[取消訴訟の概要・原処分主義、裁決主義、審査請求前置主義]法理編 こはるノート
役所から「駄目」が二枚届いたとき。
法律は、その二枚をまとめて一枚にはしてくれません。
夕方。
片桐行政書士事務所。
窓から差し込む西日が、机の上の二枚の紙を照らしていました。
一枚目。
大沢辰雄さんに対する、
――道路占用許可取消処分通知書。
二枚目。
その処分を不服として申し立てた審査請求についての、
――棄却裁決書。
私は二枚を横に並べました。
「似てる」
相馬先輩が新聞から目を上げました。
「何がだ」
「見た目が」
「役所の紙なんざ、だいたい似てる」
「そこじゃありません」
私は一枚目を指します。
「こっちも大沢さんにとっては『駄目』」
次に二枚目。
「こっちも『駄目』」
「ああ」
「なのに、裁判になると、この二枚を絶対に混ぜるなっていう」
「昨日混ぜた奴が何言ってんだ」
「復習してるんです!」
痛いところを的確に刺してくる先輩です。
私はノートを開きました。
今日の見出し。
大きく、
――取消訴訟。
その下に、
――処分の取消しの訴え。
――裁決の取消しの訴え。
と二本、線を引きました。
「そもそも」
私はペンを持ったまま言いました。
「取消訴訟って、何をする訴訟なんですか」
相馬先輩が露骨に嫌そうな顔をしました。
「そこからやるのか」
「そこからです」
「昨日さんざん裁判だ原処分だ言ってただろ」
「現場で分かった気になって、あとで条文見たら何も分かってない。受験生あるあるです」
「お前だけじゃねえのか」
「全国の受験生を敵に回しますよ」
奥の机で書類を読んでいた片桐所長が言いました。
「行政庁の処分や裁決を、裁判所に取り消してもらう訴えだ」
「ですよね」
「ただし」
所長が顔を上げました。
「『間違っているから無視する』ための訴えではない」
私はペンを止めました。
「公定力」
「そうだ」
出ました。
行政法受験生が最初に出会う、
なんとも偉そうな響きの言葉。
公定力。
行政庁がした処分は、
たとえ違法であったとしても、
権限のある機関によって取り消されるまでは、
原則として有効なものとして扱われる。
「昨日の大沢さんで言えば」
私は整理しました。
「道路占用許可を取り消した市の処分がおかしいと思っていても」
「ああ」
「大沢さんが勝手に『違法だから無効! 今日も小屋使います!』ってやっていいわけじゃない」
「そうだ」
「行政庁が自分で取り消すか」
「うん」
「取消訴訟で裁判所から取消判決をもらう必要がある」
「基本はな」
基本。
という言葉に引っかかりました。
「あ」
私は言いました。
「重大かつ明白な瑕疵」
相馬先輩がため息をつきました。
「昨日もそっち行こうとしたな」
「復習です」
「便利な逃げ道みたいに言うな」
「言ってませんよ」
行政処分の瑕疵が重大かつ明白で、
そもそも無効と評価されるような場合には、
初めから効力を生じない。
だから、
取消されるまでは有効、
という通常の処分とは扱いが違う。
でも。
「何でも無効って言えば出訴期間とか飛ばせるわけじゃない」
私が言うと、所長が頷きました。
「むしろ無効は例外だと思え」
「はい」
受験生のころ。
取消し。
無効。
重大かつ明白。
公定力。
全部、蛍光ペンで色を変えて覚えていました。
けれど昨日。
大沢さんが、
明日小屋を撤去されるかもしれない。
そんな状況を見たあとでは、
公定力という言葉の冷たさがよく分かります。
処分がおかしいと思っても。
まだ効いている。
だから。
消す手続が必要になる。
「取消判決が出たら」
私はノートに書きます。
「その処分の法的効力は、さかのぼって消える」
「そこまでが取消訴訟の基本だな」
「はい」
私は囲みました。
――取消訴訟=処分・裁決の効力を取り除くための抗告訴訟。
そして次。
取消訴訟には二つある。
一つ。
処分の取消しの訴え。
もう一つ。
裁決の取消しの訴え。
「ここまでは簡単なんですよ」
私は言いました。
「問題は、二つ紙があるとき」
「昨日のお前だな」
「だから復習してるんですって!」
一枚目。
原処分。
二枚目。
その処分に対する不服申立ての裁決。
このとき。
何を争うのか。
そこを間違えると、
行政事件訴訟法は急に牙をむきます。
私はノートの真ん中に図を書きました。
市長。
↓
道路占用許可取消処分。
↓
大沢さんが審査請求。
↓
棄却裁決。
↓
裁判?
「昨日、私は」
自分で言うのも嫌ですが、反省は必要です。
「審査請求で負けたんだから、棄却裁決を取り消してもらえばいいと思いました」
「うん」
「でも違った」
「なぜだ」
相馬先輩が試すように聞きます。
「大沢さんが違法だと言いたいのは、裁決そのものじゃないから」
「続けろ」
「大沢さんが一貫して言っているのは、市が道路占用許可を取り消した判断がおかしい、ってことです」
「つまり」
「違法だと主張したい対象は原処分」
「そうだ」
私は、
原処分。
という文字を二重丸で囲みました。
「これが原処分主義」
行政事件訴訟法では原則として。
原処分の違法は、
処分の取消しの訴えで争う。
裁決固有の違法は、
裁決の取消しの訴えで争う。
つまり。
「裁決の取消訴訟を起こして」
私は言いました。
「『市の最初の処分がおかしかったんです』って主張するのは、原則としてできない」
「そういうことだ」
「裁決を訴えるなら、裁決自体の問題」
「例えば?」
私は考えます。
「裁決をする権限のない行政庁が裁決したとか」
「うん」
「審理手続そのものに重大な違法があったとか」
「うん」
「裁決の主体や手続、判断の仕方そのものに、裁決固有の違法がある場合」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――原処分の違法を、裁決取消訴訟へ持ち込まない。
「でも」
私はそこでペンを止めました。
「これ、一般人にはかなり分かりにくいですよね」
「何が」
「だって大沢さんから見たら」
私は紙を二枚持ち上げました。
「市に負けました」
一枚目。
「審査請求でも負けました」
二枚目。
「じゃあ最後に、今負けたこっちを裁判でひっくり返そう」
二枚目を振る。
「って思うの、普通じゃないですか」
「普通だろうな」
「でも法律は」
私は一枚目へ戻します。
「お前が本当に争いたいのはこっちだろ、って言う」
「そうだ」
「厳しいなあ」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「だから昨日言ったろ」
「何をです?」
「裁判所は、怒りの向きを整理してくれねえ」
あ。
私はペンを止めました。
「それ、いいですね」
「何が」
「書きます」
「書くな」
書きました。
――裁判所は、怒りの向きを整理してくれない。
「著作権料ください」
「お前のノートに何の権利があるんだ」
でも。
まさにそうです。
行政事件訴訟法は、
国民の怒りを、
「まあまあ、全部まとめて行政への不満ですね」
とは扱わない。
何が違法なのか。
どの行政作用を取り消してほしいのか。
そこを細かく分ける。
私は次の見出しを書きました。
――では、裁決主義とは?
「原処分主義に原則が付くなら」
私は言いました。
「当然、例外があります」
「あるな」
「それが裁決主義」
裁決主義。
法律によっては、
原処分の違法を争いたい場合であっても、
原処分そのものではなく、
裁決の取消しの訴えによって争わせる仕組みが採られている場合がある。
「つまり」
私は紙を使って説明します。
一枚目。
原処分。
二枚目。
裁決。
「通常は、一枚目の違法なら一枚目を訴える」
「ああ」
「でも裁決主義の法律では、最終的な裁決側を訴える形になることがある」
「そうだ」
「なので」
私は大きく書きました。
原則。
原処分主義。
例外。
個別法による裁決主義。
「個別法を見る」
所長が言いました。
「はい」
「行政事件訴訟法だけ見て終わるな」
「はい」
「特別法が何を定めているか確認する」
「はい」
行政法。
一般論を覚えた瞬間、
個別法が後ろから肩を叩いてくる世界。
受験生に安住の地はありません。
「原処分主義と裁決主義」
私は言いました。
「覚え方としては」
少し考えます。
「原処分主義は、『元の間違いは元を叩け』」
「物騒だな」
「裁決主義は、『元の間違いも最後の裁決でまとめて争え』」
「試験答案には書くなよ」
「ノートです」
次。
私はページを変えました。
――審査請求と取消訴訟。
「昨日の大沢さんは、先に審査請求をしています」
「ああ」
「じゃあ行政処分に不服があったら、必ず審査請求してからじゃないと裁判できないんですか」
相馬先輩がこちらを見る。
「違う」
「ですよね」
原則。
自由選択主義。
処分について審査請求ができる場合でも、
原則として、
審査請求をせずに直ちに取消訴訟を提起することもできる。
「つまり」
私は左右に矢印を書きました。
処分。
↓
審査請求。
でもいい。
処分。
↓
取消訴訟。
でもいい。
「行政内部で見直してもらうか」
「うん」
「司法へ行くか」
「うん」
「原則として本人が選べる」
「そうだ」
私は大きく、
自由選択主義。
と書きます。
「これ、行政不服審査法を勉強した直後だと混乱するんですよ」
「どうしてだ」
「審査請求制度があると、『じゃあまずそっちを使わないと裁判できないのかな』って思いやすい」
「全部がそうじゃない」
「はい」
原則は。
行政庁に不服申立てができても、
その手続を必ず先に踏まなければ裁判できないわけではない。
でも。
もちろん行政法です。
ここで終わらせてくれません。
「例外」
相馬先輩が言います。
「来ましたね」
私は次の言葉を書きました。
――審査請求前置主義。
個別の法律に、
審査請求に対する裁決を経た後でなければ取消訴訟を提起できない、
という特別な定めがある場合。
その場合には、
先に審査請求をして、
原則として裁決を経なければならない。
「だから」
私は言いました。
「自由選択主義が原則」
「うん」
「審査請求前置が特別法で定められていれば例外」
「そうだ」
「ここでも個別法確認」
「そういうことだ」
私はノートに書き足しました。
――いきなり裁判できると思い込むな。
――必ず不服申立てが先だと思い込むな。
――個別法を見ろ。
「行政法って」
私は言いました。
「『絶対こうです』って断言した瞬間に、横から例外が走ってきますよね」
「お前が雑に覚えるからだ」
「全国の受験生の心の声です」
片桐所長が書類を閉じました。
「ただし」
「はい」
「制度の意味は考えろ」
「意味?」
「なぜ自由選択を原則にする」
私は考えました。
「権利救済のため……ですか」
「もう少し」
「行政内部の見直しを強制して、いつまでも裁判所へ行けないとなると、国民の司法救済が遅れる」
「そうだ」
なるほど。
昔。
行政に不服があるなら、
まず行政内部の救済を使ってから司法へ行け、
という発想が強かった時代もあった。
でも。
行政自身に何度も確認してもらっている間に、
時間は過ぎる。
生活も動く。
処分の影響も続く。
だから行政事件訴訟法では、
原則として行政上の不服申立てと取消訴訟を自由に選ばせる。
「ただし」
私は言いました。
「専門的な行政分野とかで、まず行政内部の判断を経たほうがいいと立法者が考えた場合には」
「個別法で前置を置く」
「はい」
ここまで整理して。
私は昨日の大沢さんの顔を思い出しました。
「裁判って」
「何だ」
「始める前から選択肢多すぎません?」
「だから弁護士がいる」
「行政書士は?」
「訴訟代理はできねえ」
「ですよね」
「だから俺たちは」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「何を持って弁護士に行くかを揃える」
昨日と同じ言葉。
でも今日は、その意味が少し違って聞こえます。
行政書士が訴状を書いて代理人として法廷に立つことはできない。
でも。
依頼者が持ってきた二枚の紙を見て。
処分はどれか。
裁決はどれか。
処分庁は誰か。
いつ知ったのか。
不服申立てをしたのか。
裁決はいつ届いたのか。
何を違法だと考えているのか。
そこを整理して、
適切な時点で弁護士へ引き継ぐ。
裁判の手前にも、
仕事は山ほどあります。
「次」
私はノートをめくりました。
――出訴期間。
「嫌なところ来たな」
相馬先輩が言います。
「私が一番昨日ひやっとしたところです」
取消訴訟には期限がある。
いつまでも、
「あの処分、やっぱり納得できない」
と言って裁判を起こせるわけではない。
そして。
昭和六十三年。
この時代の出訴期間は。
「三か月」
私は慎重に言いました。
「現代は?」
「六か月」
「そうだ」
私は横に並べました。
昭和六十三年。
原則三か月。
現代。
原則六か月。
「倍になってる」
私は言いました。
「未来は優しいな」
「それでも六か月ですからね」
「まあな」
でも。
昨日の私は、
現代の感覚が先に出ました。
六月に処分。
九月。
一瞬、
「まだ六か月ある」
と思いかけた。
もし。
それをそのまま信じていたら。
昭和の法律は、
未来人だからという理由で待ってくれません。
「法改正って」
私は言いました。
「こういうところで意味が分かりますね」
「何が」
「三か月って短いですよ」
行政処分を受ける。
まず役所へ相談する。
家族と話す。
不服申立てを考える。
資料を集める。
専門家を探す。
裁判をするか決断する。
その間にも生活は続く。
「現代では六か月に伸びた」
「ああ」
「救済の機会をもう少し確保する方向に改められた」
「そうだな」
制度改正は、
受験生を苦しめるための改訂版ではありません。
誰かが実際に困った。
短すぎた。
分かりにくかった。
使いにくかった。
そういう積み重ねが、
条文を変えていく。
「ただし」
所長が言います。
「大沢さんのように審査請求をしている場合は、単純に原処分の日から三か月だけ見て判断するな」
「はい」
「不服申立てと裁決との関係で、出訴期間の計算には特則がある」
「だから昨日、全部の日付を取った」
「そうだ」
原処分を知った日。
審査請求をした日。
裁決の日。
裁決を知った日。
封筒まで確認する。
「法律上の期間って」
私は言いました。
「ドラマだと地味ですけど、一番怖いですね」
「一日過ぎても、『気持ちは分かります』で戻らんからな」
「冷たい」
「期限は誰にでも同じだから意味がある」
その言葉に、私は少し黙りました。
そう。
法律の冷たさ。
このシリーズで何度も感じるものです。
事情を聞けば、
一日ぐらい。
二日ぐらい。
と思う。
でも。
誰かには一日許し、
別の誰かには許さない。
それでは手続が壊れる。
だから期間は冷たい。
そして。
冷たいからこそ、
専門家は期限を最初に見る。
「相馬先輩」
「何だ」
「『裁判なんて負け戦だ、だがやるなら要件を揃えろ』」
「勝手に俺の口癖にすんな」
「もう口癖になってますよ」
「言ってねえ」
私は無視して書きました。
――期限は主張より先に確認。
「次は被告です」
「まだあるのか」
「行政事件訴訟法ですよ?」
「知ってる」
昭和六十三年。
取消訴訟を起こすとき。
被告は誰か。
私はノートに書きました。
――処分をした行政庁。
大沢さんの件なら、
市長名義でされた処分。
この時代の制度では、
処分をした行政庁を被告にする。
「ところが現代は」
私は矢印を書きました。
――国または公共団体。
「今なら、市長個人……じゃなくて、市という公共団体を被告にする」
「そうだ」
「ここも改正された」
「ああ」
「未来人殺し、その二」
「一は?」
「三か月です」
「勝手にシリーズ化するな」
でも。
本当に危ない。
行政訴訟という骨組みは同じに見える。
取消訴訟。
処分性。
原告適格。
出訴期間。
被告適格。
同じ言葉が並んでいる。
だからこそ、
現代知識をそのまま昭和へ持ち込むと、
ところどころ床板が抜けます。
「しかも」
私はさらに書きました。
昭和六十三年。
義務付け訴訟。
法定されていない。
差止訴訟。
法定されていない。
「今の行政事件訴訟法なら」
私は言います。
「行政庁に一定の処分をせよ、と求める義務付け訴訟が法定されてる」
「未来ではな」
「行政庁に処分をするな、と求める差止訴訟もある」
「未来ではな」
「しつこいですね」
「今使えない制度を嬉しそうに喋るからだ」
「でも比較すると大事なんですよ」
現代では。
取消すだけでは救済が足りない場合に、
一定の要件の下で、
行政庁に処分を求めたり、
行政庁がこれからしようとする処分を止めたりする訴訟類型が、
法律上明確に用意されている。
でも昭和六十三年。
そうではありません。
「当時は法定された抗告訴訟としては」
私は数えます。
「取消訴訟」
「ああ」
「無効等確認訴訟」
「ああ」
「不作為の違法確認訴訟」
「ああ」
「義務付けと差止めは、今みたいに明文の類型として用意されていない」
「そうだ」
法定外の抗告訴訟として理論上の議論はある。
でも。
実際に救済を得るハードルは高い。
「昨日、大沢さんの小屋を守りたいって聞いて」
私は言いました。
「一瞬、未来の私なら『差止めとか使えないかな』って思うんですよ」
「ないものは使えん」
「そうなんです」
「法律は願望で増えねえ」
「ひどいけど正しい」
しかも仮の救済。
現代なら、
仮の義務付け。
仮の差止め。
という仕組みもある。
けれど。
昭和六十三年の私たちが取消訴訟に関連して考える中心は、
執行停止。
「処分を争っている間に」
私は言いました。
「小屋を撤去されちゃったら、あとで勝っても生活が壊れてるかもしれない」
「そうだ」
「だから本案の判決まで待てないときに、執行停止が問題になる」
「ああ」
「でも、現代みたいに救済メニューが何種類も並んでない」
「そういうことだ」
私はペンを置きました。
「昔の行政裁判って」
「何だ」
「入口狭いですね」
相馬先輩は答えませんでした。
代わりに片桐所長が言いました。
「狭かったから、後で広げられた」
短い。
でも。
今日一番大事なところかもしれません。
行政事件訴訟法は、
最初から完成された救済制度ではない。
原告適格。
出訴期間。
被告。
義務付け。
差止め。
仮の救済。
長い年月の中で、
行政を裁判で争う国民にとって、
使いにくかった部分が見直されてきた。
「制度改正って」
私は呟きました。
「教科書だと、新旧表を覚えるだけなんですよね」
「お前はそうだったんだろ」
「はい」
三か月。
六か月。
行政庁。
国・公共団体。
義務付けなし。
義務付けあり。
差止めなし。
差止めあり。
表にすると、それだけ。
でも。
大沢さんが目の前にいると。
三か月という数字は、
裁判を諦めるかもしれない期限になる。
被告を間違えるという話は、
入口で訴訟をつまずかせる危険になる。
義務付け訴訟がないという話は、
「間違った処分を消すだけじゃ足りない。役所にこうしてほしい」
という人に、
その願いを直接裁判で実現する道が細かったという意味になる。
差止めがないという話は、
処分されてから争え、
では遅い人にも関わってくる。
法律用語に、
人の困りごとがくっつく。
すると。
忘れにくくなります。
「こはる」
所長が言いました。
「大沢さんの件に戻れ」
「はい」
私は姿勢を正しました。
「大沢さんは、市の道路占用許可取消処分を違法だと考えている」
「うん」
「その処分について審査請求をした」
「うん」
「棄却裁決が出た」
「うん」
「でも、棄却裁決が出たからといって、原処分の違法が裁決の違法に変身するわけじゃない」
相馬先輩が笑いました。
「変身って何だ」
「分かりやすさです」
「続けろ」
「原処分の違法を争うなら、原則として処分取消訴訟」
「うん」
「裁決固有の違法を争うなら、裁決取消訴訟」
「うん」
「これが原処分主義」
「そうだ」
「ただし個別法が裁決主義を採っている場合は別」
「そうだ」
「そして、処分に不服があれば、原則として審査請求と取消訴訟は自由選択」
「うん」
「ただし個別法が審査請求前置を定めていれば、原則として先に審査請求」
「そうだ」
「昭和六十三年の出訴期間は三か月」
「うん」
「現代は六か月」
「うん」
「この時代の被告は処分をした行政庁」
「うん」
「現代は国や公共団体」
「うん」
「昭和六十三年には、今のような義務付け訴訟や差止訴訟は法定されていない」
「うん」
「だから」
私は少し考えました。
「昔の取消訴訟は、今以上に『入口を間違えないこと』が重要だった」
片桐所長は数秒黙ってから、
「それでいい」
と言いました。
よし。
私はノートに丸をつけました。
すると。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
出た。
今日も法律の実演教材。
「お世話になってます」
『大沢さんの件ですが』
「はい」
『道路管理担当との再検討が終わりました』
私は椅子から少し身を起こしました。
「どうなりました?」
『道路占用許可取消処分を、一度取り消す方向です』
「え」
思わず大きな声が出ました。
相馬先輩と所長がこちらを見る。
「すみません。もう一回いいですか」
『原処分を職権で取り消す方向です』
「原処分を?」
『ええ』
「裁決じゃなく?」
一瞬。
電話の向こうが静かになりました。
『朝比奈さん』
「はい」
『昨日、原処分主義を勉強したのでは?』
「しました!」
『なら、その確認は不要でしょう』
腹立つな、この人。
「理由は何ですか」
『今年度中に大沢さんの占用を解消する具体的必要性について、処分時の資料では十分に説明できないと判断しました』
「じゃあ今後は?」
『駅前整備の工程を確定させた後、必要があれば改めて判断します』
「大沢さんは当面営業できる?」
『道路管理上の条件を守ることを前提に』
「分かりました」
『なお』
「はい」
『今回の件は、審査請求の裁決が出たから市の判断が絶対になった、という意味ではありません』
「それ、今日ちょうど勉強してました」
『そうですか』
「沢渡課長」
『何でしょう』
「ちょっと悔しいですけど、ありがとうございます」
『私は合理的に処理しただけです』
「絶対そう言うと思いました」
『では』
切れました。
受話器を置く。
「原処分を取り消すそうです」
私は言いました。
相馬先輩が眉を上げました。
「市が?」
「はい」
「県の棄却裁決まで出た後でか」
「はい」
片桐所長は少しだけ考えて、
「そうか」
とだけ言いました。
「もっと喜ばないんですか」
「大沢さんに連絡しろ」
「はい」
電話をかけました。
十分後。
大沢さんが飛び込んできました。
「本当ですか!」
「本当です」
「小屋、残せるんですか」
「当面は」
「裁判しなくていい?」
「今回の原処分が取り消されるなら、その処分を取り消してもらうための訴訟をする必要はなくなります」
「じゃあ」
大沢さんは椅子に腰を落としました。
「勝った……?」
私は一瞬、答えに迷いました。
片桐所長が代わりに言いました。
「今回は、裁判になる前に行政が自分で処分を見直した」
「勝ったんじゃない?」
「勝ち負けではありません」
所長は淡々としています。
「駅前整備がなくなったわけではない。将来、改めて処分が出る可能性もあります」
「……そうか」
「ただ」
所長が続けました。
「明日、小屋を撤去する必要はない」
大沢さんは黙りました。
しばらく。
本当にしばらく。
それから。
「それで十分です」
小さく言いました。
昨日も聞いた言葉でした。
十分。
法律相談の現場では、
完全勝利なんて、そうそうありません。
町の計画が消えるわけじゃない。
役所が全部間違っていたと謝るわけでもない。
永遠に営業できる保証がつくわけでもない。
でも。
明日なくなるはずだった仕事場が、
明日もある。
それだけで。
人は少し先のことを考えられます。
「朝比奈さん」
大沢さんが言いました。
「はい」
「昨日教えてもらったやつ」
「何です?」
「最初の処分がおかしいなら、最初の処分を争う」
「はい」
「今回、市が自分で取り消したのも」
「最初の処分です」
「なるほどなあ」
大沢さんは笑いました。
「二枚目を破っても、一枚目は消えないってことか」
私は目を丸くしました。
「それ、すごく分かりやすいです」
「そうか?」
「ノートに書いていいですか」
「好きにしなよ」
相馬先輩が横から言いました。
「相談者に教材作らせるな」
「いいじゃないですか」
私はノートの最後のページを開きました。
一行の覚え書き。
今日は、
何を書こう。
原処分主義。
自由選択主義。
審査請求前置。
裁決主義。
公定力。
取消訴訟。
三か月。
被告適格。
言葉はいっぱいあります。
でも。
今日、全部を一本につなぐなら。
私は書きました。
――「何に負けたか」ではなく、「何が違法か」を見ろ。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあまあだな」
「今日は評価高いですね」
「ただ」
「ただ?」
「原処分主義が入ってねえ」
「じゃあ補足します」
下に小さく。
――原処分の違法は、原処分を争う。
「そのまんまだな」
「一番忘れません」
大沢さんが立ち上がりました。
「じゃあ俺、戻ります」
「お店ですか」
「ああ」
「今日はもう夕方ですよ」
「常連に言わないとな」
「何を?」
大沢さんは少し照れたように笑いました。
「明日もやるぞって」
それだけ言って、
事務所を出ていきました。
引き戸が閉まる。
私は窓の外を見ました。
駅前へ向かう人。
帰ってくる人。
自転車。
買い物袋。
学生。
会社員。
その靴の中には、
大沢さんが直したものもあるのかもしれません。
行政処分という言葉は、
やっぱり冷たい。
原処分。
裁決。
公定力。
取消訴訟。
原処分主義。
どれも人間の生活から遠く見える。
けれど。
役所の一枚の紙が、
明日から店を開けるかどうかを決めるなら。
それを争うための法律は、
生活から遠いどころか。
ものすごく近い。
私はノートを閉じました。
「終わったか」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「じゃあ大沢さんの書類、片付けろ」
「どっちからです?」
「は?」
私は机の上の二枚を指しました。
「原処分と裁決」
「好きな方からやれ」
「でも原処分主義なので原処分から」
「関係ねえ」
「順番大事じゃないですか」
「整理棚に行政事件訴訟法を持ち込むな」
「じゃあ裁決から」
「好きにしろ」
私は二枚を持ち上げました。
「先輩」
「何だ」
「もし私が間違えて、裁決のファイルに原処分を入れたら?」
「差し戻す」
「取消しじゃなく?」
「うるせえ」
「審査請求は?」
「却下」
「理由が雑!」
奥で片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「早く片付けろ」
「これは処分ですか?」
「業務命令だ」
「不服があります」
「却下」
「まだ申し立ててません!」
「結論は変わらん」
「手続保障が死んでる!」
相馬先輩が笑いました。
「裁判にするか?」
「します!」
「何を争う」
「所長の業務命令です!」
「なら原処分だな」
「そういうことです!」
私は勢いよく言ってから。
止まりました。
相馬先輩も止まる。
片桐所長がこちらを見る。
三秒。
「……覚えたじゃねえか」
相馬先輩が言いました。
「はい」
私は笑いました。
昭和六十三年。
行政訴訟の入口は狭い。
三か月。
処分行政庁。
限られた訴訟類型。
今よりずっと少ない救済手段。
それでも。
狭い入口だからこそ、
何を争うのかを見失ってはいけない。
二枚の「駄目」があっても。
本当に消したい一枚を間違えない。
それが今日、
私が大沢さんの修理小屋から教わった、
取消訴訟の第一歩でした。
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