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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政事件訴訟法

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253/274

[取消訴訟の概要・原処分主義、裁決主義、審査請求前置主義]現場編 「審査請求で負けたんだから、裁決を訴えればいい」の罠。昭和の三ヶ月と“最初の処分”を見誤るな

挿絵(By みてみん)


 役所から二枚目の「駄目です」が届いたからといって、一枚目の「駄目です」が消えるわけではありません。


 むしろ。


 二枚目に腹を立てているうちに、一枚目を争う時間がなくなることがあります。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後、玄関の引き戸が壁に当たるほど勢いよく開きました。


「裁判にしてやる!」


 入ってきた男性は、開口一番そう叫びました。


 五十代半ば。


 紺色の作業着。


 日に焼けた顔。


 片手には茶封筒。


 もう片方の手には、なぜか丸めた新聞。


 裁判所へ殴り込みに行く装備として新聞が適切なのかは分かりません。


「とにかく座ってください」


 私は椅子を引きました。


「座ってられるか!」


「じゃあ立ったままでもいいですけど、私が首痛くなるので座ってください」


「こはる」


 奥から片桐所長の声。


「はい」


「余計なことを言うな」


「はい」


 男性は荒い息をつきながら、結局座りました。


 相馬先輩が湯呑みを置きます。


「名前は」


「大沢辰雄」


「何があった」


 大沢さんは茶封筒から二枚の紙を取り出しました。


 一枚目。


 三か月近く前の日付。


 市長名義。


 ――道路占用許可取消処分通知書。


 二枚目。


 昨日届いたもの。


 県の担当部局からの裁決書。


 ――審査請求を棄却する。


「俺は二十年以上、駅南口で靴の修理をやってきたんです」


 大沢さんが言いました。


「靴の修理?」


「小さい小屋です。駅前の歩道脇に」


 私は少し身を乗り出しました。


「道路を使う許可を取って?」


「そうです。毎年やってきた。ところが今年になって突然、『歩行環境改善のため』って、占用許可を取り消された」


 また駅前。


 この町の駅前は、行政法の論点が自然発生する湿地帯なんでしょうか。


「それで審査請求を?」


「した」


「いつです?」


「処分を受けてすぐです」


「結果が昨日届いた」


「そうだ」


 大沢さんは二枚目の裁決書を指で叩きました。


「これだよ。県も市の言い分をそのまま認めやがった」


 私は裁決書を読みました。


 原処分。


 道路占用許可取消処分。


 審査請求理由。


 歩行者の通行を妨げていない。


 長年継続して占用許可を受けてきた。


 近隣には別の占用物件が残されている。


 取消しの必要性、比例性、公平性を欠く。


 裁決。


 棄却。


「なるほど」


 私は言いました。


「じゃあ、この棄却裁決を取り消す訴訟ですね」


 相馬先輩が湯呑みを置きました。


 ことん。


「違う」


「え?」


「お前、今どこが違法だと思ってる」


「どこって……」


 私は書類を見ます。


「大沢さんの小屋だけ占用許可を取り消したところです」


「それは何だ」


「原処分です」


「じゃあ何で裁決を取り消す」


 私は止まりました。


 あ。


 来た。


 行政事件訴訟法の、地味なくせに現場で間違えると笑えないやつ。


 原処分主義。


「でも」


 大沢さんが割って入りました。


「俺は審査請求で負けたんですよ」


「はい」


「だったら今度は、その負けた裁決を裁判所に持っていくんじゃないんですか」


「普通そう思いますよね」


「普通は、な」


 相馬先輩が煙草に火をつけました。


「でも行政訴訟は、普通の感覚で入口を選ぶと死ぬ」


「言い方」


「事実だ」


 片桐所長が奥から出てきました。


 裁決書を一度読み、


 次に原処分の通知書を見る。


 そして日付を確認しました。


「大沢さん」


「はい」


「市長の処分そのものが違法だと思っているんですね」


「当たり前です」


「県の裁決手続に問題があった、という話ではない?」


「手続?」


「たとえば、審査請求を出したのに、理由もなく受け付けなかった。必要な審理をせずに裁決した。権限のない者が裁決した。そういう裁決それ自体の違法です」


「いや」


 大沢さんは首を振りました。


「俺が言いたいのは最初から一つです」


 原処分通知を指す。


「市が小屋をどかせって言ったのが、おかしいんです」


「なら」


 片桐所長は静かに言いました。


「原処分を争う」


 大沢さんが眉を寄せました。


「審査請求で負けたあとでも?」


「負けたあとだからこそ、間違えるな」


 相馬先輩が言いました。


「裁決を取り消せば、元の処分まで勝手に消えてくれると思うな」


 私は頭の中で、受験テキストの図を引っ張り出しました。


 行政庁。


 処分。


 審査請求。


 裁決。


 そして取消訴訟。


 処分の取消しの訴え。


 裁決の取消しの訴え。


 二つある。


 でも。


 どちらを使うかは、


 いま目の前にある紙のうち「後から届いた方」を選べばいいわけじゃない。


 何が違法なのか。


 どの行政作用を消したいのか。


 そこから決まる。


「これが」


 私は小さく言いました。


「原処分主義……」


 相馬先輩が私を見る。


「声に出すな。相談者が置いていかれる」


「はい」


 今日も法律用語を人間語に訳す係です。


 私は大沢さんに向き直りました。


「つまりですね」


「ああ」


「市が最初に出した取消処分が間違っている、と言いたいなら、その最初の処分そのものを裁判で取り消してもらう必要があります」


「県の裁決じゃなく?」


「はい」


「じゃあ県の裁決を訴えるのは、どういうときだ」


「裁決そのものに違法があるときです」


 大沢さんは腕を組みました。


「……面倒だな」


「行政事件訴訟法って、入口の看板が全部似てるんですよ」


「こはる」


「はい」


「法律の悪口を言うな」


「説明です」


 片桐所長は原処分の日付をもう一度見ました。


 その顔が少しだけ硬くなります。


「相馬」


「ああ」


 相馬先輩も日付を見る。


 私は二人の空気が変わったことに気づきました。


「何ですか」


「処分を知った日は」


 相馬先輩が大沢さんに聞きました。


「え?」


「この取消処分。いつ受け取った」


 大沢さんは考えました。


「六月の……十日だったかな」


 私は卓上の暦を見ました。


 九月初旬。


 指が止まります。


 え。


「待ってください」


 私は頭の中で数えました。


 六月十日。


 七月十日。


 八月十日。


 九月。


「三か月……」


 相馬先輩がこちらを見る。


「そうだ」


 一気に背中が冷えました。


 昭和六十三年。


 取消訴訟。


 出訴期間。


 現代なら、処分または裁決があったことを知った日から六か月。


 でも。


 今は違う。


 三か月。


「でも昨日、裁決が届いたんですよね」


 私は言いました。


「審査請求してたんだから……」


 途中で止まる。


 出訴期間との関係。


 不服申立てをした場合。


 裁決を経たときの期間計算。


 単純に原処分から三か月数えて終わり、とは限らない。


 危ない。


 現代知識を半端に持ち込んで、昭和の条文と混ぜるところでした。


 片桐所長が言います。


「だから確認する」


「はい」


「推測で期限を言うな」


「はい」


「裁決書が届いた日、審査請求をした日、原処分を知った日。全部正確に取れ」


「はい」


 相馬先輩が大沢さんを見る。


「裁決書が届いたのは昨日で間違いないな」


「ああ」


「封筒は」


「捨てたかも」


「探せ」


「封筒まで?」


「到達日を争うことになってから『たしか昨日でした』じゃ仕事にならん」


 大沢さんが少し圧倒された顔をします。


 たぶん。


 この人は裁判というものを、


 もっとこう、


 法廷で、


「納得できねえ!」


 と叫べば始まるものだと思っていたのでしょう。


 私も受験生の頃は、どこかそんな感じでした。


 でも実際は。


 裁判所へ行く前に、


 日付。


 通知。


 名義。


 処分庁。


 原告適格。


 訴えの利益。


 出訴期間。


 前置の有無。


 何を取り消したいのか。


 その入口を一つずつ通過しないと、


 中身を聞いてもらえない。


 正しいかどうか以前に、


 聞く資格があるか。


 裁判所の門は、思ったより冷たい。


「所長」


 私は聞きました。


「この件、すぐ弁護士先生に繋いだ方がいいですよね」


「ああ」


 大沢さんが私を見る。


「行政書士さんが裁判やるんじゃないのか」


「できません」


「え?」


「私たちは訴訟代理人にはなれません」


「じゃあ何をするんだ」


 相馬先輩が机上の二枚の紙を指しました。


「裁判所へ持ってく前に、地雷を全部踏み抜かねえように整理する」


「地雷?」


「何を争うか」


 原処分通知。


「誰が処分したか」


 市長名義。


「いつ知ったか」


 六月十日。


「不服申立てをしたか」


 した。


「裁決はいつ来た」


 昨日。


「原告は誰か」


 大沢辰雄本人。


「処分で何を失った」


 道路占用の許可。


「取消してもらったら意味が戻るか」


 営業場所を使用できる可能性。


「そいつを揃えて」


 相馬先輩は言いました。


「弁護士に渡す」


 なるほど。


 行政書士が法廷で剣を振れないなら。


 剣を抜く前に、鞘の向きまで揃える。


 そういう仕事がある。


「それに」


 片桐所長が言いました。


「裁判だけが目的ではない」


「市と話すんですか」


「ああ」


 その日の夕方。


 私たちは市役所二階の総務課にいました。


 相変わらず書類の山の向こうに沢渡課長。


 私たちを見るなり、


「今日は道路占用ですか」


 と言いました。


「どうして分かるんです?」


「大沢さんでしょう」


「情報早いですね」


「県から裁決書の写しが来ています」


 相馬先輩が椅子へ座ります。


「なら話が早い」


「訴訟ですか」


 沢渡課長が淡々と言いました。


「大沢さんはそう言ってる」


「どうぞご自由に」


 来た。


 この人の「どうぞご自由に」は、


 自由を尊重しているようで、


 だいたいその先に落とし穴があります。


 案の定。


「ただし」


 沢渡課長が眼鏡を押し上げました。


「訴訟要件を満たしていれば、ですが」


 相馬先輩の口元が少し歪みます。


「嫌な言い方するな」


「裁判所は感情を審査しませんから」


「知ってる」


「原処分を争うのか、裁決を争うのか。その区別も必要ですね」


 私は思わず沢渡課長を見ました。


「そこまで読んでるんですか」


「当然でしょう」


「大沢さん、裁決を訴える気でした」


「それは危険ですね」


 敵から正論を投げられると腹が立つ。


 しかも正論の角が鋭い。


 片桐所長が机へ一枚のメモを置きました。


「こちらは原処分を問題にしている」


「市長の道路占用許可取消処分ですね」


「そうだ」


「違法理由は?」


 所長は一つずつ言いました。


「歩行環境改善を理由としながら、大沢さんの小屋が現実にどの程度通行を妨げているのか、具体的な調査記録が薄い」


「……」


「近接する公衆電話設備と売店付属設備は残している」


「性質が違います」


「違うなら、その違いがなぜ占用取消しという結論に結びつく」


「個別判断です」


「だからその個別判断の資料を確認したい」


 沢渡課長が黙りました。


 相馬先輩が続けます。


「それと、改善工事の着工時期」


「来年度です」


「来年度?」


「現時点の予定では」


「だったら、なぜ六月の時点で即時取消しだ」


「駅前整備全体を前倒しで――」


「前倒しする対象を、大沢さんの小屋だけにした理由は?」


 沈黙。


 私は横でメモを取りました。


 今日の戦いは、


 裁判所で勝つ話ではありません。


 もっと手前。


 市が、


 この処分を裁判所に持ち込まれても維持できるのか。


 そこを冷静に計算させる話です。


 沢渡課長は椅子へ深く座りました。


「審査請求では棄却されています」


「知っている」


 所長が答える。


「だから処分が適法だと確定したわけじゃない」


 沢渡課長がこちらを見る。


「もちろんです」


「県の棄却裁決がある。だから裁判所も市に従う。そういう話でもない」


「それも分かっています」


「なら」


 片桐所長は言いました。


「裁判になる前に、原処分の記録をもう一度見直してほしい」


 沢渡課長は少し考えました。


「訴訟をちらつかせて処分変更を求める、と?」


「違う」


「では?」


「訴訟になった場合に、市が説明しなければならない事実を、今ここで確認している」


 部屋の空気が変わりました。


 脅しではない。


 怒鳴らない。


 勝てるとも言わない。


 ただ。


 裁判になったら、


 この処分の目的は何か。


 なぜこの人なのか。


 なぜ今なのか。


 比較対象との違いは何か。


 その判断過程に合理性があるのか。


 一つずつ出てくる。


 それを先に机へ並べる。


「行政書士さんは」


 沢渡課長が言いました。


「裁判はできないはずですが」


「できない」


 片桐所長は即答しました。


「だから、裁判に行く前を仕事にしている」


 格好いい。


 所長。


 今のは格好いい。


 メモの端に星印を書きたい。


 でも後で見られると怒られるのでやめました。


「大沢さんは弁護士へ繋ぐ」


 所長が続けます。


「こちらで事実関係と書類を整理した上で」


「そうですか」


「それまでに、市が自分で確認するなら、それでもいい」


「処分の職権取消しも視野に入れろ、と?」


「結論までは指定しない」


「……」


「ただし、処分には公定力がある」


 私は顔を上げました。


「出た」


「何がです」


「いえ」


 危ない。


 つい法律用語に反応してしまいました。


 処分は、


 間違っているかもしれないからといって、


 その場で蒸発するわけではない。


 取消されるまでは、原則として効力を持つ。


 だから大沢さんは、


「おかしい処分だから無視する」


 では済まない。


 行政庁が自ら取り消すか。


 裁判所に取り消してもらうか。


 その道を通らなければならない。


「例外はありますよね」


 私は言いました。


「重大かつ明白な瑕疵があって無効になるような場合」


 相馬先輩が横目で私を見る。


「今日はそっちへ逃げるな」


「はい」


「大沢さんの件は、無効だと言って全部飛ばせるような単純な話じゃねえ」


「はい」


 そうです。


 何でも「無効です!」と言えば期間も形式も吹き飛ばせる。


 そんな便利な魔法はありません。


 むしろ。


 取消しうべき違法なら、


 取消訴訟という正面の道を通る。


 だからこそ期限が怖い。


「沢渡課長」


 所長が言いました。


「記録を見直してくれ」


「分かりました」


 沢渡課長はついに頷きました。


「道路管理担当と確認します」


「期限がある」


「裁判の?」


「ああ」


「承知しています」


 沢渡課長は時計を見ました。


「明日の午前中までに、一度回答します」


 帰り道。


 私は相馬先輩の横を歩きながら言いました。


「今日、かなり怖かったです」


「何が」


「三か月」


「ああ」


「現代の感覚で、六か月あるつもりになってたら」


「死ぬな」


「その言い方」


「でも死ぬ」


「否定できません」


 今なら六か月。


 この時代は三か月。


 未来から来た私にとって、


 昭和の行政事件訴訟法は、


 同じ地図に見えて道幅が半分になっている感じです。


「しかも被告も違いますよね」


 私は言いました。


「今なら市を被告にするけど、この時代は処分行政庁」


「そうだ」


「市長名義の処分なら――」


「訴訟を起こすのは弁護士だ」


「分かってます。整理です」


「ならよし」


「義務付け訴訟もないし」


「何だそれ」


「未来の話です」


「また未来か」


「現代なら、一定の場合に行政庁へ処分をするよう求める法定の義務付け訴訟が――」


「昭和六十三年にあるか」


「ありません」


「じゃあ黙れ」


「はい」


 厳しい。


 でも。


 この厳しさが、今日ほどありがたい日はありません。


 未来の制度を知っているからといって、


 過去で使えるわけではない。


 法律は知識量だけでなく、


 どの時点の法律を使うか。


 そこまで含めて法律なのです。


 翌日の午前十一時。


 市役所から電話が入りました。


 相馬先輩が出ます。


「片桐事務所。……ああ。……分かった。所長に代わる」


 片桐所長が受話器を受けました。


「片桐です」


 短いやり取り。


「はい」


「……そうですか」


「分かりました」


 切る。


 私は待てずに聞きました。


「どうでした?」


「市が再検討する」


「処分取消しですか?」


「まだそこまでじゃない」


 所長が言います。


「道路管理担当の資料を確認したところ、大沢さんの小屋について、今年度中に撤去させる必要性を裏付ける記録が十分でなかった」


「じゃあ」


「一度、処分の効力をどう扱うか法務担当と協議するそうだ」


 相馬先輩が腕を組みました。


「県まで棄却したあとで、ようやくか」


「それでも動いた」


 所長が言います。


 その日の夕方。


 大沢さんが事務所へ来ました。


「裁判、やるんですか」


「その準備は止めません」


 片桐所長が答えました。


「弁護士先生にも資料を送ります」


「市は?」


「処分を再検討しています」


「取り消すって?」


「まだです」


 大沢さんの顔が少し曇ります。


 私は言いました。


「でも、一つ変わりました」


「何が?」


「昨日までは、『審査請求でも棄却されたから終わり』みたいな空気だったんです」


「ああ」


「今は違います」


 私は二枚の紙を机に並べました。


 一枚目。


 市長の処分。


 二枚目。


 県の裁決。


「何が問題なのか、分けて考えられるようになりました」


「分ける?」


「はい」


「俺には同じ『駄目』にしか見えん」


「そこが罠なんです」


 私は一枚目を指しました。


「大沢さんが本当におかしいと思っているのは、こっちです」


 原処分。


「二枚目は?」


「審査請求に対する答えです」


「じゃあ」


 大沢さんは少し考えてから言いました。


「二枚目に負けたからって、一枚目の間違いまで正しくなるわけじゃない?」


 私は思わず笑いました。


「そうです」


「そういうことか」


 大沢さんも、ようやく少し笑いました。


「難しいな」


「難しいです」


「お前が言うのか」


 相馬先輩が横から突っ込みます。


「難しいものは難しいです」


「開き直るな」


 でも。


 たぶん今日の教訓はそこでした。


 行政事件訴訟法は、


 怒りの向きを法的な形に直す法律です。


 役所に腹が立つ。


 審査請求でも負けた。


 だから全部まとめて裁判だ。


 気持ちは分かる。


 でも裁判所は、


 その怒りをそのまま受け取ってはくれない。


 どの処分か。


 どの裁決か。


 何が違法なのか。


 何を取り消してほしいのか。


 入口で全部聞かれる。


 冷たい。


 ものすごく冷たい。


 でも。


 その冷たさがあるから、


 役所への怒りと、


 裁判で争うべき対象が、


 同じものだと思い込まずに済む。


 三日後。


 市から正式な連絡が入りました。


 大沢さんの道路占用許可取消処分について、


 再度の事実調査を行う間、


 撤去期限を延期する。


 そのうえで、


 駅前整備計画との関係を個別に再検討する。


 全面解決ではありません。


 処分がなくなったわけでもない。


 裁判の準備も続く。


 でも。


 少なくとも。


 明日、小屋を壊されることはなくなりました。


「一か月か」


 大沢さんは新しい通知を見ながら言いました。


「はい」


「一か月しかないんだな」


「そうですね」


「でも」


 彼は紙を折らずに、丁寧に茶封筒へ戻しました。


「昨日までゼロだった」


 私は何も言えませんでした。


 一か月。


 法律の本で見れば、


 ただの期間。


 でも。


 靴の修理道具を片付ける。


 常連客に話す。


 別の場所を探す。


 弁護士と相談する。


 家族と話す。


 その全部をするための三十日なら。


 ゼロとは全然違う。


 帰り際。


 大沢さんが玄関で振り返りました。


「朝比奈さん」


「はい」


「もし裁判になったら」


「はい」


「俺、何を訴えるんだっけ」


 私は笑いました。


「最初の処分がおかしいなら、最初の処分です」


「県の裁決じゃなく」


「はい」


「よし」


 大沢さんは自分に言い聞かせるように頷きました。


「最初を間違えるな、だな」


「それです」


 引き戸が閉まります。


 しばらくして。


 相馬先輩が新聞を広げながら言いました。


「今日の勉強は終わったか」


「今、まとめてました」


「何て?」


 私は机の端のメモを見ました。


 そこには一行。


 ――後から来た紙に惑わされるな。違法なのが原処分なら、争う相手も原処分。


「長いな」


「大事なことが多いんです」


「試験前には半分にしろ」


「じゃあ」


 私は下に書き足しました。


 ――何が違法かを先に決めろ。


 相馬先輩が新聞から目だけ出しました。


「そっちの方がましだ」


「褒めました?」


「気のせいだ」


 またそれです。


 私はペンを置きました。


 今日覚えたのは、


 裁判で勝つ方法ではありません。


 その前です。


 どの扉を叩くのか。


 そこを間違えないこと。


 行政訴訟は、


 中に入ってからが難しいのではなく、


 そもそも入口が難しい。


 そして。


 入口で間違えれば、


 どれだけ中身が正しくても、


 裁判所は先へ進ませてくれない。


「こはる」


 奥から片桐所長が呼びました。


「はい」


「大沢さんの資料」


「弁護士先生へ送る分ですね」


「まとめろ」


「はい」


「原処分と裁決を混ぜるな」


「もう間違えません」


「本当か」


「たぶん」


「相馬」


「はい」


「確認しろ」


「信用ゼロ!」


 相馬先輩が笑いました。


「訴訟要件に『こはるの自己申告』はねえからな」


「ひどい!」


「事実確認だ」


「そこだけ行政書士らしく言わないでください!」


 窓の外では、


 駅前へ続く道に夕方の人波が流れていました。


 明日も大沢さんの修理小屋は、そこにあります。


 いつまで残るかは、まだ分かりません。


 けれど。


 役所から二枚の「駄目」が届いても。


 それで全部が一つの「駄目」になるわけではない。


 処分には処分の争い方がある。


 裁決には裁決の争い方がある。


 そして。


 その違いを見分けるところから、


 裁判の入口は始まります。

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