[取消訴訟の処分性]現場編 「役所が決めたなら、何でも裁判で取り消せる」の罠。入口で弾かれる“処分性”と、たった一枚の通知が変える法的地位
役所から出た紙なら、何でも裁判で取り消せる。
――そう思ったら。
裁判所の入口には、もっと冷たい門番が立っています。
その名前は、
処分性。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「裁判にしてやる!」
朝一番。
玄関の引き戸が壊れるんじゃないかという勢いで開きました。
入ってきたのは、六十代くらいの男性です。
灰色の作業着。
日に焼けた顔。
右手には、折り目だらけの市役所の文書。
「市が勝手に決めやがったんだ!」
「まあ座れ」
相馬先輩が言いました。
「座ってられるか!」
「じゃあ立ってろ」
「先輩」
「何だ」
「相談者を煽らないでください」
男性は一瞬だけ勢いを失い、それからどさりと椅子に座りました。
「……瀬川啓三です」
瀬川さん。
駅東地区で小さな金物店を営んでいるそうです。
三十年以上。
鍋。
釘。
鎌。
包丁。
鍵。
町の人が困ったとき、とりあえず行けば何か出てくる。
そういう店です。
問題は、その店がある一帯でした。
「これですよ!」
机に叩きつけられた紙。
表題。
――駅東地区市街地整備基本計画について。
市は駅前再整備の一環として、駅東地区の道路拡幅、広場整備、商業施設誘導などを盛り込んだ基本計画を策定した。
瀬川さんの店がある場所も、その計画区域に入っています。
「見てください、ここ!」
瀬川さんが地図を指します。
「うちの店のところ、道路になるんですよ!」
「確かに」
「これは店を潰すってことでしょう!」
「……計画上は道路予定地ですね」
「だったら取り消してもらう!」
瀬川さんは鼻息も荒く言いました。
「市を訴えます!」
私は紙を見ました。
駅前整備。
基本計画。
道路予定地。
なるほど。
現代の行政法受験生として、頭の中にいろいろ浮かびます。
取消訴訟。
差止め。
義務付け。
仮の救済。
そして。
再開発関係の判例。
計画段階でも処分性を認める判例が――。
「あ」
「何だ、こはる」
相馬先輩がこちらを見ました。
「いえ」
危ない。
未来です。
私の頭の中には平成以降の最高裁判例がごっそり入っています。
でもここは昭和六十三年。
まだ出ていない判例を、
「最高裁がそう言ってます」
などと口走ったら、
法学界どころか人生そのものが終了します。
しかも。
そもそもこの基本計画が、取消訴訟の対象になるのか。
そこから確認しなければならない。
「瀬川さん」
片桐所長が紙を手に取りました。
「市から、あなた個人に対して何か命令は出ていますか」
「命令?」
「立ち退け、とか」
「だから、これに書いてあるじゃないですか」
「これは基本計画だ」
「同じことでしょう!」
所長は首を振りました。
「同じとは限らない」
「どういうことです?」
私は地図を見ました。
区域内には何十軒も建物があります。
商店。
住宅。
倉庫。
駐車場。
計画書には、
整備方針。
予定区域。
将来的な土地利用。
事業の方向性。
そういうことが書いてあります。
でも。
瀬川さんに対して、
今日から店を使ってはいけない。
何月何日までに退去せよ。
土地の権利を失う。
そういう文言はありません。
「……これ」
私は言いました。
「まだ瀬川さんの権利を直接変えてない?」
相馬先輩がちらりと私を見ました。
「やっと入口に来たな」
「入口?」
瀬川さんが聞きます。
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「裁判で役所の決定を取り消してもらおうと思ったらな」
「はい」
「まず、その決定が『取消訴訟で取り消せる種類のものか』を見なきゃならねえ」
「役所が決めたんでしょう?」
「役所が決めたもん全部じゃねえ」
瀬川さんが黙ります。
相馬先輩は紙を指で叩きました。
「役所の中じゃ、毎日いろんなことを決めてる」
「……ええ」
「方針を決める。計画を作る。部下に通達を出す。内部で認可する。住民にお願いする。正式に許可する。不許可にする。営業停止を命じる」
「はい」
「全部同じに見えるか?」
「……違いますね」
「そういうことだ」
私は少し分かってきました。
取消訴訟。
名前だけ見れば、
行政の決定を取り消す裁判。
でも。
何でも取り消せるわけではない。
対象になるのは、
行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為。
その行為が、
国民の権利義務や法的地位に直接影響する。
だからこそ、
裁判で「取り消せ」と争える。
逆に。
ただの内部方針。
一般的な計画。
将来の方向性。
それだけなら。
まだ特定の人の権利義務を直接変えていない場合がある。
「じゃあ」
瀬川さんの声が低くなりました。
「私は裁判もできないんですか」
その言い方が。
ちょっと胸に刺さりました。
困っているのは本当です。
自分の店が地図の上で道路になっている。
来年か。
三年後か。
五年後か。
分からない。
でも、
いつか店を失うかもしれない。
そんな紙を突然見せられた人に、
「まだ法的効果はありませんから」
で終わるのは。
あまりにも冷たい。
「所長」
私は言いました。
「でも、実際には困ってます」
「そうだ」
「商売してるのに、道路予定地にされたら」
「そうだ」
「だったら――」
「困っていることと、取消訴訟の対象になることは別だ」
片桐所長は静かに言いました。
冷たい。
でも。
逃げてはいない声でした。
「裁判所は、困りごと相談所じゃない」
「……はい」
「取消訴訟には入口がある」
「処分性」
「そうだ」
私はその言葉を飲み込みました。
処分性。
受験生だったころは、
丸暗記の判例表に出てくる言葉でした。
処分性あり。
処分性なし。
〇。
×。
でも現場では。
〇と×の間に、
瀬川さんの店がある。
「じゃあどうするんです?」
瀬川さんが言いました。
「市が本気で進めるまで、黙って待ってろってことですか」
「いや」
片桐所長が立ち上がりました。
「市役所へ行く」
「裁判できないんじゃ?」
「だから確認する」
「何を?」
「市が、もう何を決めたのか」
総務課。
午前十一時。
「またですか」
沢渡課長は、私たちを見るなり言いました。
「その『また』に込められた疲労感、傷つきます」
「朝比奈さんが傷つくほど繊細には見えません」
「初対面の頃より扱い雑になってません?」
「頻度の問題です」
相変わらずです。
相馬先輩が計画書を机に置きました。
「駅東地区市街地整備基本計画」
「はい」
「瀬川金物店」
「区域内ですね」
「この計画で、瀬川さんは何か法的な制限を受けたか」
沢渡課長が眼鏡を押し上げました。
「現時点で、ですか」
「ああ」
「直ちに建物の使用を禁止するとか、退去義務を負わせるとか、そういうものではありません」
「建て替え制限は?」
「この基本計画それ自体からは生じません」
「土地を売るのに市長の許可が要る?」
「要りません」
「営業を続けられるか」
「現時点では」
「つまり」
相馬先輩が言いました。
「地図に線を引いた段階」
「乱暴に言えば」
「俺は乱暴なんだよ」
「存じています」
なぜそこだけ意思疎通が完璧なんですか。
私は横から聞きました。
「でも課長。このあと事業は進むんですよね」
「予定では」
「だったら、いつか立ち退きとか土地取得の話が来る」
「可能性はあります」
「そのときまで何も争えない?」
沢渡課長は私を見ました。
「朝比奈さん」
「はい」
「あなたは今、何を取り消してほしいんです?」
「え?」
「裁判所に行って、『これを取り消してください』と言う。その『これ』は何です」
私は計画書を見ました。
「……基本計画」
「基本計画の何が、瀬川さんの権利を今変えました?」
「……」
「所有権を失った?」
「いえ」
「営業できなくなった?」
「いえ」
「建物を壊さなければならなくなった?」
「まだです」
「なら」
沢渡課長は書類を閉じました。
「少なくとも、取消訴訟を考えるなら、処分性は最初に詰めるべきでしょうね」
悔しい。
正しい。
ものすごく悔しい。
「課長」
私は言いました。
「それ、相談者の前で言ったらすごく嫌われますよ」
「嫌われることは訴訟要件ではありません」
「強い」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「で、課長」
「何でしょう」
「確認はそれだけじゃねえ」
先輩の声が変わりました。
「瀬川さん個人に、別の文書を出してないか」
沢渡課長が止まりました。
ほんの一瞬。
「……どういう意味です」
「基本計画だけなら一般論だ」
「ええ」
「だが瀬川さんは、市の職員から『来春までには店を空けてほしい』と言われたらしい」
え。
聞いてません。
私は先輩を見ました。
「いつ聞いたんです?」
「市役所来る途中」
「情報共有してくださいよ!」
「今してる」
「遅い!」
沢渡課長は無視しました。
「担当課の発言でしょう」
「口頭だけか?」
「確認します」
「書面は」
「……」
間。
長い。
嫌な間です。
「ありますね」
片桐所長が言いました。
沢渡課長が所長を見る。
「なぜそう思われます」
「あなたが即答しなかった」
怖い。
所長の実務勘、たまに刑事ドラマです。
沢渡課長は内線電話を取りました。
短いやり取り。
受話器を置く。
「まもなく持ってこさせます」
数分後。
若い職員が一枚の文書を持ってきました。
コピーです。
宛名。
瀬川啓三殿。
表題。
――市道拡幅予定区域内建物に関する通知。
内容。
駅東地区整備事業に伴い、対象建物が将来の道路用地予定区域に含まれる。
そして。
問題はその下でした。
――本通知後、新築、増築その他事業遂行に支障となる行為については認めない。
「……課長」
私は紙を見ました。
「これ」
沢渡課長も黙っています。
「さっきの基本計画と話が違いません?」
相馬先輩が低い声で言います。
「『認めない』って何を根拠に言ってる」
「担当課としては、事業を円滑に――」
「根拠だよ」
「……」
「これを受けたら、瀬川さんは増築できねえのか」
「建築関係の正式な許可手続とは別です」
「ならただのお願いか?」
「そこは」
「お願いなら、『認めない』なんて書き方するな」
空気が変わりました。
私は紙を読み返します。
基本計画。
それ自体は、まだ一般的な方針。
瀬川さんの権利義務を直接変えるものではない。
でもこの通知は?
名宛人は瀬川さん。
個別。
しかも、
新築・増築その他を認めない。
もしこれが、
行政庁の優越的な立場から、
一方的に法的制限を課すものなら。
話は違ってくる。
「処分性」
私は呟きました。
沢渡課長がこちらを見ます。
「何です」
「同じ紙でも」
「はい」
「同じ『役所からの通知』でも」
「はい」
「中身次第で、取消訴訟の対象になるかどうかが変わるんですね」
沢渡課長は答えませんでした。
相馬先輩が代わりに言いました。
「紙の名前で決めるな」
「通知って書いてあるから処分じゃない、とは限らない」
「そうだ」
「逆に、市が『決定』って名前を付けても、それだけじゃ処分性があるとは限らない」
「そういうことだ」
行政法。
性格が悪い。
名前じゃなく中身を見る。
人間関係でも難しいことを、法律まで要求してくる。
片桐所長が沢渡課長に聞きました。
「この通知に、法的拘束力はあるのか」
「……現時点では担当課の協力要請として出したものです」
「協力要請」
「はい」
「拒否したら」
「直ちに制裁があるものではありません」
「建築確認申請が出た場合」
「それは建築関係法令に基づいて別に判断します」
「この通知を理由に拒否するのか」
「それだけを理由にはできません」
「土地の処分は」
「自由です」
「営業は」
「継続できます」
所長は通知を置きました。
「なら書き直せ」
沢渡課長の眉がわずかに動きました。
「何をです」
「『認めない』では、住民は法的禁止だと思う」
「……」
「処分でないなら、処分のように書くな」
静かでした。
怒鳴っていない。
でも。
今日一番強い言葉でした。
「瀬川さんは」
所長が続けます。
「この一枚を見て、店の屋根の修理までできないと思っている」
「屋根?」
「雨漏りしているそうだ」
沢渡課長が黙ります。
「来春までに退去しろと言われ、増築その他は認めないと書かれた」
「……」
「役所の中では『協力要請』でも、受け取る側には命令に見える」
私も黙っていました。
なるほど。
処分性がない。
だから住民は何も困らない。
そんな単純な話じゃない。
むしろ。
処分性がないのに、
命令みたいな顔をした行政指導や通知。
それはそれで厄介なのです。
「片桐先生」
沢渡課長が言いました。
「この件は担当課と確認します」
「表現だけじゃない」
「分かっています」
「法的根拠と位置づけもだ」
「はい」
「瀬川さんに、何が義務で、何がお願いなのか説明しろ」
沢渡課長は数秒、黙ってから頷きました。
「それは必要でしょうね」
帰り道。
私は相馬先輩に聞きました。
「結局、裁判は?」
「まだ言うか」
「だってテーマですし」
「何のテーマだ」
「こっちの話です」
先輩がため息をつきました。
「まず基本計画」
「はい」
「今の資料を見る限り、瀬川さん個人の権利義務を直接変えてねえ」
「だから、それだけを取消訴訟で争おうとすると処分性で引っかかる」
「そういうことだ」
「じゃあ個別通知」
「市は協力要請だと言ってる」
「なら今の説明どおりなら、法的拘束力がない」
「だから、やっぱり処分性は簡単じゃねえ」
私は唸りました。
「じゃあ何も取消訴訟できないじゃないですか」
「今はな」
「今は?」
相馬先輩が私を見る。
「この先、市が本当に瀬川さんの法的地位を変える処分をしたら話は別だ」
「例えば」
「許可を拒否する。建物の使用を法的に制限する。土地収用の手続で権利に直接効果を及ぼす。そういう段階だ」
「そこではじめて、取消訴訟の入口が見えてくる」
「そういうことだ」
私は空を見ました。
分かったような。
分かりたくないような。
「遅くないですか」
「何が」
「本当に権利を制限されてから争えって」
「だから行政訴訟は難しいんだよ」
先輩の声が少し低くなりました。
「早すぎれば、『まだ処分じゃない』」
「はい」
「遅ければ期間に引っかかる」
「……」
「しかも裁判したいって言っても、行政書士の俺たちが代理できるわけじゃねえ」
「はい」
「だから」
相馬先輩が前を向きました。
「裁判なんて負け戦だ。だがやるなら要件を揃えろ」
出ました。
先輩の口癖。
でも。
今日は意味が分かりました。
勝てるか負けるか。
その前に。
裁判所が中身を見てくれるか。
そこから戦いなのです。
三日後。
瀬川さんが事務所に来ました。
「市役所から連絡がありました」
「どうでした?」
「説明に来るって」
「説明?」
「はい」
市は問題の通知をいったん撤回し、
改めて文書を出し直すことにしたそうです。
新しい文書では、
基本計画の内容。
現時点では建物利用等に法的制限を課すものではないこと。
今後、具体的な事業手続に入る場合には別途説明すること。
それが明記される。
「じゃあ」
私は言いました。
「屋根直せますね」
「直します」
瀬川さんが笑いました。
「雨が降るたび、店の奥にバケツ三つですよ」
「三つ」
「一個は鍋です」
「金物屋さんらしい」
「売り物だけどね」
「それは駄目でしょう」
「もう雨漏り受けに使っちゃったから売れん」
初めて。
瀬川さんが普通に笑いました。
それだけで。
最初に事務所へ飛び込んできたときより、十歳くらい若く見えます。
「でも」
瀬川さんの笑顔が少し消えました。
「道になる話は、消えたわけじゃないんですよね」
「はい」
私は正直に答えました。
「計画そのものは残っています」
「いつか店を出ることになるかもしれない」
「あります」
「そのときは?」
私は答えようとして。
止まりました。
取消訴訟。
処分性。
出訴期間。
原告適格。
訴えの利益。
被告。
昭和六十三年なら処分庁。
それから。
今の私の頭なら、
差止訴訟とか。
義務付け訴訟とか。
つい考えてしまう。
でも。
ここは昭和六十三年。
今はまだ法定されていない。
未来の便利な道具は、
机の引き出しに入っていても、
鍵がかかっているようなものです。
「そのときは」
片桐所長が先に答えました。
「そのとき出た行為を見ます」
「行為?」
「市が何をしたか」
「はい」
「それであなたの権利義務がどう変わったか」
「はい」
「そこからだ」
瀬川さんは少し考えて、
頷きました。
「分かりました」
帰り際。
瀬川さんは玄関で振り返りました。
「先生」
「何だ」
「裁判しなくても、こういうことできるんですね」
「俺たちは裁判をする仕事じゃない」
「はい」
「裁判になる前に、事実と法律を分ける」
「……」
「裁判に行くなら、弁護士が戦える形にして渡す」
瀬川さんは深く頭を下げました。
「ありがとうございます」
戸が閉まりました。
私は机に戻ります。
相馬先輩が帳簿を書いていました。
「先輩」
「何だ」
「今日、ちょっと分かりました」
「何が」
「取消訴訟って」
「うん」
「違法かどうかを見る前に、『そもそも取消訴訟で争えるものか』を見るんですね」
「そうだ」
「役所の行為だから全部対象、じゃない」
「そうだ」
「公権力の行使で」
「うん」
「個別具体的に、その人の権利義務とか法的地位へ直接影響する」
「まあ入口はそこだ」
私はノートの端に書きました。
――役所が動いた、だけでは足りない。
その行為で、
この人の法律上の立場が、
今、
変わったのか。
そこを見る。
「先輩」
「何だ」
「処分性って、嫌な言葉ですね」
「お前は行政法の用語だいたい嫌いだろ」
「だって」
私は窓の外を見ました。
「瀬川さんからしたら、もう十分人生動かされてるじゃないですか」
「そうだな」
「道路になるって地図に書かれて」
「うん」
「市の職員に退去の話までされて」
「うん」
「それでも法律は、『まだ権利義務が直接変わってない』って言うことがある」
「ある」
「冷たいですね」
相馬先輩は少し黙りました。
「だがな」
「はい」
「何でも処分にしたら、それはそれで困る」
「……」
「役所が内部で検討しただけで訴訟」
「はい」
「方針を考えただけで訴訟」
「はい」
「住民に相談しただけで訴訟」
「行政が動けなくなる」
「そういうことだ」
なるほど。
冷たい線引き。
でも。
線を引かなければ、
裁判の対象が際限なく広がる。
だから法律は、
直接。
具体的。
法的効果。
そういう固い言葉を使って境界を作る。
そして時々。
現実の不利益があまりに大きければ、
昔なら処分性なしとされたような行為にも、
後の裁判所が処分性を認めることがある。
――私は知っています。
未来では。
計画。
告示。
勧告。
条例制定。
名前だけなら一見「処分じゃなさそう」なものにも、
法的効果や実効的な救済の必要性を見て、
処分性を認める判例が現れる。
でも。
その未来を、
私は今ここで切り札にはできない。
昭和六十三年の私たちは、
昭和六十三年の法と判例で戦うしかない。
法律は、
未来から持ち込めない。
知識だけ持っていても、
使える制度がなければ意味がない。
「こはる」
片桐所長が奥から声をかけました。
「瀬川さんの記録をまとめろ」
「はい」
「基本計画と個別通知を分けて書け」
「はい」
「市の説明も」
「はい」
「今後、具体的な処分が出たときにすぐ比較できるようにしろ」
私はファイルを開きました。
「所長」
「何だ」
「これって」
「うん」
「未来の訴訟準備ですか」
「未来かどうかは知らん」
所長は淡々と言いました。
「備えるだけだ」
格好いい。
ちょっと悔しいくらい格好いい。
私は新しい紙を一枚出しました。
上に大きく書きます。
――駅東地区・瀬川啓三氏。
その下。
基本計画。
現時点で直接の法的拘束なし。
個別通知。
市の説明では協力要請。法的制裁なし。文言修正予定。
今後確認。
建築関係処分。
事業認可等の手続。
土地取得・収用関係。
個別の退去・使用制限。
行政庁。
根拠法令。
通知日。
到達日。
教示。
そこまで書いて。
私は手を止めました。
「……到達日」
「何だ」
相馬先輩が言います。
「もし取消訴訟できる処分が出たら」
「うん」
「出訴期間ありますよね」
「ある」
私の頭に、
六か月。
という数字が浮かびました。
現代の知識。
そして次の瞬間。
嫌な予感。
「先輩」
「何だ」
「取消訴訟って、期間……」
「処分を知った日から三箇月だろ」
「……三箇月」
「何だその顔」
「短っ!」
「でけえ声出すな」
「三箇月!?」
「昭和だぞ」
「知ってますけど!」
私は頭を抱えました。
危ない。
危なすぎる。
現代の六か月感覚で、
「まだ余裕ありますね」
などと言っていたら。
処分性をクリアした瞬間、
今度は期間で死ぬ。
「行政訴訟」
私は机に突っ伏しました。
「入口、多すぎません?」
「だから言ってるだろ」
相馬先輩が笑いました。
「裁判なんて負け戦だ」
「でも、やるなら要件を揃えろ」
「そういうことだ」
今日の教訓。
取消訴訟は、
役所の行為が気に入らないから始められるものじゃない。
まず見る。
それは公権力の行使か。
そして。
特定の人の権利義務や法的地位を、
個別具体的に、
直接変えるものなのか。
入口を間違えれば、
違法かどうかすら見てもらえない。
却下。
中身に入る前に終わる。
冷たい。
厳しい。
でも。
だからこそ。
何が命令で、
何がお願いで、
何が計画で、
何が本当に人の権利を動かしたのか。
役所にも、きちんと言葉を分けさせることができる。
瀬川さんの屋根から落ちる雨粒は、
処分性なんて知りません。
来週も雨が降れば、
たぶんまた漏れます。
でも今度は。
瀬川さんは、
役所の曖昧な一枚を怖がって、
修理を諦めなくていい。
法律が店を守ったわけではありません。
道路計画も消えていません。
それでも。
「これは命令なのか」
「本当に従う義務があるのか」
そこを問い直しただけで。
一人の暮らしから、
余計な恐怖を一つ減らせた。
それくらいの仕事なら。
行政書士にもできる。
「こはる」
「はい」
「瀬川さんの書類」
所長が言いました。
「分類間違えるなよ」
「大丈夫です」
「基本計画と個別通知を同じファイルの同じ区分に入れるな」
「分かってます」
「性質が違う」
「今日さんざん勉強しましたから!」
私は自信満々に二枚の紙を分けました。
基本計画。
個別通知。
そしてファイルへ。
相馬先輩が覗き込みます。
「おい」
「何です?」
「逆だ」
「え?」
「仕切り逆」
「……」
確認。
本当だ。
「これは事務上の分類であって法的性質とは無関係です」
「言い訳するな」
「取消訴訟できます?」
「何を取り消すんだ」
「私のミスを」
「処分性なし」
「即答!」
片桐所長が奥から言いました。
「やり直せ」
「それは命令ですか、お願いですか」
「業務命令だ」
「処分性あります?」
「口答えするなら給料から――」
「すぐ直します!」
危ない。
個別具体的な不利益が発生するところでした。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
どうやら取消訴訟の処分性より先に、
私は所長の命令の法的効果を検討したほうがいいかもしれません。
もっとも。
こちらは裁判所へ持っていく前に、
相馬先輩から却下されそうですが。
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