場法は、国民保健や環境衛生だけじゃなく、既存浴場の経営の不合理化を防ぐ趣旨もある」
「それで」
「小野寺さんの営業上の利益は、単なる反射的利益ではなく、法によって保護された利益と考えられる」
「そこまで書け」
片桐所長が言いました。
「はい」
私はペンを走らせます。
そして。
ふと別のことを思いました。
「所長」
「何だ」
「もしこれが、ただ『銭湯が増えると町の景観が嫌だ』っていうだけなら?」
「その利益を法が個別に保護しているかを見る」
「『客として、昔の松の湯を残してほしい』なら?」
「同じだ」
「『あっちの銭湯は嫌いだから許可を取り消してほしい』なら?」
「論外だ」
「ですよね」
つまり。
人間の感情では、
関係者。
近所の人。
利用者。
競争相手。
全部まとめて、
この処分で困る人。
に見える。
でも。
行政訴訟では、そこに一本線を引く。
その不利益は、
法律があなた個人のものとして守っていますか。
それとも。
社会全体の利益が守られた結果、
あなたもたまたま恩恵を受けているだけですか。
その線。
怖い。
かなり怖い。
私はメモを見ながら呟きました。
「主婦連ジュース事件みたいですね」
「何だそれ」
相馬先輩が聞きました。
「商品表示の事件です。消費者団体が――」
そこまで言って。
私は口を閉じました。
「どうした」
「いや」
今は昭和六十三年。
主婦連ジュース事件は昭和五十三年。
これは知っていても大丈夫。
未来じゃない。
珍しく時代事故を起こしませんでした。
「消費者にとって正しい表示は大事だけど、その法律が守ってるのが一般的な消費者全体の公益なら、個々の消費者に原告適格は認められない」
「ああ」
「でも公衆浴場では、既存業者の利益まで守る趣旨がある」
「だから小野寺さんは違う」
「はい」
同じ第三者でも。
違う。
影響を受ける。
だけでは足りない。
法律がその影響を、
あなた自身の利益として拾っているか。
そこまで見なければならない。
「難しいですね」
「だから入口なんだ」
相馬先輩が言いました。
「中身より先に、そこを固めろ」
三日後。
私たちは市役所へ行きました。
今回の許可権者は県なので、
本来なら市役所は処分庁ではありません。
でも。
新設浴場予定地は、駅前再整備区域の外縁にあたり、市も道路や周辺整備について情報を持っている。
そして何より。
総務課には。
「また来ましたか」
沢渡課長がいます。
「その言い方やめません?」
「事実です」
「今日は県の許可案件です」
「では県へどうぞ」
「早い」
相馬先輩が地図を机に置きました。
「道路整備計画だけ確認したい」
沢渡課長は地図を見る。
「湖西健康浴場ですか」
「知ってる?」
「当然です」
「周辺交通量、増えるだろ」
「ある程度は」
「市として協議した?」
「道路管理上の協議はしています」
私は聞きました。
「課長。近隣住民から反対が出たらどうします?」
「内容によります」
「『裁判する』って言われたら?」
「どうぞご自由に」
出た。
この人の必殺技。
どうぞご自由に。
行政法版、
やれるもんならやってみろ。
「ただし」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「取消訴訟なら、まず原告適格がありますかね」
やっぱり。
来た。
私は少しむっとしました。
「近隣住民だって実際に影響を受けます」
「実際に影響を受けることと、法律上の利益を有することは同じではありません」
「分かってます」
「なら結構です」
むかつく。
正しいから余計にむかつく。
「小野寺さんなら?」
私は聞きました。
一瞬。
沢渡課長の目が地図へ落ちました。
「松の湯の」
「はい」
「既存営業者ですね」
「そうです」
「それなら話は別でしょう」
「別?」
「公衆浴場法の配置規制の趣旨からすれば、既存業者の営業上の利益が法的に保護されているという議論は成り立つ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「よく知ってるじゃねえか」
「行政訴訟をちらつかせる人は多いので」
「嫌な勉強動機だな」
「必要な知識です」
私は少し身を乗り出しました。
「じゃあ、小野寺さんには原告適格がある可能性が高い」
「私は裁判所ではありません」
「逃げましたね」
「適切な回答です」
沢渡課長は地図を畳みます。
「ただ」
声がほんの少し変わりました。
「既存浴場との距離基準について例外許可を使っているなら、県側も相応の理由は用意しているでしょう」
「そこを争う」
相馬先輩が言います。
「原告適格を越えたあとにな」
「そうです」
私はその会話を聞いていて。
ようやく実感しました。
原告適格。
これは、
勝てるか負けるか。
の話ではない。
その前。
試合をさせてもらえるか。
の話です。
裁判所に、
許可は違法です。
と言う前に。
あなたがその許可を争う資格はありますか。
と聞かれる。
そこで、
私は近所だから。
私は利用者だから。
私は気に入らないから。
では足りない。
法令が、
あなたのその利益を守っています。
そこまで言わないと。
扉が開かない。
「嫌な制度ですね」
思わず口から出ました。
沢渡課長が私を見ます。
「そうですか」
「だって、本当に困ってる人でも、原告適格がなければ中身を見てもらえない」
「だからこそ、誰のどんな利益を法が保護しているのかを丁寧に見る必要がある」
「……課長が先生みたいなこと言わないでください」
「事実を言っただけです」
やっぱり嫌な人です。
でも。
また正しい。
さらに数日後。
提携先の弁護士へ資料を引き継ぐ日。
小野寺さんも事務所に来ました。
「で」
机に身を乗り出します。
「裁判できるのか」
片桐所長が答えました。
「原告適格については、十分主張できる」
「勝てる?」
「それは別です」
「何だよ!」
「許可そのものが違法かどうかは、これから見る」
「じゃあ何が分かったんだ」
小野寺さんは不満そうでした。
私は少し考えてから言いました。
「小野寺さん」
「何だ」
「裁判所に『あなたには関係ないから帰ってください』と言われる可能性を、かなり減らせたんです」
「……は?」
「新しい浴場への許可は、小野寺さんに対する処分じゃありません」
「そうだな」
「普通なら、他人に出た許可です」
「うん」
「でも、小野寺さんは既存の浴場経営者で、その営業上の利益は、公衆浴場法が守ろうとしている利益に含まれる」
「うん」
「だから、第三者でも争える」
小野寺さんは少し黙りました。
「それって」
「はい」
「結構、大きいのか?」
「大きいです」
相馬先輩が答えました。
「裁判はな」
煙草を灰皿へ押しつける。
「中身に入ってもらえなきゃ、一文字も勝負にならん」
小野寺さんは腕を組みました。
「俺はてっきり、向こうの許可がおかしいって証明すりゃいいと思ってた」
「その前があります」
私は言いました。
「誰が言ってるのか」
役所が違法な許可をした。
だから取消し。
そんな単純なゲームではない。
処分性。
原告適格。
訴えの利益。
出訴期間。
被告適格。
管轄。
入口だけで、壁が何枚もあります。
そして昭和六十三年。
今よりさらに行政訴訟の入口は狭い。
私はふと、出訴期間のことを思い出しました。
「そういえば」
「何だ」
相馬先輩がこちらを見る。
「許可を知った日、いつでしたっけ」
「三週間前だ」
小野寺さんが答えます。
「まだ大丈夫ですね」
私は反射的に言いました。
「六か月――」
相馬先輩の顔が止まりました。
片桐所長もこちらを見る。
しまった。
やった。
未来人。
またやった。
「……じゃなくて」
「何か言ったか」
「何も」
「六?」
「数字の発声練習です」
「嘘つけ」
私は背中に冷たい汗をかきました。
昭和六十三年。
取消訴訟の出訴期間。
三か月。
三か月です。
現代なら原則六か月。
でも今は三か月。
半分。
時間まで厳しい。
「三週間なら、まだ時間はあります」
私は言い直しました。
「ただ、のんびりはできません」
「三か月だ」
相馬先輩がわざと強調しました。
「はい」
「三」
「はい」
「六じゃなく?」
「三です!」
小野寺さんが不思議そうに私たちを見ます。
「何の話だ」
「こちらの事情です」
転生事情です。
説明できません。
所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「昔の法律を未来の感覚で扱うな」
「……はい」
たぶん。
この時代に来てから何度目かの教訓です。
法律は、
知っている。
だけでは危ない。
いつの法律を知っているのか。
誰が争えるのか。
どの期限で動くのか。
そこまで合って、初めて使える。
その日の夕方。
小野寺さんが帰ったあと。
私は事務所の窓を開けました。
遠くから。
銭湯の煙突が見えます。
松の湯。
その向こう。
まだ工事中の新しい浴場。
どちらも町の風景です。
私は机の上のメモを見ました。
原告適格。
法律上の利益を有する者。
処分により、
自己の権利または法律上保護された利益を侵害され、
または侵害されるおそれのある者。
受験テキストでは、一行です。
太字になっているだけ。
でも。
今日一日で、
その一行の中に、
小野寺さんが入り。
大沢さんが入口で止まり。
公衆浴場法が二人の間に線を引きました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「何ぼーっとしてる」
「考えてました」
「珍しいな」
「失礼ですね」
「何を」
「法律上の利益って、冷たい言葉だなって」
「法律用語なんざだいたい冷たい」
「でも」
私は窓の外を見ました。
「冷たいから、線が引けるんですね」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、こちらを見ます。
「何だそれ」
「困ってるかどうかだけで決めたら、誰まで訴えられるか分からないじゃないですか」
「まあな」
「だから、法が誰のどんな利益を守ってるかで決める」
「そうだ」
「冷たいけど」
私は言いました。
「その線の内側に入った人には、ちゃんと第三者でも扉を開ける」
相馬先輩は少しだけ笑いました。
「今日はまともだな」
「今日も、です」
「昨日はどうした」
「昨日もまともです」
「未来の法律で仕事しかけてた奴が?」
「それは制度ギャップです」
「ただの間違いだ」
「言い方」
奥で片桐所長が書類を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は」
来ました。
所長の突然の口頭試問。
私は少し考えます。
「近所だからでも」
「うん」
「困っているからでも」
「うん」
「その処分が嫌いだからでもない」
「それで」
「取消訴訟の入口を開けるのは、その人の利益を法律が個別に守っているかどうか」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの端に書きました。
――「影響を受ける人」では足りない。「法律がその人を守っている」と言えて、初めて裁判所の扉が開く。
「長いな」
相馬先輩が覗き込みます。
「じゃあ短くします」
その下にもう一行。
――怒りではなく、法律上の利益が入場券。
「お」
「どうです?」
「ちょっと上手いこと言ったと思ってるだろ」
「思ってます」
「腹立つな」
「原告適格あります?」
「何の」
「私の発言を取り消す訴訟」
「ねえよ」
「反射的利益ですか」
「ただの不利益だ」
私は笑いました。
すると。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『小野寺だ!』
さっき帰ったばかりです。
「どうしました?」
『一個聞くの忘れた!』
「何です?」
『新しい風呂屋の許可を取り消したら、向こうの社長は俺を訴えるのか!?』
私は受話器を持ったまま固まりました。
「先輩」
「何だ」
「次の論点が歩いてきました」
「今日は帰れ」
「ですよね」
『おい、聞いてるか!』
「聞いてます!」
窓の外では。
松の湯の煙突から、白い煙がゆっくり上がっていました。
法律は冷たい。
入口では、
あなたは誰ですか。
何を守られていますか。
そこまで聞いてくる。
でも。
その厳しさがあるからこそ。
処分の名宛人ではない一人の銭湯主にも、
「他人への許可だから関係ない」
ではなく、
法があなたの利益まで守っているなら、話を聞きましょう。
という道が残る。
第三者でも。
法律上の利益があるなら。
裁判所の扉を叩ける。
それが今日、
私の中で初めて、
原告適格という眠たい四文字に血が通った瞬間でした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




