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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政不服審査法

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[行政不服審査法66条・審査請求に関する規定の準用]現場編 「審査請求と同じ手続を、もう一度やればいい」の罠。同じ道具を使う部分と使わない部分を切り分ける、“準用”という法律の仕分け

挿絵(By みてみん)

 一度負けた人に、もう一度道が残っている。


 そう聞くと、親切な制度に思えます。


 ただし。


 その二度目の道に、一度目とまったく同じ地図を持ち込むと――迷います。


 しかも法律の迷子は、気づいたときには期限が過ぎていたりする。


 笑えません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の午後、私は机に広げた一枚の裁決書を見ながら、頭の中で小さく悲鳴を上げていました。


「……棄却」


「読めば分かる」


 相馬先輩が言いました。


「いや、そういうことじゃなくて」


「じゃあ何だ」


「もう一回、不服を申し立てられるんですよね、これ」


「場合による」


「その『場合による』が行政法で一番怖いんですよ」


「知らん」


 冷たい。


 でも正しい。


 目の前に座っているのは、野崎美代さん。


 五十九歳。


 駅前で長く小さな食堂をやっていた女性でした。


 店の名前は『みよし食堂』。


 カウンター六席。


 テーブル二卓。


 昼は焼き魚定食。


 夕方になると、工場帰りの人が瓶ビールと肉じゃがを頼む。


 そういう店だったそうです。


 ところが。


 駅前再整備の話が本格化したころ、入っていた古い長屋が取り壊されることになった。


 店を畳み、美代さんは駅から少し離れたアパートへ移った。


 夫はすでに亡くなっている。


 一人息子は県外。


 蓄えも多くなかった。


 その後、体を悪くし、生活保護を受けるようになった。


 問題は、その保護について市の福祉事務所から出された変更決定だった。


「毎月、息子さんから仕送りを受けている」


 市はそう判断した。


 その分を収入として扱い、保護費を減らした。


 しかし。


「毎月じゃないんです」


 美代さんは言いました。


「一回だけなんです」


「一回?」


「引っ越ししたときに、息子が二万円だけくれたんです。布団でも買えって」


「その後は?」


「ありません」


「通帳はありますか」


「持ってきました」


 私は通帳を開きました。


 確かに。


 息子さんらしい名義から二万円。


 その一回だけ。


 前後の月にはない。


「市役所には説明しました?」


「しました」


「それで?」


「毎月の仕送りだと聞いているって」


「誰からです?」


「分からないんです」


 嫌な感じです。


 実務の現場で一番困るやつ。


 誰かがそう言った。


 記録にそう書いてある。


 だから、その前提で処理した。


 根っこの情報が間違っていても、一度書類に乗ると、役所の中では妙に足腰が強くなります。


「審査請求もしたんですね」


「はい」


 美代さんは裁決書を見ました。


「県に」


 市の福祉事務所の処分について、県知事へ審査請求。


 しかし結果は棄却。


 裁決書には、市の認定を覆すだけの事情は認められない、という趣旨の記載が並んでいました。


「通帳は県にも出しました?」


「出そうと思ったんですけど……」


 美代さんの声が小さくなります。


「何かありました?」


「途中で入院しちゃって」


「入院?」


「肺炎で」


 私は顔を上げました。


「いつです?」


「県から書類が来た少しあとです」


 指定された期限までに十分な資料を出せなかった。


 退院したころには、裁決が出ていた。


 そして、その裁決書が届いて。


 美代さんは市役所へ相談に行った。


『県が棄却していますから、市としてはもう終わった話です』


 そう言われた。


「それで、ここへ?」


「商店街の人に、片桐さんのところへ行ってみろって」


 美代さんは申し訳なさそうに笑いました。


「でも、県にまで駄目だと言われたんですよね」


「……はい」


「やっぱり、もう無理でしょうか」


 事務所が静かになりました。


 この質問は苦手です。


 大丈夫ですよ、と言うのは簡単。


 でも法律の仕事で、根拠もなく希望を売るのはもっと駄目だと思う。


 私は裁決書をもう一度見ました。


 そして。


 裏面。


 教示。


 そこに書かれた文字で手が止まりました。


「先輩」


「何だ」


「これ」


 私は指を置きました。


 再審査請求。


 審査請求の裁決に不服がある場合、さらに再審査請求ができる旨が記載されている。


「まだあります」


「ああ」


「道」


「あるな」


 美代さんが私を見る。


「まだ、役所に言えるんですか」


「はい。ただし――」


 私はそこで止まりました。


 頭の中から、ものすごい勢いで未来の知識が走ってきたからです。


 再審査請求。


 現代の行政不服審査法。


 第四章。


 そして第六十六条。


 審査請求に関する規定の準用。


 第二章の規定を再審査請求にも使う。


 ただし、いくつもの規定を除く。


 第九条第三項。


 第十八条。


 第十九条。


 第二十二条。


 二十五条。


 二十九条。


 三十条。


 四十三条。


 四十五条から――


 待て待て待て。


 私は額を押さえました。


「どうした」


「未来がうるさいんです」


「医者行け」


「そういう意味じゃありません」


 危ない。


 ここは昭和六十三年。


 平成二十六年全面改正後の行政不服審査法第六十六条なんて、影も形もありません。


 審理員もいない。


 行政不服審査会への諮問もない。


 現代の再審査請求の条文番号を持ち込んだら、沢渡課長に鼻で笑われる未来しか見えない。


「こはる」


 片桐所長が奥から言いました。


「今の法律を見ろ」


「はい」


 刺さります。


 転生者に一番効く一言。


 私は昭和六十三年の法令集を開きました。


 再審査請求。


 あった。


 もちろん制度自体はある。


 ただし、何でも再審査請求できるわけじゃない。


 審査請求の裁決に不服があれば、必ずもう一回。


 そんな親切設計ではありません。


「この件は」


 所長が言いました。


「特別に再審査請求の道がある」


 生活保護の処分。


 市の福祉事務所による処分に対し、県知事へ審査請求。


 さらに一定の場合には、その裁決に対し厚生大臣へ再審査請求する道が置かれている。


「二回目なんですね」


 美代さんが言いました。


「はい」


 私は答えました。


「ただし、一回目の審査請求を、そのままもう一回やるわけじゃありません」


「違うんですか」


「そこが――」


 私は法令集を睨みました。


「たぶん今日の敵です」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「法律を敵にすんな」


「敵というか、罠というか」


「罠でもねえ。読め」


「はい」


 そう。


 準用。


 法律を勉強していると、必ず出てくる言葉です。


 この規定を、あっちにも使います。


 ただし事情が違うところは除いたり、読み替えたりします。


 受験生時代の私は、


 準用=だいたい同じように使う。


 くらいの雑な理解で済ませたくなる病気に何度もかかりました。


 でも。


 現場では。


 だいたい。


 で処理したら、人の生活が落ちます。


「まず日付」


 相馬先輩が言いました。


「裁決を知ったのはいつだ」


「これが届いた日ですか?」


「そうだ」


 美代さんが答える。


「二十六日前です」


 私は固まりました。


「……二十六?」


「はい」


「今日で?」


「たぶん」


 相馬先輩が裁決書を取ります。


「封筒は」


「あります」


 消印。


 到達日。


 確認。


 間違いない。


「こはる」


「はい」


「審査請求の期間は」


「六十日」


「再審査請求は?」


「……」


 反射的に六十日と言いかけました。


 でも。


 法令集を見る。


 別に規定がある。


「三十日」


「そうだ」


 冷や汗が出ました。


 あと四日。


 審査請求と同じつもりで六十日だと思っていたら。


 一か月後。


 普通にアウトです。


「怖っ」


 声が漏れました。


「何が?」


 美代さんが不安そうに聞きます。


「いえ」


 私は姿勢を戻しました。


「間に合います」


「本当ですか」


「はい。でも急ぎます」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「これが準用だ」


「……はい」


「同じ規定を使うところはある」


「はい」


「だからって全部同じじゃねえ」


「はい」


「期間まで審査請求と同じだと思ったら死ぬ」


「表現が物騒です」


「期限は死ぬんだよ」


 反論できません。


 行政法の期間制限。


 本当に生き返らないことがあります。


 私はノートに大きく書きました。


 ――再審査請求=審査請求のコピーではない。


 そこへ片桐所長が言います。


「市役所へ行くぞ」


「え?」


「記録を確認する」


「県の裁決まで出てますよ」


「だからだ」


 所長は立ち上がりました。


「元の処分が何を根拠にしたのか、もう一度見る」


 市役所二階。


 総務課。


 福祉事務所の担当者との面談に、なぜか沢渡課長まで同席していました。


「片桐先生」


 沢渡課長が言います。


「今度は生活保護ですか」


「野崎美代さんの件だ」


「ああ」


 知っていました。


 この人、役所の中の不服案件を全部吸い込んでいるんじゃないでしょうか。


「県で棄却されています」


「それは知っている」


「でしたら、市としては――」


「終わっていない」


 所長が言いました。


 沢渡課長が止まる。


「再審査請求をします」


 私は言いました。


「厚生大臣へ」


「……なるほど」


 沢渡課長は裁決書を見ました。


「そこまで行きますか」


「行ける道があるなら」


「申立てをすること自体は自由です」


 出ました。


 沢渡課長の、


 止めないけど歓迎もしない。


 絶妙な役所語。


「ただし」


 沢渡課長が続けます。


「県の裁決が出ているからといって、再審査庁が最初から全部やり直してくれるわけではありませんよ」


「分かってます」


 私は答えました。


「それに」


 沢渡課長の眼鏡が光ります。


「県の裁決に何か問題があったとしても、元の市の処分自体に問題がなければ、結論が変わるとは限らない」


 そこ。


 私は一瞬黙りました。


 再審査請求は、


 裁決の文章でミスを探すゲームじゃない。


 最終的に問われるのは、元の行政処分まで含めて、本当に違法又は不当なのか。


「だから確認に来ました」


 片桐所長が言いました。


「仕送りを毎月二万円と認定した根拠を見せてほしい」


 福祉担当の係長が書類をめくります。


「記録上は、ご子息から定期的援助あり、と」


「その根拠」


「家庭訪問記録です」


「誰の発言だ」


「……本人との面談」


 美代さんが横から言いました。


「私、そんなこと言ってません」


「記録にはあります」


「何て書いてあります?」


 私は聞きました。


 係長が少し言いにくそうに読み上げました。


「『長男、時々金銭援助あり。二万円程度』」


 私は止まりました。


「時々?」


「はい」


「毎月じゃないですよね」


「……そうですね」


「二万円程度」


「はい」


「定期的とも書いてない」


 沢渡課長の目が細くなりました。


 私は続けます。


「これを、毎月二万円の仕送り、と認定したんですか」


 係長が別の紙を出しました。


「収入認定票では、月額二万円となっています」


「だから」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「その間に何があった」


「何が、とは」


「『時々二万円程度』が、どこで『毎月二万円』に育ったんだ」


 言い方。


 でも正しい。


 書類が役所の中を旅する間に、曖昧な情報が確定事実に進化している。


 行政文書、勝手にレベルアップしないでほしい。


 私は美代さんの通帳の写しを出しました。


「実際の振込みは、この一回だけです」


「現金で受け取っていた可能性は?」


「ありません」


 美代さんが言いました。


「息子だって、自分の家のローンがあります。毎月二万円なんて無理です」


「県への審査請求では、この通帳は?」


 沢渡課長が聞きます。


「提出されていませんね」


「入院してたんです」


 私が言いました。


「資料提出の時期と重なっています」


 沢渡課長は少し黙りました。


「なるほど」


「だから再審査請求で出します」


「新しい資料として?」


「はい」


「それだけですか」


 試すような言い方。


 私は一度、息を吸いました。


 違う。


 通帳を出して、


 毎月じゃありませんでした。


 だけでは弱い。


 論点を切る。


「まず」


 私は言いました。


「原処分が前提にした事実認定です」


「はい」


「市は毎月二万円の援助があるものとして扱った。でも、家庭訪問記録には『時々』『二万円程度』としか書かれていない」


「はい」


「次に、その認定を裏づける客観資料が見当たらない」


「はい」


「逆に、通帳では確認できる振込みは一回だけ」


「現金援助の可能性は残ります」


「だから、美代さん本人と息子さんの陳述も取ります」


 相馬先輩が横で小さく頷いた。


「さらに」


 私は続けます。


「県の審査請求では、その資料が十分に出ないまま裁決されています」


「入院していたから」


「はい」


「それで?」


「再審査請求では、県の裁決だけを攻撃するんじゃなく、元の処分の前提事実自体をもう一度示します」


 沢渡課長は数秒黙りました。


「朝比奈さん」


「はい」


「少しは不服申立てらしくなってきましたね」


「少しですか」


「以前はすぐ『かわいそうじゃないですか』と言いそうな顔をしていました」


「言ってません」


「顔に書いてありました」


 最近みんな私の顔を行政文書扱いしてきます。


 でも。


 その指摘は痛かった。


 美代さんが困っている。


 それは本当。


 でも。


 困っているから処分が間違いになるのではない。


 元の処分は、何を事実として認定したのか。


 その証拠は何か。


 その事実認定は合理的か。


 審査請求の裁決は何を見たのか。


 そして。


 再審査請求で、何を改めて争うのか。


 そこまで切り分けて、初めて役所の机が動く。


「ただし」


 沢渡課長が言いました。


「四日しかないでしょう」


「……知ってるんですか」


「教示を見れば分かります」


「嫌なところで正確」


「褒め言葉として受け取ります」


 そうでした。


 最大の問題。


 あと四日。


 私は現代の感覚で、


 書面を整えて。


 反論して。


 弁明書が出て。


 審理員が――


 だからいない!


 脳内の審理員、昭和から帰って!


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「また未来行ってたろ」


「一瞬だけ」


「今やることは」


「期限内に再審査請求書を出す」


「それだけだ」


「はい」


 全部そろうまで待つな。


 まず期限を守る。


 必要な事実を整理する。


 出せる資料を添える。


 追加資料については、手続の中で適切に出していく。


 法律は、


 立派な書面を書いた人だけを救う制度ではない。


 でも期限を無視してくれる制度でもない。


 その日の夕方。


 事務所へ戻るなり、全員で動きました。


「通帳コピー」


「取ります」


「入院期間」


「病院の領収書と退院証明があります」


「息子の住所」


「確認しました」


「本人の説明」


「私が聞き取ります」


「こはる」


「はい」


「作文するな」


「しません」


「『老女のささやかな生活を踏みにじる冷酷な処分』とか」


「書きませんよ!」


「お前なら書きそうだ」


「私を何だと思ってるんですか」


「投稿小説家」


「違います!」


 危ない。


 妙に核心を突かれた気がします。


 片桐所長は、出来上がった草案を赤鉛筆で削っていきました。


 毎月二万円の継続的援助があるとの事実認定について、その根拠となった家庭訪問記録には「時々金銭援助あり、二万円程度」との記載しかないこと。


 実際に確認できる振込みは一回であること。


 継続的な援助があるとの事実認定に疑問があること。


 審査請求時には入院のため十分な資料提出ができなかったこと。


 客観資料を添えて、原処分及び裁決の見直しを求めること。


 書くべきことは、それです。


「所長」


「何だ」


「再審査請求って」


「うん」


「審査請求の続きではあるけど、同じ手続をコピーするわけじゃないんですね」


「当たり前だ」


「準用って言葉、今までちょっと軽く見てました」


 所長の赤鉛筆が止まりました。


「準用は、楽をする言葉じゃない」


「え?」


「同じ仕組みを使えるところは使う」


「はい」


「違うところは除く」


「はい」


「だから、どこまで使うかを読まなければならない」


 なるほど。


 法律の『準用』。


 コピーペーストではない。


 むしろ。


 ここは同じ。


 ここは違う。


 そこを明示するための仕組み。


 そう考えると、少し見え方が変わります。


「現代だと」


 思わず私は言いました。


「再審査請求への準用が六十六条にまとまってて、除外規定がずらっと――」


「こはる」


 所長が言いました。


「昭和だ」


「はい」


「今必要か」


「必要ありません」


「なら忘れろ」


「はい」


 未来知識。


 本日三度目の退場。


 でも。


 頭の片隅では、妙につながっていました。


 昭和の旧法でも。


 現代の新法でも。


 再審査請求は、


 審査請求の規定を何でもそのまま持ってくる制度ではない。


 再審査請求という別の段階に合わせ、


 使う規定。


 使わない規定。


 別に定める規定。


 それを仕分けている。


 制度は変わっても。


 準用という法律技術の意味は同じです。


 三日後。


 再審査請求書を発送しました。


 期限ぎりぎり。


 美代さんは郵便局から戻ると、事務所で深く息を吐きました。


「これで、勝てますか」


 私は答える前に、片桐所長を見ました。


 所長は首を振ります。


「まだ分かりません」


 美代さんの肩が少し落ちます。


 でも所長は続けました。


「ただ、審査される場所までは戻した」


「戻した?」


「期限を過ぎれば、中身を見てもらう前に終わることもある」


「……はい」


「今回は、まだ中身を争える」


 美代さんはしばらく黙っていました。


「それで十分です」


 その言葉。


 最近、よく聞く気がします。


 十分。


 本当は十分ではない。


 保護費の問題は続く。


 再審査請求が認められる保証もない。


 生活も急には楽にならない。


 でも。


 昨日まで。


 『県が決めたので終わりです』


 と言われていた。


 そこから。


 『もう一度、判断してもらえる』


 まで戻った。


 それだけでも。


 終わったと思っていた人にとっては、大きい。


 さらに数日後。


 市役所から電話が入りました。


 相馬先輩が受話器を取ります。


「はい。……ああ。……何?」


 少し長い。


 私は仕事をするふりをしながら、全力で耳を向けました。


「分かった。本人にも伝える」


 切る。


「どうでした?」


「市も収入認定の記録を見直すってよ」


「え?」


「沢渡から」


「市が?」


「ああ」


「再審査請求の結果はまだですよね」


「まだだ」


「じゃあ、なんで」


「家庭訪問記録と収入認定票が食い違ってるのは事実だから、そこだけは先に確認するって」


 私は椅子から半分立ちました。


「処分を見直す可能性がある?」


「あるらしい」


「県の裁決まで出てるのに?」


「だからって、自分の記録の間違いまで放置する理由にはならんだろ」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「再審査庁に指摘されてから直すより、自分で確認した方が早い」


「合理的……」


「沢渡の好きそうな話だ」


 その午後。


 本人確認のため、美代さんと一緒に市役所へ行きました。


 沢渡課長はいつもの無表情で書類を見ています。


「調べた結果」


 言いました。


「毎月二万円の継続援助があるとする記録上の根拠は確認できませんでした」


 美代さんが息を止めました。


「では」


 私は聞きます。


「処分は?」


「福祉事務所で再検討します」


「再審査請求が来たから?」


「それもあります」


 沢渡課長は眼鏡を直しました。


「ですが、正確には」


「はい」


「再審査請求をされたから間違いになったわけではありません」


 私は黙ります。


「元の事実認定に問題がある可能性が出たから見直すんです」


「……はい」


「ここを混ぜないように」


 ぐう。


 また授業を受けています。


「再審査請求をした人がかわいそうだから見直すのでもない」


「はい」


「厚生大臣に怒られたくないからでもない」


「少しはあります?」


「ありません」


 即答。


「本当に?」


「朝比奈さん」


「はい」


「役所を何だと思っています?」


「たまに意地っ張りになる巨大生物」


「帰ってください」


 相馬先輩が吹き出しました。


 でも。


 沢渡課長もほんの少しだけ口元を緩めていました。


 一週間後。


 福祉事務所から連絡がありました。


 美代さんの収入認定について再確認が行われ、


 継続的な月二万円の援助を前提とした扱いは改められる方向になった。


 正式な変更手続はこれから。


 再審査請求そのものについても、当然まだ別に進む。


 完全決着ではありません。


 でも。


 美代さんは事務所へ来るなり、紙袋を机に置きました。


「何です?」


「おにぎり」


 相馬先輩が反応しました。


「中身は?」


「鮭と梅」


「先輩、目が輝いてます」


「差し入れは食えるものに限る」


「前に花をもらったときも同じこと言ってませんでした?」


「花じゃ腹は膨れん」


 美代さんが笑いました。


「昔、食堂で出してたおにぎりなの」


「店の?」


「うん」


「じゃあ、いただきます」


 一口。


 塩が少し強め。


 海苔がしっとりしている。


 妙に落ち着く味でした。


「うまい」


 相馬先輩が言いました。


「でしょ」


 美代さんの顔が、少しだけ昔の食堂のおばちゃんに戻りました。


 たぶん。


 制度は、人を幸せにするための魔法ではありません。


 再審査請求をしたからといって、


 必ず勝てるわけじゃない。


 一度棄却されたものを、何でもひっくり返してくれるわけでもない。


 しかも。


 二段目の救済には二段目のルールがある。


 一段目の審査請求と同じ規定を使うところ。


 使わないところ。


 別に決められているところ。


 それを読み分けないといけない。


 面倒です。


 ものすごく面倒です。


 行政法の神様は、たぶん簡潔な説明が嫌いです。


 でも。


 その面倒な仕分けがあるからこそ、


 手続は雑に扱われない。


 『前と同じでいいだろう』


 で、人の権利までコピーペーストされない。


 私はおにぎりを食べながら思いました。


 条文は冷たい。


 準用。


 除外。


 読み替え。


 まったく人情味のない言葉です。


 でも。


 冷たいからこそ、


 誰かが適当に、


 『同じ手続です』


 と言って終わらせるのを止められる。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何だ」


「何考えてる」


「今日の教訓です」


「言ってみろ」


 私は少し考えました。


「準用は、コピーじゃない」


「うん」


「使うところと使わないところを、ちゃんと仕分ける」


「それでいい」


 相馬先輩がおにぎりを二個目に取りながら言いました。


「じゃあ俺にも準用してくれ」


「何をです?」


「鮭」


「一人一個です」


「梅があるだろ」


「梅を鮭に準用しないでください」


「中身だけ読み替えろ」


「勝手な読み替え規定を作らないでください!」


 美代さんが声を上げて笑いました。


 片桐所長まで、湯飲みを持ったまま少し肩を揺らしています。


 昭和六十三年。


 午後五時二十分。


 片桐行政書士事務所。


 一度は『もう終わった』と言われた人の事件は、


 まだ終わっていません。


 でも。


 終わっていない。


 その事実そのものが、今日は少しだけ救いでした。


 私は最後の梅おにぎりを守りながら、ノートの端に一行だけ書きました。


 ――「同じように使う」と「全部同じ」は、法律では別物。


「こはる」


「はい」


「その梅」


「駄目です」


「まだ何も言ってねえ」


「予防です」


「行政指導か?」


「実力行使です」


「法律小説の主人公が言う台詞じゃねえぞ」


 私はおにぎりを抱えて逃げました。


 少なくとも。


 準用されないものがあることだけは、


 今日一日で、骨身にしみて覚えました。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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