[行政不服審査法65条・再審査請求の認容裁決]法理編 こはるノート
役所から物が返ってきても、条文まで一緒に返ってくるわけではありません。
だから翌日。
私は朝から、昨日の一件をノートの上でもう一度やり直していました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
窓の外から、
カラカラ。
カラカラ。
聞き覚えのある音がします。
「あ」
窓を見る。
向かいの道を、森下澄江さんが青い手押し車を押していました。
上には弁当箱。
白い布。
今日は車を道路へ放置せず、店の敷地側へきちんと寄せている。
昨日、市役所から返されたばかりの車です。
「戻りましたねえ」
「昨日見ただろ」
相馬先輩が新聞をめくります。
「いや、普通に使ってるところを見ると違うじゃないですか」
「何が」
「法律がちゃんと生活に戻った感じがして」
「朝から気持ち悪いこと言うな」
「ひどい」
私は机へ戻りました。
ノートの一番上。
大きく書いた文字。
――再審査請求。
その下。
――認容されたら、何が起きる?
受験生だったころの私は、この単元を見るたびに思っていました。
審査請求。
再審査請求。
認容。
取消し。
撤廃。
似た言葉が渋滞しています。
しかも一文字違うだけで結論が変わる。
行政法。
道路標識なら、もう少し色分けしてほしい。
「先輩」
「何だ」
「今日は森下さんの件を整理します」
「勝手にやれ」
「昨日それで手押し車が戻ったんですよ」
「俺もいた」
「だから付き合ってください」
「嫌だ」
私は奥を向きました。
「所長」
「付き合え」
片桐所長が帳簿から顔も上げずに言いました。
「はい」
相馬先輩の返事だけが、行政庁への義務付け裁決みたいに速かった。
「所長の命令だけ執行力強すぎません?」
「お前も始めろ」
「はい」
私はノートを開きました。
「まず、昨日の事件を一言で」
私は言いました。
「森下さんの手押し車が市に持っていかれて、返してもらえなかった」
「雑だな」
「導入です」
市は、駅前再整備に伴う歩行者安全確保のため、森下さんの手押し車を道路上から移動した。
その後も市の資材置場で保管を続けた。
森下さんは返還を求めたが、市は、
再び道路上に置かれるおそれがある。
という理由で返さなかった。
森下さんは不服申立てをした。
しかし審査請求は棄却。
そこでさらに。
この事件では特別に認められていた再審査請求の道を使った。
結果。
原裁決の一部が取り消され、
長期留置について見直しが必要とされ、
市は手押し車を返還した。
「ここまでは昨日の話ですね」
「ああ」
「じゃあ再審査請求って、審査請求で負けた人がもう一回やる制度」
「雑だ」
「二回目です!」
「雑なもんは雑だ」
相馬先輩は容赦がありません。
私は書き直しました。
再審査請求。
審査請求の裁決等について、
法律に特別の定めがある場合に、
さらに不服を申し立てる制度。
「ここ重要ですよね」
私は二重線を引きました。
――法律に特別の定めがある場合。
「審査請求で負けたら、必ず再審査請求できるわけじゃない」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「再審査請求は普通の二回戦ではない」
「昨日、沢渡課長にも言われました」
何でも再審査。
負けたら再々審査。
さらに再々々審査。
そんな仕組みなら、
行政処分が永久に確定しません。
「つまり試験で」
私は書きます。
審査請求の裁決に不服がある者は、常に再審査請求できる。
――これは。
「×」
相馬先輩。
「正解」
「馬鹿にしてんのか」
「確認です」
「再審査請求ができるのは」
「法律に定めがある場合」
「はい」
これが第一関門です。
「じゃあ次」
私はページをめくりました。
「再審査請求が認容されたら、どうなるか」
「認容って何だ」
相馬先輩が聞きます。
「請求に理由があると認められること」
「つまり?」
「申立人側の言い分が通る」
「最初からそう言え」
「試験では『認容』で出ます!」
認容。
棄却。
却下。
この三兄弟も、受験生を地味に殴ってきます。
却下。
手続的な要件を満たしていないなどで、本案判断に入らず終わる。
棄却。
本案まで判断したが、請求に理由なし。
認容。
請求に理由あり。
「森下さんの最初の審査請求は?」
「棄却」
「再審査請求は?」
「認容」
「だから?」
「原裁決の一部が取り消された」
私はそこでペンを止めました。
「ここが第六十五条ですね」
頭の中では。
令和の行政不服審査法。
第六十五条。
再審査請求の認容の裁決。
ただし。
私が座っているのは昭和六十三年。
この時代の条文を、
現代の第六十五条だと思って使えば事故ります。
「また未来の顔か」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「もう自分で認めるんだな」
「慣れました」
私はノートを二つに分けました。
左。
昭和六十三年。
右。
現代法。
「このシリーズ、行政法の勉強なのか時空法の勉強なのか分からなくなってきました」
「今使うのは左だ」
「はい」
「右は?」
「未来の試験対策」
「捨てろ」
「それは困ります!」
現代の行政不服審査法第六十五条。
まず。
処分などについての再審査請求に理由がある場合。
「どうすると思います?」
「取り消すんだろ」
「そうです」
再審査庁は裁決で、
原裁決等の全部または一部を取り消す。
ここで。
私は赤ペンを持ちました。
「超重要注意」
「何だ」
「変更は?」
相馬先輩が考えます。
「取り消したついでに、ちょうどいい内容に直す」
「できません」
「何でだ」
「そこが試験ポイントです」
私は大きく書きました。
――再審査請求では変更裁決はできない。
「ここ、審査請求と混ざりやすいんですよ」
審査請求の認容裁決では、
一定の場合に原処分を変更する仕組みがあります。
ところが。
再審査請求。
原裁決等について理由がある場合、
現代法第六十五条が定めるのは、
全部または一部の取消し。
「つまり」
相馬先輩が言います。
「『おかしいから、この内容に書き換えといたぞ』は駄目」
「そういう覚え方でいいです」
「雑だろ」
「今度は合ってます」
私はノートに、
再審査請求。
取消し○。
変更×
と書きました。
「これだけでも試験問題になります」
「嫌な問題だな」
「行政法はそういうところを狙ってきます」
「性格悪いな」
「法律は悪くありません。出題者です」
「敵を増やすな」
ここで片桐所長が口を挟みました。
「なぜ変更できないと思う」
「え」
突然、理解度チェック。
所長は油断したところへ飛んできます。
「ええと」
私は考えました。
「再審査請求で直接変更して新しい処分内容を作るより、問題のある原裁決等を取り消して、必要な判断を改めてさせる仕組みだから……?」
「方向はいい」
所長が言いました。
つまり。
再審査庁は、
自分ならこういう処分をする。
と自由に書き換える役ではない。
問題のある原裁決等を取り消す。
そこから必要な処理をさせる。
「昨日の森下さんでも」
私は言いました。
「『手押し車は毎週月曜日だけ返せ』みたいな新しい条件を、再審査庁が勝手に作る話じゃない」
「例が変だ」
「分かりやすさです」
「余計分かりにくい」
でも。
取消しと変更。
この違いは大きい。
取消し。
その判断をなくす。
変更。
その判断の内容を書き換える。
似ているようで違う。
「だから試験では」
私は言いました。
「再審査請求に理由がある場合、再審査庁は原裁決等を取り消し、または変更することができる」
「×」
「正解」
「またか」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
そして。
今回の森下さんの事件で、
もっと重要だった部分があります。
「事実上の行為です」
私は書きました。
相馬先輩が眉を上げます。
「手押し車を持ってったことか」
「そうです」
「処分じゃないのか」
「そこが今日のややこしいところです」
私は少し考えてから説明しました。
行政の活動は、
すべてが、
許可。
取消し。
命令。
課税。
というような、
直接法律上の権利義務を変動させる処分だけではありません。
現実に何かをする。
物を移す。
人を排除する。
施設を封鎖する。
行政指導をする。
そういう、
事実として行われる行政活動があります。
「教材でいう『事実上の行為』ですね」
私はノートに書きます。
事実上の行為。
行政が実際上行う行為。
それ自体が法律上の権利義務を直接形成する処分とは性質が異なる。
「昨日の事件なら」
市が手押し車を現実に移動させ、
保管し続けていた。
紙の上だけの話ではありません。
現物が、
市役所裏の資材置場にあった。
「だから森下さんが欲しかったのは」
相馬先輩が言います。
「紙の取消しだけじゃねえ」
「そうです」
私は大きく丸をつけました。
「手押し車そのものを返してほしかった」
ここ。
すごく大事です。
裁決書に、
あなたの言い分は正しかったですよ。
と書かれても。
手押し車が資材置場に残ったままなら、
森下さんは配達できません。
「紙の上で勝っても、現実が動かなきゃ意味がない」
「そういうことだ」
所長が言いました。
そこで現代法第六十五条第二項。
事実上の行為についての再審査請求に理由がある場合。
「ここ、普通の原裁決の取消しとは形が違います」
私は二本線を書きます。
一つ。
当該事実上の行為が、
違法または不当である旨を宣言する。
二つ。
処分庁に対して、
その事実上の行為の全部または一部を撤廃すべき旨を命ずる。
「宣言して」
「うん」
「撤廃を命じる」
「そうです」
私は二つを囲みました。
――違法・不当である旨の宣言。
――撤廃命令。
「取消しじゃないんですね」
私は自分で言って、改めて腑に落ちます。
事実上の行為。
たとえば、
物が現実に置かれている。
封鎖が現実に続いている。
何かが現に実施されている。
そういうものに対して、
紙の処分を「取消す」というだけでは形が合わない。
「だから撤廃」
私は言いました。
「現実に続いている行為をやめさせる」
「森下さんなら?」
「留置状態を終わらせる」
「つまり?」
「返す」
それです。
昨日の事件が、
教材の文字にそのまま繋がりました。
撤廃。
受験生のころは、
また難しい言葉を使ってるな。
と思っていました。
でも。
森下さんの手押し車を思い出せばいい。
市役所の資材置場。
金網。
青い木箱。
布の巻かれた取っ手。
そこにある状態を終わらせる。
「撤廃って」
私は呟きました。
「現実を動かす言葉だったんですね」
片桐所長が頷きました。
「そういうことだ」
◆
「じゃあ試験問題です」
私は相馬先輩を見ました。
「嫌だ」
「事実上の行為について再審査請求に理由がある場合、再審査庁は当該事実上の行為を自ら撤廃する」
「……○?」
「×です」
「何でだ」
「自分で撤廃するんじゃない」
私はノートを指します。
再審査庁は、
違法または不当である旨を宣言するとともに、
処分庁に対し、
撤廃すべき旨を命ずる。
「ああ」
「誰が何をするか、です」
「細けえ」
「そこを試験が狙います!」
行政法では、
誰が。
誰に。
何を。
できる。
これが恐ろしく重要です。
再審査庁が直接、
現場へ走っていって手押し車を押して返すわけではない。
「それはそれで見てみたいですね」
「再審査庁がリヤカー押してくるのか」
「シュールです」
「遊ぶな」
所長から冷たい声が飛びました。
「はい」
私はノートを整理しました。
普通の原裁決等。
再審査請求に理由あり。
→全部または一部を取消し。
事実上の行為。
再審査請求に理由あり。
→違法または不当と宣言。
→処分庁に全部または一部の撤廃を命ずる。
そして。
変更裁決。
→できない。
「三つですね」
「何が」
「今日の試験ポイント」
私は指を立てました。
「一つ目。再審査請求は、何でもできるわけじゃない」
「法律に定めがある場合だけ」
「二つ目。認容されたら原裁決等は取消し」
「全部または一部」
「三つ目。変更裁決は?」
「できない」
「完璧です」
「俺を受験生扱いするな」
でも。
あと一つあります。
「事実上の行為なら?」
相馬先輩が面倒そうに言いました。
「違法か不当だと宣言して、処分庁に撤廃させる」
「百点」
「帰っていいか」
「まだです」
「長えよ」
ここから。
私にとって一番危険なところです。
新旧法。
私はページの中央に一本線を引きました。
「昭和六十三年と現代では、不服申立て制度そのものが違います」
「また未来か」
「ここ重要なんです」
昭和六十三年。
旧行政不服審査法。
基本的な不服申立てとして、
異議申立て。
審査請求。
が併存していました。
さらに、
法令上特別に認められた場合には、
再審査請求という道もある。
「森下さんの事件は」
私は言いました。
「再審査請求ができる特別なケースだった」
「ああ」
現代法。
平成二十六年の全部改正後。
原則として、
不服申立ては審査請求に一本化。
旧法の一般的な異議申立てはなくなった。
そして。
現代には審理員制度があります。
「昭和六十三年には?」
相馬先輩。
「ありません」
「行政不服審査会?」
「ありません」
「三か月?」
「それも現代の審査請求期間」
「昭和は?」
「原則六十日」
「昨日お前が再審査請求でも六十日って言ったな」
「そこ掘り返します?」
「重要だろ」
「はい……」
私は小さく書きました。
旧法の審査請求・異議申立て。
原則六十日。
この事件の再審査請求。
教示された期間は三十日。
「同じ不服申立てだからって、期間をまとめて覚えちゃ駄目」
「昨日身をもって証明したな」
「はい」
転生者。
歴史の生き証人というより、
法改正の踏み抜き係になりつつあります。
「じゃあ」
相馬先輩が言いました。
「何で未来じゃ異議申立てがなくなるんだ」
来ました。
この物語で何度も突きつけられる問いです。
私は少し考えました。
「分かりにくいから」
「雑」
「でも大きいと思います」
旧法では。
処分庁に上級行政庁があるのか。
ないのか。
個別法の特例はあるのか。
異議申立てか。
審査請求か。
再審査請求まであるのか。
申立人からすると、
入口から複雑でした。
しかも。
異議申立てでは、
処分した行政庁自身に見直しを求める場合がある。
「昨日までの事件でも何度も思いました」
私は言います。
「自分で出した処分を、自分で審査するって」
「公正に見えるか、という問題か」
「はい」
もちろん。
処分庁自身だからこそ、
事情をよく知っている。
早く直せる。
という利点もあります。
でも。
申立人からすれば。
その判断をした組織に、
もう一度、
本当に間違ってませんでした?
と聞く。
不安が残ります。
「だから現代法では」
私は右側に書きました。
原則審査請求へ一本化。
審理員制度。
原処分に関与していない職員を審理員として審理に関与させる仕組み。
さらに一定の場合には、
行政不服審査会等への諮問。
「昔より公正性や透明性を高めようとした」
「制度が複雑だった反省もあるわけか」
「そうです」
旧法を知ると、
現代法がなぜあの形になったのかが見えてきます。
単なる名称変更ではない。
不服申立てを利用する人から見て、
分かりやすくする。
審理を公正にする。
第三者的な視点を入れる。
そういう方向へ変わった。
「昨日の森下さん」
私は思い出しました。
「最初の審査請求で、自分の言い分が棄却されたじゃないですか」
「ああ」
「あの時点で、『役所同士でかばってるんじゃないか』って感じても不思議じゃない」
「実際にかばったかどうかとは別だ」
「はい。そこ大事です」
制度に公正さがある。
だけでは足りない。
利用する側から、
公正に審理されていると見えることも重要です。
「現代法の審理員制度って」
私は言いました。
「昨日みたいな事件を見ると、できた理由が分かりますね」
「未来も苦労してんだな」
「制度改正って、だいたい過去の苦労の化石です」
「言い方」
私は次の見出しを書きました。
――原裁決を取り消すことと、原処分を取り消すことは同じか。
「ここも引っかかりません?」
「同じじゃねえのか」
相馬先輩が言います。
「違います」
「またか」
「またです」
森下さんの事件で、
再審査請求の対象になったのは、
審査請求に対する裁決など。
つまり、
前の審査で出された答え。
「原裁決を取り消したら、最初の処分まで自動的に全部消える、とは限らない」
「じゃあ何が起きる」
「原裁決がなくなって、必要な判断をやり直すことになる」
この区別。
地味ですが重要です。
原処分。
審査請求。
原裁決。
再審査請求。
再審査裁決。
階段になっています。
「どの段を壊したのか」
私は言いました。
「そこを見ないと駄目」
「昨日の森下さんは?」
「原裁決の一部が取り消された」
「それで?」
「市側も留置継続の根拠を再検討して、手押し車を返した」
つまり。
再審査請求で認容された。
イコール。
何でも一発で最初から全部なかったことになる。
ではない。
「再審査請求は万能リセットボタンじゃない」
「それ覚えやすいな」
「ですよね」
私はノートの端に書きました。
――再審査請求=全部最初からやり直し、ではない。
「次は『全部または一部』」
「まだあるのか」
「あります」
行政不服審査法。
細かい言葉を適当に読むと負けます。
全部。
または一部。
「森下さんの件でも原裁決の『一部』が取り消されました」
「ああ」
「裁決全体がおかしいとは限らない」
最初に道路上から手押し車を移動したこと。
歩行者の安全確保。
そこには一定の必要性があったかもしれない。
一方。
二か月以上返さない。
返還期限もない。
別の手段も検討していない。
そこには問題がある。
「一個の事件でも」
私は言いました。
「全部○か全部×かじゃないんですよね」
「行政法らしいな」
「はい」
法律で切り分ける。
最初の移動。
その後の保管。
長期間の留置。
返還拒否。
一つずつ見る。
それこそ、
現場編で一番気持ちよかったところです。
役所が、
審査請求で棄却されています。
だから問題ありません。
と言ったとき。
一枚の裁決書が、
事件全部を正当化する巨大な盾みたいに見えた。
でも分けてしまえば。
盾には継ぎ目がある。
「論点を分けるだけで」
私は言いました。
「役所の『全部正しい』って空気を壊せる」
片桐所長がこちらを見ました。
「それが仕事だ」
短い。
でも。
たぶん今日一番大事な言葉でした。
私はさらにノートへ書きました。
事実上の行為。
違法だけではない。
不当でもよい。
「ここも不服審査らしいですね」
「ああ」
森下さんの手押し車。
市が道路上から移動した行為。
それ自体、
明確に法令違反と言い切れるとは限らない。
行政に一定の権限や必要性がある。
でも。
留置を続ける必要がなくなっているのに、
漫然と続けている。
ほかに穏当な手段がある。
期間も示されていない。
そういう場合。
「違法とまでは言えなくても、不当という評価があり得る」
「だから条文も」
「違法『又は』不当」
私は二重丸をつけました。
また出てきました。
不当。
川瀬さんの花売り台のときもそうでした。
行政不服審査制度は、
裁判と違って、
違法性だけを見て終わらない。
行政判断として妥当だったか。
そこまで見直す余地がある。
「森下さんの事件とも繋がってますね」
「シリーズだからな」
「先輩、急に作者みたいなこと言わないでください」
「何の話だ」
「こちらの話です」
所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「事実上の行為について認容されたとき、何を宣言する」
「その行為が違法または不当である旨」
「その次」
「処分庁に対して、全部または一部を撤廃すべき旨を命じる」
「再審査庁が自分で撤廃するのか」
「しません」
「変更裁決は」
「できません」
「再審査請求はいつでもできるか」
「法律に特別の定めがある場合だけ」
「よし」
私は思わず背筋を伸ばしました。
「試験だったら何点です?」
「知らん」
「そこまで聞いといて?」
「仕事で使えればいい」
そうでした。
ここは予備校ではありません。
目の前の人の暮らしを戻す場所です。
でも。
受験生だった私は、
こういう問題に何度も引っかかりました。
私はノートに、
試験注意。
と書きました。
①「再審査請求が認容されたら原裁決を変更できる」
×。
現代法第六十五条では、
取消し。
変更裁決はできない。
②「事実上の行為について認容されたら、その事実上の行為を取り消す」
これも危ない。
事実上の行為なら、
違法または不当である旨を宣言し、
処分庁へ撤廃を命じる。
③「再審査庁が自ら事実上の行為を撤廃する」
×。
処分庁に撤廃を命ずる。
④「審査請求で棄却された者は当然に再審査請求できる」
×。
法律に再審査請求を認める特別の定めが必要。
「嫌らしいですね」
「お前が問題作ってんだろ」
「でも本番で出そうじゃないですか」
取消し。
変更。
撤廃。
命令。
一文字ずつ変えてくる。
行政法の正誤問題は、
たまに法律知識というより間違い探しです。
「じゃあ」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「結局、昨日の事件を第六十五条で覚えるなら何だ」
いい質問です。
私は少し考えました。
「森下さんの手押し車です」
「物じゃねえか」
「それでいいんです」
処分についての原裁決等。
間違っていたら。
取消し。
事実上の行為。
現実に続いていたら。
違法・不当だと宣言して。
撤廃を命じる。
「紙の間違いなら、紙を取り消す」
「雑だな」
「現実に続く行為なら、現実を止めさせる」
相馬先輩が少し黙りました。
「……まあ、分かりやすい」
「褒めましたね」
「気のせいだ」
またです。
私は最後のページを開きました。
一行の覚え書き。
ここが毎回いちばん悩みます。
「取消しはできる」
書く。
「変更はできない」
書く。
「事実行為は宣言+撤廃命令」
書く。
長い。
覚え書きではなく答案です。
「先輩、まとめてください」
「嫌だ」
「一行で」
「再審査で勝ったら取消し。事実行為ならやめさせる」
「雑!」
「お前が一行つったんだろ」
「でも方向はいい」
「じゃあ使え」
私は少し考えました。
そして。
ノートの一番下に書きました。
――再審査の認容は「書き換え」ではない。原裁決は取り消し、続く事実行為は撤廃させる。
「どうです?」
「長い」
「中身は?」
「まあいい」
「所長は?」
片桐所長が一度だけ読みました。
「『変更できない』を忘れるな」
「あ」
私はさらに書き足しました。
――取消し○、変更×。事実行為は「違法・不当を宣言+撤廃命令」。
「受験生版です」
「最初からそれでいいだろ」
「情緒がない」
「試験に情緒を持ち込むな」
正論です。
そのとき。
事務所の扉が開きました。
「こんにちは」
森下さんでした。
「あれ?」
「また差し入れですか?」
相馬先輩が立ち上がります。
「先輩、食べ物前提やめてください」
「今日は違いますよ」
森下さんが笑いました。
手に持っていたのは小さな油差し。
「油?」
「車輪に差したんです」
「直したんですか」
「少しだけね」
「じゃあ、あのカラカラ音なくなっちゃったんですか」
「それが」
森下さんは困ったように笑いました。
「油差しても鳴るの」
「え」
「主人が作ったときからずっと鳴るから、もうそういう車なのね」
相馬先輩が言いました。
「欠陥じゃねえのか」
「先輩!」
森下さんが大笑いしました。
「そうかもしれない」
「そこ認めるんですか」
「でもね」
森下さんが窓の外を見ました。
「あの音がすると、店に帰ってきたなって思うんです」
少しだけ。
事務所が静かになりました。
「昨日」
森下さんは続けました。
「車を押して帰るとき、本当に嬉しかったんですよ」
「はい」
「裁決がどうとか、取消しがどうとか、私は今でもよく分かりません」
「普通はそうです」
「でも」
森下さんが笑います。
「返ってきた。それだけは分かります」
それで十分なのかもしれません。
法律家側は、
取消し。
変更。
撤廃。
認容。
原裁決。
と細かく分ける。
でも相談者にとっては、
返ってきた。
店を続けられる。
明日も配達できる。
そこが結論です。
だからこそ。
私たちは、その結論へ届くように、
冷たい法律用語を正確に使わなければならない。
取消しなのか。
変更なのか。
撤廃なのか。
誰が命じるのか。
何を取り消すのか。
細かい。
面倒。
眠い。
でも。
その一語を間違えないことで、
現実の青い手押し車が持ち主のところへ帰る。
条文は冷たい。
やっぱり冷たい。
けれど。
冷たいから、
「かわいそうだから返してあげましょう」
ではなく、
なぜ行政が持ち続けられるのか。
その理由は今も残っているのか。
見直した裁決は正しかったのか。
そこを誰に対しても同じように問える。
制度の冷たさは、
ときどき、
人情より確実に人を助けます。
森下さんが帰ったあと。
私はもう一度ノートを見ました。
現代法第六十五条。
再審査請求の認容。
原裁決等。
全部または一部の取消し。
変更裁決はできない。
事実上の行為。
違法または不当である旨を宣言。
処分庁に対して、
全部または一部を撤廃すべき旨を命ずる。
そして。
再審査請求そのものは、
いつでも誰でも使える二回戦ではない。
法律に特別の定めがある場合だけ。
「よし」
私はノートを閉じました。
「終わったか」
「はい」
「じゃあ仕事しろ」
「勉強も仕事のうちです」
「見習いの仕事は他にもある」
相馬先輩が机の横を指しました。
昨日、森下さんが置いていった弁当箱。
「洗え」
「何で私が!」
「見習いだから」
「法的根拠は?」
「事務所慣行」
「そんな法源ありません!」
片桐所長が奥から言いました。
「こはる」
「はい」
「洗え」
「所長まで!」
「不服か」
「不服です」
「申立てるか」
「します!」
「何を」
私は勢いよく答えました。
「再審査請求!」
沈黙。
相馬先輩が眉を上げました。
「その前の審査請求は?」
「あ」
「法律に再審査請求の定めは?」
「……ないです」
「申立期間は?」
「その前に入口で死んでます」
「そういうことだ」
私は机に突っ伏しました。
「制度上の道が開かれてない……」
片桐所長が言います。
「却下だな」
「本案にすら入ってくれない!」
「勉強になっただろ」
「実地教育が雑すぎます!」
仕方なく弁当箱を持って流しへ向かいます。
その途中。
窓の外から、
カラカラ。
と音がしました。
油を差しても直らなかった、
森下さんの手押し車。
私は少しだけ笑いました。
一度出た処分。
一度出た裁決。
どちらも、
出た瞬間に絶対の正解になるわけではありません。
見直す道が法律に残されているなら、
何が間違っているのかを切り分ける。
そして。
取り消すべきものは取り消す。
やめさせるべき行為は撤廃させる。
ただし。
好き勝手に書き換えることはできない。
――取消し○、変更×。事実行為は宣言して撤廃命令。
私は心の中でもう一度唱えました。
「こはる」
「はい?」
「洗剤使え」
「分かってます!」
「水だけじゃ落ちん」
「それくらい知ってます!」
相馬先輩が笑います。
「再審査するか?」
「しません!」
今日はもう十分です。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
再審査請求は、
何度でも文句を言うための制度ではありません。
最初の判断でも、
その判断を見直した裁決でも、
なお拾われなかった間違いを、
法律が特別にもう一度机へ戻す仕組みです。
そしてその先で、
紙の上の間違いだけでなく、
現実に続いている行政の行為まで止めることがある。
法律はしつこい。
でも。
昨日帰ってきた青い手押し車を思えば。
そのしつこさは、
案外、
捨てたものではありません。
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