[行政事件訴訟法・訴訟類型]現場編 「裁判なら役所のやることを全部止められる」の罠。三ヶ月しかない昭和の取消訴訟と、入口で追い返されないための戦い
裁判所の扉は、開いているからといって、誰でも中まで入れるわけではありません。
役所がひどい。
納得できない。
法律がおかしい。
裁判にしてやる。
そこまでは、誰でも言えます。
問題は、その次です。
あなたは何を取り消してほしいのか。
その処分で、あなた自身の何が傷ついたのか。
いつ知ったのか。
誰を相手に訴えるのか。
そして。
そもそも、その裁判を起こせる人なのか。
裁判所は、怒りの大きさでは扉を開けてくれません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
「裁判にしてやる!」
朝九時十四分。
事務所の引き戸が勢いよく開きました。
正確に九時十四分と分かったのは、ちょうど私がお茶をひっくり返しかけて壁の時計を見たからです。
「役所を訴えてやる! 市を相手に裁判だ!」
「落ち着いてください」
「落ち着いてられるか!」
「ですよね!」
「お前まで煽るな」
相馬先輩に後頭部を小突かれました。
入ってきた男性は、五十代半ば。
日に焼けた顔。
紺色の作業着。
両手には、折れそうなくらい強く握られた茶封筒。
名前は、
早川源治さん。
駅南側にある市営朝市広場で、二十五年以上、乾物屋を営んできた人でした。
昆布。
煮干し。
干し椎茸。
海苔。
木箱と籠を並べた小さな売店。
毎朝六時に店を開け、昼には閉める。
源治さんの父親の代から使っている場所だそうです。
「これ見てくれ!」
茶封筒から一枚の紙が出てきました。
市長名。
市営朝市広場使用許可取消通知書。
私は一瞬、姿勢を正しました。
許可の取消し。
来ました。
行政事件訴訟法が、教科書から靴を履いて歩いてきた感じです。
理由欄には、こうありました。
――駅南地区再整備事業に伴う防災通路及び工事用進入路確保のため、昭和六十三年十月三十一日をもって、市営朝市広場使用許可を取り消す。
「十月三十一日」
私は読み上げました。
「あと?」
「十二日だ!」
源治さんが机を叩きました。
「十二日したら店をどかせって話だ!」
「代わりの場所は?」
「ない!」
「移転補償は?」
「ない!」
「事前説明は?」
「説明会はあった! でも『計画を検討しています』って話だった! こんな紙がいきなり来るなんて聞いてねえ!」
相馬先輩が通知を取ります。
「この紙、いつ届いた」
「いつって?」
「配達された日だ」
「二ヶ月くらい前だよ」
私は止まりました。
「……二ヶ月?」
「ああ」
「二ヶ月前?」
「そう言ってるだろ」
「具体的には?」
源治さんが顔をしかめます。
「八月の頭だったかな」
相馬先輩の顔から、ほんの少しだけ眠気が消えました。
「封筒は」
「持ってきた」
消印。
八月三日。
源治さんが受け取ったのは、その翌日だったそうです。
私は頭の中で計算します。
八月四日。
今日。
十月十九日。
そして。
昭和六十三年。
「……先輩」
「分かったか」
「はい」
嫌な汗が出ました。
現代なら。
取消訴訟の出訴期間は、原則として処分があったことを知った日から六箇月。
六ヶ月。
受験生の私は、赤ペンで何度も囲みました。
だから一瞬、
まだ余裕ありますね。
と言いかけました。
でも。
違う。
ここは昭和六十三年。
平成十六年改正前。
この時代の取消訴訟は。
「三ヶ月……」
私は呟きました。
「何?」
源治さんが聞き返します。
「この時代、三ヶ月しかない」
自分で言って、自分で青くなりました。
八月四日に知ったなら。
十一月上旬。
もう目の前です。
「何だよ」
源治さんが身を乗り出します。
「三ヶ月って」
相馬先輩が通知を机へ置きました。
「裁判を起こすなら、いつでも好きな時に、ってわけじゃねえ」
「あと十二日で店をどかされるんだぞ!」
「だからこそ急ぐ」
「十二日後に裁判すりゃいいだろ!」
「違う」
片桐所長が言いました。
それまで黙って通知を見ていた所長が、顔を上げます。
「処分を知ってから、時間が経っている」
「でもまだ店はある!」
「店があるかどうかと、訴訟を起こせる期間は別だ」
源治さんが黙りました。
怒鳴り声が急に消える。
行政法って、こういうところがあります。
生活感覚では、
まだ被害が本格化していない。
だから、まだ間に合う。
と思う。
でも法律は、
いつ処分を知ったか。
そこから時計を動かす。
冷たい。
でも。
その時計を知らなければ、裁判所の入口そのものが消えてしまう。
「こはる」
「はい」
「今日の日付」
「十月十九日」
「到達日」
「八月四日」
「まず何をする」
私は答えます。
「正確な出訴期間を確認します」
「それから」
「処分性」
「それから」
「原告適格」
「それから」
「訴えの利益」
「それから」
「誰を被告にするか」
「それから」
「どの訴訟類型を使うか」
相馬先輩が鼻を鳴らしました。
「やっと裁判の話になったな」
源治さんが苛立った顔になります。
「何だよ、その何とか適格ってのは」
「裁判する資格みたいなもんです」
私が言うと、
「雑すぎる」
相馬先輩に即座に刺されました。
「だって今は分かりやすく」
「分かりやすいのと雑なのは違う」
「じゃあ先輩お願いします」
「嫌だ」
「逃げた」
片桐所長が通知書を指で叩きました。
「早川さん」
「はい」
「役所が違法なことをしたからといって、誰でも取消訴訟を起こせるわけではありません」
「何でだ」
「裁判は、行政一般を監督するためだけの仕組みではないからです」
源治さんは首を傾げました。
所長が続けます。
「まず、あなた自身の権利や法律上保護された利益が、その処分で害されているのかを確認する」
「俺の店がなくなるんだぞ」
「そこは重要です」
私は言いました。
「早川さん自身に出ていた使用許可が取り消された。だから、この処分は早川さん自身に直接向けられてます」
「じゃあ訴えられるんだな」
「そこだけで全部終わりじゃないです」
「まだあるのか!」
あります。
ものすごくあります。
行政事件訴訟法は、
裁判を始める前に確認することが多い。
しかも、
一つ落とすと、
中身を見てもらう前に終わることがある。
違法かどうか。
市役所の判断がおかしかったか。
そこまで行かない。
入口で終了。
門前払い。
受験生の頃は、
訴訟要件。
という四文字でした。
現場で聞くと、もっと怖い。
――あなたの言い分が正しいかどうかは判断しません。
その前に、この裁判は扱えません。
と言われる可能性があるということです。
「それで」
源治さんが腕を組みました。
「俺は何をすりゃいいんだ」
「まず、事実を集めます」
相馬先輩が答えました。
「またそれか」
「裁判だからって紙に『違法です』って書けば勝てると思うなよ」
「思ってねえよ」
「思ってる顔だ」
「どんな顔だ!」
相馬先輩は無視しました。
「二十五年使ってきた。毎年許可を受けた。今回、取消しを受けた」
「ああ」
「理由は、防災通路と工事用進入路の確保」
「ああ」
「で、その場所、本当に工事用道路に使うのか」
源治さんの顔が変わりました。
「そこなんだよ」
「何だ」
「うちの隣、八百屋なんだ」
「はい」
「残るんだよ」
私はペンを止めました。
「残る?」
「許可、取り消されてねえ」
「位置は?」
「同じ並びだ」
「反対側は?」
「魚屋も残る」
「……早川さんの店だけ?」
「あと二軒だ。全部、古い売店」
「共通点は」
「分からん」
「広さ?」
「うちより八百屋の方が広い」
「工事車両の進入路はどこから?」
「役所は広場の東側からって説明してた」
「早川さんの売店は?」
「西側だ」
相馬先輩が私を見る。
私は頷きました。
嫌な匂いがします。
もちろん。
これだけで違法とは言えません。
役所には役所の事情があるかもしれない。
段階的撤去。
設備。
防災。
配管。
工事工程。
理由はいくらでも考えられる。
でも。
取消処分の理由と、
現地の事情が、
本当にかみ合っているのか。
そこは確認しなければならない。
「市役所へ行くぞ」
相馬先輩が立ち上がりました。
「今から?」
「出訴期間が迫ってんだろ」
「ですよね」
源治さんも立ち上がります。
「俺も行く」
「今日は待ってくれ」
「何でだ」
「怒鳴るからだ」
「怒鳴らねえ!」
「さっきからずっと怒鳴ってる」
「これは普通だ!」
普通の基準が豪快です。
片桐所長が静かに言いました。
「早川さん」
「はい」
「裁判をするかどうかは、弁護士と相談して決めてもらいます」
「先生じゃ駄目なのか」
「私は行政書士です」
「法律の仕事だろ」
「訴訟代理はできません」
所長ははっきり言いました。
「私たちがやるのは、裁判を起こせる事件なのか、材料を整理するところまでです」
「じゃあ途中までか」
「違います」
私は思わず口を挟みました。
源治さんがこちらを見る。
「裁判って、裁判所に行ってから始まるんじゃないんです」
「は?」
「入口に立てるようにするところから始まってるんです」
自分で言って。
少し分かりました。
処分通知。
到達日。
理由。
現地。
比較対象。
誰が処分したか。
原告になるのは誰か。
訴えの利益はあるか。
期間は残っているか。
弁護士に持っていくとき、
全部、
分かりません。
では困る。
行政書士が法廷に立たなくても。
法廷の前まで道を整える仕事はある。
「行くぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「あと」
「何です?」
「役所で未来の法律を喋るなよ」
「喋りませんよ」
「顔に出すな」
「それは難しいです」
なぜなら。
私はすでに、
別の地雷を踏みかけていたからです。
現代だったら。
取消訴訟。
場合によっては義務付け。
さらに差止め。
仮の義務付け。
仮の差止め。
頭の中に、現代行政事件訴訟法のメニューが並びます。
今回なら、
取消しだけじゃなく、
市に使用継続を認めさせる義務付け。
撤去を止める差止め。
そういう発想が出る。
でも。
昭和六十三年。
そのメニュー。
まだありません。
義務付け訴訟。
法定されていません。
差止め訴訟。
法定されていません。
現代みたいに、
じゃあ差止めも一緒に。
なんて気軽に言えない。
無名抗告訴訟として議論する余地はあっても、
認めてもらうハードルは高い。
仮の義務付け?
ありません。
仮の差止め?
ありません。
処分を一時的に止めたいなら。
基本は執行停止。
私は階段を下りながら、心の中で叫びました。
昭和の行政裁判、不便すぎる。
制度が悪いと言いたいわけではありません。
いや。
ちょっと言いたい。
市役所二階。
総務課。
私たちが朝市広場の図面を持って入ると、
沢渡課長は眼鏡越しにこちらを見ました。
「今日は何でしょう」
「朝市広場」
相馬先輩が言いました。
「早川源治さん」
「ああ」
「使用許可取消し」
「再整備の件ですね」
「理由を聞きたい」
「通知に記載してあります」
「またそれですか」
思わず言ってしまいました。
沢渡課長が私を見ます。
「朝比奈さん」
「はい」
「通知書は読むためにあります」
「読むだけで全部分かったら、ここに来ません」
横で相馬先輩が小さく咳払いしました。
ちょっと黙れ、の意味です。
「早川さんの売店を外さないと、防災通路も工事用進入路も確保できないんですか」
私が聞くと、
沢渡課長は図面を見ました。
「整備計画全体に基づく判断です」
「東側から工事車両を入れる予定だと聞いています」
「現段階の案です」
「早川さんの店は西側ですよね」
「広場全体の動線を確保します」
「隣の八百屋は残る」
一瞬。
沢渡課長の指が止まりました。
「段階的に整理します」
「魚屋も残る」
「個別の事情があります」
「早川さんだけ先に取消しにする個別事情は?」
「それを外部へ全部説明する義務があるかは別問題です」
来た。
沢渡壁。
役所の書庫で三十年乾燥させたような回答です。
相馬先輩が椅子へ座り直しました。
「課長」
「はい」
「早川さんは裁判も検討してる」
沢渡課長の表情は変わりませんでした。
「どうぞご自由に」
乾いてる。
本当に乾いてる。
「ただし」
沢渡課長は続けました。
「裁判にすれば、市が必ず本案で相手をしてくれると思わない方がいいでしょう」
私は眉を寄せました。
「どういう意味ですか」
「訴訟要件があります」
さらっと言いました。
やっぱり来た。
「原告適格」
「はい」
「訴えの利益」
「はい」
「出訴期間」
「もちろん」
「被告適格」
沢渡課長がこちらを見る。
「間違えませんか?」
嫌な言い方!
でも。
刺さる。
「市を訴えるって本人は言ってましたけど」
私は慎重に言いました。
「この時代、被告は市じゃない」
「では?」
試験ですか。
ここ市役所ですよね。
「処分をした行政庁」
「具体的には?」
通知を見る。
市営朝市広場使用許可取消し。
処分庁。
市長。
「市長です」
「そうですね」
沢渡課長が頷きました。
現代なら。
被告は公共団体。
湖西市。
でも昭和六十三年は違う。
処分行政庁。
湖西市長。
未来知識だけで訴状を作ったら、
被告欄から時代事故。
転生って、もっと剣と魔法とかだと思っていました。
被告適格で死にかける転生者って何なんでしょう。
「それから」
沢渡課長が続けます。
「朝市広場を残したい市民なら、誰でも訴えられるわけではありません」
「分かってます」
「本当に?」
腹立つ。
でも。
ここは大事です。
「早川さん自身の使用許可が取り消された。だから早川さんは、その処分によって直接不利益を受けます」
「その整理なら結構です」
「近所の人が『朝市が好きだから』って理由だけで取消訴訟を起こすのとは違う」
「そうですね」
主観訴訟。
頭の中で言葉が浮かびました。
自分の権利利益を救済するための訴え。
今回の早川さんは、
行政一般が気に入らないから訴えるわけではない。
自分に出された処分で、
自分の営業場所を失う。
だから、
自分の救済を求める。
「ただ」
私は言いました。
「違法な行政なら、誰かが止めないといけない場合もありますよね」
「あります」
「それは別の訴訟類型になる」
沢渡課長が少し目を細めました。
「民衆訴訟などを言いたいんですか」
「はい」
「朝比奈」
相馬先輩が低い声で呼びました。
「広げるな」
「すみません」
つい全体マップを完成させたくなる受験生脳。
でも。
私は今、少しだけ整理できました。
行政事件訴訟。
全部同じではない。
まず。
自分自身の権利利益を救う主観訴訟。
その中に。
行政庁の公権力行使を争う抗告訴訟。
公法上の法律関係を当事者として争う当事者訴訟。
一方で。
自分の権利救済とは別に、
行政の適法性を確保するための客観訴訟。
民衆訴訟。
機関訴訟。
受験テキストでは、
箱。
矢印。
枝分かれ。
だったものが。
今、
早川さんという一人の人間をどの箱に入れるのか。
その話になっています。
「で」
相馬先輩が言いました。
「処分の資料、出せる範囲で見せてくれ」
「どの資料です」
「取消対象を選んだ基準」
「内部資料です」
「工事工程」
「調整中です」
「防災通路の幅」
「担当課へ確認します」
「隣の売店を残す理由」
「個別案件です」
「早川さん自身を外した理由」
沢渡課長が少し黙りました。
「防災通路確保です」
「だから」
相馬先輩が図面を指しました。
「この位置で、何でここだけ外す」
「計画全体を見て判断しています」
「その計画全体を聞いてる」
「現時点で確定していない部分もあります」
「確定してねえのに許可だけ取り消した?」
「将来必要になるためです」
「いつ?」
「工事工程によります」
「十二日後?」
「必ずしも」
相馬先輩の目が細くなりました。
「おい」
「何でしょう」
「十月三十一日で許可を切る必要性、本当にあるのか」
「行政計画上の判断です」
「その判断に合理的な根拠があるかって聞いてる」
部屋が静かになります。
私は紙に書きました。
取消日。
十月三十一日。
工事開始。
未定。
工事用進入路。
東側案。
早川売店。
西側。
隣接店舗。
継続。
これは。
取消訴訟で争う中身になり得る。
もちろん最終判断は弁護士。
そして裁判所。
私たちは勝てるとは言えない。
でも。
入口の材料は、
少しずつ揃ってきました。
「課長」
片桐所長が初めて口を開きました。
「もう一つ」
「何でしょう」
「早川さんの取消処分について、処分後に工事計画が変更されているか」
一瞬。
沢渡課長の視線が止まりました。
「なぜそう思います」
「通知は八月」
「はい」
「現地の工事予定図は九月改訂だ」
所長が持ってきた市の説明会資料を広げます。
私は驚きました。
「所長、これいつ」
「さっき資料棚で見つけた」
「さっき!?」
「お前が茶をこぼしかけてる間だ」
仕事が速い。
「八月時点では、西側にも進入路案があった」
所長が言います。
「九月の改訂図では東側一本に寄っている」
沢渡課長は答えません。
「つまり」
所長が続けます。
「取消処分を出したあと、その理由の前提になっていた計画が変わっている可能性がある」
相馬先輩が口元を上げました。
「それでも十月三十一日で取り消す必要があるのか」
「……担当課に確認します」
今日二回目。
でも今度は重い。
沢渡課長は図面を閉じました。
「ただし」
「何だ」
「皆さん、一つ勘違いしないでください」
沢渡課長は淡々と言いました。
「裁判をちらつかせれば行政が処分を撤回する、という話ではありません」
「分かってる」
「行政には行政の責任があります」
「それも分かってる」
「計画変更があったとしても、将来の再整備の必要性が消えるわけではない」
「そうだな」
「取消処分が直ちに違法になるとも限りません」
「それも承知だ」
相馬先輩は椅子から立ちました。
「だから確認しろって言ってんだよ」
二人がしばらく睨み合います。
喧嘩ではありません。
怒鳴り合いでもない。
もっと嫌なやつです。
お互い、
どこを突かれたら困るか分かっている人間同士の会話。
「確認結果は」
片桐所長が聞きました。
「明日までに」
「頼む」
帰り道。
私は大きく息を吐きました。
「怖かった……」
「何がだ」
「沢渡課長」
「いつものことだろ」
「今日は訴訟要件で刺してきましたよ」
「裁判なら普通だ」
「普通だから怖いんです」
相馬先輩が煙草を出しました。
「覚えとけ」
「はい」
「役所が違法っぽい」
「はい」
「腹が立つ」
「はい」
「裁判したい」
「はい」
「それだけじゃ足りねえ」
「……はい」
「裁判所は市役所への苦情受付じゃねえ」
乱暴な言い方。
でも正しい。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「今回、取消訴訟を起こせたとして」
「うん」
「十月三十一日に店をどかせっていう効果を、一旦止めるなら」
「執行停止を検討することになるな」
「ですよね」
「ただし裁判所が認めるかは別だぞ」
「はい」
そして。
私は言いかけました。
「あと、差止め訴訟――」
相馬先輩が止まりました。
「何だそれ」
しまった。
「未来です」
「またか」
「現代では法定されるんです」
「今あるのか」
「ありません」
「じゃあ言うな」
「義務付け訴訟も」
「あるのか」
「ありません」
「黙れ」
「仮の義務付けも」
「朝比奈」
「はい」
「今ある武器数えろ」
「取消訴訟」
「うん」
「執行停止」
「うん」
「無効等確認」
「今回それ使うのか」
「たぶん違います」
「不作為の違法確認」
「今回、不作為じゃなくて取消処分です」
「じゃあ」
「まず取消訴訟」
「それでいい」
そうなんですよね。
現代の私は、
行政がしてくれない。
なら義務付け。
行政がしようとしている。
なら差止め。
と整理できる。
でも昭和六十三年。
そんなに親切ではない。
行政に何かをさせたい。
止めたい。
そういう場面は、
法定された訴訟類型が十分揃っていない。
だから当時の人にとって、
行政裁判はもっと狭い入口だった。
「未来って」
相馬先輩が言います。
「便利になるんだな」
「かなり」
「なら何でお前は毎回間違える」
「便利になった分、昔が罠なんです」
「未来人向いてねえな」
「自覚あります」
事務所へ戻ると。
片桐所長はすぐ電話を取りました。
「先生。片桐です」
提携している弁護士。
南雲先生。
行政事件にも詳しい人でした。
「市営朝市広場の使用許可取消しです。出訴期間が迫っています」
私は横で資料を並べます。
処分通知。
封筒。
到達日メモ。
過去の使用許可証。
現地見取図。
説明会資料。
八月図面。
九月改訂図。
隣接店舗一覧。
許可取消対象一覧。
工事予定。
理由。
相馬先輩が私の並べ方を直しました。
「時系列順」
「分かってます」
「分かってないから直してる」
「今やろうとしてたんです」
「行政法受験生の『分かってる』は信用しねえ」
「偏見です」
電話を終えた所長が言いました。
「明日の夕方、南雲先生のところへ行く」
「早川さんも?」
「ああ」
「間に合いますか」
「間に合わせる」
短い。
でも。
その一言が一番頼もしかった。
「こはる」
「はい」
「引継ぎ票を作れ」
「はい」
「訴訟要件から」
「分かりました」
私はタイプライターの横に紙を置きました。
事件名。
市営朝市広場使用許可取消処分。
処分庁。
市長。
原告候補。
早川源治。
処分を受けた本人。
処分性。
使用許可取消しにより公法上の地位に直接影響。
原告適格。
処分の名宛人本人。
訴えの利益。
現在も売店営業中。
取消しにより営業場所喪失予定。
出訴期間。
八月四日到達。
三ヶ月期限に注意。
被告。
処分行政庁たる市長。
主たる訴訟類型。
取消訴訟。
仮の救済。
執行停止の検討。
違法性に関する主張候補。
処分理由と現況との不整合。
処分後の計画変更。
取消時期の必要性。
近接店舗との差異。
判断過程の合理性。
そして最後に。
私は一つ書きました。
行政書士事務所の対応範囲。
訴訟代理は行わない。
事実・資料・行政処分関係の整理の上、弁護士へ引継ぎ。
「所長」
「何だ」
「これで」
所長が目を通します。
「一つ抜けてる」
「え」
「早川さんの目的」
「目的?」
「何をしてほしいのか」
「あ」
大事。
法律家はつい、
どの訴訟類型か。
から考えます。
でも本人は、
訴訟類型が欲しいわけじゃない。
「店を続けたい」
私は書きました。
「少なくとも、移転先が決まるまで」
「そうだ」
「そのために、取消処分の効力を争う」
「うん」
「裁判が目的じゃない」
「そうだ」
そこ。
忘れるところでした。
翌日の午後。
市役所から電話が入りました。
相馬先輩が出ます。
「はい。……ああ。……分かった」
また短い。
切る。
「沢渡課長?」
「そうだ」
「どうでした」
「処分、いったん見直すってよ」
「え?」
「取り消すんですか?」
「まだそこまでじゃねえ」
相馬先輩が椅子に座りました。
「工事計画が九月に変わってた」
「やっぱり」
「早川さんの売店を十月末に撤去しなくても、第一期工事には支障がない」
「じゃあ」
「取消処分の撤回を含めて再検討する」
私は思わず立ち上がりました。
「裁判しなくて済むかも」
「かも、だ」
「はい」
「喜ぶの早い」
そこへ。
もう一度電話。
今度は所長が出ました。
「片桐です」
数十秒。
「分かりました」
切る。
「どうでした」
「早川さんの取消処分は撤回する方向で決裁に回す」
「……本当に?」
「ああ」
「理由は?」
「新しい工事計画では、今年度中の撤去の必要性がなくなった」
事務所が静かになりました。
裁判。
しなくて済む。
たぶん。
でも。
私は少しだけ複雑でした。
「何だ」
相馬先輩がこちらを見ます。
「いえ」
「言え」
「行政事件訴訟法なのに、裁判しないんだなって」
相馬先輩が呆れました。
「裁判しなくて済んだならいいだろ」
「そうなんですけど」
「お前は教材のために人を訴訟させたいのか」
「違います!」
「じゃあいい」
そう。
行政事件訴訟法を知っている意味は、
何でも裁判にすることではない。
裁判になったら、
どこを突かれるのか。
何が争点になるのか。
どんな資料が必要なのか。
それが分かる。
だから。
裁判になる前の交渉で、
役所にも、
この処分を本当に維持できるのか。
と考えさせることができる。
夕方。
早川源治さんが事務所へ飛び込んできました。
「撤回するって本当か!」
「まだ正式通知前ですが」
「店、続けていいのか!」
「今年度については、そうなる見込みです」
「来年は?」
「再整備計画次第です」
「ずっとじゃねえのか」
「はい」
源治さんは一瞬だけ残念そうな顔をしました。
でも。
すぐ笑いました。
「十分だ」
「十分ですか」
「ああ」
「十二日前は、市を訴えてやるって」
「言った」
「今は?」
「裁判しなくて済むなら、その方がいい」
そりゃそうです。
誰も、
好きで裁判をしたいわけじゃない。
「ただな」
源治さんは頭を掻きました。
「悔しかったんだ」
「何がです」
「紙一枚で終わりだったことだ」
私は黙って聞きました。
「二十五年やってきた店がよ」
「はい」
「『十月三十一日で終わりです』って一枚来て、それで全部決まったみたいな顔されるだろ」
「……はい」
「俺には何もできねえって思った」
そこで。
源治さんは通知書を見ました。
「でも、裁判できるかもしれねえって分かったら」
「はい」
「役所も、もう一回調べた」
そう。
裁判所に行くことだけが、
行政事件訴訟法の力ではない。
訴えられる。
裁判官に見てもらえる。
違法なら取り消される可能性がある。
その制度が背後にあるから。
役所も、
自分の処分を、
裁判所へ持っていかれて耐えられるものか。
と考える。
「早川さん」
片桐所長が言いました。
「今回は処分が見直されそうです」
「ああ」
「でも、次の処分が出たら、紙を放置しないでください」
「……はい」
「二ヶ月半寝かせるな」
相馬先輩が刺しました。
「忙しかったんだよ!」
「店なくなる通知より忙しいこと何だ」
「漁協の秋祭りだ!」
「知らねえよ!」
私は吹き出しました。
源治さんも笑います。
「でも」
私は言いました。
「本当に危なかったです」
「ああ?」
「この時代、取消訴訟の出訴期間は三ヶ月ですから」
「三ヶ月」
「はい」
「半年くらいあるもんだと思ってた」
私は固まりました。
「……私もです」
「お前もか!」
相馬先輩が即座に突っ込みました。
「最初の三秒だけです!」
「未来人め」
「声が大きい!」
源治さんが首を傾げました。
「未来人?」
「何でもありません」
危ない。
行政事件訴訟より先に、身元が取消されるところでした。
数日後。
正式に。
早川さんに対する市営朝市広場使用許可取消処分は撤回されました。
新しい工事計画に基づき、
次年度以降の使用について改めて協議する。
そう記載されていました。
あの日。
「裁判にしてやる」
と怒鳴っていた源治さんは。
その通知を両手で持って、
長いこと眺めていました。
「これで明日も店、出せるんだな」
「はい」
「煮干し持ってくる」
「いりません」
相馬先輩が言いました。
「何でだ!」
「事務所が臭くなる」
「いい煮干しだぞ!」
「食うなら昆布にしてください」
私が言うと。
「お前はもらう気か」
「出汁取れますよ」
「事務所で何作るんだ」
「味噌汁?」
「仕事しろ」
片桐所長が一言。
「昆布なら置いていけ」
全員が止まりました。
「所長」
「何だ」
「昆布好きなんですか」
「悪いか」
「いえ」
人間。
長く一緒にいても知らないことがあります。
行政事件訴訟の訴訟類型より、所長の好物の方が謎でした。
源治さんが帰ったあと。
私は机の上に一枚の紙を置きました。
そこへ、
箱を書きます。
行政事件訴訟。
そこから二つに分ける。
主観訴訟。
客観訴訟。
主観訴訟。
自分の権利利益を守る。
その中に、
抗告訴訟。
当事者訴訟。
客観訴訟。
自分の利益だけではなく、
行政の適法性を確保する。
民衆訴訟。
機関訴訟。
「何してる」
相馬先輩が覗きます。
「整理です」
「今日さんざんやったろ」
「現場でやったから、今なら意味が分かるんです」
取消訴訟。
ただの分類じゃない。
早川さんが、
自分に向けられた取消処分を取り消してほしい。
だから主観訴訟。
行政庁の公権力行使を争うから抗告訴訟。
そして。
取消訴訟。
処分そのものが初めから存在しないと言いたいなら、
無効等確認。
行政庁が申請に答えないなら、
不作為の違法確認。
でも。
この昭和六十三年には。
現代のような法定の義務付け訴訟も、
差止め訴訟もない。
「不便ですねえ」
私は言いました。
「何が」
「この時代の行政裁判」
「今さら何だ」
「行政が何かしてくれない時に、『しろ』って言う訴訟が普通に用意されてない」
「うん」
「これから違法なことをされそうな時に、『するな』っていう差止めも法定されてない」
「うん」
「仮の救済も狭い」
「うん」
「しかも三ヶ月」
「文句多いな」
「未来を知ってると余計に」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「だからこそ」
「はい」
「入口を間違えるな」
私は所長を見ました。
「昔は救済の道具が少ない」
「はい」
「なら、使える道具を落とすな」
なるほど。
法制度が厳しい。
期間が短い。
訴訟類型も狭い。
被告も間違えやすい。
だからこそ。
一つひとつ。
冷たく確認する。
処分か。
原告になれるか。
利益はあるか。
期間内か。
被告は誰か。
どの訴えか。
「法律って」
私は呟きました。
「意外と冷たい方が人を救う時ありますね」
相馬先輩が聞き返します。
「何だそれ」
「早川さん、最初は『二十五年やってきた』って話でした」
「ああ」
「それ、大事です」
「うん」
「でも、それだけじゃ裁判できるか分からない」
「そうだな」
「だから、到達日はいつ、処分は何、誰がした、早川さん自身にどう影響する、って冷たく整理した」
「うん」
「結果として、それが役所に一番効いた」
感情を削った。
だから人が消えたわけではない。
むしろ逆でした。
怒りだけでは届かなかった場所へ、
法的な形に整えたことで届いた。
それが、
制度の冷たさが人を救う。
ということなのかもしれません。
私は紙の下に書きました。
――裁判は、「役所がおかしい」だけでは始まらない。
少し考えて。
さらに書き足します。
――誰が、何を、いつ、誰に対して争うのか。入口を揃えて、初めて中身を見てもらえる。
「長い」
相馬先輩が言いました。
「今日の教訓です」
「もっと短くしろ」
「じゃあ」
私は書き直しました。
――行政裁判は、怒りより先に入口を揃える。
「まあいい」
「褒めました?」
「気のせいだ」
「またそれ」
そのとき。
事務所の引き戸が開きました。
「おーい!」
源治さん。
大きな箱を抱えています。
「何です、それ」
「昆布!」
「本当に持ってきた!」
「所長が好きなんだろ!」
「誰が言った」
片桐所長がこちらを見る。
「私は言ってません」
「俺でもない」
相馬先輩も首を振ります。
源治さんが笑いました。
「顔で分かった!」
そんな原告適格みたいな顔があるんでしょうか。
「あと煮干しもあるぞ!」
「いりません」
相馬先輩が即答。
「不当だ!」
源治さんが叫びます。
「裁判するぞ!」
私は思わず言いました。
「その前に訴訟要件を確認します!」
「何だそれ!」
「今日、一番大事だったところです!」
相馬先輩が腹を抱えて笑いました。
片桐所長は無言で昆布の箱を受け取ります。
窓の外。
夕暮れの向こうに、市営朝市広場の屋根が少しだけ見えていました。
明日の朝も。
あそこで店が開く。
煮干しが並ぶ。
昆布が吊られる。
客が来る。
それは。
裁判で勝ち取った景色ではありません。
けれど。
裁判という道が法律の中にあるからこそ、
一枚の通知で終わらなかった景色でした。
行政事件訴訟法。
教科書では、
主観訴訟。
客観訴訟。
抗告訴訟。
当事者訴訟。
民衆訴訟。
機関訴訟。
箱だらけの法律です。
でも。
その箱の入口には、
必ず人が立っています。
店を守りたい人。
処分を取り消してほしい人。
行政に答えてほしい人。
違法な状態を正したい人。
そして裁判所は、
その人に聞く。
――あなたは、何を争いに来たのですか。
その問いに答えられなければ。
扉は開かない。
厳しい。
面倒。
冷たい。
でも。
だからこそ。
誰かの怒鳴り声の大きさではなく、
法に照らして救うべき人を救うことができる。
私は机の紙をもう一度見ました。
主観訴訟。
客観訴訟。
昨日まで。
ただの分類。
今日から。
裁判所の扉を開けるための地図。
「こはる」
「はい」
所長が昆布の箱を持ったまま言いました。
「味噌汁」
「作るんですか」
「お前が言った」
「仕事中ですよ」
「勤務時間は終わってる」
「行政書士見習いの職務範囲、広すぎません?」
相馬先輩が笑います。
「不服なら裁判しろ」
「誰を被告にするんですか」
「所長」
「昭和だからって何でも行政庁扱いしないでください!」
片桐所長が静かに言いました。
「却下」
「まだ訴えてません!」
「訴えの利益がない」
「味噌汁作らされる利益があります!」
「それは利益じゃなくて不利益だろ」
「そうでした!」
今日学んだばかりなのに。
もう入口でつまずいています。
どうやら。
行政事件訴訟法を使いこなすまでには。
私にも、
もう少し時間が必要そうでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




