[行政不服審査法83条・教示をしなかった場合の不服申立て]法理編 こはるノート
役所の紙というものは、昼間より夕方に読んだほうが少しだけ怖く見えます。
昼間なら、
通知。
処分。
理由。
そういう文字がただ並んでいるだけなのに。
日が傾いて事務所が静かになると、
その紙一枚で店を閉める人がいる。
仕事を失う人がいる。
そして――どこへ助けを求めればいいのか分からなくなる人もいる。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
窓の外では、駅前再整備工事の柵が夕日を受けて赤く光っていました。
机の上にはノート。
隣には、八木澄江さんが持ってきてくれた焼き菓子。
残り一個。
私は先に焼き菓子を自分の側へ寄せました。
「何してる」
相馬先輩が言いました。
「保全です」
「何の」
「財産の」
「お前のじゃねえ」
「共有財産です」
「勝手に共有にすんな」
行政法の勉強を始める前に民法上の争いが発生しました。
片桐所長が奥の机から言います。
「こはる」
「はい」
「始めろ」
「はい」
私はノートの一番上に、大きく書きました。
――教示をしなかった場合の不服申立て。
その下。
今日の事件。
八木澄江さん。
駅前仮設店舗設置許可申請。
不許可。
通知書には、不服申立てについての案内なし。
私はペンを止めました。
「昨日までは」
「何だ」
相馬先輩。
「教示って、正直かなり地味な論点だと思ってました」
「お前は行政法の半分くらい地味だと思ってるだろ」
「否定できません」
「で?」
「でも今回、ちょっと見え方が変わりました」
処分そのものが問題になる。
これは分かりやすい。
許可された。
不許可になった。
営業停止になった。
取消された。
結果が目に見えるからです。
でも。
教示は違います。
教示そのものが、直接その人の権利を与えるわけではない。
不許可を許可に変えるわけでもない。
ただ、
不服があるなら、
どこへ。
いつまでに。
どう申し立てればいいのか。
それを知らせる。
「案内板みたいなものですね」
私が言うと、相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけました。
「案内板?」
「はい。出口そのものじゃない。でも出口の場所を教える」
「まあ、悪くない」
「褒めました?」
「気のせいだ」
またそれです。
私はノートに書きました。
教示。
――行政庁が処分をする場合、一定の場合には、不服申立てをすることができる旨や、その申立先、期間などを知らせる。
そして今回の主題。
その教示をしなかったらどうなるのか。
「ここで大事なのは」
私はペン先で紙を叩きました。
「教示がなかったから、処分が自動的に無効になるわけじゃない」
「当然だ」
相馬先輩が言います。
「昨日の八木さんの不許可だって、教示欄がなかった。それだけで『はい許可』にはならなかった」
「そうです」
「じゃあ何が救われる」
私は答えました。
「不服申立てへの入口です」
片桐所長が一度だけ頷きました。
そこ。
ここを混ぜると危ない。
教示の欠缺。
処分内容の違法・不当。
別問題です。
八木さんの件では、
一つ目。
通知書に不服申立ての案内がなかった。
二つ目。
不許可判断そのものが妥当だったか疑問があった。
この二本があった。
「処分内容のほうは?」
相馬先輩が聞きます。
「第二期工事の資材置場候補地だから、という理由でした」
「ああ」
「でも八木さんの使用希望期間は来年三月まで」
「資材置場として使う予定は?」
「六月以降」
「重なってねえ」
「はい」
しかも。
計画変更後に、市自身がその土地を仮設店舗候補として八木さんへ案内していた。
なのに、
再整備計画との整合性を欠く。
として一律不許可。
結局、市役所は、
期間を個別に確認せず、
仮置場候補地だから新規使用不可、
という内部方針を機械的に当てはめていた。
「こっちは処分そのものの話」
「はい」
「教示がない話とは別」
「別です」
私は二本の線を引きました。
処分内容の問題。
救済手続の問題。
「行政法って」
私は呟きました。
「一個の紙に論点が何個も住んでますね」
「集合住宅みたいに言うな」
「しかも家賃払わない」
「意味が分からん」
でも本当にそうです。
理由。
裁量。
比較取扱い。
教示。
期間。
申立先。
一枚の通知書に全部潜んでいる。
受験テキストでは章が別れているのに、現場では一緒に来ます。
法律、整理整頓の概念がありません。
「で」
相馬先輩が私のノートを覗き込みました。
「教示しなかったら、どうする」
「処分を受けた人は、処分庁に不服申立書を提出できます」
「そこだな」
私は大きく囲みました。
――教示がなかった場合、処分庁へ不服申立書を提出できる。
「何でわざわざ処分庁なんです?」
私は自分で書きながら聞きました。
「考えろ」
所長。
「はい」
通常。
不服申立てには、
どこへ出すべきか。
という問題があります。
昭和六十三年の旧法ならなおさらです。
審査請求なのか。
異議申立てなのか。
上級行政庁があるのか。
処分庁自身なのか。
個別法の特則はあるのか。
「分かりにくい」
私は言いました。
「かなり」
「今さらだな」
「しかも教示されてない」
「そうだ」
知らされていない。
それなのに、
あなたは本来ここへ出すべきでした。
出す場所が違います。
はい期間切れ。
では。
行政側の説明不足を、全部国民側に押しつけることになります。
「だから」
私は言いました。
「とりあえず処分したところに出せるようにしておく」
片桐所長が言いました。
「そして必要なら?」
「正しい行政庁へ送る」
「そのあとは」
「最初から正しい行政庁に申し立てられたものとして扱う」
「そこが重要だ」
私は三重丸をつけました。
送付。
みなし。
ここです。
受験生が見ると、
また役所の書類回しね。
くらいに見えます。
でも現場では違います。
「例えば」
私は言いました。
「今日が申立期間の最終日だったとします」
「うん」
「教示がなかったので、本人はとりあえず処分庁へ書類を出した」
「うん」
「ところが、本来は別の行政庁へ審査請求すべき処分だった」
「うん」
「処分庁が翌日、翌々日になってから正しいところへ送った」
相馬先輩が頷きます。
「その送った日を申立日だとしたら?」
「期間を過ぎる可能性がある」
「そうだ」
「だから、送付されたら最初から権限のある行政庁に申し立てたものとして扱う」
「そういうことだ」
私はペンを止めました。
なるほど。
この「初めから」という言葉。
小さい。
でも強い。
めちゃくちゃ強い。
「初めから、って」
「何だ」
「タイムマシンですね」
「違う」
「法律上の」
「余計違う」
「でも、効果としては過去に戻してくれるじゃないですか」
「提出先の違いによる不利益を調整してるだけだ」
「分かってます」
処分庁へ提出した。
そこから正しい行政庁へ送られた。
送付された時点で、
最初から正しいところへ申立てがされたものとみなす。
つまり。
行政側が教えなかったせいで、
住民が申立先を間違えた。
その時間的な不利益を、できる限り住民に背負わせない。
「みなし規定って」
私は言いました。
「こういうとき頼もしいですね」
「普段は嫌いなくせに」
「試験問題の『みなす』『推定する』は怖いんですよ」
「法律はお前の好き嫌いで動かねえ」
「知ってます」
次。
今回の八木さん。
私はノートに、
昭和六十三年。
と大きく書きました。
「ここ、絶対間違えたら駄目ですね」
「お前が一番危ない」
相馬先輩。
「自覚してます」
現代。
令和の行政不服審査法。
原則として審査請求へ一本化。
処分庁に対する異議申立てという一般制度はなくなっています。
そして。
審査請求期間は原則三か月。
さらに。
審理員。
行政不服審査会等への諮問。
そういう仕組みがある。
「でも昭和六十三年」
私は言いました。
「旧法」
「そうだ」
「異議申立てと審査請求が併存」
「うん」
「期間は原則六十日」
「うん」
「審理員制度なし」
「うん」
「行政不服審査会への諮問制度もなし」
「それでいい」
私は大きく、
未来法を持ち込むな。
と書きました。
相馬先輩が笑いました。
「お前専用の注意書きだな」
「転生者には重要なんです」
「知らん」
でも。
今回のテーマを考えると。
旧法と現代法の違いが、かなり面白く見えてきます。
旧法では。
処分庁自身への異議申立て。
上級行政庁への審査請求。
これが併存していた。
「そもそも」
私は言いました。
「教示が重要になる理由の一つって、この仕組みの分かりにくさにもありますよね」
「どういう意味だ」
相馬先輩。
「一般の人からしたら、自分の処分が異議申立てなのか審査請求なのか、それだけでも難しい」
「ああ」
「上級行政庁があるかどうかなんて、普通分かりません」
「役所の組織図を知ってる住民なんかそういねえな」
「ですよね」
だから。
教示が必要。
そして。
教示しなかった場合の救済も必要。
制度が複雑なのに、
説明しない。
間違えたら自己責任。
では公平ではない。
「じゃあ現代は?」
相馬先輩が聞きました。
「原則として審査請求に一本化」
「なぜ」
「分かりやすくするため」
「それだけか」
「それだけじゃない」
私は少し考えました。
旧法の異議申立て。
処分した行政庁自身に、
その処分を見直してください。
と求める。
迅速な自己修正という意味では利点がある。
でも。
住民から見れば。
自分で出した答えを、
自分で採点し直す。
構造上、公正さへの不安が残る。
「八木さんのときも」
私は言いました。
「市長名義の処分だったから、処分庁側への異議申立てになりました」
「ああ」
「役所に『あなたの処分、おかしくないですか』って、その役所自身に言う」
「そうだな」
「沢渡課長みたいに、事実が崩れたら見直す人ならいいですけど」
「人頼みじゃ制度とは言えん」
片桐所長が言いました。
「はい」
そこ。
制度は、
いい人が担当することを前提にしてはいけない。
だから現代法では。
不服申立てを原則として審査請求へ一本化。
さらに、
処分に関与していない職員を審理員として審理手続に関与させる仕組みが設けられた。
第三者機関である行政不服審査会等への諮問制度も整備された。
「つまり」
私はノートに矢印を書きました。
旧法の課題。
種類が複雑。
異議申立てでは処分庁自身が見直す。
公正性・分かりやすさに課題。
↓
現代法。
原則審査請求に一本化。
審理員制度。
第三者機関への諮問。
「ただし」
片桐所長が言います。
「未来法の話をするときも、雑に旧法を悪者にするな」
「はい」
「異議申立てにも利点はあった」
「処分庁自身が迅速に直せる」
「そうだ」
今回の八木さんもそうでした。
市役所内部で資料を洗い直し、
仮置場の使用時期と、
八木さんの希望使用期間が重なっていないと確認。
比較的早く方向転換できた。
「制度改正って」
私は言いました。
「昔の制度が全部駄目だったから変えるんじゃないんですね」
「当然だ」
「良いところと悪いところがあって、課題を減らす」
「そういうことだ」
行政法の改正を、
旧制度が負けて新制度が勝った。
みたいに覚えると危ない。
制度には役割がある。
その役割を残しながら、
分かりにくさや公正性の問題を直していく。
そう考えると、
改正理由が記憶に残ります。
私は次の項目を書きました。
――教示がなかった場合と、誤った教示の場合を混同しない。
「来たな」
相馬先輩が言います。
「試験に出そうでしょう?」
「嫌な顔してるぞ」
「受験生の本能です」
教示なし。
何も案内されていない。
今回の八木さん。
これに対して。
誤った教示。
案内はされた。
でも内容が間違っていた。
「似てるけど別」
「はい」
どちらも、
行政側の案内の問題。
だから頭の中で混ざりやすい。
でも救済の仕組みは、それぞれ整理する必要があります。
「今回のテーマは?」
「教示なし」
「なら深追いするな」
「はい」
所長、範囲管理が上手い。
受験講師に向いているかもしれません。
たぶん本人は絶対やりませんが。
次。
私は赤ペンに持ち替えました。
――注意。
教示がなければ、申立期間が無期限になるわけではない。
「ここ」
相馬先輩が指差しました。
「大事だな」
「はい」
八木さんは、
不許可通知を受け取った翌日に事務所へ来ました。
だから今回、
旧法の六十日の期間について大きな問題はなかった。
でも。
「教示がなかったんだから、いつでも申し立てられますよね」
と考えるのは危ない。
「教示なしと期間徒過は別に考える」
「そうだ」
「いつ処分を知ったか」
「確認する」
「正当な理由などが問題になる余地があるか」
「必要なら見る」
「はい」
不服申立ての入口を保護する制度だからといって、
時間という要件そのものが消えるわけではない。
ここ。
受験生が、
救済制度=全部助けてくれる。
と雑に覚えると落ちるところです。
「法律って」
私はため息をつきました。
「救ってくれるけど、ちゃんと時計見てますね」
「当たり前だ」
「もうちょっと人情を」
「期限に人情入れたら制度にならん」
はい。
そうなんです。
期間をはっきり決める。
申立先を決める。
要件を決める。
例外も決める。
冷たい。
でも。
人によって期限を変えないから公平でもある。
その代わり。
行政側が教えるべきことを教えなかった場合には、
そのせいで申立先を間違えて不利益を受けないよう、
別の救済を置く。
「法律って」
私は言いました。
「冷たいルールの上に、さらに冷たい救済ルールを置いて、結果として人を助けるんですね」
「言い方が変だ」
「でもそうじゃないです?」
「まあな」
相馬先輩が珍しく否定しませんでした。
私はノートを整理します。
今回の八木さん。
一。
仮設店舗設置許可申請。
二。
市長名義で不許可。
三。
通知書には不服申立てについての教示なし。
四。
八木さんは翌日、片桐事務所へ相談。
五。
旧法の時代なので、異議申立てか審査請求かを確認。
六。
市長には通常の意味で上級行政庁がないため、このケースでは処分庁への異議申立てとして対応。
七。
申立期間は旧法の原則六十日。
八。
処分内容についても、資材置場の使用予定と八木さんの使用希望期間が重ならない事実が判明。
九。
市が再検討。
十。
条件付きで許可する方向へ。
さらに。
十一。
同じ教示欄のない様式が十二件使用されていたことが判明。
十二。
市が全件点検。
「一件から十二件」
私は呟きました。
「何がだ」
「教示の漏れです」
「ああ」
「行政の適正な運営って、こういうところにも出ますね」
八木さん一人だけ。
申立てができた。
許可になった。
それで終わりではなかった。
一件の不服申立てをきっかけに、
通知書の様式そのものの不備が見つかった。
ほかの十一件も確認する。
次から教示欄を落とさない。
「一人が救われる」
「うん」
「役所の運用も直る」
「うん」
「前の事件と同じですね」
川瀬さんの花売り台の件。
一人の申立てをきっかけに、
市が駅前整備関係の更新判断を全件点検した。
そして今回。
八木さんの申立てで、
通知書の様式を全件確認する。
「不服申立てって」
私は言いました。
「やっぱり、個人救済と行政の自己修正がつながってる」
所長が言いました。
「だから面倒でも制度がある」
「沢渡課長も面倒って言ってました」
「あの人、正直ですよね」
相馬先輩が笑います。
「役所からすりゃ不服申立てなんか増えねえ方が楽だ」
「ですよね」
「でも楽だから省く、で済ませたら終わりだ」
「はい」
教示も同じ。
書かなくても、
処分そのものは出せるかもしれない。
担当者は早く仕事を終えられる。
でも。
処分された側は、
どこへ行けばいいか分からない。
行政には、
決定する力があります。
住民よりずっと強い。
だからこそ。
その決定に対して争う方法も、
行政側がきちんと知らせなければならない。
私は次の見出しを書きました。
――なぜ「処分庁に出せる」のか。
「さっきやっただろ」
相馬先輩。
「試験用に一文にします」
「やれ」
私は少し考えました。
――行政が教示しなかった以上、申立先を知らないことによる不利益をそのまま本人に負わせないため。
「長い」
「内容が大事です」
「短くしろ」
む。
私は書き直します。
――教えなかった行政のせいで、住民を迷子にしない。
相馬先輩が吹き出しました。
「答案に書くなよ」
「覚え書きです!」
「法的表現ゼロじゃねえか」
「記憶には残る」
「まあな」
私はさらに横へ正式な整理を書きました。
行政庁が教示をしなかった場合、
処分に不服がある者は、
処分庁に不服申立書を提出することができる。
その処分が、
処分庁以外の行政庁に審査請求等をすべきものであるなら、
処分庁は速やかに正しい行政庁へ送付する。
送付された場合には、
初めから権限ある行政庁へ不服申立てがされたものとみなす。
「この『速やかに』も大事ですよね」
「なぜ」
「役所が何週間も机の上に置いといたら困るから」
「そうだ」
「しかも申立期間が絡む」
「うん」
そこでまた、
初めから。
が効く。
「行政側の書類移動の遅れで、本人を不利にしない」
「そういうことだ」
私は丸で囲みました。
速やかに送付。
初めから申立てたものとみなす。
「セットですね」
「ああ」
「送るだけ覚えると足りない」
「みなしまで見ろ」
「はい」
次。
所長が突然聞きました。
「八木さんが、通知書を見て何を思った」
「え?」
「最初の日だ」
私は思い出しました。
不許可。
駅前再整備計画との整合性を欠くため。
それだけ。
八木さんは言いました。
もう何もできないと思った。
「終わった、と思ってました」
「なぜ」
「不服申立ての道を知らなかったから」
「それが教示の意味だ」
所長の一言。
短い。
でも。
全部入っていました。
教示は、
試験問題のためにあるんじゃない。
行政処分を受けた人に、
これは最終回答とは限らない。
争う道がある。
と知らせる。
そのためにある。
「じゃあ」
相馬先輩が腕を組みました。
「今日の試験問題」
「来ましたね」
「次のうち正しいものを選べ」
「嫌な予感しかしない」
「行政庁が不服申立てについて教示をしなかった場合、その処分は当然に無効となる」
「誤り」
「理由」
「教示欠缺と、処分自体の効力は別問題だから」
「次」
「はい」
「教示がなかった場合、処分を受けた者は何もできない」
「誤り」
「理由」
「処分庁に不服申立書を提出できる救済がある」
「次」
「はい」
「本来、別の行政庁に審査請求すべき場合、処分庁は申立書を返却し、本人に出し直させなければならない」
「誤り」
「どうする」
「処分庁から、権限ある行政庁へ速やかに送付」
「送ったら」
「初めからその行政庁に申立てがされたものとみなす」
「次」
「まだあるんですか」
「教示がなかった場合、申立期間は無期限となる」
「誤り」
「よし」
相馬先輩が煙草に火をつけます。
「まあ、落ちねえだろ」
「褒め方が雑すぎません?」
「満点取れとは言ってねえ」
「取らせてください」
「自分で取れ」
受験生に厳しい。
私はノートの最後のページを開きました。
一行の覚え書き。
今日の締めです。
「どう書く」
所長が聞きました。
私は考えました。
教示をしなかった。
行政のミス。
でも。
そのミスで、国民の不服申立ての道を消してはいけない。
処分庁へ出せる。
必要なら正しい行政庁へ送る。
しかも、
初めから正しいところへ申し立てたものとして扱う。
「よし」
私は書きました。
――役所が出口を教え忘れても、救済の出口まで消してはいけない。
相馬先輩が横から見ます。
「法律用語ゼロ」
「覚え書きです」
「試験に書くな」
「書きません!」
その下に、小さく正式版も書きました。
――教示なしなら処分庁へ。必要なら送付し、「初めから」の申立てとして救う。
「こっちのほうがいい」
「じゃあこっちを一行の覚え書きにします」
「最初からそうしろ」
私は最初の一行を消そうとして。
やめました。
「何で残す」
「好きなので」
「好き嫌いで法律を覚えるな」
「記憶に残るなら勝ちです」
相馬先輩が呆れます。
でも。
たぶん私はもう忘れません。
不服申立て。
処分庁。
送付。
みなし。
教示。
教示欠缺。
昔なら、
それぞれ別々の暗記カードでした。
今は違います。
八木さんが不許可通知を持って、
買い物籠を膝に置き、
「もう何もできないと思った」
と言った顔がある。
市役所の窓口で、
書類を受け取ってもらえた瞬間の、
小さなため息がある。
そして。
一週間後。
条件付きで仮設店舗を使えることになった。
祭りで百二十個の焼き菓子を焼ける。
たったそれだけ。
でも。
その「たったそれだけ」を守るために、
法律は、
誰に出せ。
いつまでに出せ。
間違えたら送れ。
送ったら初めから出したものと扱え。
と。
びっくりするほど細かく決めています。
人情話なら、
困っているんだから助けてあげよう。
で終わる。
法律は違う。
困っているからではなく、
この要件を満たしたから。
この手続だから。
この効果が生じる。
そうやって、
助ける理由まで制度にしてしまう。
私は窓の外を見ました。
駅前。
工事用の照明がつき始めています。
八木さんは今ごろ、
来月の祭り用の餡を作っているかもしれません。
町は変わります。
行政の制度も変わります。
この昭和六十三年には、
異議申立てと審査請求が並んでいる。
未来では、
原則として審査請求に一本化される。
期間も六十日から三か月へ変わる。
審理員制度ができる。
第三者機関への諮問制度も整う。
制度は変わっていく。
でも。
行政が強い決定をする以上、
その決定に不服がある人が、
どこへ行けばいいのか。
それを知らせる必要がある。
そして。
行政が知らせなかったことで、
救済の道を失わせてはいけない。
そこは変わらない。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「終わったか」
「はい」
「なら帰れ」
「その前に」
私は机の端を見る。
最後の焼き菓子。
ない。
「……あれ?」
相馬先輩を見る。
口が動いている。
「先輩」
「何だ」
「食べました?」
「何を」
「最後の一個」
「教示がなかった」
「何のですか!」
「一人一個という教示」
「昨日から言ってるでしょう!」
「書面じゃねえ」
「焼き菓子の配分に行政不服審査法を適用しないでください!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「不服か」
「不服です!」
「申立書を出せ」
「出します!」
「どこへ」
私は迷いませんでした。
「処分庁たる相馬先輩へ!」
相馬先輩が即答します。
「棄却」
「審理が速すぎます!」
「簡易迅速」
「公正がない!」
「旧法だからな」
「旧法でも公正は必要です!」
片桐所長が、ほんの少し笑いました。
私はノートを閉じます。
今日の一行。
――教示なしなら処分庁へ。必要なら送付し、「初めから」の申立てとして救う。
そして、その横に小さく付け足しました。
――ただし、焼き菓子の争いには使えない。
「何書いてる」
「実務上の注意です」
「消せ」
「嫌です」
夕方の片桐行政書士事務所。
行政法の本は相変わらず分厚く、
条文は相変わらず無愛想です。
それでも。
今日だけは、
『初めから申し立てたものとみなす』
という冷たい一文が、
少しだけ優しく見えました。
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