[取消訴訟の処分性]法理編 こはるノート
夕方の事務所は、昼間より紙の音がよく聞こえます。
電話が鳴らない。
来客もない。
相馬先輩が帳簿をめくる音と、片桐所長が万年筆を走らせる音。
そして。
私の机の上には、昨日まで私をさんざん悩ませた二枚の紙。
一枚目。
――駅東地区市街地整備基本計画について。
二枚目。
――市道拡幅予定区域内建物に関する通知。
私は二枚を左右に並べました。
「……見た目、ほとんど同じなんですけどね」
「何がだ」
相馬先輩が顔も上げずに言いました。
「役所の紙です」
「雑すぎる分類だな」
「でも相談者からしたら、そうですよ」
市の名前。
公印。
固い文章。
読んでもよく分からない。
なのに妙に怖い。
役所から届く文書というだけで、こちらの生活を決められた気分になる。
瀬川さんもそうでした。
駅東地区の再整備基本計画。
地図には、自分の店の場所が道路予定地として塗られている。
さらに個別通知には、
――新築、増築その他事業遂行に支障となる行為については認めない。
そう書いてあった。
普通に読めば。
はい。
もう何もできません。
と言われたように見えます。
でも。
市役所で確認すると。
基本計画そのものから、直ちに瀬川さんの建物使用や営業に法的制限が生じるわけではない。
個別通知も、市の説明では法的な禁止処分ではなく協力要請。
そこで片桐所長は言いました。
――処分でないなら、処分のように書くな。
あれは効きました。
市は通知をいったん撤回。
法的拘束力がないことを明記して出し直すことになった。
裁判はしていません。
でも。
取消訴訟を考えるための入口を詰めたことで、
役所の側が曖昧な文書を直した。
私はノートを開きます。
一番上に書きました。
――取消訴訟の処分性。
「先輩」
「何だ」
「今日は逃げません」
「何からだ」
「処分性から」
「昨日も逃げてねえだろ」
「途中で『もう全部役所の行為でいいじゃん』って気持ちになりました」
「それを逃げるっていうんだよ」
ですよね。
私は一行目を書きます。
取消訴訟の対象。
行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為。
「まず、ここですよね」
「ああ」
「行政庁がやったこと全部じゃない」
「当然だ」
「でも『行政庁の処分』って言葉だけだと、ちょっと分かりにくい」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「何が分かりにくい」
「処分って日常語だと、捨てるとか片付けるとか」
「行政法でゴミの話をするな」
「違います!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ、お前ならどう覚える」
私は少し考えます。
「役所が、公権力として一方的に、特定の人の法的な立場を動かす行為」
「雑だが方向はいい」
「ですよね」
私はノートに書きました。
処分性の基本イメージ。
一つ。
公権力の行使であること。
二つ。
個別具体的に、国民の権利義務や法的地位に直接影響すること。
「昨日の瀬川さんの件で、一つ目からいきます」
「言ってみろ」
「公権力」
「うん」
「つまり、私人同士の契約みたいに対等な立場で合意するんじゃなくて、行政が優越的な立場で一方的に行う」
「そうだ」
許可する。
許可しない。
営業停止を命じる。
税を賦課する。
建築を禁止する。
そういう行政の権力的作用。
普通の民間会社が、
「あなたの店は明日から営業禁止です」
と言っても。
はいそうですか。
とはなりません。
でも法令に基づいて権限を持つ行政庁なら、
その一言で法的地位が動くことがある。
「次が個別具体性」
「ここが昨日の本丸だな」
「はい」
私は基本計画の紙を指しました。
「駅東地区市街地整備基本計画」
「うん」
「この時点では、地区全体について将来こう整備しますよ、という方針でした」
「そうだな」
「瀬川さんの店も区域には入ってる。でも、それだけで直ちに営業禁止でもなければ、所有権を失うわけでもない」
「うん」
「だから」
私は書きます。
一般的・抽象的な方針にとどまり、
特定の人の権利義務を直接変えないなら、
原則として取消訴訟の対象となる処分とは言いにくい。
「ここで大事なの」
私はペンで丸をつけます。
「『困るかどうか』じゃないんですよね」
「そうだ」
「瀬川さんは十分困ってた」
「十分どころか、怒鳴り込んできただろ」
「でも、その心理的・事実上の不利益と、法的地位が直接変わることは別」
「そこを混ぜると危ない」
そう。
処分性。
この言葉の冷たさは、そこにあります。
生活が不安になった。
土地の値段に影響するかもしれない。
店の将来が見えない。
客に説明できない。
それは本当です。
でも。
取消訴訟が問題にするのは、
行政の行為によって、
法的に、
今、
その人の立場が変わったのか。
そこです。
「じゃあ」
私は個別通知を指します。
「こっちは?」
――本通知後、新築、増築その他事業遂行に支障となる行為については認めない。
相馬先輩が言いました。
「文面だけ見れば、かなり命令っぽいな」
「ですよね」
「だが市は?」
「法的拘束力のない協力要請だと説明した」
「拒否したら?」
「直ちに制裁なし」
「建築確認は?」
「別の法令に基づいて判断。この通知だけを理由に拒否することはない」
「土地を売るのは?」
「自由」
「営業は?」
「続けられる」
「なら」
「少なくとも、市の説明どおりなら、この通知自体が直接法的効果を生むとは言いにくい」
「そういうことだ」
私は一度、天井を見ました。
「名前じゃ分からない」
「何が」
「通知って書いてあっても、処分性がある場合はある」
「ある」
「計画って書いてあっても、処分性がある場合がある」
「ある」
「勧告って書いてあっても?」
「場合による」
「条例でも?」
「場合による」
「もう名称欄いらなくないですか」
「いる」
「ですよね」
行政法は、
名前で覚えると裏切られます。
通知。
勧告。
計画。
告示。
条例。
どれも、
名前だけで処分性あり・なしを決められない。
見るのは実質。
その行為によって、
誰の、
どんな法的地位が、
どの時点で、
どう動くのか。
「これ、判例が多い理由分かりました」
私が言うと、片桐所長がこちらを見ました。
「なぜだ」
「一律に『計画は処分性なし』とか、『通知は処分性あり』って切れないから」
「そうだ」
「一つ一つ、制度の仕組みと効果を見る」
「そこだ」
私はノートに大きく書きます。
――名称ではなく、法的効果を見る。
「じゃあ判例整理いきます」
「始まったな」
相馬先輩が嫌そうな顔をします。
「受験生向けには大事なんです!」
「俺は受験しねえ」
「所長」
「付き合え」
「またかよ」
強い。
所長命令は相変わらず迅速です。
私は最初の見出しを書きました。
処分性あり。
まず。
輸入禁止品に該当する旨の通知。
「これは昭和五十四年です」
「今から見ても過去だな」
「はい。だから未来知識じゃありません」
「安心したか」
「かなり」
税関長が、
あなたが輸入しようとしている物は輸入禁制品に該当しますよ、
と通知する。
一見。
通知。
ただのお知らせっぽい。
でも。
その通知がされると、
輸入しようとしている本人は適法に輸入できなくなる。
「つまり」
私は言いました。
「通知って名前でも、実際に法的地位を変える」
「だから処分性あり」
「はい」
私はノートに書きます。
通知でも、
それによって具体的に権利義務へ直接影響するなら処分性あり。
「昨日の瀬川さんの通知との違い、分かりやすいですね」
「言ってみろ」
「税関の通知は、それ自体で輸入できなくなるという法的効果につながる」
「うん」
「瀬川さんの通知は、市の説明ではそれ自体で建築禁止などの法的効果を生じさせない」
「そうだ」
同じ通知。
でも。
片方は処分。
片方は処分ではない可能性が高い。
これです。
名前じゃない。
効き目を見る。
次。
通達。
墓地・埋葬に関する通達。
「これは処分性なし」
「なぜだ」
「行政組織の内部命令だから」
上級行政機関が、
下級行政機関や職員に対して、
こういう扱いをしなさい。
と指揮する。
それが通達。
「一般の国民に直接命令してるわけじゃない」
「そうだ」
「行政機関内部では拘束力があっても、国民の権利義務を直接変えるものではない」
「だから取消訴訟の対象にはならない」
「はい」
私は書きます。
行政内部で完結。
国民に直接法的効果なし。
処分性なし。
「市役所の課長が部下に、『今後この申請はこう扱え』って通知しても」
「普通は住民がその通達自体を取り消せとは言えねえ」
「住民への不許可処分が出たら、その不許可処分を争う」
「基本はそういうことだ」
なるほど。
ここでも。
争う対象を間違えるな。
が出てきます。
次。
工業地域指定。
昭和五十七年。
「これは今の時代でも判例があります」
「言ってみろ」
「工業地域に指定されると、その地域全体に都市計画上の効果が出る」
「うん」
「でもその効果は、不特定多数に対する一般的抽象的なもの」
「うん」
「だから、その指定だけで直ちに特定個人への具体的権利侵害が生じたとはいえない」
「処分性なし」
「はい」
昨日の駅東地区基本計画にかなり近い感じです。
地域全体に対する一般的な定め。
もちろん。
住民からすれば重大です。
住環境が変わる。
土地利用が変わる。
将来の建築にも影響するかもしれない。
でも。
この時代の判例は、
その段階で個別具体的な処分とは見ない。
「……ここ」
私はペンを止めました。
「未来だと、ちょっと景色変わるんですよね」
「また未来か」
「はい」
私は声を少し落としました。
私の頭の中には、
平成の判例があります。
第二種市街地再開発事業計画。
土地区画整理事業計画。
昔なら、
まだ計画段階でしょ。
後で具体的処分が出てから争えばいいでしょ。
と言われそうなものに。
後の最高裁は、
計画決定や公告の段階で生じる法的効果や、
実効的な権利救済の必要性を重く見て、
処分性を認めていく。
「でも昭和六十三年の私たちは」
私は言いました。
「まだその未来の判例を使えない」
「当たり前だ」
「ここ、転生者にはきついですね」
「未来の判例を裁判所に持っていったらどうなる」
「予言者扱いされます」
「裁判以前の問題だな」
まったくです。
でも。
この新旧の違い。
かなり大事です。
行政訴訟の歴史を見れば。
処分性は、
ずっと同じ場所に固定されていたわけじゃない。
社会や制度が複雑になるにつれ、
行政の「計画」「勧告」「告示」などが、
実際には国民の生活を強く縛るようになってきた。
そこで裁判所も、
形式だけでなく実質を見る方向へ動いていく。
「所長」
「何だ」
「これって」
「うん」
「昔は、処分性を狭く取りすぎると、国民が実際に困ってても裁判の入口に立てなかったってことですよね」
「そういう場面はある」
「具体的な処分が出るまで待て、と」
「うん」
「でも待ってたら、事業がかなり進んでる」
「あるな」
「後で取消せても、元に戻すのが難しい」
「だから争点になる」
私は大きく丸をつけます。
――実効的な権利救済。
これは未来の処分性判例を見るうえで重要な感覚です。
法的効果がもう生じている。
しかも後で争ったのでは遅い。
なら。
その段階で抗告訴訟の対象として認める必要がある。
そういう発想。
「つまり処分性って」
私は言いました。
「単なる形式論じゃないんですね」
「どういう意味だ」
「どの時点で裁判を許すのが、一番ちゃんと権利救済になるかって話でもある」
「そうだ」
おお。
今ちょっと分かった気がします。
処分性あり・なし。
受験では〇×。
でも。
その裏では。
早すぎる訴訟をどこまで止めるか。
遅すぎる救済をどう防ぐか。
その境界線を裁判所が引いている。
次。
二項道路の一括指定。
「これも未来判例です」
「じゃあ今は使えねえな」
「はい。ただノートには書きます」
「未来ノートか」
「受験生ノートです」
建築基準法上の二項道路の指定。
しかも一筆一筆ではなく、
一定区域について一括指定する形。
一見すると、
一般的な告示。
だから処分性なしにも見える。
でも。
指定された道路に面する土地所有者には、
建築制限など具体的な私権制限が生じる。
「つまり」
「一般的な形式でも」
「個々の土地に具体的な法的効果が発生するなら」
「処分性あり」
「その通り」
私は書きます。
外形が一般的でも、
特定可能な者の権利義務に直接具体的効果が生じれば処分性あり得る。
「簡易水道の料金改定条例とは反対ですね」
「何だそれ」
「未来の判例です」
「またかよ」
水道料金を一般的に改定する条例。
これは。
限られた特定の者だけに適用されるのではない。
多数の利用者へ一般的に適用される。
だから、
条例制定行為そのものを行政処分とは見ない。
「でも保育所廃止条例は?」
相馬先輩が呆れました。
「どうせ未来だろ」
「はい」
「先に言え」
「特定の保育所を廃止する条例で、現にその保育所で保育を受けている児童や保護者の法的地位が、施行によって直接失われる」
「それなら?」
「処分性ありとされる」
「同じ条例でも違うわけか」
「そうなんです!」
私はちょっと興奮しました。
「だから名称じゃないんです!」
「さっきから十回くらい聞いた」
「大事なので!」
同じ条例制定。
片方は処分性なし。
片方は処分性あり。
違いは。
誰に。
どんな法的効果が。
どの程度直接及ぶのか。
そこです。
私はノートの真ん中に大きく書きました。
――形式より実質。
――一般抽象か、個別具体か。
――直接法的効果があるか。
「次」
相馬先輩が煙草に火をつけました。
「まだあるのか」
「病院開設中止勧告」
「未来」
「未来です」
「今日は未来が多いな」
「処分性判例、後世でかなり動くので」
病院開設中止勧告。
法律上は。
従うことを期待する行政指導。
普通なら。
行政指導だから強制力なし。
処分性なし。
となりそうです。
でも。
勧告に従わなければ、
保険医療機関の指定を受けられなくなる可能性が極めて高い。
日本の医療制度で、
保険医療機関になれない病院を開設する。
現実にはかなり難しい。
「だから」
私は言いました。
「形式上は勧告でも、実際には病院開設断念に追い込むほど強い効果がある」
「それで処分性を認めた」
「はい」
「行政指導なのに?」
「そこが面白いんです」
行政指導。
だから必ず処分性なし。
とは言えない。
実質を見る。
これも同じ。
「でも注意」
私は自分で言いました。
「だから行政指導全部が処分になるわけじゃない」
「当然だ」
「実際上従わざるを得ない、だけでも何でも処分になるわけじゃない」
「制度全体を見ろってことだな」
「はい」
法制度上、
その勧告が次の不利益と密接につながっていて、
現実に重大な効果を持つ。
そういう事情がある。
だから。
処分性を認める。
「食品衛生法の違反通知も近いですね」
「それも未来か」
「未来です」
「もう好きにしろ」
ある食品が食品衛生法違反だと通知される。
その通知が出ると、
輸入許可に必要な手続を進められない。
結果。
輸入できない。
「これも」
「通知という名前でも」
「輸入業者の法的地位に直接大きな効果がある」
「だから処分性あり」
「はい」
私はそこまで書いて。
ペンを止めました。
「一つ分かりました」
「何だ」
「処分性ありの判例って」
「うん」
「裁判所が『名前はともかく、これ実質的にはもう国民の権利を動かしてるよね』って見抜いたケースが多い」
片桐所長が少し頷きました。
「いい見方だ」
「本当ですか」
「ただし」
「はい」
「実質を見るという言葉で雑に逃げるな」
「う」
「どの法令が、どんな効果を結びつけているのか確認しろ」
「はい」
「事実上困る、だけでは足りない場合もある」
「はい」
やっぱり簡単には褒めてくれません。
でもその通りです。
何となく強制的。
何となく重大。
では駄目。
法令。
制度。
効果。
そこを具体的に追う。
次。
処分性なし。
日本鉄道建設公団の実施計画への大臣認可。
「これは昭和五十三年」
「今使えるな」
「はい」
新幹線建設の工事実施計画。
それに対する大臣認可。
一見すると、
大きな行政決定です。
地域住民からしたら、
新幹線の工事が近づく。
重大。
でも。
この認可は、
行政主体内部・相互の監督関係に近い。
それ自体で直接住民の権利義務を形成するものではない。
「だから」
「処分性なし」
「はい」
私は昨日の話に戻します。
「駅東の基本計画も、これに近い感覚がありますね」
「どういう意味だ」
「行政の中で事業を進めるためのステップと、住民の権利を直接動かす処分を分ける」
「そうだ」
「大きな事業だからって、その全部が住民に対する処分になるわけじゃない」
「そこは重要だ」
次。
工業地域指定。
さっきやったので省略。
次。
一般的な条例制定。
これは未来判例ですが、
不特定多数へ一般的に適用されるだけなら、
通常は個別具体的な処分ではない。
「ここで質問です」
私は所長を見ました。
「法律とか条例って、基本的に処分じゃないですよね」
「一般的にはな」
「でも未来では保育所廃止条例に処分性を認める」
「お前は未来の話を俺に確認するな」
「あ、そうでした」
片桐所長は昭和六十三年の人です。
存在しない平成二十一年判例を尋ねるのは無茶です。
「でも理屈としては」
私は自分でまとめます。
条例制定は通常、
一般的・抽象的な法規範を作る行為。
だから個別の行政処分とは別。
でも。
条例の施行だけで、
他の処分を待たず、
特定の者の具体的法的地位が直接失われるような特殊な場合には。
後世の判例では処分性が認められる。
「やっぱり」
私は言いました。
「処分性って、分類問題に見えて救済時期の問題なんですね」
「そこに戻ったか」
「はい」
いつ裁判を許すか。
どの行為を入口にするか。
早すぎても駄目。
遅すぎても駄目。
だから判例が揺れる。
私はページをめくりました。
次の見出し。
――処分性がないと、どうなる?
「これ、結構怖いですよね」
「何がだ」
「取消訴訟を起こして、処分性がないと判断されたら」
「却下だな」
「中身見てもらえない」
「そうだ」
ここ。
重要です。
違法だったか。
裁量権の逸脱・濫用があったか。
手続に瑕疵があったか。
その前。
そもそも取消訴訟の対象か。
処分性なし。
なら。
門前払い。
「棄却との違い」
私は書きました。
却下。
訴訟要件を満たさず、本案判断に入らない。
棄却。
本案を審理したうえで、原告の請求を認めない。
「受験生の頃」
私は言いました。
「却下と棄却、何度も混ざりました」
「字が似てるからか」
「意味が冷たいからです」
「意味は関係ねえ」
でも。
現場で見ると。
全然違います。
棄却なら。
少なくとも裁判所が中身を見た。
違法じゃない。
取消す必要はない。
そう判断した。
却下は。
まだそこまで行っていない。
あなたの訴えは、
この形では裁判所が審理できません。
入口で終わり。
「瀬川さんが」
私は言いました。
「基本計画の取消訴訟を勢いで起こして」
「うん」
「処分性なしで却下されたら」
「金と時間だけかかる」
「しかも本人からしたら、『違法じゃなかったんだ』って誤解するかもしれない」
「あるだろうな」
「実際は違法かどうか以前に終わったのに」
ここ。
行政書士として説明するときも大事です。
訴えが通らなかった。
イコール。
行政が正しかった。
とは限らない。
入口の要件で止まる場合がある。
「だから昨日、所長が」
私は言いました。
「裁判に行く前に整理するって言ったんですね」
「そうだ」
「行政書士は訴訟代理できない」
「ああ」
「でも、相談者が持ってきた文書を整理して」
「うん」
「どれが行政内部の行為で」
「うん」
「どれが一般的計画で」
「うん」
「どれが本人への個別通知で」
「うん」
「どの時点で法的効果が出たのかを時系列にする」
「そういう仕事はできる」
「そして弁護士に渡す」
「必要ならな」
私はファイルを開きました。
瀬川啓三氏。
基本計画。
個別通知。
担当課の口頭説明。
通知撤回。
修正文書。
今後の事業予定。
全部分けてあります。
昨日。
仕切りを逆に入れて怒られたので。
今日は完璧です。
「先輩」
「何だ」
「こういう整理、地味ですけど」
「うん」
「処分性の判断にはかなり大事ですね」
「裁判は紙で戦うからな」
「行政書士も紙で戦いますし」
「お前は昨日紙を逆に入れてたけどな」
「忘れてください!」
次の見出し。
――昭和六十三年と現代の違い。
私は少し姿勢を正しました。
「ここから危険地帯です」
「お前だけだろ」
「未来知識がある人間には危険なんです!」
取消訴訟。
現代。
出訴期間。
処分又は裁決があったことを知った日から六か月。
ただし正当な理由がある場合など別論。
一方。
昭和六十三年当時。
三か月。
「昨日、私完全に六か月で考えかけました」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「『半年あるじゃん』って顔だった」
「顔で期間判定しないでください」
でも。
これ、本当に危険です。
処分性がある。
よし裁判できる。
そこで安心してはいけない。
いつ知ったか。
いつ処分があったか。
期間はいつまでか。
昭和なら三か月。
「処分性を見極めるのに一か月」
「うん」
「相談者が悩んで一か月」
「うん」
「弁護士探して一か月」
「終わるな」
「怖っ」
だから。
入口要件は早く整理する。
これが行政書士の役割として重要になる。
「次」
私は書きます。
被告。
「現代なら」
国または公共団体。
「市の処分なら、原則として市を被告にする」
「で、この時代は?」
「処分庁」
「具体的には」
「市長が処分したなら、市長」
「そうだ」
私は二重線。
昭和六十三年。
被告適格。
処分をした行政庁。
現代。
国または公共団体。
「これも転生者殺し」
「何でも殺されるな、お前」
「制度改正が多いんですよ!」
訴状の被告を間違える。
想像するだけで胃が痛い。
しかも。
現代知識があるほど、
〇〇市。
と書きたくなる。
昭和六十三年なら。
そこも要注意。
「次」
私は少し嫌な顔で書きます。
義務付け訴訟。
差止訴訟。
「未来の便利装備」
「何だそれ」
「現代では法定されています」
「今は?」
「法定されてません」
「じゃあ使うな」
「分かってます!」
現代なら。
行政庁が一定の処分をすべきなのにしない。
義務付け。
違法な処分がされようとしている。
差止め。
それぞれ法定の抗告訴訟として整備されている。
でも。
昭和六十三年。
そんな法定類型はない。
理論上。
無名抗告訴訟として議論される余地はあっても。
ハードルは非常に高い。
「瀬川さんが」
私は言いました。
「まだ具体的処分はないけど、将来の立退き処分を止めたい、って言っても」
「簡単じゃないな」
「現代みたいに『差止訴訟があります』とは言えない」
「そういうことだ」
「義務付けもない」
「ないものはない」
「昭和、厳しい」
しかも。
仮の救済。
現代なら、
仮の義務付け。
仮の差止め。
そういう仕組みもある。
でも昭和六十三年は。
基本的に執行停止。
すでに出た処分の効力や執行を止める。
そこが中心。
「つまり」
私は言いました。
「昔の行政訴訟って」
「うん」
「まだ具体的処分が出てない段階では動きにくい」
「そうだな」
「出たら出たで、三か月」
「そうだ」
「しかも処分性を外したら却下」
「そうだ」
「被告も処分庁」
「そうだ」
「かなり国民側きつくないですか」
「だから裁判なんて負け戦だって言ってる」
「重みが増しました」
本当に。
現代法の制度を当然と思っていると。
昭和の壁の高さに驚きます。
昔の行政裁判。
国民にとって使い勝手が悪かった。
救済の入口が狭い。
早い段階で行政を止めにくい。
期間も短い。
訴訟類型も少ない。
だからこそ。
後の改正で。
権利救済を実効的にするための仕組みが拡充されていく。
「所長」
「何だ」
「今の制度って」
「うん」
「昔の不便さの答えなんですね」
「どういう意味だ」
「差止めや義務付けが法定されたのも」
「うん」
「出訴期間が三か月から六か月になったのも」
「うん」
「被告を行政庁じゃなく国や公共団体にしたのも」
「うん」
「国民が入口で転ばないようにする方向の改正」
片桐所長は少しだけ黙りました。
「制度は、困った事例の積み重ねで変わる」
「……はい」
「ただし」
「はい」
「お前は未来を知っていても、今の制度を飛び越えるな」
「はい」
「現場で使えるのは、今ある法律だけだ」
私は頷きました。
未来の正解。
今の正解。
同じではありません。
それが転生者には一番怖い。
受験勉強では、
現行法だけ覚えていればいい。
でもここでは。
私は頭の中で、
未来の六か月を消して。
三か月。
と書かなければいけない。
未来の「市を被告」を消して。
処分庁。
と書かなければいけない。
未来の差止め。
義務付け。
仮の義務付け。
仮の差止め。
全部いったん引き出しにしまう。
昭和六十三年には、
まだ使えない。
「次」
相馬先輩が言いました。
「何だ?」
「さっきから俺が試験受けさせられてる気分なんだけどよ」
「まだ終わってません」
「長えな」
「処分性は判例単元なので!」
「じゃあ最後にまとめろ」
「はい」
私はノートの最後のページを開きました。
取消訴訟の処分性。
一。
行政庁の行為なら何でも取消訴訟の対象になるわけではない。
二。
基本は、公権力の行使であること。
三。
特定の人の権利義務・法的地位に、直接、具体的な法的効果を及ぼすこと。
四。
通知、計画、勧告、告示、条例など、名称だけで判断しない。
五。
一般的・抽象的な作用や、行政内部の行為は、原則として処分性が否定されやすい。
六。
ただし後世の判例では、形式上は計画・勧告・条例等でも、具体的な法的効果や実効的権利救済の必要性から処分性を認める例がある。
七。
処分性がなければ、本案に入らず却下。
「長い」
「判例単元ですから」
「一行で書け」
「無茶言いますね」
私は少し考えました。
昨日の瀬川さん。
基本計画。
個別通知。
市の説明。
屋根の雨漏り。
将来の道路。
まだ起きていない処分。
そして。
裁判所の入口。
私は書きました。
――役所が何と呼んだかではなく、その行為で「この人の法的地位が今動いたか」を見る。
「どうです?」
相馬先輩がノートを覗きます。
「まあいい」
「褒めました?」
「気のせいだ」
「またそれ」
でも。
もう一行、書きたくなりました。
私はその下に小さく付け足します。
――処分性は、裁判所が中身を見る前に問う「入口の鍵」。
片桐所長がそれを見ました。
「鍵か」
「はい」
「開かなければ?」
「違法かどうか以前に、裁判所の中へ入れない」
「そうだ」
「だから最初に確かめる」
「そうだ」
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
私が取ります。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『瀬川です』
「あ、瀬川さん」
『屋根、直りました』
「早い!」
『昨日、板金屋が来てくれてね』
「雨漏りは?」
『もう大丈夫です』
「よかった」
『それで』
「はい」
『市役所の人も来ました』
「説明ですか」
『ええ』
瀬川さんの声は落ち着いていました。
市の職員が。
基本計画の段階では退去義務はないこと。
今回の通知は法的な禁止命令ではなかったこと。
今後具体的な事業手続へ進む場合には、
改めて正式な説明と手続をすること。
そう説明したらしい。
『道路の話がなくなったわけじゃないですけどね』
「はい」
『でも』
「はい」
『少なくとも、明日店を畳めって話じゃないって分かりました』
私は少しだけ笑いました。
「それは大きいです」
『ええ』
「何か正式な書類が来たら」
『すぐ持っていきます』
「お願いします」
『三か月なんでしょう?』
「え?」
『相馬さんが言ってましたよ。裁判するなら三か月しかないことがあるから、紙が来たら寝かせるなって』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は知らん顔で帳簿を書いています。
「そうですね」
私は言いました。
「今の時代は特に、早めに持ってきてください」
『分かりました』
電話が切れました。
受話器を置きます。
「先輩」
「何だ」
「瀬川さんに三か月の話したんですね」
「ああ」
「ちゃんと面倒見いいじゃないですか」
「裁判なんて負け戦だ」
「はいはい」
「だがやるなら」
「要件を揃えろ、でしょう」
先輩が少し笑いました。
私は窓の外を見ました。
もう暗くなっています。
駅東の商店街では。
瀬川金物店の屋根も直ったころでしょう。
道路計画は残っています。
将来。
本当に事業が進めば。
別の処分が出るかもしれない。
そのとき。
また怖い紙が来るかもしれない。
でも今度は。
瀬川さんも知っています。
役所の紙だから、
全部同じではない。
お願いなのか。
方針なのか。
内部の決定なのか。
それとも。
自分の権利義務を本当に動かす処分なのか。
まずそこを見る。
法律の言葉は。
相変わらず冷たいです。
処分性。
訴訟要件。
却下。
法的効果。
個別具体性。
どれも。
雨漏りしている屋根を直接直してくれる言葉ではありません。
でも。
冷たい言葉で線を引くからこそ。
行政が、
ただのお願いを命令のように見せることも。
逆に、
重大な法的効果を「これはただの通知です」と軽く扱うことも。
見逃さずに済む。
何をされたのか。
その行為にどんな力があるのか。
その人の法的地位は、本当に動いたのか。
そこを一つずつ確かめる。
それが、
取消訴訟の入口です。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「帰るぞ」
「待ってください」
「何だよ」
私は机の上の二枚の紙を持ち上げました。
「所長から、基本計画と個別通知は分けて保存しろって」
「じゃあ分けろ」
「先輩、こっちどっちでしたっけ」
「お前今日何時間勉強したんだ」
「いや、表紙が似てて」
「貸せ」
先輩が一枚取ります。
「こっちが基本計画」
「はい」
「こっちが個別通知」
「はい」
「違いは?」
「一枚は一般的な計画」
「うん」
「一枚は瀬川さん個人宛て」
「うん」
「ただし個人宛てだから必ず処分性ありではない」
「そうだ」
「法的効果を見る」
「そうだ」
「完璧」
「じゃあしまえ」
私は自信満々にファイルへ入れました。
片桐所長がこちらを見ます。
「こはる」
「はい」
「逆だ」
「え?」
見る。
仕切り。
昨日と同じ。
「……」
「……」
「これは」
私はゆっくり言いました。
「反復継続的な事務処理上の瑕疵です」
「ただの不注意だ」
「取消訴訟できます?」
相馬先輩が即答しました。
「処分性なし」
「異議があります!」
「訴え却下」
「まだ訴えてません!」
片桐所長がため息をつきました。
「やり直せ」
「それ、法的効果あります?」
「給料に影響させてもいい」
「直ちに是正します!」
個別具体的。
直接的。
しかも不利益。
これはかなり危ない。
私は黙ってファイルを入れ直しました。
今日の一行。
――役所の行為は、名前ではなく、「誰の法的地位を、今、どう動かしたか」で見る。
そして。
事務所の一行。
――所長の命令は、たぶん処分性を検討する前に従ったほうが早い。
少なくとも。
こちらについて取消訴訟を提起する勇気は、
今の私にはありませんでした。
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