[行政不服審査法83条・教示をしなかった場合の不服申立て]現場編 「どこへ不服を言えばいいか書いてませんから」の罠。役所が消した案内板を、処分庁への一通が救済ルートへつなぎ直す
出口のない部屋より厄介なのは、出口があるのに、その場所を教えてもらえない部屋です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
十月の朝。
私は、一枚の通知書を窓に透かして見ていました。
「朝比奈」
「はい」
「何してる」
「裏に何か書いてないかなと思って」
相馬先輩が煙草をくわえたまま、面倒くさそうにこちらを見ます。
「透かしたら文字が出る役所文書なんかあるか」
「炙ったら出るとか」
「忍者屋敷じゃねえんだぞ」
「じゃあ、やっぱり書いてないですね」
「何がだ」
私は通知書を机に置きました。
市役所の赤い角印。
日付。
名宛人。
そして中央に、太い活字。
――駅前仮設店舗設置許可申請について、不許可とする。
理由。
――駅前再整備計画との整合性を欠くため。
以上。
本当に以上です。
余白が潔すぎます。
役所の通知書というものは、どうしてこう「必要最低限」を競技種目みたいに極めてくるのでしょう。
「で?」
相馬先輩が聞きました。
「だから、ないんです」
「何が」
「不服申立ての案内」
相馬先輩の目が少し細くなりました。
そのとき。
「すみません」
事務所の入口から、か細い声がしました。
振り返る。
五十代くらいの女性が、買い物籠を両手で抱えて立っています。
籠の中には、白い布巾。
その下から、丸いものがいくつも覗いていました。
「片桐先生のところはこちらでしょうか」
奥の机にいた片桐所長が顔を上げました。
「そうです」
「市役所で……ここへ相談してみたらって、人から聞いて」
「どうぞ」
女性は何度も頭を下げながら椅子へ座りました。
名前は、
八木澄江さん。
五十四歳。
駅前商店街で、小さな焼き菓子屋を営んでいるそうです。
焼き菓子といっても、洋菓子店ではありません。
地元で昔から売られている、卵と小麦粉を使った丸い焼き菓子。
今川焼きに近いけれど、少し違う。
鉄板で焼いて、中には餡。
駅前を通る高校生や、お年寄りが一個ずつ買っていく。
「店があるんですか?」
私が聞くと、八木さんは首を横に振りました。
「今は、ありません」
「今は?」
「前の店は、駅前整備で取り壊しになって」
「ああ……」
来た。
駅前再整備。
この町で最近、何か揉め事が起きると、だいたい遠くにこの四文字が立っています。
怪獣映画の山の向こうに見える巨大な影みたいです。
八木さんは、再整備に伴う立退きで古い店舗を明け渡した。
市からは、
工事期間中、駅裏の市有地に仮設店舗を設置できる可能性がある。
そう説明されていたそうです。
「それで、この春からずっと場所を探してたんです」
「市有地を借りる申請を?」
「はい」
「いつ出しました?」
「三週間くらい前です」
「それで、この通知が?」
「昨日」
八木さんは膝の上の籠をぎゅっと握りました。
「駄目だそうです」
「理由は聞きました?」
「今朝、市役所へ行きました」
そこで。
嫌な予感がしました。
「何て言われました?」
「駅前の計画と合わないって」
「それだけ?」
「はい」
「ほかの場所は?」
「自分で探してください、と」
相馬先輩が煙草を灰皿へ押しつけます。
「元の店を立ち退かせたのも市だろ」
「はい」
「仮設場所の話をしたのも?」
「市役所の人です」
「なのに不許可」
「……はい」
八木さんは笑おうとしました。
でも笑顔になりませんでした。
「来月からね、駅前のお祭りがあるんです」
「秋祭りですか」
「毎年そこで焼いてたんです。もう二十六年」
二十六年。
私が転生前に生きていた年月より長い。
「今年も予約をもらってて」
「予約?」
「町内会さんから、百二十個」
「結構な数ですね」
「子ども会さんも」
「それ、店がなかったら」
「焼けません」
八木さんの声が小さくなりました。
「家の台所じゃ、営業できませんから」
なるほど。
これは困る。
ただ単に、
場所が欲しい。
ではありません。
行政の再整備で元の店を失った。
市から案内された仮設場所を申請した。
ところが不許可。
しかも祭りは目前。
そして。
私はもう一度通知書を見ました。
「八木さん」
「はい」
「この紙をもらったとき、不服がある場合はどうすればいいか説明されました?」
「不服?」
「納得できないとき、どこへ申し立てるとか」
「ああ」
八木さんは首を横に振りました。
「何も」
「窓口でも?」
「今朝、聞きました」
「何て?」
「もう決まったことだから、難しいですねって」
私は眉を寄せました。
「誰が言ったんです?」
「商工観光課の若い人」
「『難しい』だけ?」
「はい」
相馬先輩が私の手から通知書を取りました。
表。
裏。
見る。
「ねえな」
「ですよね」
「教示」
「はい」
その言葉に。
八木さんが不安そうな顔をしました。
「きょうじ……?」
「あ、すみません」
私は慌てて手を振りました。
「役所が処分をするときに、不服申立てができるなら、どこへ、いつまでに申し立てるのか、そういう案内をする仕組みがあるんです」
「じゃあ、それが書いてない?」
「少なくとも、この紙には」
私は答えました。
昨夜までだったら。
教示。
不服申立先。
期間。
そんな単語を見ただけで、私の脳内には受験テキストの灰色のページが開いていました。
眠い。
ひたすら眠い。
行政法の教示関係は特に眠い。
誤った教示。
教示なし。
書面。
送付。
みなし。
単語だけ並べると、睡眠導入剤としてかなり優秀です。
でも。
今、目の前には。
来月の祭りで百二十個の菓子を焼けなくなる人がいる。
その人に、
どこへ不服を言えばいいか。
役所は書いていない。
急に。
教示という言葉が眠くなくなりました。
「所長」
私は片桐所長を見ました。
「これって――」
「こはる」
「はい」
「先に確認しろ」
「何をです?」
「処分庁」
「あ」
所長は通知書を指しました。
「誰が処分した」
私は名義を見る。
市長名。
「市長です」
「上は」
「……ない」
地方公共団体の長として、この市長に対して通常の意味での上級行政庁はない。
ということは。
頭の中で、
異議申立て。
という昭和の言葉が起き上がります。
現代の私は、反射的に、
審査請求。
と言いたくなる。
でも違う。
ここは昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
審査請求と異議申立てが併存している時代です。
「この件なら」
私は慎重に言いました。
「基本は、処分庁自身への異議申立てを検討することになりますね」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「やっと昭和に戻ってきたな」
「ずっと昭和にいます」
「頭だけ未来へ行ってただろ」
「三か月とか審理員とか言ってませんから!」
「言いそうな顔してた」
危ない。
現代法では原則として審査請求へ一本化。
不服申立期間も三か月。
審理員制度もある。
でも全部、ここにはありません。
時代を間違えた法律知識ほど怖いものはない。
賞味期限切れの牛乳なら匂いで気づけますが、改正前後の法律は見た目が似ているから厄介です。
八木さんが不安そうに私たちを見ています。
「申し立てれば、使わせてもらえるんでしょうか」
片桐所長が答えました。
「それは分かりません」
「そうですか……」
「ただ」
所長が通知書を机へ置きました。
「役所が案内をしなかったからといって、不服を申し立てる道まで消えるわけではありません」
八木さんが顔を上げました。
私も。
その一言が、今日の核でした。
午前十一時。
私たちは市役所にいました。
商工観光課。
窓口に通知書を置く。
「八木澄江さんの仮設店舗設置許可です」
相馬先輩が言いました。
「不許可理由を確認したい」
若い担当者が困った顔をしました。
「駅前再整備計画との整合性について……」
「それは紙に書いてある」
「はい」
「何が整合しない」
「仮設店舗の配置計画です」
「場所は市が候補に出したんだろ」
「候補の一つではありましたが、必ず許可するという意味ではありません」
「分かってる」
相馬先輩は感情的になりません。
こういうときの先輩は怖い。
声が低くなるほど、頭は冷えている。
「誰が、何を理由に駄目と判断した」
「それは……」
「資料あるか」
「内部資料ですので」
「本人の処分理由を聞いてる」
担当者が詰まったところで、
奥から声がしました。
「その件はこちらで」
出た。
沢渡課長。
灰色の背広。
細い眼鏡。
今日も感情を全部別庁舎へ異動させたような顔です。
「片桐先生。また駅前ですか」
「駅前が勝手に問題を持ってくる」
所長が言いました。
沢渡課長の口元がわずかに動きます。
「それは市としては困りますね」
「こっちも困る」
相馬先輩が通知書を押し出しました。
「八木澄江さん。仮設店舗不許可」
「承知しています」
「具体的理由は」
「再整備区域内で仮設施設を増やすことについて、全体計画との調整が必要になりました」
「申請前に候補地として案内してる」
「案内時点と現在では計画が変わっています」
「いつ変わった」
「九月です」
「八木さんが申請したのは」
「九月二十二日ですね」
「変更後じゃねえか」
ぴたり。
沢渡課長が止まりました。
相馬先輩が続けます。
「変更後に、市の担当がこの場所を候補として案内してる」
「確認します」
「それから」
私は口を挟みました。
「通知書に教示がありません」
沢渡課長がこちらを向きました。
「教示?」
「不服申立てができること。申立先。期間」
通知書を指す。
「何も書いてありません」
沢渡課長は紙を手に取りました。
表。
裏。
見る。
沈黙。
「……ありませんね」
認めた。
早い。
この人は、言い逃れできない事実については本当に速い。
「様式が古いんじゃないですか?」
私が聞きました。
「可能性はあります」
「さらっと怖いこと言いますね」
「確認します」
「課長」
相馬先輩が言います。
「今朝、本人が窓口で『どうしたらいいか』って聞いてる」
「そうですか」
「担当が『もう決まったことだから難しい』って答えた」
沢渡課長の視線が、若い職員へ動きました。
職員が青くなります。
「私は……不服申立てについて聞かれたとは思わなくて」
「八木さんは法律用語を知らねえ」
相馬先輩の声は静かでした。
「『納得できない。どうしたらいいですか』って聞かれて、不服申立てって言葉が出てこないから説明しませんでした、で通す気か?」
「相馬」
片桐所長が止めました。
「感情はいらん」
「……はい」
珍しい。
先輩が一歩引きました。
所長が沢渡課長を見る。
「教示がなかった。その事実はいいな」
「現時点では、そう見えます」
「本人は不服がある」
「はい」
「なら、申立ての道はある」
沢渡課長は眼鏡を押し上げました。
「もちろんです」
八木さんが横で驚いた顔をしました。
「え?」
沢渡課長が八木さんを見る。
「不許可処分を受けたことと、不服申立てができないことは別です」
「でも朝は……」
「窓口の説明が不十分でした」
あっさり。
潔い。
八木さんは完全に混乱しています。
そりゃそうです。
朝、
もう決まった。
と言われた。
昼、
申し立てられる。
と言われる。
同じ庁舎の中で、世界観が違いすぎます。
「課長」
私は言いました。
「教示がない場合、本人は処分庁に不服申立書を出せますよね」
沢渡課長が私を見ました。
「ええ」
「仮に、本来は別の行政庁へ審査請求するような処分だった場合でも」
「処分庁が受け取って、所定の手続を取ることになります」
「本人に、『宛先が違うから出し直せ』って放り返す話じゃない」
「教示をしていないのが行政側なら、なおさらでしょう」
私は心の中で、
それだ。
と叫びました。
教えていない。
だから間違える。
なのに、
間違えたからアウト。
では救済にならない。
行政が出口の案内板を外したなら、
迷った人を入口まで戻して追い返すのではなく、
正しい出口へつなぐ。
そのための仕組み。
冷たい。
ものすごく事務的。
でも。
事務的だからこそ救われる。
「ただし」
沢渡課長が続けます。
「八木さんの処分の場合は、市長名義です。本件については処分庁側での異議申立ての扱いを検討することになるでしょう」
異議申立て。
また出ました。
昭和の現役選手。
私の脳内では、現代法の『審査請求』がベンチで暴れています。
出せ。
俺を出せ。
と。
駄目です。
あなたはまだ三十年近く早い。
「期間は?」
相馬先輩がこちらを見る。
「六十日」
今度は即答しました。
「よし」
「成長しました?」
「普通だ」
「褒めてもいいところですよ」
「仕事中だ」
八木さんが、私と相馬先輩を交互に見ました。
「六十日?」
「あ」
また受験生語になっていました。
「不服申立てには期間があります。だから、処分を知った日をきちんと確認します」
「昨日です」
「なら、少なくとも今の段階で、時間がなくて何もできないという話ではありません」
「そうなんですか」
「はい」
八木さんの顔が、ほんの少しだけ緩みました。
そこで。
片桐所長が聞きました。
「課長。仮設店舗の配置計画を見せてもらえるか」
「公開できる範囲なら」
「八木さんの申請場所は、現在どういう扱いだ」
沢渡課長は職員に資料を持ってこさせました。
駅前周辺の平面図。
赤線。
青線。
点線。
仮設通路。
工事車両進入路。
予定施設。
私は地図を見ると三秒で方向感覚を失う人間ですが、今回は八木さん本人がいました。
「私が言われたのは、ここです」
八木さんが指さします。
駅裏。
細長い市有地。
沢渡課長が資料を確認。
「この場所は……」
止まる。
「何です?」
「第二期工事の資材仮置場候補になっています」
「第二期はいつ?」
相馬先輩。
「来年六月以降の予定です」
「祭りは来月」
「ええ」
「仮設店舗の希望期間は」
八木さんが答えます。
「来年三月までです」
静かになりました。
私は資料と通知書を見比べました。
来年六月から使うかもしれない場所。
来年三月まで使いたい人。
それを、
再整備計画との整合性を欠く。
で不許可。
「課長」
私は聞きました。
「期間、見てました?」
「担当課では審査したはずです」
「『はず』」
沢渡課長が資料をもう一度見ます。
若い職員が言いました。
「仮置場候補地は、原則として新規使用を認めない方針で……」
「方針は分かった」
片桐所長が遮りました。
「いつから必要になるかを検討したか」
「それは……」
「申請期間が三月まで。仮置場使用が六月以降」
「はい」
「間に二か月ある」
「はい」
「なぜ一律に不許可にした」
職員は答えられませんでした。
沢渡課長が資料を閉じます。
「この点も確認します」
「不服申立てすれば?」
私が聞きました。
「正式に審理対象になります」
「つまり」
八木さんが恐る恐る口を開きました。
「もう一度、見てもらえるんですか」
「はい」
沢渡課長が答えます。
「処分が当然に変わるという意味ではありません。ただ、申立てがあれば、八木さんが主張する点も含めて判断することになります」
「……よかった」
八木さんが呟きました。
まだ何も勝っていません。
不許可は残っています。
許可が出る保証もありません。
でも。
朝は、
もう決まりました。
だった。
昼には、
正式に見直してもらえる。
まで来た。
人が救われるとき。
結果そのものより先に、
手続の入口が開くだけで表情が変わることがあります。
事務所へ戻る途中。
私は相馬先輩に聞きました。
「教示って」
「何だ」
「地味ですね」
「お前、制度に喧嘩売ってんのか」
「褒めてます」
「聞こえねえ」
「だって、処分そのものを取り消す制度じゃないじゃないですか」
「そりゃそうだ」
「単に『不服があるなら、ここへ、この期間内に申し立ててください』って案内する」
「それが大事なんだろ」
「はい」
そうなのです。
大事。
すごく大事。
権利があっても、
使い方を知らなければ使えない。
扉があっても、
そこが扉だと知らなければ開けられない。
だから教示する。
そして。
行政がその教示を忘れたなら。
そのせいで住民が申立先を間違えて救済を失わないよう、受け皿を残す。
「変な言い方ですけど」
「何だ」
「役所のミスを、住民のミスに変換させない制度なんですね」
相馬先輩が少しだけこちらを見ました。
「珍しくまともなこと言うな」
「珍しくは余計です」
「ただし」
「はい」
「教示がなかったら期間が全部なくなる、とか思うなよ」
「……そこですよね」
痛いところ。
教示欠缺があった。
だから何でも無期限になる。
そんな単純な話ではありません。
期間の問題は期間の問題として、きちんと確認しなければならない。
今回、八木さんは処分を知った翌日に来た。
だからまだ余裕がある。
もし何か月も放置していたら、話はもっと難しくなる。
「現場って」
私はため息をつきました。
「一個分かると、次の論点が生えてきますね」
「雑草みたいに言うな」
「行政法って抜いても抜いても生えません?」
「勉強不足だ」
「容赦ないなあ」
二日後。
片桐行政書士事務所。
机の上には、不服申立書。
八木澄江さんの名前。
対象処分。
不許可通知の日付。
処分を知った日。
不服の理由。
私は一文字ずつ確認しました。
「感情を書くな」
片桐所長が言います。
「はい」
「『二十六年祭りで売ってきた』は?」
「事情としては書きます。でも、それだけで取消しを求める理由にはしません」
「じゃあ何を書く」
「申請場所は第二期工事の資材仮置場候補だけど、使用開始予定は来年六月以降」
「うん」
「八木さんの希望期間は来年三月まで」
「うん」
「期間が重なっていない」
「うん」
「それなのに、一律に『再整備計画との整合性を欠く』として不許可にした判断が妥当なのか、再検討を求める」
「それでいい」
相馬先輩が横から紙を取りました。
「あとこれ」
「何です?」
「市が候補地として案内した時期」
「あ」
「計画変更後だった」
「入れます」
「行政法は記憶力勝負じゃねえ」
「事実ですね」
「そうだ」
私は追記しました。
九月上旬。
再整備計画変更。
九月中旬。
市担当者が八木さんへ候補地を案内。
九月二十二日。
申請。
十月。
不許可。
こうして時系列にすると。
妙なのです。
役所自身が、
使えるかもしれない。
と案内した土地を。
その直後に、
計画と整合しない。
として不許可にしている。
八木さんが理不尽だと感じた理由が、
ようやく感情ではなく事実として並びます。
「それから」
私が言いました。
「教示がなかったことも書きます」
「処分の中身と混ぜるな」
所長。
「はい」
「それは手続上の問題だ」
「はい」
「整理して書け」
「分かりました」
そこなのです。
何が問題なのか。
全部まとめて、
ひどい。
では駄目。
処分内容の妥当性。
理由。
判断過程。
そして教示。
別々の論点に切り分ける。
法律は、人の怒りを小さくするものではありません。
怒りを、
使える形に切り分ける道具なのです。
午後。
市役所。
八木さん本人と一緒に、不服申立書を持っていきました。
窓口で若い職員が受け取る。
少し戸惑った顔。
「こちらは……」
「八木澄江さんの不許可処分に対する不服申立書です」
私が言いました。
「このまま受け取ってください」
「宛先の確認を――」
奥から沢渡課長が出てきます。
「受理してください」
「課長」
「教示を欠いた処分です。本人から処分庁へ提出された不服申立書を、窓口でたらい回しにする必要はありません」
若い職員が、
「はい」
と答えました。
八木さんが小さく息を吐きます。
たぶん。
この瞬間です。
今日、一番大きかったのは。
役所の窓口で、
受け取れません。
と言われなかったこと。
たったそれだけ。
でも。
法律の救済は、まず紙を受け取ってもらわないと始まりません。
「沢渡課長」
私は言いました。
「確認したいんですが」
「何でしょう」
「もしこれが、処分庁とは別の行政庁へ審査請求すべき処分だったとして」
「はい」
「教示がなく、本人が処分庁へ不服申立書を提出した」
「はい」
「その場合、役所側で正しい行政庁へ送る」
「そうなります」
「そして」
私は慎重に聞きました。
「送付された場合、最初から権限のある行政庁へ申し立てたものとして扱う」
「そういう救済があります」
八木さんがきょとんとします。
「最初から?」
「はい」
私は八木さんへ向き直りました。
「たとえば、期限ぎりぎりの日に、不服申立書を役所へ出したとします」
「はい」
「でも本当は、別の役所へ出すべきだった」
「それだと間に合わないんじゃ……」
「普通に考えると怖いですよね」
「はい」
「でも、そもそも役所が『ここへ出してください』という案内をしていなかったなら、その案内不足のせいで救済を失わせないための仕組みがあるんです」
八木さんは、
「へえ……」
と呟きました。
沢渡課長がこちらを見る。
「朝比奈さん」
「はい」
「今日は説明が比較的まともですね」
「比較的って何ですか」
「いつもは勢いがありますので」
「法律論に勢いって必要じゃないですか?」
「必要ない場合のほうが多いでしょう」
この人。
絶対少し楽しんでいます。
「ただ」
沢渡課長が書類を見ました。
「今回はこちらへの異議申立てとして処理を進めます」
「はい」
「念のため言いますが、教示がなかったから処分そのものが当然に取り消されるわけではありません」
「分かってます」
「そこを混同する方は多い」
「教示の問題は、救済手続の入口の問題」
「そうです」
「不許可が妥当だったかは、別に審理する」
「そのとおりです」
悔しい。
敵側から模範解答をもらった気分です。
でも。
その整理が大事なのです。
教示がなかった。
だから勝ち。
ではない。
教示がなかった。
だから救済手続に入れない。
でもない。
その間に、
ちゃんと橋がある。
一週間後。
電話が鳴りました。
私は受話器を取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です」
『総務課の沢渡です』
「はい」
『八木澄江さんの件ですが』
私は反射的に背筋を伸ばしました。
「どうなりました?」
『担当課で再検討しました』
「はい」
『条件付きで仮設店舗の設置を認める方向です』
「えっ」
声が裏返りました。
相馬先輩がこちらを見る。
片桐所長も顔を上げました。
「条件って?」
『使用期限は来年三月末日。撤去費用は本人負担。工事計画に変更があった場合の協議条項を付けます』
「それって」
『申請期間と資材仮置場の使用予定が重ならないことを確認しました』
「じゃあ、やっぱり」
『当初の判断は、仮置場候補地について一律に新規使用を認めないという内部方針を機械的に当てはめていました』
「……機械的に」
『ええ』
「課長」
『はい』
「それ、最初から期間見てれば――」
『そうですね』
認めた。
早い。
『こちらの確認不足です』
私は一瞬、言葉が出ませんでした。
役所が。
自分で。
確認不足と言った。
「処分は?」
『不服申立てを踏まえ、是正の手続を進めます。正式な書面は後日』
「分かりました」
『それと』
「はい」
『通知書の様式も改めます』
「教示?」
『ええ』
「やっぱり古い様式だったんですか」
『再整備関係の臨時様式を担当課が作った際、教示欄を落としていました』
落とした。
そんな、
コピー機のトナーみたいな。
「何件使ったんです?」
沈黙。
「課長?」
『十二件です』
「十二件!?」
相馬先輩がこちらを見ました。
私は受話器を押さえます。
「同じ様式、十二件ですって」
「全件確認だな」
所長が言いました。
電話の向こうでも沢渡課長が、
『全件確認します』
と言いました。
聞こえていたらしい。
『不服申立てが可能な処分について、必要な教示がされているか。処分内容も含めて確認します』
「八木さん一人の件じゃなくなりましたね」
『一人の件を正しく処理すると、たまにそうなります』
「面倒ですか?」
『面倒ですよ』
「即答」
『ですが』
沢渡課長は少し間を置きました。
『手続は、面倒だから省いてよいものではありません』
電話が切れました。
私は受話器を置きます。
「どうだった」
相馬先輩。
「条件付きで許可する方向」
「お」
「三月末まで」
「祭りは?」
「できます」
相馬先輩が、
「そうか」
とだけ言いました。
片桐所長は、
「八木さんに連絡しろ」
「はい」
私はすぐ電話をかけました。
その日の夕方。
八木さんは事務所へ飛び込んできました。
「本当ですか?」
「はい」
「お祭り、できるんですか?」
「正式な通知はこれからですけど、三月末までの条件付きで許可する方向だそうです」
八木さんは両手で口を押さえました。
「よかった……」
それだけ。
大声で泣くでもない。
万歳するでもない。
椅子へ座って、
「よかった」
ともう一度言いました。
私たちは勝った。
――と言い切るのは少し違います。
役所にも駅前を整備する必要がある。
来年六月から、本当に資材置場になるかもしれない。
八木さんは春にはまた移転先を探さなければならない。
永遠に店を守れたわけでもない。
でも。
今年の祭りで菓子を焼ける。
予約を断らなくていい。
半年近くの猶予ができた。
そして何より。
不許可。
という一枚の紙で終わらなかった。
「これ」
八木さんが籠を机へ置きました。
来た。
最初の日から気になっていた籠。
布巾を取る。
丸い焼き菓子が、ぎっしり。
「うわ」
「試し焼きです」
「こんなに?」
「お祭り用の餡を変えたから」
相馬先輩が、ものすごい速度で一個取りました。
「先輩!」
「何だ」
「まだ八木さんがどうぞって言ってません」
「どうぞ」
八木さんが笑います。
「ほら」
「ほらじゃないです」
私も一個もらいました。
温かい。
表面は少し香ばしい。
一口。
「あ、おいしい」
「でしょう?」
「餡に何入ってます?」
「栗」
「ずるい」
「何がずるいんだ」
相馬先輩がもう二個目に手を伸ばしています。
「一人一個です」
「誰が決めた」
「私です」
「権限がねえ」
「行政法みたいな返ししないでください」
八木さんが声を上げて笑いました。
片桐所長も一つ取る。
珍しい。
「所長、甘いもの食べるんですね」
「食う」
「なんか全部意外です」
「人を何だと思ってる」
八木さんは笑いながら、
ふと、
机の上の不許可通知を見ました。
「最初ね」
静かな声でした。
「この紙をもらったとき、もう何もできないんだと思ったんです」
誰も口を挟みません。
「どこへ行けばいいかも書いてないし、市役所へ聞きに行ったら難しいって言われて」
「はい」
「だから私みたいな人間は、役所に駄目って言われたら、それで終わりなんだなって」
私は通知書を見ました。
白い紙。
黒い文字。
不許可。
駅前再整備計画との整合性を欠くため。
それだけ。
八木さんは続けました。
「でも、本当は道があったんですね」
「はい」
「書いてなかっただけで」
そこです。
私は少し笑いました。
「書いてなかったからこそ、道までなくしちゃ駄目なんです」
片桐所長がこちらを見る。
私は続けました。
「役所には処分する力があります。でも、処分された人がどう争えるかを知らせるのも、手続の一部なんです」
「へえ」
「その案内を役所が忘れたのに、『出す場所を間違えましたね、残念でした』じゃ困りますから」
「それは困るわねえ」
「だから、まず処分した役所に出せるようにして、必要なら正しいところへつなぐ」
「役所の中で?」
「はい」
「親切なのね」
私は少し考えました。
「親切というより」
「うん?」
「仕組みです」
八木さんが首をかしげます。
「仕組み?」
「誰かが親切な職員だったから助けてもらえるんじゃなくて、そう扱うよう制度として決めてある」
片桐所長が短く言いました。
「そのほうが強い」
私は頷きました。
そう。
親切は、人による。
今日は親切でも、
明日は違う。
担当者が変われば終わるかもしれない。
でも。
制度は、人の気分をできるだけ関係なくする。
冷たい。
だからこそ。
冷たいからこそ、
知らない人も、
怒鳴れない人も、
役所と喧嘩できない人も、
同じ入口に立てる。
私は一口、栗餡の菓子を食べました。
甘い。
法律用語との相性は、たぶん最悪です。
でも今日は。
教示。
不服申立書。
処分庁。
送付。
最初から申し立てたものと扱う。
そんな無機質な言葉が、
一軒の小さな焼き菓子屋を来月の祭りまで連れていってくれました。
八木さんが帰ったあと。
机の上には、焼き菓子が二個だけ残っていました。
私は一個に手を伸ばします。
同時に。
相馬先輩の手も伸びました。
止まる。
「先輩」
「何だ」
「それ、私が見てました」
「所有権は視線で移転しねえ」
「先に取ろうとしてました」
「占有もしてねえ」
「民法で殴ってくるのやめてください」
相馬先輩が取ろうとした瞬間。
片桐所長の手が横から入りました。
一個持っていく。
「所長!」
「何だ」
「最後の二個ですよ!」
「一個残ってる」
「そういう問題じゃありません」
「不服か」
「不服です!」
「申立先は?」
「所長です!」
「期間は?」
「今すぐ!」
「そんな期間はない」
相馬先輩が笑いました。
「書面で出せ」
「じゃあ書きますよ!」
「教示してやったんだから間違えるなよ」
「そこだけ妙に今日のテーマに寄せないでください!」
私は紙を一枚取りました。
大きく書く。
――不服申立書。
「本当に書くのかよ」
「申立ての趣旨。所長が取得した焼き菓子一個を取り消し、朝比奈こはるへ引き渡すとの決定を求める」
「却下」
所長が即答しました。
「まだ提出してません!」
「権限がない」
「誰にですか!」
「俺にだ」
「本人が言うと無敵ですね!」
相馬先輩が腹を抱えて笑います。
私は頬を膨らませました。
でも。
今日の私は知っています。
不服を言う場所が分からない人に、
場所を教える。
教えなかったなら、
そのせいで救済を失わせない。
たったそれだけのことが、
ときどき人の暮らしを守ります。
法律は、
「駄目」と決めるためだけにあるわけじゃない。
「駄目」と言われたあと、
どこへ行けばいいかを残すためにもある。
今日の教訓。
役所が案内板を置き忘れても、救済の道まで消えるわけじゃない。
私は残った最後の焼き菓子を素早く確保しました。
「あ」
相馬先輩。
「これは?」
「適法な自力救済です」
「違法だ」
「じゃあ不服申立てしてください」
「誰に」
私は胸を張りました。
「処分庁たる私に」
「却下」
「まだ申し立ててません!」
窓の外では。
夕暮れの駅前に、工事用の柵が長く伸びていました。
町は変わっていきます。
店も。
道も。
役所の制度も。
いつかこの時代の異議申立ては姿を消し、不服申立ての仕組みも大きく変わっていく。
でも。
処分を受けた人に、
争う道を知らせること。
行政側の案内不足で、その道を失わせないこと。
そこだけは。
たぶん未来になっても変わらない。
私は焼き菓子を半分に割りました。
「先輩」
「何だ」
「半分どうぞ」
「珍しいな」
「行政の適正な運営です」
「意味が違う」
「じゃあ権利利益の救済」
「もっと違う」
それでも先輩は受け取りました。
栗餡の甘い匂いが、紙と煙草の匂いばかりの事務所に広がります。
制度の言葉は冷たい。
でも。
冷たいからこそ、
誰かが出口を隠しても、
そこに出口があることまで無かったことにはできないのです。
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